🏞114)─1・D─徳川幕府は小笠原諸島を外敵の侵略から守った。文久元(1862)年。~No.448No.449No.450 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の媚中派政治的エリートと反米派進歩的インテリ達は、当時の武士や庶民とは全然違う。
 現代の反宗教無神論のメディア界人や教育者も、当時の知識人・教養人とは全然違う。
   ・   ・   ・   
 WAC 幕末の「尖閣」?サムライたちの小笠原諸島
 幕末にも「尖閣」があった⁉
 東京からはるか南1000キロにある小笠原諸島。美しいだけでなく、太平洋の要衝ともなりうるこの孤島を巡り、実は幕末に米・英そして江戸幕府が角逐していたのだ。小笠原発見の歴史から、「自国領」として決死の覚悟で同島を日本領とした幕末のサムライたちの決断に迫ります。
 ※ワック 2003年制作作品

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 近代日本が、民族主義軍国主義化したのも皇国史観国家神道を創設したのも正しい選択であった。
   ・   ・   ・    
2025-02-18
🏞138)─1─イギリスとフランスの植民地争いは日本の脅威であった。~No.529No.530No.531 
2019-01-02
🏞114)─2─禁門の変。四ヵ国艦隊下関砲撃事件。ベルギー国王レオポルド2世は、日本を植民地とし所望した。1863年~No.451No.452No.453・ @ 
2025-02-16
🌏24)─1─日本が軍国化した原因はヨーロッパ列強のベルリン会議であった。明治17年~18年。~No.74No.75No.76  
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 欧米列強は、北太平洋捕鯨基地と北太平洋航路の中継地として小笠原諸島を日本から引き離して自国領にしようとしていた。
 徳川幕府は、外圧に屈する事なく小笠原諸島を日本領であると宣言して外国勢力を排除した。
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 アメリカの西部開拓は、東海岸に到達し、さらに西のアジア・中国を目指して太平洋に乗り出した。
 フロンティア・スピリットは、ハワイ王国を手中にし、さらに西に侵出して小笠原諸島琉球・台湾・フィリピンに魔の手を伸ばしていた。
 その時、徳川幕府は、そして明治新政府は。
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 日本領土である周辺島嶼を守る事において、当時の日本は現代の日本とは違う。
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2023-02-25
⏱14:ー1ー中国共産党尖閣諸島の次に沖ノ鳥島小笠原諸島を狙っている。平和ぼけの日本人。~No.41 
2025-02-16
⏱14:ー3ー日本の最東端「南鳥島」を中国が取りにくるって本当!?~No.43 
2024-07-10
⏱46:ー1ー小笠原諸島と伊豆諸島周辺での中国漁船サンゴ密漁問題。~No.113No.114 
2024-07-11
⏱47:ー2ー日本の大陸棚にブイ設置は小笠原諸島沖ノ鳥島尖閣化である。~No.116 
2025-01-14
⏱76:ー1ー中国共産党琉球分離独立工作に協力する媚中派と反米派の日本人達。~No.173 
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 日本を外敵の侵略から守っていた徳川幕府のサムライ達は、賊軍として朝敵にされたが、明治新政府の官吏となって外交や内政を担当した。
 当時の戦うサムライ官吏と現代の戦わないエリート官僚は全然違う。
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 現代の左派系歴史教育は、歴史の本当の事を半分以上隠して子供達に教えない。
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 琉球新報
 最初に住み着いたのは欧米人、ハワイの先住民だった 「ボニンアイランド」と呼ばれる小笠原諸島 日米に翻弄されてきた太平洋の島<小笠原と沖縄―返還50年の先に>3
 公開日時 2019年04月12日 13:09
 更新日時 2019年04月12日 15:13
 #小笠原諸島
 この記事を書いた人
 アバター画像琉球新報社
 米国から渡ってきた先祖について調べ続けるセーボレー孝さん。米国にいる子孫と初対面した際「お前の鼻はセーボレー家の鼻だ」と言われたという=東京都小笠原村の父島
 小笠原諸島英語圏で「Bonin Islands」と表記する。「ボニン」は「無人(ぶにん)」のなまりとされる。長く無人島だった小笠原諸島に最初に住み着いたのは、1830年にやってきた欧米人やハワイの先住民らの二十数人だった。76年に明治政府が領有を宣言し、島民は「帰化人」となる。太平洋戦争後の23年間の米国統治を経て、1968年に日本に返還された。
 「新島民も増えて、新しい文化もどんどん入っている。欧米系島民も負けないようにしないとね」
 小笠原村役場の総務課長、セーボレー孝さん(61)がそう笑ってみせる。1830年に父島にたどり着いた米マサチューセッツ州出身のナサニエル・セーボレーさんの子孫で、5代目に当たる。1968年の返還時に「孝」に改名したが、島民は今も英名の「ジョナサン」や「ジョナ」と呼ぶ。
   ・   ・   ・   
 滋賀報知新聞
 小笠原・父島旅行記(中)3人の探検家の歴史と今
 2023年3月8日(水) 第19601号|東近江・湖東 特集
   ・   ・   ・   
 忘れられた<植民地> - 立命館大学
 PDF https://www.ritsumei.ac.jp>acd>k-rsc>lcs>kiyou
 小笠原諸島を拠点とする社会的・経済的実践は,日本帝国の法との緊張関係をはら. みながらも,帝国の力を超えて自律的に展開していたのです。 −65−. 忘れられた<植民地>(石原 ...
