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安江仙弘:ユダヤ問題に翻弄された陸軍軍人の生涯
安江仙弘(やすえ のりひろ)は、1888年に秋田県で生まれ、大日本帝国陸軍の軍人としてその生涯を歩みました。陸軍士官学校を卒業後、シベリア出兵に従軍。この経験が、彼の人生を大きく左右する出来事の一つとなりました。シベリアで白衛軍の将校と接触する中で、反ユダヤ主義の古典『シオン賢者の議定書』の存在を知り、帰国後にその翻訳を手掛けました。
反ユダヤ主義から親ユダヤ主義へ
安江は当初、『シオン賢者の議定書』を真実と信じ、その内容を日本に紹介しましたが、1927年のパレスチナやヨーロッパへの視察で、観念的なユダヤ人理解が誤りであったことに気づきます。ユダヤ人への同情と理解を深める一方で、その危険性を論じるという、当時の陸軍の「ユダヤ通」に共通する特徴も持ち合わせていました。
1934年には、帝国在郷軍人会の依頼で『猶太の人々』を著し、ユダヤ人に対する多面的な見方を提示。ユダヤ人の中にも様々な種類が存在し、一概に危険視すべきではないと主張しました。この著書は、彼のユダヤ観の変化を示す重要な資料となっています。
満州国での活動
1935年、安江は満州国で「世界民族文化協会」を設立し、在満ユダヤ人の保護に尽力します。この活動は、関東軍が策定した対ユダヤ民族施策要領に基づいたもので、ユダヤ人資本の導入を目的としていました。安江は、この計画において重要な役割を担い、ユダヤ人難民の受け入れや保護に奔走しました。
河豚計画と呼ばれる、ユダヤ人を利用した満州への資本導入計画にも関与したとされますが、安江は、海軍の犬塚惟重とは異なり、ユダヤ人に対する利用論に終始することなく、彼らの保護に力を注ぎました。安江の働きかけにより、日本政府は「猶太人対策要綱」を策定。しかし、日独伊三国同盟締結後は、ユダヤ人を利用した対米世論改善策は論外となり、軍部にとって安江の存在は次第に目障りなものとなっていきました。
予備役編入と最期
1940年、安江は陸軍大佐として予備役に編入。陸軍を退いた後は南満州鉄道に移り、満鉄安江機関長として勤務しました。敗戦の日、国民党政府との和平工作を行っていた安江は、ソ連軍に逮捕され、ハバロフスク収容所で病死しました。
戦後の評価
安江の死後、彼のユダヤ人保護への尽力は、多くのユダヤ人から感謝されました。特に、満州に在住していたユダヤ人実業家ミハエル・コーガンは、安江の恩義を深く感じ、その葬儀を支援しました。また、かつて安江を嫌っていたユダヤ学者アブラハム・小辻も、安江がユダヤ人を助けたことを認めています。
安江仙弘は、反ユダヤ主義の古典を翻訳しながらも、ユダヤ人への同情と理解を示し、満州国では彼らの保護に尽力したという、複雑な側面を持つ人物です。彼の生涯は、当時の国際情勢や日本におけるユダヤ人問題に対する複雑な状況を反映していると言えるでしょう。
安江仙弘の主な著作
これらの著作は、安江のユダヤ観の変遷を理解する上で貴重な資料となっています。
安江仙弘が登場する作品
安江仙弘は、その複雑な人物像から、様々な創作物にも登場しています。
参考文献
これらの参考文献は、安江仙弘の研究において重要な役割を果たしています。
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安江仙弘大佐は、人道貢献をしたが戦争犯罪者としてシベリア抑留され死亡し靖国神社に祭神として祀られている。
現代日本のエセ保守やリベラル左派は、人道貢献した戦争犯罪者が祀られている靖国神社を否定し反対している。
反対する者は、敵対する相手をとことん調べて攻撃できる事柄を集めて敵を追い詰めるが、相手を利する事実は完膚無きまでに粉砕して歴史の闇に葬る。
現代に日本史は、左派(リベラル左派)右敗(エセ保守)の戦利得者が占領軍(GHQ)に媚びるように、「これぞ戦後民主主義教育による正しい日本の歴史」としてた改竄されたニセの歴史(日本人罪悪史観)である。
それ故に、戦前日本が行った人道貢献や平和貢献は「無かった」ものとして抹消されている。
それが、超難関校出の高学歴なエセ保守とリベラル左派による靖国神社反対の正体である。
日本人には、2割の善良な日本人と3割の悪い日本人と5割の中身の無い無機質で中性的な日本人が存在する。
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親ユダヤ派である昭和天皇は、ヒトラー、ナチス・ドイツとスターリン、ソ連、国際的共産主義勢力から逃げてきたヨーロッパ・ユダヤ人難民の救済を望んでいた。
