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2024年12月1日 MicrosoftStartニュース マネーポストWEB「“財源に乏しい甲斐国”を大国へと成長させた「武田信玄のインフラ投資」 その元手となる資金は掠奪と重税頼みだった【投資の日本史】
戦国最強と謳われる軍団を率いた武田信玄(東京国立博物館所蔵「武田二十四将図」より 出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)
群雄割拠の戦国時代、甲斐国(今の山梨県)を本拠にしていた武田氏は、信玄の時代に信濃国に進出。駿河の今川氏や相模の北条氏と同盟を結んで越後の長尾氏(上杉謙信)らと激しい争いを続けた。海がなく、平地に乏しい土地柄で、決して豊かとは言えない甲斐国を本拠としながら、なぜ武田信玄は周辺の大国と渡り合い、勢力を拡大できたのか。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第9回は甲斐国を強国にした武田信玄による「インフラ投資」について考察する。
【写真】「棒道」「信玄堤」…450年後の今も残る信玄のインフラ投資
甲斐の戦国大名、武田信玄(1521-1573)とその軍団は戦国最強と謳われることが多い。元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに叩きのめし、家康をいたく恐怖させたこと、翌年4月12日の病死により織田信長との直接対決が実現できずに終わったことなどが原因で、その強さが神秘の域にまで高められたものと考えられる。
人びとの「もしもあと数年長生きしていれば」との思いから過大評価の傾向があるとはいえ、武田信玄が越後の上杉、相模の北条、駿河の今川と渡り合いながら、甲斐一国から信濃・西上野・駿河をあわせ、大勢力に成長を遂げたことは紛れもない事実で、「最強」は言い過ぎにしても、成功者であったことは間違いない。
甲斐国(甲州)は現在の山梨県で、海に面しておらず、山ばかりで、稲作に適した平地は少ない。しかも甲府盆地を流れる釜無川は頻繁に氾濫を起こし、恵みより災いをもたらすことのほうが多い。はっきり言って、甲斐は財源に乏しい国なのである。
そんな甲斐からどうして武田信玄のような大大名が台頭しえたのか。この点について、BSテレ東『日経ニュース プラス9』の番組内コーナー「偉人たちの財務戦略 武田信玄、富を生み出したインフラ事業とは」(2022年12月16日、2023年1月20日、2月3日放送)が上手くまとめている。番組では、甲斐国25万石を130万石の大国へと成長させた信玄のインフラ投資として、「道路」「治水」「通貨」の3つが取り上げられていた。
信玄による「道路」「治水」「通貨」の整備で強国化を実現
ここで言う「道路」とは、北信濃攻略のために築いた新たな道路「棒道(ぼうみち)」を指す。甲斐から北信濃まで既存の道を利用するなら、いくつもの山を越えねばならないため、急いでも何日かかかる。それでは危急の時に対応できないため、信玄は「移動に時間がかからず、疲れない道を作るのだ」と命令。かくして、山の等高線に合わせて作られた棒道は大きな高低差がほとんどなく、山の中をほぼ一直線に走ったため、北信濃を夜明け前に発った使者がその日のうちに甲府に到達できるようになった。
軍と軍需物資の移動が速やかになっただけでなく、塩のように甲斐国内では入手できない生活必需品の流通も活発に。信玄による信濃併呑を可能にしたのは棒道であり、棒道の存在なくして武田家が大国化することはなかったと、同番組は結論付けている。
2番目の「治水」は釜無川の氾濫対策で、信玄はそのために「川除衆(かわよけしゅう)」という技術者集団を招聘。氾濫が起きるのが決まって釜無川と御勅使川の合流地点であることから、御勅使川の流れを北へずらし、合流地点を崖がある高台にするとともに、合流点付近に新たな堤防「信玄堤」を築かせた。
