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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代の日本人と現代の日本人は、別人のような日本人である。
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徳川幕府は、アヘンを禁制とはしていなかった為に、アヘンや大麻は漢方薬として流通していた。
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日本民族は、アヘンに溺れてアヘン中毒患者を出し社会を崩壊させた漢族中国人とは違っていた。
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2025年2月20日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「日本に「アヘン」はどのくらい入ってきていたのか? 江戸時代には「疲労回復」の秘薬だった
島崎 晋
ケシの実からつくられる麻薬・アヘン。19世紀にはイギリスが中国(清)にもたらしたアヘンをめぐってアヘン戦争も起きており、清では中毒者の急増が深刻な社会問題となった。日本でも江戸時代、津軽地方でアヘンが栽培されていたのだが、日本人にとってアヘンはどのようなものだったのだろうか?
■江戸時代には漢方として用いられたアヘン
麻薬と言えば、コカイン、モルヒネ、ヘロインなどが有名で、どれも植物を原料とする。コカインがコカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とするのに対し、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬を、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分とする。
アヘンには鎮痛作用があるため、東アジアでは古くから医療現場で利用され、戦国時代に南蛮船によってケシの種がもたらされると、津軽地方(現・青森県)でケシの栽培が試みられた。
津軽の気候・土壌に合ったのか、江戸時代には「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。当初は藩関係者にのみ下賜される秘薬だったが、のちには出入りの業者や特許商人にも卸されるようになった。
■アヘンの蔓延がもたらした破壊的な影響
だが、薬になるか毒になるかは紙一重の違いで、隣の清国(中国)ではイギリスが絹や陶磁器を輸入する代価としてインド産のアヘンを利用したことから、身分の上下に関係なく、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになった。
日頃、栄養豊富な食生活を送り、高品質なアヘンを適度に吸うぶんには害はないが、ろくに食事も摂らず、低品質のアヘンばかりを吸い、アヘンなしには生きられない依存症に陥ってしまうと、精神的な混乱や身体機能の低下で死期が早まるのは避けられなかった。
アヘン中毒患者の増加は大きな社会問題となり、輸入量の増加に伴い、代価として銀の国外流出が加速すると、深刻な貿易摩擦が生じ、その果てに起きたのが二度に及ぶアヘン戦争で、清国が列強の半植民地と化すきっかけとなった。
■江戸幕府はアヘンの使用を制限したが、一定数は流通
清のこうした状況はオランダを通じて日本にも伝えられていたため、幕府も諸藩もアヘンの使用を医療行為に限るよう徹底させた。仮に日本と清国の位置が逆であったなら、重度のアヘン中毒者を多数抱えさせられたのは日本であったかもしれず、アジアの東端にあること、それも島国であることが幸いした形だった。
幕末の武士や商人は清国の轍を踏むまいと、麻薬としてのアヘンの吸引と販売に消極的だったが、いつの世にも好奇心が強すぎて抑えの利かない者、利益があがるなら売らない手はないと考える商人はいて、戦前・戦中の日本にも一定数のアヘン中患者が存在した。
他に強力な麻薬が登場してもアヘンの需要がゼロになることはなく、モルヒネやヘロイン、コカイン、大麻などとは比較にならないほど少数だが、現在の日本でもアヘン中毒患者が年間千人単位で確認されている。
ケシの花
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トライイット
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身分別の人口の割合 幕末のごろ
総人口約3,200万人
百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
その次に多いのが7%の 武士 です。
3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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江戸時代は、庶民の時代で武士道は社会の片隅であった。
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江戸時代の庶民は、舶来のアヘンより日本の料理・酒・銘菓が好きであった。
低賃金で生活していた貧しい庶民には、高額な舶来ものであるアヘンを買う金がなかった。
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2019年12月15日 毎日新聞「弘前藩が「秘薬」アヘンを製造 「気分良くなる」と評判、偽薬も流通
有料記事
1242文字
弘前城=2019年7月17日、吉岡宏二撮影
江戸時代の津軽地方では、アヘン(阿芙蓉)の原材料であるケシが政策的に栽培されていた。弘前藩「御国日記」には栽培地や栽培に関わる医師名が記されており、「御用格」にはアヘンを用いた漢方薬「一粒金丹(いちりゅうきんたん)」の記事が多数見られる。
服用すると気分が良くなる、疲れが取れる、熱が下がる、下痢が止まるなど評判は上々だったが、当初は津軽家の関係者に下賜される秘薬だった。家中の者はかなりの確度で入手できたので、家族や親戚のための願い出も多く、公用旅行の場合は優先的に認められた。
藩外の者でも、藩米の輸送や販売を任せたり、借金を申し入れたりしていた商人などには下賜された。後には民間への販売も行われ、例えば文政年間(1818~29年)には、江戸の長崎屋(常盤橋門前)や万屋(小石川春日)が藩公認の「売弘所」となっていたことが確認できる。
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2016年5月23日 企業実務ONLINE「今週の話材「麻薬」
いつから日本人は麻薬に溺れるようになったのか?
