⚔73)─1─徳川幕府が260年続いたのは徳川家康が愚かな長男を将軍に選んだから。~No.290No.291No.292 

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 徳川家光は、本心の臆病を隠す為に虚勢を張っていた。
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 日本民族は、閉鎖的ムラ意識から、世界レベルの独裁的な強力なリーダーシップを嫌い排除してきた。
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 日本の脅威は、外敵などの人災ではなく、自然の天災であった。
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 2025年10月20日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「だから徳川幕府は260年も続いた…徳川家康が3代将軍に「優秀な次男」ではなく「愚かな長男」家光を選んだワケ【2025年9月BEST】
 徳川家光像 岡山県立博物館(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
 © PRESIDENT Online
 2025年9月に、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト3をお送りします。歴史部門の第1位は――。
▼第1位 だから徳川幕府は260年も続いた…徳川家康が3代将軍に「優秀な次男」ではなく「愚かな長男」家光を選んだワケ
▼第2位 私には明瞭にモノを言うが、他人には曖昧な言葉を使う…昭和天皇が「総理大臣にしてはならぬ」と語った政治家
▼第3位 15歳で第1子誕生…53人という日本史上最多の「子だくさん将軍」11代家斉が幕府滅亡を早めたと言えるワケ
 徳川家康とはどんな人物だったのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「常に『家』の存続を優先して考えてきた。それは3代将軍に家光を選んだことからもよくわかるという――。(第2回)
 ※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
 あまりにも絵が下手だった徳川家光
 武士はあくまでも「人」ではなく「家」こそが主役である。そんな徳川家の堅苦しい気風をつくり上げた人物こそ、家康その人でした。
 そんな彼の意識が色濃く出ているのが「長子相続」という慣習でしょう。
 (2代将軍)秀忠とお江の方の夫婦には、2人の男の子が生まれました。兄は竹千代(のちの家光)、弟が国松(のちの忠長)です。
 当初、この夫妻は、弟の国松を将軍にしようと考えました。通常は兄がいる場合、兄を跡継ぎにするのが一般的ですが、彼らは弟を選ぼうと決めたのです。
 この問題は、後世には「お江が弟の国松を猫可愛がりし、将軍にしたがったのだ」と伝わっています。中には、
 「兄の竹千代は乳母の春日局が育て、弟の国松はお江が自ら育てたから、弟のほうが可愛かったのだろう」
 などという説まで出てくる始末です。
 本当にそんな感情を、お江の方が抱いていたのか。当時の身分の高い女性がお乳を与えることはまずなかったでしょうし、お江の方がそこまで公私混同をする人物とは、私には思えません。
 こうした疑問を抱いていたところ、とある奇妙な史料を目にする機会があり、私は一つ合点がいきました。その史料とは、徳川家光本人の描いた絵です。それを見たとき、何より驚かされたのはその絵の下手さ加減でした。
 自分を認めない父・秀忠への反発
 皆さんも小学生の頃、お絵描きをしたことがあると思いますが、頭のいい子であれば、絵心がなくてもそれなりにうまく描けるものです。三次元を二次元に描き起こすには特別な才能が必要ですが、誰かが二次元化したものを真似るだけなら、絵は描ける。当時よく描かれた鷹や鶏などの上手な絵を模写すれば、誰でも50点か60点くらいは取れるような作品を作り上げられるのです。
 ところが徳川家光の絵には、そうした工夫の跡が一切見られません。家光の絵は完全に独創的で、ある意味オリジナリティにあふれていましたが、裏を返せばそれは「真似ることができない、知的能力に問題がある」ことの証明でもありました。実際、あの絵を見た私は、「家光って馬鹿なんじゃないか」と思わざるを得ませんでした。それほどに彼の絵は衝撃的に下手だったのです。
 描いた絵をはじめとするさまざまな片鱗から、秀忠とお江の方の夫婦が、「この子ではなく弟に将軍職を譲るべきだ」と考えたのは、自然なことかもしれません。
 では、当の徳川家光は、自分の能力をどう思っていたのでしょうか。彼があれほど祖父・家康を敬愛した理由は、自分が弟よりも劣っていることを自覚していたからではないかと私は思います。
 賢明でない人物にもプライドはある
