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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
何時の時代でも、日本は生き残る為に外敵の侵略や敵国の外圧で変化してきた。
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江戸時代後期。天下泰平で安眠を貪っていた下級武士や庶民は、ロシアによる日本侵略の恐怖で排他的尊皇攘夷に目覚め暴走した。
水戸藩や尊王攘夷派は、ロシアの軍事侵略に東北地方へ走っていた。
徳川幕府は、天皇・国・民族を軍事力で守る為に東北諸藩に蝦夷地(北海道)・北方領土・南樺太への派兵を命じていた。
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吉田松陰の思想とは、皇国史観・神国論、開国と尊皇攘夷であった。
明治維新、近代的軍国主義国家は、吉田松陰の志によって成功した。
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靖国神社には、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作はもちろん佐久間象山、橋本左内、、頼三樹三郎、平野国臣、武市半平太、久坂玄瑞、吉田稔麿、清河八郎、藤田東湖、中岡慎太郎、梅田雲浜、横井小楠、真木和泉と奇兵隊隊員、海援隊員ら、天皇への忠誠心と国への愛国心に燃え、尊皇の志で死んだ数多くの勤王の志士らが「人神」として祀られている。
2022-06-17
⛩80)81)─1─靖国神社とは、勤皇の志士や尊皇派浪士の死を顕彰する神社である。~No.177No.178No.179No.180 *
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反宗教無神論のエセ保守とリベラル左派は、周辺諸国の敵国・侵略軍・侵略者から天皇・国・民族を暴力で守った靖国神社の人神を否定している。
その外敵であった中国と朝鮮(韓国)、一部のアメリカ人とキリスト教徒は、積極的自衛戦争の英雄を祀る靖国神社を民族主義・軍国主義による戦争犯罪の宗教施設であると否定している。
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2025年4月2日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライ「吉田松陰はテロリストを養成していた…教科書では書きづらい松下村塾で長州の若者に施していた危険な「教育」
「絹本着色吉田松陰像(自賛)」の肖像部分・山口県文書館所蔵(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
幕末の思想家、吉田松陰とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「松下村塾を主催し、後に明治政府をつくった優秀な人物を輩出した。ただ彼の教育には手放しでほめられない面もある」という――。
【写真】長州奇兵隊の隊士(一部)
■明治維新を成し遂げた吉田松陰の教え子たち
吉田松陰(1830〜59)は幕末の思想家および教育者で、明治維新の精神的指導者でした。これは紛れもない事実です。松陰の活動でもっとも注目すべきは、「松下村塾」で数多くの志士を育てたことでしょう。しかし、実際に教えたのは1年余りにすぎないので、正確には育てたというより、短期間に強い影響をあたえた、というほうが正確だと思います。
松下村塾は、もとは松陰の叔父の玉木文之進が自宅で開いた私塾で、安政4年(1857)、松陰が数え28歳のときに継承しました。身分の分け隔てなくだれでも受け入れ、塾生名簿はありませんが、教えを受けた人は延べ92人になるようです。
その門下生に名を連ねるのは、幕末に尊王攘夷と討幕の志士として生きながら、志半ばで散った者として久坂玄端や高杉晋作。さらに、幕末を生き延びて明治政府の重鎮になった者として伊藤俊輔(博文)、山縣狂介(有朋)、品川弥二郎、山田市之允(顕義)……と、まさしく錚々たる顔ぶれです。
桂小五郎(木戸孝允)も、松下村塾では学んでないものの、藩校の明倫館で松陰から兵学の教えを受け、松陰を師と仰いでいました。
松陰は杉百合之助という下級の長州藩士の次男で、山鹿流兵学師範の吉田家に養子入りして、前出の玉木文之進のほか、兵学者の山田宇右衛門や山田亦介(またすけ)から兵学を教わりました。松陰の原点はこの兵学にあるのです。
■もともとは天才少年
兵学では驚くほどの才能を見せました。明倫館で山鹿流兵学についてはじめて講義したのは、わずか数え9歳のときで、それ以降は毎年、明倫館で教えるようになりました。また、数え11歳のとき、藩主の毛利敬親の前で『武教全書』を講義し、15歳のときもふたたび講義し、ともに激賞されています。
さて、松陰はどんなことを教えたのでしょうか。松陰を祀る松陰神社(現存する松下村塾はその境内にある)が選んだ「吉田松陰語録」をいくつか見てみましょう(現代誤訳もそこから拝借します)。
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「天下に機あり、務あり。機を知らざれば務を知ること能わず。時務を知らざるは俊傑に非ず」(この世の中に生じるできごとに対処するには適切な機会があり、それに応じた務めがある。適切な機会がわからなければ、時局に応じた務めも知ることが出来ない。それぞれの場に応じてなすべき仕事できないようでは、才徳のすぐれた人とはいえないのである)
