⚔2)─2─寛正の飢饉と土一揆と東山文化。日本の歴史とは地獄の暗黒史であった。~No.3No.4 

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 「?」を持つと歴史はおもしろい -
 山川出版社
 長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)
 15世紀半ばに日本各地でおきた大規模な飢饉。1459~60年(長禄3~寛正元)の2年に及ぶ異常気象と蝗(いなご)の発生などによって,61年1月から食糧不足が顕著となり,毎日数百人に及ぶ餓死者と,没落して地方から上京して「非人乞食」とよばれた人々で京都は充満したという。時宗勧進僧願阿弥が幕府の命をうけ,六角堂前で2月末まで流民や病人の収容小屋を建てて施行(せぎょう)を行ったが,その間にも餓死者は京都だけで8万2000人を上回ったといわれる。京中では屍臭がひどく,死者の追善供養と死体処理のため四条・五条河原では施餓鬼会(せがきえ)が幕府の命をうけた五山僧の手で行われた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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 長禄寛正の飢饉(読み)ちょうろくかんしょうのききん
 改訂新版 世界大百科事典 「長禄寛正の飢饉」の意味・わかりやすい解説
長禄・寛正の飢饉 (ちょうろくかんしょうのききん)
 1459年(長禄3)に始まり61年(寛正2)まで続いた全国的飢饉。59年春夏の干ばつと9月10日の畿内への台風により,翌年にかけて畿内周辺から西日本一帯の飢饉となった。関東の争乱のため東国からの物資輸送が絶えたことや,翌年4月の大雨洪水による麦への打撃もこれに加わった。60年の米も春から初夏の干ばつ,5月以降の長雨,水害,低温,蝗害などで全国的に大凶作となり,河内,紀伊越中,越前では兵乱による荒廃も加わった。都では流民の餓死者が続出し,翌61年1~2月の餓死者8万2000人を数えたと伝えられる。3月末以後麦が飢えをいやしていったが,疫病がはやり庶民のみならず公家武家からも疫死者が出た。公的救済策はなされず,時衆願阿弥による都でのあわ粥施与事業が知られるが,飢饉をよそに将軍足利義政が御所造営事業などの奢侈にふけっていたことは有名である。この飢饉の中で応仁・文明の乱の発端となる両畠山家の衝突が起きている。
 執筆者:磯貝 富士男
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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 日本仏教は、死者を仏として葬る葬式宗教であり、死骸を火葬して遺骨・遺灰を墓に納める家宗教である。
 選択的夫婦別姓制度の目的は、祖先からの氏素性・戸籍を明らかにする家宗教(日本仏教・日本神道)の根絶である。
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 「生」を持つ日本民族は、「死」の地獄を生き抜いた祖先の子孫である。
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 日本民族とは、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた神話と宗教を持った先住民・日本土人である。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族とは、人殺し戦争を好む血に飢えた尚武の民ではなく、争いを嫌い死を怖れる脆弱な弱虫の民である。

 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、芸妓、舞妓、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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 2025年3月5日 note「【つの版】日本刀備忘録48:寛正飢饉
 三宅つの
 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
 鎌倉公方関東管領の対立で関東が東西に分裂し、諸国が御家騒動下剋上で混乱する中、長禄3年から寛正2年(1461年)にかけて全国的な大飢饉が発生します。幕府や諸大名は政争・戦争に明け暮れて民の救済どころではなく、怒り狂った庶民は土一揆を起こして掠奪による自力救済を行います。戦国時代の幕開けとなる「応仁の乱」の勃発は、もう間近に迫っていました。
 ◆室町◆
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長禄・寛正の飢饉
【中世こぼれ話】長禄・寛正年間の天候不順・飢饉に際して、将軍足利義政は実に無責任かつ無策だった
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
2021/4/2(金) 6:41
洪水による土砂崩れ。室町時代の飢饉による死者は洪水で流された。(写真:ロイター/アフロ)
