🎑21)─1─浄瑠璃。日本の民族伝統芸能の多くは江戸時代の庶民の娯楽であった。~No.40No.41 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代の日本文化とは、サムライの武士道精神文化ではなく、身分が低く貧しい庶民による庶民娯楽文化であった。
 現代日本に徘徊する武士道神話は、ウソである。
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 近松門左衛門「侍とても尊からず、町人とても卑しからず。尊きはこの胸一つ」
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 浄瑠璃司馬遼太郎「(高田屋嘉兵衛)彼は満足な初等教育を受けていなかったが、浄瑠璃好きの御陰で、魅力的な表現力を持っていたらしい。無学な船乗りがらシェイクスピアは全部暗誦していて、適時引き用するといったふうな人物を想像すればいい」
 「嘉兵衛がそうだったように、方々から大阪や尼崎に丁稚に入った子供達は、文楽を見に行ったり、浄瑠璃を聞いたりしました。それは大変な娯楽であると同時に、そうして見たり聞いたりしながら、言葉を磨いたようですね」
 「どうも浄瑠璃は、町人階級の日本語を正しくしたのではないか。浄瑠璃には娯楽以上の意味があったと、嘉兵衛を書きながら思った事があります」
 高田屋嘉兵衛が乗っていた北前船は、1812年にロシア領千島列島沖でロシア船に拿捕された。
 ロシア側は、ゴローニン少佐が前年の1811年に日本領北方領土国後島で捕らえられ幽閉された報復として高田屋嘉兵衛を捕らえた。
 高田屋嘉兵衛は、ロシア語が話せなかったし、貧しい漁民出身で身分は低かったが、リコルド少佐と協力して日露間の外交交渉を行い、幕府を説得してゴローニンを釈放させ、和平に尽力した。
 リコルド少佐は、日本語は分からなかった。
 豊竹咲甫太夫「大阪が生んだ文楽人形浄瑠璃)を見た事がなくても、近松の書いた戯曲は全国何処でも出版されていました。浄瑠璃を教える師匠さんもいて、女義太夫のお師匠さんに入れ込み旦那衆もいた。全国にそういうお稽古屋さんがいて、幕末の大阪だと5万人。素人で語れる人がいたそうです。上方落語にも女義太夫のお師匠さんに習いに行くというくだりがよく登場します。浄瑠璃通でもある作家のいとうせいこさんの言葉を借りれば、元祖AKB、アイドルの要素もあった。高田屋嘉兵衛が学校は出ていないけてども、立ち居振る舞い、言葉などを浄瑠璃から覚えたというのはよくわかります。自然とここ一番に使う言葉は『浄瑠璃語』になったんでしょう」
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 森西真弓(大阪樟蔭{しょういん}女子大学教授)「恋愛物が当たる京、豪傑の活躍が受ける江戸、理屈と義理が好まれる大坂。違いがくっきり分かれている。理屈と道理を重んじる商都らしい気質が難解ともいえる筋立てを生んだのではないか」
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 2025年3月19日 YAHOO!JAPANニュース「江戸庶民の心をつかんだ伝統芸能浄瑠璃
 蔦重をめぐる人物とキーワード⑪
 小野 雅彦
 3月16日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第11回「富本、仁義の馬面」では、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重/横浜流星)が浄瑠璃(じょうるり)の富本節に初めて触れる様子が描かれた。庶民を熱狂させる娯楽を目の当たりにして、蔦重は次なる仕掛けの手がかりをつかむのだった。
■富本節の美しい響きが蔦重を突き動かす
 愛知県・知立神社で行なわれている祭礼「知立まつり」の様子。山車の上で人形浄瑠璃芝居が上演されるのが特徴で、江戸時代から受け継がれてきた伝統芸能を見ることができる。祭りの開催は毎年5月上旬の2日間で、国指定の重要無形文化財
 将軍に献上するという、話題性も加わった蔦重の渾身作『青楼美人合姿鏡』だったが、一部では高く評価されたものの、庶民には高すぎる価格設定だったこともあり、期待通りの結果にはつながらなかった。
 吉原に人を呼ぶ次なる策を考える蔦重に、女郎屋の大文字屋市兵衛(だいもんじやいちべえ/伊藤淳史)は、吉原で祭りを開くことを提案する。同じく女郎屋の大黒屋のりつ(安達祐実)は、祭りの目玉に浄瑠璃の人気太夫である馬面太夫(うまづらだゆう/寛一郎)を招きたいと言い出した。ところが、馬面太夫は吉原嫌いを理由に、蔦重らの願いを断った。
