✨3)─3・F─昭和天皇とローマ教皇。戦後日本の保守が死んだ日。昭和天皇の極秘終戦工作。~No.12  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
2025-01-09
💖目次)─8─近代天皇A級戦犯靖国神社による人類史的人道貢献。皇室外交。~No.1 * 
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2017-09-28
✨21)─1─昭和天皇は、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして開発中止を厳命した唯一の国家元首。~No.89No.90No.92・ @ ⑰ 
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2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161
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 皇室の宮中祭祀の原型は、数万年前の縄文時代のムラでおこなわれていた自然崇拝と祖先崇拝の祭祀であり、 琉球民族の祭祀とアイヌ民族の祭祀にも通じる所がある。
 天皇を神の子孫とする天孫降臨神話=天皇神話は、2世紀後半(弥生時代末期)に起きた弥生の大乱の中から群雄割拠による殺し合いを鎮めて日本列島に平和と安定の為に生まれた。その意味、弥生の大乱はヤマト王権ヤマト大王の日本統一で終焉した。
 それは、日本的ムラ理論による。
 日本民族は、縄文人の子孫として琉球民族アイヌ民族とは兄弟民族である。
 古い民族は琉球民族であり、次に古いのはアイヌ民族であり、日本民族である大和民族は最も新しい民族である。
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 2023年1月2日 PRESIDENT Online「「世界でたった1人のエンペラーだから」ではない…天皇陛下が世界中から尊敬される3つの理由
1979年までいた、もう1人の知られざる「皇帝」
 八幡 和郎
 歴史家、評論家
 天皇陛下は世界からどのようにみられているのか。評論家の八幡和郎さんは「外交の世界では国家元首は平等で、肩書きによる扱いの違いはないが、特別な存在として認識されているのは事実だ」という――。
 上皇さまの89歳の誕生日を祝うため、仙洞御所に入られる天皇、皇后両陛下=2022年12月23日、東京都港区写真=時事通信フォト
 日本の天皇は英国王より格上なのか
 「天皇陛下はエンペラーだから英国国王より格上だ」、「米国大統領も日本の天皇エリザベス女王は別格の扱いをしていた」「天皇万世一系で世界一古い君主の家系だ」といった認識が保守派の人たちから発信されることが多い。
 しかし、戦後史観の歴史家や左翼・リベラル派の人たちは「天皇国家元首でない」、「万世一系など嘘で王朝交代があった」、「東洋には中国の皇帝を頂点とする冊封体制という外交秩序があった」などと主張しているし、エリザベス女王の葬儀では、天皇陛下はほかの外国君主に比べて特別扱いはなく、座席もヨルダンやマレーシアの国王より下座だった。
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 昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。
 超エリートである超難関校出の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリ達は黙認し、全ての政党は批判しなかった。
 日頃、保守を自称していた政治家の化けの皮がはがれた瞬間であり、うそ偽りであった事を白日の下に晒した瞬間であった。
 つまり、日本には保守など存在しない事が分かった瞬間でもあった。
 メディア業界や教育界は、天皇否定の現代アートを全面支持し、日本の右傾化、民族主義天皇主義・軍国主義復活の兆しとして国際世論告発した。
 彼らこそが、エセ保守とリベラル左派、過激派である。
 国際世論は、「芸術における表現の自由」を守るとして昭和天皇抹殺表現を支持した。
 それは、フランスの政教分離の原則に従ってイスラム預言者ムハンマドの風刺画を表現の自由として賛同した事に似ている。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人はおろか外国人からも嫌われている天皇である。
2020-02-18
🦲4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19  
2020-11-07
🦲4〕─21─あいちトリエンナーレ2019。愛知県知事リコール運動敗北。〜No.22 
2021-10-14
🦲4〕─24─昭和天皇肖像燃やす動画と「表現の不自由展かんさい2021」。〜No.25 
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 韓国・北朝鮮中国共産党アメリカ、ロシア、その他、多くの国々は昭和天皇ヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪と認めている。
 アメリカの一部では、昭和天皇が住んでいる東京・皇居の上に原爆を投下して焼き殺す事を望んでいた。
