🏞77)─1─旗本の多くは家祖の家禄だけでは生活できず赤字で借金に苦しんでいた。~No.314No.315 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 武士の家禄は、江戸幕府開闢時に決まっていた。
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 武士は食わねど高楊枝。
 武士の痩せ我慢。
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 武士は武士の意地・沽券・体面から、貧困に耐えながら農作業をしたが金儲けの為に商売はしなかった。
 領民(百姓)は、年貢の為のコメ作りをおこなったが、農閑期では現金収入になる作物や商売をおこなっていた。
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 日本の武士は、西洋の騎士・貴族や中国の士大夫・読書階級や朝鮮の両班とは違っていた。
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 週刊新潮7月24日号 「夏裘冬扇 片山杜秀
 ルサンチマンは強し、権力は脆し
 ……。
 もともと多摩は政治社会への意識が高い。旗本の狭い領地が多かったせいだろう。旗本は零細。家来を多く雇えない。狭い領地に代官を配置するなんて実際的でもない。そこで農民が武士の代役をする。事務をし、剣術もし、学問もする。だから幕末には多摩の農民から近藤勇土方歳三が現れもした。天下国家を論じたい、まことにうるさい奴らが、江戸の隣にたくさん育っていた。
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 PRESIDENT Online ACADEMY
 第8話
 仕事に役立つ「日本史」入門10
 そうだったのか、武士の「給料」と「人事評価」
 江戸時代の武士は現代のサラリーマンより豊かに暮らしていたのか。マネー事情や出世競争は? 当時の実情に詳しい識者に聞いて解き明かす。
 プレジデント編集部
 雑誌は1963年、米国タイム社の経済誌「フォーチュン」提携誌として創刊。ビジネスリーダーの問題解決を編集方針とする。2000年に月刊から月2回刊にリニューアル。創刊60年目の2023年から雑誌編集部によるアカデミー事業運営開始。
 1両あれば一カ月は暮らせる
 江戸時代、武士の給与は先祖から受け継いだ「家柄」によって決まっていた。これを「家禄」という。当時はコメ本位経済で、年貢の量、身分などすべてがコメで管理されており、給与についてもコメの量で提示された。
 コメを量る単位は「石」「俵」「斗」「升」「合」(※)。土地の標準的な収穫量は「石」を用いた「石高」を基準にし、「石高制」と呼んだ。
 ※1石=10斗=100升=1000合≒180L 1俵=3斗5升or4斗
 「通貨に換算すると1石は、だいたい金1両という相場でした。江戸時代は1両あれば、なんとか1カ月暮らせるといわれていました。いまよりはるかに質素な暮らしぶりですが、現代価値で10万~20万円程です」
 そう説明するのは、歴史学者国際日本文化研究センター名誉教授の笠谷和比古氏。
 では、武士の平均的な給与はどのくらいだったのか。
 「幕府に直接仕える武士は、将軍に挨拶できる『旗本』(約5000人)とその資格のない『御家人』(約1万5000人)に分かれます。このうち旗本と御家人との境目は家禄100石あたり。この階層で給与を考えたとき、税率は三ツ五分(35%)が基本なので35石が手取り収入となります。35石は現代では年収500万円を少し超える計算です」(笠谷氏)
 旗本と御家人といった階級の違い自体は、給与とは関係ない。家禄により給与は低くても、身分の高い家やその逆もある。戦で活躍さえすれば昇進できるというシステムであり、事務処理能力が高くても評価されることはなかった。
 「江戸時代の初期、武士の本分は戦場での槍働きだという気概がありました。ただし算盤や帳簿つけなどの行財政も必要な仕事です。武士の集団のなかで『やれ』と指名されれば避けて通れません。そうして担当を任される武士は『ひ弱な人間』という評価であり、非常に不名誉だと考えられていました」(同)
 だが、一途に武士が腕を磨き続ければいいという時代は次第に終わりに近づく。江戸時代初期の島原の乱(1637年)を最後に大きな戦はなくなり、武士はそれまでの働き方を変えることを迫られたのだった。
 「元禄(1688~1704年)、享保(1716~36 年)と官僚化が進むにつれ、武士の価値観は逆転します。算盤や帳簿づけが中心の勘定所が花形職場となり、事務処理能力の高さが評価ポイントとなりました」(同)

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 2025年4月5日13:50 YAHOO!JAPANニュース MANTANWEB「<解説>「べらぼう」で田沼意次が直訴した旗本の借金苦 武士の家計簿が赤字続きだった理由は 内職&“節約ビジネス”も流行
 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第13回の場面カット (C)NHK
 俳優の横浜流星さん主演のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(総合、日曜午後8時ほか)の第13回「お江戸揺るがす座頭金」(3月30日放送)では、老中・田沼意次渡辺謙さん)が、十代将軍・徳川家治眞島秀和さん)と世継ぎの家基(奥智哉さん)に面会し、江戸城西の丸に勤務する旗本の多くが借金漬けになっている証拠を示して窮状を訴える様子が描かれた。
 【写真特集】知ってた? 借金苦の旗本が吉原に売った娘の“正体”! 写真も公開!!
