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幕末三俊とは、岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順。
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2025年6月16日 MicrosoftStartニュース JBpress「外交官デビューした岩瀬忠震が説いた積極的開国論とは?影響を与えた人物とは?対オランダ・ロシア外交の展開
オランダ軍艦メヂユサ艦長であるファビユス
(町田 明広:歴史学者)
岩瀬忠震の外交デビューとハリスの来日
安政2年(1855)1月、岩瀬忠震は外交官としてデビューを果たした。勘定奉行川路聖謨・水野忠徳とともに、ロシア使節プチャーチンとの日露和親条約の修正交渉のため、下田に派遣されたのだ。この交渉では、アメリカが領事官を置く前に、ロシアは置かないことで妥協を引き出した。
安政3年(1856)7月、初代駐日米国領事ハリスは通弁官ヒュースケンとともに、日米和親条約で開港された下田に上陸した。ハリスは玉泉寺を総領事館と定め、直ちに出府を希望し、江戸での通商条約の締結交渉を開始したいとの意向を開示したのだ。
下田にいても、時間ばかりかかって、結局は何事も前進しないことを恐れ、ハリスは繰り返し江戸に行くことを要求した。幕府にとって、その要求にどのように対応するのか、大きな難題となった。
海防掛内の対立
ハリスの要求を受け、海防掛(外国船の来航に備えて、海岸防禦や対外政策を担うために設置)は2派が対立する構図に発展した。
岩瀬忠震を中心とする大目付・目付グループ(跡部良弼・土岐頼旨・筒井政憲・伊沢政義の4大目付、岩瀬・鵜殿長鋭・一色直温・大久保忠寛・津田正路・永井尚志の6目付)は、自由貿易の優越性を説き、即時の開始を求めた。また、外国官吏の出府は可という、極めて開明的な答申をした。
一方で、川路聖謨を中心とする勘定奉行・勘定吟味役グループ(川路・松平近直・水野忠徳の3奉行、塚越藤助・中村為弥・設楽八三郎の3勘定組頭)は、当面は開港を長崎に限定し、その状況に応じて拡大・縮小を決めることを求めた。また、外国官吏の出府は不可と進言したのだ。
川路聖謨
これ以降、この2派は何かにつけ、対立を繰り返すことになる。なお、老中首座の阿部正弘および堀田正睦は、原則として、大目付・目付グループを支持したことから、幕府外交は積極的開国論に舵を切っていくことになった。
岩瀬とファビユスの邂逅
安政3年8月25日、岩瀬忠震は下田でハリスと応対することを命じられ、9月9日以降、回数は明らかに出来ないが、複数回にわたった会談を行なった。さらに、9月2・3日の2日間にわたって、下田奉行井上清直・岡田忠養らとともに、オランダ軍艦メヂユサ艦長であるファビユスと会見した。
岩瀬にとって、ファビユスとの出会いは極めて重要であった。岩瀬はファビユスから、海外情勢や貿易事情に関する詳細な説明を受けるとともに、自由貿易の重要性を聞き及んだのだ。
岩瀬は、日本における貿易の展望などの説明を受けたことで、積極的開国論に転身した。その契機として、ファビユスとの会見は極めて重要であり、岩瀬の海外渡航の志向の萌芽も、ここに見られた。
9月15日、岩瀬は江戸に戻り、早速、老中首座の阿部正弘に対して、通商条約の必然性を報告した。そして、積極的開国論を主張するとともに、組織改革にまで言及している。
岩瀬忠震の積極的開国論
安政3年10月17日、老中堀田正睦は外国事務取扱を命じられ、海防月番に専任することになった。同月20日、若年寄本多忠徳、大目付跡部良弼・土岐頼旨、勘定奉行松平近直・川路聖謨・水野忠徳、目付岩瀬忠震・大久保忠寛を外国貿易取調掛とし、互市開始の措置を調査する命令が出された。いよいよ、積極的開国論を基底とした、ハリスとの対応準備が始まったのだ。
その背景として、アロー戦争の情報が、オランダ商館長より伝達(安政4年(1857)2月)された事実があった。アロー戦争とは、第2次アヘン戦争とも呼称され、1856年、イギリス船籍のアロー号の中国人船員を清朝官兵が逮捕したことに端を発した、清とイギリス・フランスとの戦争であった。
アロー号を拿捕する清国兵