[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]
いまや日本の中高生の間にまで薬物汚染が広がっているという。日本人と麻薬のつきあいは古く、その歴史は縄文時代にまで遡る。世界最大のアヘン大国だったこともある日本と麻薬の関係は…?
いつから日本人は麻薬に溺れるようになったのか?
縄文人は大麻を吸っていた?
日本人がはるか昔から入手可能だった麻薬は大麻である。いまから約1万年前の縄文時代の遺跡から、大麻で作った縄や布が出土する。大麻は縄文時代以来、繊維として日本人にお馴染みの植物だが、それを煙にして麻薬に使っていたかどうかが気になる。
大麻はアジア大陸の北方地域から日本海をわたってきた。渡来ルート途上の北アジアの遊牧民は、古くから繊維の原料とする一方で、幻覚剤として使っていた。縄文人だけが麻を繊維としてのみ使ったと考えるほうが不自然で、麻薬として使った可能性もなくはない。
考古学者の加藤晋平氏がいう。
麻は繊維として日本にわたってきたと考えられるが、一方で幻覚症状を起こさせる麻薬としてわたってきたことも考えねばならないと思う(『古代日本海域の謎』より)
とはいえ日本で大麻を麻薬として使ったという記録や文献はない。それでも江戸時代には大麻の幻覚作用は知られていたようだ。
甲賀の忍家に伝わる古書『萬川集海』は“アホウ薬”なるものを伝えるが、これは「麻の葉と薄茶を用いる」とある。
忍者は秘薬として大麻を使っていたが、麻薬として乱用するにはほど遠い。
大麻が引き起こした江戸の乱痴気事件
唯一記録されている大麻事件は江戸の谷中で発生した。松浦静山の『甲子夜話』と村田春海の『錦繍舎随筆』が伝えているもので、寛政12年(1800)、谷中の妙伝寺(西光寺とも)で起きた。
朝、寺の鐘が鳴らないのを不審に思った檀家の人が訪れ、寺をのぞいて驚いた。住職も、小僧も、寺男も全員が倒れ臥している。見回せば、仏壇の本尊から仏具、戸障子の類いまでがすべて打ち砕かれている。
あわてて住職に駆け寄ると、どうやら死んではいない。熟睡である。声をかけ、何度も揺り動かしてようやく目を覚ました住職の発した言葉は、
「よく寝た。昨夜はおもしろかった」
と満足げである。訪問者が「一体どうしたことだ」と室内を指さすと、住職は寝ぼけ眼であたりを見回すや、驚愕した。
住職が語るところによると、事の次第はこうだ。
寺の裏庭に生えている麻を見た飯炊きの男の子が、「麻の若葉はたいへん美味しいので田舎では喜んで食べます。江戸では食べないのですか」というので、住職は「それは、おもしろい」とばかりに料理させた。
住職以下全員が「うまい、うまい」と麻をたらふく食べたが、間もなく頭がぼーっとしてきて、やがてむやみに腹立たしくなって、そのうち正気を失ってしまった。
吸引した大麻は数分で作用するが、食べた場合は1時間ぐらいして効果を発する。麻の若葉を食べた者全員で、寺中を走り回り、経文を引き裂き、道具類を片っ端から打ち壊す乱痴気騒ぎを繰り広げたと思われる。
正気に戻った住職は「麻の葉の恐ろしい毒に今さら震えあがった」と村田春海は書いて筆を置いている。
日本人は大麻の幻覚作用を毒として恐れ、積極的に使うことはなかったようである。
維新後、日本は世界最大のアヘン大国に!
