✨5)─4・②─昭和天皇には、植民地支配責任、戦争責任、戦争犯罪も存在しない。〜No.18 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦時中の日本人は「天皇陛下 万歳!」と叫んで戦死した時の天皇とは、昭和天皇であった。
 日本人は、昭和天皇の為に殺され、死んでいた。
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 歴代の天皇の中で、昭和天皇ほど日本人に不人気な天皇は存在しない。
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 メディアと教育は、昭和天皇を否定している。
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 2025年4月16日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「戦後、国内外に高まった「天皇の責任論、退位論」…側近がみていた「昭和天皇の様子」
 側近が見た天皇
 日本という国の現在のあり方を知るためには、その歴史を学ぶことが重要です。
 とりわけ、近代化を遂げた日本が、なぜ太平洋戦争という無謀な戦いに突入したのか、その戦争のさなかにはどのようなことが起きていたのか、そして、いかにして戦争が終結したかを知ることには、大きな意義があることでしょう。
 【写真】原爆が投下されたとき、昭和天皇が東郷外相に示した何よりも優先すべき問題
 戦時中、国家の意思決定に大きな影響を与えた一人として昭和天皇があげられますが、その昭和天皇が戦中どのようなことをしていたかを知るのに便利なのが、『侍従長の回想』(講談社学術文庫)という本です。
 著者の藤田尚徳は、海軍兵学校海軍大学校を出たあと、海軍省人事局長、海軍省次官などを経て、1944(昭和19)年の8月に天皇の最側近である「侍従長」となった人物です。本書は、藤田が1961年に侍従長時代のことを振り返ったもの。
 本書では、藤田の目から見た昭和天皇の戦中、戦後の日々がつづられており、そこからは天皇の知られざる姿とともに、当時の政府中枢の動向が見えてきます。
 たとえば、天皇制をめぐる議論が日本国内だけでなくアメリカでも取沙汰されるようになります。どういった議論があり、昭和天皇自身はどのような様子だったのでしょうか。
 同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
 〈天皇制の問題は国の内外に高まっていた。米国の新聞のなかにも、天皇の戦争責任免れずと報ずる(AP電)ものもあったし、米政界の空気も峻厳なものだと伝えられた。GHQダイク代将も、国教分離を指令したステートメントの説明のなかで、天皇絶対を否認すると述べていた。
 陛下は退位なさるべきだ。京都あたりに隠居なさった方がよい、と近衛公が外人記者に語ったと報じた新聞もあった。このように内外に高まった天皇の責任論、退位論に対して、陛下はどのようにお考えになっていたろうか。
 侍従長として、私は全力をあげて、この問題の情報を集めて次に起こるべき新情勢にそなえていた。表にこそお出しにはならなかったが、陛下も胸中深く、この問題については御決意なさっている様子だった。
 新聞にあらわれる連合国側の天皇制に対する動向、GHQ関係者の言動、さらに開廷準備を進めていた戦争裁判関係者の考え方について、私はいろいろと情報を集めた。マッカーサー元帥の考えは、天皇制の護持にあると見当がついていたが、その他の世論は必らずしも楽観を許さない動きがあった。
 連合国といっても、日本の占領に大きな発言をもつのは、いうまでもなくアメリカである。それだけに米本国の世論には深い注意を払った。二、三の例をあげてみよう。
 トルーマン大統領は、選挙によって天皇制の問題を決定させようと考えていたらしい。10月18日、米記者に次のように答えている。
 「天皇の運命は、日本人民の選挙によって決定すると故ルーズベルト大統領がいったということは、自分は聞いていない。しかし自分の考えは、この案に賛成である。日本人民が自由な選挙で、天皇の運命を決定する機会を与えられるのはいいことだ」
 日本の新聞にもこのトルーマン大統領の言明は伝えられたから、陛下も御一読なさったに違いない。「天皇制の運命」——「選挙に問ふのも一案」と大きな活字の見出しがついていたのを印象づよく記憶している。このころは新聞を開いて“天皇”という字を見るのが、何となく心重かったものだ。何が書かれているか、読み終えるまでは軽い焦躁をおぼえた。
