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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族は、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯で生き残る為に理論的合理的な理系論理思考と情緒的情感的な文系的現実思考を持っていた。
現代の日本人は、数万年前の縄文時代から日本列島で生きて来た日本民族とは限らない。
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日本民族とは、好戦的な気の強い尚武の民ではなく、戦いや争いを嫌い競う事に気後れする気弱な自然崇拝の民であった。
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「日本ブランド」とは、民族の歴史・文化・伝統・宗教を理解しない官僚エリートと御用学者の進歩的インテリ達が思い付いきで始めた官製ブランドであり、かってのクールジャパンと同様に失敗に終わる。
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2025年7月2日 MicrosoftStartニュース 集英社オンライン「「日本人らしさとは、自然観にあり」経産省パンフ『世界が驚くニッポン!』が唱える「日本ブランド」におぼえる曖昧さと違和感
「日本スゴイ」の時代#2
世界中から登山・観光客が絶えない富士山
経済産業省が2017年「COOL JAPAN」を促進する『世界が驚くニッポン!』を刊行した。このパンフレットは国内外に向けて「日本ブランド」の確立と発信をめざして中で生まれたが、そこに記載されたものには…。
【画像】自然の中にある神社
『「日本スゴイ」の時代 カジュアル化するナショナリズム』より一部抜粋・再構成してお届けする。
『世界が驚く……』の最大の特徴「日本人の自然観」
二〇〇〇年代から二〇一〇年代にかけて立ち上げられてきた国外・国内向けの「日本らしさ」再定義をめざす戦略的目標の中で生み出されたのが、この官製「日本スゴイ」パンフなのである。『世界が驚くニッポン!』では冒頭から、次のように高らかに宣言されていた。
日本人らしさとは、自然観にあり
自然と一体化しようとする「自然観」、多様な「美意識」、そして「身体感覚」。多角的な観点から考えることで、日本人が見えてくる
エエーッと驚いてしまうが、経産省はこれを本当にパンフレットにしてしまったのだから仕方がない。「日本人らしさとは、自然観にあり」「日本スゴイ」番組のナレーションにありがちな、うっかりスルーしてしまいそうになるフレーズだ。
「日本人らしさ」を説明するにあたって、どうして「自然観」がまっさきに登場するのだろうか。よく考えるとどうしてそう言えるのか、よくわからなくなる不思議感あふれる宣言だ。『世界が驚くニッポン!』では、次のように続けている。
「日本人らしさ」とは何だろう? その核をかたちづくっているのは、日本人独特の自然観ではないだろうか。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、山国でもある。南北に長く、四季に富んだ温暖な気候、豊富な水資源、山海の幸……、自然は日本人に、さまざまな恵みを与えてきた。
一方で台風、洪水、豪雪、火山、そして地震など、過酷な試練も課してきた。その中で生まれたのが、自然を畏怖しながらも、自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする独自の自然観だ。自然=克服すべき対象とみなした近代西洋の合理的自然観とは対照的だろう。
一読しただけではイマイチ脳に反映しない文章だが、辛抱強く鑑賞してみよう。
まず冒頭で、「日本人らしさ」の核(コア)は「日本人独特の自然観」ではないかと提起されている。どうやら経産省的には「日本人独特の自然観」を持つ者が「日本人」らしいということのようだ。
それにつづく「日本は、四方を海に囲まれた島国……」以降の一文では、「日本人独特の自然観」を形成してきた自然的条件が列挙される。〈四方を海に囲まれた島国であり、山国〉〈南北に長い〉〈四季に富んだ温暖な気候〉〈豊富な水資源〉〈山海の幸〉――これらの自然の「恵み」につづいて、〈台風〉〈洪水〉〈豪雪〉〈火山〉〈地震〉――など、自然による人間に対する「試練」が列挙される。
境界線が曖昧な「日本スゴイ」言説
この自然的条件が与えてきた「恵み」と「試練」によって、日本人「独特の自然観」が形成されてきたと展開している。