 浄瑠璃の流派の一つである富本節で、二代目・富本豊前太夫(とみもとぶぜんだゆう)の襲名を間近に控える馬面太夫は、鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ/片岡愛之助)から、富本節で初となる直伝本を出すことを熱心に誘われている。そんな話を聞いた蔦重は、ますます馬面太夫を引き込もうと奔走する。
 太夫の心を動かすには、他の流派から横槍を入れられて、なかなか前進しない襲名を実現させるしかない。そう考えた蔦重らは、浄瑠璃の元締めに当たる当道座の鳥山検校(とりやまけんぎょう/市原隼人)のもとを訪れ、後ろ盾を請う。鳥山の妻となった元・花魁の瀬以(せい/小芝風花)も、吉原の住人である蔦重らの願いを何とか聞き入れてもらいたいという気持ちだ。
 その後、蔦重は女郎たちを連れて馬面太夫を接待する。蔦重に請われて聞かせた富本節に心を打たれ、涙する女郎たちを見た馬面太夫は、吉原の祭りへの参加を快諾した。
 そこへ鳥山から「豊前太夫」襲名を認める知らせが届く。これを聞いた太夫は、蔦重のもう一つの望みである、富本節の直伝本を蔦重の本屋から出すことも約束したのだった。
庶民の知識や教養を支えた娯楽作品
 浄瑠璃は、日本で独自に発展した「語り物音楽」の総称である。
 その起源は、室町時代後期(15世紀末~16世紀初頭)に遡る。源流は盲僧琵琶(もうそうびわ)や説経節といった語り物にあり、16世紀後半に成立した三味線が伴奏楽器として取り入れられ、浄瑠璃発展の礎となった。
 この流れの中で、浄瑠璃姫と牛若丸の悲恋を描いた物語が広く人気を集め、この種の語り物が「浄瑠璃」と呼ばれるようになったという説が有力である。
 慶長年間(1596〜1615年)頃には、三味線に合わせて語る浄瑠璃に操り人形が導入され、視覚的な要素が加わった。素朴な語り物だった浄瑠璃は、太夫(語り手)、三味線(伴奏)、人形遣いという三者が一体となる独自の芸能文化へと発展し、定着していった。
 江戸時代に入ると、1684(貞享元)年に竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が大坂・道頓堀で義太夫節を創始し、浄瑠璃の主流を担うようになる。それ以前に流行した金平節、外記節、土佐節などは「古浄瑠璃」と総称される。宝暦年間の1760年頃に成立した富本節も、数多くの流派の一つである。二代目・富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)は天性の美声で人々を魅了し、富本節の全盛期を築き上げた。
 義太夫節浄瑠璃を代表する流派となった背景には、数々の名作を生み出した近松門左衛門の存在が大きい。
 竹本義太夫が創設した竹本座と連携した近松門左衛門は、『曽根崎心中』や『冥途の飛脚』といった作品で江戸の庶民の心を捉えた。近松門左衛門の作風は、実際の事件を基にしたものも少なくなく、人間の義理や人情を深く描き出すのが特徴で、義太夫節をはじめとする浄瑠璃が庶民に広く支持される契機となった。
 江戸時代を通じて浄瑠璃は絶大な人気を誇り、多くの演目が制作されるとともに、多数の芝居小屋が建てられた。勧善懲悪の物語や道徳観を育む内容など、浄瑠璃作品が庶民に与えた影響は大きく、知識や教養、価値観の形成にも寄与したといわれている。
 明治時代に入り、西洋文化流入や娯楽の多様化により浄瑠璃の人気は徐々に陰りを見せるが、今日では文楽人形浄瑠璃)としてその伝統が継承されている。文楽は、1811(文化8)年に植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が一座を組織したのが起源となり、後の文楽座の前身となった。その後、1872(明治5)年に『文楽座』として正式に確立された。1784(天明4)年に並木正三(なみきしょうぞう)が創設した豊竹座(とよたけざ)も、人形浄瑠璃の発展に大きく貢献した重要な流派である。
 現在、文楽は国の重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。海外公演や学校教育との連携など、次世代にその魅力を伝えるための取り組みが積極的に行われている。
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 現代日本では、多くの民族伝統芸能が廃れ消滅の危機にある。
 グローバル志向のエセ保守やリベラル左派にとって、日本民族を縁起とする全てが唾棄すべき消滅すべき民族主義の淵源であった。
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 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
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