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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2025年10月1日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「新宮家「三笠宮寛仁親王妃家」が創設される一方で、“皇位継承”を支えながらも戦後に皇籍離脱となった「旧宮家」とは?
宮家の歴史とは
皇居の二重橋
■11宮家のルーツとなった伏見宮家の家系
11宮家の始祖ともいえる幕末の伏見宮邦家(ふしみのみやくにいえ)親王には、早世をふくめ17人の男子がいた。その多くが親王となり、近代宮家の核となった。なかでも第4男子の朝彦親王はのちに久邇宮(くにのみや)の祖となり、その子孫もまた賀陽宮(かやのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)などを継いだり興したりした。邦家親王の男子はほかにも北白川宮(きたしらかわのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、山階宮(やましなのみや)などを継承し、北白川宮から竹田宮(たけだのみや)が派生した。今日、若い男系男子がいると話題にされる賀陽、竹田、東久邇などの各家は、こうした伏見宮系皇族の末裔たちであった。
近代の伏見宮系皇族の始祖ともいえる邦家親王は、伏見宮家系図では第20代当主となる。そして孫の博恭王(邦家親王の子は親王だが、孫は親王ではなく王)が第23代当主となった。博恭王は昭和21年(1946)8月に亡くなり、博恭王の孫の博明王が第24代となり昭和22年10月に皇籍を離脱して宮号の伏見を姓とした。
■皇位継承と不可分な世襲親王家の成立
伏見宮家はいわゆる4親王家のひとつであった。親王は元来、天皇の1世、つまり天皇の皇子、皇女と兄弟姉妹を称する号で(女子は内親王)、皇位継承の順位が高いことが暗に示されている。親王の子は王となり王の子は王だが、5世を越えると皇族(当時は皇親と称した)ではないという原則もあったため、天皇の子でも誰もが皇位継承をできたわけではないし、王でも天皇からの親等が遠く離れれば皇族でなくなった。
第52代の嵯峨天皇は50人を超える子があり、身分の高い母親から生まれた皇子・皇女を勅許にて親王・内親王とし、ほかは源朝臣姓を賜って一般臣下とすることとし、以後、皇子・皇女が親王・内親王と称するには親王宣下が求められ、それ以外は源氏や平氏などの姓を賜り一般臣下となるようになった。
この親王宣下を1代だけでなく2代以上に賜るようになったのが世襲親王家であり、これらの世襲親王家の設立は、皇位継承問題と不可分の関係にあり、皇統継承のための重要な役割が期待された。
そして今から600年以上前の南北朝時代に生まれ、その後も長く続いた世襲親王家が伏見宮家であった。その間、第3代貞成(さだふさ)親王の子である彦仁(ひこひと)王が第102代後花園天皇になるなど皇位継承に関わった。
4親王家はほかに桂宮、有栖川宮、閑院宮があり、なかでも閑院宮家は江戸中期に新井白石の進言で創設されたもっとも新しい親王家である。伏見宮はじめ桂宮、有栖川宮はすでに天皇家との血縁が遠くなり、より天皇家との血縁関係が近い親王家の創設が求められたのである。
閑院宮家初代は第113代東山天皇の皇子である直仁(なおひと)親王であり、南北朝時代に祖を求める伏見宮家より天皇家との血筋は近かった。そして、閑院宮家第2代当主の典仁(すけひと)親王の王子の兼仁(ともひと)王が皇統を継承して第119代光格(こうかく)天皇となった。
監修・文/小田部雄次
『歴史人』2024年10月号「天皇と皇室の日本史」より
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10月2日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「新宮家「三笠宮寛仁親王妃家」が創設!太平洋戦争敗戦時には責任を取るために皇族自身が「皇籍離脱」を提唱していた─11宮家の臣籍降下の真相─
臣籍降下の決意を表明した東久邇宮稔彦王。(国立国会図書館蔵)
■日本国憲法の成立と新たな皇室典範の制定