ここで立ち止まるべきなのは、こうした自然の「恵み」と「試練」とは、世界中の人類がほぼ等しく経験している相克であるということだ。もちろん、地理的な条件は千差万別であるとは言え、自然の恩恵がなければ生存できないし、人間が社会生活を営む上で自然からの試練が皆無なところも存在しない。
けれども、なぜか偶然にも、日本列島の地理的特殊性が、そこに住む「日本人」だけに、ある「独特の自然観」をもたらしたことになっている。それが「自然を畏怖しながらも、自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする」自然観だというのである。
また、ここで「日本は」と平然と使われているが、ここで想定されている「日本」の範囲は明示されていない。そこに琉球は入るのか、北海道はどうなのか。南鳥島は入るのか。地理的・風土的要素を列挙しながらも、実は「日本」の境界線が曖昧なのは、「日本スゴイ」言説に共通する特徴でもある。
言うまでもなく、歴史的には「日本」の地理的範囲は延びたり縮んだりしている。大日本帝国時代には南樺太から朝鮮・台湾までが「日本」の国土だった。ここでは戦後の日本の版図が暗に念頭に置かれているだろう。
少なくとも、「北海道」や「沖縄」が「日本」に組み込まれてからの地理的特徴から、太古以来形成されてきたと想定されている「独自の自然観」を導き出そうとしているのだと言える。
こういった展開は、あまりにもありふれた・よく見かけるものなので、特にひっかかりも覚えずにスルーしてしまいそうになる。特に、日本独自の風土的条件が、そこに暮らす日本人独自の「自然観」を形成してきたという展開は、和辻哲郎『風土』の俗流解釈を筆頭に、「日本文化論」が好んでパクり・拡大再生産してきたイデオロギーだ。
もう何十年も「日本人」についてこんな物語が繰り返されてきたおかげで、私たちは慣れっこにさせられているわけだ。それにしても、「独自の自然観」の中身として挙げられている「自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする」とは、いったいどういうことなのか?
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早川タダノリ(はやかわ ただのり)
1974年生まれ。フィルム製版工などを経て、現在は編集者として勤務。ディストピア好きが高じて20世紀の各種プロパガンダ資料蒐集を開始。著書に『「日本スゴイ」のディストピア』(青弓社、2016年)『「愛国」の技法』(青弓社、2014年)、『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版、2010年)など。
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7月2月 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「甚大な被害を与えた天明の大噴火が伝える教訓
『地災撮要』に描かれた浅間山の噴火の様子(国立国会図書館蔵)。この噴火で流れ出た溶岩は「鬼押出し溶岩」と呼ばれ、現在も群馬県嬬恋村などにその痕跡が残る。幅2キロメートル、長さ5キロメートルにわたって流下したという。
6月29日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第25回「灰の雨降る日本橋」では、浅間山の大規模な噴火により、混乱する江戸の様子が描かれた。この機に乗じ、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重/横浜流星)は奇策をもって日本橋に進出する手がかりをつかんだ。
■災いを転じて蔦重が日本橋の人々の心を掴む
書物問屋・柏原屋(川畑泰史)から日本橋の店「丸屋」を買い取らないかという、またとない話が蔦重に舞い込んだ。しかし、「吉原者は市中の家屋敷を買えない」という掟が蔦重の行く手を阻む。そこで蔦重は、書物問屋の須原屋市兵衛(すはらやいちべえ/里見浩太朗)を介し、田沼意知(たぬまおきとも/宮沢氷魚)に接触。松前藩の禁制品取引の証拠となる絵図を渡し、その見返りとして日本橋への進出が有利に進むよう、取り計らいを依頼した。
蔦重がようやく丸屋を手に入れた矢先、浅間山が大噴火を起こす。江戸の町はたちまち大量の火山灰に覆われた。人々が右往左往する中、蔦重は妙案を思いつく。店の女将・てい(橋本愛)が協力を拒む丸屋に乗り込むと、灰の侵入を防ぐため、蔦重は花魁たちの古着物で屋根を覆った。この誰も思いつかない奇抜な行動は、敵対していたはずの鶴屋(風間俊介)ら日本橋の商人たちの心をも動かし、やがて町中の店がそれに倣う光景となった。
