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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
姓を持たない身分が低い貧しい庶民は、檀家寺に先祖代々の墓も持たず、家の中に仏壇や位牌さえ置いていなかった。
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仏教寺院である檀家寺は、幕府の命に従い墓を持たない庶民を過去帳(住民登録)で管理していた。
過去帳に名を記載されていない者は、非人間・犯罪者として差別され迫害を受けていた。
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神社仏閣は、幕府や藩の許しを得て領地を持って自活し、時折、将軍・大名、豪農・豪商からまとまった金額の寄進・御布施を受けていた。
坊主は丸儲けであった。
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明治時代の廃仏毀釈は、「260年以上、庶民イジメをしてきた」仏教寺院に対する庶民による怒りの爆発であった。
その意味で、仏教は宗教弾圧を受けた被害者ではなかった。
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徳川幕府は、武士を管理するの為に朱子学儒教を利用し、庶民を支配する為に仏教を利用し、宗教勢力を統制する為に仏教寺院に対して諸宗寺院法度を神社に対して諸社禰宜神主法度を制定した。
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2025年10月5日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「先祖の墓参り=日本の伝統」は大間違い…江戸時代になるまで「遺体を埋めたら終了」だった民俗学的理由
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日本人はいつからお墓参りをするようになったのか。関西学院大学の島村恭則教授は「江戸時代よりも前、一般庶民は今のような墓を持たず、遺体は埋葬地に埋めてそれっきりというケースも少なくなかった。死者の霊は別の人間の霊魂として再生すると考えられていたからだ」という――。
※本稿は、島村恭則『これからの時代を生き抜くための民俗学入門』(辰巳出版)の一部を再編集したものです。
遺骨の埋まっていない場所にお詣りするワケ
両墓制というお墓のあり方があります。これは、遺体を埋めるところ(埋葬地)と、お詣りするための墓(詣り墓)が離れて存在する、近畿地方を中心に分布しているお墓のあり方です。
なぜ、両者が離れているのでしょうか。詣り墓には、石塔が建てられています。この石塔の下には、遺体や遺骨はありません。それは、埋葬地に埋められています。そして、両墓制では、石塔のほうにはお詣りに行きますが、埋葬地のほうにはお詣りに行きません(例外的にお詣りに行く人もいますが、それはあくまで例外です)。
なぜ、行かないのか。埋葬地には、死のケガレ(穢れ)や、それが凝固した凶癘魂があって怖いからです。だから、石塔のほうだけにお詣りに行きます。
この石塔ですが、一般庶民が、死霊を祀るための装置の一つである「墓」として石塔を建てるようになったのは、およそ江戸時代に入る前後からとされています。そこから、今日のように、お墓といえば石塔をイメージするような状況が、次第に形成されていきました。石塔の歴史は、意外かもしれませんが、比較的新しいものなのです。
では、それまでは、どうだったのか。民俗学の研究成果を見てみると、一般庶民の間では、埋葬地に死体を埋めたらもう顧みることはなく、また石塔のような墓標に向かってお詣りするというようなことも行われていなかったのではないかといわれていることがわかります。
「お墓」の歴史は実は意外と新しい
それでもよかったのか? と疑問に感じるかもしれませんが、それでよかったのです。なぜなら、死霊は、すでに死霊が行くべきところ(村境、辻、山、海など)に移動していると信じられていたからです。あるいは、のちに触れるように、もう一度、別の人間の霊魂として再生すると考えられていたからです。そのような状況下においては、石塔はありませんでした。