こうした情勢を踏まえ、岩瀬忠震は積極的開国論を大目付・目付上申書(安政4年3月)の中で展開した。岩瀬は、ハリスを始めとする在留外交官の出府を許可すること、海外事情に精通するため使節を海外に派遣すること、通商を開始して諸侯にも参画させ、利益の公共性を担保すること、さらに、外交官や留学生を派遣することを主張したのだ。極めて先進的な主張であり、驚きを禁じ得ない。
岩瀬と対オランダ・ロシア外交の展開
安政4年4月15日、幕府は勘定奉行兼長崎奉行水野忠徳および目付岩瀬忠震を長崎に派遣した。日蘭和親条約の追加条約を締結するためで、8月29日、長崎奉行荒尾成允、目付松平康正とともに、蘭国理事官クルチウスとの間で、追加条約40款及条約添書2款に調印した。
そのポイントであるが、自由貿易への移行を前提とした貿易規制の緩和、出島への自由な商人の出入と取引の許可を認めた。さらに、輸入品に対する従価35%の関税を規定したのだ。
その後、9月7日に至り、岩瀬・水野・荒尾は露国使節プチャーチンと交渉し、日露和親条約の追加条約28条を締結した。これは日蘭追加条約を踏襲したもので、いずれも会所貿易の形態をとりながら、実質的な自由貿易を志向したものだった。
エフィム・プチャーチン
このように、岩瀬は外交官としての実績を着実に積んでいった。こうした経験が、来たるべくハリスと交渉に役立ったことは言うまでもなかろう。
次回は、岩瀬忠震の海外渡航志向を香港渡航問題等から読み解き、ハリスの出府と通商条約交渉、またハリスの岩瀬に対する評価や岩瀬の横浜開港論について、詳しく述べてみたい。
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当時の日本人は、現代の日本人とは全然違う。
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徳川幕府の外交官は、現代日本のエリート外交官と比べて劣ってはいなかった。
超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリ、エセ保守とリベラル左派には、先の見えない時代、欧米列強や周辺諸国による日本軍事侵略という危機に際し、国際外交の経験もない中で智恵を絞って幕府・国、天皇、民族を守ろうと悪戦苦闘した徳川幕府の官僚武士を批評、批判する資格はない。
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日本の近代化は、江戸時代後期のロシアによる軍事侵略と戦国時代の中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による宗教侵略が発端となっていた。
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徳川幕府は、ロシア軍との祖国防衛戦争に備えて東北諸藩に約5,000人の軍隊をアイヌ人の住む蝦夷地・北方領土・南樺太に派遣する事を命じた。
その意味で、日本人=和人はアイヌ人の土地を侵略・占領・強奪した。
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戦争には、正義の戦争、正しい戦争がある。
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尊皇攘夷派・勤王の志士とは、神国日本・現人神天皇・選ばれた日本民族をロシアから守る為に戦争を覚悟・死を覚悟した民族主義者・軍国主義者・国家主義者・天皇主義者達であり、下級武士や庶民など身分が低い貧しい日本人であった。中には、庶民から直参旗本になった町人や百姓もいた。
大半は差別主義者ではなかったが、中には少数の狂信的な差別主義者もいた。
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日本人とは、善人が2割、悪人が3割、何方付かずの日和見主義者が5割である。
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2020年8月23日 歴史人「5カ国との条約調印を行った唯一の幕臣・岩瀬忠震(いわせただなり)
新しい時代・明治をつくった幕末人たち
江宮 隆之
米・露・蘭・英・仏との条約調印にすべて立ち会う
岩瀬が学んだ昌平坂学問所があった湯島界隈。現在の東京都文京区にある文京エリアでもある。