 コロナの緊急事態宣言が解除されたものの、感染者は再び増加に転じている。政府には、対策をお願いしたいところだ。今から約560年前、将軍だった足利義政は天候不順・飢饉に際して、無責任な態度を示した。その状況を検証しておこう。
 長禄・寛正年間は政治的な混乱に止まらず、激しい飢餓の時代だった。長禄3年(1459)9月、山城・大和の両国が暴風雨に襲われ、京都の鴨川は洪水となり、多くの人々が亡くなった(『碧山日録』など)。こうした暴風雨や洪水は、山城・大和の周辺国にも大きな被害をもたらしたと考えられる。
 人命はもちろんであるが、事態は農作物の収穫などにも大きく影響したはずだ。そして、一連の自然災害は政治、経済、社会に深刻な悪影響を与えた。これらの大きな自然災害は、義政の政治手腕そして危機管理能力を試すこととなった。
 同年9月、東福寺派の禅僧雲泉太極は、僧侶が天下安泰を願って祈祷をしているのに、人々が自然災害や飢餓に苦しむ理由を5つあげている(『碧山日録』)。そのうちの3つは、神の怒りや祟りなので省略するが、(1)義政は明徳(聡明な徳)な人物であるが、側近たちがそれをくらましていること、(2)重臣たちの争いの間、民衆たちが徳政を求めて一揆を起こしていること、という2つは幕府の体制や将軍の能力に関わるものだ。
 太極の目には義政が聡明な君主として映っていたようで、諸悪の根源というべきものは、義政を支えるはずの側近らであった。2点目は当時問題となっていた、幕府重臣畠山政長・義就の抗争など)たちの争いである。混乱した幕府のもとにあって、民衆は徳政一揆を起こし、証文の破棄などを行っていたのである。
 こうなると、もはや義政個人の手に負えるような状況ではなかったのかもしれないが、義政が為政者である以上、甘えは許されるものではない。しかし、飢饉の状況は、ますます深刻さを増していた。
 寛正2年(1461)1月、前年の旱魃、長雨による異常気象やイナゴの害によって、未曾有の不作となった。京都は貧民で溢れかえり、餓死者が続出するという危機的な状況だった。四条大橋から賀茂川を眺めると、死体によって川が堰き止められ、死臭が一帯に充満する地獄絵図であったという。
 死体の数は、約8万2千人に上ったと記されている。これは、賀茂川周辺の死者の数であるから、実際には広い範囲でもっと多くの死者がいたことは想像に難くない。そして、都市京都には、周辺諸国からも多くの貧民が流入したといわれている。
 この事態に対して、義政の対応は比較的早かったといってもよい。同年1月には、数万人いたという物乞いらに対し、1人あたり6文を与えた(『経覚私要抄』)。さらに一条道場の聖を奉行とし、1人あたり50文が与えられた。このときは、約1万人の被災者数を見込んでいた。1文は、現在の貨幣価値に換算して100円程度である。後者の対策については、約5千万円を準備したことになる。
 この飢饉では、勧進僧願阿弥が救済に立ち上がったことで有名である。願阿弥の出自は知る由もないが、恐らく貧民の出身ではないかと考えられている。その願阿弥に援助の手を差し伸べたのは、他ならぬ義政であった。願阿弥が勧進によって供養したいという申し出に、義政は許可を与えた。
 『臥雲日軒録抜尤』によると、義政は願阿弥に対して、100貫文(現在の貨幣価値に換算して、約1千万円)を勧進した。義政が積極的に災害対策を行ったことをうかがえよう。
 義政の支援により、願阿弥ら勧進僧グループの精力的な活動が始まる。願阿弥は収容施設となる小屋を建て、貧民を収容した。足腰の立たない者は、竹輿で運んだという。食事を与えるときは消化に注意し、まず栗粥を与え、徐々に米飯へと切り替えた。死者が出るたびに埋葬し塚を作るなど、供養を行った。こうした活動に幕府から資金が出ているものの、勧進僧に任せきりという印象は拭えない。
 義政が資金を提供したのには、もちろん理由があった。同年1月、義政は夢を見た(『経覚私要抄』)。その夢とは亡父義教が夢枕に立ち、自らの生前の罪を悔恨の念で語り、物乞い等が餓死することを防ぐために施行をして欲しいと言ったことだ。
 願阿弥らの積極的な取り組みにもかかわらず、事態は好転しなかった。今のように医療技術が発達しているわけでもなく、衛生面も良好ではなかった。餓死者や病死者の数は止まるところを知らず、1日に3百人あるいは5百人になると言われた。
 死体は異臭を放って腐敗し、やがて伝染病が万延する元凶となった。義政にできることは、施餓鬼供養によって、死者の霊を弔うにしか過ぎなかった。神仏に祈るより他の手段がなかったのは、やむ得なかったのかもしれない。しかし、こうした事態もやがて解消されることとなった。
 かねてから雨の日が続いていたが、同年4月24日には今までになかったほどの大雨になった。その大雨によって、京都の至るところに放置されていた餓死者、病死者の死体は、一気に流されていったのである。死体の措置に困惑していた都の人々は、この大雨に喝采した。願阿弥らが昼夜なく死体の処理に従事しても追いつかなかったのが、自然現象によって一気に解決されたのだから、何とも皮肉な話である。
 結局、義政は主体性を持って飢饉などに対応したのではなく、あくまで他人任せだった。その無責任さと無策には、呆れるよりほかがない。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書、『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。
