💄25)─3・⑧─江戸っ子気質が男女逆転。深川の岡場所と深川の辰巳芸者。〜No.53 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 亭主関白は、かかあ天下・山之神には勝てない。
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 1721年の江戸の人口は、男32万3,285人、女17万8,109人で、男65%、女35%。
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 2025年3月8日 YAHOO!JAPANニュース MANTANWEB「<解説>“かかあ天下”の江戸で進化した“勇み肌”遊女が大人気! 非合法なのに幕府はなぜ黙認 「べらぼう」蔦重の時代の風俗ビジネス(前編)
 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のメインビジュアル (C)NHK
 俳優の横浜流星さん主演のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(総合、日曜午後8時ほか)では、横浜さん演じる蔦屋重三郎があの手この手で吉原を懸命にPRする姿が描かれている。江戸には幕府公認の吉原遊郭のほか、岡場所と呼ばれる非公認(非合法)の遊里が60カ所前後あった。岡場所は吉原に比べて安い料金だったし、面倒なしきたりがないから気軽に遊ぶことができた。
 【写真特集】エグイ! 「吉原」の現実!! ドキドキな場面も? 注目シーン一挙公開
 本来、岡場所は当局の摘発対象だった。検挙された遊女は吉原で3年間ただ働きの罰を受けた。遊女屋が入札で受け入れる遊女を買い入れ、落札金額は町奉行所に納められる。だが、老中首座・松平定信が進めた寛政の改革(1787〜1793年)、老中・水野忠邦が進めた天保の改革(1841〜1843年)の時期を除いて、岡場所の取り締まりは徹底されなかった。
 吉原の外でどのような風俗ビジネスが展開されていたのか、前編と後編の2回にわたって紹介する。
 ◇江戸っ子気質が男女逆転!? 深川の岡場所
 老中・田沼意次が政治の実権を握っていた時期、幕府は岡場所には寛容で黙認状態だった。むしろ推進していたといえよう。田沼が率先してつくった遊里があったからだ。隅田川河口の湿地帯だった中州の埋め立て計画を推進し、東京ドームほどの広さの土地を造成。現在のラブホテルともいえる出会い茶屋、料理茶屋などを設置し、多数の遊女を抱えていた。
 当時、吉原VS岡場所の“ビジネス競争”の最前線に立っていた蔦重は、まさに孤軍奮闘を強いられていた。
 江戸で人気だったのは、深川の岡場所だ。現在の江東区の西半分にあたる地域で、門前仲町とその周辺に7カ所の岡場所があり、江戸最大の遊里だった。富岡八幡宮の門前には料理茶屋が軒を連ね、1軒あたり10人ほどの美女を置いていた。
 江戸の地誌「紫の一本(ひともと)」は、唄と三味線、踊りを披露する芸者も人気で、深川の風流さは吉原をしのぐと指摘している。深川は江戸の南東(辰巳)の方角に位置しており、深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれた。
 やがて辰巳芸者は独自の進化を遂げた。男物の羽織を着用し、芸名も男の名を名乗るようになった。歌舞伎の女形の髪形を好み、歌舞伎役者の髪結いに結わせていた。勇み肌で自分の意志を貫き通す潔いスタイルが特徴。遊女も辰巳芸者の流儀を受け継ぎ、男の名を名乗り、意に沿わぬ客ならカネを積まれてもプイと出て行くような、毅然とした態度だったと伝えられている。
 そんな男気があって粋(いき)な遊女や芸者に、男たちは惹かれた。深川では、“江戸っ子気質”は男女が逆転していたような雰囲気をかもし出していたのであろう。
 ◇「江戸の女は威勢がいい」 人口のいびつな男女比が背景?