日本国憲法の公布は昭和21年(1946)11月3日であり、その半年後の翌年5月3日に施行となった。この日本国憲法公布から施行の時期に新たな皇室典範も制定された。この新皇室典範制定の動きは芦部信喜・高見勝利編著『日本立法資料全集1 皇室典範』に詳しい。
そもそも戦争終結直後、天皇の存続の可否は不透明であったが、昭和21年2月に連合国総司令官ダグラス・マッカーサーは天皇制廃止を推進する国際世論への封じ手として「天皇は、国の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本意思に応えるものとする」方針を示した(マッカーサー・ノート)。
さらに総司令部は、皇室典範は国会によって制定されるべきだとの見解を示した。つまりかつては憲法と同格であり、皇室の家法として位置づけられ、その制定や改正などで議会や国民の関与が許されなかった皇室典範(旧)が、国会や国民の意思によって制定や改正ができる一般法と同等の扱いになったのである。この結果、新皇室典範は総司令部の意向を踏まえ、衆議院と貴族院、枢密院での議論のなかで、条文が整えられていった。
この議論のなかで皇族の範囲については、臨時法制調査会での立案作業の際に、皇弟の秩父、高松、三笠の三宮のほかに、山階・賀陽・久邇・梨本・朝香・東久邇・竹田・北白川・伏見・閑院・東伏見の11宮51人の皇族がいた。しかし、皇室財政に対する総司令部の厳しい姿勢もあり、これら11宮51人の「臣籍降下」は必至であり、典範の立案作業もこれら11宮の「臣籍降下」を前提として進められた。
■皇族たち自身による「臣籍降下」提唱
一方、すでに皇族側からの臣籍降下の意思表示もあった。昭和20年11月10日、首相を辞任したばかりの東久邇宮稔彦王は、新聞記者を麻布の仮御殿に招き、臣籍降下の決意を表明した。稔彦王は、敗戦の道義的責任を明らかにするため、皇族の特遇を拝辞して平民となり、天皇や国民にお詫びするという趣旨を述べ、「秩父宮、高松宮、三笠宮の三宮家に限り、あとは臣籍に降下したらよいと思ふ」と11宮家の臣籍降下を提唱した(『朝日新聞』1945年11月11日)。
弟宮であった高松宮も昭和21年5月24日の日記にこう書いた。「陛下がほんとに皇族と一緒にやつてゆくと云ふ御決心がこの際はつきりせねば、臣籍降下のほかなかるべし」。天皇は弟宮や11宮家をどう処遇するのか、明確な判断を出せないでおり、高松宮はそうした天皇の態度に「臣籍降下」せざるをえないと憤慨したのである。
こうして同年7月、天皇皇后はじめ各皇族が出席する皇族会が開かれ、三笠宮などを中心に「かつてない議論がたたかはされた」。竹田宮恒徳は「降下は易いが、国家存亡の際、われわれ皇族には皇族として何か御奉公すべき道があるのではないか」との意見を漏らした。
結局、11宮家は「現皇室とのつづきがらは相当離れたもの」という「皇室の血縁関係」や、「いまの各皇族が品位を保たれるに充分な国庫支弁はむづかしからう」という「経済上の問題」などが、臣籍降下の理由としてあげられた。そして『朝日新聞』(1946年9月1日)は、天皇からは臣籍降下を言いにくいから、皇族の発意に基づくことが妥当であると論じた。
しかし、皇族の発意ではなく、同年11月29日に天皇から11宮家に臣籍降下を伝える形となった。梨本宮守正王の妃であった伊都子(いつこ)の残した日記には、こうある。
「天皇陛下出御(しゅつぎょ)。一同に対し、此の時局に関し申しにくき事なれども、私より申し上ますと仰せられ、生活其他に付、皇室典範を改正になり、色々の事情により直系の皇族をのぞき、他の十一宮家は、此際(このさい)、臣籍に降下してもらい度(たく)、実に申しにくき事なれども、何とぞこの深き事情を御くみとり被く だされた下度いと、実に恐れ入りたる御言葉。」
なお、日本国憲法公布により「臣民」概念はなくなり、「臣籍降下」は「皇籍離脱」と称されるが、当時の天皇や皇族の「市民」認識の一端が感じられるので、当時の表現のままにした。
監修・文/小田部雄次
『歴史人』2024年10月号「天皇と皇室の日本史」より
歴史人編集部
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2022年4月18日 nippon.com「皇位継承で注目される「旧宮家」とは(前編):「もう一つの天皇家」の歴史をひもとく
