💄25)─3・④─なぜ吉原遊廓は日本人を魅了したのか。「高額の借金返済」に「梅毒のリスク」。〜No.53 

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 2025年1月18日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜ「あってはならない悪所」吉原遊廓は日本人を魅了したのか…その「驚きの理由」
 2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎は、遊廓で栄えた街として有名な吉原で生まれました。吉原遊廓では、華やかな遊女たちが手招き、夜も眠らない「不夜城」と呼ばれていました。
 【写真】なぜ「あってはならない悪所」吉原遊廓は日本人を魅了したのか、驚きの理由
 はたして、日本人にとって「遊廓」とは何だったのでしょうか。『遊廓と日本人』の著者・田中優子さんが、「あってはならない悪所」遊廓の世界をわかりやすく解説します。
 遊廓の成立と江戸時代の「ガバンナス体制」
 年代を追っていくと、あることに気づきます。それは、遊廓の成立と芝居町の成立が、海外との交易体制の整備(いわゆる「鎖国」)と参勤交代の確立の時期と重なっていることです。
 1633年に奉書船以外の日本船の渡航、帰国が禁じられました。同じ年にオランダ商館長の江戸参府と、アイヌのウイマム(御目見得)が始まります。
 1634年には、琉球国王の謝恩使(使節)の制度が始まりました。長崎の町役人による出島の構築も着手されます。1635年には、すべての船の海外渡航と帰国を禁じました。そして「参勤交代」が始まったのです。
 1636年には、出島の構築が終わり、ポルトガル人が集められます。そして正式な朝鮮通信使が来日するようになりました。
 このように、江戸幕府は開かれてから約30年後に、江戸時代独特のガバナンス体制を整え、江戸の町は参勤交代によってその後は急速に人口が増加し、世界でもっとも大きな都市になるわけです。
 遊女については、もっと長い歴史の中で見ていくことができますが、遊廓はこの江戸時代に、幕府公認のもとで庄司甚右衛門が土地を与えられて成立し、遊廓としての文化と様式を整えたのです。そのような理由で、江戸時代の遊廓について述べることは、「廓」の文化を伝える上で必須と考えています。
 なぜ「吉原遊廓」が重要なのか
 なお、すでに述べたように江戸時代には全国に25ヵ所以上の公認の遊廓がありました。もっとも早く発達した遊廓は京都と大坂の遊廓でした。しかし本書では主に、江戸の吉原遊廓について書きます。
 なぜなら、吉原が芝居町と互いに補い合い均衡を保った唯一の遊廓であり、もっとも遊女の人数も客の人数も多かったからです。また全国から遊女が集まることで、多様な言語を標準言語にまとめるための「遊廓言葉」が発達したのも、吉原遊廓においてでした。
 京都と大坂の遊廓は江戸時代初期の著述の主な舞台になりましたので、『色道大鏡』や『好色一代男』『好色二代男』などは当然、参照しますが、18~19世紀を通じて文芸ともっとも深く関わったのは、吉原遊廓でした。
 京都・大坂の遊女に比べても吉原の遊女は贅を尽くし、それが日本橋を中心とする呉服業界の大きな収入源にもなって、経済をまわしていました。
 さらに言えば、吉原遊廓があったからこそ、日本でもっとも優れていた吉原の芸者衆が、明治以降の日本文化に大きな影響を与えたのです。以上の理由で、多くの遊廓の中で江戸吉原を中心に見ていきたいと思います。
 さらにこちらの記事<「高額の借金返済」に「梅毒のリスク」…遊廓が「二度と出現してはいけない悪所」だと言える「ヤバすぎる真実」>では、「あってはならない悪所」遊廓の魅力と「知られざる真実」をわかりやすく解説します。ぜひお読みください。
 田中 優子
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 1月18日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「高額の借金返済」に「梅毒のリスク」…遊廓が「二度と出現してはいけない悪所」だと言える「ヤバすぎる真実」
 田中 優子
 2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎は、遊廓で栄えた街として有名な吉原で生まれました。吉原遊廓では、華やかな遊女たちが手招き、夜も眠らない「不夜城」と呼ばれていました。
 はたして、日本人にとって「遊廓」とは何だったのでしょうか。『遊廓と日本人』の著者・田中優子さんが、「あってはならない悪所遊郭の世界をわかりやすく解説します。
 ジェンダーから見た遊廓の問題