 大坂の狂言作者、西沢一鳳(1802〜1853年)は江戸に来て驚いたことがあったという。それは「上方に比べて、江戸の女は威勢がいい」ことだった。
 「江戸では女が少ないために、男に媚(こ)びる必要はなく、自然と女が景気だってきて威勢がいいのだろう。器量がまずくても小さいうちから芸を仕込めば、武家屋敷に奉公できる。行き先はいくらでもあるから、小娘のうちから気が強い。そういう調子だから亭主も女房に頭が上がらない」といった持論を述べている。
 「世事見聞録」という江戸の風俗随筆にも「長屋に暮らす女たちは、夫が働きに出ると集まって夫の愚痴を言い合い、酒を飲んだり、芝居見物に行ったり、博打をしたりして過ごす。夫が帰ってくると煮炊きをしろとこきつかう」と書かれていて、“かかあ天下”ぶりを強調している。
 確かに江戸の女性は少なかった。江戸の町人を対象に1721年、最初の人口調査が実施された。それによると、男32万3285人、女17万8109人で、男65%、女35%の比率だ。江戸は人工的に建設され続けた都市なので男の職人が多かった。商家の従業員も男が多い。その後は徐々に女性が増え、幕末になって町人の男女比はほぼ同率になる。
 深川の男気のある芸者と遊女に人気があったのも、かかあ天下の暮らしに通じているのだろうか。
◇18回も火災で全焼した吉原 その驚くべき理由
 深川がにぎわっていたもう一つの理由として、「深川区史」(1926年)は面白い見解を披露している。「江戸幕府が黙認の態度をとったのみならず、むしろひそかに助成した傾向があったからだ」と述べ、深川の岡場所は「幕府による新開地の地域振興政策」だというのだ。深川は江戸のゴミを埋め立てて造成された新開地だった。ゴミ処分場だった土地にわざわざ住む人はいない。にぎやかな場所にするために深川に「酒色の遊び場」を黙認したのだという。
 周辺に岡場所があった富岡八幡宮は、現在の大相撲の源流となる勧進相撲(入場料金を徴収する相撲)発祥の地でもある。1684年から約100年間、境内で勧進相撲が開催されたが、これも地域振興策の一つだった。
 吉原は江戸時代、18回も全焼火災に見舞われているが、再建するまでの間、他の地域で営業する。これを「仮宅(かりたく)」と言うが、仮宅は深川に設けられることが多かった。人気の岡場所に吉原も仮営業するということで、客が多くなり普段よりももうけが多かった。遊女も自由に外出できた仮宅を喜んだ。このため、吉原では火災が起きても、あえて消火活動をしなかったと伝えられている。18回も全焼したのにはそんな背景がある。
 吉原にとって深川の岡場所は最大のライバルだった一方、持ちつ持たれつの関係だったかもしれない。(文・小松健一
 ◇プロフィル
 小松健一(こまつ・けんいち) 1958年大阪市生まれ。1983年毎日新聞社入社。大阪・東京社会部で事件、行政などを担当。その後、バンコク支局長、夕刊編集部長、北米総局長、編集委員を歴任し、2022年退社。編集委員当時、時代小説「鬼平犯科帳」(池波正太郎著、文春文庫)の世界と、史実の長谷川平蔵や江戸の社会、風俗を重ね合わせた連載記事「鬼平を歩く」を1年以上にわたり執筆。それをベースに「『鬼平犯科帳』から見える東京21世紀〜古地図片手に記者が行く」(CCCメディアハウス)を出版した。現在は読売・日本テレビ文化センター鬼平犯科帳から江戸を学ぶ講座の講師を務めている。
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 3月9日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「数百万円を得ても23歳を迎える前に死ぬ…吉原の遊女を襲った「疫病」が200年後の現代で大流行している理由
 NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は江戸時代中期の吉原が舞台だ。産婦人科感染症の医師で日本大学総合科学研究所教授の早川智さんは「当時の江戸市中には恐ろしい性感染症が蔓延していた。特に吉原などの遊郭の状況は酷く、三ノ輪浄閑寺過去帳によると遊女の死亡年齢は平均22.7歳だった」という――。