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つまり、ここぞという機会を逃すようではすぐれた人物ではない、と断じています。
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「罪は事にあり人にあらず、一事の罪何ぞ遽に全人の用を廃することを得んや」(罪は、人が起こした事件によって生じるもので、罪を犯した人が悔い改めることによって消滅する。従って、ひとつの事件の罪で、その人を否定しつづけるようなことがあってはならない)
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囚人を更生させるために書かれた『福堂策上』のなかの言葉で、よほどの罪を犯したとしても、本人が悔い改めさえすれば、罪は起こした事件とともに葬り去ることができる、というのです。
■目的達成のためには死をためらってはいけない
もう少し「松陰語録」を紹介します。
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「死は好むべきにも非ず、亦悪むべきものにも非ず、道尽き心安んずる。便ち是れ死所」(死はむやみに求めたり避けたりするものではない。人間として恥ずかしくない生き方をすれば、まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる)
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」(死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。生きていることで大業の見込みがあれば、生きて成しとげれば良い)
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これら2つはともに、松陰が数え30歳のとき、高杉晋作に宛てた手紙に記した言葉で、志を成し遂げるためには、躊躇せずに死を選ぶべきだと説いています。
さて、いま挙げた4つの語録を総合すると、松陰は教え子になにを求めていたかがよくわかります。4つは以下のようにつなげることができます。
チャンスは逃す人間ではダメです。たとえチャンスをとらえた結果として罪を犯すことになっても、罪は本人が悔い改めれば消滅します。だから、志を達成するためには、死をも躊躇すべきではありません――。
松陰自身の行動と、松陰の教え子たちのその後の行動をたどると、松陰はもちろん、教え子たちも、これらの語録に忠実だったことがよくわかります。
■ペリーで日本刀の切れ味を試したい
一坂太郎氏は「当時の若い知識人の多くがそうだったように、松陰は『維新』と『復古』の両面を併せ持つ」と指摘します(『暗殺の幕末維新史』中公新書)。
一坂氏の記述に沿って説明すると、積極的に西洋文明を導入し、富国強兵の実現をめざすのが「維新」。ただ、維新の場合も、天皇を尊重して外国船は打ち払う「尊王攘夷」が根底にあるのですが、同じ尊王攘夷でも、日本は神の国で、その子孫の天皇が世界に君臨すべきだ、という神国思想にもとづくのが「復古」です。
松陰は嘉永3年(1850)に九州の平戸藩に遊学し、海防論者の葉山左内の影響で西洋の兵学を学ぶ必要性を痛感。続いて江戸で、佐久間象山らから西洋兵学を学びましたが、嘉永5年(1852)に長州藩を脱藩すると、水戸の会沢正志斎と会い、その著作『新論』からも大きな影響を受けました。『新論』には、神国たる日本の伝統精神を守るためにも、欧米諸国を排撃すべきだと説かれています。
さて、その後の松陰はどんな行動をとったでしょうか。嘉永6年(1853)6月にペリーが浦賀に来航すると、遠くから観察したのち、同志で熊本藩士の宮部鼎蔵に次のように書き送りました。「唯だ待つ所は春秋冬間又来るよし、此の時こそ一当にて日本刀の切れ味を見せ度きものなり」。
ペリーがまた来たら日本刀の切れ味を見せてやりたいと、殺害予告とも受けとれる発言をしていたのです。
翌安政元年(1854)1月、ペリーが再来すると、松陰は小舟でペリー艦隊の旗艦、ポーハタン号に乗り込もうとしますが、拒否されます。これはアメリカへの渡航を試みたと説明されますが、松陰はのちに「墨使(アメリカ使節)を斬らんと欲す」と記していて、暗殺ねらいだった可能性があるのです。
■幕府の要人の暗殺計画
このとき松陰は、幕府に捕らえられて長州の萩に送り返され、城下の野山獄に入れられましたが、悪びれることはありませんでした。チャンスを逃さなかったことが重要で、結果的に罪を犯したといっても、志を達成するためなのだから仕方ない――。その姿勢は、紹介した語録と見事に重なります。
事実、法を犯したことを実兄から非難されると、「禁は是れ徳川一世の事、今時の事は将に三千年の皇国に関係せんとす。何ぞ之を顧みるに暇あらんや」と答えました。つまり、法は徳川幕府が決めたことすぎず、3000年続く天皇の国のためであるなら、そんな法を守る必要なんてどこにある、というのです。
野山獄で1年余りをすごした松陰は、出獄後、しばらく実家の杉家で幽閉生活を送ってから、安政4年(1857)に叔父がやっていた松下村塾の名を引き継ぎ、開塾します。
人間はいかにあるべきか、いかに生きるべきか。松陰はそのことを一方的に教えるのではなく、意見を交わし、議論をしながら授けたといいます。当時としてはまちがいなく、先進的な教育だったといえるでしょう。