文政元年(1818)、岩瀬は旗本・設楽家に生まれたが、血縁を辿ると宇和島藩・伊達氏に繋がり、伊達政宗の子孫の一人でもあった。叔父に鳥居耀蔵・林復齋(はやしふくさい)などがいる。昌平坂学問所に学び秀才の評判があった。後に旗本・岩瀬家の養子となり、老中首座・阿部正弘に登用されて目付となり、外交・海防事務に従事。講武所・蕃書調所(ばんしょしらべしょ-洋学研究機関・翻訳所)・長崎海軍伝習所の開設や品川砲台築造などを行っている。
安政2年(1855)に来航したロシアのプチャーチンとは幕府の全権大使として交渉を進め、日露和親条約締結に臨んだ。また安政5年(1858)には、アメリカ領事のタウンゼント・ハリスと交渉して日米修好通商条約に同輩の井上清直と共に署名している。
岩瀬は、主に外国との交渉や条約調印・朝廷との交渉(勅許獲得)など、幕末の海外問題に精力的に取り組み、日米修好通商条約の勅許(天皇の許可)には失敗したものの条約を強行した。その後に外国奉行に就任した。さらには、アメリカ・ロシアに続いて、オランダ・イギリス・フランスの合計5カ国との条約調印すべてに、岩瀬は立ち会っている。幕末の幕府高官でこうした「歴史の重要な場面」に立ち会ったのは、岩瀬のみである。
しかし、将軍継嗣問題にあって岩瀬は、一橋派に属したために大老・井伊直弼の怒りを買い(安政の大獄)、作事奉行へと左遷、さらには蟄居(ちっきょ)ともなる。文久元年(1861)に失意のうちに病死した。44歳の若すぎる死であった。生存していれば明治政府の外国担当として腕を振るったはずである。なお、岩瀬は、島崎藤村『夜明け前』にも登場する。
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一般社団法人鳳陽会 東京支部
幕末官僚の優れ者(その2)岩瀬忠震②
山口大学経済学部同窓会
【2024年 5月トピックス】
◆ハリスとの条約交渉
ハリスはしばしば岩瀬に反論されて答えに窮し、また岩瀬に論破されて条文を何度も改めたとされる。
ハリスは英国を始め欧州は油断すると怖い存在であると認識させ、その前提で米国との通商条約交渉を有利に進めていこうとするが、岩瀬はそうしたハリスの欧州の悪口をたしなめることもしている。
◆英国人の岩瀬評と岩瀬のジョーク
英国とも安政5年7月18日に日英修好通商条約が締結された。
ひと月前に日米間で通商条約が締結されており、交渉は比較的スムースに行われたようだ。
日英通商交渉・締結の当事者となった第8代エルギン伯爵の秘書・ローレンス・オリファントは日本滞在中の記録(和訳書「エルギン卿遣日使節録」)の中で、岩瀬忠震のことを「彼こそが日本で出会った中で、最も愛想の良い教養に溢れた人物」と記している。
またここにでてくる岩瀬のジョークがある。
交渉の際、会食を重ねるが、日本側は出されるハムとシャンパンをとても好んだようだ。
「ハムとシャンパンに猛然と襲いかかる」ほどの勢いだったという。
そこで岩瀬が放ったジョーク。
「条約にはハムとシャンパンの味がしないようにしないといけませんね」
一同大爆笑だったという。
◆日本人の岩瀬評
日本人の岩瀬評はどうか。
橋本左内「急激激泉の如く、気力盛ん、決断力あり、知識あり、断あり」
木村芥舟「資性明敏、才学超絶、書画文芸、一として妙所至らざるなり」
若くから学業に秀で、ユーモアに富み、頭の回転は群を抜いていたそうだ。
ああ羨ましい。
こうした幕臣がいたからこそ難航する条約交渉が「曲がりなりにも」まとまった。
こうした優れた幕臣がいたことを忘れてはいけない。
しかし、悲しいかな将軍継嗣問題もあり安政の大獄で免職となり、44歳で病没する。
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2024年6月21日 戦国ヒストリーとは「「岩瀬忠震」当時最先端の認識・考え方を持ち、日本を植民地化から救った幕臣の憂うつ
岩瀬忠震の肖像(『日本史蹟大系 第15巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸時代が終わりを告げるその第一幕で、1858年に幕府がアメリカと締結した日米修好通商条約(ハリス条約)は、アメリカの要求を一方的に受け入れた不平等条約であった、と習った方は多いだろう。ではその締結において幕府側で中心的な存在であった岩瀬忠震(いわせ ただなり、1818~1861)という人物はご存じだろうか?