 【写真】亡くなった吉原の遊女が投げ込まれた寺の“現在の姿”
■今年のNHK大河ドラマの舞台
 NHK大河ドラマの影響か、江戸の遊郭である吉原が人気である。今までの大河ドラマは戦国時代と幕末動乱の時代が多く、江戸時代も赤穂浪士の討ち入りなど物騒な話だけだったが、昨年の紫式部(後半で刀伊の入寇などはあったが)に続き平和な時代が取り上げられたことの背景にはウクライナ、中東ときな臭い現実の世界があるのかもしれない。
 遊郭といえば売春の場である。そう言ってしまうと身もふたもないが、かつて、皇太子時代の英国王チャールズ3世が王族を「人類最古の職業の一つ」と言って娼婦に擬(なぞら)えたように、売春行為の歴史は古い。性的サービスの代償として金品を得る行為は洋の東西を問わず古代から存在したことは間違いないが、歌舞音曲などの芸能や神殿の巫女などとの兼業も多かった。
 わが国でも宴席に侍る遊女や白拍子といった女性が春をひさぐことは珍しくなく中世から各地に遊郭はあったが、徳川時代、幕府の御膝元である江戸では、吉原に公認の遊郭が置かれた。当初は日本橋人形町にあったが、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転した。最盛期には3000人から5000人の遊女がいたという。
■貧しい農村から少女たちが買い集められた
 貧しい少女が全国から買い集められて、性愛のみならず歌舞音曲、和歌や茶道などの厳しいトレーニングを受けた。花魁と呼ばれる高級遊女を筆頭に美貌と教養を身に着けた遊女は現在のスターのような扱いを受け、なじみになって性的関係を結ぶには数回通って巨額の(現在なら100万円単位の)散財が必要であったという。
 農業生産技術や物流が未発達で諸藩の福祉政策も無きに等しい当時、ひとたび凶作になれば餓死者が続出したという。農村で餓死するよりはと言って幼い娘を人買いに託すという悲劇は第二次大戦前の日本でも見られた(これが二・二六事件を起こした軍人たちのモチベーションになったことを思い出していただきたい。もちろんクーデターはもってのほかであるが)。
 莫大な借財を背負って買われてきた遊女たちは、遊郭で教育係の女主人や先輩遊女のトレーニングを受け、12歳くらいで禿(かむろ)として見学を兼ねた先輩遊女の介助を手始めに17〜18歳でデビューする。20代前半で十分な蓄財ができれば晴れて遊女を卒業して好きな男性と所帯を持つこともできたし、それ以前に豪商やお金のある武士に身請けされて妾、場合によっては正妻の座に就くこともできた。ただ、こういった幸運を手にしたのはほんのごく一部である。
■遊女の死亡年齢は平均22.7歳、その死因は…
 遊女の投げ込み寺とされた三ノ輪浄閑寺過去帳では、遊女の死亡年齢は平均22.7歳であったという(西山松之助『くるわ』)。過去帳に死因は記載されていないが、その多くは感染症、特に梅毒と結核であったと考えられる。実際、この両疾患は骨に変化がみられることがあり、浄閑寺に限らず江戸時代の墓地から出土した遺骨にはしばしば特有の変化が観察される(鈴木尚『骨が語る日本史』)。
 梅毒の感染経路のほとんどは性的接触であるため、男女ともに性器あるいは口腔に硬結(しこりのこと)や潰瘍ができる。ただ、梅毒の特徴はこの初期の症状が痛みを伴わないことで数週間以内に自然に軽快する。その後、数カ月を経て全身に発疹(ほっしん)がみられるが、これも強い痛みや痒みはなく、やがて軽快してゆく。
 このように症状が軽く、自然に軽快することが、梅毒患者が感染を自覚せず性交渉によってさらに次の感染者を広げてゆく原因である。
■日本では新規患者が毎年「倍増」
 そもそも梅毒とは細菌の一種「Treponema pallidum」による慢性感染症である。未治療の場合、垂直感染では死産や重篤な先天障害、成人でも神経血管梅毒により死に至る。 21世紀現在、毎年世界で1200万人以上の新規感染があり、発展途上国や、先進国でも経済的に困窮したアフリカ系米国人、欧州でも昨今増加している移民に多い。わが国では過去10年間に新規患者が毎年倍増しており、報告数も一昨年、昨年は1万4000人を超えている。従来、ハイリスクと考えられてきた男性同性愛者(MSM)に加えて、異性間交渉による若年女性の感染や感染を知らないで妊娠した女性における胎児・新生児の垂直感染が増加している。