 しかし、陛下は一言も天皇制や戦争責任論について、私たち側近にも仰せにならなかった。新聞やラジオの論調にも気をくばっておいでになることは、私たちにも分ったが、それについて具体的な反応をお示しになったことはない。〉
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 4月12日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「東京大空襲8日後の衝撃…焦土の都内を歩いて視察する昭和天皇に土下座する人々が涙を流しながら呟いた言葉
 悪天候のなか天城山に登り、山上の八丁池畔でモリアオガエルを観察する昭和天皇=1930年[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]
 日本は今年、戦後80年を迎える。『歴史のダイヤグラム〈3号車〉 「あのとき」へのタイムトラベル』(朝日新書)を上梓した政治学者の原武史さんは「『昭和天皇実録』や著名人の日記による戦前から戦後にかけての記録に、知られざる日本の一面が残されている」という――。
 【画像】1945年3月18日、東京大空襲で焦土となった都内を視察する昭和天皇
昭和天皇、三時間以上の山道を歩く
 一九二八(昭和三)年一一月、京都で昭和天皇の即位礼と大嘗祭(だいじょうさい)が行われた。東京―京都間には天皇を乗せた御召(おめし)列車が運転されたが、ダイヤは秒単位で作成された。天皇は鉄道を利用する限り、秒単位の時間から自由でいることはできなかった。
 では自動車はどうか。もちろん鉄道のようなダイヤはなかったが、天皇が乗る自動車が走る場合には道路が完全に規制され、信号も「進め」のままになった。秒単位とは言わぬまでも、分単位のスケジュール通りに動く点で、鉄道と変わらなかった。
 しかし地方を訪れる際、天皇が厳密な時間に束縛されずに動ける方法はあった。自分の意思とは無関係に動く交通機関を使わず、歩きたいように歩くことだ。
 京都での即位礼と大嘗祭が終わって一年半あまりが経った一九三〇年六月二日、昭和天皇静岡県の沼津御用邸を出て船と自動車を乗り継ぎ、中伊豆に向かった。湯ケ島尋常高等小学校に着くと背広に半ズボン、運動靴に中折れ帽子という姿に着替え、こうもり傘を持った。そして再び自動車に乗り、天城山隧道(ずいどう)(旧天城トンネル)の入り口で降りた(『昭和天皇実録』第五)。
 ここから八丁池まで、天皇は三時間以上かけて山道を歩いた。雨が降るなか、生物学者でもあった天皇は傘もささずに粘菌(変形菌)の採集に熱中した。前年に和歌山県の田辺で粘菌学者の南方(みなかた)熊楠(くまぐす)に会ってから、天皇の採集意欲は高まっていた。
■「全く驚き入るの外はない」と徳富蘇峰
 半ズボン姿の天皇は、道すがら熱がこうじ、自ら木に登るまでして採集した。同行した内務大臣の安達謙蔵からこの話を聞いたジャーナリストの徳富蘇峰は「全く驚き入るの外はない」と述べ、天皇として他にやるべきことがあるはずだと批判した(『徳富蘇峰終戦後日記』)。
 午後2時過ぎに八丁池に着くと、天皇は池に生息するモリアオガエルを観察した。八丁池から戻る途中にも、粘菌採集をやめることはなかった。すべては天皇自身の意思から出た行動だった。
 湯ケ島尋常高等小学校で着替えた天皇は、再び自動車と船を乗り継ぎ、沼津御用邸に帰った。時計の針は午後7時40分を指していた。帰着の予定時刻は午後5時45分だったから、なんと二時間近くも遅れたことになる(『昭和五年静岡県御巡幸記録』)。
 天皇が地方訪問の途上、これほど予定を無視した行動に出たことはほかになかっただろう。それは自らの宿命に対するささやかな抵抗だったように見えなくもない。しかし時代はもはや、生物学の研究が自由にできる状況ではなくなっていた。翌一九三一年に満州事変が勃発すると、天皇はまた時間通りに地方を回らざるを得なくなる。
東京大空襲八日後の「全滅した」焼け跡
 時は太平洋戦争末期。東京大空襲から八日後の一九四五(昭和二〇)年三月一八日、東急目蒲線(現・目黒線)の洗足(せんぞく)を出る目黒ゆきの電車に、後に作家となる堀田善衛(よしえ)が乗った。目黒区洗足にあった友人の家を「まだ暗いうちに」(『方丈記私記』)出たというから、午前6時前だったに違いない。
 堀田が目指したのは、空襲で全滅したと伝えられた深川区(現・江東区)だった。行っても無駄とわかっていながら、知り合いの女のことが気になり、現場で別れを告げたくなったのだ。
 堀田は「電車のあるところは電車に乗り、なくなれば歩いて深川をめざして行った」(同)と書くだけで、具体的な経路については記していない。目黒から東京駅までは山手線か都電に乗り、東京駅からは永代(えいたい)通りを歩いて行ったのではないか。 