皇室
斉藤 勝久 【Profile】
男系男子による皇位継承の維持を選択した政府の有識者会議。「旧宮家の男系男子の皇族復帰」案が、皇族数の確保策として初めて明記されたことで、旧宮家が注目されている。かつて天皇家に跡継ぎがない時には宮家から天皇を出し、明治維新以降も、天皇の皇女(内親王)の嫁ぎ先になり、皇后の生家にもなった。戦後に11宮家51人が皇籍離脱して一般国民となったが、「もう一つの天皇家」とも言われる旧宮家の歴史を連載でたどる。
南北朝時代から600年以上続く伏見宮家
1964年秋の東京オリンピックの直前に、当時、東洋一の規模を誇る国際ホテルとして都心(千代田区紀尾井町)にオープンした「ホテルニューオータニ」。ここに旧宮家の「伏見宮(ふしみのみや)」家の広大な邸宅があった。約7ヘクタールで、東京ドームの面積の1.5倍にもなる。同ホテルの庭園にその名残りをとどめている。
旧宮家の中でも最も古く、宗家とされる伏見宮家は、南北朝時代の北朝3代崇光(すこう)天皇の第一皇子栄仁(よしひと)親王(1351-1416)を祖とし、600年以上続く。現在の当主は戦後の皇籍離脱を体験した第24代、伏見博明氏(90)。
伏見宮家は代々、天皇または上皇の養子あるいは猶子(ゆうし=実の親子でない二者が親子関係を結ぶ時の子)となる「親王宣下(せんげ=天皇の命令)」を受けて、特別に親王の地位が与えられ、宮家を世襲する「世襲親王家」となった。その後に同じような世襲親王家(桂宮=かつらのみや、有栖川宮=ありすがわのみや、閑院宮=かんいんのみや)が創設され、江戸時代には四親王家と呼ばれた。
天皇の継承者がいない時は宮家から新帝
その役目は、天皇家の血筋を絶やさないことで、もし天皇家に継承者がいない場合は世襲親王家から新帝が選ばれた。また、宮家に跡継ぎがいない時は、天皇の皇子を迎え入れて、お互いの存続を図ったのである。
室町時代中期の102代後花園天皇(在位1428-1464年)は伏見宮家の初代、栄仁親王の孫であり、同天皇の弟が伏見宮家を継いで4代目となった。また、伏見宮家17代は、江戸時代中期の116代桃園天皇の皇子で、天皇家と深いつながりがあったことが分かる。
江戸中期の学者で政治家でもあった新井白石は、皇統の断絶を心配して、徳川家の御三家のように、朝廷にも新たな宮家が必要と将軍(6代徳川家宣)に進言し、4番目の世襲親王家となる閑院宮家が1710年に創設された。家祖は113代東山天皇の皇子。
新井白石の進言が間もなく生きて、閑院宮家2代目の子、兼仁(ともひと)親王が119代光格(こうかく)天皇となった。先帝の遺児である当時1歳の内親王をお妃にする構想から、世襲親王家の中で9歳の天皇が選考された。光格天皇の在位は37年に及び、その皇統が今日の皇室に一直線でつながるので、光格天皇は「現皇室の祖」と呼ばれることもある。
伏見宮系皇族の隆盛を生んだ第20代、邦家親王
世襲親王家に生まれても、誰もが皇族になれたわけではなく、上記の親王宣下を受けた方が皇族となった。これは、親王が天皇の兄弟や子であるという原則を守るためで、血縁とは別の社会的な縁を作るためだった。宮家の子弟の多くは、格のある寺院の門跡(住職)となった。
江戸後期になると、伏見宮家第20代、邦家親王が50人は下らないという子宝に恵まれて、明治期以降に伏見宮系皇族が隆盛するきっかけを作る。勧修寺(かじゅうじ)、青蓮院、仁和寺、輪王寺、知恩院などの門跡宮となっていた息子たちが、王政復古の前後に次々と還俗(げんぞく=僧侶になった者が俗人に戻ること)して、伏見宮家に復籍してきたのである。明治維新の中心人物で公家出身の岩倉具視らが、朝廷と仏教を切り離すことや、新政府で皇族(宮様)の新たな活躍を期待したためという。
復帰した伏見宮家の息子たちは、寺院の名を捨て新しい宮号になった。山階宮(やましなのみや)、賀陽宮(かやのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、華頂宮(かちょうのみや)、北白川宮(きたしらかわのみや)……。当初は本人限りの「一代宮」とされていた。
後継者がいなかった閑院宮家も、邦家親王の第16王子が還俗して継いだ。後に元帥陸軍大将となる閑院宮載仁(ことひと)親王である。