しかしながら、「いかにあるべきか」「いかに生きるべきか」が、ことごとく尊王攘夷に結び付いたのが当時の松陰でした。しかも、目的のためには手段を選びません。将軍継嗣問題にも関与する紀州藩付家老の水野忠央の暗殺を計画。大老になった井伊直弼の暗殺にも期待を寄せ、尊王攘夷派を摘発する老中、間部詮勝(まなべ・あきかつ)の暗殺を企てます。
■テロリストを養成した松下村塾
とくに間部の暗殺にはご執心で、長州藩の家老相当の周布政之助(すふ・まさのすけ)に、松下村塾の門下生17人を率いて間部を暗殺するという計画を告げ、長州藩士の前田孫右衛門には手紙で、暗殺に必要な弾薬などをほしいと願い出ています。
松陰にいわせれば、いまが暗殺のチャンスであって、その志を遂げるためには死をも厭うべきではない、ということでしょう。でも、それは言い換えればテロの推奨です。
さすがに周布らは慌てて藩主に相談し、松陰はふたたび野山獄に投じられました。その後、安政の大獄にからんで、松陰は江戸に呼び出されます。ただ、幕府は軽い容疑しかかけていなかったのに、松陰は間部暗殺計画が発覚したと思い込んで、みずから計画を打ち明けてしまいます。
その結果、斬罪になるのですが、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし」という語録のとおりの生き方を塾生たちに見せたことが、その後、頻発したテロを招いたとはいえないでしょうか。
たとえば、文久2年(1862)に起きた品川近くのイギリス公使館の焼き討ち。久坂玄端、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)ら、松下村塾の元塾生が主導しましたが、こうした彼らの行動を招いたのは師の教えだったとはいえないでしょうか。
さらには、松陰は日本が東アジアを制すれば、欧米列強に対抗できると考えていましたが、その考えは明治政府が進めた侵略政策につながったとはいえないでしょうか。
松陰の教育力が抜群に高かったのはまちがいありません。ただ、その教えの「功」と「罪」をともにきちんと評価しないと、テロや暗殺を肯定することにもなりかねない、と危惧します。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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ウィキペディア
吉田 松陰(よしだ しょういん、旧字体:吉田 松󠄁陰、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉- 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。
嘉永3年(1850年)9月、九州の平戸藩に遊学し、葉山左内(1796-1864)のもとで修練した。葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していた。松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた。
ついで、松陰は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる。
嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。 山鹿流古学者との交流を求め訪問した米沢では、「米沢領内においては教育がいき届き、関所通過も宿泊も容易だった。領民は温かい気持ちで接し、無人の販売所(棒杭商)まである。さすがに御家柄だ」と驚いている。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「唯だ待つ所は春秋冬間又来るよし、此の時こそ一当にて日本刀の切れ味を見せ度きものなり」と記されていた。8月には、藩主に対して意見書「将及私言」を提出し、諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処すべきことを説いた。このとき松陰は士籍剥奪の処分を受け、浪人の身であったので、この行為は明らかに逸脱行為であり、それゆえ後に彼はこの意見書提出を「二十一回」の「用猛」の一つに数えている。その後、師・象山の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したことから同艦が予定を繰り上げて出航していたために果たせなかった。
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2023年6月14日 JBpress「密航、松下村塾、安政の大獄…過激な攘夷で一辺倒ではなかった吉田松陰の実像
幕末維新史探訪2023(18)吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①
松陰神社の吉田松陰像(東京都世田谷区) 写真/アフロ
(町田 明広:歴史学者)
先行する長州藩・吉田松陰のイメージ
幕末維新史の主役と言えば、長州藩を思い浮かべる読者は多いのではなかろうか。そのイメージと言えば、尊王攘夷運動の旗頭であり、下関で攘夷戦争を実行するなど、即時攘夷を牽引し続け、最後に倒幕を成し遂げた西国雄藩の代表に落ち着こう。
また、吉田松陰は長州藩を代表する過激な尊王攘夷家であり、松下村塾を主宰して多くの尊王志士を育て上げた。しかし、大老井伊直弼による安政の大獄に巻き込まれ、刑死した悲劇のヒーローとして、広く知られた偉人であろう。
しかし、歴史を紐解くと、長州藩、そして吉田松陰は最初から最後まで即時攘夷に一辺倒であったわけではない。未来攘夷と即時攘夷を行ったり来たり、彷徨しながら即時攘夷に収斂したのだが、その間の経緯は必ずしも知られていないのではないか。今回は4回にわたって、吉田松陰の対外思想を中心に据えながら、長州藩がいかに松陰の世界観によって影響を受けたのか、その実相に迫ってみたい。
