⚔38)─2・E─来日していた外国人の徳川家康評価。日本とメキシコの交流は徳川家康の1609年から。~No.164 

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 キリスト教の日本伝来とは、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による宗教侵略であった。
 歴史的事実として、日本人は哀れな被害者であった。
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 2023年2月6日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「当時、来日した外国人は「家康」をどう評価していたのか?
 「歴史人」こぼれ話・第33回
 濱田浩一郎
 実際に対面した2人の外国人による家康評
 駿府城(静岡県静岡市)に立つ、徳川家康像。家康が好んだ鷹狩の様子がモチーフ。
 戦国時代から江戸時代には、多くの外国人が来日していた。キリスト教の布教のため、商いのため、そして日本を武力で征服せんという野望を抱いた者も、やって来てきたと言われている。
 来日した宣教師の中で有名な人と言えば、イエズス会フランシスコ・ザビエルや『日本史』を著したルイス・フロイスなどだ。フロイスは、あの織田信長豊臣秀吉とも会見し、彼らの印象を記している。
 例えば、信長については朝早く起き、酒を好まず、健康的な生活を送っていたとのこと。声質は快調で、髭は少ない。性格は好戦的だが、正義感が強く、名誉心にも富んでいたとしている。普段は穏やかだが、時に激昂することもあったようで、他の武将・大名に対しても、軽蔑した態度を取り、人々は絶対君主に対するように信長に服従していたとする。この逸話などは、我々が持つ信長のイメージに近いものがある。
 では、秀吉はどうだったのか。秀吉の身長は低く、醜い容貌をしており、気品にも欠けていたとフロイスは指摘しているので、低評価と言えるだろう。一方で、フロイスが秀吉をここまで「口撃」するのは、秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止したからだという説もある。
 さて、では大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、外国人からどう見られていたのだろうか。スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ(1564〜1636)が執筆した書物『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、ビベロが駿府にて家康と面会した時の様子が記されている。慶長14年(1609)の出来事というから、関ヶ原の戦い(1600)から9年後のことだった。
 ビベロは家康のことを「皇帝」、その後継者で二代将軍・徳川秀忠のことを「太子」と記している。家康について、ビベロは60歳の中背の老人と書いている(家康は1543年生まれなので、実際は66歳)。そして、家康の容姿を「尊敬すべき愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色は黒くなく、また彼より肥満していた」と記している。
 これは、残された家康の肖像画を彷彿とさせるような一文だ。謁見の際、最敬礼するビベロに対し、当初、表情を変えなかった家康も、少し頭を下げ、好意的な微笑を示したという。
 家康は、外国人を政治・外交顧問として仕えさせたことで知られている。有名なところで言えば、イングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)だ。慶長5年(1600)に九州に漂着したアダムスは、大坂に送られ、家康と会見。その後、家康に信頼されて、相模国三浦郡逸見村(横須賀市)に知行地を与えられることになる。 通商を求めるイングランド国王ジェームズ1世の国書を持って来日したジョン・セーリスは、駿府城で家康と面会した(1613)。
 家康はアダムスやセーリスに、イギリス商館の設置場所などについて尋ねたという。ここからは、貿易にも関心を持つ家康の姿が垣間見える。信長や秀吉のように、強烈な「個性」が記されているわけではないが「尊敬すべき愉快な容貌」と、家康は外国人からも尊敬の眼差しで見られていたことが分かる。