   ・   ・   ・   
 『近代日本と小笠原諸島 移動民の島々と帝国』 - J-Stage
 https://www.jstage.jst.go.jp>article>jsr>_pdf>-char
 植民地化のための手続に象徴的に示されるように,これらの島々は,ヨーロッパ大. 陸の法体系に依拠する「合法的」過程によって,主権国家パラダイムのなかに包. 含され ...
   ・   ・   ・    
 新篇 小笠原島誌稿 - 和光大学リポジトリ
 PDF https://wako.repo.nii.ac.jp>record>files
 【要旨】19 世紀初頭まで無人島(むにんじま、もしくはむにんとう)と公式に呼ばれてい. た小笠原諸島は、日本 ... 第一次大戦後、ドイツの植民地であった南洋群島大日本帝国 ...
   ・   ・   ・   
 自由な帝国の臨界 - 京都大学
 PDF https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp>kjs_013_001
 またペ リー は、小笠 原 諸島 に植民 地建 設 の ための株 式. 会 社 を創 設 し ... 帝国主義」『帝国主義植民地主義』. お茶の水書房。) ハ ー ト、 マ イケ ...
   ・   ・   ・  
 主権的な法と越境する生活世界 - J-Stage
 https://www.jstage.jst.go.jp>article>jsr1950>_pdf
 て,国 民帝国は 「植民地形成過程や国際法適用過程の相違に応 じてパ ッチワーク ... して,「 日本帝国」 による小笠原諸島の占領が進む中で, 「外国人」「帰化人 ...
   ・   ・   ・   
 こだわりの旅
”こだわりの旅”は、小笠原諸島の先住欧米系島民やミクロネシアと日本の文化が交錯し、時代とともに薄れゆく独自の島の文化を島の公認ガイドがご案内いたします。
 太平洋に浮かぶ南海の小さな島々、小笠原諸島は江戸時代末期から今に至るまで僅か200年弱、様々な歴史をたどりました。幕末の動乱期には、ジョン万次郎を通事として乗船させた幕府軍艦「咸臨丸」が初めての太平洋横断の米国から帰国の翌々年、調査船として小笠原に派遣されています。
 黒船を率いて浦賀に来航した、米国のペリー提督もこの島に寄航して蒸気船の燃料、石炭貯蔵地としてこの島の土地を買収したり領有権を主張したりしています。さらに欧米各国は、当時照明用ランプの灯油として使用していた鯨油を確保する為に遥か太平洋のこの地まで多くの捕鯨船を送り出していました。
 欧米各国の多くの捕鯨船が水や食料の補給にこの島へ立ち寄っていたと記録に残っています。ハーマン・メルヴィルの海洋長編小説 「白鯨」 にも、小笠原近海は記述されているほどです。
 昭和に入り島は太平洋戦争で最大の激戦地となった「硫黄島」も都・小笠原村の行政区域として抱え、硫黄島では現在も戦没将兵の遺骨収集をしています。戦後は米軍の駐留により小笠原諸島の全島民が内地への強制移住を余儀無くされ、島嶼が日本に返還されてまだ40年余りです。しかし小笠原諸島は東洋のガラパゴスと形容されるほどの自然を有し、近年小笠原は、ユネスコ世界自然遺産に登録されにわかに脚光を浴び始めました。
 ”こだわりの旅”は、教科書にも載っていない知られざる島の短くも数奇な歴史と、大きすぎるほどの大自然を兼ね備えた小笠原諸島を企画者が島の観光協会に出向滞在し現地で培った島の友人と協力をし企画ご案内をさせて戴きます。どうぞお気軽にお問い合わせください。
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 海洋政策研究所
 島嶼資料センター
 1862(文久元)年
 幕府が「咸臨丸」を小笠原に派遣、探検調査や測量を行う 島民に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得る
 2020年05月18日
 幕府は、外国奉行水野忠徳を団長とする派遣団を形成し、小笠原に派遣した。一行は、島民の名前や年齢、妻子の有無などを調査した(Ref.1)。また、父島、母島両島を測量して地図や真景図を作成した。真景図には、1675年の島谷の探検(記事No. 1-3)によって付けられた島名や地名、山名などが記載され、住居や畑の位置、島民の暮らしの様子も描かれた(Ref.2, 3)。
 水野は島民に対し、本島は日本の属島であり、巡視の目的は開拓のためであることを伝え、島からの退去を求めるのではなく日本からの移民と和合し共に暮らしていくことを呼びかけ、小笠原嶋取締規則、小笠原嶋港規則について説明した。島民らはそれらに従うことを了承した。(Ref. 1, 4)。
 水野の報告書を受けた幕府は、小笠原の開拓と入植を決め、八丈島で入植者を募集した。入植者は原則として夫婦とする幕府の方針により、男女各15名、計30人の移住が決定し、文久二年8月に大工や鍛冶屋ら8人とともに父島に到着した(Ref. 5)。
 酉十二月十九日初見小笠原島図(Ref. 6)
 所蔵:国立公文書館
 兄島見返山から父島を見た図(Ref. 6)
 所蔵:国立公文書館
 父島二見港の図
 「合衆国石炭置場地所」とあり、ペリーが購入した土地が記されている(Ref. 6)
 所蔵:国立公文書館
 父島大村の図(Ref. 6)
 所蔵:国立公文書館
 父島奥村の耕地の図(Ref. 6)
 所蔵:国立公文書館
 母島列島向島、姉島、妹島、姪島(Ref. 7)