この人物、教科書にも出てこない、ましてやドラマにもほとんど登場しないが、調べてみるととんでもなくスゴイ人だった。明治政府により、幕末の徳川幕府は無能な官僚しかいなかったかのようなイメージを持っていたが、いやいや… 幕臣たちの中にも日本を守るために、堂々と列強各国と渡り合える人材もいたのだ。
【目次】
1. 安政の五カ国条約の調印すべてに立ち会う
2. 外交官・岩瀬忠震
3. 将軍継嗣問題に翻弄された岩瀬
4. あとがき
安政の五カ国条約の調印すべてに立ち会う
岩瀬という人物がどうスゴイのか、まずはその点についてさっくり説明をしておこう。
嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した。目的は、日本の港を開港させ、アメリカとの貿易を行うことであった。長きにわたる鎖国による安寧に胡坐をかき続けていた幕府高官の一部や有力大名は「異国など打ち払ってしまえ」と叫ぶばかりで具体的な策など出てこない。
そこで当時の老中首座・阿部正弘が外交官として抜擢したのが岩瀬忠震である。学業はもちろん優秀、その上旺盛な知識欲に対応力、決断力もあったという岩瀬が阿倍のお眼鏡にかなったのだ。
阿部の期待通り、岩瀬は巧みな交渉術と高い教養、臨機応変な対処能力を駆使し、欧米との折衝に尽力した。そして、日米・日露・日蘭・日英・日仏五カ国の条約すべてに調印した唯一の幕臣となった。
欧米は本当に日本を植民地にしたかったのか?
ここで確認しておくべきは、欧米が日本へやってきた理由である。幕末の攘夷志士や討幕派たちが揃って叫んでいたように、欧米は本当に日本を侵略したかったのか。もしかするとそれは、大いなる誤解だったのではないだろうか。
これはあくまで私の考えだが、欧米各国は日本と貿易をしたかったのではないか。もちろん自国の利益のために少しでも有利な貿易をしたいという思いはあったとしても、植民地にするという意図はあまりなかったように思う。
なぜなら、本当に侵略をもくろんでいたなら、問答無用で武力を使うことはできたはずだからだ。当時の日本と欧米各国の軍事力差は、赤ん坊と大人以上の差があっただろう。だが彼らはそれをせず、あくまで話し合いを求めたのである。
ところが当時の多くの日本の人々は、ただ異国を恐れるあまりに過剰反応をしてしまった。これは鎖国政策により、海外の知識があまりにも少なかったことに原因がある。
不平等ではなかった欧米との条約
例えば日米通商修好条約の場合、関税は平均20%、酒とたばこは35%としている。これは欧米各国で取引されていた関税とほぼ同等であり、不平等とは言えない。
領事裁判権についても承認はしたものの、幕府には外国人が居住する地域外へ自由に出られる状況を作るつもりがなかった。長崎の出島のように行き来を制限していれば、外国人が日本で犯罪を起こすこと自体が難しく、領事裁判権など絵に描いた餅である。万一犯罪を起こしたなら、日本から追い出せばよいだけである。シーボルトのように。
1858年、アメリカの総領事・ハリスと交渉し、日米修好通商条約(ハリス条約)締結に臨んだ岩瀬。
となると、安政の条約は、明治政府が訴えていたような不平等条約ではなかったのだ。
では、はじめから欧米各国は日本と平等な条約を結ぶつもりだったのか、というとそうではない。何も知らないだろう日本相手なら、自国が有利な条件を提示していたはずだ。
それを阻止し、条件を変更させ、出来るだけ日本が不利益を被らないように交渉したのが、岩瀬をはじめとする優秀な外交官だったのである。
外交官・岩瀬忠震
岩瀬は、明治に活躍したジャーナリスト・福地源一郎により、水野忠徳(ただのり)・小栗忠順(ただまさ)とともに「幕末の三傑」と評された能吏であった。しかしはじめから欧米との交渉に長けていたわけではない。
岩瀬忠震の経歴
忠震が生まれたのは、旗本・設楽家である。貞丈という父と林述斎の娘である母の間に生まれた設楽家の三男である。林家は林羅山を祖とする儒学者の家系で、忠震の叔父には鳥居耀蔵(とりいようぞう)がいる。