 隅田川にかかる永代橋にさしかかったのは、午前7時半ごろだった。川を越えた向こうにある深川区の一帯が見渡せたが、案の定「平べったく、一切が焼け落ちてしまっていた」(同)。警官や憲兵の姿ばかりが目についた。焼け跡の整理や火事場泥棒の警戒をしていると堀田は思い、気にもとめなかった。
■被災地を視察した昭和天皇をめぐる衝撃
 深川区内を歩き回り、9時過ぎに富岡八幡宮に来てみると、光景が一変した。「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光りを浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた」(同)
 それは間違いなく昭和天皇だった。天皇は空襲の被害を視察するため、この日の9時に皇居を車で発ち、永代橋を経由して富岡八幡宮前で下車した(『昭和天皇実録』第九)。堀田が見た警官や憲兵は、彼らの車列を警備するため動員されたのだ。
 人々が集まってきた。「これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟(つぶや)いていたのだ」(『方丈記私記』)
 天皇の戦争責任を考えていた堀田にとって、まさに目の前で展開されたこの光景は大きな衝撃だった。「責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる!」(同)
 現在、富岡八幡宮の境内には「天皇陛下御野立所(おのだちしょ)」の碑が立っている。その横には、「昭和天皇救国の御決断と富岡八幡宮」と題する石碑まである。「天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない」。空襲の被害地への視察が、美談に仕立てられている。
天皇のための特別の駅弁
 一九五八(昭和三三)年一〇月一八日9時45分、昭和天皇香淳皇后を乗せた列車が原宿駅を発車し、富山に向かった。列車は群馬県の高崎から信越本線に入り、横川で機関車を付け替えた。横川と次の軽井沢の間は国鉄で最も勾配のきつい区間であり、アプト式電気機関車が列車の前後に合わせて三両併結された(『昭和天皇御召列車全記録』)。
 アプト式というのは、線路中央に敷かれた歯型のラックレールと機関車に設置した歯車をかみ合わせて上り下りする方式のことだ。
 機関車を付け替える時間を利用し、車内に駅弁が運び込まれた。同年二月から販売された「峠の釜めし」だった。製造元の荻野屋は、天皇のため特別の釜めしを作った(荻野屋ホームページ)。
 昭和天皇よりこの駅弁に長く親しんだのは、毎年夏に軽井沢の千ケ滝(せんがたき)プリンスホテルで静養した皇太子(現上皇)一家だった。同ホテルの最寄り駅である中軽井沢から帰京する際、釜めしを食べたという(同)。アプト式が一九六三年に廃止されても、横川―軽井沢間で機関車を併結する習慣自体は変わらず、釜めしを買う時間は十分あった。
佐藤栄作も馴染んだ「峠の釜めしや」
 軽井沢には政治家の別荘も少なくなかった。その一人が一九六四年から首相となる佐藤栄作だった。佐藤も夏になると軽井沢に出かけたが、ふだんは自動車を使った。もちろん駅弁は食べなかった。
 だが一九六六年八月一六日は違った。上野16時50分発の長野ゆき急行「第3信州」に乗ったからだ(『佐藤榮作日記』第二巻)。この急行も横川で電気機関車を併結し、軽井沢に19時27分に着いた。
 八月二二日、佐藤は「予定を変更して早目に帰京する事とし、同時に列車に変更」して軽井沢17時53分発の急行「第2妙高」に乗った(同)。この急行は横川で電気機関車を切り離し、上野に20時24分に着いた。
 どちらの急行も横川でかなりの停車時間があった。その間に佐藤は、自動車ではできない行動に及んだと思われる。峠の釜めしを買い、車内で夕飯にしたのだ。
 こう考える根拠は、八月二六日の日記にある。この日、佐藤は上野15時26分発の長野ゆき急行「第2信州」に乗り、軽井沢に向かった。それを記したあとに、「峠の釜めしやとすっかり友達となり旅情をなぐさめてくれる」という一文を加えているのだ。
 「すっかり友達とな」るには、それ以前に二回以上は釜めしを買った経験がなければなるまい。そう考えると、移動手段を自動車から鉄道に変えた直近の二回しか当てはまらない。だが九月九日に軽井沢に行くときにはまた自動車に戻ってしまった。やはり旅情よりも機動性を重視したからだろうか。

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 原 武史(はら・たけし)
 政治学
