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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
樋口ルートは、日本陸軍ルートであり、A級戦犯の東條英機と松岡洋右が関与していた。
靖国神社には、ユダヤ人難民を助けた多くの陸軍軍人が軍神として祀られている。
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日本軍は、戦場で戦争犯罪をおこなったが、同時に人道貢献や平和貢献もしてた、それが靖国神社である。
靖国神社を戦争犯罪美化施設として否定する、日本のエセ保守やリベラル左派、中国・韓国・北朝鮮そしてアメリカ。
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2025-01-09
💖目次)─8─近代天皇・A級戦犯・靖国神社による人類的歴史的人道貢献。皇室外交。~No.1 *
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2025年14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「満州でユダヤ人難民を救った日本陸軍のエリート軍人【樋口季一郎】は何をしたのか⁉─太平洋の戦火で命を救った日本人たち─
樋口の遺光を現在に伝える北海道石狩市「樋口季一郎記念館」
■満州に取り残されたユダヤ人たちを救った日本人
6千人のユダヤ難民を救った杉原千畝が話題になった後に、「もう1人の杉原」と呼ばれるようになった人物が、旧日本陸軍の軍人・樋口季一郎(ひぐちきいちろう)であった。季一郎は「杉原ビザ」に先立つこと2年前の昭和13年(1938)3月、ナチスの迫害から満洲国に逃れた2万人(異説あり)ものユダヤ人を「私の一存で救う」として、ハルビンで受け入れて脱出ルートを開いた稀有な日本軍人である。さらに季一郎の功績がある。終戦末期から終戦後に及んだソ連との北海道を守る戦いで、ソ連軍を退けた英雄でもあった。もう1つ、季一郎はアリューシャン列島にあるアッツ島の守備軍玉砕(全滅)時の司令官でもあった。
樋口季一郎は、明治21年(1888)8月20日、淡路島の南端にある小さな漁村・阿万村(現兵庫県南あわじ市)で生まれた。本名を奥濱(おくはま)季一郎という。後に父方の叔父に当たる樋口勇次の養子となって樋口姓を名乗る。地元の尋常小学校から三原尋常高等小学校に進み、陸軍士官生を目指して大阪陸軍地方幼年学校、さらに中央幼年学校(後の士官学校予科)へと進んだ。同期生に、後に満洲国建設などで知られることになる石原莞爾(いしはらかんじ)がいて、友情を育んでいく。
陸軍士官学校では、ドイツ語・フランス語・中国語・ロシア語・英語などを学んだ。明治42年、22歳で士官学校を卒業した季一郎は、陸軍大学校に入るなど着々とエリート軍人の道を歩んだ。そして、ウラジオストク特務機関、ハバロフスク特務機関・機関長などを経て大正14年(1925)、ポーランド駐在武官としてワルシャワに赴任した。昭和12年、大佐から少将に昇進した季一郎は、関東軍司令部付のハルビン特務機関長に就任した。これが後の「オトポール事件」に繋がっていく。
■助けたユダヤ人たちに戦後助けられる
その「事件」とは、季一郎が赴任した翌年、昭和13年3月8日、満洲国西部にある満洲里駅の対岸に位置するソ連領・オトポール駅に多くのユダヤ難民が姿を現したという報告から始まった。50歳を迎えた年齢の季一郎は、その難民たちがドイツを脱出してきたユダヤ人であることを知った。この2年前にドイツと日本は日独防共協定を結ぶ同盟国並の関係になっていた。1度はユダヤ人たちをシベリア開発の担い手として迎え入れたソ連は、この開発がユダヤ人には困難であることが分かると、手の平返しをした。ユダヤ人たちはまた異国の地を彷徨うことになった。
シベリア鉄道ザバイカル線のソ連内の終着駅がオトポールであり、列車は次のマンチュリー駅まで乗り入れていた。だが、満洲国外交部(日本側)が「ビザなしユダヤ人」の入国を拒んだため、難民たちはオトポールで立ち往生したのだった。ユダヤ人の目的は、満洲国を通って上海に抜け、そこからアメリカ、オーストラリアなど自由の国々に渡ることだった(上海は当時世界で唯一、ユダヤ難民たちをビザなしで受け入れている都市だった)。この地は、3月でも朝晩には氷点下20度を軽く下回る。難民たちは寒風吹きすさぶ原野にテントを張り満洲国に助けを求めていた。
季一郎は、その惨状を知って唸った。「入れてやればいいじゃないか」。季一郎は呟つぶやくと同時に受け入れを自分1人で勝手に決めた。前年にハルビンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会に来賓として出席した季一郎は、ユダヤ人擁護の演説までやっている。しかし季一郎のユダヤ難民受け入れはユダヤ人への好意からだけではない。「困っているなら、それを助けるのが人間の生き方である。仁であり、義である」。こうして2万人ともいわれるユダヤ難民は、ビザなしで満洲国に入ることができた。季一郎は命じて、難民たちに食事を与え医療を施した。1特務機関長の季一郎の独断である。後にドイツから抗議が来て、関東軍参謀長・東條英機が尋問した。季一郎は、胸を張ってこう言い放った。
「私は日独間の親善と友好は希望する。しかし、日本国はドイツ国の属国ではないし、満洲国もまた日本国の属国ではない。すべからく対等の立場に立って、人道的な国策を全うすべきである」。そして続けた。「東條参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者イジメをすることを正しいと思われますか」。結局、季一郎は無罪放免となった。この時に季一郎がユダヤ難民を救出したオトポールからハルビンへの道は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後の難民たちの救出路にもなった。
その後、季一郎はアッツ島玉砕の司令官になり、さらには北海道を護る第5方面軍司令官として、終戦後も侵略を続けるソ連軍に抵抗した。樺太・北千島では徹底して戦い、占守島ではソ連軍を完全撤退に追い込み、北海道へのソ連軍上陸を阻止した。戦後、これを根に持ったソ連は、季一郎を戦犯に指名しGHQに引き渡しを要求した。その時、ニューヨークに本部を置く世界ユダヤ協会が動いた。GHQに対して「樋口季一郎の救済」を求めたのだった。オトポール事件の恩返しである。季一郎は、無事にその人生を全うして昭和45年10月、82歳で逝去した。
監修・文/江宮隆之
『歴史人』2025年4月号『東京大空襲と本土防空戦の真実』より
歴史人編集部
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2027年9月26日 産経新聞 正論「杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか 新潟県立大学教授・袴田茂樹