さらに蔦重は、奉行所から出された灰の撤去命令を、町を一つにする好機と捉える。「遊びじゃねぇから遊びにすんじゃねぇですか!」。退屈な仕事を右組と左組とに分けて競争仕立てにし、賞金まで出すと、村田屋(松田洋治)をはじめとする商人たちの目の色が変わった。
男たちは声を掛け合い、力を合わせて灰の入った桶を運ぶ。競争が白熱する中、蔦重は勝敗が決まる寸前に川へ飛び込むという荒業で場をかき回し、結果は引き分けに終わった。この一件で、蔦重は日本橋の人々の心を完全に掴んだのだった。
日本橋の人々たちとの酒宴ののち、ていは蔦重の才覚を中国の賢人・陶朱公(とうしゅこう)になぞらえ、店を譲ることを決意したと告げた。蔦重は改めて夫婦になることを願い出る。
後日、二人の祝言が執り行われる。鶴屋が祝いの品として持参したのは、新しい店の暖簾だった。「日本橋通油町は蔦屋さんを快くお迎え申し上げる」。こうして、敵対していた鶴屋とも和解した吉原者の蔦重は、1783(天明3)年秋、ついに日本橋に認められ、新たな一歩を踏み出したのだった。
■江戸時代最大の天災による被害と教訓
1783年7月8日、群馬・長野県境の浅間山が大爆発した。「天明の浅間焼け」と呼ばれるこの噴火は、噴出量では過去の噴火に及ばないものの、被害規模と社会的影響において、江戸時代最大級の火山災害として歴史に刻まれている。
浅間山は標高2,568メートルの活火山で、古くから噴火を繰り返してきた。最古の記録は685年まで遡り、1108年の天仁噴火は噴出量約1.2立方キロメートルと浅間山史上最大規模とされる。一方、天明の噴火の噴出量は約0.73立方キロメートルと規模では天仁噴火に劣るが、人的被害は桁違いに大きかった。
噴火は4月に始まり、5月に活発化した。そして7月7日から8日にかけて最大の爆発が起きる。火口から高さ150メートルの噴石が打ち上げられ、直径50センチの火山弾が4キロ先まで飛んだ。総噴出量は約10億トンに達したという。
最も悲惨だったのは、北側斜面を襲った鎌原火砕流だった。研究によれば、時速100キロ以上とされる高温の火砕流は、群馬県嬬恋村の鎌原村を一瞬で呑み込んだという。全93戸が消失し、460人以上が犠牲となった。長野原町の小宿村も全滅するなど、55の村が被災。死者1,624人、流失家屋1,151戸という甚大な被害を記録した。
噴火の影響は関東全域に及んでいる。江戸には約3センチの火山灰が降り積もり、日本橋では人々が懸命に灰の除去作業にあたった。碓氷峠では1.5メートルもの厚さで火山灰が積もり、関東北部の農業に壊滅的な打撃を与えている。
火山灰が太陽光を遮ったことで、すでに続いていた冷害がさらに深刻化。これが「天明の大飢饉(だいききん)」の引き金となった。
東北地方の被害はさらに凄惨を極めた。津軽藩では約13万人(一説には20万人)、八戸藩では人口の3分の1にあたる3万人以上が餓死や病死、あるいは一家が離散した。生き延びるために人肉を食べるという地獄絵図も各地で報告されている。
飢饉と物価高騰は、各地で社会不安を引き起こした。特に「世直し一揆」と呼ばれる大規模な農民蜂起が頻発している。
群馬県では、安中藩領の農民が救済を求めて蜂起し、質屋や米穀商を襲撃。10月2日に始まった一揆は約270人から3,000人規模にまで拡大し、中山道の横川関所を突破して信濃国に乱入した。各地の米穀商を打ち壊しながら上田領まで進んだという。
蘭学者の杉田玄白(すぎたげんぱく)は、この一連の騒動を「真の一揆の萌(きざ)し」と評している。まさに社会変革の胎動を予感させる出来事だった。
幕府は熊本藩に復興支援を命じるなど対策に追われたが、全滅した村々の復興は困難を極めた。この危機的状況は、時の権力者・田沼意次の失脚を早め、松平定信(まつだいらさだのぶ)による寛政の改革へと政治の流れを変えていく。
浅間山は現在も活動を続けており、1911年には日本初の火山観測所が設置された。天明の大噴火は、必ずしも最大規模の噴火でなくても、時代背景や社会状況によって、甚大な被害をもたらすことを示している。
この噴火は単なる自然災害ではなく、その後の日本の社会、経済、政治の方向性を決定づけた歴史の転換点だったといえる。災害の「規模」と「影響」は必ずしも比例しないという教訓を、現代に教えてくれている。
小野 雅彦
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