 そしてその劣等感が募った末に、弟を最終的に死に追いやるほどの葛藤が生まれたのではないか。つまり、家光のおじいちゃん子という性格には、そうした複雑な意味合いが隠されているように思えるのです。
 また、家光は父・秀忠をあまり好まなかったのではないかとも考えられます。弟を後継者に推したことからも、「自分のことを認めてくれない父だった」という思いが、彼の中に強く残っていたのでしょう。
 家光は自分の異母弟である保科正之を重用しています。正之自身の技量がすぐれていたことは間違いありませんが、そこには、自分を認めなかった父が同じく認めなかった弟・保科正之に対して、なんらかのシンパシーを感じ、可愛がったのではないかと思うのです。
 世の中の二世議員などを見るとよくわかるのですが、あまり賢明でない人物であっても、それなりの自意識やプライド、負けず嫌いな感情を抱いているものです。彼らは、仮に自分の技量が周囲よりも劣っていると知っていても、自ら「私は馬鹿ですから」と認めることなど、まずありません。むしろ、自分なりの考え方や主張を持っているものなのです。
 家光の場合も同様で、「お前は馬鹿だ」と周囲に言われても、内心は「この野郎。自分には周囲にはわからない能力があるのだ」と反発したことでしょう。
 人の上に立つ将軍はバカでもいい
 初代将軍である家康から、「たとえ馬鹿でもいいから兄に将軍職を継がせなさい」と言われた秀忠とお江の方の夫婦は、表面上は「わかりました」とその言葉に従いました。ですが、心の内では「あなたは言っていることとやっていることが違うではないか」と感じていたに違いありません。なぜなら、家康自身も次男・秀康を差し置いて、三男・秀忠に後継者の座を譲った張本人だったからです。
 もし、家康にその矛盾を指摘したとすれば、おそらく「いや、時代が違うのだ」と反論したことでしょう。
 「秀忠を将軍に指名した時代は、能力のある人間を後継者にしなければ徳川家が滅びる危険があった。今や徳川の世は安泰なのだから、多少能力に欠けても長男に継がせるほうが安定する。お前は馬鹿ではないから後継者にしたのだ」
 と、言い訳したことでしょう。
 しかし、ここで考えるべきことがあります。それは、「そもそも将軍に求められる能力とは何か?」という問題です。
 将軍は単純に頭が良ければよいのかといえば、決してそうではありません。徳川幕府がすでに成立し、何年も経て体制が固まってしまえば、人の上に立つ将軍にそれほどの能力は必要なくなるからです。
 だから徳川将軍は15代も続いた
 政治や実務は周囲の家臣がこなしてくれるので、将軍はただ人の上に「君臨する」ことができればいい。たとえるなら、現代の二世、三世の政治家にも似通(にかよ)うところでしょう。
 この考え方をもってして、「弟のほうが優秀だから、弟を将軍に据えよう」と考えた秀忠夫妻に対して、家康は「その考え方は『お家騒動』を招く」と忠告したのです。
 兄が愚かで弟が優秀だとすると、兄をことさら馬鹿扱いして弟を立てようとする争いが起きてしまいます。しかし、最初から「長男が継ぐ」と決めておけば、お家騒動は起こりません。兄は愚かでも家を継ぎ、弟はどれほど優秀であっても将軍にはなれないというルールを作れば、秩序が保てる。
 そして、愚かな将軍の代わりに優秀な家臣が政治を執(と)り行えば、江戸幕府は安定して続いていく。家康の思惑は、そこにあったのではないか。そう私は考えています。
 (初公開日:2025年9月16日)

                    • 本郷 和人(ほんごう・かずと) 東京大学史料編纂所教授 1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。 ----------

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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 キリスト教伝来とは、宗教侵略であった。
 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群の「神聖な使命」とは、日本人をキリシタンに改宗し、日本から神道・仏教などの異教を排除してキリスト王国に生まれ変わらせる事であった。
 白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に世界に輸出していた。
 ローマ教皇は、キリシタン日本人を奴隷にする事を禁止したが、異教徒日本人を奴隷とする事を許可した。
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 江戸散策
 第121回 日光東照宮徳川家康と家光の関係。
 日光東照宮 陽明門(国宝)  (栃木県日光市)
 戦国の世を戦い抜いてきた徳川家康は、忍耐強く、緻密な計算のできる優れた武将だった。幕府を開き徳川将軍家の土台となって、260余年にも及ぶ安定した世を生み出した。さすがと思うのは、家康自身の死後に際しての用意周到さである。