 濱田浩一郎は
 歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。
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 日本とメキシコの交流400周年にあたって
 1609年の遭遇と2009年の回想-
 大垣貴志郎 京都外国語大学教授
 京都ラテンアメリカ研究所長
 1609年の遭遇
 日本と現在のメキシコ、この二つの国の歴史は古くからひとつに絡み合っていたように思われる。二つの国を隔てる広大な 海には激しい海流が流れ、その潮流に翻弄されて二つの国は出会い、建国史の違いや言葉の障壁を超越して両国は交流を始め た。
 日本とメキシコ(1521年に先住民のアステカ帝国エルナン・コルテスに征服されてからスペインの植民地となり、ヌエバエスパーニャNueva España(New Spain)副王領と呼ばれていたが1821年に独立する)の両国の遭遇は、サン・フェリペ・デ ・ヘスス(メキシコの聖人で1597年長崎西坂の丘で礫刑に処せられた26聖人の一人)の日本到着時と同じように、人々の熱意 だけでなく神の摂理、風と海流の力、数々の命運が重なって起こったとも言える。遭遇の背景には、1565年ごろからメキシコ のアカプルコ港とやはりスペイン領であったフィリピンのマニラ港を往来していたガレオン船の一隻が1609年、日本近海まで 航行してきたとき、悪天候にみまわれ正規の航路をはずれて日本の海岸に漂着した事件があった。
 江戸幕府開府以前から徳川家康は、早くからスペインと通商関係を結びたいと願っていた。そのため、1599年にはフィリピ ン・ルソン島総督に次の書簡をフランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘススを介して送っていた。
 「いつの日かスペインの商船が我が国に定期的に寄港するようになれば欣快至極であります」。これに対してフィリピン臨 時総督のロドリゴ・デ・ビベロ1 (ヌエバエスパーニャ副王領第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥の子)は1608年、家康 につぎの返書を送っている。
 「私がルソン島の総督として着任した時、貴殿がかねてより両国間に友好関係を構築したいとの希望を抱いていることを前 任者から聞いておりました。このたび、当地から日本に派遣する船の船長に私の親書を携行させますから、その者を然るべく 接遇されますように請願します」。
 この件についてメキシコ人歴史学者ミゲル・レオン・ポルティージャは、Diario de Chimalpahinというナワトル語(メキ シコ先住民に話されていた言語)で書かれた史料を部分的にスペイン語に訳している著作のなかで、「この手紙のやり取りは 、日本とメキシコの経済連携協定EPAは2005年締結)への最初の協議をしているようだ」と書いている2。
 そんな両国関係は思いがけない方向へと進んだ。一年後の1609年、次期総督と交代するため召還命令を受けたロドリゴ・デ ・ビベロは、三隻からなる船団の旗艦サンフランシスコ号に乗船していた。しかし、マニラを出帆してアカプルコに向う途中 この船は日本近海で難破し、現在の千葉県御宿町の海岸に漂着した。幸い乗組員は地元住民に救助され、373人のうち317人の 命が救われて千葉県の大多喜城に招かれた。この事件は現在考えても目をみはるような海難救助である3。ロドリゴ・デ・ビ ベロは、幕府の外国船到来に対する当時の政策から推察して一時は乗組員全員の死罪を覚悟していたが、上総大多喜藩本多忠 朝藩主の取り次ぎで将軍秀忠に拝謁する。その報告を受けた家康はすでに将軍職は秀忠に譲っていたものの実質的な権限を握 っていたので、ロドリゴ・デ・ビベロとその同行者たちを駿府まで招き歓待したにとどまらず、日本とスペインとの間で交易 をはじめる協議の機会とした。その内容は、メキシコから日本へ50人の水銀アマルガム精錬法に熟達した鉱山技士を派遣する ことを要請し、その見返りとして、日本で発掘された未精錬の銀の半分をメキシコに提供するという寛大な申し出であった。 当時はまだ、水銀アマルガム精錬法は実用化されていなかったが、メキシコやペルーではすでにこの効率的な精錬法は主流と なっていたからである。さらに、江戸でスペイン船籍の船舶を修理し燃料と食料補給のための寄港を許可すること。