文政元年(1818)に江戸で生まれた忠震は、のちに岩瀬家の養子となり、岩瀬家を継いだ。武家の教育機関としては最高峰の昌平坂学問所で学び、優秀な成績を誇っていた。昌平坂学問所では、儒学や朱子学を学んでおり、蘭学などの海外の学問はほとんど学んでいなかったらしい。しかし、彼は外交官になった。
外交官となった岩瀬
国を守るためにどうすれば良いのか、列国とはどのように付き合うべきなのか。岩瀬は数少ない外国人(主にオランダ人)と交流し、学ぶことで、海外の知識や貿易の有益さ、かたくなに拒否することよりも交渉してより有利な条件を勝ち取る方が重要だということを知る。
欧米との交渉
各国が提示する条約を徹底的に拒否すれば、その先には力による支配が待っているはずだ。拒否ではなく、より有利な条件を引き出す交渉こそが日本を守る唯一の方法だと考えていたのは、当時の日本では岩瀬や彼と共に各国と交渉をしていた優秀な幕臣たちだけだったかもしれない。
彼ら外交官は、条約を締結するにあたり、条約の内容を詳細に調べたうえで、日本に出来るだけ有利な条件に変更するために何度も交渉し、かつ各国への友好的な態度を示し続けた。
安政2年(1855)ロシアのプチャーチンが来航すると、岩瀬は全権大使として交渉に当たり、日露和親条約に調印している。以後も各国との折衝・交渉そして調印を行った。
徳川幕府よりも大切な日本と言う国
日本をどうすれば守れるのか、岩瀬は幕臣としてではなく、国家の命運を優先していたという。前述の福地源一郎(桜痴)は、自署『幕末政治家』で、岩瀬について述べている。
岩瀬は、「国家の利害など全く考えていない朝廷の許しなど不要」「無勅許調印に踏み切るべきだ」と言っていたらしい。そしてもし勅許を取らなかったことで、幕府が不測の重大事に至ったとしても、致し方ない。
{「国家の大勢を預かる重職は、この場合に臨みては社稷(しゃしょく=国家)を重しとするの決心あらざるべからず」}
わかりやすく言うと、「国政を預かる重職にある者は、己の保身や組織の維持を考えるのではなく、国家・日本という国全体の命運を優先すべきである」ということだ。
幕臣でありながら、これだけの覚悟ができる岩瀬忠震という人物のすごさがここにある。
設楽原歴史資料館(愛知県新城市)にある岩瀬忠震公之像
将軍継嗣問題に翻弄された岩瀬
「幕臣の中でただ一人 鎖国攘夷の臭気を帯びなかった」とも福地が評しているように、岩瀬は当時としては珍しく頑迷な開国・開明派であった。ところが、なぜか極端な国粋主義者である水戸藩の徳川斉昭とウマが合ったらしい。
斉昭は、第13代将軍家定の継嗣問題において、実子である一橋慶喜を推していた。一方、大老の井伊直弼は紀伊藩の徳川慶福(よしとみ:後の家茂)を推している。結果はご存じの通り、慶福に軍配が上がった。
井伊直弼との対立
安政五カ国の条約締結については、井伊自身も積極派ではあったが、締結後はやはり徳川への忠誠が第一であり、各国との交易も徳川幕府が中心となって行うべきだという考えを持っていたようだ。
一方で岩瀬は、鎖国などもってのほか、幕府という枠にとらわれることなく、各国との積極的な交易を行うことで国力を高める。交流国へ留学生や大使を派遣し、見聞を広め、いずれは列強と対等に付き合える国となり、西欧の植民地支配を改めさせる、という具体策まで考えていた。
これは維新後の明治政府が打ち出した近代化政策とほぼ同じではないか。維新前夜、まだほとんどの人間が攘夷を叫び、幕府の弱腰を責めていた当時としては最先端の認識・考え方を持っていた。
岩瀬と井伊は、条約調印後の方針が全く異なっていた。その上、慶喜の実父である斉昭に近い存在、つまり協力者であると見られていた岩瀬は、慶福を推す井伊にとって完全に邪魔者であり、敵であった。たとえ岩瀬が優秀な外交官であり、五カ国条約調印の立役者の1人であったとしても、である。
岩瀬は、安政の大獄において作事奉行へ左遷されてしまう。
無念の死
安政9年(1859)、岩瀬はさらに蟄居を命じられ、江戸向島で書画に専念する生活を送っていた。文久元年(1861)、ただ国の良き未来を考え、行動した幕臣きっての英才は、失意のうちに病死する。
あとがき
岩瀬の価値を理解し、彼が最も輝く場所で、その才能を生かすことのできる眼識ある上司がいたなら、もし岩瀬が幕末の動乱の中で生き延びていたら…。明治維新は、日本という国は、もっと違う進化を遂げていたかもしれない。