「信玄堤」は水の流れを完全にせき止めるのではなく、弱めることを意図していたので、隙間なく巡らすのではなく、ところどころ切れ目を入れさせた。釜無川の水量が一定量を超えると堤の切れ目から水が溢れ出すが、水流が減れば溢れた水は釜無川に戻っていく。これら工夫の組み合わせにより、釜無川下流での氾濫による被害は激減。水害による飢饉の心配はなくなった。
3番目の「通貨」は甲斐国内で産出される金をもとにした甲州金制度の創設を指している。信玄は「金山衆(かなやましゅう)」という技術者集団を破格の条件で雇い、既存のものを含め、10の金山の開発を進め、潤沢な金をもとに独自の通貨を発行した。両・分・朱・糸目の4進法(1両=4朱=16分=64糸目)からなる甲州金がそれで、最小の通貨単位「糸目」は「金に糸目をつけない」という諺の語源となった。
「武田信玄と金」の関わりを示す同時代史料がないとの指摘も
通貨の発行権を手にしたのであれば、軍資金に困らなかったのも納得できる。だが、甲州金に関しては疑問を呈する声も強い。
貨幣経済史を専門とする川戸貴史(名古屋市立大学教授)は著書『戦国大名の経済学』(講談社現代新書)の中で、〈四進法ははじめ武田氏が採用し、武田氏滅亡後に甲斐国を支配した徳川家康がそれを継承したため、江戸時代にも受け継がれたと考えられており、筆者もそう信じていた。ところが、じつはそれが史実かとなるとかなり怪しい〉とした上で、甲州金を研究する西脇康(東京大学史料編纂所所員)の説として、〈武田氏が金の四進法を用いた事例自体が同時代史料では確認されていない〉〈金の四進法自体は中国での使用例がすでにあったことから、実際には家康が中国の事例を知って採用したと考えたほうが良さそう〉との見解を示している。
それに加えて川戸前掲書は、〈武田信玄が活躍した時代にも金が甲斐国で採掘され、それが武田氏の影響下で流通していたことは確かである。それが同氏の財政を一定程度、潤したことも否定できない〉としながら、〈肝腎の武田信玄と金との関わりだが、残念ながら同時代史料からはほとんど確認することができない〉とも指摘している。
甲斐国で金の産出量が著しく増えたのは、武田氏滅亡後か江戸時代になってからということになるが、仮にそれが事実だとすれば、武田信玄は何を財源として強大化したのか。
武田信玄の財源は「掠奪」と「重税」頼みだった
この点について、戦国武田氏研究の第一人者として知られる歴史学者の平山優は、著書『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)の中で、〈武田氏の戦争は、他国への領土拡大とともに、あらゆる物資の掠奪(乱取り)を目的としていた〉とし、信玄時代の甲斐が豊かだったのは、〈信玄とともに参陣した武士、武家奉公人(雑兵)、陣夫(百姓)らは、戦場で掠奪に勤しみ、他国の富をかすめ取ったから〉という書き方をしている。
だが、それでは掠奪を容認していた戦国大名のなかで武田氏だけが強大化した説明にはならない。平時でも安定収入を見込める財源があったはずで、戦国・織豊期の社会経済史を専門とする歴史学者の鈴木将典は著書『戦国大名武田氏の戦争と内政』(星海社新書)中で、〈棟別銭が武田氏の主要な財源であったことは、『甲州法度次第』五七ヶ条本のうち六ヶ条(棟別法度)に定められている点から明らか〉と断言する。
棟別銭とは通常の年貢とは別に、村や町ごとに総額が決められ、家(棟別)単位で賦課された税金のことで、現在の税制で例えるなら固定資産税と言ったところ。『甲州法度次第』は天文16年(1547年)に信玄が定めた分国法(法令)である。
鈴木前掲書によれば、「棟別法度」」の要点は以下の三つ。
【1】住民が棟別銭を負担できなくなった場合は、村が負担すること。
【2】逃亡した者は追跡して棟別銭を徴収すること。
【3】棟別銭に関する訴訟は基本的には受理しない。
一見してわかるように、問答無用の課税である。連帯責任を負わせ、期限に遅れた場合は倍額を徴収したといいうから、本当に容赦がない。
それでも未納が多かったらしく、弘治2年(1556年)正月には棟別銭に関する新法が発せられ、納入期限を春と秋の2回に設定した上で、未納の場合は徴収の担当者が弁償するよう定められた。担当者の多くは村や町の有力者だったから、他領へ逃亡でもされない限り、武田氏としては取りはぐれの心配はなかった。