 梅毒の起源については、聖書の昔から地中海沿岸に存在した病原体が変異によって強毒性を獲得したという説とコロンブスが新大陸に到達して現地の病気を持ってきたという二説があったが、1998年に梅毒トレポネーマの全遺伝子配列が解明され、16世紀に新大陸からもたらされたことが判明した。さらに、過去10年世界的に拡大しているSS14株は20世紀に主流をしめていたニコルス株と遺伝子配列に差があり、生物学的性状や抗菌薬感受性に差がある可能性が高い。
■僧侶も含めて100人中60〜70人が感染
 16世紀初頭、イタリアに広まった梅毒は瞬く間にヨーロッパ全土に広がったのみならず、1512年には日本において“唐瘡(トウカサ)”として初めて記載された。ヨーロッパに伝来して20年を経ずして聖フランシスコ・ザビエルを追い抜き、火縄銃を追い越しての渡来である。
 おりしもルネサンスに比すべき日本の戦国時代、梅毒は社会の上下を問わず広がった。有名な武将では黒田如水加藤清正結城秀康(家康の次男)、前田利長(利家の長男)、浅野幸長、斉藤義龍などが梅毒で死亡したと疑われる。関ヶ原石田三成との義に殉じた大谷義継も通説ではハンセン病であるが梅毒で顔が崩れていたとする説もある。
 先に述べた吉原をはじめとする遊廓における売春が公認されていた江戸時代、梅毒は特に庶民階級で広がっていった。中神琴渓は『生生堂医譚』(1795年)の中で40年前は梅毒を羞じて交際を断つものが多かったが、近年は僧侶も含めて100人中60〜70人が罹っており、「江戸の水道水のまぬと梅毒を病まぬは男の内にあらず」と言い放つ者がいると嘆いている。
 江戸中期に香月牛山は『牛山活套』(1699年)において「楊梅瘡」は最終的に廃人になるために「人之を悪み嫌ふこと、大風に類する也」と記されているが、江戸後期には梅毒が川柳や狂歌に歌われる「軽い病気」になっていった。
■なぜ江戸中に感染者が広がったのか
 橘尚賢『徽瘡證治秘鑑』(1799年)ほか、多くの梅毒治療の書籍があらわされたが、温泉療法や漢方薬の組み合わせで到底、治療効果は期待できるものではなかった。
 解体新書で知られる杉田玄白はその回想録『形影夜話』(1802年)に「已に痘瘡・黴毒、古書になくして後世盛に行はるる事あるの類なり」とし、江戸初期の輸入感染症であることが当時の医師の共通認識だった。
 さらに、浅田飴で知られる幕末の大家・浅田宗伯は『栗園醫訓』に「婦人を診する、必ず先ず経期の当否、胎産の有無を詳らかに問ふべし。壮男を診する、黴毒の有無を諦視すべし」(女性を診たら妊娠の有無を念頭に置き、壮年の男性を診たら梅毒を鑑別疾患に入れるように)としている。
 明治維新前の日本では一夫多妻が認められており、さらに男性が遊女や芸妓と関係を持つこと、女性の役者買いや同性愛者の陰間買いなどが褒められることではないにせよ、公然と行われてきた。特に江戸では参勤交代で地方から江戸屋敷に上ってきた武士とその使用人、職人などの男性が多く、性のはけ口として吉原をはじめとする遊郭の存在は大きかった。その中で、人気の遊女や遊び方のガイドブックが、大河ドラマにも登場した『吉原細見』で、現在の風俗雑誌やSNSのようなものである。これでは性感染症患者は減るわけがない。
■「過去の病気」と思われていたが…
 この梅毒に有効な薬が初めて開発されたのは20世紀になってからである。1909年ドイツの細菌学者パウル・エールリッヒは弟子の秦左八郎との共同研究で、ヒ素化合物をスクリーニングし606番目の化合物サルヴァルサンの効果を報告した。さらに1928年にアレクサンダー・フレミングがアオカビから発見したペニシリンが、1943年には梅毒にも有効であることが判明し、やっと人類は梅毒をコントロールできるようになったのである。
 その後、1950年代から世界的に梅毒患者は激減し、日本でも年間数百人以下になったため、筆者が医学部学生から研修医の頃には「過去の病気」という認識であった。それがこの10年どうして激増したのか。