 元和2年(1616)、家康は駿府城(静岡市)で75歳の生涯を終えた。用意されていた遺言の内容は次の4つ。
1. 遺体は久能山に葬ること …駿府城に近い静岡市
2. 葬儀は増上寺で行うこと …徳川将軍家菩提寺、東京都港区
3. 位牌は大樹寺に立てること …家康先祖の菩提寺、愛知県岡崎市
4. 一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建てて勧請すること …男体山を中心に古くから神仏習合霊場として開けた日光山
4番目は「関八州の鎮守とならん」という内容で、家康は死を迎えるにあたって、神になることをもう宣言し、具体的な場所まで指定しているのだ。没後はこの遺言通りに事が運び、今も日光東照宮、神号「東照大権現」(徳川家康)が鎮座する。
 『肖像』
 徳川家康(東照宮)と天海僧正(慈眼大師)
 (家康は駿府城に天海らを招き、遺言を託したという。)
 出典 国立国会図書館貴重画データベース
 神号が東照大権現に決まった経緯には、家康のブレーンだった2人の高僧の意見の対立があった。その高僧とは金地院崇伝(こんちいんすうでん)と南光坊天海(なんこうぼうてんかい)。崇伝は「明神」号を、天海は「権現」号を推した。結局は、秀吉が既に「豊国大明神」になっていたが豊臣家は滅びたということで「権現」に決定。これは2人の神道の違い(崇伝は吉田神道、天海は山王神道)によるものだった。どちらが上かという問題ではない……お稲荷さんは稲荷大明神であり、神田明神諏訪明神などは明神様と呼ばれ、山王権現白山権現愛宕権現などは権現様と親しまれている。
 家康の遺言に従って一周忌を迎えた元和3年(1617)、天海主導のもとに久能山から日光へ遷座、これに先立ち朝廷から「東照大権現」の神号が贈られている。
 東照宮の立派な陽明門や唐門、拝殿や本殿を見て、遺言と違うじゃないかと思う人もいるだろう。確か家康は「小さなお堂」を建てろと言っていたはずなのに、これぞと言わんばかりの絢爛豪華な建物だ。最初は小さなお堂だったのかもしれないが、実はほとんどの建造物は、二代秀忠ではなく三代将軍家光によるもの。「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」と呼ばれている。家光は天海の助言をもとに大々的に建て替えたのだった。
 家光の真意は……第一の理由は、自分を将軍に指名してくれたのは祖父の家康であり、並々ならぬ思い入れがあったのではないか。まさに神だった。生前家光は資料によると、10回も東照宮に参詣している。歴代将軍の半数は1回も参詣していないことからも、よほど敬慕の念が強かったと思える。
 第二は、幕府の財政が豊かな時期だったことによる。大造替をするだけの財力があり、莫大な費用を要した建造物は諸大名の力を借りずに自前だった(諸説有り)。
また、家光の霊廟、大猷院(たいゆういん)は遺言により東照宮のすぐ近くに造営された。輪王寺(りんのうじ)にあるその建物は、東照宮に向かって見守るかのように建っているのが印象深い。なお、歴代将軍の霊廟は、増上寺6人、寛永寺6人、谷中霊園1人に対し、家光だけは家康に寄り添って日光となっている。
 平成11年(1999)、東照宮輪王寺は「日光の社寺」として世界文化遺産に登録された。数多くの国宝や重文、宝物館も見学できる。「陽明門」「三猿」「眠猫」以外にも見所はいっぱいある。
 東照宮の主な社殿群は、家光が寛永13年(1636)に造替、寛永という時代は、強固な幕府の体制が出来上がる時だった。上野の台地に天海が寛永寺を建立。江戸時代にずっと流通した貨幣である寛永通宝の鋳造開始。鎖国の完成や大名に参勤交代を義務づけたのも、武断政治を推し進めた家光の治世、みな寛永年間である。
 東照宮の存在は、将軍家の威厳を示すとともに、盤石な幕藩体制を誇示するために大いに役立ったのである。
 文 江戸散策家/高橋達郎
 参考資料『陽明門を読み解く』日光東照宮
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 2022年4月11日 プレジデントオンライン「だから徳川幕府は15代も続いた…徳川家康が「病弱で愚鈍な家光」を3代将軍に指名した納得の理由
 だから徳川幕府は15代も続いた…徳川家康が「病弱で愚鈍な家光」を3代将軍に指名した納得の理由写真を拡大する
 徳川家光像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
 江戸幕府3代将軍・徳川家光は、幼少のころから病弱で、周囲からは愚鈍と見られていた。だが、初代将軍・家康は家光に家督を継がせた。歴史研究家の河合敦さんは「当時はまだ、長子相続は確立していなかった。このため家康はあえて家光を将軍に指名することで、家督争いを避け、徳川幕府を安定させる狙いがあった」という――。
■「心身に難あり」と思われていた幼少期の家光
 徳川家光は、慶長9年(1604)に2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれた。