アヘンの原料となるケシは、古くから日本に渡来している。足利義満の時代にインドから津軽地方に伝来したといわれるが、そのためケシは「津軽」と呼ばれた。だが、こちらも大麻と同じく麻薬として用いた形跡はない。
日本人がアヘン問題と遭遇するのは幕末である。西欧列強が右手に聖書、左手にアヘンでアジア一帯を侵略。英国がアヘン戦争で中国に勝利して、中国はアヘン漬けとなった。
文久2年(1862)、幕府初の貿易船で中国を訪れた肥前小城藩士納富介次郎は上海でアヘン中毒者の群れを見てこう書いた。
清国(中国)既に洋夷の術中に陥り、邪教に化し、アヘンに溺るる。ああ危ないかな(『上海雑記』より)
こうしたショッキングな前例を目撃したためか、日本ではアヘン中毒者が記録されていない。
ところが明治維新とともに日本は一転して世界最大のアヘン大国にのし上がった。大阪府茨木市にはアヘン王と呼ばれる人物までいて、その名を二反長(にたんおさ)音蔵という。ヤクザの親分でもなければ死の商人でもない。報国の信念で私財を投げ打って生涯をケシの栽培とアヘン採集に尽くした傑物である。
裏切られた“アヘン王”の善意
そもそもの発端は明治28年の日清戦争の勝利で台湾を支配下に置いたことにある。台湾にはおびただしい数のアヘン中毒者がいて、日本政府はその統治に苦慮した。
そのとき後藤新平は、台湾の中毒者だけに鑑札を与えてアヘンを売り、それ以外の者には厳禁する政策を建白した。中毒者が全員死ねば、アヘン中毒は台湾から消えるという計算である。
そのためには国内でアヘンを製造して、広く中毒者に分け与えなければならない。これを新聞で読んだ二反長音蔵は、ケシの栽培とアヘン生産に生涯を捧げることにしたのである。
当初アヘン狂と嘲笑され、後にアヘン王と仰がれた二反長の奔走のおかげで、昭和初期には日本全国にケシ畑が広がった。大阪平野、近畿一帯から遠く埼玉まで、初夏になると白いケシの花で雪景色のようになった。
その頃、世界で生産するヘロインの約半分を日本が生産していたほどである。
ところが二反長の善意、アジア各地のアヘン中毒者に一代限りで配布するという初期の目的は、国によって裏切られた。日本軍の侵略先で軍費を調達するために密売されたのである。
日中戦争のかなりの部分をアヘンの密売利益でまかなっていたという(江口圭一著『日中アヘン戦争』より)。どんな善意で始めたアヘン栽培も、それが巨大な害悪に転じるのは、麻薬の麻薬たるところだろう。
それはともかく、これほど膨大な量のアヘンを採集した日本の農民たちは、アヘンに溺れることがなかった。アヘン採集をする農民が自殺する時は、首を吊るか、ネコイラズなどの毒を飲んだ。アヘンを使えば、小指の先ほどの量で瞬時に死ねるのに、である。
二反長音蔵の伝記を書いた子息もこう証言している。
阿片をこれほど多量に作りながら1人も中毒患者が出なかったということは意外というより不思議な事実だった(二反長半<なかば>著『戦争と日本阿片史』)
長い歴史のなかで、なぜか日本人は麻薬に溺れることがなかった。有名芸能人が逮捕され、脱法ハーブで気を失った運転手が車を暴走させる現代のほうが、日本の歴史上、よほど珍しいのだ。
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著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)
1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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2021年2月26日 excite.ニュース「日本ではなぜ「アヘン戦争」が起きなかったのか、中国人の主張とは
日本ではなぜ「アヘン戦争」が起きなかったのか、中国人の主張とは
アヘン戦争で英国に敗れた清は南京条約を結んで香港を割譲し、広州や上海など5つの港を開港することになった。中国にとっては屈辱的な歴史と言えるが、日本でアヘン戦争のような戦争が発生しなかったのはなぜだろうか。(イメージ写真提供:123RF)(サーチナ) 画像(1枚)
アヘン戦争で英国に敗れた清は南京条約を結んで香港を割譲し、広州や上海など5つの港を開港することになった。中国にとっては屈辱的な歴史と言えるが、日本でアヘン戦争のような戦争が発生しなかったのはなぜだろうか。
中国メディアの騰訊はこのほど、その理由について分析する記事を掲載した。
記事は、日本でアヘン戦争のような戦争が起きなかったのは、「日本には市場としての魅力がなかったから」だと主張し、当時の日本はまだ貧しく、西欧列強の興味を引くような存在ではなかったからだと主張した。