その昭和天皇を暗殺しようとした日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストを支援したのは中国共産党である。
ヨーロッパ・ユダヤ人難民を保護したのは、東條英機や松岡洋右ら満州シンジケートと呼ばれた軍人・政治家・官僚・経済人達であった。
宗教的差別主義を説く一部のアメリカ・キリスト教会は、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていたキリスト教朝鮮人テロリストを支援し、イエス・キリストを殺したユダヤ人難民の受け入れ・救済に猛反対していた。
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アメリカ・ユダヤ人。ニューヨーク・ユダヤ人共同配給委員会。
2019-03-22
💖25)─1─上海ユダヤ人ゲットーとアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)。イェドヴァブネ事件。1940年〜No.105
2020-05-20
💖25)─2─アメリカ・ユダヤ人とセントルイス号事件。ブルメンソール元財務長官。〜No.106・
💖26)─1─上海ホロコースト未遂事件。日本陸軍と松岡洋右はゲシュタポのユダヤ人虐殺を阻止した。1942年〜No.107
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ユダヤ人難民を、助けた日本の天草丸事件と助けなかったアメリカ・カナダのセントルイス号事件。
2021年8月11日 WiLL Online「知られざるユダヤ人難民救済:安江仙弘大佐のシベリア抑留【長勢了治】
戦時下で多くのユダヤ人難民を救ったとして、樋口季一郎中将の業績を再評価する動きが高まっている。もちろん、このような動きは歓迎すべきものであるが、同じく多くのユダヤ人難民を救ったにもかかわらず、その業績はほとんど知られず、また最期も過酷なシベリア抑留の果てに迎えた日本人がいたことをご存じだろうか。その武人=安江仙弘大佐の功績と悲劇的なシベリア抑留について紹介する―
目次
樋口季一郎中将の再評価と顕彰
樋口中将は安江大佐に後事を託した
終戦時の樋口中将と安江大佐
安江大佐のシベリア抑留
過酷な収容所移動
悲惨な抑留生活
最期:そしてハバロフスクへ―
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済
安江仙弘大佐
via wikipedia
樋口季一郎中将の再評価と顕彰
このところ、樋口季一郎中将の業績を再評価する動きが高まっている。令和2年(2020年)9月には北海道の石狩市に「樋口季一郎記念館」が石造倉庫を改造して開設され、孫の樋口隆一氏が『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓~ ユダヤ難民と北海道を救った将軍』(勉誠出版)を同年4月に出版している。さらに、今年になって有志により「樋口季一郎中将顕彰会」が設立され、淡路島と北海道に銅像を建立するため募金活動が始まった。
樋口季一郎中将といえば、ハルビン特務機関長時代の昭和13年(1938年)3月にユダヤ人難民を救済したオトポール事件、北方軍司令官時代の昭和18年(1943年)7月の奇跡のキスカ島撤退作戦、第5方面軍司令官時代の昭和20年(1945年)8月の占守島の戦いなどで知られる名将である。
筆者は3年前に『知られざるシベリア抑留の悲劇~占守島の戦士たちはどこへ連れて行かれたのか』(芙蓉書房出版)で、占守島の戦いにおいて最前線で戦った戦士4000人が最北のマガダン収容所へ抑留された運命を描いた。ソ連軍が終戦後の8月17日深夜に占守島に侵攻してきたとき、樋口季一郎中将は第5方面軍司令官として「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命じたことで、日本軍は勇猛果敢に反撃し実質的には優位に戦いを進めた。樋口中将が命じた占守島の戦いがなければ、スターリンの野望である北海道の北半分占領も実行されたに違いない。
ところで、ユダヤ人難民救済ということでは忘れてならない重要な人物がもう一人いる。シベリア抑留中に非業の死を遂げた安江仙弘(のりひろ)大佐である。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済
