💖51)─1─戦死・餓死・病死した兵士の遺骨の収集活動。宗教的戦没者供養。天皇の慰霊祭祀。〜No.189No.190 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2025年8月24日 YAHOO!JAPANニュース まいどなニュース「野口健、戦死者の頭蓋骨を手に「戦地で野ざらしにされている」遺骨収集活動17年 米国との予算差指摘「国家としての責務でありプライドの問題」
 野口健(@noguchiken8848)さんのインスタグラムより
 アルピニスト野口健さん(52)が、24日までにインスタグラムを更新し、沖縄戦の戦死者の遺骨収集に取り組む姿を公開した。祖父が戦争経験者であるという野口さんが、遺骨収集にかける強い思いをつづっている。
 【写真】「かつての戦地で野ざらしにされている」戦死者の頭蓋骨を手に取る野口健さん
 2008年から遺骨収集活動を続けてきたという野口さんは「長年、戦没者の遺骨収集を沖縄やフィリピンで行ってきましたが、死ぬ事を求められた日本の将兵たち。死ぬハードルがあまりに低いのに遺骨収集のハードルがとても高い」と語っている。また祖父からの言葉として「インパール作戦で若手の参謀であった祖父は『国は遺族会や戦友会に遺骨収集を押し付け国家としての役割を放棄した』と嘆いていた」とコメント。遺骨収集活動を遂行する過酷さを実体験、祖父からの伝聞経験に即してつづった。
 沖縄は大戦の際、日本で唯一住民をも巻き込んだ地上戦が行われた地。「沖縄は住宅街の目と鼻の先から未だに骸骨が発見される」と遺骨収集がままならない沖縄の現状を語り、「国家のために死んでいった兵士にあまりに冷たい。戦後、経済発展にうつつを抜かし、最も大切にしなければならないことを軽視した」と嘆いた。
 遺骨収集という活動について、「過去を振り返りながらもこれから先の日本の行く末を思えばこそやらなければならない活動」と語り、遺骨収集に携わり続けている野口さん。「国家のために犠牲になった方々に対して冷たい国はいずれ滅びるとあの火炎放射器で焼かれ辺り一面が真っ黒に焦げたガマや洞窟の中に入る度に痛感させられる」と胸中を明かしている。
 また、国家規模での遺骨収集活動について「政治家たちが靖国神社に参拝される事には感謝しつつも、未だに多くのご遺骨がかつての戦地で野ざらしにされている現実に複雑な心境に陥る」とつづった上で、対戦国であったアメリカの体制について「アメリカは国をあげて米兵の遺骨収集を行っている。予算規模含めあまりに違う」と言及。「遺骨収集は国家としての責務でありプライドの問題。先にも述べたように『国家の命令で犠牲になった兵士たちに冷たい国はいずれ滅びる』と突きつけられる思いである」と遺骨収集のままならない現状を嘆き、投稿の末尾には「あの現場に足を踏み入れた人ならば皆、そう感じるだろう」とつづった。
 SNSでは、「多くの方々が未だ日本の地を踏めずに現地に遺骨が残っている事に胸が痛みます」「想像以上に多大な悲しみや犠牲の上で、国家の発展や成長があったのですね」「崇高な活動に感謝します!!」「切ないです。野口さんの活動に敬意を表します」「遺骨収集を放棄したことを知りませんでした」「もっと発信して多くの人に知ってほしい」などのコメントがあった。
 まいどなニュース
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 8月25日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「戦地巡る慰霊の旅、最終訪問地はミャンマーに…13万7千人が戦没「集大成として次世代と交流も」
 【地図】ミャンマー
 今年度で終了する戦没者遺族が戦地を巡る「慰霊友好親善事業」について、主催する日本遺族会が、来年3月の最後の訪問地にミャンマーを選んだことがわかった。政情不安のため同国での実施は見送られてきたが、慰霊を望む遺族が多く、地域を絞って約6年ぶりに訪問することを決めた。
 事業は1991年に始まり、2024年度までに国内外の各地で計451回実施され、延べ1万6320人が参加した。ただ、遺族の高齢化が進んだことを受け、今年度限りで終了することが決まっている。
 約13万7000人が戦没したミャンマーではこれまでに41回行われてきたが、遺族会は軍事クーデターによる政情不安のため19年12月の実施を最後に見合わせてきた。だが、状況が落ち着いてきたとして、ヤンゴンなど2地域に限定して実施することを決めた。
 遺族会は当初、最終訪問地をフィリピンとする予定だった。ただ、今年6月の戦地の海域を巡る「洋上慰霊」に同国の戦没者遺族が100人以上も参加したため、希望者が多かったミャンマーに変更したという。
