🏞74)─4・⑤─幕末の大衆運動の伏線となった「天明の米騒動」。世界では飢饉で革命や移民が起きた。~No.304 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2025年7月16日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「幕末の大衆運動の伏線となった「天明米騒動
 『荒歳流民救恤図』(国立国会図書館蔵)に描かれた、天明の飢饉の際に行なわれた救済活動の様子。天明米騒動は、田沼意次が全国に商品作物を推奨したことにより菜種や紅花作りが盛んとなり、稲作面積が減少していたことも要因のひとつだったという。
 7月13日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第27回「願わくば花の下にて春死なん」では、高騰する米価に苦しめられる江戸の人々の様子が描かれた。蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重/横浜流星)は、日本橋の商人たちと知恵を出し合い、幕府に献策するのだった。
■天候不順に買い占めで米不足が加速する
 1784(天明4)年、米価の高騰は江戸の民を苦しめ、田沼意次(たぬまおきつぐ/渡辺謙)の政策は裏目に出て事態を収めることができずにいた。一向に米の値が下がらないのは、田沼家が私腹を肥やしているからだと噂されるなか、市中に流民があふれる。この状況を憂いた蔦重は、日本橋の商人たちと「公儀が米を買い上げ、仕入れ値で民に売る」という策を練り、田沼意知(おきとも/宮沢氷魚)に献上する。
 意知はこれを「民を救う政(まつりごと)」として受け入れ、評定の場で必死に説得。大坂で召し上げた米を公儀が買い上げ、市中に安く流すことを決議させる。
 公務に奔走する一方、意知は恋仲の花魁・誰袖(たがそで/福原遥)との約束も果たそうとしていた。意知は、友人の名で誰袖を身請けする手筈を整える。ついに自由の身となることになった誰袖は、意知との再会を夢見て吉原を去る。
 その頃、江戸城番士・佐野政言(さのまさこと/矢本悠馬)は絶望の淵にいた。かつて立身出世を願って意次にすり寄るも、家宝の系図を捨てられ忘れられた。意知の計らいで参加した将軍の狩りでは、手柄を握りつぶされたと謎の武士に吹き込まれる。
 さらに、意次に贈った桜が「田沼の桜」として持て囃されていると知り、屈辱に震える。父が狂乱し、佐野家の桜に刀で斬りかかる姿と、仲睦まじい田沼親子の姿が重なり、政言の悲しみは殺意へと変わった。
 誰袖が幸せな夜を信じて待つそのとき、政言は父の錆びた刀を丁寧に磨き上げ、江戸城に向かった。そして、その刀を手に、意知に斬りかかったのだった。
■食うに食えない飢饉が民衆を立ち上がらせる
 天明米騒動は、江戸時代中期の天明年間(1782~1787年)に発生した日本史上屈指の社会危機である。
 発端は天候不順や冷害、1783年の浅間山噴火などの自然災害による大凶作だった。特に東北や関東地方では米の収穫が激減し、米価は急騰。加えて、当時の田沼意次政権下での貨幣政策の混乱や、米の買い占めを狙う中間卸売業者の暗躍が、米不足と物価高騰に拍車をかけた。
 米は庶民の主食である上、武士の俸禄(ほうろく)や年貢の基準でもあったため、米価高騰は社会全体に深刻な打撃を与えた。やがて都市部や農村では、生活苦にあえぐ人々が米屋や商家に押し入り、米や食料を強奪する「打ちこわし」が頻発した。
 従来は、訴願や一揆という形で不満を表明していた庶民も、この時期には略奪を目的とした暴動に転じる例が目立つようになった。
 幕府は米価安定のため、備蓄米の市場放出や米穀売買勝手令(米の流通・販売自由化)などの緊急政策を打ち出している。しかし、投機的な買い占めや流通の混乱が続き、米価は思うように下がらなかった。
 こうした中、東北地方を中心に数十万人規模の餓死者が出るなど、被害は甚大となった。幕府は暴動の扇動者を「悪党」として厳しく弾圧したが、庶民の不信感は高まり、幕府の統治能力の限界が露呈することとなった。これは、その後の幕末へと続く社会不安の萌芽となったと考えられている。
 この米騒動は庶民の社会意識にも変化をもたらした。困窮の中で自己の権利を主張し、直接行動に出るという経験は、後に起こる様々な大衆運動の伏線となったといえる。打ちこわしなどの集団行動は、庶民が不満を表明する有効な手段として認識され、以降もたびたび発生することになる。
 天明米騒動は、江戸時代を通じて最も深刻な社会不安の一つであり、幕府の財政・政治体制、そして庶民の生活と意識に、多大な影響を与えた歴史的事件であった。