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 長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』に史料が豊富に残る。 
 2か月で8万2千もの餓死者。
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 寛正の土一揆とは、日本の室町時代中期、寛正年間に起きた土一揆のこと。特に寛正の飢饉のピークであった寛正3年(1462年)の一揆を指す。
 寛正の大飢饉による混乱の最中の寛正3年9月に京都において徳政令を求める土一揆が発生、浪人や在京大名の内者(被官)までが加わって、土倉などから財物を奪ったり、下京にて火を放つなどの行為に及んだ。10月になると今度は木津の馬借らが奈良で一揆を起こし、一旦は沈静化していた京都でも一揆が再発して京都七口を封鎖したため、室町幕府は侍所所司代・多賀高忠、次いで赤松政則ら在京大名に鎮圧を命じた。最終的には京都では諸大名の軍が、奈良では大和国の守護でもある興福寺の六方衆が一揆を鎮圧、参加者に対しては首魁の蓮田兵衛をはじめ処刑も含めた過酷な報復が行われた。
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 2024年6月11日 戦国ヒストリー「【やさしい歴史用語解説】「飢饉」
 『天明飢饉之図』(出典:wikipedia
 「飢饉」とは日照り・長雨・台風などによる天候不順、あるいは虫害などによって農作物が不作となり、人々が飢えることを意味します。また時の政権による失政が重なることで、人為的な災厄をもたらすこともあるのです。
 特に四季があって天候が目まぐるしく変わる日本では、歴史と飢饉は切り離せないものでしょう。現代では天候対策や品種改良が進んだことで被害は最小限に食い止められますが、そうではない時代では社会基盤を揺るがすほどの災害となりました。
 飢饉に関するもっとも古い記録である『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代に
 「大水のために人々は飢えて人肉を食らった」
 「凶作に遭って人身売買が横行した」
 などと書かれ、当時の悲惨な様子がうかがえます。
 記録が詳細になってくる中世では、時の政権すら脅かすほどの飢饉が起こりました。例えば養和元年(1181)に起こった「養和の飢饉」では、高温・日照りのために西日本一帯が凶作となり、兵や兵糧を集められなかった平氏は源氏軍の侵攻を許してしまいます。
 また、15世紀半ばの「長禄・寛正の飢饉」においては、全国的な凶作で未曽有の犠牲者が出たのですが、将軍・足利義政は何ら有効な手段を打つことなく被害が拡大していきました。この飢饉によって室町幕府の権威は地に落ちたとも。
 長禄・寛正の飢饉の際、無策に徹した将軍・足利義政wikipediaより)
 中世は農業技術が未発達だったこともあり、潅漑用のため池や水路なども十分ではなく、とにかく水利の良い場所だけに水を引いて水田を作っていました。そのため開墾はなかなか進まず、ひとたび凶作になると壊滅的な被害をもたらしました。
 さて、江戸時代に入ると、幕府の奨励もあって爆発的に新田が増えていきます。また中世と比較しても人口は大幅に増加し、新しい農業生産技術も導入されました。
 ところが不思議なことに、江戸時代中期に人口3千万人まで達しながら、それ以降は頭打ちとなって幕末に至るまでほとんど人口に増減が見られないのです。これはいったいどういうことでしょうか。
 実はこの時代、気候学で言うところの「小氷期」に入っていました。すなわちプチ氷河期と呼ばれるものです。日本だけでなく世界は寒冷化し、作物が育ちにくい状況となっていました。
 そのため新田こそたくさんあるものの、農作物が採れないという悪循環に陥ります。特に被害が大きかったのは東北地方を中心とする東日本で、もともと稲作に適していないうえに、天候不順や冷害という難敵が襲い掛かったのです。
 江戸三大飢饉享保天明天保)と呼ばれる飢饉のうち、二つが東北地方に壊滅的な被害をもたらしました。特に天明の大飢饉(1782~88年)では、数十万人規模の餓死者を出し、災害が治まったのちも復興までに長い時間を要したといいます。弘前藩では人口25万人に対して、実に死者が8万人という惨憺たる有様だったそうで、地域経済どころか社会そのものを破壊する天災となったのです。
 天明の大飢饉(1782~88年)で、馬や人の肉を食べる人々を描いたもの。(出典:wikipedia
 天明の大飢饉(1782~88年)で、馬や人の肉を食べる人々を描いたもの。(出典:wikipedia
 飽食とされる現代では、食べることが当たり前になっていますが、過去の悲しい歴史を振り返ると同時に、食の大切さ・ありがたさに思いを馳せたいところですね。
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この記事を書いた人
 明石則実 さん
 幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...
