⛩72)─2─弥生の猫神と古代エジプトの猫神は異教の神として滅ぼされる。江戸時代の猫ブーム。~No.162 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 縄文の蛇神や弥生の猫神は、民族の稲神話・天皇神話に由来する。
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 猫の起源は、約4,800〜6,500万年前の恐竜が絶滅したと言われる時代に生息していた「ミアキス」という生物だった。
 イエネコの祖先は「リビアヤマネコ」と考えられ、約13万年前に誕生し、約9,500年前から人に飼われていた。
 猫と人間の歴史は新石器時代からあり、当時は人の食物を狙うネズミ番だったと言われている。
 エジプトでは、神の化身として崇められる
 紀元前2,000年頃、古代エジプト人は神の化身として崇拝めていた。猫は、人間にとって有害である蛇や鳥などの動物を駆除していたからである。
 猫は、エジプトからギリシャやローマなどを経て、大陸を移動する人間とともに中東やアジアに広がった。
 日本へは、弥生時代に中国を経由して入ってきた。
 猫が日本でペットになった理由は、海外同様に穀物や書物をネズミから守る役割があったからだ。
 愛玩動物となって飼われるようになったのは、徳川綱吉によって生類憐れみの令が制定されたからである。
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 中世キリスト教会は、猫を異教の神として殺した為に、ペスト菌を持ったネズミが急増してヨーロッパでペストが大流行し、人口の3分の1の人々が感染して死んだ。
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 2021年4月5日 にゃんペディア「神か悪魔か。人間に翻弄された猫の歴史とは? <世界編>
 猫は今から1万年ほど前に人間の近くで暮らし始めたと考えられています。その後人間と生活するようになった猫は、気まぐれで表情がよく読めないといった性質から、人々に神として崇められたり、反対に悪魔の使いや縁起の悪いものとして恐れられたり、時代や地域によってさまざまな扱いをされてきました。今回は猫と人間との歴史について紹介します。
 大切に飼われていた古代
 崇拝された古代エジプトの猫
 古代エジプトでは紀元前1400年頃のテーベの墓から出土した壁画に、狩猟する男性の傍らにたたずむ猫の姿が描かれていたり、紀元前1275年のデル・エル・メディナの墓の壁画には、人の膝の上で遊ぶ猫の姿が描かれていたりするなど、古代エジプト人が猫を飼育していた明らかな証拠があります。穀物をネズミの被害から守るため、あるいは猛毒の蛇コブラ除けのために飼われていたようです。
 一方でバステト女神という、音楽や踊りを好む受胎と豊穣の神様としても猫は崇拝されていました。バステト女神が信仰されていた地域では、飼い猫が死ぬと眉を剃って喪に服し、猫はミイラにして大切に埋葬されており、猫専用の墓地まで発見されています。
 古代ローマ帝国拡大とともに広がる猫たち
 古代エジプトでは猫の持ち出しは王命によって禁止されていましたが、ローマとの戦争に負け、支配下に置かれると猫も国外へ持ち出されるようになりました(それまでもフェニキア商人による持ち出しはあったとされています)。特にローマ軍が世界へと進軍するに伴い、兵隊の食料を守るために連れていかれた猫の中に逃げ出したものがいて、各地に猫が広がったとされています。イギリスからは、子供が猫を抱く姿が彫られた紀元1~2世紀の墓石が見つかっています。この時代フェレットがペットとして、またネズミを駆除するために裕福層の間で飼育されていましたが、猫がその役割を引き継ぎ、大切にされるようになりました。
 波乱の時代だった中世
 大航海時代の船乗り猫
 15世紀~17世紀半ばは、世界中の海の探索や交易が盛んになり、大航海時代となります。元々猫は古代から船の積み荷や食料、船そのものの躯体をネズミの害から守るため、またネズミによる病気の蔓延を防ぐために船に同乗していました。大航海時代にはたくさんの船とともに海を渡り、猫たちは世界の隅々まで拡大していきました。同乗した猫は「船乗り猫(Ship’s cat)」と呼ばれ、船の安全の守り神として、そして乗組員たちの良き相棒として活躍しました。
 苦難の中世ヨーロッパ
 キリスト教がヨーロッパに広がると、他宗教への弾圧が始まります。弾圧された宗教の中には猫を重要視しているものもありました。さらに夜行性であったり、人の命令に従わなかったりといった、猫特有の性質が悪魔的だと見なされてしまい、魔女の手先として大変な迫害を受けるようになります。12世紀にローマ教皇が主導して異端審問が始まり、16世紀になると魔女狩りが本格的になって多くの猫、特に黒猫が火あぶりの刑や塔の上から落とされるといった刑に処されました。未だにヨーロッパにおいて黒猫が嫌われるのはこの出来事がルーツと考えられています。
 名誉回復を果たした近代
