✨67)─2─マルクス主義系過激派は崩御した昭和天皇の宗教的葬儀を妨害した。〜No.246No.247 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 中国共産党は、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
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 2025年3月8日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「過激派による葬列妨害が」「政府が頭を抱えたのはブッシュ大統領の席次」 皇室担当記者が見た昭和天皇大喪の礼」全内幕 
 国際的にも史上最大規模の葬儀になった
 平成元年2月24日、崩御した昭和天皇の「大喪の礼」が執り行われた。空前絶後の規模となった式典が開催されるまで、「政教分離」の原則や参列者の席次を巡ってかんかんがくがくの議論が沸き起こる。「昭和の終焉(しゅうえん)」を実感させた葬儀の内幕を、当時の皇室担当記者・斉藤勝久が振り返る。
 【写真を見る】昭和天皇のお見舞いに向かう上皇后夫妻
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 昭和天皇は昭和64年(1989年)1月7日、87歳で亡くなった。それから49日目に行われた葬儀「大喪の礼」は、164カ国の元首らが参列する史上最大規模の葬礼となる。
 政府は天皇崩御の翌日の1月8日、国の儀式として「大喪の礼」を2月24日、新宿御苑で行うことを正式に決めた。
 1月11日、そこへアメリカから大きなニュースが飛び込んできた。ブッシュ次期大統領(父ブッシュ)の大喪の礼参列が決まったのである。同20日に就任する新しい米大統領の来日で、東京を舞台に活発な弔問外交が行われることが確実となり、世界第2位の経済大国だった日本に要人の弔問使節を送る国がどんどん増えていく。
 素早い訪日決定は新政権の日米関係重視をアピールするもので、ブッシュ氏は記者団の質問に答え、亡き陛下をこう称賛した。
 「天皇陛下は日米の強固な関係を築く上で、(終戦直後に日本に進駐した連合国軍最高司令官の)マッカーサー元帥の元に行って会談した日以来、大変な尊厳を持ってその役割を果たされた。私が大喪の礼参列によって重視したいと思ったのは過去ではなく、現在および未来である」
 それでは、宮中独特の儀式はどのような手順で進められたのか。
 「霧の中にいるように幻想的な空間」
 陛下のご遺体は1月8日夕、一般の納棺に当たる「御舟入の儀」でヒノキの棺(ひつぎ)に納められ、お住まいの吹上御所1階の居間に安置された。翌9日夕にはその柩(ひつぎ)を一回り大きい棺に納める儀式が続く。新天皇ご夫妻と皇太后さまが最後のご対面をして、柩は密封された。
 その後、亡き陛下の柩は19日夜、月明かりの下で、思い出深い御所から宮殿に移された。葬送の時まで安置しておくのが「殯宮(ひんきゅう)」である。それは国の重要な儀式が行われる、最も格式が高い宮殿中央に位置する正殿「松の間」に置かれた。すでに二重の柩に納められているご遺体は、さらに一回り大きい長さ2.2メートル、重さ100キロ近いヒノキの棺に納められる。三重となり重さ400キロとなった柩は、殯宮の奥(内陣)にある高さ75センチの厚畳の上に安置された。
 そして、一般国民が亡き陛下にお別れする「殯宮一般拝礼」が同22日から宮殿の東庭で始まる。これまで一般参賀の際に亡き陛下がお立ちになった位置には大きな遺影が掲げられ、寒風や冷雨の中、3日間で約34万人が拝礼した。
 松の間の殯宮では、天皇、皇族、旧皇族ら親族や、宮内庁皇宮警察の関係者らが交代で参列して柩を見守り、亡き陛下をしのぶ「殯宮祗候(しこう・そば近くで仕えること)」という行事が、昼夜を問わず連日続くのだ。
 筆者は宮内記者会の代表の一人として同25日夕に参列した。すっかり日は暮れており、床と壁などが白い布で覆われた殯宮はほの暗く、一礼して中に入ると、そこは霧の中にいるように幻想的な空間だった。柩のある内陣を囲む外陣(げじん)の前でまた一礼して着席すると明かりは消され、柩のそばの明かりだけとなる。戸は閉め切られ、参列者15人が40分間、わが国の最も古い葬儀の形とされる殯(もがり・仮安置された遺体のそばで別れを惜しみ、死者の復活を願いつつも、その死を確認する)をしばし体験することになった。