2017/9/26 12:30
9月初め、露ハバロフスクに近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問した。スターリン時代にユダヤ移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙(へんぴ)な「幽閉地」で、移住したユダヤ人も殆(ほとん)ど逃げ、人口の2%以下だ。
教会内展示室には、1940年に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝の写真もあった。
パターン化された歴史認識
教会の案内人に、では杉原以外にも、38年にソ連・満州国境で、ナチスの弾圧を逃れソ連を通過した数千人のユダヤ難民を救った日本人がいるのをご存じかと尋ねたら、全く知らないと言う。
樋口季一郎中将(1888〜1970年)のオトポール事件のことで、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」にも載っている。わが国でも、樋口を知っている人は少ない。露でも日本でも政治により戦前の歴史には蓋がされて、国民にリアルな現実認識がないからだ。このような状況下で、今日また深刻化した戦争や平和の問題が論じられている。
近年、冷戦期に二大陣営の枠組みに抑えられていた民族、宗教、国家などの諸問題が、国際政治の表舞台に躍り出て、混乱と激動の時代となり、世界の平和と安定の問題が喫緊の課題となっている。
われわれ日本人がリアルな現実認識を欠き、パターン化した歴史認識のままで、複雑な戦争や平和問題を論じ安保政策を策定するのは危険である。一人の日本人による満州でのユダヤ難民救済事件を例に、歴史認識のパターン化について少し考えてみたい。
樋口は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大卒の超エリートだ。戦前の陸大は東京帝大より難関とされた。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長(た)けた陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州のハルビン特務機関長であった。同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だった。
捨て身でユダヤ難民を助けた
38年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとの必死の依頼だ。
当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。
案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。
樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。
リアルな理解が国際政治の基礎
樋口がユダヤ人にここまで協力したのは、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任していたとき、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼らに助けられたから、さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いていたから、といわれる。
戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。
しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。
私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。
私は、リアルな歴史認識こそが国際政治や安保政策の基礎だと思っているので、自身も長年知らなかった事実を紹介した。(はかまだ しげき)
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NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
樋口季一郎 (ひぐちきいちろう)
2万人のユダヤ難民を救済
ユダヤ協会の樋口救出運動 「偉大なる人道主義者」
樋口季一郎は、人を力で威圧しようとする権威主義的体質を全く感じさせない希有な軍人だった。これは、ワルシャワでの駐在武官時代に開花した性格と言われている。各国の要人との幅広い交際が、弾力性のある国際感覚に磨きをかけ、ユダヤ人に対する深い同情を持つに至ったのである。
樋口季一郎
陸軍きってのロシア通
ヒトラーのユダヤ人弾圧が猛威をふるっていた頃、約2万人のユダヤ難民を救済した日本人がいた。特務機関長としてハルピンに勤務していた陸軍少将樋口季一郎である。樋口の名は、外交官としてユダヤ難民を救済した杉原千畝ほどには、一般的に知られているわけではない。しかし、イスラエルの「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と刻印され、その名はイスラエル建国の功労者として永遠に顕彰されている。
樋口季一郎が生まれたのは、1888年8月20日、奥浜久八とまつの間の長男として、兵庫県淡路島に生まれた。11歳の時に両親が離婚、季一郎は母まつに引き取られた。大阪幼年学校を出て、陸軍士官学校へと進み、歩兵第一連隊勤務となり、軍人としての道を歩み始めた。樋口姓を名乗ったのは、18歳の時に、岐阜県大垣市の樋口家に養子になったからである。
その後、陸軍大学に進んだ樋口は、ドイツ語を学んだが、第二外国語にロシア語を選んだ。陸軍の仮想敵はロシアであり、ロシアに対する研究が重要と判断したからである。陸大卒業後、参謀本部勤務となり、対ロシア関係の仕事に従事。後年、陸軍きってのロシア通となった素地はこうしてできあがった。
ポーランドの駐在武官として、ワルシャワ行きを命じられたのは、30歳頃のことである。このポストは、対ロシア研究の最重要ポストとされていた。ポーランドはロシアの隣国であり、ロシア情報の収集に最も適していたからである。当時、ポーランドの諜報戦略は、世界のトップレベルにあると言われていた。陸軍上層部が、樋口をこのポストに選んだのは、彼が優秀であったことはもちろん、彼が暗号解読技術をポーランドに学ぶべきだと具申していたからでもあった。
ユダヤ老人との出会い
駐在武官として、各国の外交官、武官などとの交際が実を結び、樋口はソ連領内のコーカサス地方にはじめて入ることに成功した外国人となった。貴重なソ連情報を収集できたことは言うまでもない。当時、ソ連は革命政権誕生間もない頃で、外国人の入国を一切許可していなかった。厳重な鉄のカーテンで閉ざされていたのである。