 その際、引き合いにしたのが、借金返済に窮して家族とともに逐電した森忠右衛門(日野陽仁さん)。実在したエリート旗本だが、史実でも借金苦から頭を剃って出家した。
 ◇給料は米の現物支給 給料を担保に借金を重ねる
 将軍の家臣である旗本と御家人幕臣の給料は米の現物支給だった。忠右衛門の場合、将軍から与えられた領地があり、その米の生産量は600石。このうち60%が領民に、40%が忠右衛門に分配されるので、実質収入は240石。幕府の公定レートでは1石の米は1両(現在の価値で約10万円)に相当し、忠右衛門の年収は約2400万円。
 高収入のようだが、楽ではなかった。江戸時代を通じて飢饉のときを除き、米の値段は安定もしくは下がる傾向にあった。公定レート通りに換金できず、旗本の収入は目減りする。他方、米以外の諸物価は値上がりを続けた。しかも旗本は軍役といって、いざというときに将軍のために出陣する義務を負う。忠右衛門クラスの旗本だと、10人前後の家来を常にそろえておかなければならず、その人件費だけでも家計を圧迫していた。
 大坂東町奉行所の与力で、1837年に幕府に対して反乱を起こした大塩平八郎の家計簿が残されている。年収は手取り80石(800万円)だが、換金して生活費と人件費を差し引くと年間12両(120万円)の赤字だった。また、300石の旗本の給与と支出明細によると、年間33両(330万円)の赤字を解消できない状況が続いていた。
 幕臣が頼ったのが札差だった。幕府の米蔵から給料として搬出される米の運搬、換金を代行する業者で、やがて米を担保に幕臣に融資する金融業も営むようになる。109人の札差が株仲間に公認され、独占的に営業した。利息は年利18%と高利だ。
 数年先の給料を担保に借金を重ね「10人のうち6、7人が前々の借金のため今年の切米(給料の米)が一粒もない」(三田村鳶魚「札差考」)ありさまとなり、旗本らは座頭金に手を出すようになる。もちろん返済のあてはない。「カネ借りて高利座頭(こおりざとう)をかみ砕く」と言われるほど踏み倒しが多かった。そんな強気な旗本たちを震え上がらせたのが鳥山検校で、あこぎなやり方は「べらぼう」に描かれた通りだ。
 ◇武士の内職は職人肌 不動産ビジネスも手がける
 「べらぼう」では“家督乗っ取り”という表現が使われているが、カネの力で検校が自分の子弟らを旗本家に養子に入れる事例はあった。有名なのは勝海舟の曾祖父・米山検校だ。鳥山検校が摘発される10年ほど前、米山検校は旗本・男谷家に自分の息子を養子に入れて、同家を継がせた。米山検校の孫にあたる小吉が男谷家から勝家に養子に入り、小吉の息子が勝海舟である。 
 裕福な町人も子弟を旗本の養子にし、高額の持参金で借金返済を立て替えるケースが多くなった。江戸後期の社会評論「世事見聞録」によると、武家では養子も嫁も持参金の額を優先させる風潮になった。さらに、自分たち両親の生活費も終生負担してくれる町人を優先的に養子として迎え入れ、あるいは娘を嫁に出したケースもあったという。
 旗本よりも収入の低い御家人は内職に励んだ。傘張り、提灯張りのほか、草花栽培、植木、竹細工、スズムシの繁殖、木版彫りなど多岐にわたった。新宿区百人町の由来になった鉄砲組百人隊の御家人たちが屋敷の庭でツツジを栽培して展示即売会を開き、「江戸名所図会」にも紹介される名所になった。今のJR御徒町駅の周辺に住んでいた御家人たちの間では、朝顔栽培が盛んで奇抜な形をした変化朝顔を生み出し販売した。「入谷朝顔まつり」の起源である。
 彼らは不動産ビジネスにも手を染めていく。旗本と御家人の屋敷は幕府から無償貸与される。敷地の一部を町人に貸して地代収入を得るケースも急増した。敷地に賭場、売春宿がひそかに出来て、地代のほか売上の一部を収入にあてる町奉行所の役人(御家人)もいたほど、規律が緩んでいった。
 旗本の給料を預かり、家計のやり繰りを代行する町人のコンサルタントも現れた。当然ながら旗本が自由に使えるカネは与えられない。家来を常時雇う余裕のない武家向けに、必要に応じて家来を提供する人材派遣業が誕生した。武家同士でやりとりされる贈答品を買い取り、安く販売する献残屋というリサイクル商売も流行。武家相手の“節約ビジネス”である。
 後に意次が失脚すると、幕府は幕臣が抱える過去の借金を帳消しにする救済策を強行した。このとき札差が失った債権は118万7800両(1187億8000万円)。札差も反撃に出た。「不良債権処理が大変なので今後の融資はできません」。貸し渋りである。たちどころに幕臣の生活は行き詰まった。幕府は札差に助成金を交付し幕臣への融資継続を依頼せざるを得なくなった。
 「べらぼう」第13回で印象的なシーンが二つある。幕臣の手取りを増やすために米の値段を上げろと主張する松平武元(石坂浩二さん)に対して、意次が「カネの動きを操るのは森羅万象を操るようなもの。人の力ではなし得ぬ」と抗弁するシーン。
 もう一つは、家治と家基に向かって意次が「恐れながら将軍家はおのれの旗本すら養えておらぬのでございます」と言い切るシーン。米を経済の柱に据えるかぎり武士の世界が破綻していくことを、意次は看破していた。(文・小松健一
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 3月30日MicrosoftStartニュース イザ「大河「べらぼう」20年昇給なし…「氷河期世代みたいで切ない」「失われた20年」 江戸城勤めの武家の意外な懐事情に驚きの声
 田沼意次渡辺謙)、長谷川平蔵宣以(中村隼人)(C)NHK
 © iza
 俳優の横浜流星が主演を務めるNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK総合など)の第13回が30日、放送され、借金を抱えて苦しむ旗本が少なくなかった当時の徳川家臣たちの経済事情が明らかになり、止まらぬ物価上昇のなかで実質賃金がなかなか上がらずに苦しむ現代人の姿と重ねて共感する視聴者の声が寄せられた。
 天下泰平、文化隆盛の江戸時代中期を舞台に、親なし、金なし、画才なし…ないない尽くしの生まれから歌麿北斎山東京伝滝沢馬琴を見いだし、写楽を世に送り出して“江戸のメディア王”として時代の寵児にとなった快男児「蔦重」こと、蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)の波乱万丈の物語。この日の放送で、幕府内で勢力を削がれ始めた老中、田沼意次は、存在感を示すため、庶民向けの金融業「座頭金」の実情を調べて、10代将軍、家治(眞島秀和)に規制強化を進言する策を準備した。座頭金とは、江戸幕府の開祖、家康の意向に従い、弱者として保護されてきた盲人によって、幕府認可の下で営まれている金融業だったが、不当な高利で貸し付け、莫大な財を成している疑いがあった。
 長谷川平蔵宣以(中村隼人)、三浦庄司(原田泰造)(C)NHK
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 勘定奉行の松本秀持(吉沢悠)や西の丸で進物番を務める長谷川平蔵宣以(中村隼人)らに調査を命じたところ、盲人の自治組織「当道座」のトップ、検校たちが、まともな事業では到底手に入れられないほどの財を貯め込んでいたほか、債務者の家督を乗っ取ってまで厳しく取り立てていることがわかった。さらに、西の丸に勤める徳川家家臣のなかで座頭金を借りている者が何人もおり、意次を驚かせた。そこに平蔵から、西の丸の古参の小姓で、真面目で名高い森忠右衛門(日野陽仁)が、逃げて行方をくらましたと報告が入り、意次の命で、すぐに忠右衛門は捕えられた。
 後日、家治は、江戸城本丸の御座の間に、西の丸から田沼派の政策に不満を抱く嫡男の家基(奥智哉)を呼び、意次からの報告を聞かせた。意次は捕らえた忠右衛門とその息子、震太郎(永澤洋)を招き入れ、経緯を説明させた。発端は座頭金に手を出したことだった。20年にわたり小姓を務めたもののまったく昇給せず、家族を養うことが難しくなったため、震大郎の御番入り(就職)のために座頭金を借りて賄(まいない、賄賂)にした。ところが番入りはかなわず、多額の借金だけが残った。その返済のために借金を重ねてさらに負債が膨らみ、ついには座頭(ドンペイ)から家督を譲るよう迫られて切腹を覚悟したところで震太郎に止められ、一家で逐電、出家したとのことだった。