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 メディア業界や教育界に、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人活動家が存在している。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産主義教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 既に日本は中国共産党の軍門に降って降伏している、その証拠が平成4(1992)年10月にエセ保守が強行した天皇皇后両陛下による中国訪問であった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 昭和天皇は、神話物語によって認められた血統・血筋の世襲制正統性男系父系天皇であった。
 エセ保守とリベラル左派、マルクス主義過激派は、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人として、神の裔で祭祀王である昭和天皇を認めないどころか人間・人格さえも否定している。 
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 戦前の日本は、被害者であって加害者ではない。
 昭和天皇や近代天皇には、道義的戦争責任はあるが法律的戦争犯罪はない。
 昭和天皇には、人道貢献と平和貢献がある。
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 日本の歴史上、昭和天皇は国内外の敵から最も命を狙われた天皇である。
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
 中国共産党は、日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
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 日本人の共産主義者無政府主義者キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 2024年4月 共同通信世論調査 (賛成、どちらかというと賛成の合計)
 「女性天皇賛成」90%。「女系天皇賛成」84%。
 政府案「旧宮家の男系男子」「皇族復帰」による男系男子継承に反対 74%
 共同通信は、中立公正の報道機関ではなく反天皇反日色が強い偏向した報道機関である。
 正当女系母系論者は、数千年来の血統の直系皇位継承を廃絶しようとしている。
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2024-09-01
🕍18:─1─9割弱の日本人青少年が日本の未来に底知れぬ絶望感を抱いている。~No.36No.37No.38 
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 2025年5月17日 YAHOO!JAPANニュース 日テレNEWS NNN「天皇陛下ローマ教皇…3代の天皇 100年を超す交流の秘話 【皇室 a Moment】
 新しいローマ教皇が5月8日に決まりました。バチカンと日本は、昭和、平成、令和と3代の天皇が交流を重ね、日本の公使派遣には“秘話”もありました。「広島」「長崎」「平和」のワードで結びつく関係を、日本テレビ客員解説員の井上茂男さんが紐解きます。
■追悼ミサ 「名代」の派遣に表れる敬意と関係
 2019(令和元)年11月 皇居・宮殿
――天皇陛下と、4月に亡くなったローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇ですね。
 5月8日に新しい教皇レオ14世が選出されましたが、前のフランシスコ教皇は2019年に来日し、天皇陛下と皇居で懇談しました。その時の1シーンです。
 フランシスコ教皇は4月21日に88歳で亡くなり、天皇陛下は先例にならって、東京のローマ教皇庁大使館に弔問のため侍従長を派遣されました。
 そして、27日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた「追悼ミサ」に、皇嗣秋篠宮さまを遣わされました。秋篠宮さまは、天皇陛下に代わる「名代」という重い立場でした。
 2005(平成17)年4月 教皇ヨハネ・パウロ2世追悼ミサ
 追悼ミサの「名代」で思い起こすのは、2005(平成17)年4月、教皇ヨハネ・パウロ2世が死去した時、皇太子時代の天皇陛下天皇だった上皇さまの「名代」として参列された例です。
 1958(昭和33)年10月 教皇ピオ12世追悼ミサ
 また、1958(昭和33)年10月には、ピオ12世が死去した際に、皇太子時代の上皇さまが昭和天皇の「名代」として参列されています。「名代」という立場に、皇室のバチカンへの敬意や関係の深さが表れていると思います。
――格別な心遣いなんですね。
 振り返ると、皇室とバチカンは、昭和、平成、令和と3代の天皇が、100年を超す交流を重ね、そこに“秘話”もあります。
■長崎と広島の訪問、被災者への励ましに謝意を伝えた天皇陛下
 2019(令和元)年11月23日 羽田空港
――フランシスコ前教皇の来日は、「令和」に入ってからなのですね。
 令和元年11月23日、82歳のフランシスコ前教皇は、嵐の中で羽田空港に到着しました。今の天皇陛下が即位し、祝賀パレードに臨まれた半月後です。
 2019(令和元)年11月24日 長崎・爆心地公園 ©CBCJ
 翌24日は、長崎の爆心地公園の集いに参加し、「核兵器に関するメッセージ」として「長崎」のことを、「人類と環境にどれほど破滅的な結果をもたらすかを示す証人だ」と述べました。
 夜には、広島の平和記念公園で「戦争のために原子力を使用することは犯罪以外の何物でもない」と訴えました。
 2019(令和元)年11月25日 都内
 3日目は、東京で東日本大震災の被災者の集いに参加し、犠牲者に祈りをささげ、被災者を励ましました。
 2019(令和元)年11月25日 皇居・宮殿