後にユダヤ人から恩人と称賛された樋口は、この時の旅で一人の不思議なユダヤ人の老人と出会っている。グルジアの首都チフリス(現在のトビリシ)郊外にある貧しい集落を歩いていたときのことである。髭を生やした一人の痩せた老人が、樋口ら一行に近づいてきた。老人は、彼らが日本人だと聞くと顔色を変え、家の中に招き入れ、話し始めた。「私はユダヤ人である。世界中で一番不幸な民族であり、どこに行ってもいじめられてきた」。
こう言った後、「日本は東方の国で、太陽が昇る国。あなた達日本人は、ユダヤ人が悲しい目にあったとき、きっと助けてくれるに違いない。あなた達がメシア(救世主)なのだ。きっとそうに違いない」と続けた。老人は、こぼれ落ちる涙をぬぐおうともせず、困惑する彼らの前で祈りを捧げ始めた。樋口は、老人の言葉を単にたわいもない妄想と片付けることができなかった。老人の顔に刻まれた皺とその涙に、流浪の民の悲哀、そして救いを希求してやまない民族の悲劇を垣間見た思いがしたのである。
カウフマン博士の訪問
樋口が、ハルピンの特務機関長という重要なポストを与えられたのは、日中戦争が勃発した直後の1937年夏、49歳の時である。陸軍きってのロシア通であり、諜報戦略の権威と認められての抜擢であった。満州国に来てみて、樋口が驚いたのは、独立国というのは表向きのことで、その実態は日本の植民地にすぎないという事実であった。どこに行っても日系官吏が幅をきかせている。そればかりではない。あらゆる階層の日本人が、利権あさりに汲々としていた。
こんなことでは、満州国は民衆にそっぽをむかれ、早晩内部崩壊してしまう。樋口は若手将校を集めて、「満人の不満をよく聞いてやるようにつとめよ。また悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じた。樋口の元にユダヤ人医師カウフマン博士が訪ねてきたのは、樋口の不良日本人退治が、大いに実績を上げ始めた頃のことである。
カウフマン博士は、ハルピンユダヤ人協会の会長で、総合病院を経営する内科医、アジア地域におけるユダヤ解放運動のリーダーとして知られていた。博士の話はこうだ。ナチ・ドイツのユダヤ人迫害は激化する一方。こうした非道を全世界に訴えるため、ここハルピンで極東ユダヤ人大会を開催したい。その許可をいただけないかと言うことであった。樋口は快諾した。「博士、おやりなさい。あなたがたの血の叫びを、全世界の人々に聞いてもらいなさい。私もおよばずながらお力になりましょう」。
第一回極東ユダヤ人大会が、ハルピン商工倶楽部で開催されたのは、翌年(1938年)1月15日。東京、上海、香港などから、ユダヤ人の代表およそ2千名が集まり、広いホールがユダヤ人で埋め尽くされた。各地域の代表が次々に登場した後、最後に来賓として招待されていた樋口が演壇に立った。会場が一瞬シーンと静まりかえったという。「20世紀の今日、ユダヤに対する追放を見ることは、人道主義の名において、また人類の一人として、私は心から悲しまずにはおられないのである」。
樋口は続けた。「ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!そしてまた祖国を与えなければならないのだ」。演説が終わった。すさまじい歓声が鳴り響き、熱狂した青年が壇上にかけ上がり、樋口の前に跪いて号泣しはじめた。協会の幹部たちも、感動で顔を紅潮させ、樋口に次々に握手を求めてきた。
オトポール事件
樋口の演説は、内外に大きな波紋を引き起こした。特に関東軍司令部から批判が起こった。「日独関係を悪化させるような論調は許されない」。「即刻彼を罷免すべきだ」などである。しかし、彼の懲罰問題がまだ決着を見ていない3月8日、重大事件が勃発した。
満州里と国境を接する、ソ連領オトポールにユダヤ難民が吹雪の中で立ち往生しているという。ナチスのユダヤ人狩りを逃れてきたユダヤ人であった。その数は約2万人、満州国に助けを求めたが、満州国は彼らの入国を拒否していた。難民の食糧はすでに尽き、飢餓と寒気で死者が続出しているという。
カウフマン博士が樋口の部屋に飛び込んできた。難民の窮状を訴え、樋口の助けを求めたのである。樋口は苦悶した。陸軍の現状は、すっかりヒトラーに幻惑され、ドイツ一辺倒に傾きつつあった。その陸軍と関東軍を相手に、首を覚悟して戦わなければならないことになるかもしれない。
樋口の脳裏にグルジアで会ったユダヤ老人の言葉がよぎった。「あなた達日本人が、きっと助けてくれる。あなた達がきっとメシアなのだ」。樋口の心は固まった。「よし、俺がやろう。軍を追放されてもいい。正しいことをするのだ。恐れることはない」。迷いが消え、決然としてカウフマン博士に言った。「博士、難民の件は承知した。博士は難民の受け入れの準備にかかって欲しい」。博士は樋口の前で声を上げて泣いた。樋口の行動は早かった。大連の満鉄本社の松岡総裁に連絡をつけ、交渉に入った。一刻の猶予もない。
その2日後の3月12日、ハルピン駅にユダヤ協会の幹部たちが、救護班を伴い列車の到着を今か今かと待っていた。列車が轟音と共に滑り込む。どよめきの声がホームに広がり、担架を持った救護班が真っ先に車内に飛び込んだ。病人が次々に担架で運び出され、ホームは、痩せこけ目がくぼんだ難民たちでいっぱいになった。だれかれとなく抱擁し、泣き崩れる難民たち。カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、難民たちに労りの声をかけていた。凍死者十数名、病人二十数名ですんだのは不幸中の幸いだった。樋口の判断がもう一日遅れれば、もっと悲惨な結果を迎えていたと言われている。
ユダヤ人の恩返し
このオトポール事件は、戦後の樋口の人生を大きく変えることになる。戦後、ソ連は樋口を戦犯容疑者として、連合軍に樋口の引き渡しを要求してきた。ソ連から見れば、樋口はハルピンの特務機関長、つまり対ソ情報活動の総元締めであった。そればかりでなく、北方軍司令官として樋口は、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告したソ連と樺太、占守島で勇敢に戦い、ソ連軍に多大な被害を与えた。ソ連から見れば、樋口は憎むべき司令官であった。
しかし、マッカーサー将軍は、樋口引き渡しの要求を断固拒絶した。マッカーサーの背後には米国国防総省があり、それを動かしたのは、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会であった。ユダヤ協会の幹部には、オトポールで樋口に助けられた難民が幾人かいた。彼らは、「オトポールの恩を返すのは今しかない」と言って、樋口救出運動を展開したのである。こうして樋口はシベリア送りを免れた。