 この本は「遊廓」についての本です。日本の遊廓は1585年から1958年まで373年間にわたって続きました。それほど長い歴史を持ってはいるのですが、ここでは一種の街である「廓くるわ」を形成し、日本の文化に深く関与した江戸時代(1603~1867)を中心にします。
 また、全国に25ヵ所以上あった公認遊廓の中でも、江戸の吉原遊廓を事例として、皆さんに遊廓を案内します。
 さて、本論を始める前に読者の皆さんにお伝えしたい大事なことがあります。それは、「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」ということです。
 なぜなら、遊廓は江戸時代の文化の基盤であり、力の源泉でもありましたが、とても大きなお金が動く世界だったからです。
 これから遊廓の1年、その年中行事、遊廓の一日、遊女とはどんな人たちか、遊廓に来る客のことなど、さまざまに述べますが、それはたいへん豪奢な世界です。その豪華と活気を支えるために、多額のお金を払う人たちがいました。大店(おおだな)の経営者や大名たちで、「お大尽」と呼ばれました。
 お金を払う人たちがいるということは、お金を受け取る人がいたということです。お金を受け取るのは遊女ではありません。遊女屋(妓楼)の抱え主(経営者)でした。もちろんその他の組織もお金を受け取るのですが、それについてはのちほど詳しく書きます。
 なぜ遊女はお金を直接受け取れないのか? それが、「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」ことの理由です。
 遊女はその家族が抱え主から「前借金」をし、その家族のひとりである女性が遊女となって借金を返す仕組みでした。したがって、借金返済が終わるまでにやめることも逃げることもできませんでした。厳重な監視下に置かれることもありました。
 売買されるわけではないので奴隷ではありませんが、「借金のかた」「抵当」として自由が奪われていたことは確かで、そのような方法は人権侵害にあたります。
 なぜこの方法によってしか遊廓が成り立たなかったのか、なぜ女性の自由な働き方で経営ができなかったのか、それは単に経済の問題としてではなく、ジェンダーの問題として考えなくてはなりません。
 結論から言えば、多くの仕事の選択肢があって、遊女もそのひとつだった場合、ほとんどの女性は遊女を仕事として選ばないであろう、ということです。
 現代にも通じる「遊女たちの苦しみ」
 第1に、遊女として働いても、キャリアの積み重ねになりません。遊女として働いていた履歴は次のステップにつながるどころか、むしろ全く異なる仕事に就くことが困難になるでしょう。同じ世界の中で、たとえば「遣手」というマネージャーになったり貸座敷を経営したり、遊女屋そのものを経営することはあり得ますが、外に出ることは難しいです。
 第2に、仕事の能力はあるていど年齢とともに上がっていくもので、社会の変化によってそれが難しくなった場合も、学び直しによって新たな能力を身につけることができます。しかし遊女という仕事は年齢が若い時しか価値を認められず、年齢によって価値が落ちていきます。これでは成長の意欲につながりません。
 第3に、病と暴力の危険に常にさらされています。梅毒は近代以降に検査体制が確立されましたが、それまでは運に任されました。また遊女は人前で食事をすることができませんので、台所で素早く掻き込むような食生活をしていました。豪華な座敷や衣装があったとしても、飲食や旅行を楽しみながら健康を維持する生活とは程遠く、若くして亡くなる遊女も少なくありませんでした。
 また、客の中には遊女を乱暴に扱う客も、お金の力で言うことをきかせる客もいたでしょう。高級な遊女屋ではそういう客を見分け、入れないようにしていましたが、河岸店(かしみせ)と言われるお歯黒溝(おはぐろどぶ)沿いに並ぶ小さな店には、どんな客が来るかわかりません。遊廓は高級で豪奢な面ばかりでなく、危険もたくさんあったのです。
 第4に、真剣な恋愛をしたとしても、相手にお金がなければ借金を返済してもらって請け出してもらい、結婚するということにはなりません。年季が終わるまで待つ場合は、恋人とは別の男性たちとできるだけ多く床をともにして年季が伸びることのないようにしなければなりません。その苦痛と相手の男性の経済事情があいまって心中する事例もありました。
 選ばれない仕事に女性たちを就かせるために、前借金の制度は使われていたと考えられます。これは、今日におけるジェンダーの問題を考える上でも、非常に重要です。
 なぜそれを克服してくることができなかったのか? そして吉原が消滅した戦後から今日まで、女性は仕事という側面において、なぜこうも選択肢が少ないのか? なぜ非正規社員という働き方を余儀なくされるのか?