 所蔵:国立公文書館
 母島沖村港の図(Ref. 7)
 所蔵:国立公文書館
 母島沖村の人々の様子(Ref.7)
 所蔵:国立公文書館
 tit
 Ref.1:「小笠原島開拓再興一件 二」『続通信全覧類輯之部雑1289』(外務省外交史料館)
 Ref.2:「小笠原島真景図父島之部(小笠原島開拓再興一件附録 父島及母島鱗介等ノ図)」『続通信全覧類輯之部雑1299』(外務省外交史料館)
 Ref.3:「小笠原島真景図母島之部(小笠原島開拓再興一件附録 父島及母島鱗介等ノ図)」『続通信全覧類輯之部雑1299』(外務省外交史料館)
 Ref.4:「小笠原島開拓再興一件 三」『続通信全覧類輯之部雑1290』(外務省外交史料館)443-44
 Ref.5:「小笠原島開拓再興一件 九」『続通信全覧類輯之部雑1296』(外務省外交史料館)743-751
 Ref.6:「小笠原島真景図 父島の部」『小笠原島紀事』巻19
 Ref.7:「小笠原島真景図 母島の部」『小笠原島紀事』巻20
 参考資料
 参考1:田辺太一「小笠原島巡視」『幕末外交談』富山房, 1898,pp.193-196
 参考2:R・D・エルドリッヂ『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』鹿児島:南方新社, 2008, pp. 42-44
 参考3:田中弘之『幕末の小笠原』中央公論社, 1997(中公新書)pp. 136-187
   ・   ・   ・   
 激動幕末 開国の衝撃    - 国立公文書館
 - Ⅳ.小笠原回収
 幕末の日本は、海外から鎖国の戸を押し開けられただけではなく、みずから軍艦を派遣して平和的に領土を回収しています。1856年(安政3年)にワシントンで出版された『ペリー提督日本遠征記』をいち早く入手した幕府は、そこに記された当時「無人島」の名で呼ばれていた小笠原の開発プラン(小笠原への入植と捕鯨基地化)に注目し、領有を主張できる歴史的実績を背景に、同島を回収し、実効支配することを決定しました。それはたんに領土を確保するためではなく、捕鯨事業等によって国益増進を図ろうとする安藤信正(あんどうのぶまさ)・久世広周(くぜひろちか)ら幕府首脳の開明的な政策の一環だったと言われています。
 文久元年12月4日(1862年1月4日)、外国奉行水野忠徳(みずのただのり 1815-68)以下百余名が咸臨丸(かんりんまる)に乗って品川沖を出航。一行のなかには、艦長で明治の鉄道建設に貢献した小野友五郎(おのともごろう 1817-98)、通訳の中浜万次郎(なかはままんじろう ジョン万次郎 1827-98)そして維新後に『幕末外交談』を著した田辺太一(たなべたいち 1831-1915)など錚々たる顔ぶれが揃っていました。咸臨丸は12月19日に小笠原諸島の父島に着き、水野らは入植者のアメリカ人セボリー、イギリス人ホートン、ウェッブらと会談して日本領であることを宣言し、さまざまな調査と測量を行ったのち、翌年1月、島民を集めて今後の島の規則を読み上げ、その英文と和文各1通を渡しました。
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 小笠原諸島徳川幕府
 島嶼研究ジャーナル 第8巻1号(2018年9月)
 2018 年は小笠原諸島返還50周年
 2018年は小笠原諸島返還50周年小笠原諸島(下線の島嶼
 髙井 晉
笹川平和財団特別研究員)
1 小笠原群島の発見と住民の定住
 小笠原群島の発見  小笠原村公式サイト3によると、小笠原群島は1593 年、信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により発見されたと伝えられているとする。国際法先例研究会4によると、小笠原群島は、これより前の1543年にスペイン人の探検隊により発見されたが、洋上からこれを望見しただけで上陸をしなかったとする。
 最初に小笠原群島に上陸したのは小笠原貞頼で、1593年に文禄の役の後に関東に帰る途中で同島を発見し、同地が日本国に属し自分が島の長であることを示す木標2個を建て、地図や産物を持ち帰って徳川家康に献上している。徳川家康は、この島を小笠原島命名し、貞頼の領地としたという。小笠原群島は、貞頼の発見後200年以上にわたって定住者がなく無人島であった。小笠原群島の英語名Bonin Islandsは、無人島に由来する。
 1820年頃になり米国や英国の捕鯨船が漂着することもあったが、1827 年に英国の軍艦ブラッサム号(The Blossom)の艦長は小笠原群島に英国旗を建て、英国国王の名において占領すると記した銅板を残すなど、一連の象徴的な併合行為を行って引き揚げた。1828年には、ロシアの軍艦も同島に来航し、1830年には米国人2名、英国人、イタリア人、デンマーク人各1名が、ハワイからカナカ人の男女20数名を伴って上陸し、定住を開始した。1853年になると父島に寄港した米国人のペリー提督は、住民から貯炭所用地を購入し、後に小笠原群島が東洋航路の中継地として相応しいことを米国政府に進言したが、同政府は領有意思を示すことはなかった。
 江戸幕府による領有意思
 江戸幕府は、1862年1月に小笠原群島へ巡検使を派遣し、幕使6名を仮役所へ留めた。8月になり八丈島からの移民36名を受け入れたが、10か月足らずの後の1863年5月になって小笠原開拓が困難になったため家屋、食糧、開墾地を定住島民に分配し、日本人全員が内地に引き揚げた。明治時代には、民間人から小笠原への入植許可の申請があり、小笠原群島と本土間に船舶の往来が頻繁となったため、明治政府は小笠原群島に何らかの措置を採ることを検討したが、外国からの介入を懸念して結論に至らなかった。