アヘン戦争は1840年に勃発した戦争だが、当時の日本は江戸時代であり、天保の改革が行われていた時期に当たる。記事は江戸時代の日本はまだ貧しく、幕府の将軍や旗本、各藩の藩主は食事の心配こそなかったが、足軽は非常に貧しく、浪人の数も多くて食べ物に事欠いていた時代だと主張した。
さらに日本は非常に資源の少ない国で、これは当時、脚気を患う人が多かったことからもよく分かると主張。脚気はビタミンB1不足で引き起こされる病だが、「野菜果物を食べればいいだけなのに、日本は貴族でも野菜果物が食べられなかった」と説明。このことから当時の日本がいかに貧しかったかがよく分かるとしている。
江戸時代に脚気が流行したのは確かだが、これは当時「江戸患い」とも呼ばれ、白米を食べる習慣が江戸で広まったことが関係していると言われる。副食が少なく、特に肉食の習慣のなかった日本ではビタミンB1を豊富に含む豚肉などを食さなかったこともあるだろう。いずれにしても筆者は、日本がどれだけ貧しかったかを強調することで、当時の清がアヘン戦争を仕掛けられたのは「外国に狙われるほど豊かだったから」と言いたいようだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
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2019年11月16日 Record China「同じく開国を迫られながら、日本はなぜアヘンの害を避けられたのか―華字紙
華字紙・日本新華僑報はこのほど、「同じく開国を迫られながら、日本はなぜアヘンの害を避けられたのか」と題する記事を掲載した。資料写真。
華字紙・日本新華僑報はこのほど、「同じく開国を迫られながら、日本はなぜアヘンの害を避けられたのか」と題する記事を掲載した。
記事はまず、イギリスと清によるアヘン戦争(1840~42年)の発端について、「イギリスでは茶や生糸の需要が増大し、中国からの輸入が増加した一方で、清ではその対価であるイギリスの絹織物や綿製品が売れず、イギリスは貿易赤字になった。そうした状況を解消するため、イギリスは、中国人にアヘンを売りつけるという邪道な考えを思いついた」とした。
そして、「イギリスがそれまでの年に銀200万~300万両の貿易赤字から銀600万両の貿易黒字へと華麗な転身を遂げたのに対し、清は『東アジアの病人』となり、国と国民は満身創痍(そうい)で、アヘン戦争に敗れたのも必然の結果だった」とした。
その上で、日本がアヘンの害を避けられた3つの理由として、「アヘン戦争が1840年に始まったのに対し、黒船来航はその13年後の1853年であり、清がアヘンによって東アジアの病人となり、イギリス人に打ちのめされるのを目撃し、イギリスとアヘンの恐ろしさをすでに理解していたこと」「清の鎖国政策に比べて、江戸幕府は西側列強に屈して市場開放を選択したため、イギリスも相互利益の観点から、日本にアヘンを強制的に売りつけるような考えを持たなかったこと」「幕府がアヘンの密輸を受けて規制を強化し、法を犯した者を流罪や死刑に処するようにしたこと」を挙げた。
3点目については、「日本の歴史学者の中には、当時の日本は武士社会であり、アヘンの誘惑に抵抗できたのは武士の強い精神によるところが大きいとの見方をする人もいるが、当然のことながら命のほうがより大事なのであり、武士道精神とは全く関係がない」とした。
そして最後に、「日本ではカタカナで『アヘン』、漢字の場合は『阿片』と表記するが、この読み方は(中国語の漢字の音で当てはめると)『阿恨(アーヘン)』となる。実際のところ、『恨』という字は当時の清の人々にこそふさわしいものだ」と結んだ。(翻訳・編集/柳川)
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ウィキペディア
アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシ(芥子、opium poppy)の実から採取される果汁を乾燥させたもので、麻薬の一種である。日本におけるアヘン史
江戸時代まで
文献に見える古い記録では、梶原性全(かじわらしょうぜん:1265 - 1337)『頓医抄』の中にすでに「罌粟」の用語が見られる。くだって室町時代には、南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある[5]。その後江戸時代を通じて現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培されたが、いずれも少量で高価であり、用途としても麻酔などの医療用や投獄者への自白剤などに限られていた。寺島良安『和漢三才図会』(1713年頃)巻百三には「阿片」や他の生薬、辰砂などと調合した「一粒金丹」なる丸薬が止瀉薬として紹介されている。