 意次は、娯楽やぜいたくとは無縁で、常に質素食約を心がけてきた忠右衛門がここまで追い詰められたと旗本たちの厳しい懐事情を補足すると、座頭金を借りている西の丸の者の名簿を示した。そして、あまりの人数に驚愕する家基に、徳川家は自分の家臣も養えていない、米の値段(≒実質賃金)も下がるばかりだと現状を指摘し、検校たちを一斉に取り締まらせてもらえないかと呼びかけた。反田沼の老中首座、松平武元(石坂浩二)は、盲人優遇は家康公の意向だと牽制するも、意次はひるまず「不法かつ巧妙な手口で蓄財を得た検校たちはもはや弱き盲にあらず! 今や、真に徳川が守らねばならぬ弱き者はどこの誰なのでございましょうや」と突っぱねた。黙って聞いていた家治が、徳川家臣、と検校に金を借りている民を救うべきと答え、「そなたはどうじゃ」と尋ねられた家基は、自らの足元、西の丸を人知れず蝕んでいた現実を突きつけられ、爪を噛んで悔しがった。
 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の登場人物、森忠右衛門(日野陽仁)(C)NHK
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 この展開を受け、何年働いても給料が上がらない勤め人という設定を、令和の日本人がおかれた状況と重ねる視聴者が続出。SNSには、「20年昇給なし」「この森様って氷河期世代のことみたいで切なくなる」「失われた20年だな」「これはもうビジネス大河」「金の代わりの米の値段は下がるので、手取りが少なくなっている」といったコメントがズラリと並んだ。「なんと、武家も火の車だったのかなぁ」「賄賂がないと仕事にありつけんとは」「田沼様のお話、現代視点ではとても正論だと思うけど、当時の武家の常識とはたぶん離れてるんだろな」など、武家の財政難に驚く書き込みも散見された。
 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の登場人物、徳川家基(奥智哉)(C)NHK
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 4月11日 YAHOO!JAPANニュース リアルサウンド「江戸時代の武士の多くは借金苦? 『べらぼう』でも話題「旗本」の実態を解説
 『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』写真提供=NHK
 NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(NHK総合)第14回では、1778年、検校らの高利貸しが問題となり、瀬川/瀬以(小芝風花)の夫・鳥山検校(市原隼人)が捕らえられた。瀬川の離縁が決まり、一時は蔦重(横浜流星)と一緒になろうと決めるも、瀬川は蔦重のもとを去った。
 【写真】鳥山検校(市原隼人
 その発端は、旗本出身の女郎の松崎(新井美羽)に瀬川が刃物で襲われたことだった。瀬川は、世間が検校に向ける憎しみが、妻であった自分にも向けられていることを悟ったのである。
 検校らへの検挙のきっかけとなったのも、同じ旗本で、検校らへの多額の借金のカタに家督を奪われそうになり出奔した森忠右衛門(日野陽仁)親子の訴えからだった。
 これほど困窮していた旗本とは、一体どのような身分だったのか、年収や実際の生活について書いてみたい。
 旗本とは、どのような身分だったのか?
 江戸時代の武士(家臣)は、大きく分けて「幕府の直参家臣」と「大名家の家臣」の2種類がいた。
 「旗本」は幕府の直参家臣のうち将軍の「御目見」以上、つまり将軍への謁見が許される家格のこと。将軍への謁見が許されない家格は「御家人」と呼ばれた。
 ドラマより50年ほど前の1722年の記録によれば、幕府の直参家臣は約2万2,000人。そのうち旗本は約5,000人、御家人は約1万7,000人いたという。
 旗本も御家人も知行は1万石未満と決まっており、旗本が1万石を超えると大名となる。
 老中・田沼意次渡辺謙)の捜索で発見された森親子が、将軍・徳川家治眞島秀和)の面前に出頭していたのは、彼らが旗本だから。
 当然、将軍にはおいそれとは会えない。旗本は大名に次ぐ高い地位であり、それが困窮しているからこそ由々しき問題なのである。
 旗本の年収、300石の旗本の場合
 江戸時代の武士のイメージといえば、羽振りがよく威張っていて、庶民を理不尽にいじめてやりたい放題、自由だったように思えるかもしれない。しかし実際には、旗本でも生活は苦しく、しかも自由はなかった。
 旗本約5,000人の中でも3000~5000石以上の大身は10%の500人ほど。大部分は300石以下だった。年貢の率は四公六民なので、300石の旗本の年収は実質120石である。
 幕府の役職に付いていれば手当がもらえたが、お役に付くのは簡単ではなく、無役の場合はこの120石が収入のすべてだったのだ。120石の収入とはいくらだったのか、ざっと計算してみた。(1石=2俵、1俵=60kgで計算)
 計算するにあたって、現在は「令和の米騒動」と呼ばれ米の高値が続いているため、2023年までの取引価格60kg約15,000円を基準とすることにした。それでいくと、120石は約360万円である。(※2024年の米の取引価格60kg約25,000円で計算すると、120石は約600万円)
 武士の大部分は年収360万円以下で家族と家臣を養っていた?
 夫婦2人で暮らすのであれば、360万円あれば十分かもしれないが、家族が増えても現代のように扶養手当がもらえるわけではない。
 さらに武士は、石高に応じて雇う家臣の人数や飼う馬の数なども決められていた。家族(4~6人)と家臣1人を養うとなれば、360万円ではとてもやっていけないだろう。
 しかも、300石以下の旗本には当然、それ以下の収入の家も含まれる。200石で約240万円、100石では120万円となるのだ。100石以下の旗本は全体の約15%、800名ほどいたという。
 当時の人気職だった大工の年収は約350万円、人気歌舞伎役者には1億円稼ぐ「千両役者」もいた。200石以下の武士は収入面では彼らに到底かなわなかったのである。
 では、そのような小禄の旗本や御家人は、どのように生活していたのか。現代と同様、武士の間では副業が大ブーム、いや必須だったのである。
 旗本の副業~内職にペット飼育、寺子屋に家賃収入の豊富なラインナップ
 傘や提灯などは専門の職人が作っていたと思われがちだが、旗本や御家人が内職で作っていたものもかなり流通していた。下谷御徒町御家人屋敷では当時ブームだったアサガオを毎年栽培していた。それが現在の朝顔市につながっているという。
 ほかにも寺子屋の師匠に凧張りや盆栽づくり、小鳥や金魚、虫を飼う武士もいた。また、屋敷の一部や空いた土地を町人やほかの武士に貸して、地代・家賃収入を家計の足しにすることも一般的におこなわれていた。
 そのように涙ぐましい努力をしても、家族を養うだけで精一杯、家臣まではとても置けない。そこで江戸時代に繁盛したのが、武士専門の口入屋(くちいれや)である。口入屋とは現代のハローワーク職業安定所)のこと。
 小禄の旗本は普段は家臣を置かず、行事などの際に口入屋から日雇いで家臣を雇った。そのような臨時家臣は武士とは限らず、町人や農民の一日アルバイトだった可能性もあるという。
 大出世しても親の力があっても嫉妬される武士の世界
 ここまでは300石以下の小身旗本について述べたが、もちろん大勢の家臣を従えて暮らす3000石以上の大身旗本もいた。さらに出世して大名になることもあった。
 田沼意次は旗本だったが、老中に出世すると同時に大名となった。田沼の父・意行は、紀州藩足軽だったが、8代将軍吉宗について江戸に来て幕臣(小身旗本)となった。田沼が「白まゆ毛」こと松平武元(石坂浩二)から「足軽あがり」とバカにされるのはそのせいである。
 足軽とは戦闘時の歩兵で、士分(武士)とは認められていなかった。そこから親子2代で老中・大名にまで登り詰めたのだから、古参の家臣からの嫉妬がすさまじかったのだ。
 とはいえ、親が立派でも七光りと嫉妬されることも、長谷川平蔵宣以(中村隼人)の口から語られた。どう転んでも目立てば嫉妬されるものなのである。
 旗本は自由のない転勤族?