 その後、天皇陛下との会見に臨みました。陛下は「長崎、広島をご訪問いただき、また東日本大震災の被災者と会われたことに感謝します」と伝え、教皇は「私が9歳の時、両親が広島、長崎の原爆のニュースを聞き、涙を流していたことが心に強く刻まれています」と応じました。
 また、陛下は「教皇が人々の幸福と世界平和のために精力的に活動されていることに、深い敬意を表します」と話されました。
――長崎、広島、東日本大震災教皇は祈りをささげるためにいらしたんですね。
■昭和、平成、令和―3代の天皇が若き日に訪ねたバチカン
 5月8日(現地時間)第267代教皇「レオ14世」となったプレボスト枢機卿
――そして5月8日、教皇選挙「コンクラーベ」で新しいローマ教皇が決まりました。
 アメリカ出身のロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が、第267代の教皇に選ばれ、「レオ14世」を名乗りました。前教皇は88歳、新教皇は69歳ですから、教皇も“戦後世代”に移りました。
 バチカンは、カトリック教会の主導者である「教皇」と、政府に当たる「ローマ教皇庁」からなる世界最小の主権国家です。その面積は皇居の4割ほど、国籍を持つ人は600人程度です。しかし、信者は世界14億人とも言われ、184の国や地域と外交関係を結んでいます。
■ザビエルが鹿児島に来て始まった関係
 バチカンと日本との関わり
 日本とバチカンとの関係は、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきたことに始まり、日本から「天正遣欧使節」や「慶長遣欧使節」が派遣されて教皇に謁見しています。外交関係が結ばれたのは1942(昭和17)年です。2022年に外交関係80周年を迎えました。
 昭和、平成、令和の3代の天皇は、天皇としてそれぞれ時のローマ教皇と面会しています。注目したいのは、3代の天皇が、いずれも若い時にバチカンローマ教皇に会われていることです。
 昭和天皇は1921(大正10)年、見聞を広めるための旅でイギリスやフランスなどを回り、20歳の時にバチカンベネディクト15世に会いました。この時、教皇は「カトリック教会は世界の平和維持・秩序維持のために奮闘しています。将来、日本と提携して進むこともたびたびあるでしょう」と述べています。
 上皇さまは、1953(昭和28)年、19歳の時、イギリスのエリザベス女王戴冠式参列の旅の途中にバチカンを訪問されました。ピオ12世は、昭和天皇上皇さま、随員のために祝福しました。
 1981(昭和56)年2月 皇居・宮殿
 今の天皇陛下(当時、浩宮さま)は、イギリス留学中の24歳の夏休みにイタリアを旅行し、バチカンヨハネ・パウロ2世とおよそ30分間会われました。ヨハネ・パウロ2世が1981(昭和56)年2月にローマ教皇として初めて来日し、昭和天皇と面会した3年後のことでした。
 1993(平成5)年9月 ローマ近郊
 その初来日の際、昭和天皇は会見で「終戦後に日本が困った時、教会の慈善事業で助けていただいたことに感謝します」と述べ、教皇は「当たり前です。苦しんでいる人を助けるのは教会の使命です」と応じました。この時、昭和天皇は皇太子時代のバチカン訪問について「大変いい思い出です」とも述べています。
 天皇として、教皇を現地に初めて訪ねて会われたのは上皇さまです。1993(平成5)年9月のことでした。上皇ご夫妻はローマ近郊にあるローマ教皇の夏の離宮を訪ね、ヨハネ・パウロ2世に会われました。
 上皇さまは「広島と長崎に行っていただいてありがたいことでした。日本は平和国家として歩んでいますが、広島と長崎で法皇が述べられた平和を希求する言葉に感銘を受けました」と述べられました。
 そのヨハネ・パウロ2世は2005年に亡くなり、追悼ミサに皇太子時代の天皇陛下が「名代」として参列された背景にはこうした交流がありました。
――とてもゆかりのある方だったのですね。
 ヨハネ・パウロ2世は、天皇家の親・子・孫の3代で交流した人だったんです。そして、フランシスコ前教皇についても、2016(平成28)年、秋篠宮ご夫妻がイタリアを訪問した際、バチカンに立ち寄って教皇に会われています。
昭和天皇が要望したバチカンへの公使派遣
 天皇3代との交流があるバチカンですが、1942(昭和17)年の外交関係樹立された陰に“秘話”があります。
 バチカンは1919(大正8)年に外交使節を日本に派遣しましたが、日本からの使節派遣は仏教界などの反対もあって予算が通らず、派遣しませんでした。日本が公使を送ったのは23年後、1942(昭和17)年5月、先の大戦が始まった5か月後でした。その派遣を求めたのは昭和天皇本人でした。
 寺崎英成という御用掛の『昭和天皇独白録』には、「昭和天皇は、法王庁ローマ教皇庁)との連絡は戦争の終結時期に好都合で、世界の情報収集の上でも役立ち、世界に及ぼす精神的支配力の大きさを考えて、公使派遣を東条首相に要望した」と書かれています。この記述は『昭和天皇実録』や側近の日記とも符合します。
 昭和天皇は皇太子時代の訪問で、バチカンの力や重要性に気付き、戦争終結の手立てとして公使派遣を助言したのだと思います。昭和天皇が開戦間もなくから終戦を考えていたことは注目です。
――若い時にバチカンローマ教皇と会った経験からなんでしょうね。
バチカンの神父からもたらされたアメリカの“和平案”
 昭和天皇玉音放送による終戦は1945(昭和20)年8月15日ですが、この終戦に向けてもバチカンが大きく関わる可能性がありました。
 終戦2か月前の6月、アメリカの“和平案”が、バチカンのある神父から日本側にもたらされていました。
 それが、写真の右側にいるバニヨッツィ神父です。左側は、戦後のアメリカ大統領、アイゼンハワーです。アメリカ駐在経験があり、後に枢機卿となる神父は、アメリカの"和平案"を、日本人の神父を通じてバチカンの日本公使館に届けました。