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 2020年4月30日 note「『百鬼夜行絵巻』が物語る、飢餓と疫病による“絶望”の記憶
 ほんのひととき
 「生」と「死」の距離がとても近かった中世の日本。災害や疫病によって社会が不安で覆われたとき、中世の人々は何を信じ、どのように対処しようとしたのでしょうか。当時の「日記」をもとに、中世の怪異を時代背景とともに解説した書籍『中世ふしぎ絵巻』(西山 克・文/北村さゆり・画)より抜粋してお届けします。
 中世ふしぎ絵巻RGB
 室町時代の日本社会は繰り返し災害に襲われたが、いわゆる応仁の乱の直前、寛正年間(1460〜66)に起こった大飢饉は、未曽有の餓死者と疫病による死者を出した。私は、室町時代に制作された謎の絵巻『百鬼夜行絵巻』が、この寛正の大飢饉と何らかのつながりを持っていると考えている。『百鬼夜行絵巻』は当時『妖物絵』と呼ばれており、『妖物絵』は寛正の大災害の記憶を留める絵画であると。
 死霊を導くプラットホーム
 その寛正の大飢饉のさなかのことである。東福寺の僧雲泉太極の日記『碧山日録』寛正二(1461)年二月晦日条によると、ある僧が八万四千本の小片の卒塔婆をつくり、京中に放置された死者の上にそれを順次に置いていったところ、最後は二千本しか残らなかったという。誇張のある数字ではあるだろうが、想像を絶する大量の死者が野ざらしになっていたことだけは読み取れるだろう。飢餓と疫病は都を麻痺状態に陥れていた。
 そうした状況のなかで、同年三月から四月にかけて、京都五山の禅院が相ついで死霊救済のための水陸会(すいりくえ)[施食会(せじきえ)]を行った。彼らは施食壇を橋の上に設けた。建仁寺万寿寺は鴨川にかかる五条橋、相国寺東福寺南禅寺は四条橋、天龍寺は嵐山渡月橋の上に。
 想像していただけるだろうか。飢餓・疫病・恐怖・不安・怨嗟……、絶望の淵に沈んだ都の橋の上に、膨大な死者たちのための祭壇が設けられ、香が焚かれ、鉦が鳴らされ、読経の声が響きわたる。河原に散乱した多量の死骸は、衛生状態の悪化を防ぐため、大穴を掘って埋める以外に手立てがなかった。その河原に架けられた橋という装置に、いま祭壇の幡(ばん)が風になびいている。この儀礼が水陸会と呼ばれていることは、南宋時代の中国で広まった死霊救済の儀礼を継承するものとして重要である。非業の最期を遂げた死者たちはこの儀礼の過程で浄化され、菩薩に導かれながら天上に向かう。死者を乗せるという銀河鉄道の始発駅が、都の大橋だったわけだ。そのプラットホームから昇天していくような死者たちの姿を、鮮やかに幻視した人びともいただろう。
 日本の室町時代と対応する中国明代の水陸会では、仏教や道教や民間の神々を招き、様々な死にざまの死者たちを救済するために、極彩色で描かれた多量の絵画を用いた。それらは水陸画と総称されており、その一部は日本にも伝えられている。じつは水陸画やそれに親近性のある絵画に描かれた図像のいくつかは、『百鬼夜行絵巻』の画面にも姿を変えて登場しているのである。
百鬼夜行絵巻』諸本のなかで唯一室町時代に描かれた大徳寺真珠庵本の画面には、多種多様な妖物がうごめいているが、そのほとんどは器物の怪として描かれている。生活道具や楽器や法具などが動物や小鬼のような身体を持って活動しているのである。
 こうした器物の怪は『付喪神(つくもがみ)絵巻 *1』にならって付喪神と呼ばれる。しかしこの鬼神の呼び名である「つくも」は、元来は作物という漢字をあてるべきだろうと私は思う。天皇の家政機関に「作物所」という役所があって、天皇上皇たちが使う調度類を造進するのを仕事にしている。これを「つくもどころ」と呼ぶ。調度類の神だから作物神なのである。
 *1:付喪神が調伏され成仏するまでを描く絵巻物
 ただ『百鬼夜行絵巻』の妖物たちがすべて日本産の器物の怪というわけではない。そこには同時代の中国画の影響も見え隠れしている。
 中国画の図像
 たとえば大徳寺真珠庵本で謎とされている、巨大な蚤のような形をした赤い奇妙な生き物も、水陸画をソースとしていた可能性がある。中国河北省石家荘に宝寧寺というお寺がある。その水陸道場には儀礼の場に懸けられた百数十幅の水陸画が伝来している。そのうち「大威徳不動尊明王」を描いた画幅に、真珠庵本のそれにも似た奇妙な生き物が現れる。赤い生き物。それは昆虫のような細く繊細な足を持っている。この画幅を左右に反転すると、剣を振り上げる不動尊が、真珠庵本において奇妙な生き物を木槌で打とうとしている小鬼と、構図的に重なってくる。『百鬼夜行絵巻』の図像の謎の一部は、明代水陸画との比較で解けるのである。