総じて言えることは、武田信玄時代の財政は掠奪と重税頼みで、「道路」「治水」などのインフラ整備はそれを元手に進められた。
インフラ整備は投資に他ならず、掠奪というリスクをあえて容認したことで、信濃国平定後の急成長という大きなリターンを得たということだ。甲斐国は米の収穫量こそ少ないが、森林資源は豊富。棒道を使えば、従前より遠くへ速く木材を運ぶことが可能に。信濃の獲得により経済活動が一気に活発化したはずだが、いかんせん信濃一国に手間取りすぎ、信玄がリターンを享受できる時間はあまり残されていなかった。
信玄の死後、後継者の勝頼は行動を慎んでいたが、喪が明けるやいなや、それまでの鬱憤を晴らすかのように攻勢に出た。一時は信玄時代を上まわる版図を築くが、財力で大きく勝る織田・徳川連合軍に敗れ、重要拠点の高天神城を失ってからは衰退に歯止めがかからず、ついには滅び去った。
甲斐金山からの産出量が飛躍的に増えたのが、武田氏の次に甲斐国を支配し、のちに直轄地とした徳川時代だったとするなら、「武田信玄の投資」の最大の受益者、リターンを得たのは家康だったかもしれない。
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。
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2024年11月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「スピリチュアルに金をバラ撒き、庶民には「鬼畜すぎる“大増税”」… 名君・武田信玄の「ヤバい経済政策」
戦国武将の中でも屈指の人気を誇る武田信玄。実は資金繰りに弱く、金の悩みを抱えていた
歴史上の英雄たちの業績は、美談で塗り固められていることが多い。しかし、その陰には、あまりに不適切すぎて「なかったこと」にされた史実も多数隠されている。ときには、現在のコンプライアンスは当然として、当時でも許されなかったタブーを破ってしまうことも……。書籍『日本史 不適切にもほどがある話』(堀江宏樹著/三笠書房)より一部を抜粋・再編集し、「鬼畜すぎる重税」を課していた武田信玄のエピソードについて紹介する。
■「人は城」と言いつつ“重税の鬼”だった武田信玄
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」
この「名言」は、武田信玄の人徳を後世に伝えるものだとよくいわれる。とくに「人材こそ、国を守るための宝である」と意訳しうる前半部分は、身分と時代を超えて敬愛された武田信玄という武将の人柄を伝えてやまないとされる。
しかし残念ながら、これは本当は言っていない確率のほうが高い「ウソ名言」である。同じように美事美談で塗り固められた名君としての武田信玄像を崩壊させかねないのが、史料とその行間に見られる信玄のマネー観なのだった。
大永元(1521)年、武田信玄こと武田晴信(はるのぶ)は、甲斐国(現在の山梨県)を代々統治する名門守護大名の家に生まれた。「信玄」とは、晴信が39歳で出家した後の法名「徳栄軒(とくえいけん)信玄」の一部なのだが、わかりやすさを重視し、本項では信玄の名で呼ぶことにする。
■最強武将・信玄が抱えていた致命的弱点とは
甲斐国の領土拡大により敵対した越後(現在の新潟県)の上杉謙信、侮りがたい新興勢力である尾張(現在の愛知県西部)の織田信長など、多くのライバル大名との間に数多の戦を経験した信玄だったが、彼らからは「戦国時代最強の武将」として恐れられていたという。しかし、信玄には致命的な弱点があった。資金繰りの不安、つまり金の悩みである。
たしかに武田家は、室町幕府有数の名門武家ではあった。また、その領土は信玄の最盛期には100万石に相当するほど膨れ上がっていた。
しかし、それは通常の土地であれば期待できる米の収穫量の話であって、武田家本領である甲斐国およびその周辺の土地は概して貧しく荒れており、普通に農作を行なっても他地域ほどの収穫が期待できなかったのだ。
甲斐国の甲府盆地には笛吹川と釜無川という二つの川が流れていたので、農業自体は行なえるのだが、この二つの川が実によく氾濫した。