 この"和平案"は、当時の金山政英・参事官の回想録などによると、「天皇制は護持」「千島、樺太、朝鮮は放棄」などを条件とし、日本が頼ろうとしていたソビエト連邦は和平の斡旋はしないだろうからアメリカと直接交渉を―というメッセージでした。ただ、本国に極秘電報で伝えられましたが、日本が反応することはありませんでした。
――「幻の和平案」といいますか、そんな秘話があったのですね。
■フィリピンの日本人戦犯釈放にもバチカンの支援が
 フィリピン・モンテンルパ刑務所
 この“秘話”には続きがあります。バニヨッツィ神父は、戦後、フィリピンに「教皇大使」として赴任します。
 1953(昭和28)年 釈放され帰国した人々
 戦後、日本が直面した重要課題の一つが、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本人戦犯137人の釈放でした。
 フィリピン・キリノ大統領(当時)
 こちらは終戦の8年後、釈放された人たちが横浜港に着いた時の様子ですが、交渉に当たった一人がバチカンにいた金山参事官で、参事官はマニラで再会したバニヨッツィ神父に助けられます。
 当時のフィリピンのキリノ大統領は、日本軍に妻と子供3人を殺された人でしたが、敬虔なカトリック教徒であったことから、「日本人に対する憎悪の念を残さないために」と、戦犯全員の恩赦を決断します。金山参事官の回想録には「バニヨッツィ大使が法皇の名において、キリノ大統領を説得してくれていた」とあり、恩赦の陰にバチカンの支援があったことを書き残しています。
――バチカンを通じた和平案が実現したら、もっと戦争が早く終結したかもしれなかったのですね。
 金山参事官の回想録には、バニヨッツィ神父のこんな言葉が書かれています。
 『あのとき、日本政府がアメリカの和平案に反応を示していたら、広島と長崎に原爆が投下されるという悲惨な事態は避けることが出来たのではないでしょうか?』(「誰も書かなかったバチカンカトリック外交官の回想」 金山政英/サンケイ出版 より)
――「もしも」の話ですが、とても重い言葉ですね。
 枢機卿は、自分が仲介した“和平案”に期待を寄せていたことがうかがえます。バチカンは中立ですから、“和平案”はバニヨッツィ神父の個人的なチャンネルで伝えられたようですが、金山参事官は、当時の教皇が日本の破局に心を痛め、了承、あるいは黙認の上に、仲介がなされたのではないかとも推測しています。
 教皇ヨハネ・パウロ2世、フランシスコ教皇、そして昭和、平成、令和の天皇陛下には、「広島」「長崎」「平和」というワードが共通し、慰霊や祈りの底流で深く結びついているように思われます。
 終戦の2か月前にバチカンを舞台とした和平工作があったこと、そしてフィリピンの戦犯釈放にバチカンが手を差し伸べていたことを、戦後80年の今、そして新しい教皇が誕生した機会に、改めて噛みしめたいと思います。
――100年以上前から続くバチカンと皇室の歴史。知らないことばかりでした。こうした歴史を継承して、今の世代で考える必要性を感じました。
 【井上茂男(いのうえ・しげお)】
 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
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 2019年10月13日 東洋経済ONLINE「「神を祀る存在」天皇ローマ教皇の決定的違い
 長い歴史の中で確立された天皇の歴史
 宇山 卓栄 : 著作家
 『古事記』や『日本書紀』といった最古の歴史書から、天皇のルーツをひもときます(写真:うぞいけ/PIXTA
 新天皇陛下が即位され、令和の時代が幕を開けて、あっという間に5カ月が過ぎました。
 初代の神武天皇から数えて、第126代天皇となります。天皇家の始祖は天照大神アマテラスオオミカミ)とされます。天皇は神ではありませんが、「神の子孫」という神話を包摂する存在です。神話を信じるかどうかは信仰の問題ですが、神話のストーリーが天皇家発祥に結び付けられていること自体は事実です。
 天皇と日本神話
 『古事記』によると、天照大神は数多くの自然神の中での最高神である太陽神です。天照大神の孫のニニギノミコトは大神に、地上を統治するように命令されて、降り立ちます。これを「天孫降臨」といいます。
 そして、ニニギノミコトの曾孫が神武天皇です。神武天皇は紀元前660年に即位したとされますが、『古事記』や『日本書紀』を典拠とする、この時代の十数代の初期天皇は、実在が疑われています。天皇として実在したのは、紀元前97年に即位した第10代崇神天皇から、または、270年に即位した第15代応神天皇から、それよりももっと後の時代とする説があります。
 初期天皇の実在・非実在を証明することは困難ですが、先祖が神様であるという文脈を天皇家が背負っていることは事実であり、その文脈(本当かどうかは別として)とともに、血統を守り、126代もの天皇を脈々と受け継いできました。天皇は人として生まれながら、神に最も近い存在と歴史上、見なされてきました。
 天皇は神に国家の繁栄と国民の幸福を祈る最高祭祀者で、神と人間との接点に成りうる存在として信仰され、継承することが最重要課題とされます。
 天皇即位後、はじめて行われる新嘗祭(にいなめさい)、継承の儀式が大嘗祭(だいじょうさい)です。11月14日の夜から明け方に執り行われる予定です。
 灯明に照らされた神座のある内営に天皇だけが入り、皇祖の天照大神をはじめ神々に祈りを捧げます。その年に収穫された新穀を神々に供え、天皇自らも食べ、五穀豊穣と国家国民の安寧を祈ります。
 このように、天照大神の霊統を継ぐと信仰される天皇は人間世界を代表して、神を祀る存在、つまり最高祭祀者、あるいは祭祀王と見なされます。
 天皇は本当に教皇に近い存在なのか?