評価の高まる樋口季一郎中将
via wikipedia
樋口中将は安江大佐に後事を託した
樋口季一郎と安江仙弘は陸軍士官学校第21期の同期生だった。同期生には石原莞爾もいた。樋口と石原は陸軍大学に進んだが、安江は陸大ではなく東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科に編入した。当時の軍隊は硬直した学歴階級社会で、天保銭組(陸軍大学校の課程を修了した将校のこと)の樋口と石原は中将になったが、安江は大佐止まりだった。
少将であった樋口がハルビン特務機関長として赴任したのは昭和12年(1937年)8月である。翌年(1938年)3月、満洲との国境の街、オトポール(現ザバイカリスク)にナチスドイツの迫害を逃れてきた多数のユダヤ人難民が足止めされていた。満洲国外交部が入国を拒否したからだ。樋口少将は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ドイツはユダヤ人救済に抗議したが、樋口少将の上司だった東条英機関東軍参謀長は「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴したという。
樋口少将はオトポール事件後の8月には参謀本部第2部長に転任して現場から離れるが、満州にはユダヤ人問題専門家の安江仙弘中佐が大連特務機関長として同年1月には赴任していた。樋口自身は『アッツキスカ軍司令官の回想録』でこう述べている。
《この事[オトポール事件]があって以後、ユダヤ人に関する問題が逐次重大性を帯びて来た。そこで、私の同期であり、古くからのユダヤ問題研究家でありパレスタイン※にもいたことのある安江仙弘中佐を大連特務機関長として、その仕事に従わせるよう上司に進言した》
※パレスチナの英語名
樋口は、自分が手掛けたユダヤ人救済は盟友の安江大佐に後事を託したのだ。
安江仙弘はシベリア出兵を契機にユダヤ人問題を研究し、『シオン賢者の議定書』を翻訳したり、『猶太の人々』を執筆するなど、陸軍きってのユダヤ通だった。
吉田俊雄によれば、出兵中はロシア語ができることから白系ロシア軍との連絡将校を勤め、アタマン・セミョーノフについて戦場を疾駆して肝胆相照らすまでになった(吉田俊雄「ユダヤ人と特務機関長」文芸春秋昭和38年12月号)。安江が抑留中にモスクワでのセミョーノフの裁判に証人として出廷したのはそういう関係だったからだろう。
オトポール事件のあともユダヤ人難民が満洲に押し寄せたが、安江大佐はビザを発給させ天津や上海へ通過させた。ユダヤ人を他の外国人と同様に扱う「ユダヤ人対策要領」を板垣征四郎陸相に進言したのも安江だった。
樋口と安江が協働した人道的な尽力で約2万人のユダヤ人難民が救出されたとされる。「ヒグチ・ルート」が開設された昭和13年3月から独ソ戦が勃発した昭和16年(1941年)6月までの3年余りの間にである。ただ2万人説について、早坂隆は仔細に検討したうえで確かな論拠はないとしている(早坂隆『指揮官の決断』)。
多数のユダヤ人難民を救った樋口季一郎と安江仙弘はユダヤ社会における最高の栄誉とされる「ゴールデンブック」に記されている。ゴールデンブックとはエルサレムの丘に建つ黄金の碑のことである。早坂隆が現地で確認したところ、確かに2人の名前が刻まれていた。日付は1941年7月14日で、満州におけるユダヤ人救済が停止した直後に当たる。ゴールデンブックはユダヤ民族基金(JNF)が献金を募り、その献金者の栄誉を称えるために記帳した「献金記帳簿」だとされる。JNFの職員によれば、極東ユダヤ人協会がユダヤ人の救出や保護に功労のあった2人の名前で献金したのだろうという(早坂隆、前掲書)。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済
樋口中将と安江大佐の名前が記載されているという「ゴールデンブック」
via www.kkl-jnf.org
終戦時の樋口中将と安江大佐
昭和15年(1940年)9月27日、日独伊三国同盟が締結された。その翌日、安江大佐は大連特務機関長を解任され、予備役に編入された。三国同盟の時代、軍部にとって親ユダヤの安江は邪魔だということだろう。民間人となった安江は満鉄から活動費を提供されて私設安江機関を設立し活動した。