 その後、1873年に小笠原群島の住民が、駐日米国公使に対し小笠原群島の管轄と住民の保護について照会したが、米国政府は小笠原群島に何らの権利をも主張しないと回答した。明治政府は、漸く1875年に小笠原群島へ調査隊を派遣することを決定したところ、英国も神奈川県駐在の領事を軍艦に搭乗させて小笠原群島へ派遣した。政府の調査隊は、小笠原群島の住民に対し同群島が日本に帰属することを認めさせた。
 明治政府は、1876年に小笠原群島に施行すべき新法令として島規則、港規則、税則を制定し、小笠原群島に官庁を設立し管轄権を行使する旨を東京在住の各国公使に通告した。ドイツ、フランス、オランダ、スペインは、かかる通告を単に了承しこれに従うと回答したが、米国と英国は、条約上、治外法権を共有しうる立場から、規則の一部を否認すると抗議してきた。その後、寺島外務卿と米英両国との間で書簡の応酬が繰り返されたが、両国といえども、日本の領有権そのものを否定していたわけではなかった。かくして、日本の行政的、立法的措置と通告に対する各国政府による明示または黙示の容認により、小笠原群島の帰属問題は最終的な解決を見た。1877年にはロバート・マイヤーズと定住者4人が最初に日本人に帰化した。その後の5年間で59人の初期定住者が帰化日本人となった。
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 夜明け前(開陽)
 夜明け前の公式サイト
 風の吹くまま気の向くまま
 身のまわりから自然科学&函館の話
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 2023年12月19日 (火)
 江戸幕府小笠原諸島の領有権主張(1862年12月19日)
 ココログ「夜明け前」公式サイト
 小笠原諸島東京湾から南南東に約1,000km離れたの太平洋上に位置する聟島列島父島列島母島列島火山列島硫黄列島)の4つの列島で構成されており約30の島々があります。小笠原諸島の多くの島は無人島ですが父島と母島に約2600人が住んでいます。硫黄島南鳥島には自衛隊が常駐しています。
 小笠原諸島周辺地図
 小笠原諸島の一部を発見したのは16世紀中頃の大航海時代のスペイン船です。17世紀にはオランダ東インド会社が探検隊を派遣し多おくの島々を発見しています。日本人で初めて小笠原諸島にたどり着いたのは寛永9年(1632年)9月に遠州灘で遭難した貨物船でした。この船は阿波国徳島県)の船頭の勘左衛門が所有する船で、紀伊国和歌山県)の荷主の長右衛門らが乗り込み7人で江戸にミカンを運んでいました。船は20日ほど漂流し寛永10年(1633年)2月に小笠原諸島の母島にたどり着きました。翌朝、勘左衛門は亡くなっていましたが、生き残った6人は船の廃材を利用して新しい船を作り食糧を積み込み島を出発しました。父島、聟島列島八丈島を経由して同年5月に伊豆国下田(静岡県下田市)に生還しました。
 長右衛門ら6人は下田奉行所に漂流の報告をしました。島の発見の報告を受けた江戸幕府は探検隊を派遣することにしました。この探検隊を率いたのは泉州堺出身の探検家の島谷市左衛門です。航海術に優れていた市左衛門は寛文9年(1669年)に長崎代官の命で「富国寿丸」を建造していましたが、延宝3年(1675年)4月5日に同船で下田を出港し八丈島を経由「して同年4月29日に父島に到着しました。5月1日から36日間にわたり周辺の測量や地図の作成を行い、父島に「此島大日本之内也」と記しを残し祠を建てました。同年6月6日に父島を出発し12日に下田に帰還しました。市左衛門は帰還後に「延宝無人島巡見記」を著しています。
 江戸幕府小笠原諸島を発見したものの遠く離れた島々をしばらく放置しました。江戸幕府小笠原諸島の領有に注目したのは幕末にマシュー・ペリー提督率いる黒船来航の後です。安政3年(1856年)に米国で出版された「ペリー提督日本遠征記」に小笠原諸島捕鯨基地化の計画が記されていたことから、江戸幕府は島谷市左衛門の探検と調査報告をもとに小笠原諸島の実効支配をすることを決めました。
 江戸幕府外国奉行水野忠徳に小笠原諸島に向かうことを命じました。文久元年(1862年)12月4日、約100名を率いた水野忠徳は「咸臨丸」で品川を出航しました。「咸臨丸」は同年12月19日に父島に到着、水野忠徳は島民と入植していた外国人に小笠原諸島は日本の属島であると領有宣言をしました。このとき外国人との通訳はジョン万次郎こと中濱万次郎が担当しました。島谷市左衛門の調査記録がなければ小笠原諸島は日本ではなかったかもしれません。
 さてここまで何の説明もなく「小笠原諸島」と書いてきましたが、当初は「小笠原諸島」という名前はなく単に無人島と呼ばれていただけでした。享保7年(1722年)に伊豆と相模の両国が幕府に無人島探検を具申していたところ、徳川家康の命を受けて文禄2年(1593年)に小笠原諸島を発見した小笠原貞頼の子孫と称する小笠原貞任という人物が「巽無人島記」の記述を根拠に無人島への渡航許可と領有権を申請しました。申請は許可されましたが、「巽無人島記」の「富国寿丸」による調査記録の盗用であることが判明し小笠原貞任は重追放の処分となりました