吉田松陰の生い立ちと少年時代
最初に、吉田松陰(1830~59)とは一体どのような人物であったのか、やや詳しく説明したい。文政13年8月4日、無給通(むきゅうどおり)23石取の杉百合之助の次男として生まれた。志士、思想家、教育者であり、幼名は大次郎・寅次郎・寅之助、名は矩方、号は二十一回猛士であった。
幼くして吉田家の養子となったが、同家は大組という上級藩士であり、禄高は40石、山鹿流兵学師範の家であった。この養子縁組が、松陰の運命を大きく変えたのだ。
松陰は叔父の玉木文之進や兵学者の山田宇右衛門、山田亦介から兵学に関する教育を受けた。天保9年(1838)、9歳の時に藩校明倫館で山鹿流兵学の講義を初めて行ったが、以降は毎年一定期間、明倫館で教授することになった。
天保11年(1840)、11歳の時に藩主毛利敬親の前で「武教全書」を講義し、そのあまりの巧みさに藩主を驚かせた。さらに、弘化元年(1844)、15歳の時に再び藩主に講義する機会に恵まれたが、激賞されて褒賞を下賜される栄誉に浴した。まさに、天才少年である。
青年時代の活動と脱藩
嘉永元年(1848)年、松陰は19歳で明倫館師範となった。この時、明倫館再興に関する意見書を提出した。また、翌2年(1849)には御手当御用掛となり、山陰海岸
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ここからは、JBpress Premium 限定です。
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2023年6月21日 JBpress「長州藩に多大な影響を与えた、吉田松陰の対外思想はどのようなものだったのか
幕末維新史探訪2023(19)吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨②
松陰神社にある木戸孝允寄進の鳥居と吉田松陰の墓(世田谷区) 写真/アフロ
(町田 明広:歴史学者)
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①
長州藩の対外思想(認識)の系譜
吉田松陰の対外思想は、松陰刑死後も長州藩の方向性に多大な影響を与え続けた。と言うのも、文久期(1861~1863)に藩政の中枢を牛耳って即時攘夷を実践したのは、松下村塾で直接松陰から教えを受けた塾生が中心であったからだ。
久坂玄瑞
その筆頭と言えるのが、久坂玄瑞であろう。久坂は高杉晋作ともに松門の双璧と言われ、そこに吉田稔麿、入江九一を加えて四天王と称された。また、久坂らが兄のように慕った桂小五郎(木戸孝允)は、嘉永2年(1849)に藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった松陰から兵学を学んでいる。桂は松下村塾の門下生ではなかったが、終生松陰のみを師として仰いだのだ。
周布政之助の肖像
さらに、藩要路である周布政之助は、松陰のよき理解者の1人であった。つまり、松陰の影響力は、その死後も持続しており、弟子たちに留まらず、その思想的系譜は広く藩内で継承されており、対外思想も当然のことながらそこに含まれた。
松陰を形作る皇国思想と陽明学
松陰の対外思想を語るには、下田渡海事件を避けては通れない。下田渡海事件とは、嘉永7年(1854)3月、日米和親条約の締結後も下田に留まるペリーに対し、海外渡航を直訴するためにポーハタン号へ赴いたものの、拒絶された一連の経緯のことである。松陰は自首し、その後、国禁を犯したとして江戸伝馬町の牢屋につながれてしまったことは、前回紹介した。では、松陰がなぜ渡航を企てるに至ったのか、その対外思想の変遷を考えてみよう。
そもそも、長州藩は長い海岸線を持ち、交通の要衝となる下関が支藩である清末藩の支配下にあった。また、長州藩は江戸時代を通じて、朝鮮とのパイプ役であった対馬藩との交流が深かった。このような地理的な条件は、必ずしも松陰でなくとも、長州藩に生まれた者であれば多かれ少なかれ、対外危機を敏感に感じ取ることができたのだ。特に松陰は、山鹿流兵学師範であり、国防問題への関心は人並み以上であった。
松陰は、極めて強烈な皇国思想に貫かれていた。皇国思想とは、日本の歴史が朝廷(皇室)を中心に形成されてきたことに着目し、万世一系の天皇を国家統合の中心と捉える思
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2023年5月26日 Link-i lnc.「幕末のリーダー吉田松陰から学ぶ「影響力のあるリーダーに備わる力とは?」
学生生活 就活 自己理解
目次
吉田松陰ってどんな人?
吉田松陰が残した名言から紐解くリーダーシップの哲学
キャリア選びをするにあたって大切にしたいこと
最後に
幕末の偉人 吉田松陰は当時常軌を逸したリーダーシップを持った人物でした。
伝説の「松下村塾」という塾を長州藩で作り、高杉晋作(長州藩のリーダー)伊藤博文(初代内閣総理大臣)など数々の後の偉人に影響を与えました。
リーダーシップとは「ある一定の目的に向けて人々に影響を与え、その実現に導く行為」です。
ビジョンや目的のためにリーダーの選択肢は無数に存在しており、常に葛藤に直面します。
分かりやすい正解がないからこその矛盾や葛藤を抱えながら、強く周りに影響を与えてある種啓蒙していく芸術的な活動をリーダーシップと呼びます。
本編では類まれなるリーダーシップを発揮してきた吉田松陰から「リーダーシップ」について考えていきます。
吉田松陰ってどんな人?