天文9(1540)年、甲斐を襲った大嵐のせいで国中の河川が氾濫し、「鳥獣は皆死に、(財源である)大きな木も流されて一本もなくなった」(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)。また、その翌年にも深刻な飢饉(ききん)が襲った。毎年のように存亡の危機に襲われていたのである。
■「武田騎馬軍」が強かった理由
信玄が父・武田信虎(のぶとら)を追放し、若き当主として武田家のトップに立ったのはこの時期だった。しかし、信虎を追放後、やはり信玄も父親と同じ政策に頼ることになった。それは増税につぐ増税、もっというと実にケチくさい増税路線である。
父・信虎の時代には「棟別銭(むねべつせん)」と呼ばれる税が採用されていた。これは現代でいえば固定資産税に相当するが、家族の数や、家屋の数などによって細かく課され、その年の農作物の出来不出来にかかわらず、定額で収めなければならなかった。
しかも武田家が人民に課した「棟別銭」の税額は全国平均より約2倍も高かった。全国平均50~100文程度のところ、甲斐国の「棟別銭」は200文もした(1貫=1石=現代の10万円、そして1貫=1000文として考えると、約2万円程度)。
さらに天文20(1551)年、天文23(1554)年など、甲斐国の庶民全員に「過料銭」という罰金刑を一律で課すことを繰り返し、国中を嘆かせた(『妙法寺記』)。過料銭とは喧嘩など軽犯罪のペナルティとして、お金をお上(かみ)に納めることで、罪が免除されるという類いの罰金なのだが、生きているだけで罰金徴収とは悪政の極みで「恐ろしい」の一言である。
しかも「逃亡、あるいは死去する者が出ても(他人が)すみやかに(その者の未払い税を)弁済しなさい」「他の郷へ家屋を移す者がいれば(夜逃げなどする者がいれば)、追って棟別銭を徴収しなさい」(以上、『甲陽軍鑑』より意訳)などと、死んでも逃げても税の支払いだけは免れないという鬼の取り立て制度まで用意されていたのだ。
これらは江戸時代に戦国時代の武田家、とくに武田信玄の遺徳を偲ぶ目的で編集された『甲陽軍鑑』という書物にさえ出てくる情報なので、本当はさらに苛烈であった可能性もある。「戦国最強」と謳(うた)われた武田の騎馬武者などは、これらの増税によって維持されていたのだから、なんともほろ苦い。
■将の器も「カネ」しだい!?
信玄が人民の納めた血税を戦やその支度、そして土木工事などに費やすのであれば、いたしかたない。しかし信玄には明らかに問題の出費があった。少なからぬ額を領内の多くの寺社──つまり宗教関係に気前よくバラ撒きすぎていたのだ。
かなりのスピリチュアル好きの信玄は、判兵庫(ばんのひょうご)という陰陽師を「邪(よこしま)な心根が一つもない」などと見込んで約15年もの間、寵愛しつづけた。その間、彼に支払った総額はなんと1500貫文、現代の金額にして約1・5億円にもなっていた。
判は信玄から望まれるがままに上杉謙信に呪いをかけるべく、護摩(ごま)を焚いて祈禱を繰り返したが、本来の護摩行とは密教系の僧侶が行なうべき術で、陰陽師の仕事には含まれない。
そもそも陰陽師は戦国時代にはかなり衰退してしまっていた職業で、「安倍晴明の子孫」を名乗る判兵庫はどこまでも怪しく、彼の呪詛に効果などなかった。役に立たない判兵庫は「彗星の出現」を理由に引退宣言をしているが、おそらく本心としては信玄から愛想をつかされ、武田の家臣から誅殺される前に甲斐国から逃げ出したかったのだろう。
元亀3(1572)年10月3日、武田信玄は室町幕府15代将軍・足利義昭による「織田信長討伐令」に応えて甲斐国を発ち、京都に向かおうとしていたといわれる。しかしその途上で、一説には末期ガンを疑われる病で亡くなってしまった。
信玄がもう少し長生きしたら「天下」を獲れていたのかどうか、歴史ファンの間ではよく話題になるテーマではある。仮に信玄が「天下」を目指し、それに成功していたところで、権力を保つことができたかは、彼の「お金の使い方」を見る限り、難しかったといわざるをえない気はする。
「人は城、人は石垣、人は堀」という武田信玄の名言が本当に彼の言葉であったとしても、それは信玄にとって、人民こそが彼を守ってくれるセーフティネットというくらいの意味しかなさそうだからだ。