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 7月17日 YAHOO!JAPANニュース 婦人公論.jp「本郷和人『べらぼう』田沼政治の根幹を揺るがした<天明の大飢饉>。「餓死者は東北地方の農村を中心に数万人」と書き記されるも、実際の被害は想像を絶するもので…
 日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物“蔦重”こと蔦屋重三郎の生涯を描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ドラマが展開していく中、江戸時代の暮らしや社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「天明の大飢饉」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
 次回予告。<佐野福の神様!>コメの値が下がり町民から拝まれる政言。裏で糸を引く存在に気付いた蔦重だったが、意次は意外な言葉を…
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◆ようやくコメの流通に目星が立つも
 「べらぼう」劇中で、絶対的権力者・田沼意次をして「何とかならなければ俺はもう終わりじゃ」と言わせるまでの問題となった大飢饉。
 蔦重からヒントを得た田沼意知の活躍もあって、一連の騒動にもようやく落ち着く気配が見えてきました。
 一方、ドラマ初回から出ていた意知と、蔦重が気軽に意見をかわせるまでの関係になったことを喜ばしく感じていたなか、意知が佐野政言から斬りつけられるという衝撃のラストを迎えてしまい…。
 次回放送が2週間後ということで、私たち視聴者は首を長くしながら放送を待つしかないわけですが、今回はそのコメ騒動を招いた飢饉について、あらためて記したいと思います。
 本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ
天明の大飢饉とは
 「べらぼう」中で描かれている天明の大飢饉は、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉です。
 江戸四大飢饉寛永享保天明天保)の1つで、日本の近世では最大、最悪の飢饉とされます。
 東北地方は1770年代から、主に冷害によって農作物の収穫が激減しており、農村部はすでに疲弊している状態でした。天明2年(1782年)から3年にかけての冬は暖冬で、約30年前の宝暦年間に凶作が続いたときの天気と酷似している、との指摘は当時から存在したようです。
 人々が不安に思う中、天明3年3月12日には津軽岩木山が、7月6日には信州の浅間山が噴火し、各地に火山灰が降りました。
 火山の噴出物は成層圏に達して陽光を遮り、日射量が低下して冷害がさらに悪化。このため農作物に壊滅的な被害が生じ、翌年から深刻な飢饉状態となりました。
◆イネは気候に敏感
 イネはもともと暖かいところで育つ植物です。
 東南アジアのイネをいきなり日本にもってくると、葉だけは広がりますが、花が全く咲かないそうで、それくらい気候にも敏感です。
 雪が多く降る地方では、冬が来るのが早い分、イネが育つ期間が短くなります。
 そうすると、イネは花をしっかり咲かせることができず、自分のタネを十分に作る時間を確保できなくなります。
 イネのタネ、それがおコメですから、コメの収穫ができなくなる、というわけです。
◆寒さに強い品種が生まれるまで
 イネを北の地方へ持っていくと、気候の変化に対応して、花をさかせる性質を自ら変化させます。そのため、今までよりも少しだけ早く花がさくイネが生まれます。
 そうしたイネだけが、寒くなる前に自分のタネを作ることができ、新しい場所で生き残っていくのです。
 遺伝子の変化は、イネが育つ場所の気候に合うように、少しずつ進んでいきます。それがくりかえされ、南方の作物だったイネは、だんだんと北の寒い地方へと広がってきたのです。
 「コシヒカリ」「ひとめぼれ」など寒さに強いコメは、こうしたイネ自身の変化に、人間が品種改良を加えて、産み出されました。
◆「数万人が餓死」とされたが…
 もちろん、江戸時代には、こうしたイネの改良は未発達でした。ですから日照時間が短い夏=寒い夏が続くと、コメはいっぺんに取れなくなったのです。