 有名な旗本には、名奉行として名高い大岡忠相大岡越前:3920石、のち大名)や遠山景元遠山金四郎:500石)、儒学者新井白石(1000石)、前述の長谷川宣以鬼平:400石)などがいる。
 旗本や御家人は、幕府から下賜された屋敷に住んだ。所有権はない上に、好きな場所に住めるわけではなかった。その点、町人の方がよほど自由だったといえる。
 御家人屋敷は与力や同心、徒組(かちぐみ)など同じ役職の武士が集まって住んだ。
 旗本屋敷は禄高のランクで広さが決まっており、1692年の記録によれば
 8000石以上…2,300坪
 5000石以上…1,800坪
 3000石以上…1,500坪
 1000石未満…500坪以下
 となっている(目安)。同じ旗本でもかなり待遇が違ったのだ。
 旗本は基本的には江戸詰めであるが、遠国奉行などで遠方へ任ぜられることもあった。また、江戸においても頻繁に屋敷替を命ぜられ、同じランク内で転居を繰り返した。長谷川平蔵鬼平)の住んだ屋敷には、晩年の遠山金四郎が住んだという。
 謀叛を恐れた幕府
 旗本の自由がないのは住む場所だけではない。旅行や外泊をする際には、届を出して上司の許可をもらう必要があった。常にどこにいるかを明らかにしておく必要があったのだ。また、よほど近しい親戚関係でない限り、旗本同士の交際も制限されていたという。
 江戸幕府は、江戸城を親類の「親藩」や古参の家臣「譜代」で固めることで将軍家を守った。いつ謀叛を起こすとも限らない「外様」は遠くへと追いやられたのだ。
 幕府は常に外様大名による謀叛を警戒していた。譜代の家臣で構成された旗本は、何か事が起きればすぐに動けるように準備しておく必要があったのである。また、旗本自身をも監視する意図があったとも考えられるかもしれない。
 ドラマでは森親子の窮状を聞いた田沼が「幕府は旗本を養うことすらできていない」と訴えた。
 ここから100年を待たずして江戸幕府は倒れるが、薩長土肥による倒幕運動より前に、すでに幕府の足元から崩れかけていたのがわかる。
 とはいえ、生活苦の中で旗本や御家人が精を出したサイドビジネスが、江戸文化の一端を担っていたのも事実なのである。
 《余談》
 「御家人」は鎌倉時代と江戸時代とでは意味合いが異なるため注意したい。2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』での御家人は鎌倉殿(征夷大将軍)(大泉洋)の従者のことだった。北条氏や三浦氏ら有力御家人は将軍の側近であるため、当然謁見できたのである。
 主要参考文献
 『絵が語る 知らなかった江戸のくらし武士の巻(遊子館歴史選書 9)』本田豊(遊万来舎)『「武士」の仕事 役職・作法から暮らしまで』歴史REAL編集部(洋泉社
 『決定版 図解・江戸の暮らし事典』河合敦(Gakken)
 『新版 図解 江戸の間取り』安藤優一郎(彩図社
 『図解でスッと頭に入る江戸時代』大石学(昭文社
 陽菜ひよ子
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 4月5日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「『べらぼう』高利息で厳しい取り立ての「座頭貸し」が横行、その背景にあった「出世はカネ次第」の実情
 「座頭貸し」の取り締まりを将軍(家治)に進言した田沼意次(イラスト:GYRO_PHOTOGRAPHY//イメージマート)
 NHK大河ドラマ『べらぼう』で主役を務める、江戸時代中期に吉原で生まれ育った蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。その波瀾万丈な生涯が描かれて話題になっている。第13回「お江戸揺るがす座頭金」では、蔦重はまたもや鱗形屋が偽板の罪で捕まったと聞く。一方、視覚障がい者による高利貸しの「座頭金」が問題視されるようになり……。『なにかと人間くさい徳川将軍』など江戸時代の歴代将軍を解説した著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
 【写真】吉原を国、女郎屋を郡、遊女を名所になぞらえた『娼妃地理記』
■ 蔦重と朋誠堂喜三二のユーモアセンスが発揮された『娼妃地理記』
 今回の放送では、冒頭から編集会議さながらに、横浜流星演じる蔦屋重三郎が、尾美としのり演じる戯作者・朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)と、新しい本の企画について意見を出し合っている。
 蔦重が「吉原を国に見立てるのは?」と水を向けると、喜三二が「吉原の町をそれぞれの国に見立てて紹介する?」と応じて、蔦重が「女郎屋の名前をそれぞれの郡にして……」とさらにアイデアを出すと、喜三二もイメージが湧いてきたようで「松葉郡には、瀬川という美しい川が流れている……てな具合?」と具体化させて、蔦重を「そうそう!」と喜ばせた。
 この「吉原を国、女郎屋を郡に見立てて、遊女を名所になぞらえて地理書のように吉原を案内する」という斬新なコンセプトは、実際2人によって企画が進められている。『娼妃地理記』(しょうひちりき)という本にまとめられた。
 このとき喜三二は「道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)」という筆名を使っている。なんともふざけているが、ユニークな本のコンセプトに妙にマッチしており、相手を脱力させるような喜三二の親しみやすさもよく伝わってくる。
 蔦重は安永3(1774)年に初めての出版物として、各店の上級遊女である花魁(おいらん)の名を実際にある花に見立た『一目千本』(ひとめせんぼん)の刊行に踏み切った。そして翌年には、『急戯花之名寄(にわかはなのなよせ)』を世に送り出す。こちらは、遊女の紋が入った提灯と桜花を取り合わせて描きながら、遊女についての短い評を添えた本である。
 いずれも掲載を希望する遊女や馴染み客から出資を募った入銀本だったと考えられている。いわば吉原の身内向けのものだ。「次はより広い読者に読まれる吉原のガイド本を作りたい」という情熱が高まったのだろう。さらに企画性が高まった『娼妃地理記』を安永6 (1777)年に出版する運びとなった。
 これまでも当連載で書いてきたように、蔦重についての人物史料は乏しいが、多くの作品をプロデュースしている。そのため、そこからどんな経緯で出版に至ったのかを想像し、ストーリーとして膨らませることができる。今回は一冊の本が誕生する始まりとして、編集会議さながらのやりとりを楽しむことができた。
 『娼妃地理記』の写真はウェブ上でもアクセスできる。蔦重と喜三二とのやりとりを想像しながら眺めてみると、たちまち江戸中期にタイムスリップできるだろう。