吉田松陰は「自分の人生を歩むために心といかに向き合うか」ということを大事にしていました。
幕末、ペリーの黒船が浦賀に来航した時、黒船から放たれた3発の大砲で江戸は大混乱に陥りました。
それまで鎖国を選び続けていた日本にとって、その技術力の差は現代で言う宇宙人がUFOに乗って現れたような衝撃でした。
その技術力の差を目の当たりにした吉田松陰は、日本の未来を考え「黒船に乗って海外渡航をする」という思い切った行動に出ようとします。
松陰はこんなことを言い残しています。
「今ここで海を渡ることが禁じられているのは、たかだか江戸の250年の常識にすぎない。今回の事件は、日本の今後3000年の歴史にかかわることだ。くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった。」
近くの小舟を盗み実際に黒船の甲板に乗り込んだ松陰を見て、アメリカ艦隊は動揺し、ペリーも感嘆したと言われています。
ここで現代に話を戻しますが、考えて欲しいことは「”常識のようなもの”を疑うことはできているか?」ということです。
ビジョンや目的のために周りに影響を与え動かすためには、自分らしいビジョンや目的が必要になります。
それは周りから見た正解らしきものではなく、その人らしいものであるかを問われます。
リーダーシップは正解のない問いに向き合う活動だからこそ空気のように溢れる常識=他人のものさしを疑うことが求められます。
自分のものさしを形作り、自分らしい旗を掲げて挑戦をしていくことが周りに影響を与えうるリーダーシップに繋がっていくんじゃないでしょうか。
吉田松陰が残した名言から紐解くリーダーシップの哲学
【志を立ててもって万事の源となす】
何事も志を立てることが全ての源となる。
松陰が25歳の時、海外渡航を企てた罪で牢獄に入っていた際に残した言葉です。
その際には14か月の間に600冊以上もの本を読み、牢獄内で講義を行っていたと言われています。
その人らしい志を伝えられる中で自分の心が揺れ動いた経験は誰しもにあるのではないでしょうか?
全ての活動の源に志があるのだとしたら、それが何かを考えることがまず初めに大事です。
自分は何者になりたいのか、何をしたいのか、といった志はただ漠然と考えても思いつかないからこそ魅力的な志を持てているかという観点も大事に日々磨いていきたいですね。
【夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。】
松陰が残した言葉の中でも特に有名な名言です。
夢があれば必ず成功するということではないと思いますが成功したリーダーには少なくとも夢の存在があったのではと思います。
松陰も同様に、欧米列強に対抗できる日本国家を作るという夢を持ちその思想が周りに影響を与えた結果として明治維新に発展したとも言えます。
昔は、百姓が武士になりたいと思っても簡単になれず、政治に文句を言えば罰せられ、理想や夢などの範疇が、今よりも断然狭い世情だったと言えます。
ただ、昔と今では個人を取り巻く環境は変わり、多くの「自由」が存在しています。
選択肢が多い自由な現代だからこそ
その選択肢自体を多く知り、自分が選びたいものを決めることが大事なのではないでしょうか?
その選択肢が正しそうかどうかよりも、その人らしく魅力的な夢であればあるほど
周りに影響を与えるリーダーシップに繋がるはずです。
キャリア選びをするにあたって大切にしたいこと
ここまで松陰が行ってきたことや名言を紹介してきましたが私たちが自らのキャリアを考える上でも多くの学びがあると思っています。
就活を進めるにあたりビジョンを聞かれる瞬間が多いと思いますがその問いに対して自分らしい志を持って答えられているでしょうか?
周りの人に影響を与えるには志の存在は重要です。
様々な学びに触れながらその中で自分は何の志を立てたいのか自分らしく考えていく必要があります。
「あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。」
ガンジー
「事を成し遂げる秘訣は、ただ一つの事に集中することにある。」
リンカーン
「我々にとっていつも大事なのは次の夢なんだ。」
スティーブ・ジョブス
松陰に限らず、成功を収めてきた多くのリーダーが夢=志の重要性を伝えてきたことには意味があります。
何も高尚な志を今すでに持たなければいけないということではありません、ただ、キャリア選択を迫られる今だからこそ周りに影響を与えられるだけの自分らしい志を持つことを諦めず素敵な夢を持って社会に飛び立っていって欲しいと思います。
最後に
いかがでしたでしょうか?
その人らしさは志に現れるのではないかと思います。
一人では成し遂げられないことも周りと共に動くことで成し遂げられます。
成功を収めるリーダーには志の存在があるからこそ キャリアだけでなく、普段の学生生活においても「自分らしい志」をもって、周囲を巻き込んでみてください。
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2025年3月2日 YAHOO!JAPANニュース PRESIDENT Online「天皇が「万世一系の継承者」と定義した…江戸時代を終わらせた明治維新が「革命」にならなかった国家的事情
「御一新」で重要な出来事は五箇条の御誓文だった
上念 司
経済評論家
明治維新の歴史的意義とは何か。経済評論家の上念司さんは「日本の伝統的な価値観を守りながら、時代に合わせて必要な改革を進めたことだ。この明らかに矛盾したミッションを成功させるには、天皇という存在が不可欠だった」という――。