樋口自身、この救出運動を知ったのは、実は戦後5年を経てからであった。1950年、アインシュタイン来日の折り、東京渋谷のユダヤ教会でユダヤ祭が開催されることになった。ここに樋口夫妻が招待され、幹事役のミハイル・コーガンが演壇でスピーチを始めた。実は、このコーガンは、ハルピンで開催された極東ユダヤ人大会で、樋口の護衛を務めたユダヤ青年であった。彼から、驚くべきことが伝えられた。
世界ユダヤ協会が樋口救出運動に乗り出していたという。また、イスラエル建国(1948年)に当たり、国家建設と民族の幸福に力を貸してくれた人々を功労者として永遠に讃えるため、「黄金の碑」を建立することになった。その碑に樋口の名と「偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口」の一文が、上から4番目に刻まれているという。
コーガンの話が終わると、講堂を埋め尽くしたユダヤ人たちは、「ヒグチ」「ヒグチ」と連呼し、拍手と歓声は鳴りやまなかった。樋口はこのどよめきの中で、「私は人間として当然やらなければならないことをやっただけである」と呟いたという。1970年10月11日、偉大な人道主義者樋口季一郎の生涯が終わった。
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2022年2月12日 致知出版社 人間学を探究して四十七年
人間力・仕事力を高めるWEB chichi歴史
陸軍中将・樋口季一郎の知られざる功績 ~ 2万人のユダヤ人を救った武士道精神
ユダヤ人難民2万人の救出をはじめ、奇跡と呼ばれたキスカ島撤退作戦、国家の分断を防いだ占守島の戦いなど、日本近代史における数々の不滅の功績を残した樋口季一郎中将。しかし、その名は現代の日本人にはほとんど知られていません。樋口中将の孫として祖父の実像を広く発信している明治大学大学院名誉教授の樋口隆一さんと、日本の偉人・歴史の真実を子供たちに語り伝えてきた服部剛さんのお二人に、樋口中将が貫いた「正義」について、貴重なエピソードを交えて語り合っていただきました。
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東条英機を納得させた「義」の決断
〈服部〉
「オトポール事件」は、昭和13年3月、樋口中将が満洲国に駐留する関東軍のハルビン特務機関長を務めていた時に起こりました。
満洲国と国境を接するソ連のオトポール駅で、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が、満洲国に入国できず立ち往生しているという深刻な情報が入ってきたんです。一説にはその数1万とも2万ともいわれます。
この地域の気温は3月でもマイナス30度、飢えと寒さで凍死者が出始めていました。事態は一刻の猶予も許されない。ハルビンのユダヤ人協会の長であるカウフマンも、「助けてほしい」と樋口中将に難民救援を依頼してきます。
樋口中将は思案の末、「ユダヤ人難民を助けましょう。私が引き受けます」と言って、救出を決断します。これを聞いたカウフマンは声を上げて泣いたそうです。そして、樋口中将は、即座に南満洲鉄道の松岡洋右総裁に特別列車の運行を要請。優れた国際感覚の持ち主だった松岡も事態の重大さをすぐに理解して快諾し、13本の特別列車ですべてのユダヤ人をハルビンまで送り届けたんです。
〈樋口〉
迅速な決断と行動です。
〈服部〉
ただ、当時、日本とドイツは日独防共協定を結び、友好関係にありましたから、普通はドイツとの関係を考えて躊躇すると思うんですよ。だけど樋口中将は、「人間として正しいことは何だろうか」と考えるわけです。
樋口中将はヒューマニズムの人だと言われますが、私はその根本には、武士道精神があったのだと思います。「義を見てなさざるは勇なきなり」、ここでユダヤ難民を助けなかったら、正義はどうなってしまうんだと。
〈樋口〉
武士道精神、それはあったでしょうね。ただ、あんまり大げさに言うと祖父も照れてしまうと思います。
というのも、祖父の立場を多くの人がきちんと理解していないんです。特務機関長と聞くと、地方の管理職のように思われるかもしれませんが、これは事実上、ハルビン行政の最高権力者なんです。しかも、満洲国の内政指導をする立場にもありました。
要するに、日本と友好関係にあったドイツ政府の意向を忖度する満洲国の役人たちが、その多くは日本人でしたが、「ユダヤ人難民をどうしましょうか?」とお伺いに来た。
それに対して決定権を持った祖父がひと言、「ドイツや日本に忖度する必要はない」と言って路線を決めた、そういうことなんです。現場の人は皆ユダヤ人難民を救いたいと思っていました。
それに祖父は若い頃、特務機関員としてウラジオストクに派遣された時、ユダヤ人の家に下宿しているんですね。そこでユダヤ人といろいろ交流して、当時のユダヤ人差別の背景なども全部知っていました。祖父の決断の背景にはそうした体験とユダヤ人に対する心情もあったのだと思います。
〈服部〉
ただ、やはり、そこでトップが救出を決断したということは大きかったと思うんです。
それに「オトポール事件」の2週間後、ドイツ政府からユダヤ人救出に対する抗議が来た時の樋口中将の対応も本当にすごい。ドイツ政府の抗議を受けて、関東軍司令部は樋口中将を呼び出し、当時の東条英機参謀長(大東亜戦争開戦時の首相)が「あなたの言い分を聞かせてくれないか」と迫りました。
しかし樋口中将は、
「はじめにはっきり申し上げておきます。私のとった行動は間違っていないと信じています。ドイツは同盟国ですが、そのやり方がユダヤ人を死に追いやるものであるなら、それは人道上の敵です。人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいきません。私は日本とドイツの友好を希望します。しかし、日本はドイツの属国ではありません!」
「東条参謀長! ヒトラーのお先棒をかついで弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」
と堂々と答えたのです。
それで東条参謀長も、「よくわかった。ちゃんと筋が通っている。私からもこの問題は不問に付すように伝えておこう」と、樋口中将の言い分を認め、実際に日本政府は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」とドイツ政府の抗議を一蹴。
その後も、続々と押し寄せてくるユダヤ人難民に対して、満鉄は乗車賃を無料にし、後々までこの方針を踏襲しました。
(本記事は月刊『致知』2020年5月号 特集「先達に学ぶ」より一部を抜粋したものです)
◉この他にも、樋口さんと服部さんには「忘れてはならないアッツ島玉砕の悲劇」「奇跡と呼ばれたキスカ島撤退作戦」「分断国家を防いだ占守島の戦い」「先達に学び国難に対処せよ」など、樋口季一郎中将の生涯を紐解きながら、現代日本に生きる私たちが学ぶべき数々の教えについて語っていただいています。本記事(バックナンバー)は「致知電子版〈アーカイブ〉」にて全文を閲覧いただけます!