久邇宮家から昭和天皇の皇后
邦家親王の王子の中で特筆すべきは、第4王子の朝彦(あさひこ)親王だ。朝彦親王は幼少の頃に出家し、青蓮院門跡となったが、政治活動に加わって安政の大獄に連座し、蟄居(ちっきょ)の処分を受けた。その後、還俗して、中川宮、賀陽宮と宮号を変える一方、徳川慶喜(15代将軍)に接近して討幕派に敵対視される。王政復古の際には親王の位をはく奪され、幽閉された。明治3年、伏見宮家に復帰が許され、同8年に久邇宮(くにのみや)の宮号をもらい、新たな宮家が誕生する。
朝彦親王には18人の子(うち男子9人)がおり、久邇宮家のほかに梨本宮家を継ぎ、3つの宮家を創設した。朝彦親王の第3王子で久邇宮家を継いだ邦彦王の長女、良子(ながこ)女王が、大正13年(1924年)に皇太子(昭和天皇)と結婚。香淳皇后である。
朝彦親王の長男の邦憲王は健康上の問題で久邇宮家を弟に譲ったが、その後に健康を回復して結婚するに際し、父の元の宮号である賀陽宮家を創設した。
朝彦親王の第8王子の鳩彦(やすひこ)王は、朝香宮(あさかのみや)家を創設し、明治天皇の第8皇女、允子(のぶこ)内親王と結婚する。鳩彦王は子供たちに、「ある日、明治天皇に呼ばれて、『お前に富美宮(允子内親王)をやる』と言われた。うちは内親王と結婚するために作られた家だから、私一代で皇族は終わりでいいんだ」と話していたという。
朝彦親王の第9王子の稔彦(なるひこ)王も東久邇宮家を創立し、明治天皇の第9皇女、聡子(としこ)内親王と結婚した。後に首相となるが、後編に詳述する。
また、前述の伏見宮邦家親王の子が創立した北白川宮家と、同宮家2代の第1王子が創設した竹田宮家に、明治天皇の2人の内親王が嫁いでいる。
明治から男子皇族は軍人に
1889(明治22)年に発布された皇室典範(旧)で、一代皇族などの区別が廃止され、皇室の基盤を確立するため、天皇・皇族の子孫は永世にわたって皇族となる「永世皇族制」が採用された。伏見宮系の宮家は枝分れをして分家が増え、また四親王家の一つ、桂宮家が廃絶するなどして、明治の末には13の宮家を数えた。宮家が増えた理由には、病弱だった皇太子(後の大正天皇)の皇位継承問題を心配した明治天皇の判断もあったと言われる。
しかし、皇族の増加に伴い、皇室経済の問題が生じてきたので、皇族の範囲を天皇の血筋に近い者に限定するため、1920(大正9)年、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された。天皇家を除き、当時の皇族(宮家)は崇光天皇の16世孫の伏見宮邦家親王の子孫だったため、同準則をそのまま適用すると全員が皇籍離脱となる。そこで特例として、各宮家の長男の系統のみ、邦家親王から4世(玄孫=やしゃご、孫の孫)までは皇族とするが、それ以外の皇族は華族とする規定を定めた。これにより、十数人の皇族が終戦までに皇籍を離れた。
一方、明治から男子皇族には、陸海軍の軍人となることが義務付けられたので、大将ら多くの皇族軍人が生まれた。伏見宮家の22代貞愛(さだなる)親王が大正期の元帥陸軍大将、23代博恭(ひろやす)王は昭和期の元帥海軍大将で海軍の実力者だった。しかし、太平洋戦争が始まると、宮家の広大な邸宅は伏見宮家のように空襲で焼失するものも少なくなかった。
戦中期の1943年10月、昭和天皇の長女、照宮成子(しげこ)内親王が東久邇宮家に嫁いだ。同宮家は30年足らずの間に、2人の皇女を迎えることになった。
やがて敗戦と共に皇族の運命が大きく変わり、その大半が皇籍離脱の日を迎えることになる。
(後編に続く)
※参考図書名は、後編にまとめて掲載します。
バナー写真:国の重要文化財に指定されている旧久邇宮邸(聖心女子大学)=東京都渋谷区(PIXTA)
斉藤 勝久SAITŌ Katsuhisa経歴・執筆一覧を見る
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。近著に『占領期日本三つの闇 検閲・公職追放・疑獄』(幻冬舎新書)。
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4月19日 nippon.com「皇位継承で注目される「旧宮家」とは(後編):戦後も続く皇室とのつながり
皇室