鎖国から一気に開国へ舵を切らなければならなかったあの時代、才知あふれる岩瀬たち幕臣が命を懸けて各国と渡り合ったおかげで、今の日本がある。少なくとも欧米の植民地になることはなかったのである。
今の国政を担う人間の中に、岩瀬のような人はいったいどれだけいるのだろうか。本当にいるのか?日本のこれからを憂い、どうすれば日本に住む人々を守れるのか、幸せになれるのか、そんなことを本気で考えている議員は必ずいるということを、私はただ願うばかりだ。
私たちに出来ることは、彼らの行動を監視し、投票行動で裁くしかない。
【主な参考文献】
・原田伊織『続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち』(講談社、2018 年)
・松岡英夫『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』(中央公論新社、1991年)
・大石学 監修『ビジュアル幕末1000人』(世界文化社、2009年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。
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2025年7月9日 JBpress ニコニコニュース「岩瀬忠震とはどんな人?開国を説き条約締結に奔走、安政の大獄で処罰された、知られざる偉人の生い立ちと功績
(町田 明広:歴史学者)
岩瀬忠震を取り上げる意義
岩瀬忠震(ただなり/1818~61)と言う名前をご存じであろうか。高校までの教科書には、ほぼ出てこない名前であり、初めて聞かれた読者もおられるのではないか。歴史を紐解くと、なぜ教科書に登場しないのか、そもそも、なぜ知られていないのかと、感じる人物に時々出会うが、その典型的な人物の1人が岩瀬忠震である。
岩瀬の一般的理解は、「江戸末期の幕臣。江戸の人。開国を説き、日米修好通商条約の締結に努力。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推したため、安政の大獄で処罰された」(デジタル大辞泉)となる。しかし、この程度では岩瀬の生涯を表したとは、とても言いがたい。
今回は7回にわたり、幕末の幕府外交を舵取りした岩瀬の生涯にスポットを当て、幕府の外国対応は砲艦外交に屈した、いわゆる「腰抜け外交」であったのか、その実相に迫りたい。
岩瀬に対する同時代の評価
後世の人間が人物を評価する場合、様々なバイアスがかかり、どうしても正当な評価を下したとは言いがたい。やはり、同時代人からどのような評価を得ていたのかを知ることが、正しくその人物を評価する指針になろう。岩瀬忠震についても、また然りである。
福地桜痴『幕末政治家』では、「識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備えたる人なり。当時、幕吏中にて初よりして毫も鎖国攘夷の臭気を帯びざりしは岩瀬一人にして、堀田閣老をして、其の所信を決断せしめたるも、岩瀬に外ならざりし」と記す。岩瀬は卓越した見識を持ち、才能が並外れた政治家の資質を持っていた。幕吏の中で、積極的開国論を唱えたのは岩瀬だけで、老中堀田正睦をその方向で決断させたのは岩瀬であるとする。
木村喜毅『幕府名士小伝』では、「天資明敏、才学超絶、書画文芸一として妙所にいたらざるはなし。嘉永七年、目付に任じ、深く阿部執政に信用せられ、海防外交の事をはじめ、凡そ当時の急務に鞅掌尽力せざるものなし。講武所、蕃書調所を府下に設け、海軍伝習所を長崎に開くが如き、皆この人の建議経劃するところなりといえり」と記す。
岩瀬は、生まれながらにして聡明で、しかも頭脳明晰であり、才覚と学識は群を抜いており、その上、筆も絵も文芸に至るまですべて極めていた。嘉永7年(1854)には目付に抜擢され、老中阿部正弘の下で安政の改革に従事し、講武所、蕃書調所を江戸に設け、海軍伝習所を長崎に開設するなど、岩瀬が建議して実際に計画をしたものばかりであると断言する。