この処方箋は備前岡山藩藩医木村玄石の手によるといい、これが元禄2年(1689年)弘前藩藩医和田玄良に秘薬として伝わった。藩医の和田玄春による寛政11年(1799年)の効能書には鎮痛や強壮が謳われている。この薬の評判はすぐに江戸にまで及び、歌舞伎『富岡恋山開』には「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝手を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞が残されるまでとなり、江戸市中で売られていたようである。天保8年(1837年)摂津道修町の薬問屋奉公の太田四郎兵衛が種子を持ち帰って栽培し、はじめてアヘンの製造に成功したとの記述もみえる。
幕末
一方、16世紀半ばの明朝末期に、イギリスの三角貿易によりインドから大量のアヘンが中国内に流通し始め、やがて明が滅び清となった中国からは、長崎貿易を通じて吸煙用途の安価なアヘン(煙膏)や生アヘンが知られるようになった。日本は鎖国はしていたが、海外の情報はオランダ風説書によって得ていた。
19世紀に入るとオランダ以外の欧米諸国も日本にも執拗に開国を迫り出してきており、江戸幕府は対応に苦慮していた。1839年(天保10年)にアヘン戦争が始まると、オランダはそれまでの風説書とは別に、詳細な別段風説書としての報告書「阿片招禍録」を作成して欧米が関わる動乱を詳細に報告を始めた。その3年後、明に続く大国と認識していた清がイギリスに大敗したことは幕政を大いに揺るがし、同年に異国船打払令を取り消した。このためアヘンに関しては日本も清の後追いになる危険もあったが、佐久間象山らによって魏源『聖武記』『海国図志』などが熱心に研究され(斎藤竹堂『鴉片始末』など)、また、これはアメリカ全権タウンゼント・ハリスが日本にアヘンの危険性を説いた。 鎖国を解いた4年後の安政5年(1858年)に安政五カ国条約締結に至り、このいずれの国からもアヘンの輸入を禁制とする条文が記載された。 なお、国内では1822年から国内に散発していたコレラがこの年に江戸でも大流行し、蘭方医学者のポンペは患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたことが記録されており、また典医松本良順が開国を巡る朝廷説得の心労で倒れた徳川慶喜にアヘンを処方して不眠を収めたなど一定の需要があり、日本ではまだ吸煙の習慣も定着しておらず、栽培は全国に広がっていた。
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2018年4月28日 Wedge ONLINE「幕末の若きサムライが見た中国
アヘンの本当の恐ろしさに気づいた日本の若き侍
樋泉克夫( 愛知県立大学名誉教授)
文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結(1842年)によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。
上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。
明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。
納富介次郎の上海体験を、もう少し続けてみたい。
納富は、上海では各所を歩き見聞したものを記録すれば、幕府の対外政策の一助になろうと考える。だが到着直後に病を得て当初の目論見は外れてしまう。ところが、太平天国軍から逃れて上海に押し寄せる多くの難民の中に、日本が欧米諸国とは違って儒教を尊び漢字を使っていることを知った知識人がいた。彼ら知識人が、思いがけずに納富らに接触を求める。そこで親しく付き合うようになり、色々と情報を聞き出すこととなるのだが、ということは日本人が漢字を使い、儒教に慣れ親しんでいることを知らない知識人がいたということだろう。彼らもまた、日本についての確たる情報を持たなかったということか。
五代友厚の見た「太平天国」と「英仏」の戦い
同行者の中には高杉はじめ筆談で清国人と対応できる者もいれば、清国語に慣れた通訳もいたから、清国政府の動向などについても知ることができた。納富は同行者の中の「薩州ノ五代才助」、つまり後の五代友厚に言及する。身分を隠し「水手(船乗り)」となって千歳丸に乗り込んだ五代は単独で行動し、時に遠く上海の東郊まで足を延ばし、浦東というから現在の上海国際空港辺りにおける太平天国軍との戦争を見物している。おそらく五代は、英仏軍の近代兵器が持つ凄まじいばかりの破壊力に驚いたに違いない。ところが五代は、浦東での戦況視察の一件を長崎に戻った後に明らかにした。