そして終戦の8月末、安江仙弘は進駐したソ連軍に拘束され、「戦犯」容疑者としてシベリアへ送られ、約5年抑留されて昭和25年(1950年)7月に獄死する。民間人であっても元特務機関長だったら「戦犯」として断罪するのがソ連である。
一方、樋口季一郎は前述したように、終戦時、占守島の戦いを指令して北海道を護ったが、ソ連は樋口を東京裁判で「戦犯」として裁こうとした。しかし、マッカーサーはそれを拒否した。ユダヤ人が立ち上がり世界ユダヤ協会が反対したからだとも、英軍高官が反対したからだともいわれている。
重要なことはソ連という共産主義国家が、ユダヤ人難民を救った日本軍人を2人とも「戦犯」として裁こうとした事実である。
安江大佐のシベリア抑留
安江仙弘は抑留地ハバロフスクで病死したので、当然ながら抑留体験について記録を残していない。そのためどのような抑留生活を送ったのか、知られていない。
本稿では安江の身近にいた抑留者の貴重な手記をもとに安江の抑留地を追い、抑留体験を再現してみたい。
安江仙弘の長男、弘夫は著書『大連特務機関と幻のユダヤ国家』で終戦後の安江の消息について書き残している。大連にいた安江は終戦の日、弘夫に「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ。俺はその責任を取る。ソ連軍が入って来たら拘束されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」と語った。その後の自身の運命を予期した覚悟の言葉だ。
ソ連軍が大連に進駐してきた8月23日の数日後、安江はソ連軍に拘束された。おそらく悪名高いスメルシュ(防諜特別管理局)が拘束したのだろう。安江は奉天で取調べを受けていた。安江自身は25年の刑だといっていたというが、昭和20年10月という早い時期に判決が出ていたとは考えにくい。それはともかく、安江は昭和20年11月15日に奉天を出発してハルビン、チタ、カザルマンカ、カメノゴルフスク、チヤマ、ハバロフスク(表記はいずれも原文のママ)と移動したとされる。
引揚者が伝えたところでは、安江はハバロフスク収容所で昭和25年の夏に脳溢血で亡くなった。抑留当初で57歳だから、当時の感覚ではすでに老人である。ソ連は、佐官であり高齢だった安江に強制労働は課さなかったはずだが、それでも57歳の老人にとって5年の抑留生活は苛酷なものだったろう。遺族は死亡日時が定かでないため8月15日を命日と定めたという。実は村山常雄が作成したシベリア抑留死亡者名簿には昭和25年7月13日に死亡と記録されているから、正しい命日は7月13日である。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済
安江大佐の墓
※安江弘夫氏『大連特務機関と幻のユダヤ国家』より抜粋
via 著者提供
過酷な収容所移動
奉天には安江ら「戦犯」容疑者だけが集められた集団500人(以下、「奉天組」)がいた。ソ連が「戦犯」容疑者とみなしたのは、将官・将校、憲兵、特務機関員、警察官、司法関係者、行政幹部、満洲国協和会関係者、民間会社の役員などの「前職者」である。安江は大連特務機関長だったから第一級の「戦犯」容疑者だ。
第44軍参謀の梅里助就(すけなり)中佐も奉天組の一人で、陸士、陸大卒である。梅里は、安江がハバロフスクで死亡する5ヵ月前までほぼ同じ抑留経路をたどって貴重な体験記『ソ連抑留回想~両脚を砕かれて十一年』を残した人物である。梅里によると、11月に奉天を発って中継地チタで10日ほど過ごしたあと、カレリノ駅で下車し最初の抑留地コソルマンカ(日本人の通称、カサルマンカ)に着いたのは12月26日だった。
コソルマンカはロシア中部ウラル地方の中心都市、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルグ)の北210キロに位置する小集落である。スヴェルドロフスクはハバロフスクから4,800キロも離れており、むしろモスクワまで1,400キロと欧露に近く、皇帝ニコライ2世一家が惨殺された場所としても知られる。
一方、新京で編成された別の「戦犯」容疑者集団500人(以下、「新京組」)もチタに移送されている。満洲国協和会職員だった香川文雄もスメルシュに逮捕されスパイ容疑をかけられた一人だった(香川文雄『北槎記略』)。この新京組も同じ時期にチタを経由してコソルマンカに到着した。奉天組と合わせて1,000人の特異な「戦犯」容疑者集団がこのあとヴェルホトゥーリエ、ウスチ・カメノゴルスクへと移動する。実はこのコソルマンカとヴェルホトゥーリエはともにソ連の捕虜収容所リストにも入っていない収容所で、従って収容地区番号も付されていない、いわば番外の収容所とみられる。