 家康は孫の誕生を大いに喜び、自分の幼名である竹千代の名を与えた。やがて家光は、三代将軍に就いて将軍の権威を高め、幕藩体制を整備して徳川政権を盤石にするという大きな功績を残した。
 家光が誕生する3年前、秀忠には長丸という長男が生まれたが夭折(ようせつ)し、家光誕生時にはこの世にいなかった。しかも家光の母は、秀忠の正室・お江だから、彼が将軍に就くのは当然だと思うだろう。しかし、もともと家光は、将軍になる予定の人物ではなかったのである。
 当時はまだ、長子相続は確立していなかったのだ。確かに長男が家督を継ぐケースが多かったが、「才覚ある者が跡継ぎにならねば家の存亡にかかわる」という戦国の遺風がまだ残っていた。ゆえに、「心身に難あり」と判断された者は嫡子から排除された。
 幼少年期の家光は、ほとんど言葉というものを発せず、家臣に声をかけてやることもなく、何を考えているかわからない子供だった。端から見ても愚鈍に見えたのだろう。
 しかも、生来の病弱だった。たとえば、3歳のときに医師も匙を投げるほどの大病をしている。このときは家康が調合した薬で奇跡的に回復するが、26歳のときには疱瘡(ほうそう)(天然痘)を煩い、乳母の春日局が病気の回復を願って「一生薬絶ちをする」と誓うほどの重篤な病状に陥っている。その後も眼病、頭痛、瘧(おこり)などたびたび体調を崩した。
■実母の寵愛を受けていたのは弟の国松だった
 また、これは巷説だが、少年時代から家光の性愛の対象は男性だけだったといわれ、好んで化粧し、その姿を鏡に映してうっとりしていたという。これでは後嗣の誕生は期待できない。こうしたことから、跡継ぎには不適格だと思えたのかもしれない。
 だから秀忠は、家光の2歳年下の同母弟の国松(のちの忠長)を後継者にしようとした。家光にくらべて愛くるしく、賢く思えたからだ。なにより、母のお江が溺愛していた。
 家光が乳母(春日局)に養育されたのに対し、国松はお江自身が育てたので、情が移ったのだろう。秀忠という人は大変な恐妻家で、お江にはまったく頭が上がらない。そのため、国松の将軍継承を望む彼女の要望を受け入れたのかもしれない。
■秀忠夫妻は国松を跡継ぎにしようとしたが…
 繰り返しになるが、同母兄を差し置いて次男が家督を相続することはタブーではなかった。そもそも秀忠自身、家康の三男であった。
 長兄の信康はすでに死去しており、次兄の秀康は、秀吉の養子だったので後嗣にはなれなかった。そういった意味では、秀忠夫妻は、国松を跡継ぎとすることに抵抗感はなかったはず。
 しかし、国松の家督相続は、祖父の家康によってはっきりと拒否された。
 きっかけは、両親に敬遠され、家臣に軽んじられた12歳の家光が、世をはかなんで自殺をくわだてたことにあった。これを知って驚いた春日局が、思いあまって駿府の家康のもとへ赴き、家光を将軍にしてくれるよう直訴したとされる。
■家康が家光を3代将軍にしたワケ
 そこで家康は、わざわざ江戸へ出向き、秀忠に対して「家光が16歳になったら、彼を連れて上洛し、三代将軍にするつもりだ」と述べた。また、秀忠夫妻に「おまえたち二人が家光を嫌い、国松に家督を継がせようとするなら、私は駿府に家光を招いて我が子となし、3代将軍とする」と伝えたともいう。
 それからまもなく家康は死去するが、こうした家康の強い意志によって、家光は将軍になることができたのである。
 徳川家康肖像画(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
 なお、家康がこうした決定を下したのは、世が平和になったいま、政権さえしっかりしていれば将軍など誰でもよく、実質、長幼の順で相続すると決まっていたほうが、家督争いを避けることができると考えたからだといわれている。
 いずれにせよ、家光は自分を将軍にすえてくれた祖父・家康の恩を生涯深謝し、東照大権現として祀られた家康をあがめ続けていく。ただ、家康への崇敬は、純粋な感謝の念だけから発せられたものではない。それについては、のちに詳しく見ていくことにしたい。
■20歳で朝廷から将軍宣下を受ける
 次期将軍と決まった家光(12歳)には、翌元和2年(1616)、酒井忠利、内藤清次、青山忠俊ら有能な年寄(のちの老中)がつくことになり、さらに約60名の直臣も付され、次期政権をになう人的組織が形成された。
 翌元和3年(1617)、家光は江戸城本丸から西の丸へ移座した。やがてこの西の丸は、家光のような将軍の世嗣や大御所が住む場所となっていく。
 元和8年(1622)、家光は19歳になると、西の丸を出て本多忠政の屋敷へ移った。いよいよ秀忠が家光に将軍職の譲渡を決意したのだ。秀忠は当初、駿府へ移って完全に隠居しようと考えていた。しかし、家臣たちが引き留めたので引退を撤回し、駿府ではなく江戸城西の丸で大御所として新将軍を後見することになったといわれる。
 だが、この逸話が事実かどうかは極めて怪しい。秀忠はまだ44歳。おそらく父・家康同様、若い息子をお飾り将軍にして、大御所でありながら幕府の実権を完全に掌握しようと考えていたのだろう。