江戸時代以降、武田信玄など、なぜか人気が高い人物は「名君」として祭り上げられていく傾向が強い。その結果、都合のよいエピソードが盛られ、本当の人物像はわかりにくくなる。しかしお金に関する史料を掘り出すことができれば、そのメッキはもろくも剝がれてしまうのだ。
堀江宏樹
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2024年7月30日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済ONLNE「「織田信長と武田信玄」明暗を分けた真逆の税政策
領主による「税の奪い合い」だった戦国時代
大村 大次郎 : 元国税調査官
織田信長と武田信玄の対照的な税政策について解説します(写真:Josiah/PIXTA)
「大化の改新」「源平合戦」「明治維新」等々、歴史の大きなターニングポイントには、必ずと言っていいほど脱税問題が絡んでいる、と語るのは元国税調査官の大村大次郎氏。
大村氏は、「脱税」だけでなく領主たちによる税の奪い合い「奪税」が横行していた戦国時代の覇者・織田信長の力の源泉もやはり「税」だったと指摘します。
※本稿は、大村氏の著書『脱税の日本史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
税の奪い合い「奪税」になっていた戦国時代
戦国時代には、幕府や朝廷への納税はほとんど機能していませんでした。「では誰も税を払わなくていいか」というと、そういうことではなく、各地の有力者や豪族が勝手に税を徴収していたのです。
戦国時代は脱税だけではなく、「奪税」の状態になっていたのです。
室町時代後半から戦国時代にかけての年貢は、複雑な仕組みとなっていました。当時、日本の農地の大部分は荘園となっていましたが、本来、荘園というのは荘園領主が持ち主でした。荘園領主というのは、自分の領地から遠く離れて住んでいることが多く、実際の管理は荘官や地頭に任されていました。そのうち、荘官や地頭の力が強くなり、彼らが実質的な領主になっていったのです。
そうなると、どういうことが起きるでしょうか?
本来の荘園領と、荘官や地頭が「二重」に税を取るような事態になるのです。「二重」とまではいかずとも、税の仕組みが複雑になり、農民は余計な税負担を強いられることが多々あったのです。つまり、中間搾取が増えていったのです。
室町幕府は、各地に守護を置いていました。守護は本来、中央政府から任命された一役人にすぎませんでした。ところが、中央政府が弱体化すると力をつけていき、実質的にその地域を治めるようになっていったのです。
それが守護大名と言われる者です。さらに、その守護大名の力が弱くなって、その地位を奪う戦国大名が出現してきました。
これも農民にとって負担が増える要因になりました。農民は荘官に年貢を払うだけでなく、守護にも「段銭(たんせん)」という形で税を取られるようになりました。段銭というのは、農地一段(一反)あたりに課せられる租税のことです。もともとは戦争時などに臨時的に徴収されたのが始まりですが、戦国時代には半ば常態的に取られている地域もありました。
また、新興勢力である「加地子(かじし)名主」にも、事実上の年貢を納めなくてはならなくなっていました。「加地子名主」は、もともとは農民だった者が力をつけて地主的な存在になった者のことです。このように、戦国時代では社会のシステムが崩壊し、力の強い者がどんどん収奪するようになっていたのです。
戦国大名は、この社会システムを再構築する必要に迫られていました。今のままでは、農民は幾重にも税を払わなければならないため、民力を圧迫してしまいます。また、大名の年貢の取り分も非常に低いのです。「分散した年貢徴収システムを一括にまとめること」。それが戦国大名にとっての大命題だったのです。
信長の「中間搾取の禁止」と「大減税政策」
この戦国時代の税の矛盾を大胆に解消しようとしたのが、あの織田信長なのです。あまり語られることがありませんが、信長は大胆な農地改革を行い、領民に対して「大減税」を施しています。