11宮家51人が戦後に皇籍離脱してから今年で75年。敗戦の混乱の中で一般国民となった旧宮家の人々と、その子孫は、戦後も皇室の親族らが集まって「菊栄(きくえい)親睦会」を開いたり、皇室行事や宮中祭祀(さいし)などに参列したりして、皇室とのつながりを保っている。現皇族が減り続ける中で、「旧宮家の男系男子の皇族復帰」の日は来るのか――。
終戦直後に初の皇族内閣
1945年8月15日、終戦の玉音放送の後、鈴木貫太郎内閣は総辞職したが、日本の難局は続いた。不穏な動きを見せる軍部、特に陸軍を抑え、終戦を成し遂げるため、昭和天皇はかねてから、後継の内閣総理大臣を決めていた。
陸軍大将にして、皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王である。前編で述べたように、明治天皇の第9皇女と結婚し、また2年前には昭和天皇の長女が嫁いだ東久邇宮家の当主になっている。子どもの頃からわんぱくで、「やんちゃ殿下」として知られたが、対米、対中戦争には批判的だった。
東久邇宮は、皇族が政治に関与することに反対で首相就任を固辞したが、終戦を決意した昭和天皇のやつれた様子を見て、決断する。日記にこう記した。
「この未曾有の危機を突破するため、死力をつくすことは日本国民の一人として、また、つねに優遇を受けてきた皇族として、最高の責任であると考えた」
昭和天皇は、終戦を前例のない「皇族内閣」で乗り切るしかない、というお考えだったと言われる。昭和天皇は玉音放送の翌日に軍人皇族を呼び、天皇の特使として外地の日本軍に終戦を伝達するため、朝香宮(あさかのみや)を支那派遣軍に、竹田宮(たけだのみや)は関東軍と朝鮮軍に、閑院宮は南方総軍に派遣した。
首相になった東久邇宮は「全国民が総懺悔(ざんげ)するのが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を訴えた。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)が内務大臣、内務省の警察部門(警保局)幹部の罷免などを命じてきた。「総理大臣宮」は突然の“内政干渉”に抵抗の意地を示し、在任わずか54日間で総辞職した。
GHQからの皇室への脅し
この年の12月、GHQから戦犯の逮捕命令が出て、元帥陸軍大将だった梨本宮(なしもとのみや)がA級戦犯容疑で戦犯を収容した拘置所、巣鴨プリズンに入った。戦勝国側の皇室への脅しとも捉えられたが、4カ月ほどで不起訴となり、釈放された。
1946年1月、GHQの指令により、軍国主義者、戦争協力者、軍人らを対象とする「公職追放」が始まって間もなく、衝撃的な記事が新聞に載った。昭和天皇の弟宮3方(直宮)をはじめ、東久邇前首相ら皇族15人が追放指定者に含まれるという内容だ。終戦までの男子皇族は軍歴があったためだが、この時は皇族の公職追放が見送られる。
GHQはさらに、皇室の財産にメスを入れてきた。各皇族の全財産の調査を命じ、最高税率を90%まで引き上げた財産税がかけられることになる。昭和天皇の財産は約37億円(現在の貨幣価値だと百数十倍という)と算出され、その9割が財産税として国有財産となってしまう。旧宮家の宗家と言われる伏見宮(ふしのみや)家は、直宮家以外の11宮家で3番目の、792万円の資産があったが、債務などを引いた額の85%の財産税をかけられることになった。
日本国憲法が公布された同年11月、昭和天皇は直宮を除く宮家の皇族を集め、「臣籍降下(皇籍離脱)のやむを得ざる事態」について説明した。憲法には第88条「すべて皇室財産は、国に属する」と明記され、皇室にはもう11宮家を支える経済力がなくなったのである。
11宮家の皇籍離脱でも皇位継承に心配なしと判断
そして翌47年10月、初めての皇室会議が開かれて、11宮家51人の皇籍離脱を決定した。会議の片山哲議長(首相)はこう説明した。
「皇籍離脱の御意思を有せられる皇族は、後伏見天皇(第93代、即位1298年)より20世から22世を隔てられる方々でありまして、今上陛下(昭和天皇、第124代)とは、男系を追いますと四十数世を隔てておられる。これらの方々が、これまで宗室(天皇本家)を助け、皇族として国運の興隆に寄与した事績は、まことに大きいものでありましたが、戦後の国内外の情勢、とりわけ新憲法の精神、新憲法による皇室財産の処理及びこれに関連する皇族費等諸般の事情から致しまして、この際これらの方々の皇籍離脱の御意思を実現することが適当であると考えられるのであります」