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◇樋口隆一(ひぐち・りゅういち)
昭和21年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒、同大学院修士課程修了。ドイツ学術交流会(DAAD)奨学生としてドイツ留学。帰国後は明治学院大学に奉職し、西洋音楽史を講じる傍ら、指揮者、音楽評論家として幅広く活動。京都音楽賞、辻荘一賞など受賞多数。平成14年オーストリア学術芸術功労十字章を授与。明治学院大学教授・文学部長を歴任し、27年より明治学院大学名誉教授。祖父は樋口季一郎中将。著書に『バッハの人生とカンタータ』(春秋社)『陸軍中将樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版)など多数。
◇服部剛(はっとり・たけし)
昭和37年神奈川県生まれ。学習塾講師を経て、平成元年より横浜市公立中学校社会科教諭。元自由主義史観研究会理事。現・授業づくりJAPAN横浜(中学)代表。著書に『先生、日本のこと教えて―教科書が教えない社会科授業』(扶桑社)『先生、日本ってすごいね』(高木書房)『感動の日本史』(致知出版社)などがある。
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2022年5月13日 @niftyニュース「「ユダヤ人難民救済」中国も欲しがる樋口季一郎の偉業を正しく伝えたい
小野寺信(まこと)、樋口季一郎、藤原岩市――世界から称賛され、恐れられた3人の帝国陸軍軍人を通じて、大日本帝国のインテリジェンスの実像に迫る話題の新刊『至誠のインテリジェンス 世界が賞賛した帝国陸軍の奇跡』(小社刊)。その出版を記念して、著者の岡部伸氏と樋口季一郎の孫・樋口隆一氏(指揮者、明治学院大学名誉教授)の特別対談をお送りします。
■ユダヤ人難民救済の話は家族にも語らなかった
岡部 リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られています。杉原が救ったとされるユダヤ人は約6000人、本家のオスカー・シンドラーは約1200人です。
数字については諸説ありますが、ユダヤ人側の発表では、樋口中将は、彼らを優に上回る2万人ものユダヤ人を救出したとしています。しかも、杉原がいわゆる「命のビザ(通過査証)」を出す2年も前に。
▲杉原千畝 出典:ウィキメディア・コモンズ
外交官だった杉原千畝は、早くからその名が世界に知られていましたが、樋口季一郎は“悪名高き日本軍”の軍人ということもあってか、長らくその功績が注目されてきませんでした。しかし、ようやく最近になって、グローバルなレベルで樋口中将の再評価の動きが加速しています。これは日本人として非常に誇らしいことだと思います。
樋口先生は、祖父である樋口中将から、ユダヤ人難民の救出のお話を生前にお聞きしていたのでしょうか?
樋口 樋口季一郎は最初、家族にもユダヤ人救出の件を伏せていました。それに「おじいちゃんに戦前の話はしない」というのが、なんとなく家の中の“暗黙の了解”だったんです。おじいちゃんも困っちゃうからね(笑)。だから、父や母、伯父に伯母、いとこたちも“樋口季一郎”については知ってはいるけれど、肝心なことは知らない。
どうして僕らが、樋口季一郎とユダヤ人の関わりを知るようになったかというと、僕が小学2年生のときにミハエル・コーガン(※)が家に来たんです。樋口が東京裁判の証人を務めるために九州から上京して我が家に滞在していたときだから、昭和29年(1954年)頃ですね。
※ミハエル・コーガン:ユダヤ系ウクライナ人の実業家。「スペースインベーダー」の大ヒットで知られるゲーム会社タイトーの創業者。1937年にハルビン(満州の中心都市。現中国黒竜江省)で第一回極東ユダヤ人大会が開かれた際には、会場の警備員として来賓の樋口季一郎の護衛を務めた。
■終戦直後は貧しい日々を過ごしていた樋口季一郎
樋口 当時、コーガンはタイトーの前身となる株式会社太東貿易という商社を設立したばかりで、その商社で輸入していた「トロイカ」というポーランドのウォッカの小瓶と、バナナの房が入った果物籠を手土産に持って来ました。あの頃のバナナといえば、貴重品で子どもの憧れでしたから、彼の来訪は今でも鮮明に覚えています。
2人はいろいろ話し込んでいて、それを私も近くで聞いていました。この時、私たち家族は、祖父が満州で大勢のユダヤ人を助けたことを、初めて本人の口から聞いたわけです。
また、コーガンは「会社の顧問になってほしい」と祖父に頼んでいましたね。祖父はその申し出を丁寧に断っていましたが、私は子ども心に「おじいちゃん、貧乏なんだから、このおじさんの会社に入ればいいのに」と思っていました。当時はまだ軍人恩給が支給されていない時期で、祖父も無一文でしたからね。
祖父は九州の高千穂の田舎で農業をして、自給自足の生活をしていました。それに、私も「おじいちゃんが、このおじさんと仲良くしていれば、またバナナもらえるんじゃないかな」と思っていたので(笑)。
岡部 なるほど(笑)。でも、樋口中将はうれしかったでしょうね。
樋口 それは喜んでいましたよ。コーガンが帰ったあと、もらったウォッカをチビチビと舐めながら、大きな声で「ヴォトカ・トロイカ」とラベルをロシア語風に読んで上機嫌にしていました。昔、自分のガードマンをしてくれていた若者が、立派になって訪ねて来てくれただけでも、もう年寄りはもう大喜びなわけです。今なら私もその気持ちが、すごくよくわかります。
▲幼少期の頃の祖父について話す樋口氏
■「ユダヤ人難民救済」の功績を盗もうとたくらむ中国
樋口 最近、樋口季一郎を応援してくれているカナダのユダヤ人夫婦と知り合いになったんですが、彼らからいただいたメールにすごいことが書いてありました。カナダでは――おそらくアメリカでもそうだろうけども――中国の“宣伝工作”が効きすぎてしまっていて、満州で2万人のユダヤ人難民を助けたのは中国人だとされているようです。
岡部 えっ、本当ですか!? それはひどい。
樋口 たとえば、ハルビンや上海にもユダヤミュージアムがありますが、そういうところでも中国人がユダヤ人を助けたことになっています。その当時、日本人がやった良いことは全部、中国人の手柄にされている。我々日本人からすると、ちょっと考えられないくらい露骨なやり方なんですけどね。
岡部 中国人じゃなくて、日本人がユダヤ人を助けたという歴史的な事実を、我々も世界に向けてもっと発信しなくてはいけません。
樋口 そのユダヤ人夫婦は、樋口季一郎に関する小冊子を作って配って、一生懸命発信してくれているそうです。
岡部 ありがたいですね。
樋口 ただ、そうした歴史的事実が世界のスタンダードにならないのも、やっぱり“戦前の日本は悪かった”という固定観念が足枷になっているんでしょう。
▲「歴史的事実を発信していかなければいけない」と語る岡部氏
■大戦中に日本が救ったユダヤ人は4万人!?