 最高祭祀者といえば、世界的に有名なのはローマ教皇天皇はその立ち位置に近いとされることがあります。
 ローマ教皇カトリック教会の最高祭祀者である点で、確かに天皇と共通点があります。しかし、根本的に両者はその内実において、異なる存在です。
 まず、教皇位の継承は天皇と違い、世襲ではありません。各地のカトリック教会を代表する枢機卿(カーディナル)たちが「コンクラーベ」(ラテン語の「鍵がかけられた」の意)という選出会に集まり、外部と隔離された状態で、教皇を選挙します。
 天皇は神の子孫とされ、世襲です(繰り返しますが、本当に神どうかは別として)。教皇は神の子孫でもなく、神の子なるイエス・キリストの子孫でもありません。教皇はローマ・カトリック教会の主座であり、キリストの12使徒の1人ペトロの後継者です。
 キリストの死後、ペトロがローマにやってきて、この地に教会を開きました。当初、ローマ帝国の迫害を受けながらも、ローマ教会は信徒により守られ、発展していきます。ローマ帝国が4世紀にキリスト教を公認して以降、ローマ教会の地位が確立し、その主座である教皇の地位も認知されました。教皇使徒ペトロに由来する特別な起源を持つことから、キリスト教世界の指導者となります。
 5世紀半ばの教皇レオ1世は「自分の声はペトロの声である」と述べ、使徒代理人ラテン語:Vicariusウィカリウス)を自認します。さらに、同世紀末には、キリストの代理人を自称するようにもなります。こうして、教皇の位は歴代引き継がれ、今日まで続きます。
 神の子孫とされる天皇位が世襲によって引き継がれるべきものであるのに対して、イエス使徒代理人とされる教皇世襲によって引き継ぐべき神性を持ちません。代理人代理人でしかなく、有徳者でありさえすれば、赤の他人でもよいということです。祭祀王=プリーストキングという言葉のイメージから、天皇教皇に例えられることが多いのですが、「神の子孫」と「代理人」は自ずと異なる存在です。
 では、イスラムの最高権威者であったカリフはどうでしょうか。カリフもまた代理人です。カリフはアラビア語の「ハリーファ」の英語読みで、「代理人」や「後継者」の意味があります。預言者ムハンマド(英語名:マホメット)の代理人であるカリフはあくまで代理人にすぎないため、必ずしもムハンマドの血統を必要としませんでした。
 神道天皇
 神の子孫とされる天皇教皇やカリフなどの代理人とは異なり、血統の原理によって終始、貫かれる存在です。歴史上、世俗の有力者が教皇やカリフの権威に挑み、これを排斥したり、簒奪(さんだつ)したりしました。日本では、源平の武人政権から徳川の江戸幕府に至るまで、いかなる世俗政権もその地位を侵すことはありませんでした。それは天皇の持つ神性の血統が尊重されたからです。中国の皇帝が強大だとしても所詮、俗人(俗権)にすぎず、その地位は簡単に簒奪されました。
 歴史上、天皇家が神話というストーリーを駆使して、自らの地位の神性や意義、正統性を周知徹底させて、定着させた戦略は極めて効果的であったと言えます。
 天皇家の祖神である太陽神・天照大神をはじめとする自然神を、日本人は民間信仰として広く受け入れ、神々を祭るために神社を各地に建立しました。これが神道です。
 日本人は農耕民族であるため、自然によって生かされているという意識を強く持ち、自然を神として畏敬し、崇めました。そして、これらの自然神を祭る存在が天皇であり、天皇を中核として神道による自然信仰が普及しました。
 キリスト教イスラム教などの万物の創造主たる絶対神を崇拝する一神教と異なり、神道はさまざまな自然の神を崇拝する多神教です。緩やかにつながる神々と人間との間の仲介者として天皇が存在するのです。
 明治時代に、新政府が天皇を中心とする新国家体制を整備するため、神道を国家権力の保護の下に置き、事実上の国教としました。こうした中で、天皇を現人神(あらひとがみ)と捉え、一部の狂信的な国家主義者が天皇を過剰に神格化しました。
 第2次大戦後、GHQ連合国軍総司令部)が、天皇を神とすることは許さないとして、天皇に通称「人間宣言」と呼ばれる詔書を発布するように主導しました。どれだけの人が天皇を神と思っていたかは疑問の残るところでもあり、また、昭和天皇自身も自らを神だと言ったことはありませんが、GHQが「天皇が神であることが元凶」と判断し、それを否定するように昭和天皇に要望し、昭和天皇はそんなことを主張したこともないとして受け入れました(なお「人間宣言」という通称は報道側が命名したものにすぎません)。
 この詔書で、天皇は自らが神話の神の子孫であることを否定したわけではありません。儀式や祭事を行う神道も否定したわけでもありません。つまり、古来、天皇と日本人が形成してきた穏やかな縁絆は何ひとつ変わることはありませんでした。
 天皇神道の存在は誰かがそれを教条主義的に強制したものではなく、日本の豊かな自然の中で、長い年月をかけて人々の心や社会に浸潤してきました。この包容力のある大らかで力強い伝統と慣習の累積の延長上に、令和という日本の現在があります。
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 宇山 卓栄 著作家
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 2019年11月26日 報道ステーション昭和天皇バチカン…幻の終戦工作
 38年ぶりに来日したローマ・カトリック教会、フランシスコ教皇(82)は、被爆地の長崎、広島を訪れ、核兵器廃絶を訴えた。実は、74年前、そのバチカンを舞台にした終戦工作があった。1921年、昭和天皇の初めての外国訪問はヨーロッパで、その際、バチカンにも立ち寄り教皇ベネディクト15世と会見していた。この時の経験が、20年後に生きてくる。1941年、真珠湾攻撃の2カ月前、昭和天皇は側近に「戦争終結の場合の手段を、初めより充分考究し、ローマ法皇庁(バチカン)との親善関係につき、方策を樹つるの要あるべし」と指示していた。昭和天皇は、開戦前に、戦争を終わらせる道筋を考えていたのだ。フランシスコ教皇の側近で、昭和天皇バチカンの関係を知る元上智大学副学長・オロリッシュ枢機卿は「戦争を始める時には“戦争の出口”も作らなければならない。昭和天皇も“戦争の出口”を作りたかったのではないか」と話す。ではなぜ、“戦争の出口”の舞台がバチカンだったのか。