「皇位継承の御資格者としましては、現在、今上陛下に2親王(現上皇さまと常陸宮さま)、皇弟として3親王(直宮)、皇甥(こうせい)として1親王(三笠宮寛仁親王)がおわしますので、皇位継承の点で不安が存しないと信ずる次第であります」
皇籍離脱する宮家皇族には26人の皇位継承者がいたが、当時は天皇家、直宮家に合わせて男子6人の皇位継承者がいるから、血縁の遠い11宮家を皇室から離しても心配はない、と政府は判断していたのである。
同じ日に皇室経済会議も開かれ、皇籍を離れる51人中、軍籍にあった11人を除く40人に一時金として、当主には210万円、それ以外の王は約145万円などとして、合計4747万余円の支出を決めた。
昭和天皇は皇室会議から数日後、皇籍離脱した元皇族との晩さん会であいさつした。
「従来の縁故は今後においても何ら変わるところはないのであって、将来ますますお互いに親しくご交際をいたしたいというのが、私の念願であります。皆さんも私の気持ちをご了解になって、機会あるごとに遠慮なく親しい気持ちでお話にお出でなさるように希望いたします」
邸地の“売り食い”で暮らす
皇族から国民となった旧皇族には生活の大きな変化が待っていた。15歳で皇籍離脱した伏見博明さん(90歳、伏見宮家24代当主)は著書で、こう述べている。
「払ったこともない莫大な税金(前記の財産税)を払わなきゃならないし、(皇籍離脱に際しての)一時金(伏見宮家は約464万円)なんて一方的に決められたけれど、あっという間になくなってしまいます。だから、元皇族の家は(邸地の)“売り食い”で暮らしてきた。うちの土地はニューオータニになりましたし、竹田宮は現グランドプリンスホテル高輪。でも、宮内省の土地に住んでいた宮さまもいた。例えば賀陽さんは本当に生活に困っていました」
「他にも、慣れない商売を始めて財産をなくしてしまった家もありますし、悪い人に騙(だま)された家もあります」
伏見宮家の邸地に建設されたホテルニューオータニ(PIXTA)
東久邇宮家も波乱に満ちた戦後を歩んだ。元首相は皇籍離脱の直後に、他の軍籍があった旧皇族10人と同様に公職追放となった。新宿の闇市に食料品店(乾物屋)、喫茶店、宮家の所蔵品を売る骨董(こっとう)屋などを始めたが、ことごとく失敗した。ついには新興宗教「ひがしくに教」の教祖になったこともあった。
長男の盛厚(もりひろ)王は、終戦の翌年、30歳を前にして東京大学を受験するが不合格となった。当時、皇族の不合格は、時代の変化を感じさせた。皇籍離脱後に、もと陸軍将校だったことから父同様に公職追放となる。民間人となり、聴講生として東京大学に学び、会社勤務となった。
盛厚王と結婚したのが、昭和天皇の長女成子(しげこ)内親王である。苦しい家計を助けるため、内職をして、商店街のセールに並ぶこともあったという。雑誌に載った「やりくり暮らしの苦労のかげに、はじめて人間らしい喜びを味わう事ができる」という手記が、話題にもなった。しかし、こうした生活の変化が災いしたのか、35歳の若さで5人の子どもを残し、がんで亡くなった。昭和天皇ご夫妻は深い悲しみの中で、目下の人の葬儀に参列しないという慣例を破り、第1子だった愛娘の葬儀に参列した。
皇室復帰に応じる旧皇族はいるか
旧皇族は民間人として再出発したが、皇室とのつながりは完全に切れたわけではない。戦前には「皇族親睦会」があったが、11宮家の皇籍離脱で解散となり、代わって皇族と旧皇族の親睦のため、「菊栄親睦会」が結成された。数年に1度開催され、最近では2014年に天皇陛下(現上皇さま)の傘寿(80歳)のお祝いのため、赤坂御用地で開催された。
また、旧皇族は、天皇誕生日や新年の行事、宮中祭祀などに出席している。昭和天皇の大喪の礼にも参列した。元皇族の“序列”は皇族の後で、国民の代表である首相、国会議員らの前に位置する。
旧皇族の皇室復帰案が登場する中で、当事者である旧宮家の人たちはどう考えているのだろうか。昨年3月の参院予算委員会で、当時の加藤勝信官房長官は旧皇族や子孫ら当事者の意向確認について「そうした皆さんに確認したことはないし、していく考えはない。これは変わらない」と答弁している。これでは、旧皇族の中に皇室復帰に応じる人がいるかどうか、わからない。