樋口 そのあたりの事情はイスラエルでも同じで、日本人と仲良くしてきたユダヤ人は、長いあいだ肩身の狭い思いをしてきたみたいです。だから、イスラエルにおける樋口季一郎の評価も、非常に複雑だったのではないかと思います。なんとなく、大きな声で樋口季一郎を讃えられない空気があるみたいです。
ひどいものだと、「樋口季一郎のユダヤ人救出の話は、南京大虐殺をカモフラージュのために作ったデマだ」と言う研究者もいるとか。そういう唐無稽な話が、イスラエルではこれまでまかり通ってきたらしいんです。今でもそうかもしれない。
でも、一方で新しい動きも出てきています。たとえば、イスラエル・ヘブライ大学の日本近代史研究者であるメロン・メッツィーニ名誉教授は、著書『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)で「大戦中に日本が4万人以上のユダヤ人を救った」と主張しているんです。
岡部 4万人! これまで2万人でも「そんなにいるわけない」と否定する人たちがいたのに、4万人は驚きですね。
樋口 もちろん大まかな数字ではあるのですが。従来の2万人という数字は、当時ハルビンに住んでいたユダヤ人の指導者、アブラハム・カウフマン〔ハルビン市内で総合病院を経営する内科医として働きながら1919年から1945年夏までハルビンのユダヤ協会会長を務めた〕の伝記に由来するものだと思われます。
それに加えて、当時のユダヤ人は、日本の勢力下にあった東南アジアやオセアニアにも2万人ほど住んでいたそうなので、合わせて4万人のユダヤ人が度重なるナチス・ドイツの干渉にも関わらず日本によって救われた、とメッツィーニ先生は言っているわけです。
もっとも、樋口自身も正確な数字を把握していたわけではないですし、日本側には残されていない外国の記録などもありますから、数字だけをあれこれ議論するのはあまり意味がないかもしれません。樋口季一郎の仲介によって、満州で助けられたユダヤ人難民の総数を正確に把握することは不可能でしょうからね。
いずれにせよ、メッツィーニ先生のような見方をする学者がイスラエルに出てきたのは、これまでにない新しい動きであることに違いはありません。イスラエルには「ヤド・ヴァシェム」というホロコーストの博物館があるのですが、残念ながら東アジアに関する研究はまだほとんど進んでいないので、メッツィーニ先生の登場はタイミングとしても良かったと思います。
▲エルサレムにあるヤド・ヴァシェム(ホロコースト博物館) 出典:Juandev(ウィキメディア・コモンズ)
樋口 ちなみに、アメリカでも最近ちょっとした新しい動きがありました。東京オリンピック前の2021年6月に、アメリカの『The Forward』というユダヤ系の新聞が、樋口季一郎を写真入りで取り上げていたんです。内容としては、日本とユダヤ人が歴史的に深くつながってきたことを紹介する記事なんですが、これまでのように杉原千畝だけじゃなくて、ちゃんと樋口季一郎の名前も出てきます。
岡部 それはすばらしい。チェックしてみます。
樋口 最初に読んだときには、予期せず“樋口季一郎”の名前と写真が出てきて「おっ!」と思いましたね。『The Forward』は戦前からある新聞なんですが、やっぱりアメリカの歴史の見方も変わりつつあるのかなと。
岡部 アメリカの新聞が樋口季一郎を紹介したというのは、すごいことですね。
■ソ連の脅威と向き合い続けた「臆病軍人」
岡部 ユダヤ人難民救出とともに、樋口季一郎の功績として忘れてはいけないのが、北海道をソ連の侵攻から守ったことです。
1945年8月、当時の北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」を担当する札幌の第五方面軍司令官を樋口中将が務めていました。ポツダム宣言受諾後、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻してきたソ連軍に対する自衛戦争を指揮し、北海道がソ連に占領されるのを防ぎました(※)。
しかも、それは大本営からの停戦命令を無視して、独断で行った戦いです。陸軍大学校卒業後、参謀本部のロシア課で陸軍随一の対露情報士官として活躍し、ソ連の手口を知り尽くしていたからこその英断だと思います。学校の歴史の授業ではまったく習うことがない話なので、多くの日本人が知らないのが残念なのですが……。
※占守島の戦い:1945年8月18日未明、大挙上陸して来たソ連軍に対して、占守島守備隊が自衛のためにおこなった戦い。守備隊は大小80門以上の火砲と戦車85輌をソ連軍が上陸する波打ち際に集め、濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を集中砲火し、戦死傷者3000人以上という大打撃を与えた。この戦いは、満州・樺太を含めた対ソ連戦では、日本軍最大の勝利となった。
樋口 祖父は、戦後の歴史家が日本軍の負けた話ばかりを強調していることに怒っていましたね。「ちゃんと勝っていたところもあるんだぞ」って。やっぱり、そういう話は孫にはするんですよ。それがずっと僕の脳裏に残っていたこともあって「おじいちゃんの恨みを晴らすために頑張ろう」と思い、祖父が書き留めていた記録をもとに『陸軍中将樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版/2020年)を出版したわけです。
▲晩年の樋口季一郎(樋口隆一氏撮影)
もとになった祖父の膨大な手書きの原稿は、叔父が生前にワープロで清書してくれていました。とはいえ、やっぱり明治時代の教養人の書いたものですから、文章はかなり難解で、とてもじゃないけど現代人には読めません。出版社側からも「難字にはルビをふって現代仮名遣いに改めて、註や補足説明を足してほしい」と提案されていたので、僕もそのリライト作業を通じて、祖父の言葉と一字一句向き合いました。
その編集過程で、やっぱりよくわからない部分も出てきて「どうしておじいちゃんは、ここでこんなに怒っているんだろう」と疑問に感じるところもあったんです。今になるとその理由がわかるのですが、ようするに自分がこれまで訴えてきた「ソ連の脅威」を、参謀本部が無視し続けてきたことに対する怒りだったんですね。