梅里ら奉天組はコソルマンカで荒れ果てたバラックに入れられた。食事は黒パン350グラムと粟の粥(カーシャ)一杯で、作業は収容所の整備だった。
年が明けて昭和21年1月18日、コソルマンカの北東20キロにある古い都市、ヴェルホトゥーリエへ移動した。約300人の白系ロシア人が先着していたが、彼らが収容所では主導権を握った。同じロシア人であることとロシア語ができることで当局に取り入ったわけだが、所詮彼らも祖国の裏切り者としてのちに断罪される運命だった。
作業は貨車の積み下ろし、薪割り、道路・線路の除雪などだった。厳冬期だったからマイナス50度での作業もあった。かつて体験したことのない寒さである。
同年3月28日、梅里ら奉天組は白系ロシア人と別れて貨車で東南に向かい、約10日後にカザフ共和国(現カザフスタン共和国)のウスチ・カメノゴルスクに着いた。新京組の500人が先着していた。ここはスヴェルドロフスクから東南に直線で1,600キロ以上離れていた。
ウスチ・カメノゴルスク(現オスケメン)はイルティシュ川の右岸にある。イルティシュ川はモンゴル・アルタイ山脈に発し、大河オビ河に合流する支流だが、支流ながらオビ河よりも長い河川だった。水陸の交通の要衝であり、巨大な水力発電所がある。中央アジアながら北緯45度と高緯度なので極寒地帯である。
奉天組と新京組を合わせて1000人の「戦犯」容疑者集団は一般捕虜とは区別され、ロシア語ではスペツ・コンチンゲント(特殊人員)と呼ばれた。ここには第45収容地区があり、「戦犯」1,000人は第4支部に収容された。第4支部にはドイツ人捕虜も400人いて別の大隊を組織しており国際収容所だった。住居は半地下小屋(ゼムリャンカ)だった。
香川によると、主な作業は「第10亜鉛工場」建設工事で、そのほか住宅建設や農場などの作業に駆り出された。ここは周辺の鉱山で採掘された亜鉛の精錬・加工の中心地だった。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済
抑留生活は悲惨なものであった―
※写真はシベリアからの帰還兵
via wikipedia
悲惨な抑留生活
梅里は6月になって木材の揚陸作業に出るが、そこで材木が落下して両股を骨折する事故に遭う。命に別状はなかったが両大腿の骨折である。町の病院に運ばれ美人の若い外科医の診断を受けたが、ちょっと触ってみるだけでレントゲンすら撮らなかった。しかも治療は、両足を牽引しただけでそのままギプスで脚、腰、腹を固定するものだった。
帰国したあと知ったのだが、大腿骨折の場合、折れた骨の両部分をかすがいで固定するか、キュンチャーといわれる髄内釘を骨髄内に通して固定しないと骨折部分から曲ってしまい骨折面の癒合もしないのである。ソ連の女医にはその程度の医療知識さえなかったのだ。
お粗末な「治療」の結果は梅里に苛酷な運命を強いるものだった。
《約五年間はベッドの上で仰臥のまま他人に両便の始末を御願いし乍ら、而も其の間にソ連の一方的裁判によって、戦犯として二十年の刑に処せられ(実際は二十年は居なかったが)、あとの5年間は辛うじて松葉杖にすがり、骨折したままの両脚を引きずり乍ら、ただでさえ不自由かつ困難な監獄或いは囚人ラーゲルを転々として、言語に絶する苦難に耐えぬかなければならない事になった》
シベリアでも最も苛酷で屈辱的な抑留生活といえよう。
梅里ら病弱者のみ500人は同年9月8日、ウズベク共和国(現ウズベキスタン共和国)のアンディジャン第26収容地区へ送られた。この病弱者に安江仙弘も含まれたから、すでにこのころから安江は病人か衰弱者だったのだろう。香川によると、残留した500人は翌昭和22年8月、カラガンダ第99収容地区へ転送され苛酷な炭鉱労働に従事するとともに「戦犯」として厳しい取調べを受けることになる。
アンディジャンはウスチ・カメノゴルスクの南西1,300キロに位置する。北緯40度と南なので気候は温暖で冬夏の寒暖差も小さい。アンディジャンから北東約30キロのところにチュアマ保養収容所があった。ロシア文学者昇曙夢(のぼる しょむ)の『留守家族』に収められた子息、隆一の手記によれば、昭和21年8月末に着いたときチュアマにはドイツ人と日本人の捕虜がそれぞれ300人いた。昇隆一らの一行90人はヴォロシーロフ監獄から移送されてきた「戦犯」容疑者で、捕虜とは隔離されて収容されたから、チュアマは保養収容所であると同時に「戦犯」収容所でもあったわけである。