 1962年生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。早稻田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院博士課程中退。専攻は日本政治思想史。98年『「民都」大阪対「帝都」東京──思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ)でサントリー学芸賞、2001年『大正天皇』(朝日選書)で毎日出版文化賞、08年『滝山コミューン一九七四』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』(岩波新書)で司馬遼太郎賞を受賞。他の著書に『皇后考』(講談社学術文庫)、『平成の終焉』(岩波新書)などがある。

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 4月29日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「12歳の少年が見た昭和64年 昭和最後の日、祖父たちは、笑って戦争の話をしていた プレイバック「昭和100年」
 天皇陛下崩御を悼み、二重橋前の玉砂利で泣きくずれる人たち=昭和64年(1989年)1月7日午前8時
 © 産経新聞
 <当時の出来事や世相を「12歳の子供」の目線で振り返ります。ぜひ、ご家族、ご友人、幼なじみの方と共有してください。今回は「昭和元年」に登場し、その後何度か取り上げられた大正生まれの4人兄弟の孫の世代が見た「昭和最後の日」です。>
 昭和は最初も最後も1週間
 「かぜで昼まで寝ていたら大正から昭和になっていた」とおじいちゃんはよく笑い話として言うが、僕も似たようなもので、ベッドから出たらテレビは特別番組ばかりになっていた。毎晩夜中でも入院中の天皇陛下のご容体がテレビで流れていて気にしていたのに、この日に限って昼近くまで寝てしまったのだ。
 第一次大戦が始まった大正3年生まれの祖父は今年75歳になる。大正15年12月25日の大正が終わった日のことはよく覚えていて、ちょうど今の僕と同じくらいの年だったという。正月が近づいていたので、とっさに思ったのは「喪中でも雑煮を食っていいのか」と「年賀状を出してしまった」らしい。
 昭和63年の新年一般参賀で笑顔で国民に笑顔で手をふる昭和天皇。最後の出席となった(昭和63年1月)
 © 産経新聞
 近ごろの「自粛」の影響で、昭和の終わりの正月もいつもの雰囲気ではなかった。「昭和元年」は年末のわずか1週間、「昭和64年」も年始の1週間で終わったのは偶然だろうか。
 祖父によれば、大正天皇は午前1時ごろに亡くなり、昼前には「昭和」の新元号が発表されて新聞の号外が配られたという。
 大正世代は7人に1人が戦死
 60年以上経て昭和天皇崩御したのは1月7日午前6時半ごろ。昨年9月から闘病され、87歳だった。ニュース速報で発表されたのは8時ごろらしく、午後2時半すぎには小渕恵三官房長官がテレビの記者会見で「平成」の二文字を掲げた。「へーせー」という音が軽い気もしたが、いずれしっくりくるようになるのだろう。僕は12年しか生きていないが、「昭和」という響きにはすごく重いものを感じる。やはり日本が大きな戦争を経験したからだろうか。
 祖父の一郎は4人兄弟の長男として生まれ、4人とも戦争に行った。次男の二郎は無事帰って来たが、三男の三郎は戦死し、四男の四郎はシベリアに抑留され、片足がない。全員が大正生まれで関東大震災も経験しているが、この世代は7人に1人が戦死しているという。
 雨の中、弔問の列が絶えることなく続いた皇居前広場=(昭和64年1月8日)
 © 産経新聞
 その子供にあたる父や、父のいとこたちは全員が昭和10年代の生まれで、戦時中に少年時代を過ごしている。終戦を境に突然世の中の考え方が変わり、世間を皮肉っぽく見る人が多いと父が言っていた。
 その後の昭和20年代生まれは学生運動で暴れたような人もいて、日本という国や天皇陛下が嫌いな人も多いという。戦争を直接経験したわけでもなく、その上の世代の犠牲のお陰で平和に生きてきたのに、何だかずるい気がする。
 「なんで戦争が起きたの」
 「昭和最後の日」がやはり感慨深いのだろうか。祖父の弟たちがわが家に集まってきた。
 お酒が入ると、会話の中身は戦争の話ばかりだった。もう40年以上前だからだろうか、別に暗くなるわけではなく、「上官にぶん殴られて腹が立った」とか「なんでも食った」とか同じような話を何度も繰り返して笑い合っていた。僕が「なんで戦争が起きたの」と聞くと、3人とも「そういう時代だったから」と言ってうなずくだけだった。
 この日のテレビはCМもなく、「激動の昭和」「陛下の歩み」のような番組がずっと流れていて解説やゲストの人は全員が黒の喪服姿だった。皇居前広場の中継では大勢の人が記帳に集まる姿が映し出され、座り込んで泣く人もいた。昭和から平成へと元号が変わる深夜も500人以上が皇居前にいたという。