 しかしながら、この出来事によって無人島群は小笠原諸島と呼ばれるようになったのです。貞任が提出した「辰巳無人島訴状幷口上留書」に父島や母島など島々の名前が書かれていました。小笠原諸島の島々の名前は貞任の虚偽から付けられたものと考えられています。
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 2023年12月19日 (火) 旅行・地域, 経済・政治・国際, 今日は何の日, 知る人ぞ知る, 歴史 | 固定リンク | 0
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 今日は何の日?徒然日記
 その日の出来事や記念日、歴史ウラ話を楽しくわかりやすく紹介する歴史大好きブログです
 2015年7月 9日 (木)
 小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳…幕府終焉とともに死す
 慶応四年(1868年)7月9日、幕末期、外国奉行などを歴任して活躍した幕臣=水野忠徳が59歳で死去しました。
・・・・・・・・・・・
 わずか500石の旗本だった水野忠徳(みずのただのり)が、時の老中=阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)に、その才能を認められて西丸目付に抜擢されたのは天保十五年(1844年)4月の事でした。
 Mizunotadanori600a以来、様々な役職をこなしつつ、、嘉永五年(1852年)には浦賀奉行を、翌・嘉永六年(1853年)4月には長崎奉行に任ぜられますが、お察しの通り、これは、近年騒がしく日本の近海を行き来する外国船に対する交渉役として、彼が幕府からの信頼を得ていたという事・・・
 ・・・にしても、メッチャ惜しいですやん(^-^;
 そう、あのペリーが黒船に乗ってやって来るのは嘉永六年(1853年)6月3日・・・忠徳が赴任した長崎ではなく浦賀へ来ちゃった(6月3日参照>>)ために、ペリーとの交渉の場での彼の出番は無かったのです。
 その代わりと言っちゃぁ何ですが、続く7月18日に長崎にやって来たプチャーチン率いるロシア船=ディアナ号他4隻(10月14日参照>>)との交渉を、川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)の補佐という形で行い、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけています。
 さらに、その後に長崎を訪れたイギリスの東インド艦隊とも交渉を重ねて、日英和親条約に調印した事から、安政五年(1858年)には外国奉行となって、日英修好通商条約や日仏修好通商条約も締結させました。
 そんな中で、外国との格差が生まれていた金銀貨の交換問題や、外国に開港する港の選定などにも尽力した忠徳は、人呼んで「屏風水野」・・・これは、外国との交渉に挑むおエライさんを、その屏風の後ろからコッソリ指導すると事でついた異名で、まさに、優秀な官僚でないとできない役どころでした。
 とは言え、途中に安政の大獄があったり、ロシア士官殺害事件の責任を取ったりで、いち時、左遷されたりもしましたが、外国奉行に返り咲いた文久元年(1861年)、歴史に残るある事をやってのけます。
 それは、世界遺産になった事も記憶に新しい、あの小笠原諸島・・・
 『近世日本国防論』によれば、
 この遥か南海の島々は、それまでの幕府の認識としては、伊豆七島の流れから、日本の物としての多少の防衛意識はあったものの、ほぼ眼中になく、打ち棄てられたような状態で、結局は、江戸時代を通じて「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれているのが現状でした。
 しかし、ここに来て、外国の捕鯨船が周辺を行き交い、イギリスやロシアが、ここを海軍の基地とすべく領有権を主張・・・幸いな事に、この時は、そこにアメリカが参入して潰し合いをしてくれたおかげで、辛うじて日本領となっていたのでした。
 そこを忠徳は見逃さなかった・・・
 早速、その年の暮れ、幕府の了解を得て小笠原諸島に乗りこんだ忠徳チームは、現地を探検して測量・・・すでに住んでいた島民たちには、ここが日本領である事、また、彼らを日本国が保護する事などの約束を取り付けて、
 「ここは、古くは文禄二年に小笠原貞頼(おがさわらさだより)なる人物が島に渡って島内を統治し、「小笠原島」という名前を賜ったものの、波荒く、行き来が難しい事から、いつしか通う人もいなくなっていたところを、享保十三年にその貞頼の子孫を名乗る宮内貞任(さだとう=小笠原貞任)が渡航と領有を江戸幕府に願い出るものの、やはり風波荒き中、往来ができずにいたけれど、今回は心機一転、忠徳チームによってしっかりと統治する事を、永久に記録すべく、ここに碑を建立します」
 てな内容(だいぶはしょってます)の石碑を建立したのです。
 そう、実効支配・・・その後、時の老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)(1月15日参照>>)の名のもと、諸外国に書簡で以って、事を報告し、それを認めさせた事で、小笠原諸島は日本の領土という事が確定したのです。
 そんな忠徳さん・・・幕府官僚の中でもいち早く、鎖国継続の不可能&攘夷の不可能を悟った人物だと言われていますが、それ故か、当時、進められていた公武合体(朝廷と幕府が協力)(8月26日参照>>)に強く反対したため、文久二年(1862年)に箱館奉行に左遷されてしまい、しかもわずか2ヶ月でそれも辞任・・・さらに、翌文久三年(1863年)の小笠原長行(おがさわらながみち)のクーデター(1月25日参照>>)に同調し、結果的に失敗に終わった事で謹慎処分となってしまいました。