※本稿は、上念司『保守の本懐』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
明治天皇の肖像明治天皇の肖像(画像=Uchida Kuichi/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
軍事政権からの「民主化」だった
明治維新による社会の変化は「革命」と言っていいぐらいの大きなものでした。身分制度はなくなり、年貢は地租に変わり、憲法が制定され議会もできて選挙も行われるようになったからです。
江戸時代は言ってみれば徳川家と大名が連合した軍事政権であり、一定の身分がなければ政治には参加できませんでした。また、身分は基本的に世襲であり、生まれた瞬間に将来その人がどのような職業に就くのかもほぼ決まっていました。
もし、フェートン号事件から安政の開国に至る外圧がなければ、江戸時代はもっと長く続いていたことでしょう。しかし、世界はそれを許さなかった。日本は欧米列強との国交を開かざるを得ない圧力を受け、不平等条約を飲まざるを得ない状態に追い込まれたのです。
日本の遅れに気付いた改革派vs守旧派
なぜ欧米列強に勝てなかったのか? 理由は簡単です。まずは軍事力の差。そして、その差をもたらす科学技術が最大の問題でした。
私有財産制度が確立していない国ではイノベーションは起こりません。古代中国は羅針盤を発明しても、大航海時代はこなかった。同じことが封建時代の日本にも言えるわけです。
明治維新の原動力となった下級武士たちはこのことにいち早く気付き、社会改革の必要性を訴えました。しかし、当時の徳川幕府はこれをたびたび弾圧しました。
改革派は同盟を組んで戦い、大政奉還から最後は戊辰戦争という暴力によって守旧派を粛清。明治新政府が立ち上がったわけです。このあたりの歴史についてはこれだけで本が何冊も書けてしまうので省略します。
新政府が「革命ではなく維新」とした理由
問題は、明治維新において伝統や正統性が思想的かつ理論的にどのように確保されたかという点です。維新は維新であって決して革命ではない。
そもそも、明治維新という呼称自体、維新が終わった後に後付けされた名称です。やっている最中には「御一新」と呼ばれていました。御一新、つまり何かが大きく変わるというニュアンスでしたが、終了後それは革命ではなく維新であると定義付けられました。
明治維新において最も重要なこと、それは明治天皇が古代から続く万世一系の継承者として、国家の正統性を象徴した点にあります。
天皇は日本の歴史における「万世一系」の象徴であり、国家の正統性を維持する中心的な存在でした。幕末の混乱期においても、その権威は失われていません。幕末も例外なく歴代将軍は天皇の任命で就任していますし、むしろ条約勅許問題など朝廷の権威をさらに利用する動きすらありました。
そのため、維新期において「王政復古」のスローガンが浮上したのは、その正統性から言えば当然のことでした。
天皇は改革に欠かせない存在だった
この考え方の萌芽は水戸黄門でお馴染みの徳川光圀がまとめた『大日本史』という歴史書の中に見て取れます。それを発展させた水戸学、特に後期水戸学は明治維新の理論的な支柱の1つになりました。
新政府は、多くの改革を実施するにあたり、その正当な理由を日本の伝統的価値観に結び付けて説明しました。もちろんかなり苦しい説明もありますが、伝統と結び付けて解釈するという点がとても大事です。この点で、天皇は新しい時代の象徴でありながら、古来の伝統とも連続性を持つ存在でした。
特に大事なのは、五箇条の御誓文(1868年3月)です。御誓文は明治新政府の基本方針を明確化する文書であり、その内容には革新性と保守性が共存しています。明治新政府が目指したもの、それは当時の欧米のような自由主義、言ってみれば「自由で開かれた社会」でした。
社会の維持には「メンテナンス」が必須
自由で開かれた社会とは、保守思想が目指す漸進的な改革を実現するための基盤となるものです。個人の自由が最大限に尊重され、同時にその自由が社会全体の利益と調和する形で保障されるからこそ、自由に議論ができ、その結果として衆知を集めることができる。
そして、一定の結論が出た後で常にそれを振り返り効果を確認しながらまた次の漸進的な改革に着手する。保守という言葉は英語で言えば「メンテナンス」です。私たちの社会は古い自動車みたいなものですが、新車に買い替えるわけにはいかないのです。
急進的な改革には大きなリスクが伴うため、古いポンコツでも修理しメンテナンスしながら乗り続けるしかない。そのためには、当事者すべてが整備士としてこの修理に参加する必要があります。
自由な議論を通じて、みんなで決めていく社会。何を隠そうこれこそが五箇条の御誓文にある一節「廣ひろク會議かいぎヲ興おこシ萬機ばんき公論ニ決スヘシ」そのものなのです。
五箇条の御誓文の原本五箇条の御誓文の原本(画像=DCyokohama/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
天皇自らが先頭に立って近代国家への道を歩む
左翼系の歴史学者には明治天皇による御誓文を茶番だとか、単なるスローガンだとバカにする人たちがいます。しかし、それがいかに愚かしい批判か。読者のみなさんはもうすでにご理解いただけるかと思います。
保守思想の観点からすれば、日本の歴史、伝統を重視し、その形式に従って明治天皇がこのような布告を出すことは極めて重要なことです。
近代国家への道を歩むということは日本にとって未曽有の大改革であり、天皇自らその先頭に立って努力すると宣言されたわけです。それも天地神明に誓って。