寺社の迫害もそうですが、信長の施策には「税を逃れている者、税を勝手に取っている者を弾圧し、なるべく領民の税負担を軽くする」という指針が貫かれているのです。
信長は常に周囲の勢力と戦いながら、版図を急激に広げていきました。それは自国領が安定していなければできないことです。領民の支持を得られなければ、領民に抵抗されたり逃亡されたりして、スムーズな領土拡大ができません。逆に、領民が潤えば人口が増え、領内が発展すれば税収も増えます。それは当然、国力増強につながります。
信長が天下統一事業を急速に進められたのは、自国の統治が他の大名に比べてうまくいっていたからにほかならないのです。
信長は戦国時代の農地のシステムを簡略にして、中間搾取を極力減らし、農民の負担を大幅に軽減しました。信長は自領内に対して「農民には原則として年貢のほかには、重い税を課してはならない」という規則をつくりました。また、信長領の年貢もかなり安かったと見られています。
信長領全体における年貢率の明確な記録は残っていません。しかし、永禄11(1568)年、近江の六角氏領を新たに領有したときに、「収穫高の3分の1」を年貢とするように定めています。この地域だけ特別に税を安くするはずはないので、信長領全体もだいたいこの数値の前後だったと考えられます。
収穫高の3分の1というのは、当時としてはかなり少ないものでした。江戸時代の年貢は、五公五民や四公六民などと言われ、各目の収穫高の4割から5割が年貢として取られていました。また、戦国時代は戦時だったので、江戸時代よりも年貢は重かったとされています。だから、信長領の年貢率3割というのは、かなり安かったと考えられるのです。
信長と正反対だった信玄の税政策
戦国時代、信長にとって最大の敵と言えば、武田信玄でしょう。武田信玄は、もとは甲斐の守護大名でしたが、信濃、三河、上野を平らげ、最盛期には100万石近い版図を持っていた、戦国時代を代表する大名です。
信玄が晩年、信長に対決を挑んだ「西上作戦」では、信長をあと一歩まで追い詰めながら、死によってそれを果たせなかったとされ、「もし信玄が長命であったならば、信長に代わって天下を獲っていたのではないか」という説も根強くあります。
しかし、武田信玄と織田信長の関係を経済面で見てみれば、まったく違った印象になるはずです。というのも、経済力を比べてみれば、織田信長と武田信玄の間には、かなりの開きがあったと見られるのです。信長が、信玄を圧倒的に凌駕していたのです。
経済観点から見たとき、信玄は信長を決して追い詰めていたわけではなかったと言えます。むしろ、追い詰められていたのは信玄だったのです。
武田信玄は、信長と真逆な税政策を採っていました。それは信玄が愚かだからなのではなく、信玄の抱える大きな経済的なハンディがそうさせたものでもありました。
信玄の武田家は、そもそも甲斐の守護家であり、甲斐源氏の統領という地位にありました。守護大名の家臣から成り上がった信長の織田家や、守護代にすぎなかった上杉謙信とは、スタートラインにおいてかなり有利な立場だったのです。それにもかかわらず、武田信玄は上杉謙信との対決には手こずり、信長には大きく出遅れてしまいました。
その最大の要因は、経済だと思われます。信玄の出発点である甲斐武田領には、経済的に大きな不安要素が2つありました。1つは「農地」としての貧弱さです。甲斐は水害も多く、豊穣とは言い難かったのでした。
もう1つの不安要素は、武田領が「陸の孤島」だったということです。信玄の当初の領地は山間部であり、海に面していないので、交易や商業はあまり栄えていませんでした。そして、他国から生活に必要な物資を輸入するとき、船舶などで直接、搬入できず、必ず陸路を通らなければなりません。だから、周辺の大名と敵対すれば、物資の流通がストップしてしまうのです。
信玄はこの2つのハンディを抱えていたため、なかなか経済成長できなかったのです。
「土木事業」と「増税」に活路を見出した信玄
信玄には、貧弱な甲斐で戦費を賄わなければならない、というハンディがあったのです。彼はそのハンディをどうやって克服したのかというと、1つは有名な土木事業です。信玄は、大掛かりな土木事業を行い、必死に農業生産を上げようとしました。