しかし、その後、石塔が建てられるようになると、今度は石塔にも死霊はやどる(いつもいるかどうかはわかりませんが、少なくともお詣りに行く時にはそこにいる)と考えられるようになりました。
石塔普及の時代が進んでいくと、埋葬地から離れたところに石塔を建てるほか、埋葬された遺体のすぐそばに石塔を建てたり(石塔の真下には遺体を埋めることはできません。遺体が土にかえった時、盛り土が陥没して石塔が倒れてしまうからです)、石塔の真下にカロート(カロウト、唐櫃)と呼ばれる空間を設けてそこに火葬骨を納めたり、ということが行われるようになりました。
最後のタイプが、現代人がイメージするお墓です。このような変遷があるのですが、いずれにせよ、お墓の歴史は、意外と新しいものなのです。
“偉さ”の証拠にお墓が必要だった
とはいえ、そのように説明すると、「いやいや、お墓は、古墳がそうであるように古代からあったではないか」という声が返ってくるでしょう。たしかに、豪族、貴族、わかりやすく言えば「偉い人たち」は、お墓を造りました。お墓を造って、そこに遺体(火葬した遺骨の場合もある)を埋葬しました。
偉い人たちは、自分たちが特権を持っている特別な存在だということを示す必要がありました。その偉さを説明するために、祖先の偉業とその祖先の子孫が自分たちであるということが語られたでしょう。その際、根拠として一種の「証拠」が必要でした。
その証拠が、遺体であり、遺骨だったのです。
もっとも、埋葬されている遺体には、ケガレ(穢れ)があり、また凶癘魂(死霊が凶癘魂化したものも含む)がやどっていると考えられました。だから、遺体は、墳墓の中に閉じ込めておかなければなりません。
閉じ込められた遺体は、どんどん腐敗していきます。そして、白骨になっていくのですが、この白骨化の段階で、ケガレが消滅し、凶癘魂も消滅(もしくは死霊へ回帰)したものと考えられたようです。
そして、白骨には、死とともに死体を離れていたほうの死霊も戻ってきてやどると信じられたようです。白骨にやどる死霊は、カミ(祖霊)として祀られることもありました。なお、火葬の場合は、遺体を焼くことで、この白骨化を一気に進めようとしたものと考えられます。
遺体を顧みることのない庶民も近代まで存在した
ですが、これは偉い人たちの話。一般庶民は、そのようなことはせず、遺体を顧みることはなかったのです。しかし石塔の普及によって、庶民も「お墓」を持つようになっていったと理解することができます。この変化は、およそ中世の終わりから近世期、場合によっては近代にさしかかるまで、地域ごと、また階層ごとに時間差をもって進行していったようです。
なお、ここでは説明を割愛しますが、中世以前にも庶民が「墓」を造っていたというケースもないわけではありません。ただし、本稿では、大原則、あるいは一般論ということで、「庶民は、墓を持たなかった」としておきます。このあたりの細かい議論は、より専門的な民俗学の本に譲るとしましょう。
“死霊”を送り出すのがお葬式の役割
お葬式とは、死体を人びとの生活圏の外(埋葬地や墓)へ移動させるための儀礼です。ただし、単に死体を移動させるだけなら儀礼は要らないはずなのですが、そこに死霊とか、あるいは故人への思い、悲しみが絡んでいるので、儀礼によってそれらを処理しようとするわけです。死体は、適切な処理(火葬を含む)をして、最終的に墓へ持って行く。死霊も、行くべきところに送り出す。これがお葬式です。
お葬式で送り出された死霊は、しかしながら、すぐに移動を開始することは少ないようです(仏教の宗派によっては、即、極楽浄土に旅立つという教えもあります)。亡くなってから49日間は、暮らしていた家のそばにいる。そして、49日目を区切りに、移動すべきところへ向かうとされるのです。
なお、そうして旅立った死霊ですが、毎年のお盆には「祖霊」として私たちのもとに帰ってきます。
死霊のうち、遺体にとり憑くことなく、しかるべき移動先に行ったものは、リサイクルされてもう一度、誰かの母胎にいる胎児にやどり、新たな人間の誕生をもたらすとも考えられてきました。こういう信仰を「再生信仰」と呼びます。
今も「再生信仰」が根強く残る宮古島
沖縄県の宮古島は、こうした再生信仰が根強く残っている島です。先日も、私の知っているある方が亡くなったのですが、その直後にお孫さんのパートナーが妊娠しました。
家族の皆さんは、お腹の中にいる胎児のエコー写真を見て、「この後頭部のところがおじいちゃんそっくりだね」と話していました。おじいちゃんの死霊は、ひ孫の霊魂として再生したのです。そして、その霊魂は、その後、成長してひ孫の人間霊となる。このように信じられているのです。