昇隆一によると、梅里のような重病人を除いて、作業は軽作業で炊事、靴編み(ビニールのような食物繊維を使用)、棉つみ、農耕、灌漑修理などだった。
長勢了治:知られざるユダヤ人難民救済
当時の収容所の再現模型
※舞鶴引揚記念館 所蔵
via youtube
梅里らは昭和22年5月12日、ウズベク共和国のフェルガナ第387収容地区へ移動した。フェルガナはアンディジャンの南西64キロにある肥沃なオアシス農耕地帯である。1939~40年にシルダリア川の南をほぼ並行して流れるフェルガナ大運河(全長350キロ)が建設されたことで綿花や果物(ブドウ、スイカなど)や絹が増産された。
梅里と同じく、ウスチ・カメノゴルスクとチュアマを経てフェルガナに来た薬袋(みない)宗直は「アルコール工場」で働いたと記している(薬袋宗直「私の西遊記」朔北会『朔北の道草』)。アルコールとは特産の綿の実から抽出した綿実油(めんじつゆ)のこと。一期工場は稼働中で、日本人は二期工場の建設をやらされた。
梅里は骨折の手術のため一時、さらに73キロ西にあるコーカンド第3670特別病院に移されたものの手術は行われずにまたフェルガナへ戻され、「戦犯」容疑者一行は昭和23年10月にハバロフスクへ移送される。
最期:そしてハバロフスクへ―
ハバロフスクはシベリア抑留の中心的な都市である。シベリア「民主運動」を領導した宣伝紙「日本新聞」を発行した日本新聞社があった。「戦犯」収容所があり、731部隊を裁いたハバロフスク裁判の開催地だった。
梅里は昭和23年10月、フェルガナ第387収容地区からハバロフスク第16収容地区第7支部へ転送された。ここでは安江老大佐と同じ病室に入れられたと記している。ハバロフスクはシベリア「民主運動」のメッカだったから、「戦犯」容疑者だった2人は早速吊し上げの標的にされた。歩けない梅里とほぼ寝たきりの安江でも容赦なく毎日やって来て悪口雑言を浴びせるのだ。「民主運動」なるものの酷薄さ、非情さを示す例である。
梅里は安江大佐についてこう記している。
《私の隣に寝ている安江さんは、ユダヤ問題研究の権威で、終戦前、四王天(しおうでん)延孝中将と共にその双璧と言われた人であった。然し此の二人は全く其の研究の立場を異にし、四王天中将がユダヤ禍と唱えたのに対して、安江さんはユダヤ人救済の立場からの研究であり、又その立場から数々の業績を挙げているのである。その該博な知識と高邁な見識は正に日本の至宝的存在であったし、またユダヤ人のゴールデンブックに日本人としてただ一人(ママ)其の氏名が記載されていると言われる》
梅里は安江仙弘を「ユダヤ問題研究の権威」で「日本の至宝的存在」と称揚している。残念ながら、梅里は「ほぼ寝たきり」と記すのみで安江の具体的な病状について触れていないが、脳溢血で死亡したと伝えられるから、すでに半身不随だったのかもしれない。高齢の受刑者には高血圧で苦しむ人が多かったと伝えられている。
梅里はこの支部にいたときソ連の良心的な医者に勧められて松葉杖による歩行訓練を始めている。昭和24年2月、梅里は第7支部から第16支部へ移動させられたので安江とは別れ、二度と会う機会はなかった。
梅里助就は昭和24年9月、刑法第58条第6項(スパイ行為)で不当な20年の判決を受けた。昭和24年は「戦犯」の判決が集中した年なので、おそらく安江もこの時期に有罪宣告されたのではないか。梅里は無実の罪で長い苦難の受刑生活を送ったあと昭和31年8月19日に生還した。
寝たきりだった安江仙弘は、一般抑留者がすべて帰国したあとの昭和25年7月13日、ハバロフスク第16収容地区第21支部で獄死し、ついに生還は果たせなかった。
多数のユダヤ人難民を救い、評価が高まり始めた樋口季一郎中将。そして、同様の功績を挙げながら過酷な抑留生活を送り、シベリアで非業の死を遂げた安江仙弘大佐。今こそ私たちは安江仙弘大佐の業績を再評価し、顕彰する必要があるのではないだろうか。
※文中敬称略
長勢了治(ながせ りょうじ)
1949年、北海道美瑛町生まれ。北海道大学法学部卒業後、三菱ガス化学入社。退職後、ロシア極東大学函館校でロシア語を学ぶ。以後、シベリア抑留問題を研究。著書に『シベリア抑留全史』(原書房、2013年)、『シベリア抑留』(新潮選書、2015年)、『シベリア抑留関係資料集成』(富田武氏との共編、みすず書房、2017年)など。
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知られざるユダヤ人難民救済:安江仙弘大佐のシベリア抑留 ...