 ともあれ、翌元和9年(1623)、家光は上洛して朝廷から将軍宣下を受け、ここに20歳の若き徳川3代将軍が誕生した。
 しかしそれから9年の間は、将軍・家光ではなく大御所・秀忠主導のもとで政権は運営された。だが、家光が29歳の寛永9年(1632)に秀忠が没したことで、名実ともに権力が大御所から将軍へと移行した。以後、約20年の治政で家光は、幕藩体制の確立に心血を注ぐのである。
 そんな3代将軍の具体的な政策を概観していこう。
幕藩体制を整備して徳川政権を盤石に
 政権保持のため、家光はさまざまな方法によって大名を統制しようとこころみ、なおかつ、それを永続的なシステムとして定着させた。
 その一つが、大目付や諸国巡見使の設置である。両職とも大名の行動や各藩の政治を監視する仕事。とくに大目付密偵は各藩に放たれ、幕府のもとには常時彼らから情報が伝えられた。
 大目付に関連していえば、幕府の職制も家光の時代におおむね整えられた。
 まず幕府の重職は、譜代と旗本で占められたが、将軍のもとで政務をになう職が老中である。今の内閣の閣僚のようなもの。2万5千石以上の譜代大名から任命され、定員はおおむね3~5名。政務は月番制(1カ月交替制)だった。ちなみにこうした幕府の重職は、独裁を防ぐため複数制、月番制そして合議制を採用した。
■参勤交代をおこなった本当の理由
 秀忠の死後、家光は寛永12年(1635)に改めて武家諸法度を発布した。俗に寛永令というが、以後、将軍が替わるごとに武家諸法度を発布するのが慣例になった。
 法度には改変が見られた。大きなものとしては、新規の関所や5百石積以上の大船の建造を禁止したこと、そして参勤交代を制度化したことであろう。
 参勤交代とは、大名が国元と江戸を1年交代で往復しながら生活する制度だが、妻子を人質同然で江戸に置かねばならず、反乱が困難になった。
 園部藩参勤交代行列図(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
 参勤交代の目的は「大名の経済力を削いで、反抗する力をなくすため」というが、寛永令では「参勤交代のさい、たくさんの人数を連れてくるな。もっと行列を簡素にしろ」と命じているので、この認識は正しくない。
 参勤交代は、将軍と大名の主従関係を確認する儀式なのだ。
■太平の世における、御恩と奉公の関係性
 将軍は諸大名に対し、領地の安堵やさまざまな特権などの御恩を与えている。だから家来である大名は、将軍のために命を捨てて戦うのが奉公だった。とはいえ、江戸時代には戦争がない。だから武力で奉公するのではなく、江戸の将軍のもとに参上して挨拶し、さまざまな仕事を勤める。それがこの時代の奉公になったのだ。
 なお、参勤交代によって常時半数の大名が江戸にいることになり、いざ戦争や反乱がおこれば、ただちに彼らに軍役を課して動員することも可能になった。また、参勤交代は幕府が江戸にいる大名の監視をするのにも役立ったろうし、交通の発達や、諸大名間の文化交流も促された。
実弟の領地を没収し、切腹まで追い込む
 家光は寛永令を出すと、法令違反を楯にして次々に大名を取り潰していった。
 まずは親政の手始めに、加藤清正の後を継いだ加藤忠広を改易した。その理由は、忠広が母や子を無断で江戸から国元に返したことや、忠広の嫡男・光広の素行不良とされた。
 河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ社
 さらに家光は、弟の徳川忠長を上野国高崎に逼塞(ひっそく)させ、領地の甲斐と遠江を公収した。すでに秀忠の生前から乱行が目立ち甲斐で謹慎させられていたが、断固、処分したのである。それからまもなく忠長は切腹して果てた。
 こうした家光の果断なやり方に諸大名は震えあがったが、まさにそれは父・秀忠のやり方をまねたのである。秀忠は、自分が権力を握ると、安芸の福島正則や弟の松平忠輝を改易している。
 家光はまた、父の秀忠が丁重にあつかってきた御三家(家康の息子によって創設された尾張紀伊・水戸の三家)を完全に家臣あつかいにした。こうした強圧的姿勢によって、諸大名は新将軍を畏怖するようになった。

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 河合 敦(かわい・あつし)
 歴史研究家・歴史作家
 1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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 2024年1月14日 まっぷる鎖国体制の確立~徳川家光が定めて200年あまり続いた外交方針とその実態~
 徳川時代を象徴する外交政策鎖国
 しかし、外交との窓口を完全に閉ざしたわけではありませんでした。
 鎖国の体制とその実態はどうだったのでしょうか。
目次
 鎖国体制となった背景
 鎖国前の状況とキリスト教禁止令
 鎖国の完成と禁令の内容
 鎖国体制に対する近年の見直し
 江戸の切支丹屋敷
 『東京のトリセツ』好評発売中!

