🏞124)─2・②─世界的流行の天然痘と孤軍奮闘で闘った田舎の町医の子笠原良策。~No.490 

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 笠原良策(かさはら りょうさく)の父親は福井城下の町医笠原龍斎で、越前国足羽郡深見村(現、福井市深見町)で生まれた。
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🏞124)─2・①─伊東玄朴、貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、漢方医を斥け蘭方の地位を確立。~No.490 

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 当時の日本人と現代の日本人は、日本人と言っても別人のような日本人である。特に、超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達はそうと言える。
 彼らには、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持っていない。
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 2025年3月7日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂の記「幕末の知られざるヒーロー!天然痘と闘った福井藩医・笠原良策とは
 画像 : 笠原良策(白翁)肖像写真(福井市立郷土歴史博物館蔵) public domain
 画像 : 天然痘 public domain
 江戸時代の末期、天然痘が広まり、日本は大きな被害を受けていました。
 天然痘は古くから存在し、すでに奈良時代には流行が記録されており、江戸時代を通じても周期的に大きな被害をもたらしていたのです。
 そんな中、福井藩でこの病に立ち向かった医師がいました。
 その名は笠原良策(かさはら りょうさく)。
 彼は西洋医学を取り入れ、天然痘の予防法である種痘を広めることに成功した人物です。
 2025年、笠原良策を主人公とした映画『雪の花 ―ともに在りて―』が公開されました。松坂桃李さんが主演を務め、江戸時代末期に天然痘と闘った医師の姿が描かれています。
 今回は、笠原良策がどのように天然痘と戦い、その予防法を確立していったのかを詳しくご紹介します。
 天然痘の症状
 画像 : 天然痘によってあばた面となった塩田三郎 public domain
 当時、天然痘により特に幼い子どもが多く命を落としていました。
 人々は疱瘡神(ほうそうがみ)という神様を信仰して、祈祷をする風習もあったほどです。
 天然痘に感染すると、初期症状として発熱や倦怠感が現れ、その後、全身に膿を伴う発疹が広がります。
 運よく回復しても、顔や体に深い痕が残るため、痘痕(あばた)と呼ばれ、美観を損ねるとして特に女性には深刻だったのです。
 笠原良策とはどんな人物?
 画像 : 笠原良策(白翁)肖像写真(福井市立郷土歴史博物館蔵) public domain
 笠原良策(かさはら りょうさく)は、幕末の医師であり、福井藩に仕えていました。
 当時の日本では、西洋医学が徐々に広まり始めていましたが、まだまだ漢方が主流でした。そんな中で笠原良策は、オランダ医学である蘭学を積極的に学び、新しい医療技術を取り入れていました。
 良策が特に注目したのが、種痘(しゅとう)という天然痘を予防する方法でした。
 種痘とは
 種痘には、いくつかの方法が存在しますが、当時は天然痘患者の膿を接種する人痘法や、牛痘の膿を利用する牛痘法などが主に用いられていました。
 これらは、天然痘の膿や関連する病原体を健康な人に接種し、免疫を獲得させる方法であり、現在のワクチンの原型の一つといえます。
 しかし、人痘法は免疫を得られるものの重症化のリスクがありました。
 一方で、牛痘法は安全性が高いとされ、18世紀末にイギリスのエドワード・ジェンナーによってヨーロッパで普及していました。
 画像 : エドワード・ジェンナー public domain
 日本では、18世紀後半から人痘法が一部で実践され、19世紀初頭にロシア経由で牛痘法の知識が伝えられたものの、広く普及するには至りませんでした。
 人々の間には依然として天然痘への恐怖が根強く残っていたのです。