また、ス ペイン船は日本の港に白由に寄港することを認め、かつ、輸入関税免除で積荷を販売できること。日本国内ではスペイン人に 信教の自由を認め、国内でキリスト教の布教活動も容認すること。そのうえ国内でスペイン人が起訴され訴訟に持ち込まれた 場合の裁判権を保障すること(治外法権)。しかし、家康はロドリゴ・デ・ビベロと協議しているとき、唯一先方の提案を拒 絶したことがあった。オランダ人を日本から追放するという要求であった。その背景には周知のとおり、当時ヨーロッパでカ トリック教国スペインと対抗するプロテスタント教国のオランダやイギリス、フランスなどの存在が顕著で、それらの国は経 済的にも政治的にもスペインとヨーロッパの覇権をかけて競合していた事情があった。日本にとってオランダは交易相手国で キリスト教の布教を目的としない日本への接近策をとっていた。この国には幕府が鎖国政策をとったあとも、船舶の入港と長 崎の出島に限定して特定のオランダ人居留は許容されていた。かくして協議の末、家康とロドリゴ・デ・ビベロは二国間協定 締結に合意し、その協定書の写しはスペイン本国に異なったルートを使って送付された。結果的に協定書は、当時ヨーロッパ を席巻していたプロテスタント教国とカトリック教国の政治的な対立が激化していたことと、日本からの送付されてくる報告 書で知るスペイン各修道会の布教策をめぐる対立を憂慮してスペインはついに協定書を批准しなかった。同時に、日本との通 商活動はすでにフィリピン経由で維持していると判断したとも言える。当時のスペイン国王フェリペ三世は日本と協定を結ぶ 第一の目的は「極東の島国、日本でキリスト教カトリック教)を布教することだ」と述べていた。この説をとなえるのは、 メキシコ人歴史家のガブリエル・サイードである。幕府にとり、キリスト教は仏教と相容れない宗教だと判断していた。では マニラに滞在中から当時の日本の政策について最新情報を得られる立場にあったロドリゴ・デ・ビベロは、本国政府の意向と 異なりどのような理由で、あえて副王領の利益追求を優先しようと協定書を結ぼうと協議したのか、そんな疑問を投げかけた のはスペイン人歴史学者フアン・ヒルである4。植民地での主要な運営は宗主国が派遣する官僚(ペニンスラール)がその任 務を担当していた。その実態に抵抗して植民地生まれのスペイン人、クリオージョ(スペイン人の両親の子であるが出生地が 植民地であるとの理由で特権階級から除外されていた)は独自の経済運営を推進しようと画策していた背景があった。そのた めロドリゴ・デ・ビベロは日本と植民地メキシコとの直接交易を画策していたのかもしれない。1810年に始まるクリオージョ 階級が中核となったスペインから独立戦争では二つの階層の対立は峻烈極まった。こんな両者の確執を考慮すれば、本国の意 向と異なった政策をあえて画策したのかもしれない。さらに加えて、ロドリゴ・デ・ビベロが乗船していた旗艦と他の二隻が 日本近海で正規の航路をはずれて難破した原因は、本国から遅延してマニラに着任したフアン・デ・シルバ総督が任命した当 時70歳のファン・エスケラ艦隊司令官の航海技術に問題があったからだと本国政府の決定を批判している。その懸念はロドリ ゴ・デ・ビベロがすでにマニラ出航以前から抱いていたことまで報告書に記している。一方、旗艦の船長であったセビーコス は、ロドリゴ・デ・ビベロが主張していたスペインと日本が積極的に交易を開始すべきだとする根拠に同意せず、協定書締結 に消極的であったと独自の見解をロドリゴ・デ・ビベロと異なる書簡送付ルートで本国に報告していた。立場が異なると協定 書にまつわる判断も左右されていた。
 一方、家康は帰還する船を失くしたロドリゴ・デ・ビベロー行のためにアカプルコに戻る船の建造を準備させていた。マニ ラを出帆した同じ船団の他の僚船二隻のうちサン・アントニオ号は、航路を逸れずにアカプルコに直行し、サンタアナ号は豊 後(現在の大分県臼杵に漂着したが修理したあと自力で帰還している。一行のための新造船は、イギリス人ウィリアム・ア ダムスが日本で設計した二隻のうちの一隻であった。彼は1600年にオランダの東洋派遣艦隊の航海士としてオランダ船に乗り 合わせたがその船は豊後に漂着した。その後大坂でアダムスを引見した家康は彼の造船技術と知性を高く評価していた。これ にまつわるエピソードはいくつかの文学作品に描かれているが(ジェームズ・クラベル『将軍』など)、史実は小説よりもっ と複雑なようである。