 平成最初の日は全国的に雨
 「平成最初の日」となった翌8日は朝から全国的に雨だった。日本中が泣いているように思えた。テレビも昨日と同様に喪服の人ばかり登場していて、お通夜からお葬式が続いているようだった。
 幼女連続誘拐殺人事件で犯行の状況を説明する宮崎勤元死刑囚(平成元年8月)
 © 産経新聞
 本当のお葬式にあたる2月の大喪の礼も同じような雨の日で、昭和天皇の霊柩(れいきゅう)を乗せた車の隊列が都内の大きな道路を巡った。
 「一つの時代の終わり」とテレビのアナウンサーはよく言うが、時代の終わりは一気に来るものだと改めて思った。2月に漫画家の手塚治虫先生も亡くなったからだ。漫画を単なる子供の読み物から芸術作品みたいに変えた人だ。僕が医者を目指して塾に行くようになったのも「ブラック・ジャック」がきっかけだ。
 4月には、有名な松下電器を作り、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助さんも亡くなり、6月には戦後すぐからずっと歌い続けていた美空ひばりさんも亡くなった。みんな昭和という時代を代表する人たちだった。
 祖父は平成をどう見ていたか
 その一方で3月には女子高校生を1カ月以上も監禁して殺した上、コンクリート詰めにした少年らが逮捕されたり、8月には、東京や埼玉で小さな女の子4人を誘拐して殺した男が捕まったりした。この男は殺した女の子のビデオ撮影もしていて、「おたく」という言葉も生まれた。昭和にも似たような悪いヤツはいただろうが、犯罪の標的がより弱い人に向かっているような気がした。
 11月には東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が壊されるという世界的なニュースもあった。教科書にも載っていることが一瞬でなくなるなんて、すごいスピードで世の中は変わっているのだと思う。
 年末には株価が史上最高を記録した。日本の景気は今後もどんどんよくなるとテレビで言っていたので、僕たちの未来は明るいのだと思いたい。
 祖父は、そんな平成の世の中を半年ほど見て亡くなった。昭和の終わりの日に弟たちと酒を飲んで笑い合っていた姿が忘れられないが、本当のところはどうだったのだろうか。
 考えてみれば、祖父に戦争の話を詳しく聞いたことはなかった。あの日、もっと一緒にしゃべっておけばよかったと思う。大正から昭和を生き抜いた祖父に、新しい平成時代をどう見ていたかも、聞いておきたかった。
 ※昭和天皇は1月7日午前6時33分、皇居・吹上御所崩御し、皇居前広場にはその後の10日間で約233万人が弔問の記帳に訪れた。確認されているだけで和歌山や茨城の高齢男性ら数人の殉死者も出たとされる。一方で、テレビが丸2日間、特別番組になったことでレンタルビデオショップが繁盛する現象も起きた。
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 昭和天皇は、国内外の敵から命を狙われた天皇で、その数の多さは歴代天皇の中で断トツであった。
 日本民族は、弥生時代の数千年前から天皇を神聖不可侵の現人神として守ってきた。
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 中国共産党は、昭和天皇や皇族を惨殺しようとした日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
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 昭和天皇は平和主義者として、日中戦争に不同意であったし、日米蘭戦争を外交努力で避ける事を望んでいたし、太平洋戦争の早期終戦工作を極秘でおこなっていた。
 昭和天皇は親ユダヤ派として、ヒトラーナチス・ドイツスターリンソ連共産主義体制から軍国日本と天皇に救いを求めて逃げてきたポーランドユダヤ人難民の保護を、東条英機松岡洋右A級戦犯、親ポーランド派の軍部・陸軍に望んでいた。
2017-09-28
✨21)─1─昭和天皇は、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして開発中止を厳命した唯一の国家元首。~No.89No.90No.92・ @ ⑰ 
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 神の裔であった昭和天皇は、民族中心神話・民族宗教上で現人神であり、大日本帝国憲法上で国家元首であり大元帥であった。