 ミャンマーでは遺族らからの寄付金で小学校3校が設立されており、今回の訪問では現地の子どもたちとの交流も予定されている。日本遺族会の担当者は「事業の集大成として、慰霊だけでなく、次世代との交流も図りたい」と話す。
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 天皇が主催する宮中祭祀は、神話物語に繋がる正統性男系父系天皇のみが一子相伝としておこなう事ができ、憲法・法律に基づき神話物語に繋がらない正当性女系母系天皇ではできない。
 神の裔にして祭祀王とは、神話宗教の正統性男系父系天皇であって反宗教イデオロギー法律の正当性女系母系天皇ではない。
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 日本人戦没者の慰霊を行うのは日本民族の宗教である日本神道と日本仏教だけであり、神や仏はもちろん魂や霊魂を否定する反宗教無神論イデオロギーではない。
 日本民族に所縁のない宗教では、戦没者の遺骨収集ができても「冥福を祈る」慰霊・供養はできない。
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 日本の宗教とは、自分に繋がりのある祖先を人神として祀る氏神宗教である。
 日本民族の宗教とは血・命・心・志の絆と魂・霊魂の繋がりによる家の「集団崇拝宗教」で、祖先を救わず祀らず切り捨てる「個人信仰宗教」を嫌い、拒絶した。
 家宗教の象徴が、有名戦士を神として祀る靖国神社である。
 日本には、宗教を排除し魂を込めないイデオロギーの「無名戦士の碑」や「無名戦士の像」はない。
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 個人救済のキリスト教が日本で信者を増やせないのは、当たり前の事であった。
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 兵士の、いまだに遺骨は外地の旧戦場に散乱し野晒しとなっているが、魂・霊魂は靖国神社の祭神として祀られている。
 マルクス主義者であるエセ保守とリベラル左派、過激派は、死後の世界を否定し、死者の慰霊を認めず、中国、韓国・朝鮮、ロシアからの猛反対を受け靖国神社を否定し廃絶しようとし、外地の戦没者侵略戦争を行った戦争犯罪者である以上は供養にも遺骨収集にも猛反対している。
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 オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
 「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
 寸土を失う者は全土を失う。
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 2024年4月 共同通信世論調査 (賛成、どちらかというと賛成の合計)
 「女性天皇賛成」90%。「女系天皇賛成」84%。
 政府案「旧宮家の男系男子」「皇族復帰」による男系男子継承に反対 74%
 共同通信は、中立公正の報道機関ではなく反天皇反日色が強い偏向した報道機関である。
 正当女系母系論者は、数千年来の血統の直系皇位継承を廃絶しようとしている。
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 八木秀次「私は21年のヒアリングで『女系継承で眞子内親王殿下(当時)のお相手との間に生まれたお子さまが天皇になる可能性もある』と述べました。女性宮家女系天皇の議論は、小室圭さんのような人が皇族になる、あるいはそのお子さんが天皇になることを国民が認めるのかと考えれば、是非は明らかだと思います」
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2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161
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 JYMA日本青年遺骨収集団
 戦争を知らない私たちが今できること
 戦争を知り、想いに向き合い、未来につながる
 戦没者遺骨収容
 御遺骨を祖国にご帰しいたします
 JYMA日本青年遺骨収集団は先の大戦で亡くなられ、今なお南海の島や海外で眠る多くの戦没者の方々の遺骨を祖国へお帰しさせていただく「戦没者遺骨収容事業」や戦没者の慰霊追悼を行う「慰霊顕彰事業」を活動の軸としております。
 これからも行政や企業に負けない、フットワークと柔軟な対応力を活かし活動を継続してまいります。