 それでも屈しない忠徳・・・慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いの敗北(1月9日参照>>)の後、江戸城内での会議(1月23日参照>>)にて、新政府軍との徹底交戦を主張するも、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が恭順姿勢を取る事を決意した(1月17日参照>>)事から、失意のうちに隠居して、武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住ます。
 しかし、それから間もなく、忠徳は病に倒れてしまうのです。
 『偉人豪傑言行録』によれば、
 もはや、手の施しようも無いほどになった夜・・・それまで横たえていた身体が、にわかにムクッと起きあがり
 「今すぐ、礼服の準備をせい!
 俺が君命をたずさえて、諸国に伝えに行かなアカンのや!」
 と叫んだ後、亡くなったと・・・
 それは慶応四年(1868年)7月9日、まさに、戊辰戦争が北へ北へとと延びていた頃・・・元号が明治と変わる2ヶ月前の事でした。
 屏風の後ろから幕府を支え続け、最後まで徹底交戦を訴えた忠徳には、「生きるも死ぬも幕府とともに…」という思いがあった事でしょう。
 そういう意味では、まさに幕府とともに・・・幕府の終焉とともに幕を下ろした彼の人生ではありましたが、おそらく、その気持ちは、未だ決戦の真っただ中だったに違いありません。
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 小笠原諸島は、東京都小笠原村の行政区域を指す。東京都特別区の南南東約1,000キロメートルの太平洋上にある30余の島々からなる。総面積は104平方キロメートル。南鳥島沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。小笠原諸島は別名をボニン諸島(Bonin Islands)という。

 概要
 父島列島
 母島列島
 両列島の距離感を表した画像
 南鳥島を除く小笠原諸島は海洋地殻の上に形成された海洋性島弧である。太平洋プレートがフィリピン海プレートの東縁に沿って沈み込むことによって誕生した。
 自然
 オセアニア区の地図。北西端のOC0109が小笠原諸島である
 →詳細は「小笠原諸島の自然」を参照
 小笠原諸島は生物地理区の区分上において、日本で唯一オセアニア区に属している。また、形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリアカガシラカラスバトハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタン(セブアノ語版)といった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。周辺の海域では多くの魚類、鯨類(クジラやイルカ)、サンゴが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では特に固有のカタツムリの動物相と維管束植物の植物相が豊富である一方、人間が持ち込み野生化したヤギも生息しており、森林の破壊や表土の流失、固有植物の食害などの問題をもたらしている。

 江戸時代
 1543年10月(天文12年9月) - スペインのルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy López de Villalobos)が指揮するガレオン船サン・ファン号(San Juan)によって、火山列島が発見される。この時発見されたのは小笠原群島であるとの説もある。1639年(寛永16年)、ヘンドリックセン・マティスクワストとアベル・ヤンスゾーン・タスマンがオランダ東インド会社総督の命を受け、「エンゲル」と「フラフト」の2隻が探検に向かった。2隻は7月21日に多数の島を発見。この時エンゲル島、フラフト島と命名されたとされる島は母島と父島であると思われる。スペイン船が沖ノ鳥島を発見アブレオホス(Abreojos)と命名
 1565年 スペイン船が沖ノ鳥島を発見し、パレセベラ(PardceVela)と命名した。
 寛永9年12月(1633年1月)、船主で船頭の勘左衛門、荷主の長右衛門ら7人が乗り蜜柑を積んで江戸へ向かっていた船が遠州灘で遭難。同船は寛永10年2月20日(1633年3月29日)ごろある島にたどり着いた。その島は母島であると思われる。翌朝勘左衛門は死亡していたというが、残りの者は船を作り、八丈島経由で5月7日に下田に帰還した。生還者の報告を受け、幕府は延宝3年(1675年)4月に探検船「富国寿丸」を派遣した。船は4月29日に父島を発見。以後主な島の探検が行われ、また父島に祠が作られて、その脇には「此島大日本之内也」等と記されたという。その後6月6日に小笠原を離れ、6月12日に下田に帰投した。
 1639年 オランダ船が沖ノ鳥島を発見し、エンベルスドロッテ(Engelsdroogte)と命名した。
 1702年(元禄15年) - スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 (Nuestra-Senora del Rosario) が西之島を発見し、ロザリオ島 (Isla de Rosario)と命名する。