 これらは家族制度への、日本人の固定化された発想とも深い関連があります。個々人がそれぞれの能力を伸ばし、自立した生活を送り、それによって充実感を持ち、その状況を支え合うのが家族のはずですね。家庭が負っている労働の側面を押し付け合うのが家族ではありません。
 遊廓は、家族が生き残るために女性を、誰も選びたくない仕事に差し出す制度でした。そのことの意味を考え、同じようなことを今日の私たちはしていないのか、と立ち止まる必要があると思います。
 さらにこちらの記事<良い香りを放つ「教養のある遊女」が手招きし…「娼婦の街」と誤解されがちな遊郭が「日本文化の華開いた場所」だったという「知られざる真実」>では、「あってはならない悪所」遊廓の魅力と「知られざる真実」をわかりやすく解説します。ぜひお読みください。
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 2025年1月7日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「良い香りを放つ「教養のある遊女」が手招きし…「娼婦の街」と誤解されがちな遊廓が実は「日本文化の華開いた場所」だったという「意外な真実」
 田中 優子
 2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎は、遊廓で栄えた街として有名な吉原で生まれました。吉原遊廓では、華やかな遊女たちが手招き、夜も眠らない「不夜城」と呼ばれていました。
 はたして、日本人にとって「遊廓」とは何だったのでしょうか。『遊廓と日本人』の著者・田中優子さんが、「あってはならない悪所」遊廓の世界をわかりやすく解説します。
 いま「遊廓の歴史」を考えるということ
 本書を刊行する理由は、そのような現代の問題を考えて欲しいからでもありますが、それだけではなく、2つの面で、遊廓に対して持ってしまいがちな誤解を解くためでもあります。
 ひとつは、大正・昭和の吉原のイメージから、単なる娼婦の集まる場所と考える誤解です。この後、具体的に書いていきますが、遊廓は日本文化の集積地でした。
 書、和歌、俳諧、三味線、唄、踊り、琴、茶の湯、生け花、漢詩、着物、日本髪、櫛かんざし、香、草履や駒下駄、年中行事の実施、日本料理、日本酒、日本語の文章による巻紙の手紙の文化、そして遊廓言葉の創出など、平安時代以来続いてきた日本文化を新たに、いくぶんか極端に様式化した空間だ、と言えるでしょう。
 しかしもう一方の面から言えば、華やかな面だけでなく、前借金をはじめ、お金にからむさまざまな問題や、遊廓内の格差つまり高位の花魁から場末の遊女まで、暮らしの様子は決して同じではなかったという面、性病対策が必要な空間だったという面、客たちが贅沢な飲食をしている一方、遊女たちは酒はともかく、健康に必要な食生活を得られなかったという面などは、見逃してはならないでしょう。
 遊女たちの「教養」
 漏れ聞くところによると、2021年末に放送が始まる人気アニメ『鬼滅の刃』第2期では遊廓が舞台になり、親御さんたちは子供にどう説明すれば良いかわからないそうです。ぜひ本書をお読みになることで、2つの側面を説明してあげてください。
 ひとつは遊女が、江戸時代当時の一般の人々でもなかなか身につけられなかった伽羅という輸入香木を、着物と髪に焚きしめ、とても良い香りを放っていたこと。和歌を勉強し、自分で作ることができたこと。漢詩を勉強する遊女もいたこと。書を習い、墨で巻紙に手紙を書いていたこと。三味線を弾き、唄い、琴を弾く遊女もいたこと。生け花や抹茶の作法を知っていたこと。
 遊廓では一般社会よりはるかに、年中行事をしっかりおこない、皆で楽しんでいたこと。それによって日本文化が守られ継承されたという側面は、ぜひ伝えてください。
 そしてもうひとつは、遊女は、家族が借金をしてそれを返すために遊廓でおつとめをしていて、地位の高い男性のお客様をもてなすために高い教養を持っていたけれど、同時に、借金を返すために男女関係を避けることができなかったことです。
 それを目的に来る客たちもいたことを伝えて欲しいと思います。女性が全人格的にではなく、性行為の対象としてのみ見られることは、今日では許されないことも、ぜひ伝えて欲しいと思います。
 さらにこちらの記事<「高額の借金返済」に「梅毒のリスク」…遊廓が「二度と出現してはいけない悪所」だと言える「ヤバすぎる真実」>では、「あってはならない悪所」遊廓の魅力と「知られざる真実」をわかりやすく解説します。ぜひお読みください。
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