 当法人では発足して以来「慰霊」と「伝承」の二大使命のもと、旧戦地における遺骨収容活動をはじめ、平和交流事業・災害ボランティア・戦史検定事業など活動の範囲を広げ、多くの方に戦争と平和を考える機会を創出し続けてまいりました。同じ志のもと共に活動する仲間、および活動にご賛同いただける皆様よりの温かいご支援をお待ちしております。
 慰霊の灯火を継承し続ける
 当法人はこれからの遺骨収容並びに慰霊顕彰を確固たるものにすべく、
現地協力者の皆様と友好親善を築くことを大切にしております。
今なお、祖国の迎えを待つ将兵たちのためにも責任と誇りを持って活動に取り組んでまいります。
 祖国の未来に殉じた
 英霊を忘れぬために
 当法人は昭和42(1967)年に「学生慰霊団」として発足以来、戦場跡地へ赴き、遺骨収容、慰霊顕彰活動を行っております。
 「発足の志」を変わらず持ち、一人ひとりが自ら考え行動し責任を果たせる団体でありたいと考えており、皆様の期待に応えられるよう、一つずつ誠実に活動を積み重ねております。
 代表挨拶
 REPORT
 国内外問わず
 活動派遣をしております
 当法人はソロモン諸島旧ソ連領、グアム島など祖国からの迎えを待つ将兵たちが眠る各国に活動派遣をしております。
 国内では沖縄、硫黄島にて遺骨収容活動を実施いたしました。
 また先の大戦の戦場となった国の方々との平和交流事業や高校生を対象とした交換留学事業、国内災害時のボランティアなど、活動は多岐に渡ります。
 派遣活動報告
 AWARDS
 これからも信用・信頼される
 団体として
 当法人の活動を評価していただき表彰やテレビや新聞等で取り上げていただいております。
 これからも皆様に信用、信頼され期待に応えられるよう、活動を続けてまいります。
 メディア紹介・受賞歴
 ENROLLMENT
 入会案内
 JYMA日本青年遺骨収集団は国内外の多くの場所で、柔軟な対応力を活かして活動に取り組んでおります。
 私たちの活動に賛同し、参加してくれる団員をお待ちしております。
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 2025年7月31日 阿含宗関東別院「太平洋戦争戦没者供養 護摩法要千鳥ヶ淵万燈会
 各団体の慰霊参拝 各団体等の慰霊行事
 7月15日、阿含宗関東別院による太平洋戦争戦没者供養護摩法要「千鳥ヶ淵万燈会」が千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて参加者約460名で営まれた。
 万燈は仏の智慧の象徴であり、御霊を成仏へと導く明かりとされている。本万燈会は、祖国日本のために尊い命を捧げられた、すべての戦没者の御霊に対して万燈を献じるとともに、ご英霊の安らぎを祈り、感謝の誠を捧げるために平成6年から執り行われている。
 午後6時、全国の信者の思いを込めた万燈が点灯される中、導師清川靖法中僧正が入堂し式典が始まった。法要では国歌斉唱、喇叭保存会による「国の鎮め」の吹奏に続き、護摩法要が開始され、六角堂内では護摩が焚かれ、真っ赤な炎の中真言が唱和された。
 万燈会の会場
 導師清川靖法中僧正による護摩法要
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 2025年7月21日 阿含宗 護國ノ御英霊・戦没者の御供養の軌跡『炎と風』
 7月23日に、阿含宗の護國ノ御英霊・戦没者の御供養の軌跡を物語る書籍『炎と風と』が飛鳥新社より出版されます。
 飛鳥新社サイトに掲載されている紹介文です。
 「いまの日本は政府首脳の誰も靖國神社に参拝しない。ならば私が国に代わって英霊のご供養をしよう」(桐山靖雄
 戦後、英霊たちの安らぎを祈り、感謝の誠を捧げてきた阿含宗
 教祖・桐山靖雄管長の半生と、これまでの阿含宗の献身的な戦没者供養の活動を記録した保存版。
 その覚悟と、英霊への思いに、感涙必至!
 各界著名人との対談も収録!
 【目次】
 はじめに
 グラビア 戦地巡礼の旅
 第一章 命の炎 桐山靖雄の生涯
 独立独行の難路を歩んだ仏教界の鬼才 上島嘉郎 
 第二章 いまを生きる日本人へ 桐山靖雄対談録
 石原慎太郎 現代日本人の「我欲」
 金 美齢 「艱難辛苦」が人を成長させる
 野口 健 遺骨収集で聞いた英霊の声
 倉本 聰 伝え継ぐべき「たましい」
 藤岡 弘、 「侍」として、いかに生きるか
 百田尚樹 生かされた者の使命
 グラビア 写真で振り返る桐山靖雄の生涯
 第三章 未来へつなぐ命の絆 戦跡法要レポート
 ガダルカナル島イスラエル硫黄島・フィリピン・東シナ海/台湾
 サイパンテニアン/沖縄/樺太・千島/ビルマ/フィリピン
 特別寄稿 父・石原慎太郎阿含宗 石原延啓
 巻末付録 年表
 堺屋太一さんの著作に『風と炎と』という評論集があるそうです。読んだことはないのですが、何か内容的に関係があるのでしょうか。『炎と風と』を読めばわかるかな?
