・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2025年3月20日 YAHOO!JAPANニュース 歴史・文化ライター「【幕末】SF作品もびっくり!世界を冒険しアメリカ人を経て徳川幕府の旗本になった『ジョン万次郎』の人生
今でいう高知県、土佐の出身で活躍した歴史人物といえば、多くの方が坂本龍馬の名を思い浮かべることでしょう。しかし同時代、龍馬よりも少し早くに登場し、日本どころか世界を股にかけて活躍した『ジョン万次郎』については、そこまで知られていません。
しかし幕末の歴史に大きな影響を与えており、何より彼の生涯はフィクション作品の筋書きかと思うほど、波乱と冒険の連続でした。いったい、どのような人生を歩んだのでしょうか。
ウィリアム船長との出会い
ときは1841年、日本にペリーの黒船がやってくる十数年前のこと。万次郎は土佐の小さな漁村で暮らす、漁師の1人でした。ところが漁の途中で嵐に遭遇して船が難破、4人の仲間とともに南の無人島に流れつきました。
ここは鳥島(とりしま)といって現在でも無人島ですが、高知県からは800キロほども離れており、助けどころか周囲を通りかかる船さえありませんでした。万次郎たちが「自分達は、一生ここで暮らすのか」と思ったことは、想像に難くありません。
仲間とともにサバイバル生活で生きながらえ、約半年が経った頃。海岸から、たまたま通りかかった、一隻の船の姿が見えました。しかし仲間の1人は言いました。
「ありゃあ、異国の船じゃあ。いかん、あの船に乗ったら2度と土佐へ帰れんぜよ」
当時の日本は鎖国しており、外国船は撃退せよとお触れが出ていたのです。この数年ほど前にも万次郎たちと同じように、遭難した日本人を救助した外国船が、故郷に送り届けようとしたことがありました。しかし海岸に近づくと砲撃を受け、慌てて引き返したのです。(※モリソン号事件)
しかし、ここで何もしなければ日本どころか、無人島から出る事も叶いません。万次郎たちは手を振りながら大声で叫び、それに気付いたアメリカの捕鯨船に救助されることになりました。
最初は英語も話せず意思疎通に苦労しましたが、万次郎たちは助けてもらった恩を返すため、日々アメリカ船員の仕事を手伝いました。この時、船長をしていたのは『ウィリアム・ホイットフィールド』という人物でしたが、彼は思いました。
「JAPANは閉鎖的で良いイメージは無かったが、こうして実際に会ってみれば、皆まじめで良い人間じゃないか」。やがて船はハワイへ立ち寄り、ウィリアム船長はツテを辿って、5人がハワイで暮らして行けるよう、取り計らってくれました。
しかし万次郎は言いました。「船長、僕だけはこのまま、一緒に連れて行って貰えませんか。もっと広い世界を見てみたいのです」。その申し出にウィリアム船長は言いました。「君の冒険スピリッツは素晴らしい、いいだろう」。
ジョン万次郎の誕生
こうして万次郎は正式に捕鯨船のクルーとなり、次第に英語も上達して、仲間とも打ち解けて行きました。ちなみに、この船は『ジョン・ハウランド号』という名前だったので、それにちなんだ『ジョン・マン』という愛称で呼ばれるようになりました。
そしてアメリカ本土へ着くとウィリアム船長の故郷である、マサチューセッツ州へ連れて行って貰います。当時の日本人には黒船のような蒸気船は驚愕の存在でしたが、さらに町を歩けば巨大な蒸気機関車が走っているなど、未知の技術や風景ばかりでした。
またウィリアム船長は好意で、万次郎を地元の学校にも通わせてくれました。ここで英語はもとより数学や造船・航海技術など様々な分野を学び、これが後の人生に大きく活きることになります。
万次郎は期待に応えて勉学に励み、やがてスクールの首席にまで昇りつめます。ウィリアム船長は彼の将来を本格的に見込み、万次郎を自らの養子にしました。ここに故郷は日本ながら、アメリカ人の『ジョン万次郎』が誕生することになりました。
故郷の地を目指して