■ 金融業に従事する視覚障がい者が「座頭貸し」で稼ぎまくったワケ
 一方、鱗形屋(うろこがたや)では異変が起きていた。史実においては鱗形屋の手代(使用人)が、本を無断でコピーし勝手に売る重板(偽板)に手を染めたとされているが、ドラマでは鱗形屋が二度目となる偽板事件を起こしたというのだ。その背景には「座頭金」(ざとうがね)の返済があった、という設定になっている。
 江戸時代には、男性の視覚障がい者を保護する「当道座(とうどうざ)」という組織があった(女性の視覚障がい者は、三味線を持って全国を流す「瞽女:ごぜ」の組織に属した)。
 目の不自由な人が職業につけるようにと、当道座によって三味線などの芸能や鍼灸・按摩などが、視覚障がい者による事業として保護されていた。さらに「座頭金」と呼ばれる金融業まで、幕府に公認されていたのである。
 今回の放送では、座頭金の利息が極めて高く、取り立ても厳しかった様子が描写されていた。実際にも座頭が武家屋敷で大声を出し、座り込むなどをして強引に返済を迫ることはあったようだ。
 ただ、武士による借金の踏み倒しが横行し、槍で追い返されるようなこともあったため、「武士のメンツをつぶすことで返済に応じてもらおう」と、そのような行動をとったようだ。もちろん、借金が返せなくなった武士のほうも「そもそも利息が高すぎる」という言い分があったことだろう。
 また、当道座に所属する視覚障がい者からすれば「お金はどれだけあっても十分ということはない」という事情もあった。というのも、当道座は官位制度を設けており、官位を得られるかどうかは、幕府への官金をどれだけ収められるかにかかっていた。つまり、カネ次第でいくらでも出世できたということだ。
 最高位の「検校(けんぎょう)」になるまでに支払う官金は、しめて719両。現在の貨幣価値で約7200万円を幕府に納めなければならなかった。
 「座頭貸し」が広まるにつれて、検校の人数が増えているという調査(谷合侑「中世・近世の盲人像 第5回 江戸時代前半期における盲人の生活と職業」/視覚障害者支援総合センター編)もあり、当道座の出世システムも、座頭金の高すぎる利息や厳しい取り立てへとつながった要因の一つではないだろうか。
 ドラマでは、田沼意次(たぬま おきつぐ)が「座頭貸し」の横行によって、真面目に励んでいる武士たちまでもが苦しめられている実情を、将軍の徳川家治(いえはる)やその嫡男の家基(いえもと)に報告。取り締まりへと動くよう働きかけることになった。
 実際に大金で瀬川を身請けした鳥山検校は、それから3年後に幕府から処分されて、財産は没収。江戸から追い出されている。今回の放送では、鳥山検校が瀬川と蔦重の仲を疑う緊迫したシーンもあったが、転落の瞬間は近づいている。鳥山検校の口から、高利貸しについての言い分が語られることはあるのだろうか。
■ 今後のキーマンは盗賊を一網打尽にする「長谷川平蔵宣以」
 実存した歴史人物から当時の社会情勢を理解できるのは、大河ドラマの見どころの一つだ。『べらぼう』では江戸時代中期の大衆文化にスポットライトを当てているため、当時の庶民の感情や価値観にこれからも触れることができそうだ。
 今後のキーマンとなりそうなのが、長谷川平蔵宣以(はせがわ へいぞう のぶため)である。平蔵は延享2(1745)年に、400石の旗本で火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためかた)としても活躍した長谷川宣雄(のぶお)の子として江戸で生まれた。火付盗賊改役とは、盗賊や放火犯などの凶悪犯を取り締まる役人のことをいう。
 『べらぼう』では、若いころの平蔵が吉原に入り浸る様子が描かれてきたが、実際には、19歳の時に父親の屋敷替えで築地から本所へと移ったことで、放蕩生活を送るようになった。幼名の「銕三郎」から「本所の銕(てつ)」の異名を持つほどだったという。
 しかし、23歳で将軍の家治から長谷川家相続人として認められると、24歳で妻を迎えて、その後は出世コースに乗っている。
 西の丸で江戸城の警備を行う書院番(しょいんばん)の番士となると、大名から献上品を整理する進物番(しんもつばん)などを務め、その後は先手弓頭(さきてゆみがしら)という将軍の警護役を経て、42歳のときに火付盗賊改役の加役(かやく:臨時的な役職)に任命されることになる。
 ドラマでは、平蔵が西の丸での進物番の仕事について、何をやっても「親の七光りだ」と言われることに辟易しているとし、意次に「田沼様のお力でどうか外向けのお役目に」と直訴。意次は「では、そなたの働きを見せてもらいたい」として「西の丸で座頭金に手を出している者を調べる」というミッションを平蔵に与えている。
 この座頭貸しの問題解決に一肌脱ぐことで、長谷川は父と同じく火付盗賊改役となる下地を作ることになりそうだ。
 これからの展開としては、平蔵は盗賊一味を一網打尽にするなど、火付盗賊改役として大活躍する。そして天明7(1787)年、田沼意次が失脚して松平定信が筆頭老中に就いてから3カ月後に、平蔵は火付盗賊改の長官就任を果たす。
 カタブツの松平定信が「享保の改革」を断行し、蔦重をはじめクリエーターたちを追い詰めていくことを思うと、定信の下で活躍する平蔵と蔦重との間にも、何かしらの軋轢が生まれるのだろうか。同時代を生きた2人の関係性に引き続き注目していきたい。
 第14回「蔦重瀬川夫婦道中」では、鳥山検校と瀬川が捕らえられる一方、蔦重には独立して自分の店を持つチャンスが舞い込んでくる。
 【参考文献】
 「中世・近世の盲人像 第5回 江戸時代前半期における盲人の生活と職業」(谷合侑、視覚障害者支援総合センター編「視覚障害 : その研究と情報」67巻)
 『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』(安藤優一郎著、カンゼン)
 『図説 吉原遊郭のすべて』(エディキューブ編集、双葉社
 『蔦屋重三郎』(鈴木俊幸著、平凡社新書
 『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(鈴木俊幸監修、平凡社
 『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(倉本初夫著、れんが書房新社)
 真山 知幸
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 大江戸歴史散歩を楽しむ会 wako226.exblog.jp
 幕臣の勤番/家禄/役高