https://web-willmagazine.com>社会/歴史
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安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1950年〈昭和25年〉8月14日)は、日本陸軍の軍人。陸士21期。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。
経歴
シベリア出兵に従軍
旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として現在の秋田県秋田市中通4丁目で生まれた。安江が生まれた家は、平田篤胤の生家であった。
京華中学校、陸軍中央幼年学校予科(のちの東京陸軍幼年学校)、陸軍中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾(陸軍中将)、樋口季一郎(陸軍中将)がいる)を卒業し、陸軍歩兵将校となった。
1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。1924年、包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本の中で初めてこの本の全文を日本に紹介した。忠君愛国の精神で育った安江らにとって、ロシアの君主制の短期間の崩壊は驚愕であり、それを「合理的に」説明する理由が必要だったのである。既に『シオン賢者の議定書』については偽書説が出ていたが、このときは検討を加えた上で、真物であることは疑いの余地がないとしている。
ユダヤ問題への関心
反ユダヤ研究によって、安江は陸軍からユダヤ問題の専門家と認められ、1927年陸軍の命で、酒井勝軍を英語通訳として伴い、パレスチナやエジプトから欧州を視察したが、このとき反ユダヤ文書による観念的なユダヤ人理解の誤りを悟った。酒井勝軍は「ユダヤ問題座談会」で、「包荒子はパレスチナを見てから思想に変化を生じ、『世界革命之裏面』の如き書物はもう古くてだめだと言い漏らした」としている。元々愛国心の強かった安江は、亡国のユダヤ流民の惨状に同情し、急速に親ユダヤ的傾向が強まる。ユダヤ人に対して友好的態度がありながら一方でユダヤ人の危険性を論じるのは、当時の陸軍の「ユダヤ通」に広く見られる特徴であった。
帝国在郷軍人会本部の依頼で書かれた『猶太の人々』(1934)の結論には、帰国後の安江のユダヤ観がこう披瀝されている。「猶太人の一人々々を観れば、数千萬の猶太人が一人残らず、革命運動に参画して居るのでもなく、又皆一様に大財閥である訳でもない。多くの猶太人の中には、之を分類すると色々の種類がある。例へば、繪で見る基督のやうな、昔ながらの服装をして、『猶太の泣壁』に朝夕集り、救世主の降臨を祈り、全く現代とかけ離れて、猶太教のみに没頭して居る宗教的猶太人がある。又一方にシオニストとして、パーレスタインの猶太國建設のみに熱中して居る猶太人があるかと思へば、又他方には國境を超越して、世界を舞臺として活躍するインターナシヨナルな猶太人もある。更にシオニズムによつて一般に覚醒されたとはいひながら、シオン運動には無関心に自己の商売のみに熱中している猶太人もある。即ち猶太人であるからといふて、誰も彼も危険視すべきではない。我が國に取つて有害な人物もあれば、無害な善良な人もある」。
満州国とユダヤ人対策
1935年2月、ハルビンで極東ユダヤ人会議の議長カウフマン博士及び幹部たちとの協議の結果、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として「世界民族文化協会」を創立し、医学博士の磯部検三を顧問とし、また自ら会長となって、安江は、在満ユダヤ人の保護に尽力し、また回教徒や白系ロシア人にも助力した。
要綱内容の下敷きになったのは、1938年(昭和13年)1月21日付で関東軍司令部で策定された「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」であり、そこには「満州国開発に際し外資導入に専念するの余り、猶太資金を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑制す」とあるように、経済界には投資のうま味があることをほのめかし、軍部には米国資本が投入されれば対米関係の打破にもなることを匂わせ、政府を説得するために、「八紘一宇の我大精神」という錦の御旗を掲げる玉虫色の「要領」だった。
河豚計画を海軍の犬塚惟重と共に構想したことから、安江は犬塚と並べて理解されることが多いが、犬塚と安江を同列に論じることはできないともいわれる。秦郁彦は犬塚のユダヤ人論も安江と同様な形で変わっていったとする[2]ものの、犬塚は、1938年10月の講演で、「猶太人ノ咽喉ヲ扼シ徹底的ニ之ヲ圧服スルヲ要ス即チ日本側カ厳然実力ヲ振ヒ得ル今日確固タル自身ト強烈ナル意気込トヲ以テ彼等ヲ牽制圧服シ我國ニ依存スルノ必須ナル所以ヲ了解セシメ他面其馴致工作ヲ実施スルヲ適当トス」と述べる等、少なくとも公に語るときは一方的なユダヤ利用論者であった。