そこで納富は、全員が上海で得た情報を集大成すれば、より有益な情報が得られたはずなのに、そうできなかったのは自分の微力のゆえであると綴った。情報は個々人が私蔵するものではなく、共有し集大成することで“化学変化”を引き起こし、より有益な情報になることを、納富は説きたかったのだろう。
上海には欧米から貿易を求めて多くの船舶がやってきて商売は賑わっているものの、欧米商人は書画筆墨には興味を示さない。そこで「書畫ト文房ノ具」に興味を持つ日本人のところに数多くの「掛軸幅古器ナド」が持ち込まれる。ところが「固ヨリ僞物ノミ夥シクアル」から不要と応えるが、「彼強ヒテ眞物ナリト辯ジ勧メ」る。そこで「日本人ハ皆眞眼ヲ具セリ、汝等欺クベカラズト云ウ」と、最終的には彼らは品物を包んでスゴスゴと引き上げて行く。
日本への亡命を望む者たち
上海に攻め寄せる太平天国軍、これを迎撃する清国軍と英仏軍。戦場は上海に迫る。戦場から逃れ上海に押し寄せ惨めな生活を余儀なくされている難民を見て、納富は「定メタル住居ナク、或ハ路傍ニ佇ミ或ハ船ヲ栖家トシ雨露ニ濡レ飢渇ニ困シミ、タゞ一日々々ノコトヲ計ルノミ。ソノ命懸絲ノ如シ。憐レムニ堪ヘザル衰世ナリ」と綴る。
難民の多くは「蘇州ノ者ニシテ約ソ十餘萬人モコレアルベシ、且官府モコレヲ救フコト能ハザレバ、餓死スル者日々ニ多シ」。難民をめぐる環境は日々刻々悪化するばかり。清国政府も手の打ちようがないだけに、日本への亡命を望む者が現れたのである。
千歳丸一行の宿舎に顔を出し「風流ノ交リヲナスハ、皆難民中ノ人ニシテ、ソノ中ニハ秀才モ有ツテ、清朝ノ衰政ヲ哀ミ頻リニ皇國ヲシタ」う。納富が綴る「秀才」が科挙試験上位合格の秀才なのか、一般的に頭がいいという意味を指すのかは不明だが、ともかくも一般難民とは違う読書人クラスの難民がやって来て納富に対し、「もう清朝はダメです。救いようはありません。それに引き替え皇国(にほん)は素晴らしい」とでも語ったのだろう。とどのつまりは亡命への支援要請だ。反日感情など考えられもしなかった時代の話ではあるが、その後の紆余曲折極まりない日中関係を考えるなら、なにやら不可思議な思いがしないでもない。
納富は「余ニ言ヒテ曰ク、現今多クノ難民去ツテ貴邦ノ長崎ニ在リト。古ヘモ亦コレアリ。貴邦ハ素ヨリ仁義ノ國ト知ル。而シテ我邦ト唇齒ニ均シ。若シ諸侯ニ於テモ我輩ヲ憐レンデ倒懸ノ苦ミヲ救ヒ、召シテソノ民トナシ玉ハゞ、長ク恩澤ヲカフムリ安居スルコトヲ得ント、坐ロニ涙ヲ浮カベケレバ、余モマタ哀憐ノ悲ニ堪ヘザリキ」と記している。この部分のやり取りは筆談だったのか。それとも通訳を介したのか。ともかく「現今多クノ・・・」から「・・・悲ニ堪ヘザリキ」までを現代風に翻読してみると、
――ただ今、多くの難民が貴国の長崎に流れ着き住まいしている。こういったことは、その昔にもありました。貴国は古より道義の国であることを承知しており、加えて我が国とは唇と歯のように切っても切れない関係にあります。私を哀れに思われ、召し抱えても宜しかろうと恩情を掛けて戴けますなら、末永くご厚情に浴し安居することが叶うことと思います――
こう涙を浮かべて訥々と語り掛けられたことで、納富としては「哀憐ノ悲ニ堪ヘザリキ」である。続けて「因テ思フ」と難民の処遇について記す。これまた翻読すると、
――拙者が思うに、これら難民を救い申して皇国の民の列に加え、職人の技術を生かさば国益にもつながり申そう。農民ならば島々や山林を切り開かせ、意欲と能力ある者は挙って使うが宜しかろう。太平天国の賊乱に遭って苦しみ、空しく餓死するなどということ、痛々しく、これまた口惜しきことではござらぬか――
この時、果たしてどれほどの数の難民が長崎にやってきたのか。そのうちの何人が日本に落ち着き生計の道を確保したのか。それは不明だ。
納富は自らが見聞きした上海の姿から、一向に止みそうにない「賊亂」が清国全体に及ぼす惨状を考えてみた。上海では従来からの住人に加え「十餘萬ノ難民等」が食べなければならない。上海は「幸ヒ廻船便宜ノ地ナレバ米穀」が底を尽くことはないが、米価は日々に高騰するばかり。かくして「難民等ハ買フコト能ハズ。又乞兒トナリテモコレニ與フル者ナケレバ、遂ニハ餓死スルヨリ外アラザルベシ」という状況が現出する。
手の打ちようのない惨状から、納富は考える。「他ノ地モ亦賊亂ヲ避ケ、ソノ地モシ米粟少ナク又運送ノ便ナクンバ、從令黄金ヲ貯フトモ、飢渇ニセマリ餓死スル者上海ヨリ尚多カラン。實ニ清國當今ノ衰世アサマシキコトゞモナリ」と。最早この国は、手の施しようがない。
なぜ、聖書など有難がるのか