 絵師はなぜ、水陸画やそれに親近性のある絵画の図像を借りたのだろう。国際日本文化研究センター所蔵の『百鬼ノ図』には鳥羽僧正(とばそうじょう)の『鳥獣人物戯画』から影響を受けた図像も多い。それら以外に何が必要だったのか。中国画に描かれた日本の宮廷画壇にない新奇な図像に、アーティストとしての遊び心を搔きたてられたのか。それとも水陸画――水陸会の救いを意識したのか。少なくとも『百鬼夜行絵巻』つまりは『妖物絵』は、寛正の大飢饉という未曽有の災害のさなかに遊び呆ける権力者への批判のために描かれたと私は考えている。
 国家と社会を極限状態に追いやった災害の記憶を留める絵画――。膨大な餓死者と病死者を目の当たりにした人びとの、記憶の紡ぎだす物語が、聞こえないか。
 ©水木プロ
 【参考文献】
・東京大學史料編纂所編『大日本古記録 碧山日録 上』(岩波書店
小松和彦百鬼夜行絵巻の謎』(集英社
・『宝寧寺明代水陸画』(文物出版社)
 西山 克=文 北村さゆり=画
 西山 克(にしやま まさる) 京都教育大学名誉教授
 東京都生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得。東アジア恠異学会前代表。著書に『道者と地下人―中世末期の伊勢―』(吉川弘文館)、『聖地の想像力―参詣曼荼羅を読む―』(法蔵館)などがある。
 北村さゆり(きたむら さゆり) 日本画
 静岡県生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科修了。宮部みゆき著『三鬼 三島屋変調百物語四之続』(日本経済新聞出版)の表紙を担当するなど幅広く活躍中。
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 2022年6月17日 カルチャー・プロ「応仁の乱
 足利義政がわが世の春を謳歌していたころ,いっぽうで不思議な現象や天変地異がつづきます。
 まずは長禄3年(1459)のことです。この年は,正月に義政の愛妾のお今が殺され,いわば不吉に明けた年です。この年の6月19日と7月20日の2回,空に2つの太陽が現れたといいます。これを見た多くの人々は,驚き,おそれおののきました。翌月の8月18日,ちょうどお昼ごろ,今度は太陽が急に銅色(あかがねいろ)に変わったので,またまた人々はおそれました。
 はたして9月になると,それまでの日照りつづきが一転して長雨となり,賀茂川が氾濫して都は大変な被害にあいます。翌年の寛正元年(1460)の6月7月はまたも長雨続きで,8月には洪水となりました。ところが翌2年は,春から夏にかけて雨がまったく降りませんでした。こうした3年越しの天候異変は,人びとにも悪影響をもたらします。
 寛正の飢饉と呼ばれる大凶作によって作物はまったく実らず,多くの人が飢えて町をさまよい,行き倒れて亡くなる者も多くいました。そのうえ,洪水のあとには疫病が流行し,多数の人が死にます。その死体を賀茂川に捨てたため,死体によって川の水がせき止められ,積み重なった死体の悪臭が町々に満ちて,住民たちは大へん悩まされました。そうしたところへ,徳政を要求する農民らが京の町に乱入してきて,京都市中は,まさに地獄さながらというありさまとなりました。
 そうした状況を幕府や武家が知らなかったはずはありません。しかし将軍も有力武家も知らん顔で,税だけは厳しく取り立てました。天変地異によって凶作となった農民の多くが,土地を捨て,乞食になりました。都の周囲は荒れ果てた田畑ばかりです。将軍足利義政がやったことといえば徳政令を出したぐらいのものです。一代中じつに13回も徳政令を出しました。歴代将軍のワースト記録です。
義政には子供がいませんでした。早く引退して趣味の世界に生きたい義政は,将軍職を継がせることを条件に,弟の義視(よしみ)を養子にしました。一年後の寛正6年(1465)11月20日,義視は元服の式を挙げました。すでに27歳になっていましたが,将軍就任を前程とした元服式です。
 ところが,その三日後,富子夫人に男の子(義尚)が生まれたのでした。「万民歓呼,天下万民の基なり」とある僧侶の日記に記されました。義政が将軍職をゆずることを前提に義視を元服させたことは明らかです。しかし富子にしてみれば我慢のならないことです。正夫人が生んだ男子に継承権がなく,夫の弟でしかも妾腹の義視が継ぐというのです。富子は,山名宗全を義尚の後見人にして,細川勝元を後見人とする義視に対抗します。
こうして,山名宗全細川勝元という宿敵どうしが,またまたしのぎを削ることになりました。いよいよ応仁の大乱へと時局は動いて行きます……。