それからジョン万次郎は船乗りとなり、世界中のさまざまな場所へ行きました。航海を通じて色々な人種の人間とも出会い、いま世界の情勢がどう動いているかにも精通します。やがて実績を重ね、ある船の副船長を任されるほどになりました。
すでにアメリカ人として生きるための知識やスキル、人脈も十分なものを得たと言えます。しかしジョン万次郎は日本への想いを、捨てるどころか日増しに強くして行きました。
土佐には家族もおり、また世界を知ったからこそ「このまま日本が何も知らず、国を閉ざし続けていたら大変だ」といった考えも、あったかも知れません。
日本へ戻りたい想いをウィリアム船長に、どのように伝えたかは記録に残っていませんが、強く引き留められたことは、容易に想像できます。日本へたどり着くこと自体が前途多難な上、入国できても罪人の立場になってしまうのです。
しかしジョン万次郎の決意は固く、彼はゴールドラッシュに湧くカリフォルニア州へ行くと、そこで働いて資金を貯めました。そして日本へ行くための小舟を手に入れ、まさに文字通りの『アドベンチャー号』と名付けました。
幕末の偉人との出会い
しかし、いくら航海技術に秀でていても、小舟で広大な太平洋の横断は無謀すぎます。まずはアドベンチャー号ごと、上海行きの大型船に乗り込みます。そして日本の近海に達したタイミングで、特別に降ろして貰いました。
大海原をたった1人の航海は、命の危険と隣り合わせの大冒険ですが、ジョン万次郎は当時の琉球王国へたどり着きます。そして地元の役所へ行くと、これまでの経緯を包み隠さず話しました。
その知らせは、琉球を影響下に置いていた島津家へと伝わり、彼の身柄は薩摩へと移送されます。このとき薩摩藩の当主は、名君と評価される事の多い島津斉彬(なりあきら)で、ジョン万次郎を罪人どころか丁重に迎えます。
そして居城へ招へいすると直々に面会し、海外の話を詳しく聞いたのでした。また家臣に命じてジョン万次郎の知識を学ばせ、藩内の造船技術などさまざまな分野に取り入れました。
薩摩藩はのちに多くの英雄を排出し、幕末の動乱で主役とも言える存在になります。その直前にジョン万次郎がもたらしたものは、間接的に大きな影響を与えたことが考えられます。
ペリー艦隊の来航
ジョン万次郎の話は江戸幕府にも伝わり、やがて長崎奉行が取り調べを行うべく、薩摩から移送されました。そこでは島津家とは違い、厳しい扱いもありました。多くの所持品を没収され、またキリシタンではないかを調べる、踏み絵も行われたと言います。
しかし一貫して逃げ隠れせず、堂々と名乗り出ていた態度もあってか釈放され、ついに土佐へ帰ることが許されたのです。もともと海で遭難した経緯から、彼はとうの昔に海の藻屑になったと思われており、故郷に戻ると自身のお墓も建てられていました。
そんな彼が生きて、しかも大冒険の末に戻って来た事実への驚きと感激は、どれほどのものであったか計り知れません。いずれにしても長らく離れていた、家族との再会を果たしたのでした。
また当時の土佐藩主は山内容堂(ようどう)という大名でしたが、彼も古い価値観に縛られない人物でした。ジョン万次郎を招へいすると、家臣に命じて海外での経験を聴き取らせ、書物にまとめました。その写本の1つは現在、高知県の坂本龍馬記念館に保管されています。
さて、ここまででも十分に波乱万丈の人生でしたが、時代はさらに風雲急を告げて行きます。このタイミングでペリー率いるアメリカ艦隊が来航、開国を要求して日本中が大騒ぎとなりました。ここからジョン万次郎の運命も大きく、動いていきます。
庶民からアメリカ人、そして幕臣へ
しばらくするとジョン万次郎のもとへ、徳川幕府の使者が訪れ「江戸へ来るように」と告げられます。1度目の黒船来航で幕府は明確な返答をせず、ペリーは再訪を告げて引き返していました。
今後、欧米列強への対応を探るため、ジョン万次郎の知見はこれ以上ないほど、貴重なものとなっていたのです。江戸へ赴くと彼は徳川家の家臣、それも必要であれば将軍への謁見も許される『旗本』として取り立てられます。