このような中で、前述の伏見博明氏が皇室復帰について、最近の著書で重く熱い言葉を述べている。
「天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、もう従わなきゃいけないという気持ちはあります」。だが、「人は急に宮さまになれと言われて、なれるものではない」
旧皇族として、天皇陛下から命があり、皇室のために役に立つなら復帰も考えねばならないが、民間人となって既に75年が経つ。復帰の対象とされる旧皇族の子孫の若い世代は、生まれた時から普通の国民として育っているから、いきなり皇族になることを求められても、無理がある。90歳の伏見氏は、そんなことを言いたかったのではないか。
「男系男子」の皇位継承を維持するため、血縁は近くないが、皇室とつながりのある旧皇族の子孫を皇室に迎え入れるか、天皇陛下に近い女性が将来の天皇になるか、その選択の日が来るのかもしれない。
バナー写真:東久邇宮内閣が成立し、親任式を終え記念撮影に臨む東久邇宮首相(最前列)と閣僚=1945年8月17日、首相官邸(共同)
※参考文献:『昭和天皇実録第十』(宮内庁)、『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(伏見博明著、中央公論新社)、『皇族』(広岡裕児著、読売新聞社)、『占領期』(五百旗頭真著、講談社)
斉藤 勝久SAITŌ Katsuhisa経歴・執筆一覧を見る
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。近著に『占領期日本三つの闇 検閲・公職追放・疑獄』(幻冬舎新書)。
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2024年2月19日 週刊エコノミスト Online サンデー毎日「皇籍離脱に反対したGHQ「占領軍指令説」の誤謬 社会学的皇室ウォッチング!/103 成城大教授・森暢平
11宮家が皇籍離脱した4日後、赤坂離宮でお別れの宴が開かれ、記念撮影する旧皇族たち(1947年10月18日)
これでいいのか「旧宮家養子案」―第5弾―
旧宮家皇族たちは、連合国軍総司令部(GHQ)によって皇籍離脱させられた―。この「GHQ指令説」は「事実」であるかのように拡散されている。この説は「(だから)旧宮家の子孫は皇族に復帰する資格がある」という、「旧宮家養子案」派の主張につながる。だが、歴史の細部を見ないこうした主張は乱暴である。実は日本政府のほうが離脱に積極的で、GHQがそれにストップをかけていた事実もあるからだ。(一部敬称略)
昭和天皇の弟宮である秩父、高松、三笠の3宮家を除く伏見宮家など11宮家51人が皇籍離脱(臣籍降下)したのは、1947(昭和22)年10月14日。三笠宮家の故寬仁(ともひと)が、この皇籍離脱について「GHQの圧力で皇室弱体化のため」だったとの見解を示す(『文藝春秋』2006年2月号)など、「GHQ指令説」は人口に膾炙(かいしゃ)する。しかし、実際はどうだろう。
敗戦3カ月後の45年11月11日、『毎日新聞』が東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)らが「臣籍降下」を決意したと報じる。東久邇宮はさらに注目すべき内容を『毎日』記者に語った。
「皇族の範囲を極めて小範囲に限定すべきで、例えば、秩父宮、高松宮、三笠宮様のように陛下の御肉親のみに限定して、その他の皇族は臣籍に降り、一国民として仕え奉るのがよいと思う」
自身を含め伏見宮系11宮家は臣籍に降下することを提案したのである。11宮家の離脱を最初に言い出したのは、東久邇宮であることは疑う余地はない。
一方、GHQは46年5月21日、日本政府に対し「皇族に関する覚書」を発し、宮家への歳費を打ち切るとともに、特権剥奪を指令した。これにより宮家皇族の資産に対して高率の財産税が課されることになった。これを機に46年夏ごろから、宮内省は宮家の皇籍離脱を具体的に検討し始める。
実はGHQは「国民の意思によって、国会により歳費を貰(もら)うならば、異議はない」という意向を宮内省に示した(宮内省の次官、加藤進による臨時法制調査会第一部会小委員会での説明)。皇室歳費の議会による民主統制を強調しているのだ。皇族の範囲は議会、つまりは国民が決めるべきという態度である。