岡部 樋口中将の目線は、ずっと北(ソ連)に向けていましたからね。樋口中将は盟友の石原莞爾中将とともに参謀本部内で「不拡大主義」を主張し、日中戦争の早期終戦を目指して和平工作をしていました。それは、日中戦争よりもソ連対策のほうがよっぽど大事だということを見抜かれていたからだと思います。
残念ながら、和平工作は陸軍省との意見対立もあって失敗に終わりましたが、現代の我々から見ると、樋口・石原の不拡大方針がやっぱり正しかったわけです。日中戦争はどんどん広がって泥沼化していきましたから。
▲石原莞爾。樋口季一郎とは陸軍士官学校の同期生 出典:毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」(ウィキメディア・コモンズ)
樋口 日中戦争を長期化させてしまったのは、大きな間違いだったと思います。だけども、当時日本国内では「とにかく国民一体となって戦え」という意見が多数派で、新聞も小さな戦いの勝利を「勝った!」と書いて騒いでいました。そうなると軍人も有頂天になる。実際、表面上は連戦連勝ですからね。
だから、不拡大方針を唱えて和平工作をしていた祖父は「臆病軍人」と言われ、東條英機以下に快く思われていなかった。それで、1939年12月に“栄転”の形で第九師団長として金沢に送られ、体よく大本営から追い払われたわけです。
▲東條英機 出典:Fumeinab sakuseir-shau h(ウィキメディア・コモンズ)
結局、祖父が参謀本部第二(情報)部長として陸軍の中枢にいられたのは、1938年8月から翌年12月までのわずか15カ月間しかありません。ただ、金沢でも情報部長時代とそれほど変わらない重要な仕事をしていたとも言われています。ソ連関連の機密文書は、まず第九師団の敦賀に届けられるので、それを最初に読むのが祖父だったからです。
■今日の日本人に贈る、樋口季一郎の“遺言”
岡部 樋口中将が“栄転”される直前の1939年8月に、ドイツが仮想敵国であったはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結すると、首相の平沼騏一郎(きいちろう)は「欧州情勢は複雑怪奇なり」との声明を発表して、政権を投げ出してしまいました。ようするに、ソ連をめぐる的確な欧州情勢分析ができていなかったということです。
▲平沼騏一郎 出典:国立国会図書館(ウィキメディア・コモンズ)
でも、日本としては、その“複雑怪奇”な欧州情勢をしっかりと把握しておかなくてはいけない。だから、樋口中将は情報部長時代に、信頼できる部下たちをバルト海沿岸の国々に投入しました。
それが、リガの小野打寛(おのうちひろし)武官であり、少し後に41年にストックホルムに赴任した小野寺信武官。さらに、カウナスの杉原千畝領事代理も樋口中将の意向だった可能性が高いと思います。
対ソのインテリジェンスを強化するため、ソ連を取り巻くバルト海沿岸諸国での情報網を整備したわけです。これは今日のロシアによるウクライナ侵略戦争を踏まえても、本当に慧眼だと思います。100年前のソ連も、今のロシアも、自国の安全保障のために近接する小国を影響下に置いて支配する、という卑劣な行動は基本的には同じですからね。
樋口 目的のためなら手段を選ばない。国際的な約束も平気で破って攻めてくる。まったく変わらないですね。
岡部 そういう国が相手だからこそ、インテリジェンスが重要になるわけですが、日本の中枢は「作戦重視、情報軽視」で、まったく現実を見ていませんでした。「日中戦争拡大」という作戦を主観的に重視し、「対ソ劣勢」という客観的な情報を軽視していました。樋口中将は、それを「主観が客観を制した」と表現し、「危険きわまりなきしだいである」と批判しています。
樋口 その言葉は、我々に対する祖父の遺言だと思います。とにかく日本という国は、主観が客観に優先する。だから、なかなか決断もできない。でも、これからの日本はそれじゃいけないよ、というね。
岡部 本当に正鵠を得ています。それはまさに、今日もなお続いている日本の最重要課題ですからね。
▲「決断のできない日本」のままではいけないと語る樋口氏
■プロフィール
樋口 季一郎(ひぐち・きいちろう)
ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた大量のユダヤ人難民を満州(中国東北部)で救った陸軍将校(最終階級は中将)。満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、ソ連を通過してソ連・満州国境のオトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。その功績から、「樋口季一郎」の名前はユダヤ民族基金がユダヤ民族に貢献した人物を讃える「ゴールデンブック」に記載されている。また、1945年8月には、ポツダム宣言受諾後に北海道へ侵攻してきたソ連軍を独断で阻止し、日本が分断国家となるのを防いだ。
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2022年2月17日 NewsCrunch「海外から評価される日本がナチスのユダヤ人迫害に反対していた史実
江崎 道朗江崎 道朗
インテリジェンスで読み解くWWⅡ-vol.5-
我々が学校で習った歴史は、根本から見直され始めている。そういった諸外国の動きを我々はどのように受け止めるべきなのか、近現代史は国際社会で生き抜くための必須知識。
トップ ビジネス・社会 海外から評価される日本がナチスのユダヤ人迫害に反対していた史実
学校で習った「日本は侵略国家であり、悪い国だが、ソ連は戦勝国であって、いい国だ」といった単純な歴史観は、近年、とくにヨーロッパではすでに破綻してしまっていると、近現代史と情報史に詳しい江崎道朗氏は語ります。こうした近現代史の見直しの動きを、日本人はどのように受け止めるべきなのか。ドイツと日本が友好関係にあった第二次世界大戦中において、ユダヤ人を迫害から守ろうとした杉原千畝、そしてもう1人の奮闘した軍人の存在を知っていましたか?