 炎と風と 桐山靖雄と阿含宗の軌跡 | 『炎と風と』制作委員会 |本 | 通販 | Amazon
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 ウィキペディア
 遺骨収集事業(いこつしゅうしゅうじぎょう)は、日本の厚生労働省が進める戦没者慰霊事業の一つで、海外諸国に放置されたままになっている第二次世界大戦における戦没者(旧日本軍軍人、軍属、及び民間人)の遺体を捜索し、収容して日本へ送還する事業。
 1952年~1957年、主要な旧戦域を船舶でまわり遺骨1万2000柱を収容し、いったんおおむね政府事業として終了し、遺族会などによる独自の活動がつづいた後、旧戦域に多くの遺骨が放置されていると指摘され、1967年に収集事業を再開し、2016年に法律の制定をみた。事業による収集数はあわせて約34万柱、このほかに旧陸海軍の復員や引揚時に約93万2000柱を送還した。
 概要
 1952年(昭和27年)の平和条約(サンフランシスコ講和条約)発効後から南方作戦地域(東南アジア・南太平洋)において開始。 1953年(昭和28年)には日本丸を使用した遺骨収集が行われ、南方八島(南鳥島サイパン島テニアン島グアム島など)から440柱を収集。1955年(昭和30年)3月18日にはガダルカナル島など南太平洋英豪地域から遺骨5889柱が帰還している。旧ソ連抑留者の遺骨についても、ソビエト連邦の崩壊後の1992年(平成4年)から実施された。
 厚生労働省によれば、2009年(平成21年)3月現在、第2次世界大戦において海外で戦死した旧日本軍軍人・軍属・民間人約240万人のうち、日本に送還された遺体は約半数の約125万柱となっている。残りの約115万柱については、海没したとされる約30万柱を含め、現在もなお海外に残されたままである。
 日本國戦死者遺体収容団、日本遺族会、JYMA日本青年遺骨収集団、空援隊、戦友会である全国ソロモン会や東部ニューギニア戦友・遺族会など、NPOや民間人が日本政府・厚生労働省と協力または独自に捜索・収容活動を続けている。空援隊によるフィリピンでの遺骨収集活動(2006年7月に第一回御遺骨情報調査、2010年11月までで通算40回の調査を終えている)は、平成21年度には、7,740柱(うち1体分は別団体の情報提供によるもの)の遺骨を収集し、日本に帰還させた。
 しかし、2009年から4700万円もの税金を投じ委託が始まった「空援隊」の活動に対しては、一部の旧日本兵や遺族サイドから、収集方法が不適切である旨の指摘があった。
 また、2010年10月2日のNHK番組放送以降、新聞各紙での報道もあり、厚生労働省は2010年10月、当初予定されていた政府収集団のフィリピン派遣延期を決定し、これら一連の報道に関する事実関係の確認と検証を行った。その結果、NHK番組で報道された内容など空援隊の遺骨収集活動と遺骨盗難事件等とを結びつける事実は確認できなかったという検証結果を発表した。
 空援隊の活動について登山家の野口健や麻生政権の下、舛添要一厚生労働大臣小池百合子防衛大臣等の自民党国会議員が中心となり支持を表明していた。
 フィリピンでは祖先が守護してくれる信仰があり、墓を暴かれ遺骨を盗掘された人がショックで自殺する等の事件が起きている。被害を受けた人たちがマニラの日本大使館へ抗議や調査するよう求めている。
 委託事業で集められた遺骨に、日本人戦没者でないとみられる遺骨が多数確認されたことが日本、フィリピン政府の関係筋の話で明らかになった。両国政府に調査を求めていた被害者への賠償問題が出る可能性が高いという。
 厚生労働省の調査によると、2009年度からNPO法人(空援隊)が現地の住民に対価を払い集めさせた遺骨の中に、女性や子供、死後20年程度のものなど明らかに日本人戦没者のものでは無い遺骨が相当数含まれていたことが判明。厚労省も発見現場や発見者の供述などを直接確認しないなど、ずさんな対応であった事も明らかになった。NPO法人への委託が始まった2009年度から、それまで多くても1200柱余りだった収集遺骨数が7740柱に急増し、収集方法を疑問視する声が上がっていた。