 慶長8年(1603)に徳川家康江戸幕府を開いた当時は、定まった職制があったわけではない。家康は戦国大名時代の職名をそのまま用いていた。武士の本領はあくまで武功忠勤であって、政務は一時的な任務でしかなかった。しかし、徳川政権が長期化するにつれ、徳川家の安定を諮るために、幕府の支配下に諸大名を置き、政治と経済の行政組織が整えられた。すなわち、幕藩体制の巧妙な組織の中で官僚として役職に就き、忠実に職責を全うすることが武士に求められた。このように役職について働くことを「勤番」と称した。
 家禄と役職ごとの禄高
 5000石 御留守居衆、大番衆
 4000石 御書院番頭、御小姓組番頭
 3000石 大目付江戸町奉行勘定奉行、百人組頭、
 小普請組支配
 2000石 新御番頭、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、
 旗奉行、金遣奉行、西丸御留守居
 1500石 京都町奉行大阪町奉行、惣御弓頭、高家衆、
 惣御鉄砲頭、御弓御持筒頭
 1000石 留守居番、目付、使番、書院番組頭、小姓組頭、
 御徒頭、小十人頭、山田奉行、長崎奉行
 700石 西丸裏御門番、二丸御留守居、納戸頭、
 腰物奉行、御船手、他
 600石 新御番組頭、大御番組頭
 500石 広敷御用人、他
 400石 西丸切手御門番頭、御裏門切手番頭、天守番頭、
 富士見御宝蔵番頭
 300石 小十人組頭 
 幕臣は家禄によって身分と禄が保証されていた。家禄とは主家への武功忠勤に対する報酬として世襲的に与えられる。さらに役職に就くと役手当が支給され、家禄300石であれば、役高300石と家禄に見合った役職に就いた。ここで手腕を発揮して、家禄以上の役職に抜擢されれば、役高との差額分が家禄に追加された。
 つまり、役職が上がると俸禄が加増される。その役職を離れても加増された家禄は継続した。そのため幕府の財政支出が増大し、小禄の人材登用を控え、就任できる役職が狭まった。享保8年(1723)6月、幕府は「足高の制」を発令した。この制度は家格に関わらず人材登用の道を広げる制度である。在職中のみ禄高の不足分を加増することで、家格の低い小禄でも優秀な人材を登用できるようになった。
 例えば、家禄1920石の大岡忠相が役高3000石の江戸町奉行に就任すると、差額の1080石を補填された。但し、在職中のみで、この加増は高禄の役に相応しい屋敷を構え、使用人を雇い入れるなど出費が嵩むからである。しかし、6000石以上の者には足し高は支給されない決まりであった。また、家禄を受けているが無役の幕臣は、3000石以上は寄合に、それ以下は小普請支配の小普請組に組入れられた。彼らには幕府の小普請の際に禄高に応じた人足が課せられた。
 さて、幕府直属の100石取、50石取といった小禄幕臣には、全国の幕領地から徴収された年貢米から相当分が支給される。但し、米以外の物は金を出して買わなければならない。禄高100石の者が受取るのは、4斗俵で100俵である。しかし、全部を米俵で貰っても困るので、札差に手数料を払って売り捌いてもらい、金に換えて受取った。札差が買い取った米は米問屋に売られ、江戸の庶民はそこから米を買求めた。このように米は生きる糧であり金銭であり、その多寡は身分の高低を如実に示していた。
 御米蔵と札差
 札差とは幕府の旗本や御家人に支給される蔵米を代理人として受取り、米屋に売却して現金化することを請け負った浅草の商人である。委託販売の手数料は蔵米100俵扱って金3分、1000俵扱っても7両2分であった。蔵米の受取りも請け負い、受取りの際に蔵米受取手形が渡される。その札に名前を記入して割竹に挟み蔵役所前の藁筒に指したことで「札差」と呼ばれた。
 江戸中期頃、札差は俸禄米受取手形武家から前もって預かる事から、蔵米を担保に高利で旗本や御家人に現金を貸付ける金融で財をなし、江戸の富裕商人となった。享保9年(1724)109軒に限定した株仲間が認められ、幕府家臣団に対する蔵米の受け払いと、高利金融業を独占した。貸付金の利子は年18%から12%と下げられたが、不正手段を交えて貧窮化した旗本御家人に吸着し、急速に大富豪となった。
 これら札差の利殖は幕府家臣団の経済的な弱体化となった。寛政元年(1789)幕府の棄捐令が発令され、札差の債権118万両を帳消しにして、家臣団の困窮財政の救済を謀った。米の相場は毎年変動するが、概算で1石を1両とすると、年40両で決められた奉公人を雇い、格に応じた体裁を整えなければならない。両親や子供で家族が多いと「百俵六人泣き暮らし」という困窮ぶりで、米代の先借りの借金をする武家も多かった。
 石高制と俵高制に蔵米と切米
 江戸幕府の家禄や役高には、知行地を与える「石高制」と幕府の蔵米から支給する「俵高制」に「現金」の三種類で支給されていた。石高制では領有地の領主となって、その土地の年貢米を収入とする。知行地100石高の土地の収穫米は、生産者の農民と分けあう四公六民の割合で40石(400斗)の実収入となる。これは4斗俵で100俵分であり、100俵高の役職と同等となる。但し、領地からは米だけでなく雑穀や野菜に奉公人の労働力も徴収できるので有利であった。
 このように知行地のある者に支給する米を「蔵米取り」といった。一方の俵高制では、100俵高であれば100俵の米が幕府から支給される。全国の幕府の直轄地から徴収された幕領米は蔵に収められ、春夏冬の年3回に分けて配給された。100俵高では二月の春借米25俵、五月の夏借米25俵、十月の冬切米50俵を渡される。このように知行地を持たない者には分割支給したため、「切米取り」と言った。元禄の頃には俵支給が石高に改められた。但し、役職につく役料や役高は俵支給のままであった。役高とはその役を維持するための格式料である。
 家禄1000石の者が役高500石の役職に就くと500石加増されるが、家禄6000石の者が就いても1俵も足されない。さらに役職を辞めると元の家禄に戻される仕組みである。最下級の者に支給される給金は、年3両1分であった。この3両1分扶持を「サンピン」の蔑称で呼ばれた。江戸初期には米8石に相当、中期には1石1両に相当した。だが、幕末には5斗ほどにしかならず、最下層の武士は副業での遣り繰りを余儀なくされていた。そのため、少しでも上位の官職を得る猟官運動に鎬を削ることになった。
 江戸の米蔵「浅草御蔵」
 元和6年(1620)江戸幕府最大の御米蔵を江戸浅草に築いた。幕領米の収納や幕臣の知行地を持たない旗本や御家人に対する俸禄となる切米や扶持米の支給を主な役割とした。町年寄の樽屋元次の設計で、御蔵予定地に近い鳥越神社2万坪の境内地にあった鳥越山を切崩して、浅草川右岸の湾入部を埋め立てた。