 一つには経口避妊薬の普及によってコンドーム使用が激減したことにある。加えて、SNSの発達により、非CSW(性産業従事者)との接触機会が増えたこと、そして社会の不安定化が指摘されている。実際、中東や東欧で戦争や革命によって難民が発生すると梅毒をはじめとする性感染症が増加することが知られており、その背景には性暴力や生活のために春を売る女性がいることが報告されている。また先に述べたトレポネーマ自体の変異も関わっている可能性がある。
■「君子危うきに近寄らず」
 ここまで述べた梅毒に加えて古典的な性病である淋菌感染症クラミジアヘルペスも増加傾向にある。特に淋菌感染症は抗菌薬耐性の頻度が増えており、その背景には淋菌以外の感染症、特に感冒や非細菌性下痢症に対する抗菌薬の濫用があると考えられている。
 一方で、かつて死の病として恐れられていたHIV感染症/エイズは抗ウイルス薬の発達でたとえ感染してもコントロールできるようになり、子宮頸がんや陰茎がんの原因となるHPV感染も有効なワクチンで制御できるようになった(日本では政府の接種勧奨見合わせで遅れていたが最近は回復してきている)。
 最後に、性感染症にかからないようにするにはどうしたらよいか。大原則はよく知らない人と性的関係を持たないようにすること、性風俗に行かないこと、どうしてもしなければいけない場合(?)には、せめてコンドームの使用をお願いしたい。オーラルセックスでも感染するので行為の前から装着するのが望ましい。
 もう一つ、予防内服という手段が注目されている。先に述べたHIV感染は逆転写酵素阻害薬というウイルスの複製と組み込みを抑える薬を行為の前後で服用することでリスクを下げられるので筆者はMSMやCSWといったリスクの高い患者さんには処方している。ただし、もちろん自費であり結構高額である。梅毒、クラミジア、淋菌に関してはここ数年、広域抗生物質ドキシサイクリンの予防内服を勧める先生もおられる。実際、行為後の内服に一定の感染予防効果はあるし値段も安い。しかしながら予防投与を続けることで耐性菌が出現したり、腸内細菌叢に変化を生じさせたりする可能性は否定できない。
 同性異性を問わず、ほかの相手と性的接触を持つことは人間の本能の一つであり、これを否定することはできない。しかしながら「君子危うきに近寄らず」という古人の知恵は大事にしたいものである。

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 早川 智(はやかわ・さとし)
 日本大学総合科学研究所 教授
 1958年岐阜県関市生まれ。83年日本大学医学部卒業、87年同大大学院修了。同大医学部助手、助教授、教授を歴任し、2024年4月より現職。専攻は、産婦人科感染症、感染免疫、粘膜免疫、医学史。日本産婦人科感染症学会理事長、日本臨床免疫学会監事、日本生殖免疫学会名誉会員。著書に『ミューズの病跡学I 音楽家編』『ミューズの病跡学II 美術家編』『源頼朝歯周病 歴史を変えた偉人たちの疾患』(診断と治療社)、『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)などがある。

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 火事で全焼すること20回以上…それでも巨大遊郭・吉原が「女性が身体を売る場所」として現代に残るまで
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 YAHOO!JAPANニュース PRESIDENT Online「1回350円で男に身体を売った…NHK大河では絶対に描けない江戸に4000人いた「最下級の性労働者」たちの悲哀
女房が他の男と行為をしているのを亭主は物陰から見守った
 かつての江戸には、個人営業の街娼「夜鷹」が約4000人もいた。彼女たちはどんな理由でその仕事についていたのか。作家の永井義男さんの著書『江戸の性愛業』(作品社)より、一部を紹介する――。(第2回)