某日、病床の納富を「二人ノ書生來リ訪フ」。友人が応接すると、聖書を持参している。「耶蘇」の布教らしい。そこで友人は「大イニ怒リソノ書ヲ抛チ」、追い返した。「然ルニ次日又來ル」。「入ルコト許サゞレバ、立ツテ戸外ニ在リ」。そして折から訪ねて来た「知己ノ書生馬銓」に納富への取次ぎを頼んだ。馬銓もまた「聖書だから読んでみたら」などと悪気もなく勧めたのだろう。だが、いくら「知己ノ書生」の勧めとはいえ、「耶蘇ノ邪教書」なんぞを受け取るわけにはいくまい。当然のように「我友等倍々怒リ大イニ嚷責シ皆出テ右ノ書生ヲ遂却」した。その結果、布教活動は翌日から絶えたようだ。一連の聖書騒動を、「噫、清國書ヲ讀ム者スラ既ヲ尊奉ス。況ヤ愚民等ニ於テヲヤ」と納富は慨嘆する。
――清国には孔孟以来の聖賢の著書や歴史書があろうものを、読書人たるもの、なにゆえに「耶蘇ノ邪教書」なんぞを有難がるのか。読書人がこれだから、一般民衆は推して知るべし。嗚呼、何とも嘆かわしい限りだ――
ところで、「倍々怒リ大イニ嚷責シ皆出テ右ノ書生ヲ遂却」した「我友等」の先頭に立ったのは、はたして高杉晋作であったか。かりに高杉が刀の柄に手をやりながら大喝した場面などを想像してみると、じつに痛快な“文明の衝突”の現場といえそうだ。
日本の若者の剣幕に驚いただけではなく、おそらく彼らの武勇伝は瞬く間に上海の知識層に広まったに違いない。そこである日、「清人ノ醫師來リ語ツテ曰ク」となる。これまた筆談なのか、通訳が入ったのかは不明だが、「清人ノ醫師」の話の大意を綴っておくと、
――浮説では、あなた方は英国からの支援要請を受け上海に来たとのこと。清国・日本・英国・仏国が力を合わせて太平天国軍を撃破してくれるのだろう。日本軍本隊を乗せた軍艦は、いつ到着するのか。待ち遠しい限りだ。日本軍には1日で千里往って還る兵士もいれば、雲に乗り水の上を走る兵士もいるそうだが、あなた方を見ると不思議にも普通のヒトのようだが――
かくて納富は「初メ我船着岸ノトキ皆上陸セシニ、來リ觀ルモノ雲集セシハ、サル浮説ノアリシ故ナラン」と納得した。どうやら中国人は千歳丸一行を日本からの援軍の先遣隊と期待していたようだ。それほどまでに上海は「長毛賊(太平天国軍)」の攻撃に悩まされ、それゆえに人々は日本を頼みの綱と心待ちにしていたことになる。
この「浮説」に一行の哄笑が聞こえて来るようだが、やはり納富には自国を守ろうとする気概なき清人の振る舞いが気になって仕方がないらしい。だから「清人ヲ見ルニ、凡ソ柔弱ナル躰ナリ」となる。
アヘンの本当の恐ろしさに気づいた日本の若き侍
ある日、上海を管轄する役所を訪問した。自らが目にした役所内の様子を、「ソノ情躰甚ダ賤シ。又禮儀ヲ知ラズ。見苦シキ下僕ト見ユルモ、主客ノ座ヲ憚カラズ立騒ギ見物ス。或ハ應接アル所ノ後障ヨリ數十人窺ヒ見ル。又我輩ノ傍ニ來リテハ、衣服ヲ撫デソノ品價ナドヲ評シ、或ハ草履ヲ取ツテソノ製ノ異ナルヲ笑フ。最モ珍奇トスルハ刀釼ナリ。頻リニコレヲ看ンコトヲ請フ。許サゞレバ窃カニ取ツテ抜カントス。ソノ形様ノ野鄙ナルコト云ワンカタナシ。コノ後到ルコト兩三度ニモ成レバ、庭前ニハ古キ衣服ヲ晒シ、廊下ニハ多クノ便桶ヲスエ置ケリ。更ニ掃除セシテイモナシ」と綴る。
上司が日本からの賓客を接待している厳粛であるべき場面を、「後障(ついたて)」の影から鈴なりになって覗いている。汚い手で裃を撫で、武士の魂である刀を触りまくり、抜いてみようとさえする者もいるほど。役所の庭には着古した衣服が干され、廊下には便器が並び、掃除された様子がみられない。綱紀は弛緩するに任せている。納富が呆れ返ったのも肯ける。
さらに続ける。「既ニ歸リ去ラントスルトキニハ、盤上ニ餘リシ菓子ナドヲ盗ミ、或ハ殘酒ヲ取ツテ飲ムモアリ。實ニ犬猫ニ異ラズ」。武器はハリボテ状態でナマクラそのもの。兵士を眺めるに、「ソノ狀殆ンド狐狸ノ行裝ノゴトシト。官府ノ困窮コレヲ以テ知ルベキナリ」。語るに落ちたとは、こういう状態を指すに違いない。
下っ端とはいえ役人の惨状は、そのまま民間にも及ぶ。その最たるものがアヘンだ。
「清人云フ、鴉片烟ソノ味ヒ甚ダ美ナリ。然レドモソノ害ノ甚シキハ人命ニ及ブ」。そして「コレヲ吃スレバ一月ニシテ癊必ズ生ズ」。つまり1ヶ月もすれば必ず中毒になる。だが体調不良や気分が優れない時にアヘンを吸えば「精神頓ニ明發ス」るから吸わないわけにはいかない。
千歳丸が雇った水路案内人は30歳ばかり。英語もできて収入も多いらしい。尋ねると、父母妻子なし。博打もしないし、「女色飲酒ニモフケル」わけではない。高収入であるはずが、ボロを纏ったような水路案内人は「我他事ヲ欲セズ、嗜ムトコロハ唯阿片煙ノミナリ。故ニ得ルトコロノ金多シト雖ドモ、コレガ爲ニ不足ナリト云フ」のであった。ここまで聞いても日本人の誰もが信じない。アヘンの値段が高いといっても、財布がスッカラカンになるほどのことはないだろう、というわけだ。
すると「須臾ニシテコノ者我輩ノ所ニ來リ、美ナル箱ヨリ阿片烟ノ具ヲ出シ、平臥シテコレヲ吃スルコト凡ソ半刻。皆コレヲ奇トシ傍ニ依テ見物ス。然ルニソノ烟座ニ滿チソノ臭モ亦惡ムベシ」。納富ら一同は面白そうに眺めていたが、アヘン煙が放つ悪臭に誰もが耐えられなくなる。そこで「コレヲ静止スレドモ更ニ耳ニ通ゼズ。眸神蕩ケテ眠ルガゴトクナリケレバ、ソノ久シクシテ過チアランコトヲ恐レ」た。一同の内の誰かが怒りを露わに刀の柄に手を掛け、「キサマ、黙っておけばいい気になりおって」とでも大声で怒鳴ったのか。水路案内人は「アハタゞシクソノ具ヲ収メ出デサリヌ」というわけだ。