戦前の日本政府の最高意思決定機関であった五相会議で、「猶太人対策要綱」が策定されたのも、安江が当時の陸軍大臣・板垣征四郎に働きかけがあったためである。この要綱の成立過程に関する安江の役割については、これまで長男・弘夫の証言だけで資料的裏付けがなかったが、関根真保が京都大学に提出した学位請求論文の公開『日本占領下の上海ユダヤ人ゲットー』(2010)のなかで、「満鉄外國経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27日)という資料のなかに、満鉄側のメモ「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」という記述を発見したことが報告され[7]、この資料のなかに「猶太人対策要綱」の内容が網羅されていることから、安江弘夫の証言の正しさが立証された。
犬塚・安江らの働きかけで決定された「猶太人対策要綱」には、「猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値のあるものはこの限りにあらず」とあり、功利主義的な面ばかりから論じられているが、犬塚・安江の二人を比べたとき、歴史家の秦郁彦は犬塚は利用論の理由付けが露骨すぎたと評している[2]。日独伊三国軍事同盟が締結され、続いて日本が対米英戦(太平洋戦争)に突入すると、ユダヤ人を利用した満州への資本導入や対米世論の改善策が論外となり、軍部にとって次第に安江の存在は目障りになり、憲兵隊の尾行がつくようになった[8]。日本政府は要綱の裏で1938年10月7日の外務大臣訓令『猶太避難民ノ入国ニ関スル件』(米三機密合1447号)によりユダヤ難民の受け入れ制限を実施していた。
予備役編入と最期
1940年12月、陸軍大佐として大連特務機関長を務めていた安江は予備役に編入された。 軍中央部の方針と安江の意見が合わず、陸相・東条英機によって予備役に編入されたという説もある。しかし安江が陸軍大学校を卒業していない「無天組」であったことを考慮すると、陸軍大佐での予備役編入は通常の人事である。なお安江と陸士21期の同期生であり、陸大を卒業した「天保銭組」である石原莞爾と樋口季一郎は、この時点で共に陸軍中将に進級していた。
陸軍を退いた安江は南満州鉄道に移り、1941年1月に満鉄安江機関長に就任し、1945年8月の敗戦で満州国と満鉄が消滅するまでその任にあった。
安江が手がけた最後の仕事は、中国国民党政府への和平工作であり、敗戦の日の8月15日、国民党政府高官から「話合いに応じる」旨返書があった。安江は、長男・弘夫を書斎に呼び、「おれがこれだけの事をやったということをお前だけでも覚えておいてくれ」と述べ[9]、「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ。俺はその責任を取る。ソ連が入って来たら拘引されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」と言い残した。
安江は1945年8月23日に大連でソ連軍に逮捕され、1950年8月14日にハバロフスク収容所で病死した。満62歳没。
戦後
戦後、日本でゲームのソフトや機器の会社「タイトー」を創立したロシア系ユダヤ人、ミハエル・コーガンは、戦前満州に在住していた時代にユダヤ人保護のために奔走した安江に深い恩義を感じていた。コーガンは安江がハバロフスクの捕虜収容所で亡くなった後も葬儀が挙げられていないことを憂慮し、1954年、「在日ユダヤ協会で一切の費用を持つから好きなようにやって下さい」 と申し出ている。
『シオン賢者の議定書』の翻訳を根に持ち安江を嫌っていたユダヤ学者、アブラハム・小辻でさえ、その回想録『東京からエルサレムへ』(1975)において、「大連特務機関は、安江大佐によって率いられていた。満州の事業に親しみを寄せるユダヤ人たちは、安江に恩義を感じ、実際安江が多くの点でユダヤ人を助力したのはまったくの真実である」[13] と認めている。
安江の葬儀には、イスラエル公使やユダヤ人協会会長も出席し、在満時代のユダヤ人保護への尽力に謝意を示した。満州ユダヤ人社会の指導者であったアブラハム・カウフマン博士は、安江に信頼を寄せ、その回想録『キャンプの医師』(Camp Doctor[14], 1973)には、敗戦後同じくシベリアの強制収容所に捕らわれていた日本の軍民に同情の念はあっても、日本人への怨嗟の言葉一つなかった。そのため、カウフマンは、ユダヤ人社会から「対日協力者」のレッテルが貼られ疎外されたが、それも意に介さなかった。
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