 昭和天皇の正統性は、旧皇室典範で、天孫降臨神話を唯一普遍の根拠とする万世一系の男系父系天皇の血筋・血統と定められていた。
 天皇の血筋・血統では、日本の最高神である女性神天照大神を祖先神としていた。
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2024-07-18
✨5)─4─昭和天皇が退位しなかったのは正しい事であった。8月革命説、退位論。〜No.18 
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2018-09-23
☱20〕─1─日本警察と憲兵隊は、朝鮮人テロリストの摂政宮裕仁皇太子暗殺計画情報を得て警戒を強化した。義烈団。大正12年~No.41No.42・ @ ⑦ 
2018-10-01
☲5〕6〕─1─台中事件と治安維持法改正。昭和2年~昭和4年~No.8No.9No.10No.11No.12 @ 
2018-10-04
☲10〕─1─昭和天皇爆殺テロ失敗、警視庁前桜田門爆弾テロと第一次上海事変。昭和7年1月~No.21 @ 
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 昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
2020-02-18
🦲4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19  
2020-11-07
🦲4〕─21─あいちトリエンナーレ2019。愛知県知事リコール運動敗北。〜No.22 
2021-10-14
🦲4〕─24─昭和天皇肖像燃やす動画と「表現の不自由展かんさい2021」。〜No.25 
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 韓国・北朝鮮中国共産党アメリカ、ロシア、その他多くの国々では、昭和天皇ヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪と認めている。
 アメリカの一部では、昭和天皇が住んでいる東京・皇居の上に原爆を投下して焼き殺す事を望んでいた。
 アメリカ人の多くは、昭和天皇の死を望み、昭和天皇戦争犯罪者として処刑する事を要望していた。
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 日本人の共産主義者無政府主義者キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産党員教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 昭和49(1974)年 虹作戦。極左テロリストグループの東アジア反日武装戦線は、日本政府に対する反乱の一環として昭和天皇を爆殺する計画を立てたが実行されず未遂に終わった。爆弾は、昭和49年8月から昭和50年5月にかけて三菱重工爆破事件など連続企業爆破テロに使用した。
 革命思想家・太田竜の窮民(きゅうみん)革命論。
 極左テロリストの反天皇反日思想は、朝日新聞朝日ジャーナル、岩波書房などの左派メディアが垂れ流していたマルクス主義的論調の影響を受けていた。
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 戦後民主主義教育は、反宗教無神論・反天皇反民族反日歴史教育を子供達に教え、優秀な子供達を政治的エリートや進歩的インテリに育てて社会に送り出していた。
2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161 
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2025-01-09
💖目次)─8─近代天皇A級戦犯靖国神社による人類的歴史的人道貢献。~No.1 * 
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 アメリカ、GHQ、リベラル派ユダヤ人ニューディーラーは天皇制度廃絶と皇室消滅させるべく仕組んだ、日本国憲法、改正皇室典範皇籍剥奪の皇籍離脱天皇家私財没収の皇室経済法、保守派の公職追放
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 天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論
 第一弾 人間宣言
 第二弾 戦後版皇室典範日本国憲法
 刑法改正、大逆罪・不敬罪の廃止。死刑反対。