 そのような状況の中、良策は牛痘法を福井藩に導入しようと奔走しました。
しかし、ここで大きな問題がありました。それは、「人々が恐れて受けたがらない」ということです。
 現代でも、新しいワクチンが登場すると「本当に安全なの?」「副作用が怖い」と不安に思う人がいますが、それは幕末も同じでした。むしろ、「牛の病気を人に打つなんて!」と、当時の人々には理解しがたいものだったのです。
 それでも良策は諦めず、実際の接種を通じて牛痘法の効果を示し、藩内での普及に努めました。種痘(牛痘法)の成功例が増えるにつれて、人々の間でその効果が認められ、信頼を得るようになったのです。
 笠原良策の功績
 画像 : 笠原白翁の碑(上部、福井市足羽山) wiki © Fumi Yana
 福井藩では、笠原良策の尽力により種痘の普及活動が本格的に進められました。
 良策は藩内の医師たちに種痘の技術を指導し、接種を広めるために奔走します。また、接種後の経過を詳細に観察し、記録を残していました。これは、当時としては画期的な試みであり、種痘の効果を検証する上で重要なものでした。
 さらに、嘉永4年(1851年)10月には、福井藩内で種痘の普及を推進するための「除痘館」が設立されました。これは藩医や町医を組織的に動員し、種痘を広める拠点として機能しました。
 その後、福井城下だけでなく、府中(現・越前市)、鯖江、大野、敦賀などの主要地域に痘苗が分配され、さらには隣国の加賀藩(金沢・富山)へも伝えられました。これにより、福井藩内では天然痘による死者が大幅に減少したのです。
 良策は、京都・大阪での「除痘館」の設立にも関与し、こうした活動はやがて全国へと波及していきました。
 幕末から明治時代にかけて日本の医療制度が変革を遂げ、西洋医学が主流となる中で、良策のような医師たちの努力が、その基盤を築いたことは間違いありません。
 彼の功績は福井藩にとどまらず、日本の近代医学の発展に大きく寄与したといえるでしょう。
 参考 :
 竹内真一「京都牛痘伝苗の日時及び同痘苗の由来について―笠原文書を中心にして―」
 柳沢芙美子「福井藩における藩営除痘館の開設とその運営」
 柳沢芙美子「福井からの痘苗の伝播と鯖江藩の種痘」他
 文 / 草の実堂編集部
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 ウィキペディア
 笠原良策(白翁)肖像写真(福井市立郷土歴史博物館蔵)
 笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(1809年6月22日) - 明治13年1880年)8月23日)は、江戸時代末期(幕末)の蘭方医。名は良、字(あざな)は子馬、号は鉄仏無涯堂、天香楼、桂窓、白翁。福井藩の町医。越前国足羽郡深見村(現・福井市)生まれ。父は福井城下の町医笠原龍斎。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩(府中・鯖江・大野・敦賀大聖寺・金沢・富山)に種痘を広めた。
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 歴NAVIGATIONふくい
 笠原白翁(良策)かさはらはくおう(りょうさく)
 生没:文化6年(1809)~明治13年(1880)
 幕末の医師。文化6年(1809)足羽郡深見村(現、福井市深見町)に生まれる。初め漢方医学を修め、福井城下で開業した。その後蘭方医学修得を志 して京都で学んでいた白翁は、牛痘による天然痘予防が可能であることを知り、痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出。
 福井藩松平春嶽の建言により、幕府の牛痘輸入許可がおりた。
嘉永2年(1849)、長崎に痘苗を入手しに行く途中の京都で痘苗を入手し、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていくしか確実な方法が無く、種痘を施した幼児を連れて雪深い国境の峠を越えるという決死行によって福井城下に痘苗を運んだ。
 同年、福井城下で初の種痘が実施され、庶民の理解を得ることは困難であったものの、次第に普及し、嘉永4年(1851)には公立の種痘所「除痘館」が 開設されで急速に普及した。
 関連史跡
 【大安禅寺墓】
 所在地:福井市田ノ谷町
 幕末の歌人で親友の橘曙覧と共に、境内に墓がある。