 鎖国体制となった背景
 徳川家康は外国との貿易に積極的で、海外政策についても、平和外交を進めました。ただ、これは貿易においてであって、キリスト教の宣教師の日本への派遣には応じませんでした。
 鎖国体制をしくことになった背景はキリスト教禁止と貿易の統制でした。
 鎖国前の状況とキリスト教禁止令
 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは天文18(1549)年、以来西日本でキリスト教が普及し、大村藩主の大村純忠(おおむらすみただ)、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)、日野江藩主の有馬晴信(ありまはるのぶ)など大名クラスにも信者がいました。ここまで普及した背景には、宣教師との南蛮貿易による利益も大きかったといわれています。
 戦国時代に統一した豊臣秀吉は、西国大名が南蛮貿易の利益を独占するのではないか、という危惧を抱いていました。天正15(1587)年に薩摩の島津を倒して九州を平定した秀吉は、同年長崎を直轄領としてバテレンポルトガル語で神父)追放令を出し、宣教師を国外に追放しました。
 そして、貿易での利益を独占するため朱印船貿易を始めます。これは幕府が認めた貿易船だけに貿易を許可したものであり、徳川家康も、秀吉の朱印船貿易を引き継ぎ、貿易は拡大しました。
 2代目・秀忠の時代になり幕藩体制が整備されるのに伴い、キリスト教の平等主義思想が体制否定につながることを恐れ、貿易は長崎、平戸の2港だけに制限しました。
慶長17(1612) 年、天領と直轄の家臣に対して禁教令が出され、翌年には全国に及びました。
 大友宗麟の戦略地図~キリスト教にのめりこみ運命が暗転
 鎖国の完成と禁令の内容
 元和2(1616)年、家康が死亡すると、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国についての禁令が何度か出され、寛永16(1639)年7月に出された禁令により鎖国が完成したとされています。これが3代将軍・家光の時代です。
 禁令のおもな内容は次のようなものでした。
 その1「日本人が海外へ渡航すれば死罪」
 その2「すでに海外渡航している者が日本に帰ってきたら死罪」
 その3「バテレン(伴天連)の取り締まり。バテレンを匿った者も、妻子も死罪」
 という厳しいものでした。この禁令の発令には重大な事件がきっかけとなっています。
 鎖国のきっかけとなった島原の乱
 重大な事件とは、寛永14(1637)年の島原の乱です。島原の乱キリスト教を精神的バックにした農民一揆でした。キリシタン大名だった有馬晴信小西行長(こにしゆきなが)の領地だった島原・天草地方には、農民の中にキリシタンが多かったのです。
 新領主の島原・松倉氏と天草・寺沢氏は、飢饉にもかかわらず、実際の石高の2倍にあたる重い年貢を課して農民を厳しく取り締まり、反発した農民は天草四郎といわれた益田時貞を頭領として一揆を起こしました。
 幕府は鎮圧に苦慮し、12万人の大軍を投じて寛永 15(1638)年にようやく鎮圧しました。
 鎖国体制に対する近年の見直し
 長崎に出島ができたのは寛永13(1636)年、対外貿易はオランダと中国だけに限るようにしました。鎖国後はオランダ商館との貿易は長崎出島でのみ行われ、オランダ人は出島から出ることを禁じられました。
 鎖国体制をとった日本でしたが、実は国の窓口を完全に閉じたわけではありませんでした。これを根拠に近年は鎖国体制に対する見直しが教科書でも進んでいます。
 最後の禁令が出てからも、出島のほかに、対馬を通じて朝鮮と、薩摩藩を通じて琉球と、松前藩を通じてアイヌと、窓口が開いていました。
 江戸の切支丹屋敷
 寛永14(1637)年の島原の乱の5年後、イタリアの宣教師10人が筑前国(福岡)に漂着、 江戸伝馬町おくりとなり、宗門奉行の井上政重下屋敷内の牢に収容されました。この牢が現在の文京区小日向にあった切支丹屋敷です。
 宝永5(1708)年、イタリアの宣教師ヨハン・シドッティが切支丹屋敷に収容されました。新井白石はシドッティを尋問し「西洋紀聞」としてまとめました。シドッティは正徳4(1714)年47歳で死亡。2014年の屋敷跡の発掘で人骨が発見、シドッティの可能性が高いと判定されました。収容された中には、遠藤周作の小説「沈黙」のモデルになったキアラ神父もいます。
 茗荷谷駅から春日通りを南下すると、地下鉄車庫の下を通る歩行者用の地下道があります。地上に出た近くのマンションの一角に切支丹屋敷跡の碑が立っています。
 現在の切支丹屋敷跡周辺地図
 茗荷谷駅周辺には切支丹屋敷跡の石碑のほか、徳川慶喜屋敷跡などがあります。
 江戸幕府の開府!265年に及ぶ徳川家の栄華の始まり
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 まっぷるトラベルガイド編集部
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 2025年8月1日 草の実堂「男色家の将軍・徳川家光が初めて女性に一目惚れ!?美貌の尼「お万の方」とは
 江戸時代, 配信 徳川氏