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 大川と呼んだ浅草川右岸側344間(625m)の間に8本の舟入堀を設けて、総面積3万6千648坪の敷地が造成された。丹沢山の材木や敷石が切出され、総建坪8、060坪に54棟270戸の倉庫群が完成した。隅田川西岸、浅草見附の北方一帯にあり、南は浅草柳橋2丁目より北は浅草蔵前3丁目間に位置する。なお現在、4番堀と5番堀の間の蔵前橋通りに蔵前橋が架けられている。
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   隅田川長流図巻(大英博物館所蔵)
 定奉行配下の浅草蔵奉行や蔵手代など諸役人が、毎年30万~40万石の米穀を出納保管した。西側の町地の御蔵前には、俸禄米を扱う札差や米問屋などの大店が軒を連ねていた。浅草御蔵の川向いには本所御蔵があり、両米蔵の総収納米量は、天保8年(1837)~天保12年(1841)5カ年の平均46万6000石、渡り高は42万8000石であった。浅草御蔵は明治政府になると大蔵省の管理下に置かれる。だが、給料制に移行するなど役割も縮小され、関東大震災で焼失終焉を迎えた。
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 役料と役扶持と御四季施代
 役料はその役職を努めていくための必要経費として支給される。例えば、長崎奉行は役高1000石で役料は4400俵である。家禄500石の者が任命されると、役高との差額の500石に加えて4400俵が経費として支給された。家禄2000石の者には役高はもらえないが、4400俵の経費は支給される。これを米でなく金で支給されるのを「役金」という。役扶持は、役職中に部下の扶持米が支給され、一人扶持は玄米で五合支給される。
 例えば、定火消役には役高がなく持高だけで務めるが三百人扶持が支給される。これは火消人足を三百人を自前で養うためである。また、京都、大阪、駿府の勤番には役料に似た「合力米」が支給された。下級武士に支給された扶持米とは、戦国時代の口糧の名残で男一人一日五合の米を支給した。一年三百六十日として、一石八斗を一人扶持と称した。三人扶持ならその三倍の五石四斗になる。
 家族手当の意から女扶持もあった。女一人一日三合の支給で年一石八升の支給となる。御四季施代(おしきせだい)は、軽い身分の者に季節毎に着物代として支給される。例えば、奥右筆には役料200俵のほかに御四季施代として24両2分が支給される。このほか役職に応じて、黄金(大判)、金(小判)、刀剣、時服(季節に応じた衣服)、引越金などが支給された。
 石高と役高の換算
・1石=10斗=100升=1000合
・1人の役扶持米は1日5合、1年で1、8石(1石で200日分)
・米1俵は3斗7升 1石=2、7俵、 (役料200俵は74石分)
・金貨1両=4分=16朱(御四季施代24両2分は24、5石分)
 徳川幕府の石高割合(総石高3000万石)
・幕府直轄領/幕府 400万石 
・旗本/御家人 300万石
・諸大名領 2、250万石
 前田120、5万石、島津72、8万石、伊達62、5万石、
 細川54万石、黒田52、3万石、浅野42、6万石、
 毛利36、9万石など三百藩
・禁裏御料/天皇家 3万石、公家領/皇室/公家 7万石
・寺社領/寺社 40万石
 by watkoi1952 | 2020-04-09 16:58 | 幕藩体制幕臣と諸大名 | Comme
   ・   ・   ・   
 PRESIDENT Online「3人家族で収入609万円、支出は600万円…副業しないと暮らしていけない下級武士の「ギリギリ家計簿」
 将軍と岡っ引きの年収差は約1852万倍
 磯田 道史
 歴史家
 江戸時代の支配階級だった武士はどんな生活を送っていたのか。一般的な御家人の収入は約600万円だったのに対し、幕府トップの将軍の収入は1兆3890億円にも上ったという。歴史学者磯田道史さん監修の『新版 江戸の家計簿』(宝島社)より、一部を紹介する――。
 侍写真=iStock.com/tekinturkdogan
 家禄が多いほど裕福になる、わけではなかった
 米が貨幣の単位となった江戸時代では、武士の給料(禄)もまた、米で支給されるのが通例だった。金銭で支払われるのは稀で、食用にする分以外を換金して用いた。上級の武士は主に知行地という領地を与えられ、その土地の年貢から支払われる。これを知行取と呼ぶ。下級の場合には、直接、米が支給される蔵米取(切米取ともいう)が一般的だった。
 知行取の武士の収入は、親から子へと引き継がれる「家」に対する禄であるため、「家禄」と呼ばれた。この家禄に応じて役職に就くことができ、米で支給される役料や、金銭で支給される手当などをもらうことができた。
 一方で武士は戦に備えるため、家禄の石高に対応して家臣を常時、雇わなければならなかった。家禄200石で約5人、1000石で21人ほど、1万石になると200人にまでなる。家禄が多いほどその分出費もかさみ、家計を圧迫した。
 家族や家来を養うため内職に励んだ武士たち
 その他、下層の御家人や諸藩の下級武士のなかには「50俵3人扶持」と表記される者がいる。この「扶持」とは家来を雇うための手当であり、人数に応じて支給額が決まった。
 「50俵3人扶持」の場合(図表1を参照)、蔵米50俵は現在の価格にして約525万円。扶持は1日1人玄米5合支給とし、年間(360日で計算)すると1石8斗となる。3人だと約5.4石。現在の価格にすると約162万円だが、家来の食事にも充てるので、すべて換金できたわけではない。
 【図表1】武士の収支収入は蔵米525万円、内職30万円、扶持54万円。支出は家族のほか家来も養うため、衣服代や食費、光熱費で600万円に上った[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]
 家族や家来を養い、その他、行事や仕事での出費もかさむため、武士は内職も余儀なくされた。傘張り、提灯作りから、金魚やコオロギ、鈴虫などを飼育し売り出すなど、さまざまな内職をし、家計の足しにしていた。
 江戸に「単身赴任」した紀州藩士の食生活
 人口100万人超の大都市・江戸は、その約半数が武士階級の人間たちで、その多くが江戸勤番として地方からやってきた武士だった。そうした地方武士の江戸暮らしの実際を今日に伝えるのが、紀州藩士・酒井伴四郎の記した日記である。
 禄高25石の下級武士であった伴四郎は、故郷・和歌山に妻子と両親を残して約1年7カ月にわたって江戸勤番を務めた。現代で言えば、単身赴任のサラリーマンといったところだろうか。
 単身赴任の男性となると外食が常と考えがちだが、勤番侍が屋敷の外を出歩くのを、藩側は快くは思っていなかったため、基本は同僚の藩士と共同生活を送る長屋で、自炊をするのが日常だった。