かねてから納富は、清朝の「官軍屢々敗レ」る原因は戦場でもアヘンを吸うからだ。「眸神蕩ケテ眠ルガゴトクナリケレバ」、敵軍の接近も判らない。予め定まった吸引時間になれば、戦闘を中断してしまう、と聞いていたが半信半疑だった。ところが「今コノ者ノナスヲ見テ」、やっと納得できたという。かくて「憐レムベク又戒ムべキニアラズヤ」となる。
太平天国は自滅するも、外国勢力に牛耳られ衰弱する清国
太平天国は当初は明朝の再興を掲げ破竹の勢いであった。だが時の経過と共に勢いは失せ、「現今ニハ專ラ天主敎ヲ奉ジ愚民ヲ服セシメ、不從者ハコレヲ誅殺シ賊徒ヲ集メ駿夫ヲ捕ヘコレヲ兵勇ニ充テ、タゞ亂暴狼藉ヲナスノミト云ヘリ。コレ全ク賊中ノ將戰死シ或ハ降シヨリ、法令モ自ラ邪道ニ墜チタルナリ」――
当初は異民族である満州族の清朝を撃ち倒し、漢民族の明朝を再興しようなどと“大義”を掲げていたが、今では天主教を前面に押し出し、かき集めた愚民を俄か兵士に仕立てる体たらく。指揮官は戦死し、あるいは投降し、もはや軍律は守られず乱暴狼藉の限りを尽くす盗人集団に成り果ててしまった。にもかかわらず掃討できないのは、「タゞコレ清朝ノ衰弱シテ暴臣政ヲ取ルヲ以テナリ」だからだ。政治改革を断行し国内に「仁政」を施せば、軍隊を動かさずとも太平天国軍は直ちに滅びるだろうと、納富は考える。だが当時の清朝政権に「仁政」は求め難かった。
ほどなく太平天国は幹部間の内紛が表面化し瓦解するが、問題は清国である。納富は、国家運営の根幹である財政・軍事権を英国や仏国など外国勢力に握られていることが清国衰亡の根本原因だと考えた。
先ずは財政だが、アヘン戦争に敗れた結果、清国は英国との間で南京条約を結び、上海・寧波・福州・厦門・広州の南部沿海の主要5港の開港を余儀なくされた。かくて「萬國ノ商客」が蝟集し、上海はアジア最大の貿易港へと大変貌を遂げ、税関収入も莫大なものとなった。だが「洋商」は「柔弱ナル」清国役人などバカにして命令に従わない。密輸・脱税など日常茶飯事だったに違いない。そこで英国人に代行を依頼したものの、都合が悪いことに第2次アヘン戦争(=アロー戦争。1856年~60年)で清国は再び「英軍ニ打負ケ」てしまい、莫大な賠償金を支払わざるをえない。だが国家財政は火の車である。そこで上海港で徴する莫大な税関収入を差し出す羽目に陥ってしまった。つまり上海が賑わい貿易取引が増加したところで、清国の国家財政を潤すことはないわけだ。
次は軍事。納富は仲間のなかの「或ヒトノ話」から説き起こす。その「或ヒト」が上海の「徘徊」を終えて宿舎に戻ろうとしたが、刻限を過ぎていたので城門は閉じられ「往來ヲ絶ス」。ところが日本人であることを知った城門守備の仏兵が、わざわざ城門を開けてくれた。すると「土人等コレニ乗ジ通ラント」したが、ダメだった。ちょうどその時、清国役人が輿に乗ってやって来て、仏兵の制止を振り切って城門を通過しようとしたが、「佛人怒リテ持チタル杖ニテ速撃シ、遂ニコレヲ退キ回ラシメ」たのである。
日本人は特例。清国人は役人も含め、自らの国土に在りながら他国の兵士の指図を受けざるを得ない。当時、上海をぐるりと囲んだ城壁には7つの城門があり、それらを英仏2国の兵士が守備し、朝晩5時を刻限に開閉していた。かくて「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」となる。
上海港の税収はそのまま英国女王陛下の懐を潤し、街の防衛・治安は英仏両国に委ねたまま。これでは納富ならずとも「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」といいたくもなるだろう。
「愚民」を籠絡するキリスト教の役割とは
連載:中国という鏡に映った日本人の自画像
西欧による籠絡の手法の1つにキリスト教の伝道を挙げる。「耶蘇堂」を築き、「愚民」に「先ズ多クノ金銀ヲ與へ」る。「故ニ愚民等ハ宗法ノ善惡ヲ論ゼズ」、キリスト教に靡いてしまう。また病院を建設して「愚民」に医療を施す。「藥劑等」も「上帝」からの施しであり、病気治癒もまた「上帝ノ救助シ玉フ」ところだと思い込ませる。かくて「ソノ教遂ニ天下ニ盛ンナリ」ということになって、民族精神は徐々に蝕まれるという始末である。
財政権と防衛権は他国に握られ、精神は侵されるがまま。清国の惨状を目の当たりにした納富は、風雲急を告げる幕末の日本に戻って行った。
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