そして、もう1つは「増税」なのです。信玄は戦費を捻出するために、たびたび大増税を行っているのです。甲斐地方では、普通の方法では十分な税収が上げられず、大掛かりな増税を何度も行いました。そのために、領地から逃亡する領民が続出していました。
「信玄は、領民思いの領主だった」などと評されることもありますが、これは認識誤りだと言えます。甲斐の経済状況では、領民のことを考える余裕などはなかったのです。
信玄は、天文10(1541)年に領主の座について、その翌年の天文11(1542)年8月には、すでに1回目の大増税を実施しています。
具体的に何をしたかというと、新たに「棟別(むなべつ)帳」の作成を開始したのです。棟別帳というのは、簡単に言えば、領内の各家屋とそこに住んでいる家族のことが記された帳簿のことです。
新たに棟別帳を作成し、家ごとに課税する「棟別役」という税金を強化したのでした。これは、信玄の苦肉の策であり、甲斐地方の貧しさを物語るものでもあるのです。
農地を基本とした税制の限界
当時の税制は、本来、農地が基本となっていました。「田や畑に対して、いくら」と定められていたのです。そのほか、家屋にも課税されていましたが、それは補完的な税であり、それほど大きな額ではなかったのです。
しかし、信玄領の場合、本来、補完的な税である「棟別役」に頼らざるを得なかったのです。
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農地を基本にした場合、天候不順などで農作物の出来が悪かったら、税の基準を引き下げなくてはなりません。つまり、農作物の出来によって税収が左右するのです。しかし、やせた土地の甲斐地方では、そういう税の掛け方をすると税収が確保できなかったのです。頻繁に不作になるため、頻繁に税を引き下げなくてはならなくなりました。
そのため、信玄は農作物の出来に関係なく、毎年一定の税収を確保できる「棟別役」を税の柱に据えたのです。農地ではなく、「家屋」や「家族」に課税することで、税収増と税の安定化を図ろうとしたのです。
ただ、それは農民の負担を大きくします。農作物の出来が悪くても、毎年決められた税を納めなくてはならないからです。
信長が「農民に年貢以外の厳しい税を課してはならない」としたのとは、まったく正反対の政策だとさえ言えます。信長も棟別銭を課した事例はありますが、信玄に比べればはるかに小規模で低額でした。
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World Now
更新日:2020.10.05 公開日:2020.10.05
信長、秀吉の時代、実はけっこう民主的 戦国時代、驚きの「寄り合い」システム
17世紀の農村の様子。江戸時代前期に刊行された農書「農業全書」より(国立国会図書館デジタルコレクション)
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄……戦いと権謀術数に明け暮れた戦国大名は、なんでも自分で決める「独裁者」の印象が強い。でも、彼らの領地に目を向けると、最小単位の村では「寄り合い」での全員一致が原則で、「民主的」に物事が決められていた。三日三晩、酒盛りをしながら、あーでもない、こーでもないと語り合ったというから驚きだ。日本で長く受け継がれてきた「寄り合い」文化とは何だったのか。『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)などの著作がある駿河台大学教授、黒田基樹氏(55)に実態を聞いた。
黒田氏によれば、「寄り合い」の起源は、村の実態が資料で把握できる鎌倉時代後半から室町時代までさかのぼる。「当時の社会状況では、個人だけではとうてい生きていけませんでした。血縁者、つまり家族関係が最も頼りになり、地縁的な村が基本的な社会の最小単位だったのです」
なるほど。戦国時代と聞くと、戦国大名が領民を従えて「独裁者」のように振る舞っていたイメージがあるけど、領民との関係はどうだったんでしょうか?
