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3月19日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「官の儒学・民の仏教」…日本固有の「学び」を生んだ「知られざる背景」
「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?
【写真】「官の儒学・民の仏教」…日本固有の「学び」を生んだ「知られざる背景」
昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。
2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。
※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。
古代日本での「学び」
すでに述べてきたように、日本人の歴史的な「読み書き」は中国漢字の学習と漢字から派生させた仮名文字の学習の併用によって進んできました。そのリテラシーを中心的に担ってきたのは貴族や僧侶や儒者たちと、宮中の女性たちです。和歌が日本的な「読み書き」を独特なスタイルで発展させていったのに対して、知識や学問の「読み書き」(リテラシー)は中国的な儒学・儒教と仏教の分野が受け持っていきました。
律令時代、すでに大学寮がありました(地方では国学といいます)。本科の明経道、律令を学ぶ明法道、歴史を学ぶ紀伝道、文章にとりくむ文章道などが、それぞれ博士・助教・直講らによって教えられていたのです。
本科の明経道は中国の経学を修める学科で、論語・春秋左氏伝・周易などを教えた。平安中期以降は中原氏と清原氏が教官を受け持ちました。紀伝道と文章道はごっちゃになることが多く、紀伝博士よりも菅原道真の菅原氏などが担当した文章博士のほうが力をもちました。あまりにも力をもちすぎたので道真は左遷もされます。明法道は坂上氏、中原氏が指導を独占しました。
これらはいずれも儒学にもとづいた科目で、ほぼ中国式の中身(カリキュラムとコンテンツ)です。日本には中国のような科挙(役人採用試験)はないのですが、大学や国学に学ぶ者からするとかなりどっぷり中国漬けにならないと、どのコースもまっとうできないと思えるものになっていました。
官の儒学・民の仏教
他方、古代日本では仏教寺院が大学的な教育機関を兼ねていたということがあります。奈良時代は南都六宗を担う大寺がこの役割をはたします。
三論宗や成実宗を学びたい者は元興寺や大安寺を、法相宗は興福寺や薬師寺の門を、華厳宗は東大寺を、律宗は唐招提寺を、倶舎宗は東大寺や興福寺の門を、それぞれくぐりました。こうした寺は今日の高校や大学みたいなものです。ただし門をくぐれば、当然、仏教を学び、仏法による世界観を叩きこまれ、経典から知識や文法を会得します。
その後、最澄と空海が登場して密教が勃興すると、天台の延暦寺(比叡山)と真言の教王護国寺(東寺)がクローズアップされてきて、それまで南都六宗に通っていた学生が転向して、密教寺院に「進学」する者もふえます。なかでも空海は綜芸種智院という私立学校を設立し、完全給食制での統合教育をめざしました。
儒学や仏教による教育は、その後もずっと継続されていくのですが、「官」の学校が儒学的なものとして継承されていくのに対して、「民」の学校は仏教各派に分かれていきました。とくに延暦寺が巨大な学術センター機能をもつようになると(いいかえれば今日の東大にあたるような権威をもつようになると)、そこで途中まで基礎を学んだ学生もドロップアウトして、独自の「学び」と「教え」に転じていきます。『往生要集』を書いた源信、『選択本願念仏集』の法然、『歎異抄』の親鸞がそういうドロップアウトの学僧で、その後は新たな教えに開眼したリーダーになっていった。
お寺は出家をするところです。だから仏教による「学び」は家族から離れることがつきもので、そこからは日本風の学習性が次々に派生します。しかし、そのようなプログラムはしだいに宗派の教義や宗旨を守ったり広めたりするほうに引っ張られ、日本人の学習の基礎にあたるものだとはみなされなくなっていきます。かくて近世になると、多くの学校や私塾は儒学的なものに覆われていくようになるのです。
さらに連載記事<「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。
松岡 正剛(編集者)
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