 そのために起きた天明の飢饉の被害は、東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したといいます(杉田玄白『後見草』)。
 けれども、この数は信用できません。
 諸藩は失政の咎(改易に処せられる、など)を恐れ、被害の深刻さを正確に報告することをしませんでした。
 弘前藩を例にすると、この藩だけで死者は10数万人に達したとも伝えられており、隣りの秋田藩に逃げ出した人も含めると、藩の人口は半数近くになったといいます。
 これは弘前藩だけの話ではなかったはずで、天明の飢饉の苛酷さがうかがい知られます。
 本郷和人
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 日本では、世界の常識のような革命も外国への移民も起きなかった。
 中華帝国滅亡。フランス革命アイルランドアメリカ移民。ロシア革命。中国革命。
 日本では、キリスト教による布教は失敗し、マルクス・レーニン主義による人民暴力革命は起きなかった。
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 歴史的事実として、日本の常識は世界の非常識である。
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 中国で大飢饉が発生し数十万人以上が餓死し、数百万人以上の飢餓民が食糧のある肥沃な土地に流れ込み、原住民と難民との間で食糧を奪い合う虐殺が起き、世直しを主張する宗教秘密結社が難民・窮民を吸収して内戦を起こし窮民救済に失敗した現王朝を滅ぼし王族・貴族を皆殺しにした。漢族中国人か遊牧異民族による新たな新王朝が戦争の中から誕生するまで、数十年から数百年の血で血を洗う戦乱時代が続いた。
 朝鮮諸王朝は、中国の内戦の影響を受けて王朝交替動乱か王朝内権力闘争が起きて殺し合いを繰り返していた。
 大和朝廷は、中国や朝鮮の地獄が日本に波及しないように鎖国策で大陸と半島を切り離していた。
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 フランス革命の発端は女性達のパン行進。
 パリ観光サイト「パリラマ」
 パンの歴史
 パンの歴史:お金持ちしか食べられなかったバゲット
 古代メソポタミアから伝わりフランス人の主食となったパンですが、今私たちが想像するフランスパン(皮がカリッとして中が白い小麦パン)を全員が食べられるまでには長い時間がかかりました。フランスでは小麦でパンが造られていましたが、上流階級と労働者階級では食べるパンの種類が異なっていたからです。フランスを代表するパンであるバゲットも、1600年頃にはまだ庶民のためのパンではなく、裕福な階級のパリジャンが食べるパンでした。上流階級はふるいにかけられて精製された小麦粉を使った白いパンを食べていましたが、お金のない肉体労働者は白いパンを食べられず、ふるいにかけられていない小麦以外のライ麦やふすまなどが混ざった色の濃くて重いパン(ミケ)を食べていました。そして農民はパンを焼く十分な窯もなく、麦の節約のために年に1,2回しかパンを焼けなかったそうです。
 フランス人の精神を表すパン
 農民はパンを焼く際に長持ちするように表面を固くして中を柔らかくするように焼きましたが、結果的にパンは固くなってしまい、よほどの食欲がない限り食べれるものではありませんでした。そのため、農民にとってパンの硬さは忍耐を表すものでもあり、次第にパンはフランス人の精神性を表すものとなりました。 パンの歴史:白パンを巡る革命
 その後もお金持ちは白いパン、お金のない人はふすまパンという図式は変わりませんでした。転機が訪れたのはフランス革命でした。革命の発端は凶作による小麦不足と言われ、誰もが平等に白パンを食べられるようにするための戦いでもありました。革命後の1793年に布告された法令では平等の体制が貫かれ、「金持ちは極上小麦の白パンを食べ、貧乏人はふすまパンを食べるということがあってはならない」と記されました。
 パンの歴史:民衆の食事になったバゲット
 革命によって平等の精神が広まっても、実際の生活には大きな変化はありませんでした。フランスの民衆はバゲット白パンを食べることがなかなかできず、ライ麦や大麦で作られたパンを食べていました。しかしナポレオン3世による第二帝政期に入って海運技術が発達すると、海外から大量の小麦を輸入することができるようになりました。特にアルゼンチンから送られてきた小麦のおかげで、民衆の間でも安い価格で白パンを食べることができるようになりました。それでも白パンを日常に食べていたのはパリなどの中心都市がメインで、今のようにフランスの田舎でもバゲットが主食になったのは第二次世界大戦の後だと言われています。