その他に、栗本鋤雲、橋本左内、中根雪江らも岩瀬の政治家としての果断な決断力と実行力に脱帽していると述べており、一流の人物から超一流の評価を得ている事実は、見逃すことが出来ない。岩瀬忠震、恐るべしである。
岩瀬の生い立ち
文政元年(1818)11月21日、岩瀬忠震は幕臣設楽貞丈の3男として生まれた。通称は篤三郎または修理、蟾州(せんしゅう)または鴎所(おうしょ)と号し、伊賀守、肥後守に昇任した。母は林述斎(大学頭)の娘であり、伯父に鳥居耀蔵・林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。岩瀬は林家の血統を継いでおり、また、そうそうたる幕臣と血縁関係がある貴種に生まれている。このあたり、岩瀬の人生にプラスに作用したことは間違いない。
天保11年(1840)、岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継承した。天保14年(1843)、昌平坂学問所大試乙科に合格し、成績優秀の褒章を受けた。嘉永2年(1849)2月、岩瀬は西丸小姓番士(切米300俵)に登用された。この時、岩瀬は既に31歳であった。同年11月に徽典館(きてんかん)学頭(手当30人扶持)を拝命し、翌3年(1850)に甲府へ赴任した。
これは、官学出身者のエリートコースであり、岩瀬は1年後帰府し、徽典館学頭の功績で白銀15枚を拝領して、嘉永4年(1851)4月には昌平坂学問所の教授に就任した。太平の世の中であれば、岩瀬は学者として一生を終えたかも知れないが、時勢がそれを許さなかったのだ。
岩瀬の目付就任と安政の改革への参画
嘉永6年(1853)10月8日、岩瀬忠震は徒頭(二番組)を拝命した。そして、翌7年(1854、11月27日に安政に改元)1月22日、目付(政務全般の進行・調和、検分を図り、意見上申)・勝手掛・海防掛に、僅か3ヶ月で抜擢された。
これは、ペリー来航を踏まえた老中阿部正弘による安政の改革(人材登用)の一環であった。岩瀬登用後、阿部は安政元年(1854)以降、頻繁に岩瀬と1対1で対面し、その影響を多大に受け感化され、積極的開国論に舵を切ったのだ。
それでは、安政の改革における岩瀬の活躍を紐解きたい。品川台場の建設について、嘉永6年8月、江戸湾の防衛強化のため、幕府は韮山代官・江川英龍に台場砲台の造営を命令した。岩瀬は工事促進の監察や事務担当者として、建設工事に参加した。
大船建造の解禁による海防強化について、岩瀬は軍艦鳳凰丸・旭日丸の建造に参画した。安政元年9月19日、新造船に試乗し江戸内海諸藩の警備地を巡見した。岩瀬の積極的な海軍建設への思いが伝わってこよう。
また、ロシア艦ディアナ号の代船建造を戸田(沼津市)で実施させ、その際には造船技術を習得するため、幕臣・諸藩士を現地に派遣した。岩瀬の凄さは、現場で船大工たちに技術習得を命じ、代船建造を横目で見ながら、「君沢型」という国産船を建造させたことだ。この事実は、日本の近代造船の勃興、その先の海軍創設に直結したのだ。
岩瀬の安政の改革における更なる実績
軍制改革による国防力の向上について、安政元年7月24日、大目付井戸弘道・筒井政憲、勘定奉行松平近直・川路聖謨、目付鵜殿長鋭・一色直温とともに、岩瀬忠震は軍制改正掛を拝命した。そして、旗本や御家人に剣術・槍術・砲術などを講習させるため、武道場として講武所を設立した。
また、安政2年(1855)6月5日、筒井・川路・勘定奉行水野忠徳とともに、岩瀬は蕃書翻訳用掛を拝命した。そして、洋書・外交文書の翻訳をしたり、洋学教育・外交問題研究する機関、蕃書調所の設立を事務責任者として実現した。加えて、西洋式海軍訓練学校として、長崎海軍伝習所の設置にも尽力している。
このように、岩瀬は阿部老中の右腕として、安政の改革を事実上、切り盛りした。日本の開国の準備は、岩瀬によってなされたと言っても過言ではないのだ。
次回は、外交官としてデビューした岩瀬の活動と米国総領事ハリスの来日、岩瀬の積極的開国論に影響を与えたオランダ軍艦メヂユサ艦長のファビユスとの邂逅、岩瀬の対オランダ・ロシア外交の展開について、詳しく紐解いてみたい。
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