 「政教分離」で激しい論争
 ところが、日程は決まったものの、今度は葬儀の在り方をめぐって大もめになる。新憲法下で初めての大喪の礼は、具体的な式の内容を規定した法律がないため、「政教分離」の原則を巡る激しい論争が、葬儀の直前まで続いたのだ。
 1927年の大正天皇の大喪儀はすべて神道形式の国葬として行われたが、今回は憲法第20条3項の「国は、いかなる宗教的活動もしてはならない」(要旨)に触れないよう、政府は宗教色の排除に腐心する。最終的には、葬儀は2部制となり、前半は皇室行事の本葬に当たる「葬場殿の儀」で、神道式の葬送儀式。後半の国の葬儀「大喪の礼」は宗教色をなくすことで決着した。
 それだけではない。政教分離の最大の問題は、葬場殿(新宿御苑)での鳥居の設置であった。原案にはなかった鳥居が議論終盤になって復活し、建てられることになった。皇室の伝統的儀式を重んじる自民党の保守派が、大正天皇の大喪には高さ8メートルの大きな鳥居が建ったのだから、今回も鳥居は絶対に欠かせないと政府を突き上げたからだ。これに対し護憲派は、憲法に反する神道色の強い葬儀は認められないと批判したのである。
 筆者の当時の取材では、初めに鳥居設置を計画していた宮内庁は、昭和天皇が倒れた1988年秋になると、「憲法の関係で鳥居の設置は無理になった。大正天皇の大喪との大きな違いは鳥居がないことだ」と大方の幹部は否定的だった。その鳥居が復活したのだ。
 “妥協の産物”
 特に宮内庁の担当者らが驚き、怒っていたのは、首相官邸サイドが「鳥居を設置するのは、宮内庁側の要望を受け入れたからだ」と説明したためだ。「鳥居が復活したのは保守派が押し返したからであり、それを宮内庁のせいにされるのは我慢できない」という声を宮内庁内で何度も聞いた。
 「政府と宮内庁の対立」が報じられる中、宮内庁藤森昭一長官は、大喪を2週間後に控えた2月10日の記者会見で「鳥居を要望したのは宮内庁側だ」と述べ、政府との対立はないことを強調した。大喪を直前にしてようやく事態は収拾されたが、宮内庁の幹部がこう解説してくれた。
 「鳥居にこだわる自民党保守派の巻き返しに困った官邸が最後に頼りにしたのは、官房副長官から宮内庁入りした藤森長官だった。官邸の立場が分かっている藤森さんは調整役を務め、鳥居は宮内庁からの要望ということにしたのでしょう。官邸と宮内庁が一体となってお代替わりがスムーズに進むよう送り込まれた藤森さんならではの仕事だった」
 こうして、“妥協の産物”とも言われる高さ2.9メートルの小さな鳥居が登場することになる。
 大きく分かれた各党の対応
 さらには憲法問題が表面化したことで、大喪への参列をどうするのか各党が決断を迫られた。特に野党第1党の社会党は、土井たか子委員長が崩御後間もない1月18日に昭和天皇の戦争責任について、「大日本帝国憲法上、天皇統治権を総攬(そうらん・一手に握って収めること)し、軍の統帥権の最高責任があり、戦争責任を否定することはできない」と発言していたことで注目されていた。最終的に国会議員個人の判断に任され、土井委員長ら大半の議員は宗教色の強い前半の「葬場殿の儀」を欠席し、後半の「大喪の礼」だけ出席することになる。
 公明党社会党同様に「葬場殿の儀」は欠席の方針としたが、待機の意味で「葬場殿の儀」から着席し、事実上の参列となった。自民党民社党はいずれにも参列、共産党はいずれも欠席することとし、各党の対応が大きく分かれた。
 明治天皇大正天皇など歴代の天皇の柩を担いだことで知られているのが、比叡山の麓、京都市の八瀬に住む「八瀬童子(やせのどうじ)」である。今回も伝統を守りたいと担ぎ手を宮内庁に願い出たが、認められなかった。
 一説には約700年前、京を脱出した後醍醐天皇比叡山に逃れる際、八瀬の住民らが天皇の輿(こし・乗り物)を担いで守った功績から、税が免除され、天皇上皇らの輿や柩を担ぐようになったという。今回は出番がなくなり、時代の流れを感じさせたが、八瀬童子会の代表7人が大喪に参列することになり、皇室とのつながりは保たれた。
 大喪会場の席次が問題に
 政界をまきこんでいた汚職事件の余波もあった。亡き陛下が111日間のご闘病に入った頃から「リクルート事件」の捜査が続き、リクルートと接点のあった宮沢喜一蔵相(のち首相)らが次々と辞任している。
 天皇崩御の後も閣僚の辞任が続き、1月26日、新経済企画庁長官の認証式をどこで行うかが問題となった。いつも総理大臣の親任式や閣僚の認証式を行う「松の間」では、前記のように「殯宮祗候」が行われていたからである。