 全世界に13億人の信者を抱えるカトリック教会の総本山がバチカン昭和天皇独白録によると「昭和天皇はローマ法皇庁(バチカン)の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なることなどを考えて(公使派遣を)要望した」という。この昭和天皇の意向を受け、1942年4月に初めてバチカン日本大使館が置かれた。しかし、公使として着任したのはフランスの日本大使館にいた原田健参事官だった。就任した原田公使は“終戦工作のため”という昭和天皇の考えを聞かされていなかった。
 バチカンを舞台に事態が動いたのは、日本の敗戦が濃厚となった1945年の初夏。アメリカの諜報部員、マーティン・キグリーが動き出した。キグリーの特別任務は、日本の降伏を実現する対話の道が開けないか、時期をみて探るというものだった。キグリーは、バチカンの外交官・ヴァニヨッツイ司教に「戦争を早期に終結できれば、どれほどためになるかをお考え下さい」と、日本への仲介を頼んだ。平和を希求するバチカンの外交官としてヴァニヨッツイ司教は、すぐさまアメリカ側の提案を日本側に伝えたが、原田公使は半信半疑だった。数日迷った末、1945年6月3日付で電報を打ち、終戦に向けた交渉を行いたいというアメリカ側の意向を東京に伝えた。しかし、東京から返事はなかった。
原田公使は、キグリーからの2回目のメッセージを、再びバチカンの外交官を介して受け取った。原田公使は6月12日付で『米側の公の地位に在る者と日本とを非公式且つ極秘裡に会談せしめ、両者の接近を図らんとしたるものなり』というキグリーの言葉を東京に送った。しかし、これにも反応はなかった。名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は「当時、日ソ中立条約が締結されていたので、アメリカとの交渉の仲介というのはソビエトにしてもらうということに決まっていた。決まっていたからこそ反応しなかったと思う。その(原田公使の)電報自体も昭和天皇にあげなかったと考えられる」と指摘する。
 原田公使が電報を送った2カ月後、広島と長崎に原爆が投下され、悲惨な戦争が終わった。戦後、キグリーは著書に「これが成功していれば、戦争の終結を6週間早め、原爆の使用を回避できたかもしれない」と書き残している。敗戦の翌年、昭和天皇は側近に「開戦後、法皇庁(バチカン)に使節を派遣した。之は私の発意である。充分なる活動の出来なかった事は残念な事であった」と漏らしている。原田公使が昭和天皇の考えを知ったのは帰国した後だった。その後、どういうめぐり合わせか、宮内庁式部官長として昭和天皇に仕えることになった。原田式部官長は「戦後、木戸(幸一)日記で初めて知った。陛下(昭和天皇)が和平の準備のために必要だと強く主張されて、バチカンに大使館が置かれたということを。私は何のお役にも立てなかった」と語っている。オロリッシュ枢機卿は「昭和天皇はローマ法皇庁(バチカン)が中立であることをよくご存じだった。“戦争の出口”を作りたい場合は、中立の政府を通すことしかできない。でも、できなかったということは、とても残念。できなかったということは、広島、長崎が大変なこととなった」と語る。
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 2022年12月27日 朝日新聞「江戸時代の奉答書、昭和天皇の親書…バチカンと日本、450年の交流
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 西田健
 東北のキリシタンから教皇に送られた奉答書。イタリアのフィレンツェで新たに発見された=川村信三・上智大教授提供
 「バチカンと日本 100年プロジェクト」シンポジウム
 バチカンにある日本関連の歴史資料を研究する「バチカンと日本 100年プロジェクト」(主催・角川文化振興財団、共催・朝日新聞社)が2022年11月、3年にわたる活動を取りまとめたシンポジウムを上智大学(東京都千代田区)で開いた。19年秋のローマ教皇来日を契機に企画され、新型コロナの広がりで思うように現地調査ができない時期が続いたが、制約の中でも新たな発見があった。シンポジウムでは450年を超えるバチカンと日本の交流の歴史をひもといた。
 バチカンと日本 100年プロジェクト 
 このプロジェクトは、宣教師が送った文章や近代の外交関係資料など、バチカンが所蔵する日本関係文書に光を当てて、両国の交流史を調査研究するもの。今後100年のさらなる友好に向け、バチカンの協力を得て、日本の研究者が中心になって調査している。成果を発表する公開シンポジウムをこれまで3回実施してきた。
 東北のキリシタンからの奉答書は3通あった
 研究代表を務める川村信三・上智大学教授は22年9月、イタリア・フィレンツェで、江戸時代初期に東北のキリシタンローマ教皇に送った「奉答書」を新たに見つけた。シンポジウムでは「日本信徒の教皇パウロ5世宛『奉答書』 新発見史料を読み解く」と題して、同じ内容のものが3通あることが分かった東北の奉答書について、発見の経緯と、その詳細を報告した。
 奉答書は、教皇パウロ5世(在位1605~21年)が日本の信徒を励ますために送った書簡に対して、日本から感謝を伝える返信。1620~21年に近畿、長崎、東北など全国5地区から送られた。バチカン図書館は東北のものだけ2通、あとは1通ずつ所蔵している。
 川村教授は「なぜ東北の奉答書だけが2通あるのか深く考えたことがなかった。だが、今春、フィレンツェで3通目が見つかったという情報が寄せられたため、現地に行ってこれら3通を比較した」と話した。
 3通目はフィレンツェのサン…
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 日本とバチカンの関係(にほんとバチカンのかんけい、ラテン語: Sancta Sedes et Iaponia necessitudo, イタリア語: Il rapporto tra la Santa Sede e il Giappone, 英語: relations between the Holy See and Japan)では日本と聖座を含むバチカン[注釈 1]の関係をのべる。