かくして、幕府に公認されて太平洋を初めて横断した日本船籍の船舶はブエナベントゥーラ号(スペイ ン語で幸運という意味)と命名され、イギリス人の設計で浦賀から出帆しアカプルコを目的港とした船であった。したたかな 家康は一隻の難破船の乗組員を救助した機会を巧みに利用してスペインと日本の直接貿易を企て、さらに一行の船には、当時 日本人が熟知していなかった太平洋航路を習得させるために船乗りと商人など日本人21人を乗船させている。その日本人一行 のなかに京都の町人田中勝介なるものが乗船していたが、『慶長年録』によれば田中は水銀を売買していた朱屋隆清と名乗る 人物と同一視する説もある5。朱屋とは水銀などを扱う商人をさした。太平洋航路を学びとろうとする船乗りや水銀技師から 成る「日本人調査隊」が、ロドリゴ・デ・ビベロとともに副王領のアカプルコ港に向けて派遣されたことになる。ロドリゴ・ デ・ビベロは遭難した翌年1610年にメキシコヘ到着した。協定書はついに締結されないままとなり、19世紀になるとメキシコ はスペインから独立を達成し、日本は明治時代をむかえることになった。
 ロドリゴ・デ・ビベロは副王領に帰還すると、その後は順調に官吏の道を昇進していった。また、遭難から帰国を待つ間に 日本国内を旅行し、日本と日本人の印象を綴った「日本見聞記」を出版した6。南蛮時代を物語る著作は多くあるが、この見 聞記は格別な位置を占めるかもしれない。というのは著者はスペイン人であるが(ロドリゴ・デ・ビベロ(1564-1636)はメキ シコ市で生まれてオリサバ市で亡くなったクリオージョ)、ルイス・フロイスのように日本に滞在していた宣教師のような教 会関係者ではなく、スペイン政府高官であった7。当然、宣教師とは異なる冷徹な視点で日本を観察したのだろう。スペイン の植民地であったメキシコと日本の通商航海協定締結を模索して日本の事情を西洋に伝える報告書を刊行したことになる。
 ロドリゴ・デ・ビベロの日本近海での海難事故は、さらに、1611年、副王領から徳川幕府に派遣された特派使節セバスティ アン・ビスカイーノの来訪へとつながった。一行はロドリゴ・デ・ビベロが副王領に帰還できたことへの謝辞を伝達する目的 であったとされているが、ビスカイーノが日本滞在中、日本領土の沿海を測量して不審な探索をしたことは、オランダなどか ら国際法違反であり偵察行為だと厳しい非難を招いた8。しかしながら、セバスティアン・ビスカイーノアカプルコから乗 船してきた船で日本へ帰国できたのは前述した田中勝介一行である。ところがビスカイーノが乗船してきた副王領で建造した 船は、日本到着のあと大破してしまったため、一行は仙台藩が月の浦港から1613年に支倉常長慶長遣欧使節を派遣したサンフ アン・バブティスタ号に便乗して帰還している9。こんな奇遇な歴史の連鎖が徳川幕府開府時期にあった。
 1841年の出来事
 人間の好奇心は大きな力を引き出すものだ。数々の苦難をのり越え海流の力を借りて、二つの国は1609年に結びついたとこ れまで述べてきた。300人以上の当時スペイン植民地であったメキシコ人乗組員を乗せた船は、日本近辺で難破したが日本人 に助けられた。その後、記録にこそとどめないが日本海や太平洋で予想外の航路を航海した船舶があったのかもしれない。 1609年から230年ほど経過した1841年に13人の日本人乗組員を乗せた日本の船が太平洋上で難破した記録がある。鎖国時代の 事件である。その和船は4ヶ月間太平洋上を漂流したあと、アカプルコに向かう一隻のスペイン海賊船エンサーヨ丸(スペイ ン人2人とフィリピン人20人が乗船)に救助されるが、この船上で日本人乗組員は約60日間にわたり奴隷のような労働を強要 されたあと、ついに、乗組員はメキシコ領バハ・カリフォルニア半島沿岸付近の海上で解放される出来事があった。13人のう ち7人はカボ・サンルーカスに、2人はサンホセ・デル・カボに、そして残り4人はグァイマスに漂着した。この日本船は神戸 港を出帆した永住丸(永寿丸もしくは栄寿丸との表記もある)である。岩手県宮古に寄港してそこで積荷の酒や砂糖、木綿を 商いしようとしていたのだが、13人は図らずも太平洋を横断してしまった。