 「夜鷹」と現代の「立ちんぼ」との決定的な違い
 夜鷹よたかは、夜道に立って男に声をかける、いわゆる街娼である。現代の「立ちんぼ」に相当するが、大きな違いもあった。
▼図版1に、夜鷹のいでたちが描かれている。画中に「辻君於利江つじぎみおりえ」とあるが、辻君は夜鷹の別称。要するに、「夜鷹のお利江」である。
 恋川春町二世作 ほか『忠臣再講釈 6巻』、山口屋藤兵衛、天保3[1832].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)図版1:恋川春町二世作 ほか『忠臣再講釈 6巻』、山口屋藤兵衛、天保3[1832].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)
 現代の立ちんぼは、男に声をかける場所こそ街頭でも、性的サービスをするのはラブホテルなど、屋内である。
 ところが、江戸の夜鷹は物陰で、地面に敷いた茣蓙ござの上で性行為をした。図版1の夜鷹も、茣蓙を持っているのがわかろう。
 そして、茣蓙の上の性行為を描いたのが、▼図版2である。(編集註:本記事では不掲載)
 図版2で、女が男に――
 「おめえ、明日の晩からはの、早く来て、髪結床かみゆいどこの角に待っていねえ。そして、口明けに、はいってくんねえ。きれいなうちが、いいわな」
――と、言っている。口明けは、その日の最初のこと。
 馴染みの客となると、夜鷹もそれなりに情が湧くのであろうか。男に対して、口明けにさせてやるから、髪結床の角で待て、と言っているのだ。
 蕎麦1杯と同じ値段
 なお、図版2の夜鷹は健康そうで、福々しい顔をしているが、実際には年齢が高く、不健康な女が多かった。
 夜鷹の揚代あげだい(料金)は、蕎麦1杯の値段と同じとも、24文とも言われた。
 比較はむずかしいが、たとえば文化15年(文政元年、1818)の相場で、24文は現在のおよそ350円に相当するであろう。つまり、夜鷹は350円で「一発」をさせていた。
 揚代の安さから、また地面に敷いた茣蓙の上で性行為をすることから、夜鷹は最下級のセックスワーカーといえよう。
 『当世武野俗談』(宝暦7年)に、夜鷹について――
 {鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ヶ所より出て色を売、此徒凡このとおよそ人別四千に及ぶと云いう。}
――とあり、宝暦(1715~64)のころ、江戸にはおよそ4000人の夜鷹がいたという。
 夜がふけると、街角のあちこちに夜鷹が立っていたと言っても過言でない。
40~60歳の女性が多かった
 江戸の夜鷹について述べるとき、必ずと言ってよいほど引用されるのが、国学者狂歌師の石川雅望まさもちの著『都の手ぶり』(文化6年)である。わかりやすく現代語訳すると、次の通りである。
 若い女はまれで、たいていは40から5、60歳の老婆が多い。老いを隠すため、ひたいに墨を塗って髪の抜けたのをごまかしたり、白髪に黒い油を塗ってごまかしたりしているが、それでも、ところどころ白髪が見えて、見苦しく、きたない。
 原文では、「みぐるしうきたなげなり」と表現している。
{人生50年と言われた時代にあって、40~60歳の女は老婆と評されてもおかしくない。}
 吉原から岡場所や宿場に流れ、さらに岡場所や宿場でも通用しなくなった女が、食べていくため、やむなく路上に立つ例が多かった。
 そのため、夜鷹は年齢が高く、また性病などの病気持ちが普通だった。
 どんな男が買っていたのか
▼図版3で、石川雅望の「みぐるしうきたなげなり」がわかろう。
 式亭三馬作 ほか『女房気質異赤縄 5巻』、西宮新六、文化12[1815].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)図版3:式亭三馬作 ほか『女房気質異赤縄 5巻』、西宮新六、文化12[1815].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)
 こんな夜鷹を買う男もいたわけだが、多くは武家屋敷の中間や、商家の下男などの奉公人、日雇い人足だった。