 2011年10月5日、厚労省遺骨収集事業の民間団体へ委託の見直しを発表。民間団体への委託を情報調査に限定、フィリピン人へ対価を支払わない事、遺骨を日本へ送還する前に研修を受けた厚労省職員を派遣することなどを決めた。同時に、既に日本に送還され、千鳥ケ淵戦没者墓苑に納められていた遺骨約4000柱を「日本兵以外の骨が混入している可能性がある」として、墓苑から同省内に移動させた。
 2016年3月には戦没者遺骨収集を国の責務とし、一層の推進を図ることを目的とした戦没者の遺骨収集の推進に関する法律が成立した。
 ミャンマー
 1956年、10人の遺骨収集団がミャンマーを訪問して1321柱を収集。しかし、その後は社会主義政策を強めた政府の意向で遺骨収集の入国は拒否された。1974年11月、田中角栄首相とネ・ウィン大統領の会談を経て1975年から遺骨収集が再開、初年度だけで10717柱を収集したが、1976年には遺骨収集団がカチン独立軍の銃撃を受けて負傷者が出るなど自由に活動できる環境ではなかった。
 DNA鑑定
 アメリカのen:Defense_POW/MIA_Accounting_Agency(国防総省捕虜・行方不明者調査局)では戦争での行方不明者約82000人全てを特定し遺族に返すのが目的で、DNAをはじめ様々な方法で特定している。
 日本では、2003年度から厚生労働省が、名前入りの遺留品が近くにあった遺骨に限り、遺骨と遺族のDNAを照合して血縁関係を調べる鑑定を始めた。2017年からは遺留品なしの遺骨に対しても沖縄県硫黄島、タラワ環礁に限定して実施し4柱の身元が特定されたことから、2021年年度からは地域の限定をせずに遺族からの要望に応じて照合を開始することが発表された。
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 2025年4月7日 朝日新聞「戦争の記憶と責任、慰霊の旅 皇室と戦後80年
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 中田絢子 島康彦 北野隆一 デザイン・山本美雪
 令和となって初めての全国戦没者追悼式に出席した天皇、皇后両陛下=2019年8月15日、東京都千代田区
 戦後80年となる今年、天皇、皇后両陛下は大きな戦禍を被った地をめぐり、戦争の記憶を語り継ぐ人々を訪ねる。天皇の名の下に戦った先の大戦。その重い歴史を背負った皇室と80年のあゆみをたどる。
 「令和の戦没者慰霊」の皮切りとなるのは、4月7日の硫黄島(東京都小笠原村)訪問だ。上皇ご夫妻は平成の天皇、皇后在位時の1994年に硫黄島を、戦後50年の95年には戦没者慰霊のため長崎、広島、沖縄などを訪れた。それらの地を、今の両陛下が30年後に改めてたどる旅になる。
 知られざる歴史に「光あてて」 関係者が寄せる思いは
 天皇陛下は2月の会見で、戦後80年にあたり、「各地で亡くなられた方々や、苦難の道を歩まれた方々に、改めて心を寄せていきたい」と述べた。宮内庁関係者によると、6月には沖縄、広島、9月には長崎で戦没者を慰霊する方向だ。皇太子、皇太子妃時代から沖縄、広島、長崎といった地を幾度となく訪れ、被爆者や戦争経験者らから話を聞き、交流している。
 皇太子時代の天皇陛下とともに、沖縄から来た豆記者と交流する愛子さま=2004年7月、東京・元赤坂の東宮御所宮内庁提供
 天皇陛下は、長女愛子さまに…
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 2025年7月19日 PRESIDENT Online「その日、硫黄島には「喜びの天水」が降った…慰霊に訪れた天皇陛下が旧島民の子孫にかけた「予想外のお言葉」
 島民墓地を拝礼され、「残念なことです…」と漏らした
 酒井 聡平
 北海道新聞記者
 2025年4月、天皇皇后両陛下は戦後80年の「慰霊の旅」の一環で硫黄島を訪問された。在位中の天皇陛下の訪問は上皇さまに次いで2例目だったが、今回は旧島民の念願がついにかなったコースだったという。北海道新聞記者・酒井聡平さんの著書『死なないと、帰れない島』(講談社)より、一部を紹介する――。
 天山慰霊碑の両陛下 両陛下、硫黄島戦没者追悼写真=共同通信社