 こんどは日本人が、独立国メキシコの領土で太平洋沿岸に面した港で救助され介護されたことになる。13人のうち4人はマ サトランに辿り着き、別の3人はメキシコからチリのバルパライソに向かった者もいた。一行のなかに不明者は1名いたが、 21歳の永住丸船長井上善助をはじめとする5人は、メキシコに2~3年滞在したあとフィリピン経由で1844年に日本に帰り着い ている。5人は帰国後、奉行所に引見され漂流記やメキシコでの滞在の模様と現地のメキシコ人との体験談を供述した10。そ こからさまざまな記録が生まれている。京都外国語大学付属図書館はこの事件に関する稀觀書の蒐集と関連書籍の蔵書数が 豊富であるため注目されているが、ここでは紙幅の制限からすべてを紹介できない。そのうち日本の絵師が乗組員の陳述する 報告をもとにした空想に富んだ色彩豊かな図像を和紙に描いた、1844年刊の出直之[筆]による「北亜墨利加図巻」は圧巻で ある11。こうして幸いにも今日、私たちは興味深い乗組員の経験した様子とその逸話を推しはかれる。永住丸船員の一人太 吉という者が語った「墨是可新話」は11編からなる逸話で、その一部はスペイン語に訳されている。これらの記録は250年間 の鎖国日本を研究するもう一つの資料ではないだろうか12。本年2月24日に、メキシコ合衆国下院議事堂内で日墨交流400周年 記念式典が挙行されたが、その機会に在メキシコ日本国大使館の要請を受けた本学付属図書館は、つぎの稀覯書を海外展示 した。出展したものは出直之筆『北亜墨利加図巻』天保15年(1844年)、『漂流人善助聞書』弘化2年頃(1845年)、靄湖漁曳撰 『海外異聞』嘉永7年(1854年)で、これらは報道メディアを通じて現地で大きな反響を呼んだことは記念式典に招かれた一人 として筆者は伝えておきたい13。
 1874年金星観測隊来日
 時代は明治に移った。明治7年(1874年)にメキシコ金星観測隊が横浜に来日している。当時の天文学では地球と太陽の距 離は正確に知られておらず、この年は太陽面を経過する金星を観測することでその距離を測定し、太陽系の規模も判明できる 重要な天体観測年であった14。そのため、イギリス、イタリア、フランス、ロシア、アメリカ合衆国などは最適の観測地をも とめて、日本各地に観測隊を派遣してきたのである。メキシコの天文学者フランシスコ・ディアス・コバルビアスを隊長とす る5人編成のメキシコ金星観測隊も、首都メキシコを発ちベラクルスハバナ、ニューヨーク、サンフランシスコを経由して、 太平洋を横断して横浜港に到着した。横浜郊外の二ヶ所に観測基地を設営した。外国人居留地内の「山手丘陵地基地」とディ アス・コバルビアスが居住した「野毛山基地」で、明治政府は観測隊に電信用回線の敷設などの便宜を供与したため、神戸と 長崎で観測していたアメリカ隊やフランス隊と通信連絡も可能であった。観測結果の成果はパリで1875年にいち早く発表し、 1876年にメキシコ国立天文台が創設されたと言われている。
 そのころのメキシコの歴史を簡潔にいえば、1876年からメキシコ革命が勃発する1910年までの長期間にわたって独裁制を しく軍人ポルフィリオ・ディアスがまもなく権力を掌握しようとする時期であった。15年間にわたるベニート・フアレス大統 領政権の時代のあとにセバスティアン・レルド・デ・テハダが大統領に就任した頃であった15。観測記録の刊行に引き続き、 翌年76年に観測隊長ディアス・コバルビアスは『メキシコ天体観測隊の日本訪問』をメキシコで出版する16。1978年にロペス ・ポルティージョ大統領が本学を訪問した機会に、大学付属図書館は当時でもメキシコで入手するのが困難であった原著の復 刻版500部を作成して、日本とメキシコ両国の関係機関や研究者に贈呈している。ノーベル賞顕彰記制作者ケルスティン・テ ィニ・ミウラ女史の手になった復刻版特別装丁本の一冊は大統領に贈呈された。また、同書の日本語翻訳本『ディアス・コバ ルビアス日本旅行記』は、欧米を代表する著名な人物、たとえば、ギメ、ゴンチャローフ、ホジソン、シュリーマン、グラン ト将軍など明治日本を訪問した著名人訪問記録叢書シリーズのなかで、ラテンアメリカからの来訪者としてデイアス・コバル ビアスが含まれたこともこの機会に記しておきたい。
 科学者として日本で天体観測し、明治日本の政治、社会、経済について意見を述べ、同著で将来メキシコが日本と外交・通 商関係を結ぶ可能性を示唆している。メキシコが独立を達成したあと、近代化政策の策定は専らヨーロッパ諸国を参考にして この国の外交政策に対し、今後はアジア諸国とも外交交渉を始めるべきだと訪日経験から主張している。この提言こそ、数年 後にメキシコが日本と国交樹立をめざして全方位外交政策を採りはじめる伏線となった。一方、横浜滞在中は体調をくずして 観測活動にほとんど従事できなかった観測隊記録担当係のフランシスコ・ブルネスは、日本の風俗習慣や東京近郊の街を散策 して、ディアス・コバルビアスと異なる視点から日本観察記を著述した『北半球一万一千レグアス歴訪の印象』を1875年に刊 行している。デイアス・コバルビアスより冷徹に、日本と日本人について論評している点は私たちの興味を引くところとなっ ている17。