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 世界史の窓
 ヴェルサイユ行進
 1789年10月、フランス革命勃発後、食糧難に苦しむパリ市民がヴェルサイユ宮殿に行進し、国王夫妻をパリに連行した事件。庶民の女性が主体となって動いたことによって国民議会はパリに移り、本格的な社会改革へと向かい、革命を前進させることとなった。
 ヴェルサイユ行進
 ヴェルサイユ行進 フランス革命の中で7月14日のバスティーユ牢獄襲撃に次いで、1789年10月にパリ市民、しかもおかみさんと言われるような名もない女性たちによって行われた示威行動として重要。ルイ14世以降のブルボン朝の国王はパリではなく、ヴェルサイユ宮殿にいたので、ルイ16世をパリに連行し、王の許で開催される議会もパリに移ったことは革命の進行に大きな意味があった。なお、ヴェルサイユはパリから約20キロ離れているので、片道約5時間の道のりだった。この出来事は10月事件、10月行進とも言われる。
 ヴェルサイユ行進の背景
 ルイ16世は、議会が決定した封建的特権の廃止、人権宣言を承認しなかった。国王が裁可しないかぎり、法律は有効と成らないので、議会はいらだちが昂じていた。またこの秋は凶作で、パリでは食糧が不足し、パンが急騰して市民の不満が強まっていた。そんなとき、10月1日、国王がヴェルサイユ宮殿に招いたフランドル連隊の歓迎の宴会では、食糧がふんだんに出され、また士官達がパリ市民の三色記章を踏みにじり、マリ=アントワネットの色である黒のリボンを付けていた。これが伝わると市民の怒りは爆発した。9月に『人民の友』を発刊していたマラーは、人民に武器を取ってヴェルサイユに進撃せよと書いた。
 パリの女たちが議会を動かす
 10月5日、パリ市庁舎に集まった女性6~7千がマイヤールの指揮のもと、ヴェルサイユ宮殿に向かって行進、パリの市会(コミューン)もラ=ファイエットの指揮する国民衛兵をその後に続けて出発させた。
 ヴェルサイユの議会では、ちょうど8月の法令の裁可をいま一度、国王に要求するすることが審議されていた。午後になって、マイヤールと女たちが議場に到着した。15人の代表者が入場を許された。いずれも雨にぬれ、泥にまみれた貧しい服装で、マイヤールともう一人の兵士だけが男であった。マイヤールは議員たちに向かって、食物の高価なこととフランドル連隊の暴行について訴えた。議会ではロベスピエールなどが直ちに賛成し、代表を王のもとに送って市民の要求を伝えることを決議、議長のムーニェが女たちと王宮に向かった。国王は狩猟に出かけて留守だったので4時間近く待たされ、ようやく王と面会した。外では数千名の市民が近衛兵とにらみ合い、小競り合いが起こった。国王はおびえて、議会の要求する諸条件の完全に受諾した。真夜中にラ=ファイエットの率いる国民衛兵が王の安全を守ることを申し出た。 
 Episode パン屋の夫婦と小僧をパリに連れ帰る
 (引用)しかし、あけがたの6時、市民の一群は防備のすきをみて城内に侵入、近衛兵が発砲して市民5人が殺され、群衆は数人の兵士を殺害した。市民は宮殿内に押し入り、王妃マリ=アントワネットはねまきのまま部屋にかけこんだ。ついに王は王妃、皇太子と共にバルコニーにあらわれ、ラ=ファイエットがそばにつきそった。群衆は「王よ、パリへと帰れ」と叫んだ。国王はこの要求に屈し、議会もまた王と共にパリに移ることを決めた。午後一時、100名の議員が王を取り巻き、すべての軍隊、すべての民衆がパリに向かって行進を始めた。女たちは叫んだ。「わたしたちは、パン屋とパン屋の女房と小僧をつれてきたよ!」<河野健二フランス革命小史』1959 岩波新書 p.90>
 テロアーニュ・ド・メリクール このときパリの女性たちの先頭に立ったテロアーニュ・ド・メリクールという女性は、ジャコバン派の闘士として知られるようになり、その後王党派による妨害を受けながら、1792年の8月10日事件でもサンキュロットの先頭に立った。しかし女性の権利に冷淡であったジャコバン派から離れ、ジロンド派に同調したことからロベスピエールから危険な存在と見られて逮捕され、獄中で生涯を過ごした。<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(上)1973 岩波新書 p.1-24> → 女性解放運動「フランス革命での女性」を参照。
 革命の進展