 彼らとて吉原や岡場所で遊びたかったであろうが、その薄給では夜鷹がせいぜいだったし、梅毒・淋病などの性病に対する無知もあった。
 当時、避妊・性病予防具のコンドームはなかったから、セックスワーカーは客の男と、いわゆる「ナマ」で性交渉をしていた。客の男から性病をうつされたセックスワーカーは、今度はうつす側になる。
 夜鷹はセックスワーカーとしての年月が長いだけに、性病の罹患率は高かった。
 江戸の夜鷹の総数を約4000人と述べた『当世武野俗談』から、およそ100年後の、幕末期の状況が、『わすれのこり』(安政元年)に――
 今其その風俗極めて鄙いやし、浪銭六孔を以て、雲雨巫山うんうふざんの情けを売る、本所吉田町、また鮫が橋より出て、両国、柳原、呉服橋外、其外所々に出るうちにも、護持院が原とりわけ多し。
――とあり、夜鷹の風俗は相変わらずいやしかった。
 浪銭六孔は、四文銭6枚のことなので、24文。
 幕末期になっても、夜鷹の揚代は24文だった。100年たっても、値上げはなかったと言えよう。
 仕事場は草が生い茂る空地
 さて、護持院原ごじいんがはらに、夜鷹がもっともたくさん出没したという。
 かつて護持院という寺があったが、享保2年(1717)の火災で、他の場所に移転した。その後、跡地は火除地ひよけちとして、空き地のままで残された。この空き地を、護持院原と呼んだ。現在の東京都千代田区神田錦町のあたりである。
▼図版4は、画中に「護持院原」とあり、まさに護持院原の夜鷹が描かれている。(編集註:本記事では不掲載)
 客の男は、腰に刀を差しているので武家屋敷の足軽であろうか。足軽はいちおう士分だが、最下級の武士である。
 護持院原は草が生い茂る空地だけに、夏墓が群れ、冬は寒風が吹き抜ける。そんな中、地面に敷いたござの上で、あわただしい情交をしたわけである。
 図版4を見ると、葦簀よしずを巡らしている。せめてもの夜風を防ぐ工夫だろうか。また、周囲に竹で垣根を作っている。この夜鷹の、言わば縄張りなのかもしれない。
 頻発する「買い逃げ」と暴力
 いっぽう、▼図版5の本文に――
 {お文も所々を歩き、いまは采女うねめが原へ夜ごと通う身となり、}
――とあり、お文という女がついに夜鷹に身を落としたことがわかる。
 采女が原には馬場があったが、周囲には筵むしろ掛けの見世物小屋や屋台店が集まっていた。そして、夜がふけると夜鷹が出没した。現在の、東京都中央区東銀座のあたりである。
 図版5で、夜鷹が男の手を取り、
 「もしもし、遊びねえ」
 と、引っ張っている。
 現在の銀座に、かつて夜鷹がいたことになろうか。
 夜鷹は屋外で商売するため、タチの悪い男が揚代を払わずに逃げたり、暴力をふるったりすることが少なくなかった。
 豊里舟作 ほか『かんなんの夢枕 2巻』、[西村屋与八]、[天明3(1783)].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)図版5:豊里舟作 ほか『かんなんの夢枕 2巻』、[西村屋与八]、[天明3(1783)].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)
▼図版6は、客の男が金を払わずに逃げ出した光景である。(編集註:本記事では不掲載)
 金を払わずに逃げる行為を「買い逃げ」と言った。男はあわてていたので、手ぬぐいを忘れていた――
 {女「むざと買い逃げさそうか」
 男「南無三、これは高うつくわえ」}
――と、夜鷹はこれ見よがしに忘れた手ぬぐいを振り、いっぽうの男は逃げながら、悔しがっている。
 『世のすがた』(著者不明)に、文化(1804~18)のころ、手ぬぐい1本の値段は68文とある。
 男は24文を踏み倒したつもりが、かえって高くついたわけである。
 夫公認で働く
 図版6の夜鷹は、買い逃げをした男に見事、しっぺ返しをしたが、一般に夜鷹はリスクの大きいセックスワーカーだった。
 そのため、妓夫ぎゆうと呼ばれる男が用心棒として付き添う。妓夫は、牛、牛夫とも書いた。
 夜鷹の亭主が妓夫を務めることが多かった。女房が茣蓙の上で男と性行為をしているのを、亭主は物陰からそっと見守っていたことになろう。