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 2020年7月6日 YAHOO!JAPANニュース「地震、飢饉、疫病が続発し、南北朝から戦国時代へと乱世が続いた室町時代
 (提供:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)
 南北朝から戦国時代へと続く乱世の時代
 室町時代の災禍について紹介する前に、歴史を簡単に復習しておきます。足利尊氏の裏切りと新田義貞による攻撃で鎌倉幕府が滅亡し、1334年に後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりました。ですが、天皇中心の政治に武士の不満が高まり、尊氏が都を奪い、武家中心の社会に戻りました。尊氏は後醍醐天皇に対抗して光明天皇を立てたため(北朝)、後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝)、1336年に南北朝時代が始まります。
 尊氏は守護の権限を拡大して各地の武士をまとめます。守護は後に守護大名化します。国人と呼ばれた土着の武士は集団化し、後に戦国大名になっていきます。農村でも、荘園などの内部で農民たちが自立的・自治的な惣村を作り集団化しました。また、貨幣経済の浸透で商工業が栄え、流通も盛んになりました。
 こうして、社会が多様化し、民衆の力が高まりました。その結果、幕府の力が弱まり、飢饉も頻発して、土一揆国一揆一向一揆などが各地で起き、社会が乱れました。そして、足利義政の跡継ぎ争いや、守護大名間の勢力争い、守護大名家督争いなどが絡んで1467年に応仁の乱が始まり、戦火が全国に広がりました。応仁の乱守護大名が出陣したため、各地では、留守を預かった守護代や国人が力を持ち、下剋上が起こり、戦国時代につながりました。これらの背景には、すさまじい災害と疫病、飢饉があったようです。
 北条の反乱のさ中に鎌倉を襲った大風
 鎌倉幕府の執権だった北条高時の遺児の北条時行は諏訪に逃れていましたが、1335年に足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府の再興を企てました。まさにその時に暴風雨で大仏殿が潰れ、大仏殿に逃れた500人が命を落としたと言われています。大風が吹かなかったら、時代は変わっていたかもしれません。
 この争乱は中先代の乱と呼ばれ、後醍醐天皇の命を受けた尊氏によって鎮圧されます。翌1336年には、尊氏らが京都に戻って建武の乱を起こし、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を始めます。尊氏は、建武の式目を発表し、1338年に征夷大将軍になって室町幕府を始めました。尊氏は、鎌倉幕府後醍醐天皇を裏切ったため、余り人気が無いようです。
 南北朝の内乱の時代に起きた疫病の頻発と南海トラフ地震
 南北朝の時代は1392年に足利義満によって合一されるまで、約60年続きました。この間、南朝では8回、北朝では17回の改元が行われます。その内、災異改元は、南朝が4回で、天変が2回と兵革が2回、北朝は10回で、重複はあるももの、疫病に関わるのが8回、天変が7回、兵革が6回あります。すなわち、南北朝の60年は疫病と天変と内乱の時代でした。
 1361年8月3日には南海トラフ沿いで正平・康安地震が発生します。正平は南朝、康安は北朝元号です。奈良や大阪、熊野で堂塔が倒壊、破損し、和歌山の湯の峯温泉が涸れるなどしたようです。また、高知、徳島、大阪での津波の記録も残されています。南海地震側の震源域の被害記録が多いようですが、最近、各種のデータから東海地震も連動したと考えられるようになりました。また、この地震の1年前に津波を伴う地震があり、3日前と2日前にも京都が強く揺れる地震がありました。これらが同じ震源域内の地震かどうかは不明ですが、もしも震源域周辺の地震だったとすると、南海トラフ地震臨時情報の活用が期待できることになります。正平・康安地震や疫病、兵革もあり、1362年に北朝元号が康安から貞治に改元されます。
 ちなみに、ヨーロッパでは、この南北朝の時代に、1339年から英仏間で百年戦争が始まり、1347年にはペストが蔓延し、ルネッサンスの時代へとつながっていきます。
 応仁の乱に至る間の地震、飢饉、疫病による混乱と一揆
 南北朝の時代が終わった後、室町幕府は、応永の乱で大内義弘を討つなどして守護大名の力を削ぎ、明との勘合貿易などで豊かになって、安定期を迎えました。その中、1408年に紀伊や伊勢に被害を出した応永地震が起きています。