日本のユダヤ人保護政策は高く評価されている
ヨーロッパでの近現代史見直しの動きを、日本はどのように受け止めるべきなのか、という点について触れておきたいと思います。
第一に、戦後の日本の歴史教科書で描かれた「日本は侵略国家であり、悪い国だが、ソ連は戦勝国であって、いい国だ」といった単純な歴史観はすでに破綻してしまっている、ということを理解すべきです。
日本は1946年5月に始まった東京裁判で「侵略国家」というレッテルを貼られました。ドイツに対して実施されたニュルンベルク裁判がそうであったように、東京裁判においてもソ連は、判事、つまり正義の側に立っていました。
バルト三国をはじめとする東欧・中欧諸国からすれば、ソ連が正義であるような歴史観などありえません。日本では「日本は悪で、ソ連を含む戦勝国は正義だ」とする戦勝国史観こそが国際社会の常識だと主張する歴史学者が多いのですが、バルト三国やポーランドでは、この歴史観は通用しません。
「お前らは何を言っているのだ、ソ連のスターリンやアメリカのルーズヴェルトが正義なわけがないだろう。ルーズヴェルトはヤルタ会談で俺たちの自由をスターリンに売ったのだぞ」と鼻で笑われるだけでしょう。
第二に、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において、日本はほとんど無関係です。確かに日本は、ナチス・ドイツと同盟関係にありましたが、実際にヨーロッパ戦線に軍隊を送ったわけではありません。
むしろ、ナチス・ドイツと同盟関係にあったにもかかわらず、ナチスのユダヤ人迫害政策に反対していました。そして、幸いなことに現在、日本のユダヤ人保護政策は高く評価されているのです。
例えば、リトアニアにはホロコースト博物館があり、前庭には、杉原千畝を「我々の味方であった」と称えるモニュメントが建っています。
▲杉原千畝 出典:ウィキメディア・コモンズ
杉原千畝の評価については、さまざまな議論がありますが、少なくともリトアニアは、杉原千畝のことも含めて、日本はナチス・ドイツと同盟関係にあったにも関わらず、ユダヤ人を守ろうとしてくれた国であり、戦後はソ連によるシベリア・樺太抑留で苦しんだ、同じ仲間だと思ってくれているのです。
ラトビアの軍事博物館には、日の丸の旗が飾ってあります。第二次世界大戦後、多くのラトビア人たちがソ連によってシベリア、樺太に送られ、強制労働をさせられました。そのとき、同じシベリア、樺太にいた日本人たちと知り合いになり、プレゼントされた日章旗を本国に持ち帰ったのだそうです。
ラトビアは、1991年の独立回復後、ソ連の全体主義に苦しめられて助け合った日本人たちは味方である、という理由から日の丸を飾ってくれています。
よって、日本としては、戦前からドイツと同盟関係を結ぶことに反対していた政治勢力があったことを対外的に宣伝しつつ、まずは、ナチスのユダヤ人迫害に反対していた史実を国際的にアピールすることが重要だと思います。
▲1940年に外交官杉原によって付与されたビザ付きチェコスロバキアパスポート 出典:ウィキメディア・コモンズ
ユダヤ人迫害に奮闘した樋口中将の功績
幸いなことに、杉原千畝氏以外にも、ユダヤ人迫害に反対した軍人が日本には存在します。その代表的な人が樋口季一郎中将です。
▲樋口季一郎 出典:ウィキメディア・コモンズ
樋口中将は、ハルビン特務機関長だった1938年以来、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、満洲を経由して上海に亡命することを目指していた、総計2万人に及ぶといわれるユダヤ難民の救済に尽力し、その人道主義は国際的に評価されています。
樋口中将は終戦に際してソ連軍が中立条約を一方的に破棄し、まず南樺太、さらに日本降伏後の8月18日に千島最北端の占守島に侵攻してきたときも、第五方面軍司令官として「断固反撃」を指令、スターリンの北海道・東北占領計画を粉砕して、日本の国土分割の野望を阻止しました。
このとき、スターリンの北海道・東北占領計画が成功していたら、日本はその後、分断国家となり、北海道と東北の日本人は家族を人質に取られ、関東以西の日本地域でスパイやゲリラ活動を強制され、日本人同士で殺し合いを余儀なくされたに違いありません。そして一旦、殺し合いを始めたら、日本は憎悪の連鎖に引き込まれ、内乱状態に追い込まれたに違いありません。そうなれば、戦後の奇跡の復興もなかったでしょう。
そこで、この樋口中将の功績を後世に伝えるために「一般財団法人樋口季一郎中将顕彰会」が設立され、2021年7月9日には、設立記念シンポジウムが東京の憲政記念館で開催され、私もパネリストとして出席しました。
このシンポジウムには、アメリカの戦略家エドワード・ルトワック氏からも次のような祝辞が届きました。
《樋口季一郎の名は、ユダヤ民族が存続するかぎり記憶され続けることでしょう。ユダヤ人の記憶は2000年の時を超えて、記述された形で生き続けてきたものです。ユダヤ人の敵は憤怒をこめて記憶に深く刻まれますが、ユダヤ人の友は深い感謝の念をこめて、永遠に記憶されます。樋口将軍が直面したのは、単純な決断でした。国境で起きていた事態を知ったとき、幾千人の人々が生存することを助けるために、あらゆる重荷を引き受けるべきか、それを見過ごすかという決断です。もし彼が日常の軍務を遂行するだけにとどまり、ユダヤ人たちをその運命に委ねたとしても、誰からも咎められなかったでしょう。しかし、彼は自らを咎めることになると思ったのでしょう。英雄とは、なされるべきことをなす指令を下すことに躊躇することを知らない人たちです。彼らは喝采を求めることもない。皆様とご一緒に樋口季一郎を記憶し続けることは、高い名誉に預かることにほかなりません。エドワード・ニコラエ・ルトワック(戦略家)》
戦前も戦時中も日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に賛成せず、ユダヤ人を保護しようとしました。その「史実」をもって世界に知らせることで、“ナチス・ドイツと同盟を結んでしまったことへの反省”を示すべきなのです。
外交においては、味方をつくるということが重要です。相手を批判すること以上に、味方の存在を認識し、そして味方となっている理由を正確に理解し、味方を増やすことが極めて大事なのです。
※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。
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