 殯宮の隣の部屋で行うのはいかがなものかという意見もあったが、閣僚認証式は重要な儀式なので正殿で行うのが適当と判断され、隣の竹の間で行われた。
 いよいよ海外から大喪参列の弔問使節団が、2月19日以降続々と来日する。
 日本政府は、山を切り開いて造成する天皇陵の工事期間の1カ月半を利用して、その間に世界各国のVIPを受け入れる準備を進めてきた。国際的葬儀として、最多の119カ国が参列した1980年のチトー・ユーゴスラビア大統領の国葬を大きく上回る空前の規模になることが確実となる。大喪前日の23日にはブッシュ米大統領ミッテラン仏大統領ら「世界の顔」が東京に集結し、活発な弔問外交が展開された。
 ここで日本政府が頭を抱えたのが大喪会場の席次・拝礼順の問題だった。元首クラス、首相クラスなどにグループ分けして就任順に並ぶのが外交上の慣例だが、そうすると各国から注目されるブッシュ大統領が元首級の末席になってしまう。
 そこで外務省は知恵をしぼり、昭和天皇が訪問した国や会った人を優先させるという基準を考え出す。その結果、ブッシュ大統領は仏、西独の大統領と並んで最前列に着席することになったのである。
 当日の模様
 すったもんだの末に、ようやく大喪の礼当日を迎える。平成元年(1989年)2月24日、その日はみぞれ交じりの冷たい雨が降り、日中でも気温3度の厳しい寒さになった。亡き陛下の柩が載る大きな車を中心とした車列は皇居から国会議事堂前、赤坂御用地前などを通って新宿御苑へ。沿道を、20万を超える人波(午後を含めると57万人余)が埋め尽くす。
 葬場に到着した柩は「葱華輦(そうかれん)」に移された。黒の漆塗りで、屋根に葱(ねぎ)の花を表す飾りがある天皇、皇族らの輿で、三重の柩を載せて総重量は1.5トンになる。それを身長168センチ前後でほぼ同じ体型の皇宮警察官51人が黒の古装束で担ぐ。
 内外の参列者約1万人が見守る中、皇室行事の「葬場殿の儀」は午前10時半、時代絵巻さながらの徒歩列で始まった。宮内庁の楽師が物悲しい調べを奏で、黄色や白のノボリを先頭に、祭官らがゆっくりと歩む。ひときわ大きい葱華輦が「ザッ、ザッ、ザッ」と担ぎ手たちの玉砂利を踏みしめる音を残して進む。その後に天皇、皇后両陛下が続いた。
 葬列が終わると、天皇陛下は鳥居をくぐって葬場殿に入り、弔辞に当たる御誄(おんるい)を分かりやすい口語体で述べた。
 「皇位に在られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と世界の平和を祈念され、未曾有(みぞう)の昭和激動の時代を、国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます」
 アメリカの三大テレビが中継
 同11時45分に前半の儀式が終了し、葬場殿の幕の門が閉められた。10分余りの休憩時間の間に慌しく、政教分離の観点から鳥居や大真榊(おおまさかき・榊は神棚や祭壇に供える植物)が撤去され、祭官も退席した。入れ替わるように、それまで休所で待機していた社会党の国会議員約70人らが入場する。
 11時58分に小渕恵三官房長官が「大喪の礼」の開会を宣言し、両陛下が葬場殿前に進み出て、参列者全員が亡き陛下に1分間の黙とうをささげた。続いて、国民を代表して竹下登首相ら、三権の長が弔辞を朗読。この後、外国弔問代表の拝礼が始まり、ベルギーのボードワン国王を先頭に元首級55人を含む226人が昭和天皇に別れを告げた。宗教色を排除した儀式は午後1時5分に終了する。大喪はアメリカの三大テレビが生中継を交えて大きく取り上げたのをはじめ、世界各国に伝えられた。
 過激派による葬列妨害
 現場取材した筆者が、参列者や外国特派員らに大喪の感想を聞いてみると、「宗教色のある前半の皇室行事の方が、日本の伝統が感じられて興味深かった」という声が多かった。これに対し、政府が無宗教にと神経をとがらせた大喪の礼は「無味乾燥だ」とあまり評価されなかった。
 「葬儀に宗教色がある程度出るのは仕方ない。天皇の葬儀に鳥居を建て、神道で行ったら、軍国主義が復活すると心配する人はいないのでは」
 と、政教分離論争を笑う人もいた。
 国葬としては珍しく屋外で行われた大喪は、多くの参列者にとって、計2時間半を超える厳しい寒さとの闘いになってしまった。暖かい休所は、後半の大喪の礼が始まった頃からずっと満員だったのだ。