 太平洋戦争の激戦地・硫黄島で、旧日本軍の最後の拠点だった天山壕の上に造られた「天山慰霊碑」(硫黄島戦没者の碑)に献花される天皇、皇后両陛下=2025年4月7日午後、東京都小笠原村
 戦後80年、天皇皇后両陛下の「慰霊の旅」
 共同通信の特報が放たれたのは、2025年1月22日の午後だった。
 〈天皇、皇后両陛下が戦後80年に当たり、戦没者慰霊のため、太平洋戦争の激戦地・硫黄島を4月に訪問される方向で宮内庁が検討していることが22日、関係者への取材で分かった。今年は被爆地の広島と長崎、激しい地上戦で多数の住民が犠牲になった沖縄への訪問も検討しており、両陛下は節目の年に戦禍の地を巡り、平和への思いを改めて示す見通しだ〉
 2025年は戦後80年の節目の年だ。両陛下が、上皇上皇后両陛下が戦後50年に行った「慰霊の旅」をどのように継承されるのか、報道機関や皇室ウォッチャーの間で注目されていた。
 1960年生まれの今上天皇は、初の戦後生まれの天皇だ。2019年の即位後、硫黄島について初めて公の場で言及されたのは2023年の「お誕生日会見」だった。
 上皇陛下が刻まなかった“初”を記すことに
 沖縄と並び、凄惨な地上戦の舞台となり、1万人を超える遺骨が今なお眠る島へのお気持ちを問われた瞬間、陛下の表情は厳かに変わった。そして一語一句を慎重に紡ぎ出すように話された。
 「上皇上皇后両陛下から硫黄島に行かれた時の話をいろいろと伺っております。大変悲惨な戦闘が行われ、また多くの方が亡くなられたことを、私も本当に残念に思っておりますし、このような硫黄島も含めて、日本各地で様々な形で多くの人々が亡くなられている。こういった戦争中の歴史についても、私自身、今後ともやはりいろいろと理解を深めていきたいというように思っております」
 上皇さまは在位中の1994年、歴代天皇の中で初めて硫黄島に立たれた。その際の御製ぎょせい「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」は、多くの人の心に刻まれた。
 当時、皇太子だった今上天皇は、上皇ご夫妻から訪問の様子を詳しく聞き、その思いを深く胸に留められた。そして即位後初の戦後の節目となる2025年、戦禍の地を巡る最初の訪問先として、硫黄島が選ばれたのである。在位中の天皇の訪問は2例目。だが、令和の陛下は先代が刻まなかった“初”を硫黄島の歴史に記すこととなった。
 硫黄島の記憶のために“戦った”男
 「スケオさんはね」――。父島に暮らす旧硫黄島民1世や2世の間で、これほど敬愛を込めて語られる名前はないだろう。宮川典男すけお(故人)。硫黄島出身の宮川は、軍属として島に残された親族7人全員を失うという痛ましい体験をしていた。
 終戦後は建設業を営みながら帰島を願い続けた。遺骨収容活動などに私財を惜しみなく投じ、生涯をかけて島の記憶を守り続けた。
 宮川は、1994年の上皇ご夫妻の硫黄島初訪問を前に、東京都や宮内庁と“戦った”男だった。読売新聞の記事によると、“戦い”の経過は次の通りだ。
 初訪問の計画について、旧島民28人が抗議の声をあげた。その先頭に立ったのが宮川典男だった。抗議の理由は、行政側の判断によって、島内を巡るコースから硫黄島島民平和祈念墓地公園(島民墓地)が外されたからだった。
 島民墓地には、戦死した島民の名前が刻まれた御影石の碑がある。宮川たちは小笠原村に対し、コースの見直しを求める要望書を提出したが、「変更は難しい」と拒否された。
 島民たちが眠る墓地での御拝礼が実現
 宮川は諦めなかった。「両陛下がお参りされるはずと信じていた。時間を30分も延ばせば拝礼できるはず」。そんな思いで上京した宮川の行動の結果は、同年1月25日付の読売新聞の続報で報じられた。
 〈旧島民らが反発していたが、最終的には両陛下が慰霊碑のすぐそばを通られるコースに落ちついた〉
 宮川たちの抗議が行政の壁を動かしたのだ。しかし、限界もあった。拝礼は、墓地の近くを通過する際に車内から行われるという形式となった。
 この経緯を知る旧島民や関係者の間では、今回のコースに注目が集まっていた。
 31年前と同じように、直接の拝礼はないのではないか。そんな懸念の声も聞かれた。しかし、結果は彼らの予想を覆した。関係者に事前に配られた資料「両陛下行幸啓 御日程」には、はっきりとこう記されていたのだ。