 戯作『卯地臭意うじしゅうい』(天明3年)に、夜鷹と妓夫が描かれている。簡略に紹介しよう。
{季節は夏。
 夕闇が迫るなか、本所吉田町の裏長屋を出た夜鷹ふたりと妓夫が、両国橋を渡って隅田川を越え、商売の場所である両国広小路に向かう。
 夜鷹のお千代とお花は、ともに柿渋色の単衣を着て、太織ふとりの帯を締めていた。
 妓夫の又兵衛はお千代の亭主で、やはり単衣を着て、唐傘をかついでいた。}
  永井義男『江戸の性愛業』(作品社)永井義男『江戸の性愛業』(作品社)
 又兵衛は、女房ともうひとりの、つまり夜鷹ふたりの用心棒を務めていることになろう。
 ともあれ、当時の夜鷹と妓夫の風俗がわかる。
 江戸時代、女の職業は少なかった。亭主が病気や怪我で働きに出られなくなると、たちまち生活が困窮する。
 女の代表的な職業は女中と下女だが、原則としてすべて住込みだった。住込みをしていたら、病気や怪我の亭主の面倒を見ることができない。女房が働きに出ようと思っても、職場がなかったのだ。
 笑い話になるほど日常の風景だった
 やむなく、夜鷹に出る女は少なくなかった。
 『元禄世間咄風聞集』に、次のような話がある。
{芝あたりの裏長屋に住む浪人は毎晩、妻を夜鷹に出し、自分は妓夫をしていた。
 隣に住む浪人も、同じく妻を夜鷹に出していた。
 ある日、ふたりは話し合った。
 「いくら生活のためとはいえ、自分の女房が不義をしているのを見るのはつらい。貴殿の女房をそれがし、それがしの女房を貴殿が見張るのはどうじゃ」
 「それは名案じゃ」
 こうして、お互いに相手の妻の妓夫をつとめることになった。
 その夜、いつもの場所で夜鷹商売をした。
 浪人が、隣人の妻をうながした。
 「もはや四ツ半(午後11時ころ)だから、帰ろうではないか。大家が長屋の路地の木戸を閉じてしまうと、面倒だぞ」
 「お気遣いなされますな。今夜ばかりは、夜がふけても木戸はあいております」
 「なぜ、そのようなことがわかる」
 「今夜は、大家のおかみさんも稼ぎに出ています」}
 大家の女房まで夜鷹に出ているという落ちがあり、一種の笑い話になっているが、実情は悲惨である。
 よほどの貧乏長屋だったに違いない。
 盆も正月も知らずに世を終わる
▼図版7は、夜鷹がふたり連れで、商売に行くところ。ここも「辻君」と記されている。
 絵には描かれていないが、妓夫が付き添っていたはずである。
 図版7:蓬莱山人 ほか『花容女職人鑑』、刊.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)図版7:蓬莱山人 ほか『花容女職人鑑』、刊.国立国会図書館デジタル 図版8では、夜鷹が男を引っ張って――
 {「これさ、まあ、ちょっと寄らねえけりゃあ、離さねえ。話があるからよ。このとろは、鼻でばかりあしらうの。おおかた鼻についたのだろう」}
――と、恨み言を述べている。
 曼亭鬼武作 ほか『慎道迷尽誌 3巻』、享和3[1803].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)図版8:曼亭鬼武作 ほか『慎道迷尽誌 3巻』、享和3[1803].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)
 かつて馴染み客だった男が、このところ自分を避けるようになっていたので、夜鷹は夜道で出会ったのをさいわい、強引に引っ張りこもうとしている。
 男からすれば、なんとも迷惑であり、腹立たしかったろう。
 しかし、女の方からすれば必死だった。ひと晩のうちに何人かの客を取らないと、それこそ食べていけなかったのである。
 戯作『好色一代男』(井原西鶴著、天和2年)に――
 {夜発(やほつ)の輩(とも)がら、一日ぐらし、月雪のふる事も、盆も正月もしらず。}
――とある。夜発は夜鷹の別称。
 夜鷹はまったくのその日暮らしで、月見も雪見も、盆も正月も知らずに世を終わる、と。
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