枝葉を刈るという発想 昭和天皇も推進
これに対する宮内省の考えははっきりしていた。
「各皇族が品位を保たれるに充分な国家支出をなすことは困難と考えられ、皇族方の共倒れを救う一つの道は臣籍降下である」(外務省「皇室に関する諸制度の民主化」)とするものだ。大きな幹を残すために「枝葉を刈る」という発想だった。
離脱の範囲も日本側が検討した結果である。宮内省秘書課長だった高尾亮一はのち「皇族籍を離脱する線と申しますのは、非常にはっきりしておりました(略)一線をどこかに引かなくてはならないとすれば、ここの線(11宮家の離脱)以外には方法がみつからないという事情にあった」と証言する(「憲法調査会第三委員会第三回会議議事録」)。
皇籍離脱の情報を知った民政局次長のケーディスは11月5日、法制局次長の佐藤達夫に、「現在の皇族のある方が臣籍に降下せられるとゆうことであるが、それは何時(いつ)、如何(いか)なる方法で決定せられ、又(また)如何なる理由によって決定せられたのか(略)別に反対があるわけではないが色々質問したいので近く宮内省の代表者にでも説明を聞きたい」と述べた(「内閣法関係会談要旨(第一回)」国立公文書館アジア歴史資料センター収録)。皇籍離脱に走る宮内省に説明を求めたのである。
昭和天皇は11月29日、皇族たちに対し、「色々の事情より直系の皇族をのぞき、他の十一宮は、此際(このさい)、臣籍降下にしてもらい度(たく)」「時期は来年(47年)一月末か二月頃がよかろう」と通告した(『梨本宮伊都子妃の日記』)。昭和天皇も宮内省と一体となって宮家の皇籍離脱に動いた。昭和天皇が皇籍離脱を迫るGHQに抵抗したと主張する人がいるが、そうした史実は全くない。
新憲法施行前の離脱に待ったを掛けたGHQ
宮内省は46年末、旧皇室典範増補を改正しようとする。なぜなら、戦前の規定では、内親王が単独で皇籍離脱ができないためだ。そのままでは夫を亡くした明治天皇の内親王、北白川宮房子が離脱できない。12月27日に改正がなった。
宮内次官の加藤は46年12月27日、GHQ民政局のピークに対し、宮家皇族は日本国憲法施行の5月3日以前の離脱を切望していると述べた。宮内省は離脱を急ぐ一方、資産を失う11宮家のために離脱一時金を支給し、宮家の財政を支えるという戦略をとった。これにGHQは疑問を持った。民政局のリゾーは、日本側は「この日(5月3日)の後では、一時金支出の問題が国会の総予算の議事手続きに巻きこまれるかもしれない」という危惧があるからこそ、急いでいるとみた(『占領期皇室財産処理』)。
GHQは、宮家が離脱するなら、帝国議会の審議を経るべきだとの意見を伝えた。日本政府がそのために用意したのが、「皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案」である。47年3月7日、閣議で決まった。ところが、民政局は3月10日、法律案を承認しない旨を連絡した。宮家への歳費打ち切りを指令した前年5月の覚書との不整合を極東委員会で指摘されるのを恐れたと考えられる。法制局部長の井出成三は3月11日、民政局に出向き、「既に五月三日以前に臣籍降下せられる様、諸般の手続を進めて来て居るので、今になって一時金の支給が不可と言うことでは困る」と抗議した(『日本立法資料全集』7)。結局、予定の日程での離脱はできず、新しくできた国会で一時金の額などの議論がなされた。離脱の実現は新憲法成立の5カ月後になった。
「旧宮家養子案」を支持する人たちは、旧皇族たちが新憲法下でも皇族の地位にあったと主張する。しかし、野に降りることが確実な旧宮家皇族に、現実の継承権があるとは当時、誰も考えていなかった。逆に言えば、旧皇族が新憲法下でも継承権があったと主張できるのは、実はGHQが5月3日以前の離脱に「待った」をかけたお陰なのである。
(以下次号)
本稿執筆にあたって、神崎豊「一九四七年一〇月における一一宮家の皇籍離脱」(『年報日本現代史』11号、2006年)を参照した
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
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