 1722年(享保7年)春、伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申[26]。その準備が行われていたところ、小笠原貞任なる人物が、先祖の小笠原貞頼が文禄2年(1593年)に伊豆の南で無人島を発見し、所領として安堵されたという写本を提出して渡航許可を求めた。最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなったが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになる。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島等の名前が記されており、各島の名前も彼の命名が元になったと考えられる。
 ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している。1817年にフランスのアベル・レミューザが三国通覧図説の地図を載せて小笠原諸島を「BO-NIN諸島」として紹介した。以後、ヨーロッパの地図でボニンという名称が使用されることとなったという。
 1774年(安永3年)3月、八丈島の地役人服部源六、山下輿総らが幕府の命令を受けて無人島探検を行うが、鳥島近海で暴風に遭い、土佐国に漂着したため失敗に終わったという。
 1779年(安永8年)、ジョン・ゴア(英語版)(John Gore)が指揮するイギリス軍艦「レゾリューション」と「ディスカバリー」が火山列島を望見する。
 1789年 英国のウィリアム・ダグラス(William Dauglas)が沖ノ鳥島を発見し、ダグラス礁(Dauglas Reef)と命名
 ハワイに碇泊中の「ブロッサム」
 19世紀に入ると欧米の捕鯨船が寄港するようになる。1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名した。「ランジット」は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である。1825年にはイギリスの「サプライ」が父島を訪れ、1826年にはイギリス捕鯨船「ウィリアム」が父島で難破した。1827年6月8日、小笠原諸島を探索していたイギリス海軍の調査船「ブロッサム」が到着[35]。「ウィリアム」の元乗組員で、島に残っていた2名を発見した。「ブロッサム」艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーは父島をロバート・ピールにちなんでピール島、母島をベイリイ島などと名付け、領有を宣言した。彼は、発見したのは『日本誌』などの掲載されている島とは別の島であると主張した。この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかったようである。1828年、ロシア調査船「セニャーヴィン」(フョードル・リトケ艦長)が来訪。
 1830年6月26日(文政13年5月10日) - ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人5人と太平洋諸島出身者25人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する。
 1835年(天保6年) - 駐マカオ貿易監督官であるチャールズ・エリオット(Charles Elliot)が、イギリス政府に対して父島へ軍艦を派遣し、当地を占領するよう要請する。これは清朝に対するイギリスの根拠地を求めたためであり、この要請を受けて、イギリス海軍は軍艦ローリー号(HMS Raleigh)の派遣を決定する。
 1835年(天保6年) - 父島のリチャード・ミリチャンプ(Richard Millichamp)がロンドンに一時帰国し、イギリス政府に小笠原移住民の保護を請願する。
 1837年8月2日(天保8年7月2日) - ローリー号が父島に来航し、各種の調査を行う。また当時の父島の人口を42名と報告している。この調査の結果はイギリス政府に報告されたが、3年後に勃発したアヘン戦争とそれに伴う南京条約の結果、イギリスは香港を獲得したため、小笠原諸島の占領は見送られた。
 1839年天保10年) - 蛮社の獄により、渡辺崋山ら11名が小笠原諸島渡航を企てた罪で捕縛される。その後の取り調べで小笠原諸島渡航に関しては疑いが晴れるが、4名が獄死し、5名が押込となった。高野長英は永牢(終身刑)となり、渡辺崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、蟄居を命じられる。
 1840年天保11年) - 陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら6名は2か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還する。
 1846年(弘化3年) - 出島のオランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(Joseph Henrij Levijssohn)が長崎奉行に対し、小笠原諸島の実効支配を行うよう忠告するが、幕府はこれを黙殺する。