 三代将軍の徳川家光は、幕藩体制や幕府機構の確立など、約260年も続いた徳川幕府の基礎を築いた将軍として知られています。
 そして家光といえば、子どもの頃から女性には興味を持たず、男性を好む無類の「男色家」として、お付きの小姓や家臣を寵愛していたことでも有名です。
 そんな男色家将軍・家光が初めて心ときめかせた女性は、20歳も年下の若く美しい尼さんだった……という話があります。
 画像:尼のイメージ ac-illust ゴロンボ
 病弱で大人しく存在感が薄かった家光
 画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託) public domain
 徳川家光は、江戸幕府の第三代将軍で徳川家康の孫になります。
父親は第二代将軍秀忠、母親は浅井長政の三女で豊臣秀吉の養女・達子(江の名で知られる)です。
 家光は世子(せいし/正室が産んだ男子のうちもっとも年長の子)なので、祖父・家康と同じ幼名の竹千代を与えられ、明智光秀重臣斉藤利三の娘・福(のちの春日局)が乳母として育てました。
 竹千代は幼い頃から体が弱く、3歳のときには医師が匙を投げるほどの大病を患っています。
 また、吃音(きつおん)があり、言葉を発することが少なく大人しかったために、周囲からは「何を考えているかわからない」といわれていたそうです。
 かたや、家光のあとに生まれた秀忠の三男・忠長は、健康で容姿端麗でした。
 母・江は忠長を溺愛、父・秀忠も「体が弱い家光より、忠長のほうが次期将軍にふさわしいのでは……」と考え始めたようです。
 画像:徳川忠長像(大信寺蔵) public domain
 家光は、そんな両親からの愛情を感じることができず、次第に距離を取るようになっていきました。
 病弱だった家光は、26歳頃に天然痘を患い、生死の境を彷徨うほどの重篤な状態に陥ります。
 そんな中、家光を深く愛し育ててきた乳母・春日局は、伊勢神宮に参拝し、「一生薬を絶つので、どうかこの病を治してください」と懸命に祈願したと伝えられています。
 愛人の浮気に激昂して斬り捨てる家光
 画像 : 春日局(斎藤福) publicdomain
 病弱な家光に対し、父母に溺愛されている忠長をみて、家臣たちも「次期将軍は忠長のほうがいいのでは」と思うようになっていきます。
 そんな空気を感じて家光の将来に不安を感じた春日局は、伊勢神宮詣がてら駿府城にいる家康に会いに行き「家光を次期将軍に」と直訴しました。
 家康はその願いを聞き入れ、秀忠と江に「家光を次期将軍として接するように」と伝えたのです。
 一方で、家光は幼少期から女性への関心が薄かったとされています。
 家光が12歳の頃には、60名以上の少年が小姓として仕えましたが、これらの小姓との間に男色関係があったのではないかと伝えられています。
 画像:小姓 ac-illust ゴロンボ
 『大猷院殿御実記』によると、家光は16歳ごろ、坂部五右衛門という小姓と恋人同志だったとされています。
 ところが、家光が湯浴みをしている間に五右衛門がほかの小姓にちょっかいをかけ、家光の逆鱗に触れてしまうという出来事が起こります。嫉妬深く激昂しやすい家光は、その場で「無礼もの」と五右衛門を切り捨ててしまったのです。
 将軍は、正室や側室との間に子どもをもうけなければなりません。
 男性にしか夢中になれない家光をみて、春日局は将来を案じ気を揉んだことでしょう。
 男色家の家光と、正室・孝子との冷え切った夫婦関係
 画像:千代田の大奥 お召し替え 豊原周延 public domain
 家光は、元和9年(1623年)8月に20歳で上洛し、征夷大将軍宣下を受けました。
 その翌年、2歳ほど年下の京都の公家・鷹司孝子を正室に迎えます。
 ところが、男色家であった家光と孝子の仲がうまくいくはずもなく、二人の関係は結婚当初から非常に険悪でした。
 実質的な夫婦生活はほとんどなく、孝子は結婚直後から日々ストレスが溜まっていったといいます。
 また、孝子は家光の母であるお江が選んだ結婚相手であり、春日局との関係が良好ではなかったと伝えられています。
 お江の死後、孝子は精神的に不安定な状態となり、江戸城本丸大奥を去ることになりました。
 義父である秀忠が孝子を京へ戻そうとしたものの、最終的には中丸(現在の中野区)で暮らすことになります。
 家光が寵愛した二人の側近
 画像:堀田正盛の木像 wiki c 個人蔵
 家光は将軍に就任後、近習に取り立て寵愛した家臣がいました。
 特に破格の出世を遂げたのが、堀田正盛(ほったまさもり)と、酒井重澄(さかいしげずみ/酒井忠勝)でした。
 堀田正盛は家光の小姓となり、五千石の領地を与えられるという異例の待遇を受けました。しかし、その急速な出世を妬む者たちにより、父・堀田正吉が攻撃を受けることになります。正吉は息子の立場を案じ、自ら命を絶ちました。
 正盛自身は、慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去した後、殉死しています。
 一方、堀田正盛とともに「一双の寵臣」と称された酒井重澄も寵愛を受けて、大出世を遂げました。
 しかし、突然の改易により、その地位を失っています。
 ※改易とは、武士に対して行われた処分で、士籍剥奪に加え、禄高や拝領した家屋敷の没収が伴うもの。