 その後、1419年に洪水や大風・干ばつなどが、1420年に大干ばつが発生し、凶作で応永の飢饉が起きました。さらに1428年にも2年続きの飢饉が起き、農民が徳政を望んで正長の土一揆を、翌年には播磨の土一揆を起こしました。1438年にも飢饉や疫病が起き、1441年に嘉吉の徳政一揆が起きます。この年には、播磨の守護の赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱も起きました。さらに、1445年には諸国を台風が襲い、1446年は大洪水、1447年には大風、洪水、干ばつなどがありました。このため、凶作と疫病で文安の飢饉となり、徳政を求めて文安の土一揆も起きました。
 東国での地震、争乱と応仁の乱
 関東地方では、1433年に永享相模の地震が起き、1436年には鎌倉で大火があります。さらに、1454年には東北地方太平洋沖を震源とする享徳地震が発生します。この地震東日本大震災と同様の超巨大地震です。直後には、鎌倉でも大地震があったようです。こういった中、関東地方を中心に戦国時代の先駆けともいえる四半世紀に及ぶ享徳の乱が始まります。
 関東での争乱の中、1459年の干ばつと台風、1460年の大雨洪水、冷害、バッタの蝗害(こうがい)などが重なって各地で凶作となり、長禄・寛正の飢饉が起きました。飢餓に陥った人が都に集まり、飢えと疫病に苦しんで大量の犠牲者が出ました。この中、寛正の土一揆が起きます。そして、混乱が続く中、1467年に応仁の乱が始まり、都は焼け野原となります。
 地震だらけだった戦乱の時代
 応仁の乱終結した後、1485年に山城の国一揆が、1488年に加賀の一向一揆が起き、1493年の明応の政変の後、本格的な戦国時代に突入します。この戦乱の中、大地震が続発します。1495年9月12日に明応鎌倉地震が起きました。一説では、この地震津波に乗じて、戦国大名北条早雲小田原城を奪取したともいわれています。鎌倉大仏殿が津波で破壊されたとの説もあり、相模トラフ沿いの地震の可能性も指摘されています。ただし、いずれも諸説あるようです。もしもこの地震が相模トラフ沿いの地震だとすると、1293年永仁鎌倉地震、1703年元禄地震、1923年大正関東地震と、200年に一度くらいの頻度で地震が起きていることになります。
 1498年には7月9日に日向灘地震があり、9月20日には南海トラフ沿いで明応地震が起きます。被害は甚大で、安濃津浜名湖津波被害などが、伝えられています。ですが、戦乱の時代の中のため、その真偽は良く分かりません。相模トラフ沿いと南海トラフ沿いの地震が3年の間隔で発生したとすると、1703年元禄地震と1707年宝永地震と同様の連続発生だったことになります。
 その後、1502年に越後南西部での地震、1510年に摂津・河内の地震、1520年に紀伊半島や京都で被害が記録される永正地震などの被害地震がありました。また、1535年には美濃で大水があり2万人が犠牲になったとの記録もあります。ただ人数が多すぎる気もします。斎藤道三と土岐頼純が激突し戦火が広がっていたさ中の洪水です。
 さらに、1539年に大雨・洪水、蝗害で飢饉が発生し、1540年にも大雨・洪水や疫病流行などが起き、天文の飢饉になりました。畿内では、1544年、1557年にも洪水が起きたようです。そして、1560年に今川義元織田信長が雌雄を決した桶狭間の戦いを迎えます。
 大航海時代のヨーロッパの影響が日本に忍び寄る
 明応地震が起きた1498年は、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開いた年です。これ以降、ヨーロッパと東アジアが海路で結ばれ、香辛料やお茶などの交易が盛んになります。また、1492年にコロンブス西インド諸島を発見し、コロンブス交換が起こり、アメリカ大陸から梅毒が欧州に伝わり、逆に天然痘などがアメリカ大陸に伝わりました。この天然痘によって中南米アステカ文明とインカ文明が滅びました。1521年にスペイン人のコルテスが中米のアステカを征服し、1533年にピサロインカ帝国を滅亡させます。マゼランの率いたスペイン艦隊が世界一周を成し遂げたのは1522年です。日本が戦乱に明け暮れる中、世界は大航海時代に突入しました。また、ルターが1517年に95か条の論題を発表して宗教改革を始め、欧州は大きく変貌していきます。
 その影響は、日本にもやってきました。アメリカ大陸から伝わった梅毒が倭寇を介して日本にも伝染し、1512年に流行を起こしました。有名な戦国武将の浅井長政加藤清正も感染したようです。また、1543年に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、1549年には、宗教改革に対抗するイエズス会フランシスコ・ザビエルキリスト教を伝えます。そして、織田信長豊臣秀吉徳川家康による天下統一へと時代が進んでいきます。