 5人のメキシコ人観測隊員のなかに写真係りとしてアグスティン・バローソが来日していた。観測隊が日本に滞在中に明治 政府から通詞として派遣された屋須弘平は、そのとき写真技術を隊員から学ぶ機会に恵まれた。屋須は観測終了後も隊長の ディアス・コバルビアスに同行してパリ経由でメキシコに渡っている。ディアス・コバルビアスが帰国後グアテマラ公使に 任命されたとき屋須も随行して同国を訪れた。同氏と別れたあとはグアテマラの古都、アンティグア市でメキシコ人から学ん だ写真技術を駆使し同地に写真館を開業している18。現在でもアンティグア市を訪問すると歴史資料館で屋須弘平が撮影した 800点以上のガラス版写真原版が残されているので、筆者も同国を訪間したときに整理保存されている実物の原版を見る機会 があった。明治7年にメキシコ金星観測隊は日本を訪問したが、観測隊にまつわるこんな逸話もあり、屋須弘平はアンティグ ア市の貴重な歴史写真を撮影して現在に伝えるような貢献をした。
 1888年日墨修好通商航海条約締結
 日本とメキシコがまだ国交樹立をしていなかった1883年1月、在アメリカ合衆国日本国臨時公使高平小五郎と在アメリカ合 衆国メキシコ公使マティアス・ロメロはワシントンで日墨修好通商航海条約締結にむけて会談していた。それまで日本が列強 と締結していた条約では国際法上の一般原則を遵守するとともに、相手国政府は対日条約で優遇条項を強いていた。メキシコ 政府はこうした条項を要求しない日墨間の平等関係を前提としていたので、日本政府はそれまで列強と締結した不平等条約の 改正と、それを破棄する交渉過程で先例として役立つだろうと考えていた。メキシコにとっては対アジア外交政策の拡大を意 味し、それまでの欧米偏重外交政策を改善してポルフィリオ・ディアス大統領が外交政策を転換していく時期でもあった。同 条約の締結は日本の主権の行使そのものであった。時の外務大臣大隈重信である。5年におよぶ会談や交渉、決裂や再協議 をへて1888年11月30日、マティアス・ロメロ公使と陸奥宗光公使がワシントンで「墨西哥合衆国修好通商条約」(当時の日本 側資料による表記)を締結した。
 1892年にはメキシコ・シティに日本国領事館が開設され、一方、前年の1891年には横浜にメキシコ領事館が設置されて、 のちに東京に公使館が開設されている。第二次世界大戦終結し、1952年に現在の在日本メキシコ大使館が設置された19。
 2009年の回想
 日本とメキシコの国民が接触した経緯を語るには、19世紀の段階で日本は人口過密国と考えられていた狭隘な国であった ことも忘れてはならない。そのため海外への移民政策も推進され、メキシコヘは「榎本殖民団」が1897年に結成されて35名が グアテマラとの国境に近いチアパス州に派遣されている。入植者が現地の気象条件についての情報に疎く、移民の就労適応力 の不足、亜熱帯地域での農耕作業の経験不足などからこの移民政策は失敗した。この移民政策については多くの著作があるが 、このたび榎本殖民について日本語とスペイン語の二つの言語で、上野久著『メキシコ榎本殖民』を底本した漫画本が刊行さ れたのでより多くの人に榎本殖民について理解を促す機会が生まれるだろう20。榎本殖民団のなかには現地に留まった人と、 メキシコ各地に分散して二世や三世として活躍している人たちを確認できることはまさしく、日墨交渉史の一端を回想させる ようである21。同時に、メキシコに魅了されてこの国へやって来た日本人もいる。画家の北川民次、劇作家の佐野碩などはメ キシコでその分野の文化運動を展開した。ユカタン州メリダ市で活躍した黄熱病研究の先駆者、野口英世博士は学術分野で高 く評価されている。そのほか両国には音楽や文学、スポーツなどの交流、交換留学生協定も1972年に締結されている。2005年 に両国政府は新たな国際情勢と経済状況に対応するために日墨経済連携協定(EPA)を締結した。このようにして両国は地理的 条件、文化遺産、固有の資質を生かしこれまで出会いを重ねてきた。
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