その目指すものの第一に掲げられたのが「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ(広く人材を集めて会議を開き議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう)」という項目です。いわゆる保守思想と自由主義の融合、保守自由主義は明治維新から始まったのです。
当時の日本は侵略の危機に晒されていた
明治天皇が自ら先頭に立ってこういう社会改革を行う必要があったのは、日本をいち早く欧米並みに近代化し日本を守るためです。欧米諸国は「自由で開かれた社会」であると同時に、同じ基準を持たない国々を文明国とは認めていませんでした。
「自由で開かれた社会」と言っても、あくまで当時の基準。フランスもついこの間まで身分制度があったような国だったわけです。それが無くなって自由になった。でも、文明国と認めない国は「教化」の対象であり、侵略して植民地にしてもいいという倫理観がまかり通っていたわけです。
分かりやすく言えばこれは「令和の世から昭和のテレビドラマを振り返って、その酷さに絶句する」みたいなものです。当時のドラマではセクハラも暴力の描写も今では絶対に考えられないぐらいえげつないものでした。でも、当時はそれでよかったのです。
今から見れば、欧米諸国のダブルスタンダードにしか見えないこの行動も、当時としては当たり前。だからこそ、左翼の人たちはこの時代を帝国主義の時代とネガティブなイメージで呼ぶわけです。
伝統を守りながら改革もする難題をクリア
欧米列強によるアジアの植民地化から日本を守るためには、江戸時代の古い仕組みでは対抗できない。だからこそ、維新の志士たちは日本を近代化させ、近代国家として生まれ変わった日本を欧米列強に認めさせようと立ち上がりました。外的環境の変化に適応しつつ、日本の社会を守るためには、歴史的な連続性に配慮しつつも大胆な改革が必要でした。
地図上の日本写真=iStock.com/KeithBinns
伝統を守り、しかし、改革もする。どう考えても完全に矛盾しているこの難ミッションを課せられたのが明治新政府であり、それをクリアしたのも明治新政府でした。
例えば、五箇条の御誓文第一条にある「広く会議を興し」という部分は、封建制的な専制支配を否定し、議論を通じた開かれた政治を目指す意思を示していますし、第四条の「天地の公道」に基づく行動とは、西洋的な普遍的価値観を取り入れる意思を表しています。
市街戦を繰り返したフランス革命との違い
ポイントはそれらが、明治天皇による宣言だったという点です。五箇条の御誓文は、明治天皇が自ら発した、歴代天皇および天地神明に誓うという形式が取られました。これは、天皇という伝統的権威を基盤に新しい体制を構築しようとする保守思想的なアプローチと言えるでしょう。
フランスのようにパリで市街戦を何度も戦うことなく、最初からこのような設定をした点に私たち日本人の先人たちの智慧を感じませんか?
明治維新の成功は、伝統と改革のバランスを取ったことにあります。天皇と五箇条の御誓文は、伝統的な価値観、特に万世一系や日本の文化的アイデンティティを基盤にしながら、必要な改革を進めるということを明確にした宣言でした。これは保守思想において重要な社会秩序の維持のためには、天皇の存在が不可欠であったことを意味します。
混乱を最小限に抑えることができた
公儀(幕府のこと)は天皇から征夷大将軍に任命されることで日本を統治する権限を与えられている。だから、公儀といえどもそれは「幕府」に過ぎない。この理論は徳川光圀が明治維新の200年前に主張したものです。
上念司『保守の本懐』(扶桑社)上念司『保守の本懐』(扶桑社)
明治新政府の歴史解釈は少なからず徳川光圀に始まる水戸学の影響を受けています。この天皇を中心に据えた歴史観が、激動の時代における混乱を最小限に抑える役割を果たしました。
ただ1つだけ余計な話をさせてください。水戸学は時代が下るにつれてあまりにも過激化しすぎて一部はトンデモ論、陰謀論に走るヤバい学派になってしまいました。そのため、明治新政府も水戸学のすべての理論を採用したわけではなく取捨選択が行われています。
また、旧水戸藩の人材は過激な人が多すぎたので明治新政府からは排除されました(「水戸学がトンデモなので明治新政府もトンデモ」という左派の批判は的外れです)。
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松陰神社
ご祭神 吉田松陰先生について
吉田松陰先生肖像
吉田松陰先生は,天保元年(1830)8月4日長州藩(現在の山口県)萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれました。松陰というのは号で、名前は矩方、通称寅次郎。幼い頃は虎之助と呼ばれていました。
杉家は貧しい家でありましたが、勉強家であり勤勉な武士の父の下、幼い頃は兄梅太郎と共に「論語」「孟子」などの中国の古典を学びました。
松陰先生には他家を継いで姓が違いますが吉田大助、玉木文之進という2人の叔父がいました。吉田家は山鹿流兵学師範を務める家柄で代々藩主に講義をしたり、明倫館(藩の学校)で藩士に講義をしていました。しかし大助は29歳で亡くなってしまい松陰先生が6歳の時、文之進を後見人として吉田家を継ぐこととなりました。松陰先生は文之進の厳しい教育のもとめきめき力をつけます。天保11年松陰先生11才の時には、藩主であった毛利慶親公に武教全書を講義しました。その後もさらに学問を進め弘化4年(1847)18歳で林真人より免許皆伝を受け、22歳の時には三重傳という山鹿流兵学でもっとも高い免許を受けます。