 この日の儀式はまだ続く。柩は再び車に移され、車列を組んで新宿御苑から高速道を使って午後3時15分、八王子市の武蔵陵墓地へ。この間に、大事になりかねないアクシデントがあった。午後2時前、調布市中央自動車道沿いの雑木林で爆発が起き、大量の土砂が高速道上に滑り落ちた。過激派による葬列妨害のゲリラで、近くにいた機動隊員が急ぎ土砂を片付け、葬列は約20分後に予定通り現場を無事通過したのだった。
 皇室行事の「陵所の儀」が行われる頃には雨がやみ、柩の車を挟んで天皇、皇后両陛下をはじめ皇族方や、ノボリを持った154人の徒歩列が、昭和天皇陵となる「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」まで約400メートルの参道を進んだ。柩は夕刻、副葬品とともに地下2.9メートルの石槨(せっかく・石で造った、柩を納める室)に納められ、埋葬される。
 「近代史上、空前の規模」の葬儀
 副葬品には、お人柄がしのばれるものが多い。衣類など身の回り品のほか、目立つのは生物学者らしくご愛用の顕微鏡、ご自分で採集した貝などの標本、ご著書の『那須の植物』『伊豆須崎の植物』など。お好きな大相撲に関するものもあった。天皇らしい副葬品としては新年祝賀の儀などで着用された最高位の勲章、大勲位菊花章頸飾(けいしょく・ネックレス)があるが、戦前の大元帥位を示すものはなかった。
 両陛下は翌日も午前から、大喪の礼に参列したブッシュ大統領ミッテラン大統領ら13カ国の元首や王室関係者らと個別に会見された。弔問外交が終わった26日夜、外務省が大喪参列国は「南アフリカも在京総領事が参列していた」として1国増え、164カ国だったと発表した。南アが人種隔離政策(アパルトヘイト)を取っているため、「南ア参列」を事前に公表すると、他のアフリカ諸国が反発し参列中止国が続出するかもしれないと懸念したのである。
 内外の関心を集め、他国と比べても「近代史上、空前の規模」の葬儀となった。その大喪の取材を終え、筆者は多くの日本人と同様に「激動の昭和」が本当に終わったと感じたのだった。
 斉藤勝久(さいとうかつひさ)
 ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。近著に『占領期日本 三つの闇 検閲・公職追放・疑獄』(幻冬舎新書、1月29日発売)。
 「週刊新潮」2025年3月6日号 掲載
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画が日本の現代アートに、賛成する日本人が多数で、反対する日本人は少数であった。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
2020-02-18
🦲4〕─18─表現の自由。日本の現代アートは「人の写真(例えば皇族の写真)を燃やす」こと。〜No.19  
2020-11-07
🦲4〕─21─あいちトリエンナーレ2019。愛知県知事リコール運動敗北。〜No.22 
2021-10-14
🦲4〕─24─昭和天皇肖像燃やす動画と「表現の不自由展かんさい2021」。〜No.25   ・   ・   ・   
 韓国・北朝鮮中国共産党アメリカ、ロシア、その他、多くの国々は昭和天皇ヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪と認めている。
 アメリカの一部では、昭和天皇が住んでいる東京・皇居の上に原爆を投下して焼き殺す事を望んでいた。
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 日本人の共産主義者無政府主義者キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産党員教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 昭和49(1974)年 虹作戦。極左テロリストグループの東アジア反日武装戦線は、日本政府に対する反乱の一環として昭和天皇を爆殺する計画を立てたが実行されず未遂に終わった。爆弾は、昭和49年8月から昭和50年5月にかけて三菱重工爆破事件など連続企業爆破テロに使用した。
 革命思想家・太田竜の窮民(きゅうみん)革命論。
 極左テロリストの反天皇反日思想は、朝日新聞朝日ジャーナルの左翼的論調の影響を受けていた。
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