 この出来事によって、フランス王室は、ルイ14世ヴェルサイユに宮廷を移してから100年ぶりにパリに帰り、テュイルリー宮殿に入ることとなった。それに伴い、国民議会もパリに移り、革命の舞台はパリ市民の眼前で展開されることになった。パリに移った国民議会は、まず国家財政の再建を議題として翌11月に教会財産の没収=国有化をを決定し、その資産を担保として財源に充てアッシニアを法定紙幣として発行した。並行して王政か、立憲君主政か、共和制かという政治形態をどうするかという議論が深まり、対立点が次第に明確になっていった。
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 ダイヤモンド・オンライン
 100万人を救った”移民国家アメリカ”
 ジャガイモ飢饉から学べること
 宮路秀作: 代々木ゼミナール・地理講師
 経済は地理から学べ!
 2017年2月23日 4:50
 「経済×地理」で、ニュースの“本質”が見えてくる!仕事に効く「教養としての地理」
 地理とは、農業や工業、貿易、交通、人口、宗教、言語にいたるまで、現代世界の「ありとあらゆる分野」を学ぶ学問です。
 地理なくして、経済を語ることはできません。
 最新刊『経済は地理から学べ!』の著者、宮路秀作氏に語ってもらいます。
 今、アメリカーメキシコ国境における「壁」建設問題が、世間を騒がせています。
 歴史をひもとくと、アメリカは“移民”と深くかかわっていることがわかります。アイルランドで起こったジャガイモ飢饉に目を向けてみましょう。
 ジャガイモ飢饉とは?
 1845年、アイルランドでジャガイモの不作による大飢饉が起こりました。アイルランドで栽培されていたジャガイモに疫病が発生したのです。
アイルランドは北海道より少し小さい程度の面積しかありません。鉱産資源がほとんど産出されず、鉱工業も発達しませんでした。
 そのため、当時のアイルランドは実質的にイギリスへの食料供給地となっていたのです。肥沃で土地生産性の高い農地は、牧草地や穀物用として利用されていましたが、アイルランドの農民に対しては地力が低い痩せ地が与えられていました。
 そこでジャガイモです。イモ類は、比較的地力が低い痩せ地でも生産が可能です。さらに地面の中で育つこともあって、鳥についばまれる心配もありませんから、安定して栽培ができます。
 地力の低い地域に住む人々にとって、ジャガイモは命をつなぐ作物だったのです。
 飢饉により約150万人が死亡。
 そして100万人がアメリカへ
 ジャガイモの疫病に加え、当時の税制が飢饉の被害を拡大させました。
 多くの税金が取れるよう、農民に与えられる土地は細分化されていました。細分化された農地は非常に狭いため、実質ジャガイモしか作れなかったようです。
 さらに、「年間4ポンドの地代を農民が払えない場合、不足分を領主が払う」という仕組みもありました。税金をたくさん取るために細分化した農地でしたが、貧農を多く抱える領主は、その分負担が増大したわけです。
 そのため領主たちは、自分の税負担を減らすために、飢餓によって虫の息となった農民たちに強制退去を命じ、追い出します。
 こうして飢饉とともに食料供給量は減少し、可容(かよう)人口は少なくなりました。
※可容人口については、「地球の人口は160億人まで増える!?教養としての人口論」を参照
 当時のアイルランドの人口は800万人を超えるほどでした(現在は約460万人)。このとき約150万人のアイルランド人が飢えで命を落とし、さらに100万人以上がアメリカ合衆国へ渡ったといいます。
 食料供給量の減少により、他地域への人口移動が発生することを「人口圧」といいます。アメリカ合衆国へ渡った人たちの子孫に、ジョン・F・ケネディロナルド・レーガンビル・クリントンバラク・オバマといった4人の大統領の先祖がいたことは有名な話です。
 アメリカより「豊か」になった
 アイルランド
アメリカ合衆国には現在でも多くのアイルランド系の人々が居住しています。その数およそ3600万人。本国アイルランドの人口よりも断然多い数字です。ヨーロッパ系白人の出身国としては、ドイツ系に次いで2番目に多いのです。
 1990年、アイルランドの国民1人当たりGDP(1万4045ドル)は、日本の国民1人当たりGDP(2万5123ドル)の半分程度しかありませんでした。
 しかし2007年になると、国民1人当たりGDPは日本の3万4033ドルに対して、アイルランドは6万1388ドルとなりました。この年は、アメリカ合衆国が4万8061ドルでしたので、アメリカ合衆国よりも「豊か」になったのです。
 何が起こったのでしょうか?