 【除痘館跡標識】
 所在地:福井市春山(合同庁舎前歩道植栽内)
 この辺りに公立の種痘所「除痘館」があった。
 【笠原白翁碑】
 所在地:福井市足羽上町
 白翁の功績を伝える顕彰碑が立てられている。
 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会
 TEL/FAX 0776-35-0855
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 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂の記「「天然痘」予防の普及に迷信と戦った医師・緒方洪庵
 目次 [非表示]
 漫画にも登場
 蘭学・医学の習得
 天然痘の予防に尽力
 緒方洪庵 突然の死
 漢方をも尊重
 漫画にも登場
 緒方洪庵
 ※緒方洪庵肖像
 緒方洪庵(おがたこうあん)は幕末の時代にあって大阪の地に「適塾」を開き、医術・蘭学を教授すると同時に、天然痘予防の普及に大きな足跡を残した人物です。
 その業績の大きさ故に幕末を描いた様々な作品にも登場しており、漫画であれば手塚治虫の名作「陽だまりの樹」では主人公のひとり手塚良庵の師として、
 また村上もとかの「JIN-仁-」では主人公南方仁の良き理者として描かれています。
 蘭学・医学の習得
 緒方は、文化7年(1810年)に備中の足守藩士・佐伯惟因の三男として生まれました。
 幕末の志士達の中では医者から武士へと進んだ人物たち、大村益次郎久坂玄瑞などがありますが、緒方はこの逆で武士の子でありながら体が丈夫ではないことで、医者の道を進んだと伝えられています。
 緒方は父とともに大阪に上ると、文政9年(1826年)に中天游の「思々斎塾」に入りここで以後4年間蘭学と医学を学んだとされています。
 以後も緒方は天保2年(1831年)には江戸で坪井信道や宇田川玄真に学び、天保7年(1836年)には長崎へ遊学してオランダ人医師のニーマンに医学を学びました。
緒方は天保9年(1838年)に大坂に戻ると医業を始める傍ら、蘭学を教授する「適々斎塾(適塾)」を開設しました。
 ※適塾大阪市中央区北浜3丁目)wikiより
 適塾は開塾されていた凡そ25年の間に3,000人の入門者がいたと伝えられています。
 尚、現在の大阪大学医学部の元になったとも言われています。
 天然痘の予防に尽力
 ※天然痘の被害を伝えるアステカの絵(1585年)パイプによる治療を試みている
 その後医師としての緒方は、嘉永2年に佐賀藩を通じて種痘を入手すると大阪の古手町に「除痘館」を開設しました。
 ここで牛痘種痘法による天然痘の予防医術の普及に務めました。洪庵自身も8歳の時に天然痘にかかっています。
 まだ迷信深かった時代でもあり、牛痘を用いると牛になるなどの流言や、西洋医術そのものに対する抵抗が強かった中で、緒方は地道な普及活動を続けました。
 こうした活動の結果、安政5年(1858年)に緒方の天然痘の予防医術は幕府の公認を得て、正しい牛痘種痘を行う者のみに免許を与える制度を確立させ、天然痘対策に大きな貢献を果たしました。
 緒方洪庵 突然の死
 緒方は、文久2年(1862年)には幕府からの要望を受けて、将軍家の侍医たる奥医師に就くと同時に幕府が設立した西洋医学所の頭取となって江戸に赴きました。
 しかし元来体の弱かった緒方の体を激務が蝕むことになったためか、文久3年(1863年)に享年54にして死去しました。
 洪庵の突然の死の要因として、江戸城西の丸の火事に際して和宮の避難に帯同し、炎天下に長時間晒されたためとも伝えられています。
 漢方をも尊重
 緒方は、西洋医学者としては珍しく、従来からの医療である漢方の活用にも熱心でした。
 この考えは患者に最も合った処置を考慮したものから取り入れていたと言われています。
 漢方の華岡青洲の一派である漢方塾合水堂と、緒方の適塾の門下生同士は常に諍いが絶えず、当時適塾に在籍していた福沢諭吉も認めたほど険悪な関係にありましたが、緒方は華岡一派に対しても常に医者同士として接し、患者の斡旋や意見交換を行うなどの泰然自若とした態度を貫いたと伝えられています。
 こうした逸話は、冒頭の人気作「JIN-仁-」の主人公南方仁のモチーフにも用いられたのではないかと感じられます。
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