 カトリック教会の指導者である教皇ローマ教皇庁の総称である聖座と日本の関係は1549年に宣教師のフランシスコ・ザビエル薩摩半島の坊津に上陸したことに始まる。その後、数十年はカトリックが日本に布教される。1584年には天正遣欧少年使節がローマに派遣され、教皇グレゴリウス13世に謁見した。しかし、17世紀初頭に江戸幕府によりキリスト教が禁止され、1873年明治天皇キリスト教を解禁するまで禁圧された。
 公式な関係は1919年より教皇使節が常駐することになったことから始まる。1942年にアジアの国家としては初めて日本とバチカンは正式に国交を開いた。その後1958年に日本は公使を大使に昇格し、1966年にはバチカン側が教皇公使を教皇大使に格上げした。在バチカン日本国大使館はイタリアのローマに所在する。駐日本国ローマ法王庁大使館は東京都千代田区に所在する。
 歴史
 明治維新以前( - 1868年)
 1549年8月に薩摩半島の坊津にフランシスコ・ザビエルカトリックの布教を目的として来航し、700人ほどの日本人をカトリックに改宗した。その中には、日本人として初めてヨーロッパを訪れた鹿児島のベルナルドも含まれていた。1580年には大名の大友宗麟有馬晴信をはじめとして日本に約10万人のキリスト教徒がいた。1579年から1582年の間に日本を訪れていたイエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより発案された天正遣欧少年使節団が1582年に送られ、スペイン国王のフェリペ2世の歓待や教皇グレゴリウス13世の謁見を受け、グレゴリウス13世の次の教皇のシクストゥス5世の戴冠式に出席した。これは日本からヨーロッパに送られた最初の使節であった。
 しかし豊臣政権と江戸幕府においてはキリスト教が禁圧され、禁止政策はおよそ2世紀半もの間続けられた。この間に多くのキリスト教徒が日本で処刑された。
 明治時代
 1873年明治維新の一環としてキリスト教の禁止が撤廃されると宣教師が日本に自由に出入りできるようになった 。聖座は隠れキリシタンによる禁教下での布教活動を認識しており、処刑されたカトリック信者らを殉教者として列聖した。1885年(明治18年)、教皇レオ13世は、明治天皇に対して日本の発展を祝すとともに、信徒の保護と自由を求める親書を送った。これ以降、慶弔の際には電報を取り交わすことが慣例となった[3]。キリスト教解禁後に日本で宣教活動を行ったのは主にプロテスタントであり、1907年の日本のキリスト教徒14万人に対し、カトリック信者は6万人にとどまっていた[4]。1905年(明治38年)には教皇特使ウィリアム・ヘンリー・オコンネルボストン大司教明治天皇に謁見し、ピウス10世による親書を手渡した[5][3]。ピウス10世は日露戦争の平和回復への希望、満洲におけるキリスト教徒保護への感謝、日本における信徒への保護を伝えている。これに対して駐オーストリア=ハンガリー帝国大使内田康哉が答礼の特使として送られ、明治天皇の親書が手渡されている。
 1906年明治39年)にピウス10世はイエズス会に対し、日本へ宣教師を派遣して高等教育機関を設置することを要請し、これを受けて3人のイエズス会員が派遣され、彼らにより1913年(大正2年)には上智大学が開校された。
 正式な国交の樹立
 1919年(大正8年)、教皇庁は日本への使節派遣を要望し、10月14日に日本政府と合意が交わされた。11月26日、教皇使節にピエトロ・フマゾーニ・ビオンディが任命され、12月16日に東京大司教旧邸が教皇使節館となった[3]。ビオンディ1920年大正9年)3月11日に来日し、日本各地を訪問した後に1921年(大正10年)3月26日に帰国した。ビオンディの来日は日本の官民からは様々な憶測を持って迎えられたが、やがてその任務が信仰上のものであると理解されるようになった。この時に駐イタリア臨時大使諸井六郎は聖座との外交関係を樹立することを建言している。一方、仏教界や新宗教の一部には聖座との外交関係成立に反対する声もあった。1921年大正11年)7月15日にはイタリアを訪れた皇太子裕仁親王昭和天皇)が教皇ベネディクトゥス15世に謁見している(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。
 1941年(昭和16年)頃から日本においては情報収集の面などから、バチカンに常設の外交部を置くことが検討され始めた。1942年(昭和17年)にアジアの国家としては初めて日本とバチカンは正式に国交を開いた。この時、バチカン側はフランス臨時代理大使を務めた原田健を駐在公使として受け入れたが、駐日代表は「教皇使節」のまま名義を変更しないという希望を伝えた。また在バチカンの日本公館は「使節館」の名称が用いられている。この国交正常化には第二次世界大戦においてバチカンを日本と連合国の調停者にしようとする日本側の意図があり、昭和天皇も元駐イタリア大使で宮内省御用掛の松田道一からの御進講でバチカンの役割について度々言及していた。この時、130万人のカトリック信者をもつフィリピンをはじめ、日本の占領地には200万人ものカトリック信者がいた。このため、バチカンの対日政策が日本の行動を容認するものとみなしたアメリカやイギリスは非難している。
 一方でバチカンは蔣介石の中華民国重慶政府)とも国交を樹立する動きを見せていた。日本側はこれを阻止しようと活動していたが、1942年(昭和17年)にバチカン側は重慶政府の使節を承認した。またバチカンは日本の傀儡政権である汪兆銘政権(南京政府)や満洲国を承認しなかった。これは北京の教皇使節汪兆銘政権の及ぶ領域内でも活動するという合意によるものであった[14]。また、満洲国にも教皇使節が派遣されている。1944年(昭和19年)に原田は教皇ピウス12世へ日本が停戦を望んでいることを伝えたが、日本政府はこれを否認している。また当時日本が占領していたフィリピン(日本占領時期のフィリピン)において、日本陸軍は現地民の歓心を得るためにフィリピン人をマニラ大司教に任じるようバチカン側に要請しているが、バチカン側はこれを否認している。
 しかし、1945年(昭和20年)になると原田公使はバチカン国務省の仲介でOSSの諜報員マーティン・キグリーと接触して終戦条件を提示され、東京の本省に報告している。
 第二次大戦終結後(1945年 - )