 1990年代、アイルランド法人税率を下げ、海外企業の投資を促します。「法人税の安いアイルランドに拠点を設け、そこからヨーロッパ市場へのサービスを展開する! 」という青写真を描いたのです。この結果、製造業のみならず、金融業や保険業も進出してきました。
アイルランドは、かつて食料難民となった自分たちの先祖を受け入れてくれたアメリカ合衆国のことを非常に快く思っています。そのため、アメリカ合衆国からの投資は大歓迎です。
 ジャガイモ飢饉により食料供給量が減少し、可容人口が少なくなったアイルランド。しかし、近年の経済成長によって就業機会が増え、そして可容人口が多くなったことで、アメリカ合衆国へ移民として渡った人たちの子孫が、アイルランドに「帰還」する事例も増えているのです。
 宮路秀作(みやじ・しゅうさく)
 代々木ゼミナール地理講師。日本地理学会企画専門委員会委員。鹿児島市出身。「東大地理」「共通テスト地理探究」など、代ゼミで開講されるすべての地理講座と高校教員向け講座「教員研修セミナー」の講師を担当する「代ゼミの地理の顔」。一部の講師しか担当できないオリジナル講座も任され、これらの講座は全国の代々木ゼミナール各校舎・サテライン予備校にて配信されている。「地理」を通して、現代世界の「なぜ?」を解き明かし、さらに過去を紐解き未来を読むことで景観を立体視する講義は、9割以上の生徒から「地理を学んでよかった! 」と大好評。講義の指針は、「地理とは、地球上の理(ことわり)である」。 著書『経済は地理から学べ!』(ダイヤモンド社)は海外翻訳本を含めると10万部を超えるベストセラーとなり、地理学の啓発・普及に貢献したとして、2017年度日本地理学会賞(社会貢献部門)を受賞。これまでに著書30冊を上梓した(海外翻訳・共著含む、監修本除く)。コラムニストとして、新聞・雑誌・Webメディアからの取材に対し、「地理学の面白さ」や「地理教育の重要性」を広く発信。foomiiでのメルマガ配信や「Yahoo!ニュースエキスパート」への寄稿のほか、各種セミナーや講演会などにも積極的に登壇し、社会に「学び」を届ける活動にも力を注いでいる。
 2025年4月、『経済は地理から学べ!【全面改訂版】』が刊行されました。
 100万人を救った”移民国家アメリカ”ジャガイモ飢饉から学べること
■新刊書籍のご案内(4月22日発売)
 100万人を救った”移民国家アメリカ”ジャガイモ飢饉から学べること
 『経済は地理から学べ!【全面改訂版】』(ダイヤモンド社 刊)宮路秀作 著
 世界で累計10万部突破!
 「伝説の地理本」に全面改訂版が出た!
 統計データを更新、新たな論点を大幅加筆!
 アメリカもロシアも「地理」で動く!
 トランプ大統領の「本当の狙い」とは?
 世界の「今」と「未来」がよくわかる本
 大人のための知的教養
 地理がわかれば、世界はこんなに面白い!
 本書は、農業、工業、貿易、人口、紛争など、多岐にわたる人類の営みを、地理というレンズを用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です。
 【本書の目次】
 序章 経済をつかむ「地理の視点」
第1章 立地――地の利で読み解く経済戦略
第2章 資源――資源大国は声が大きい
第3章 貿易――世界中で行われている「駆け引き」とは?