松陰先生の学問は、家学だけに留まりませんでした。中国では阿片戦争がおこり日本の周囲にも外国の船が来るようになっている時代です。松陰先生は日本を守る為にはまず西洋の文明や兵学を学ばねばと、嘉永3年(1850)には約4ヶ月間、九州は平戸に遊学し陽明学者の葉山佐内と親交を結びます。さらに見聞を広める為、嘉永4年には藩命による江戸留学が実現し佐久間象山に師事しました。
その頃、東北地方に外国艦船がしばしば現れていたことから、松陰先生は江戸から東北へ宮部鼎蔵と嘉永5年の春に調査旅行をする予定を立てていました。しかし、友人の江帾五郎から仇討ちをしたいので一緒に行ってくれないかと頼まれた松陰先生達は大変感動し、嘉永4年の12月15日を出発の日と決めました。当時、国内旅行の時には過書(藩からの身分証明書)を持っていなければならなかったのですが、それを待っていては出発の日に間に合わず松陰先生は友人との約束を守る為、過書を持たず出発してしまいます。結局、仇討ちは仇が病死であったため実現しませんでした。松陰先生は東北各地を視察して周り、翌年の4月に東北遊学から江戸にもどって来た際に過書をもたず出発した罪で身分をとられ浪人となってしまいます。
藩主の毛利敬親は松陰先生が浪人となってしまったことを大変残念に思い、特別の計らいで諸国遊学10年間の許可をだしました。嘉永6年に松陰先生は再び江戸に向いました。江戸への道中、諸国の有名な学者をたずね歩き勉学に励みました。そして5月に江戸へ到着しました。その頃ちょうど浦賀にペリーの黒船が入港し松陰先生も実際に黒船を目で確かめることになります。阿片戦争を知っていた松陰先生は日本が植民地にされるのではないかと心配しより一層、西洋兵学などを勉強しました。
松陰先生は西洋兵学を学べば学ぶほど、本や人から得る知識だけでなく実際に目で確かめ学びたいと熱望しました。鎖国制度の時代で海外への渡航は固く禁止されていましたが、嘉永6年、和親通商を求める、ロシア使節プチャーチンの船が長崎へ入港した際、松陰先生は乗船を計画しました。しかし、江戸を発って長崎に到着した時すでに船は出港した後でした。その翌年、ペリーが艦隊を引き連れて日本に再度やってきました。松陰先生は弟子の金子重輔と共に下田沖に停泊中であったペリーの軍艦にむけて、夜小船で漕ぎ出しました。軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願しましたが、認めてもらえず松陰先生は翌朝自首し海外渡航を計画した罪で江戸伝馬町の獄に投獄されてしまいます。
松陰先生は安政元年12月、萩に戻され野山獄に投獄されました。野山獄には約1年2ヶ月投獄されていましたが、自分が投獄されていることよりも、日本を海外の列強からどのように守るかが松陰先生最大の問題でしたから、その間にも約600冊の本を読み解決方法を模索しました。また、同じ獄に投獄されている他の人に呼びかけ、俳句や漢詩、書道などそれぞれの得意分野を皆に教える勉強会を開きました。松陰もまた、皆に論語や孟子などを教えました。そういった勉強会を開くうち投獄されていた他の人も生きる希望を見出し獄の中は次第に明るい雰囲気になっていったそうです。
安政2年、松陰先生は杉家に戻ることを許されました。杉家でも松陰先生は勉学に励み、家族に孟子などの講義を続けました。するとその講義を聴こうとする若者達がしだいに集まりはじめました。そして以前に叔父の玉木文之進が開いた「松下村塾」という塾の名をつけた塾を開き、塾主を務めました。松下村塾では、身分の上下や職業などは関係なく、松陰先生は若者と共に畑仕事などをしながらそれぞれの長所を見つけ伸ばすという教育を行いました。松下村塾は僅か2年余の間しか開塾していませんでしたが、伊藤博文、野村靖、山縣有朋など、後の明治維新を成し遂げた数多くの若者達が巣立っていきました。
安政5年井伊直弼が大老となり。六月日米通商条約に調印します。そしてこれに反対する人々を投獄し罰していきました。安政の大獄です。松陰先生も日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生同志等に時局に対する意見書を送ります。直接行動として、老中暗殺も計画しました。しかしこの松陰先生の考えは幕府を脅かすものと考えられ、塾は閉塾、松陰は再び投獄されてしまいます。そして安政6年5月萩野山の獄を発ち江戸桜田の藩邸に護送されることとなります。
萩から江戸へ護送される際、萩の町が見納めとなる坂の上での句
かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな
松陰先生は幕府の尋問を受け伝馬町の獄に入ります。松陰先生は、誠の心をもって話をすれば自分の考えも幕府はきっと理解してくれると自分の考えを述べました。しかしその思いは届きませんでした。松陰先生は自らが死刑になることを察し、父、叔父、兄宛てに「永訣書」を書き、弟子達に「留魂録」を書きました。安政6年10月27日朝、評定所にて罪状の申し渡しがあり、その後伝馬町獄舎で松陰先生は処刑されました。享年30歳でありました。
辞世の句
親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
絶命の詩
我今為国死 死不背君親 悠々天地事 鑑照在明神
(我いま国の為に死す死して君親に背かず悠々天地の事鑑照明神に在り)
10月29日弟子たちにより小塚原回向院下屋敷常行庵に埋葬されます。
松陰先生の教育は体全体からあふれる人間愛と祖国愛、時代の流れに対する的確な把握がありました。そして、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります。
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