 1847年(弘化4年) - ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航。後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになる。
 1849年(嘉永2年)9月 - 父島が海賊の襲撃を受け、数人の島民女性が拉致された上、家畜、食糧、医薬品や現金2000ドルを強奪される。
 1853年(嘉永6年)6月 - アメリ東インド隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島二見港に寄港する。島民のために牛、羊、山羊や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入したほか、3条13項から成るピール島植民地規約を制定し、自治政府設置を促す。
 1853年(嘉永6年)8月28日 - ピール島植民地規約に基づき、ピール島植民政府が設立され、ナサニエル・セイヴァリーが首長となる。
 1857年(安政4年) - モットレー一家が母島(沖村)に居住する。
 1862年文久元年) - 幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じアメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣し、測量を行う。一行が小笠原諸島を巡視した際作成した小笠原島視察復命書に「島々の配置は、南北に連なり、あたかも家族のように並んでいるので、中央を父島群島、南を母島群島とし、北を聟島群島とする。」と記載され、これが父島、母島、聟島の由来にもなった。また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得る。同年6月(文久2年5月)駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告。
 1863年9月(文久2年8月) - 八丈島から38名の入植が開始される。
 1864年6月(文久3年5月) - 生麦事件によって日英関係が悪化したことを受け、日本人移民が父島から撤収した。
 1864年(元治元年) - ハワイの宣教師船であるモーニングスター号(Morning star)が南鳥島を発見する。
 1866年(慶応2年) - フレデリック・ロース、母島(沖村)に居住。
 明治時代の父島(扇浦)
 明治
 1875年(明治8年)11月 - 明治政府が小笠原回収委員を明治丸で父島へ派遣する。
 1876年(明治9年)3月 - 小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)。内務省の管轄となる。日本人37名が父島に定住。内務省出張所設置。

 入植の歴史
 →詳細は「欧米系島民」を参照
 19世紀初頭林子平の『三国通覧図説』から小笠原諸島がボニン・アイランズ(Bonin Islands)としてヨーロッパへ紹介されると、各国の船舶が小笠原諸島へと寄港するようになった。
 1827年イギリス海軍のブロッサム号を率いるフレデリック・ウィリアム・ビーチーが現在の父島二見港から上陸すると、前年行方不明となったイギリスの捕鯨船ウィリアム号の乗組員 2人と遭遇し、他国の船も来航していることを知ったビーチーは、領有宣言板を島内の木に打ち付け島を離れた。ビーチーより小笠原諸島の存在の報告を受けた在ホノルルイギリス領事は、ボニン・アイランズへの入植計画を進め、1830年欧米人5人と太平洋諸島出身者25人による入植団をつくり、現在の父島へ入植を果たした。この後も各国の船舶は、水や食料を確保したり病人を下船させるなど、様々な目的で頻繁に小笠原諸島に寄港した。
 小笠原に漂着し外国船に助けられた日本人から伝わる情報や、ペリーの「小笠原諸島に関する覚書」におけるこの地への評価から、小笠原諸島は幕府首脳の関心を引いた。1861年江戸幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告した。1862年1月(文久元年12月)外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に赴き、外国人島民に日本が管理することを告げた。その後八丈島から日本人の入植者が送りこまれ開拓が始まった。最新の研究が示したように、文久年間の小笠原開拓は徳川幕府にとって外交上の挑戦のみならず、知的かつ環境的変遷も引き起こした。小笠原諸島の測量に関わった小野友五郎は製図学の最新方法を活かし、小花作之助などといった探検家は異国的環境についての情報を収集した。阿部櫟斎を筆頭に、数人の本草学者が小笠原在住の異国人と交流し、その文化について学んだ。1863年8月(文久3年5月)に西洋列強の圧力で幕府は退島を命じた。維新後の1875年12月は、明治政府は小笠原諸島を改めて開拓した。

 連合軍占領下の小笠原
 →詳細は「アメリカ施政権下の小笠原諸島」を参照
 第二次世界大戦終戦以降は、連合国軍の占領下におかれ、連合国軍の1国であったアメリカ軍の占領担当地域になった。アメリカ軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は 1か月に 1回グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くはアメリカ軍施設で働いた。
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