 様々な災害や感染症、西洋との関りを考えることで、室町時代の歴史の変遷が分かりやすくなるような気がします。
 福和伸夫
 名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
 建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
 歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。
 2022-01-16
 長禄・寛正の飢饉ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する
 新九郎、奔る! 後花園天皇ノート
 トンガの海底火山であるフンガトンガ・フンガハアパイ火山のVIE(火山爆発指数)は6と言われています。これは「並外れて巨大」「100年に一度」という状況で、近年ではフィリッピンのピナトゥボ火山(1991年)が同等の噴火規模と言われています。この噴火の結果、日本では1993年の冷夏と米不足を招きました。
 同等のVIEを持つ海底火山の噴火として知られているのが1452年から1453年にかけて噴火したバヌアツ共和国の海底火山のクワエです。この噴火がめぐりめぐって日本では「長禄・寛正の飢饉」を引き起こした、と言われています。
 長禄・寛正の飢饉、特にひどかったのが寛正二年(一四六一)なので私は「寛正の飢饉」と呼んでいます。
 この年、京都では8万超えの餓死者が出て、後花園天皇足利義政漢詩を贈って義政を諌めた、という逸話があります。
 ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』では第1巻と第7巻で出てきます。
 第1巻では17ページ〜18ページに新九郎の育ての親の大道寺右馬之介が「先の寛正の大飢饉の折も、伊勢守様は寝る間も惜しんで対策に当たられた。」といい、それに対して新九郎(当時は幼名の千代丸)が「民は京で八万人も餓死したと聞いたぞ。」と言いますが、右馬之介は「それほど手の施しようがなかったのです。無論、飢えた民は我らを恨みもしましょうが、上の者がいかほど手を尽くそうが。下賤の者どもは恨言を並べるものです。」と返し、新九郎は納得できない顔で黙り込みます。
 後の北条早雲の撫民説話の伏線にもなっている話です。
 次に出てくるのが第7巻の73ページから。
 疫病の流行で手をこまねいて有効な手立てをうてない義政の政治責任を問う御台所日野富子と義政の関係は少しずつ悪くなっていきます。
 富子「御所様は、寛正の飢饉の際も手を拱いてばかりで、先帝(後花園天皇)からお叱りを受けたではありませぬか。」
 義政「お叱りを受けたわけではない。漢詩を送られたのだ。」
 富子「またそのような毛づくろいを。恥入ったのではなかったのですか。」
 寛正の飢饉の際の後花園天皇漢詩については拙著『乱世の天皇』でも取り上げています。飢饉に際して無為無策の為政者に対して漢詩を贈り、心を入れ替えさせる英邁な天皇という立場は後花園天皇の生涯の一つのクライマックスと言えるでしょう。
 sengokukomonjo.hatenablog.com
 実際にはクワエの噴火によるエアロゾルが寛正の飢饉の直接的な結果であったか、というのはなかなか難しいかもしれません。間接的な影響は否定できないでしょうが、この寛正の飢饉の直接的なきっかけは畠山氏の内紛です。
 畠山持国の後継をめぐって畠山義就畠山政長が対立し、畠山氏の領国である河内国が戦場となって生活に困った人々が京都に押し寄せて飢饉が引き起こされたものと考えられています。そしてその時死んだのは、京都の住民ではなく、河内国をはじめとした畿内から京都に入ってきた人々である、と考えられています。
 寛正の飢饉の直接の引き金を引いたのは畠山氏の内紛であり、さらには畠山氏の内紛をきちんと抑えることもできなかった足利義政の失政に原因があるでしょうが、さらにその底流には海底火山噴火の影響がなかったとは言えないでしょう。
 その気候変動が引き起こしたかもしれない事件として、コシャマイン戦争などもあるかと思います。この辺はまだまだ研究の余地が大きいと思います。
 今回クワエのあるバヌアツから2000km離れたトンガで起きた噴火は、長期的には世界の気候変動に関係してくるかもしれません。
 新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)
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