第4章 人口――未来予測の最強ファクター
第5章 文化――衣食住の地域性はなぜ成り立つのか?
 経済は地理から学べ!
 宮路秀作 著
 <内容紹介>
 ※2025年4月に全面改訂版が出版されました。『経済は地理から学べ!【全面改訂版】』とご検索ください。
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 Spaceship Earth
 ロシア革命とは?世界や日本人に与えた影響を紹介!レーニンとは誰?革命家?指導者?わかりやすく解説
 数年に渡ってウクライナへの侵攻を続けているロシアは、社会主義体制を敷く国としても知られています。
 この社会主義体制をとるきっかけのひとつとなったのが「ロシア革命」です。
 この記事では、ロシア革命が起こった経緯や流れを分かりやすく説明し、現在のロシアを知るためのヒントをお伝えします。
 目次
 ロシア革命とは?なぜ起きた?わかりやすく解説
 ロシア革命はなぜ起きた?
 ロシア革命の前史
 産業革命と食料飢饉
 日露戦争血の日曜日事件
 第一次世界大戦の勃発

 ロシア革命とは?なぜ起きた?わかりやすく解説
 ロシア革命とは
 ロシア革命(Russian Revolution)とは、1917年に起きた2度にわたる革命を指します。
 一度目の革命は二月革命、二度目の革命は十月革命と呼ばれることが多く、ロシア帝国時代からソビエト連邦社会主義連邦への移行期間において、どちらも重大な出来事として知られています。
 ロシアでは1918年2月までユリウス暦を使用していたため、西暦上では二月革命は3月、十月革命は11月に起きています。
 この記事では、現代の西暦に沿って示した年表を使用して説明します。
 ロシア革命はなぜ起きた?
 ロシア革命が起きた原因は、日露戦争によって国民が貧しい生活をしていたからです。1905年、ロシア国民は皇帝ニコライ2世にデモを引き起こしました。戦争反対と食料を求めてのデモでしたが、軍隊が出動し、1,000人以上の死者が出る事件になっています。
 「血の日曜日事件」と呼ばれ、国民が革命を起こすための不満が溜まっていきました。「血の日曜日事件」により、労働者はストライキを起こすようになっていきます。
 その後、労働者が中心なってソビエトという組織を設立し、食料と戦争反対を訴えました。その時のソビエトのリーダー的存在がレーニンです。
 ソビエトの反乱は成功し、臨時政府に代わって権力を握っています。1922年にはソ連が成立しています。
 ロシア革命の前史
 まずはロシア革命が起こる前の時代背景を知っておきましょう。
 革命が起こる前までのロシアでは、長らく皇帝による支配が続いていました。
 特に、直近300年ほどはロマノフ王朝が支配しており、強大な力を掌握していました。
 しかし1917年当時の皇帝・ニコライ二世の評判はあまりよくありませんでした。その理由は、当時の歴史的な背景から探ることができます。掘り下げて見ていきましょう。
 産業革命と食料飢饉
 西洋では18世紀後半から産業革命が起き、社会システムの近代化が進んできました。一方ロシアでは、西欧から大きく遅れをとった19世紀末ごろのタイミングで産業革命が起こります。
 この影響で、1890年から1910年までに、サンクトペテルブルグやモスクワのような都市では、人口がほぼ2倍に膨れ上がり、食料の供給が追い付かない状況になっていきました。
 1891年からの1年間、飢餓で亡くなったロシア人は40万人ともいわれ、都市部では多くの人々が困窮に苦しんでいたといいます。
 日露戦争血の日曜日事件
 1904年には、日露戦争が勃発しました。この戦争でロシアは敗北し、世界的にもロシアの立場が弱くなってしまいました。
 さらに1905年、非武装の民間人が、よりよい生活環境を求めて平和的なプロテスト運動を行ったにもかかわらず、皇帝の軍隊によって何百人もの命が奪われる「血の日曜日事件」が発生します。
 この出来事に怒った労働者たちは、大規模なストライキによって反抗し、社会に大きな混乱を招きました。
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