 天皇・皇族・皇室を護る特別法はなく、あるのは一般的な名誉毀損罪のみで、被害者として加害者に対して告訴する事ができるが、原則的にできない。
 メディアによる皇室報道は、本当は少なく、嘘や捏造・歪曲が多い。
 第三弾 皇籍剥奪=皇籍離脱=皇族追放。
 第四弾 皇室私有資産没収。
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 GHQは、旧日本軍が戦時中に民間から接収した宝石や貴金属、現金が隠匿資産として民間企業経営者や右翼を通じて保守的政治家に流れるのを摘発する為に東京地検特捜部を組織した。
 その結果、芦田均内閣は昭和電工疑獄事件で総辞職した。
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 国連の敵国条項
 国連とは、日本と戦った連合国である。
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 2018年 天皇家の資産、皇室費は100億円。
 世界の王家の中で皇室は貧乏王家である。
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 オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
 「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
 寸土を失う者は全土を失う。
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 2024年4月 共同通信世論調査 (賛成、どちらかというと賛成の合計)
 「女性天皇賛成」90%。「女系天皇賛成」84%。
 政府案「旧宮家の男系男子」「皇族復帰」による男系男子継承に反対 74%
 共同通信は、中立公正の報道機関ではなく反天皇反日色が強い偏向した報道機関である。
 正当女系母系論者は、数千年来の血統の直系皇位継承を廃絶しようとしている。
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 八木秀次「私は21年のヒアリングで『女系継承で眞子内親王殿下(当時)のお相手との間に生まれたお子さまが天皇になる可能性もある』と述べました。女性宮家女系天皇の議論は、小室圭さんのような人が皇族になる、あるいはそのお子さんが天皇になることを国民が認めるのかと考えれば、是非は明らかだと思います」
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 志賀義雄「なにも武力革命などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育をほどこせば、30~40年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」
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2019-01-15
🎺81:─1─昭和天皇人間宣言と退位問題。GHQと左翼・共産主義者は保守派約21万人を公職から追放した。1946年~No.355No.356No.357No.358・ @ ㊾
2019-01-16
🎺81:─2─東京裁判の開廷。国際世論は、人道貢献をした昭和天皇の処刑を求めていた。1946年4月~No.359No.360No.361・ @ ㊿
2019-01-19
🎺81:─3・A─日本国憲法占領政策基本法)制定。憲法の主権は、日本国民ではなく実はアメリカ政府とアメリカ企業であった。1946年7月~No.362No.363・ @ 
2024-10-27
🎺81:─3・B─明治維新で目覚めた日本人と戦争に敗れた日本人は別人か。~No.362No.363 
2021-05-24
🎺81:─4─佐渡の人びとは敵であった英軍輸送機「ダコタ」を助けた。昭和21年1月。~No.364 (51) 
2019-05-19
🎺90:91:─1─『昭和天皇独白録』。天皇の戦争責任や天皇戦争犯罪はない。~No.393No.394No.395No.396No.397No.398・ (57)
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2025-01-07
〖目次〗貼り付ける記事:日本の皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の敵意であった。2025年版。
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