 朝に米を炊き味噌汁と一緒に食べ、昼はだいたい冷や飯で済ませるか、おかずに野菜、魚などを添えた。夕食は冷や飯を茶漬けにして香の物を添える程度である。特に伴四郎が好んだのは、豆腐だったようだ。そのまま冷奴で食べたり、温めて湯豆腐で食べたり、串に刺して焼いた焼き豆腐なども買ったりしている。
 江戸幕府将軍の収入はなんと1兆円超
 江戸幕府の誕生以来265年余り続いた江戸時代。支配階級である武士の生活を支えるためにさまざまな商人や職人たちが江戸に集まった結果、同時代のヨーロッパ最大の都市ロンドン(約70万人)やパリ(約50万人)を凌駕する巨大都市へと変貌した。
 武家を中心とする統治機構によって日本全国を支配した江戸幕府の財政収入は、金に換算して約401万1766両に及ぶ(天保9〈1838〉年頃)。内訳は主に年貢収入や直轄鉱山からの収益である。徳川将軍家がおよそ800万石を所有していたと一般に知られる。
 しかし、これは家臣の旗本の領地を合算した値である。実際には400万石ほどが天領で、江戸幕府中興の祖であり、享保の改革を実施した8代将軍・吉宗の頃に、新田開発と年貢徴収の強化で最大463万石に達したという。
 現在の価格に換算すると、1兆3890億円となる。むろん、すべてが将軍個人の収入になったわけではないが、莫大な金額が幕府の財源となっていた。
 高収入の大名たちを苦しめた参勤交代
 江戸時代の武家社会は身分や格式が厳格に定められ、それに応じて、収入額も異なった。
 将軍の直臣のうち、1万石以上の知行を持つ者が、いわゆる「大名」である。なかでも尾張紀州、後に水戸の三藩は「御三家」と呼ばれ、最も格式の高い大名だった。将軍家に継嗣がない場合、この三家のうちから将軍が選出された。
 江戸幕府に直属した1万石未満の武士を直参と呼ぶ。江戸時代には、将軍に謁見できる御目見得以上を旗本、謁見できない御目見得以下の武士を御家人としていた。
 大名の収入は、「加賀百万石」で有名な加賀藩の場合(102万5000石とする)、「現代感覚」で算出すると約3075億円にものぼる。しかし、江戸時代の大名は「参勤交代」の制度によって、江戸と領地を行き来することが義務付けられているなど、出費も多かった。
 参勤交代における大名行列は、3万石クラスの大名で、150人から300人規模の供の者を従えた。しかし、加賀藩の場合、5代藩主・前田綱紀、4000人もの大行列を組んだとも伝わる。行列の費用や江戸の滞在費など、大人数の移動は大名にとって相当な負担となった。それは、藩財の約6割も占めたという。
 旗本の収入は1200万~12億円までさまざま
 将軍直臣のうち、1万石未満の直参は、旗本と御家人に大別される。
 旗本は100石から1万石未満と大小さまざまだったが、200石から600石程度の中堅層が多数を占めた。役職としては主に管理職に就いたが、大別して戦時に備える「番方」と、行政等の組織運営を行う「役方」に分かれる。書院番から奉行職になり大名にまで上り詰めたのが大岡忠相だが、江戸時代を通じて極めて稀有な例である。
 御家人は、将軍直参のなかでも「御目見得」以下である。将軍に謁見する権利はなく、俸禄の多くが蔵米取だった。収入も旗本に比べ少なく、宝永年間(1704-1711年)の蔵米高によれば、50俵未満、10俵以上の御家人が9割を超していたとされる。主に与力や同心など、奉行の下で働く職に就いた。
 旗本の実収入は1200万~12億円未満、御家人の実収入は1200万円以下だった旗本の実収入は1200万~12億円未満、御家人の実収入は1200万円以下だった[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]
 旗本が務めた奉行、御家人が務めた与力、同心は時代劇でもお馴染みの役職である。
2人しかいない町奉行は3億円超稼いだ
 旗本は役職に応じて、役料を得たが、そのすべてが役職に就けたわけではない。全旗本のうち半数にも及ぶ2300家は無役だった。こうした無役の旗本であっても、江戸城の石垣や屋根の修復といった普請(工事)には人夫を派遣する役目があった。無役のため役料は入らず、ただ出費だけがかさむ。旗本の半数が経済的に逼迫していたと言える。
 磯田道史監修『新版 江戸の家計簿』(宝島社)磯田道史監修『新版 江戸の家計簿』(宝島社)
 そうした旗本の役職のなかでも江戸の町奉行は、南町奉行と北町奉行に1人ずつと、わずか定員2名。実務能力が高い旗本が選ばれた。俸禄も高く、約1050石、現在の価格にすれば、年収3億1500万円にものぼる。
 むろん、家来の世話など出費もかさむためすべてが収入となったわけではない。しかも町奉行は激務だったことで知られていた。江戸の行政・司法・治安維持・防災といった行政面だけでなく、経済・金融政策なども担う。そのため、在職期間は平均5、6年に過ぎなかったという。そのなかでも大岡忠相は20年間も奉行職を務めたというから、その優秀さが推して知れる。
 江戸時代の警察「同心」は年収300万円
 南北町奉行にはそれぞれ、与力25騎、同心120人が勤務していた。奉行を補佐し、財政や人事から市中の治安維持まで、職務は多岐にわたる。御家人身分で、禄高は150〜200石ほどが平均。現在の価格にすると年収4500万〜6000万円ほど。
 幕臣内では下級の部類とされるが、このほかに諸大名からの付け届けなど副収入も多く、裕福な暮らしだったという。与力の下で実務を行った同心は、主に市中見廻りを担う、江戸時代の警察である。 
 私費で岡っ引き(目明かしともいう)を雇い、捜査活動に従事した。市中の風聞を調べる隠密廻り、定期的な巡回を行う定廻り、臨時の巡回にあたった臨時廻りの3つを総称した三廻りが主な任務だ。同心の家禄は30俵程度の小禄であったが、諸大名からの付け届けもあったという。
 同心の収入は300万円、岡っ引きの収入はたったの7万5千円同心の収入は300万円、岡っ引きの収入はたったの7万5千円[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]
付け届けとは、一種の賄賂のようなもの。参勤交代のため、大名は江戸屋敷に多くの家臣を置いた。彼らが江戸市中で騒ぎを起こした際、穏便に済ませるために特定の与力や同心に付け届けをしたのである。
 また、御家人は幕府から組単位で屋敷を拝領した。与力、同心の場合、八丁堀に組屋敷があったことで知られる。与力は約250〜350坪、同心は100坪ほどの屋敷が与えられたが、学者や医師、絵師などに貸し付け、地代を取って収入にする者も多かったという。
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