名前も故郷の地名にちなんで『中浜』という姓を授かり、ここにアメリカ人にしてサムライ『中浜万次郎』が誕生しました。彼は幕府の要人にさまざまな知見を話し、ペリー再来のときには通訳を務めることになりました。
ところが幕臣の中にはこれを快く思わない勢力もあり「アメリカのスパイではないか」「会談を操作し、相手に有利な方向へ運ぶに違いない」といった疑いがかけられ、降ろされてしまいます。
しかし結果として日本は不平等条約を結ばされ、その撤回には明治に至るまで、想像を絶する苦労を強いられることになります。ここで幕府が中浜万次郎を、通訳どころか会談の前面に立てて交渉すれば、歴史は大きく変わっていたかも知れません。
このように中浜万次郎にはさまざまな苦難がありましたが、おめでたい話もあり、江戸で剣術道場の娘と結婚し、のちに子どもも生まれました。
時代に求められた中浜万次郎
やがて中浜万次郎はアメリカへ渡る使節団の一員に、任命されます。このとき使われたのが咸臨丸(かんりんまる)という船で、黒船には及ばないものの当時の日本が、最新の技術を注ぎ込んで建造したものでした。
これは単なる使者の派遣に留まらず『日本は自力で太平洋を渡れる』という事実を証明する、挑戦でもありました。国家の威信に関わる重大事であり、何しろ相手国は来られても、こちらはたどり着けないとなれば、大前提の部分で肩を並べることができません。
また使節団のリーダーは勝海舟(かつ・かいしゅう)でしたが、船酔いに弱くてあまり指揮を取れず、実質は中浜万次郎が大きく支えていた面がありました。嵐に見舞われるなど危うい局面もありましたが、まさに長年の航海経験が活かされ、サンフランシスコへたどり着くことができました。
冒険スピリッツを好むアメリカらしく「日本人が太平洋を超えて来た」というニュースは評判となり、一行は大歓迎を受けたと言います。そして帰国後、中浜万次郎には幕府だけでなく、薩摩や土佐などさまざまな藩からお呼びがかかりました。
「航海術を教えて欲しい」「海外から船を購入する交渉をして欲しい」「学校の創設に関わって欲しい」などなど、各地で引く手あまたの人材となったのです。
国単位で残り続ける絆
それから時代が変わり明治となっても、中浜万次郎は求められ続けました。のちに東京大学となる学校の教授を任され、国を支える人材の育成に尽力します。またヨーロッパへの使節団にも任命され、その経由地として立ち寄ったアメリカで、大恩人にして養父のウィリアム船長とも再会を果たしています。
ウィリアム H. ホイットフィールド氏
双方ともその喜びは計り知れず、その後ウィリアム船長の子孫と中浜家は、現在にいたるまで交流を続けています。またウィリアム船長の家は日米の『交流記念館』となり、現在の上皇陛下と美智子様も訪問されています。
これほどの功績を重ねた中浜万次郎に対し、政治家への誘いもありましたが、本人はこれを辞退。教育者として後進を教えつつ、71才で亡くなるまで穏やかな晩年を過ごしたと伝わります。
このように彼の生涯は、物語の筋書きかと思えるほど波乱に満ちつつ、ハッピーエンドとも言える晩年を迎えたのでした。
ちなみに歴史的には幕末の戦いに参加はせず、一般的にそこまでメジャーな人物ではありません。しかし日本を動かした英雄や勢力に、大きな影響を与えました。何よりチャレンジ精神や志を貫く生き様など、今の私たちにも大切な学びを与えてくれる人物です。
現在、高知県内では“ジョン万次郎”を大河ドラマに推薦する活動も行われており、筆者としても彼が主役の大河を、いつか目にしてみたい想いです。
原田ゆきひろ
歴史・文化ライター
■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■ Yahoo!ニュース・エキスパート 第11回MVA(Most Valuable Article)銅賞
・ ・ ・