 〈15:42 硫黄島島民平和祈念墓地公園(11分) 御拝礼〉
 この1行に、旧島民たちは歓喜した。宮川の願いが、31年の歳月を経てついに叶うのだ。令和の陛下が硫黄島に刻んだ初めての歴史。それは、旧島民の犠牲者たちへの直接の拝礼だった。
 政府専用機には島民の子孫たちも同乗
 2025年4月7日の朝。午前9時半、皇居の乾門から白バイに先導された漆黒の車列が姿を現した。途中の信号はすべて青に変わり、車列は30分後に羽田空港に到着した。
 車列が向かったのは一般客で賑わう出発ロビーではなく、滑走路脇の駐機場だった。そこには日の丸を両翼と尾翼に配した政府専用機が待機していた。やがて、タラップ近くに停車した車のドアが開かれ、ダークスーツ姿の第126代天皇陛下皇后陛下が現れた。側近らに会釈をされた両陛下は、タラップを上っていかれた。
 定刻の午前10時10分、政府専用機は滑走路を駆け抜け、本土からおよそ1200キロ南方の硫黄島へと飛び立った。
 その機内に全国硫黄島島民3世の会会長の西村怜馬の姿があった。2月に東京都から電話があり、両陛下の行幸啓に合わせて硫黄島を訪問してほしいと打診されたときには、西村は心底驚いた。同様の打診は硫黄島帰島促進協議会会長の麻生憲司にもあった。彼もまた同機に搭乗していた。
 硫黄島 国際宇宙ステーションから2016年9月11日撮影硫黄島 国際宇宙ステーションから2016年9月11日撮影(写真=Earth Science and Remote Sensing Unit, NASA Johnson Space Center/PD NASAWikimedia Commons)
 両陛下のご到着に、喜びの“天水”が降った
 羽田出発から2時間半後の午後12時半過ぎ、機体は硫黄島の上空から降下を始めた。島全体が雨に包まれていた。歴史的な初訪問日の雨天を残念に思うのが普通だろうが、西村の胸にはまったく別の感情が湧き上がっていた。かつて島民1世たちから聞いた言葉を思い出したからだ。
 「硫黄島ではね、雨が降ると島民たちはみんな大騒ぎでバケツを外に出したりしていたんだよ。川がない島だから、うれしくて」
 島民たちは貴重な雨を“天水”と呼んでいた。西村は濡れた滑走路を見つめながら思った。
 「これは雨じゃない。両陛下の到着を、天国の島民たちが喜びの天水で迎えているんだ」
 午後12時54分。両陛下が硫黄島に降り立たれた。小笠原村の村長、渋谷正昭をはじめとする一団が出迎えた。
 小笠原村在住硫黄島旧島民の会事務局長の楠明博は、その瞬間を約10メートル離れた場所から、感慨深く見つめていた。西村や麻生と同じく、楠も2月に東京都から島内訪問への同行を打診されていた一人だった。この日の朝早く、渋谷らと父島からヘリで先着していた。
 打診を受けた日、父島で同居する母・千代音に告げると、彼女は父の仏壇へと歩み寄った。
 「お父さん、明博がね、陛下と会うんだって。必ず行くからよろしくね」。その言葉は喜びに満ちていた。
 硫黄島で生まれた千代音はわずか4歳で故郷を追われ、父・高橋廣は軍属として島に残され、二度と再会することはなかった。父の遺骨は見つからず、この島のどこかに眠っている。
 犠牲となった93人の島民たちに献花
 楠らは政府専用機から降り立ったばかりの西村や麻生らと合流した。両陛下の一行は厳かな足取りで天山慰霊碑へ向かわれたが、楠たちにはその次の訪問地点となる島民墓地へと先回りするよう指示が出ていた。
 午後3時42分、島民墓地。ほぼ定刻通りに両陛下の姿が見えた。天皇陛下は右手に黒い傘を構え、皇后陛下は両手で傘を支えながら歩みを進められた。献花台で純白のユリなどの花束を捧げられ、8秒間、頭を垂れられた。顔を上げられたとき、天皇陛下は口元を引き締められていた。鎮魂の思いを強く心に刻まれたようだった。
 白い百合写真=iStock.com/Mayehem
 楠の胸の内で「ありがとうございます」という言葉が幾度となく湧き上がった。隣に立つ麻生の胸にも万感の思いが込み上げていた。「硫黄島戦で亡くなった2万人のうち、島民は93人。93人のために、この雨の中、お車を降り、心を寄せてくださった」。