 1952年(昭和27年)1月22日、主権回復を控えた日本政府はバチカンとの国交回復を閣議決定した。4月28日の日本国との平和条約発効に伴い教皇使節館は駐日本国ローマ法王庁公使館に格上げされて初代駐日教皇公使 マクシミリアン・フォン・フュルステンベルクが着任、国交が回復した。
 1958年(昭和33年)、日本政府は在バチカン日本国公使館を在バチカン日本国大使館に格上げした。1966年(昭和41年)、教皇公使は教皇大使に格上げされ駐日本国ローマ法王庁公使館は駐日本国ローマ法王庁大使館となった。初代駐日教皇大使(駐日本国ローマ法王庁大使)には ブルーノ・ヴュステンベルクが就任している。
 1970年の日本万国博覧会には、バチカン市国日本万国博キリスト教館委員会とともに「キリスト教館」を出展した。
 現代の日本とバチカンは文化協力を行うなど友好関係にある。要人訪問も何度か行われており、1981年(昭和56年)には教皇ヨハネ・パウロ2世教皇としてはじめて日本を訪問した。1993年(平成5年)には天皇明仁)が、2014年(平成26年)に安倍晋三首相が、2016年(平成28年)に秋篠宮文仁親王がそれぞれバチカンを訪問している。2019年(令和元年)11月には教皇フランシスコが日本を訪問している。
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 <海外から見た天皇
 外交儀礼プロトコル、国際礼儀)における天皇の位置づけについては、国際的な慣行により次のような取り扱いがなされる。
第1位 天皇・皇帝・女帝(Emperor,Empress)
第2位 ローマ教皇(Pope)
第3位 国王・女王(King,Queen
第4位 大統領(President)
第5位 首相(Premier)
 2006年現在の世界では、最上位の天皇・皇帝・女帝の位を有するのは日本国天皇のみとされている。学問上の定義として、天皇と皇帝は異なるという理由により、一部の学者等からは、英訳呼称として”Emperor”ではなく、”Tenno”が提唱されたこともあるが、実際の国際慣行においては、日本国天皇は皇帝(エンペラー、カイザー)として扱われている。
 プロトコルの存在を示す実例としては、以下のことが挙げられる。
① 国際的な場でイギリスのエリザベス女王が日本国天皇と同席するときは、天皇に上座を譲る。
② 天皇・皇后が訪米する時は、アメリカ大統領は白ネクタイで出迎える(この方法はアメリカ大統領の最敬礼の方法で、現在その対象となるのは、日本国天皇ローマ法王、英国国王のみ)
 なお、これらの扱いはあくまで外交儀礼上かつ相対的なものであって、現実の国際社会の様々な局面においてまで「日本国天皇が世界中で最も地位が高い・権限がある」等々のことを示すものではない。
 昭和天皇の大葬の礼の際には世界の163ヶ国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れ、親日国のインドは3日間、ブータンでは1ヶ月間喪に服した(日本は2日間)。
 しかし、諸事情により上記と異なる扱いとなる場合もある。一例としては、中国からは会食の際、天皇並皇后席が江沢民国家主席(当時)を中心にはさむ様にされ、韓国からは金大中大統領が天皇に道を譲らない等、最上とはいえない待遇を受けることもあった。
 天皇の訳語は英語で皇帝を表す「エンペラー」と呼ばれ、おおむねの国はこのような訳語を使用している。ただ大韓民国では、皇帝とは複数の国を治める王のことであり、天皇は日本一国のみの統治者であるとして、皇帝より一段低い呼び名である王を使い、日本の王という意味である「日王」と言う呼び方をする場合がある。韓国でこのような呼び方がされる理由には、韓国併合後、高宗の呼び名を「皇帝」から「王」にされたためとも、反日感情のためとも言われている。
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2025-01-07
〖目次〗貼り付ける記事:日本の皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の敵意であった。2025年版。
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 保守には、正統保守(皇室保守)やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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 アメリカ、GHQ、リベラル派ユダヤ人ニューディーラーは天皇制度廃絶と皇室消滅させるべく仕組んだ、日本国憲法、改正皇室典範皇籍剥奪の皇籍離脱天皇家私財没収の皇室経済法、保守派の公職追放
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 天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論
 第一弾 人間宣言
 第二弾 戦後版皇室典範日本国憲法
 刑法改正、大逆罪・不敬罪の廃止。死刑反対。
 天皇・皇族・皇室を護る特別法はなく、あるのは一般的な名誉毀損罪のみで、被害者として加害者に対して告訴する事ができるが、原則的にできない。
 メディアによる皇室報道は、本当は少なく、嘘や捏造・歪曲が多い。
 第三弾 皇籍剥奪=皇籍離脱=皇族追放。
 第四弾 皇室私有資産没収。
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 GHQは、旧日本軍が戦時中に民間から接収した宝石や貴金属、現金が隠匿資産として民間企業経営者や右翼を通じて保守的政治家に流れるのを摘発する為に東京地検特捜部を組織した。
 その結果、芦田均内閣は昭和電工疑獄事件で総辞職した。
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 国連の敵国条項
 国連とは、日本と戦った連合国である。
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 2018年 天皇家の資産、皇室費は100億円。
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