黒田氏は言う。「当時は身分制社会ですから、大名はいわゆる王様です。領民の意見を聞くわけではありませんでした。ただ、村を豊かにしておかないと、きちんと納税はされないし、人手不足に陥ります。その辺をうまくやらないと、たいがい家がつぶれてしまいます」
名だたる戦国大名の中でも、領民をうまく統治していた代表例として黒田氏が挙げるのが、北条早雲を祖とし、関東一円を支配した北条氏だ。「家訓として、主君が領民から過度に租税を取り立てることを戒めました。3代目の氏康のときには、村から直接訴状を受け付けました。村同士の紛争を解決しておかないと、対外戦争ができないという事情がありました」
黒田基樹・駿河台大学教授=本人提供
そんな独裁国家の色彩が強い領地を構成していた「村」が、「民主的」に物事を決めていたというのは、なんだか不思議な感じがするけど……。
例えて言えば、現代の「学級会」みたいな雰囲気だったのではないか、と黒田氏は語る。当時、一般的な村の成人男性は最大1000人程度で、そのうち寄り合いに参加できるのは家長だけ。租税を納めていることが条件で、夫が早世した女性家長の出席が認められることもあったという。「多くても300人程度の会議で、立場はみな平等でした。ただ、原則は反対する人がいなくなるまで、話し合いがずっと続きます。ときには、三日三晩、酒を飲みながら、ということもありました」
え、三日三晩? そんなに長いんですか?! それじゃあ、疲れたから、もういいや、なんていうことになりそうですね?
寄り合いに来なければ、罰金を科す規定もあった、と黒田氏は言う。「それだけ徹底的に話し合うわけです。政治交渉など急ぐ場面では多数決もありましたが、しこりを残したくないので意思統一が基本でした。大変だったと思います。だからこそ、いちど決まったことは絶対だったのです」
17世紀の農村の様子。江戸時代前期に刊行された農書「農業全書」より(国立国会図書館デジタルコレクション)
「寄り合い」の仕組みは江戸時代もほぼ変わらなかったことが、明治初期の聞き取り調査などから分かっているという。一方で、江戸時代になると、名主など村の上層部の中で代表者を「投票」で決めていたと言われている。初期の頃は選ばれるのに、それなりの「財力」が求められた。「村の年貢が足りない分を、代表者が立て替えなくてはいけなかったからです。当時、一つの村で年貢は、今のお金にして1000万~2000万円にも相当しました。それが不足した際、手っ取り早く補うには、有力者に立て替えてもらうことだったのです」と、黒田氏。
ただし、村のために年貢を立て替えても、必ずしも返してもらえたわけではない。「融通」と見なされ、最終的に踏み倒されてしまうことが多かったという。「江戸時代の前半は、にっちもさっちもいかなくなって、家がつぶれしまうこともしばしばでした」
明治維新以降、西洋由来の民主主義が徐々に浸透し、第2次世界大戦の敗戦を経て、1945年に20歳以上の男女すべての国民が選挙権を持つようになる。だが、西洋と日本では、民主主義のとらえ方が根本的に異なる、と黒田氏は説く。「西洋では王政に替わる国家の管理システムとして民主主義が採用され、個人の人格に政治的な権能を認めるという意識が強い。しかし、日本の場合は集団の意思決定というとらえ方をしていると思います」
なるほど、メンバー全員の一致を前提とする「寄り合い」は、長い時間をかけて、多くても数百人の合意をとればいい。そんな文化に慣れ親しんできた日本では、国家全体という大きなスケールで意思決定をするのにまだ慣れていないということなのかもしれない。
黒田氏は言う。「寄り合いが姿を変えた集落や町内会といった中間団体が、しばらく国家と個人を政治的につなぐ役割を果たしてきました。それが今ようやく解体し始めています。これから、個人が民主主義とは何かを考えなくてはいけなくなってきたと思います」
くろだ・もとき 1965年、東京生まれ。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著作に『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)など。
玉川透
朝日新聞ブリュッセル支局長
1971年、仙台市出身。ウィーン支局長、ベルリン支局長、GLOBE編集長代理などを経て、2022年9月からブリュッセル支局長。「バカバカしいけど、オモロイ記事」を真面目に追求しています。著作『強権に「いいね!」を押す若者たち』(青灯社刊)。
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