宮古島や沖縄各地では今でもそうなのですが、新生児の名前(本名、もしくは童名と呼ばれる子どもの時にだけ使われる名前)を、両親それぞれの祖父母など先祖の名前からとるところが少なからずあります。
また、日本全体を見ても同じことがかつて行われていた地域があります。これは、名前を通して、祖先の死霊が新生児の霊魂として再生しているということになるでしょう。
死霊が新生児の霊魂(やがて成長して人間霊になる)として再生する場合、前世での記憶はリセットされているのが原則だと信じられてきました。ただ、先に紹介した、頭の形が似ているというような言い方に見られるように、前世の痕跡がかすかに伝えられていると思われている節もあるようです。
そして、中には、江戸時代の「勝五郎再生譚」(現在の東京都八王子市の村に住んでいた勝五郎という少年が、自分は隣村で死んだ別の少年の生まれ変わりだとして前世の記憶を語った話。その内容が、実在のシチュエーションと一致することから大きな話題となった)のように、前世の記憶をはっきり持って生まれてきたとされるケースもまれにはあったようです。
こうした再生譚は、現代でも時々語られていて、それらは、民話研究家の松谷みよ子さんによって一冊の資料集(『あの世へ行った話・死の話・生まれ変わり』立風書房)にまとめられています。
なぜ火葬場では骨を箸と箸で挟むのか
死霊の再生には、ほかにもいくつものパターンがありました。ここでは、「骨噛み」と「四十九日餅」の例を挙げておきます。火葬場では、火葬された遺骨を遺族が箸と箸で挟んで骨壷に入れる「骨揚(こつあ)げ」と呼ばれる儀礼が行われます。
普段の食事の時に、箸から箸へおかずを渡す「箸渡し」は、行儀が悪いこと、あるいは縁起が悪いことだとして叱られた経験はないでしょうか。日常の食事の作法として、箸渡しがタブー視されるのは、火葬場での骨揚げを連想させるからです。
マナー講師だったらそこで説明はおしまいですが、民俗学はさらにもう一歩踏み込んで考えます。そもそもなぜ、火葬場で骨を箸と箸で挟むのでしょうか。これを見抜いたのも、民俗学者・折口信夫でした。折口は、昔は骨揚げの時に骨を噛んでいたはずだと考えたのです。
遺骨を噛むのは歴史的に見れば珍しくない
亡くなった人の骨を噛む「骨噛み」という慣習は、日本各地で報告があり、かつては広く行われていたものと推測されます。その骨噛みのやり方が、箸で骨をつまみ、少し噛んだら次の人に箸と箸で渡すというものだったようです。
火葬された骨には、人体から離脱した死霊の分霊(分割された死霊)がやどっており、これを体内に摂取する行為が「骨噛み」です。現在、「骨噛み」は一般的な慣習とはいえませんが、それでも、感極まった遺族が遺骨を食べたとか噛んだとかいう話は、まれに聞くことがあります。
また、任侠の世界では、組長が亡くなった際、火葬場で組員が組長の骨を噛むことが行われるという話も聞きます。任侠の世界には、まだ「骨噛み」が残っているのかもしれません。
50個に分けた餅を食べる葬送儀礼
また、「四十九日餅」というものがあります。人が亡くなった後の49日法要の時に作られる餅のことです。49個の小さな餅と1個の大きな餅、合計50個の餅を作ります。民間でも様々な説明がされていますが、民俗学的に解釈すると、この1個の大きな餅は、亡くなった人の死霊そのものを表していると考えられます。
また49個の小さな餅は、亡くなった人の死霊を49個に分割したものです。49という数字は、仏教の四十九日にかけて決められたと考えられます。
遺族たちは、この49個の餅を食します。餅を食べることで、亡くなった人(の死霊)が遺族の内部に取り込まれるというのがもともとの考え方だったと推測されます。これも、死霊の再生の一つのあり方といってよいでしょう。
分割された故人の死霊を遺族――子どもや孫たち――が食べる。故人(死霊)は、そのようなかたちで、遺族の中に再生するのです。「再生信仰」の一つです。
なお、49個の餅と共に作られた大きな一つの餅のほうは、お墓やお寺に置いてきます。こちらには、分割された49個とは別の、本体の死霊がやどっており、こちらの死霊は、村境、辻、山、海、墓、あるいは仏教の教えに従えば極楽浄土など、行くべきところに行くことになります。
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