 拝礼を終えた両陛下は、渋谷に先導される形で、車に向けて再び歩みを進められた。戦死した島民軍属の碑の前に差し掛かったとき、両陛下は足を止められた。そして、渋谷が楠らに向けて手招きをした。その合図は事前の打ち合わせにはなかったものだった。それだけに驚きながら楠、西村、麻生は、碑の前に立つ両陛下のもとへと急いだ。
 渋谷は、碑に刻まれた名前は硫黄島戦に巻き込まれた島民たちであること、そしてここにいる3人は彼らの子孫であることを丁寧に説明した。そのとき、天皇陛下の小さな声が、すぐそばに立っていた西村の耳に届いた。
 「残念なことです……」
 驚いて目を向けた陛下の表情には、島民たちの苦難を我がことのように感じられる、言葉にならない悲しみが浮かんでいた。
 帰島実現を要望するニュースを見ておられた
 午後4時55分。島民墓地に続き、鎮魂の丘での拝礼を終えられた両陛下は、同行者との懇談のため基地内の厚生館に姿を現された。この瞬間を待っていた人々の中に旧島民の子孫3人もいた。両陛下が一人ひとりに言葉をかけられる特別な時間が始まろうとしていた。
 旧島民の子孫として最初に両陛下の前に立ったのは麻生だった。緊張した面持ちで自己紹介すると、天皇陛下から予想外の言葉が返ってきた。
 「ニュースで見ていますよ」
 麻生は驚いた。1カ月半前に彼が国土交通省に提出した「帰島実現」の要望書の報道を、陛下が見ておられたのだ。その瞬間、麻生は、口にするかどうか躊躇していた言葉を、勇気を出して発した。
 「陛下、本来であれば全島民でお迎えするところを、私たちは事情があってお迎えできないのです。が、島民代表の一人として、本日のご来島とご慰霊に心より感謝申し上げます」
 「3世の会」の活動について次々と質問
 この言葉には悲しみを込めていた。どのご訪問先でも、地元の住民たちが大挙して両陛下をお迎えするのに、硫黄島民だけがそれを許されない現実。陛下は特別な反応をされなかったが、麻生は自分の思いが届いたと感じ、帰島に関するこれ以上の発言は控えた。
 両陛下は、一際若い西村の前に立たれた。西村が「孫の代でいろいろな取り組みをしています西村と申します」と自己紹介すると、両陛下は「ああ」と何かを理解された様子だった。祖母が硫黄島出身であると伝えると、天皇陛下は「おばあさまからどんな話をお聞きになっていましたか」と尋ねられた。祖母から聞いた無数のエピソードの中から、西村が口にしたのは、島のかつての豊かさだった。
 酒井聡平『死なないと、帰れない島』(講談社)酒井聡平『死なないと、帰れない島』(講談社
 「特に野菜がすごくよく育つ島で、種をまけばすぐに野菜ができる島のようでした」
 両陛下はうなずきながら熱心に聞かれ、「3世の会」の活動について「人数は?」「どのような活動を?」と次々と質問された。胸が熱くなった西村の口から、自然と決意の言葉が出た。
 「1世の人たちから聞いた硫黄島の暮らしの様子が忘れられないように、みんなで少しずつ発信して、硫黄島が平和を祈るような島になればいいなと思って、これからも頑張っていきたいです」
 その言葉に、天皇陛下は穏やかながらも力強く応えられた。
 「今後も皆で体に気を付けて、ぜひ頑張ってください」
 両陛下は「大昔のこと」とせず、激励された
 西村は、時に「大昔のことをいつまでやっているんだ」と同世代から言われることもある。だからこそ、心を寄せてくださった天皇陛下の激励は、西村に大きな勇気を与えた。「普通は世代が下がるほど過去の記憶は薄れていくものなのに、両陛下は3世の私たちの活動も大切にしてくださった」と感激した。
 最後に両陛下と接した旧島民の子孫は楠だった。楠は両陛下に対し、4歳のときに本土に強制疎開となった母が近年になって「死ぬときは硫黄島の近くがいい」と望み、母子二人で父島に移住したことなどを伝えた。静かに聞き入った皇后陛下は「お母様を大事になさってください。お母様によろしくお伝えください」と述べられた。
 午後6時すぎ。全日程を終えられた両陛下は、政府専用機硫黄島を発たれた。来たときと同様、西村や麻生、そして記者団も同機で硫黄島を離れた。こうして今上天皇の初訪問は、幕を閉じた。
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