 画像:酒井重澄(酒井忠勝)像 public domain
 酒井重澄が改易された理由については諸説ありますが、一説には、重澄が病気療養のために数年間家光の側を離れている間に、正室と側室の双方に子供を産ませていたことが発覚したためといわれています。
 これを知った家光は、「女などにうつつを抜かすとは」と激怒し、重澄を「溺愛していた家臣に裏切られた」と見なして罷免したといいます。
 家光の怒りは凄まじいものだったようです。
 家光に側室を紹介する春日局
 酒井重澄に裏切られ、男色に疲れたタイミングを見計らうかのように、春日局は家光の嗜好を変えるため、多くの側室を家光に引き合わせました。
 その中でも、特に家光の寵愛を受けたとされるのが「お万の方(のちの永光院)」です。
 お万の方は寛永元年(1624年)、公家・六条有純の娘として京都に生まれました。
彼女がかつて伊勢の尼寺・慶光院で院主を務めていたという説がありますが、これは後世に記された『幕府祚胤伝』などの記述に基づくものであり、当時の慶光院の記録や院主の名簿にはその名は見られず、事実としては確認されていません。
 このため、近年では「慶光院の院主だった」とする説には疑義が呈されています。
 ただし、江戸城内に「慶光院殿」と称された一角があったことや、後年のお万の方がどこか中性的な魅力を備えていたと語られてきたことなどから、そうした伝承が後に生まれたものと考えられます。
 いずれにせよ、お万の方は家光の側室となり、他の女性たちとは一線を画す深い寵愛を受ける存在となっていきます。
 家光に芽生えた変化を敏感に察した春日局は「これは、女性に目覚めさせるチャンス」と思ったのでしょうか。
 お万の方を還俗(※)させ、髪が伸びるまで田安屋敷に留めてから大奥入りさせました。
※還俗とは、一度出家した者がもとの俗人に戻ること。
 当時、大奥には春日局が奔走して集めたたくさんの美女がいたのですが、家光はお万の方をことさら寵愛したそうです。
 画像:婚礼の儀 豊原周延 public domain
 子はなさずとも寵愛と信頼を集めたお万の方
 その後、家光は大奥の女性たちとの間に、四代将軍となる家綱、五代将軍となる綱吉など6人の子どもをもうけました。
 しかし、一番寵愛したとされるお万の方との間には、子どもが生まれることはありませんでした。
 お万の方が妊娠しないように不妊薬を飲まされていた、あるいは妊娠しても堕胎薬を使わされていた、という恐ろしい疑惑もあります。
 この背景には、お万の方が公家出身であったことが関係していると考えられています。
「公家の血を引く子が将軍となることで、朝廷が権威を増すのではないかと懸念された」「御台所・孝子との間で公家同士の対立が生じるのを避けた」など、さまざまな説が語られていますが、真実は不明です。
 お万の方は家光との間に子どもを持つことはありませんでしたが、春日局の死後、家光から奥向きの取り締まりを命じられ、大奥の運営を任される立場となりました。(実際には、春日局の姪・祖心尼が握っていたという説もあります)
 お万の方
 画像:お万の方 イメージ ac-illust  cocoanco
 慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去した後、お万の方は他の側室達とは違い、落飾(らくしょく/断髪して位牌とともに残りの人生を冥福を祈り静かに暮らすこと)はしませんでした。
 彼女は「お梅の局」と名を改め、奥女中の最高位である大上臈(おおじょうろう)として再び大奥勤めを始めました。
 家光から深い寵愛と信頼を受けていた彼女は、その後も重要な役割を果たしたとされています。
 明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」(振袖火事)では、家光の側室である丸殿(鷹司孝子)とともに格子川の無量院に避難しました。
 その後、お万の方は晩年を穏やかに過ごし、88歳で亡くなったと伝えられています。
 画像:明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』public domain
 最後に
 男色家だった家光が一目惚れするほど、美少年のような中性的な美貌を持つお万の方は、家光より20歳も年下でした。
 家光との間に子をもうけることは叶いませんでしたが、生涯にわたり家光から寵愛と信頼を寄せられていたといわれています。
 そのせいか、昭和の時代から何度もドラマ化され、多くの俳優が家光とお万の方を演じているのも興味深いところです。
 参考:『徳川の夫人たち 上 新装版 (朝日文庫) 』
 文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
 桃配伝子
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 アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
 神社・仏像・祭り・歴史的建造物・四季の花・鉄道・地図・旅などのイラストも描く、イラストレーターでもあります。
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