 猫の地位が回復した要因にはいくつかありますが、主な要因の1つは科学の力でしょう。科学の発展により、魔女というものが確かな存在ではないと人々に認識され始めたのです。さらに、猫が激減していたヨーロッパにドブネズミが大量発生して、ペストなどの感染症が蔓延するようになったからです。現在は、ペスト流行の原因はネズミではないとの研究もありますが、当時の人々はネズミが原因と考え(ネズミが貴重な食料や資材に害を与えることは事実だったため)、ペスト流行がきっかけとなって猫の名誉が回復した可能性は高いでしょう。また、17世紀末から18世紀にかけて猫が活躍する民話や文学作品が登場し、猫のイメージもずっと良くなりました。
 今や猫は身近な、愛すべき存在となりましたが、多くの社会的問題を抱えているのも事実です。良い関係を築くためにも、一人ひとりが猫とのつき合い方について考えていくことが大切です。
 「猫の歴史」に関するにゃんペディア記事
 猫と人間との関係の歴史に関するこちらの記事もあわせてご覧ください。
□イエネコ:「猫はどこから来たの?イエネコの歴史とルーツ」
□ 世界史:「神か悪魔か。人間に翻弄された猫の歴史とは? <世界編>」
□ 日本史:「猫と日本人。いつから猫は日本にいたの? <日本編>」
源氏物語:「猫が引き起こした大事件 ――『源氏物語』と源氏絵」
□ 古典:「古典『猫の草子』に登場する猫ちゃん」
□ 文学:「【文学】鼠草子絵巻に登場する猫ちゃん 」
□ 物語:「忠義な猫の物語」
□ 進化:「猫が猫になったとき。猫の進化の歴史とは?」
□ 分類:「猫を科学的に「分類」するとどんな位置づけなの?どんな仲間がいるの?」
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 2019年4月4日 Sippo「日本に猫がやって来た! 伝来の新事実、続々と発見
 ねこと暮らして1万年
 猫はいつ日本に?
 前回は、人類と猫が最初に関係をもったとされる、1万年前のメソポタミアでの出来事についてお話ししました。今回は、日本に猫がいつ頃やってきたのか? についてお話ししたいと思います。
 猫の足跡がついた須恵器
 メソポタミアから古代エジプトに伝わった猫は、そこで家畜化がほぼ完了し、現在の猫の姿になったと言われています。そののち、地中海を渡ってヨーロッパにも広がっていきます。さらにその後、長い旅をへて中国に伝わり、そして中国から日本へ持ち込まれたと考えられています。
 つい最近まで、中国から日本に渡ってきた年代は、奈良時代から平安時代の初期頃(1200〜1300年前)とされてきました。一説によると、中国からのありがたい仏教の経典と、ネズミから経典を守る猫がセットで日本に渡ってきたとのことです。しかし、10年ほど前に行われた遺跡の発掘によって、猫伝来の時期はさらにさかのぼることとなります。
 その歴史を塗り替える証拠は、2007年に兵庫県姫路市の見野古墳から発見されました。その遺跡から猫の足跡のついた須恵器が見つかったのです。この足跡は誰が見ても猫の足跡、少なくともこの須恵器が作られた時点で、日本に猫がいたという決定的な証拠です。おそらく、ろくろを回して作った器は、窯で焼く前に、台か何かの上にところ狭しと並べられて乾燥させていたのでしょう。そこを、当時の猫がキャットウォークを渡るように歩いていたところ、バランスを崩すか何かして、まだ柔らかい器を踏んでしまったのでしょう。その状況をイメージすると、なんだか可笑しいですね。踏んでしまった猫も、きまりの悪い顔をしていたに違いありません。
 見野古墳から出土した動物足形付須恵器=姫路市埋蔵文化財センター提供
 ともあれ、この猫のひと踏みが、日本への猫の伝来の歴史を塗り替えたのです。今からおよそ1400年前の、古墳時代後期か飛鳥時代には、猫が確実に日本に存在していたという証拠となりました。
 弥生時代には猫がいた
 その後もさらに発見は続きます。その翌年の2008年、長崎県壱岐島のカラカミ遺跡から、魚やヘビ、シカやイノシシの骨に混じって、十数点の猫の骨が見つかりました。年代を推定した結果、これらの骨は今から2100年前の弥生時代のものであることが判明しました。この発見によって、日本への猫伝来の時期がいっきに700年もさかのぼることになりました。
 中国に猫が伝えられたのが今から2000年前と言われています。そうすると中国に猫がやってきたのとほぼ同じ時期に、あるいはそれよりも早く、日本の壱岐島に猫が伝わったこととなります。もしかするとまだ知られていない別のルートで、猫は日本にやってきたのかもしれません。たとえば、海路でインドや東南アジア方面から船に乗せられて直接日本に、とか。まだ明らかになっていない埋もれた歴史の中に、日本への猫伝来の真実があるのかもしれません。今後も、遺跡の発掘やDNA解析などによって、ぞくぞくと新事実が明らかになっていくに違いありません。猫好きの私たちは、その発見を固唾を飲んで見守ることにいたしましょう。
 参考文献
 姫路市教育委員会、「姫路市見野古墳群発掘調査報告」、平成21年3月.
 宮本一夫編、「壱岐カラカミ遺跡I -カラカミ遺跡東亞考古学会第2地点の発掘調査-」、 平成20年3月.
 山根明弘 (やまね・あきひろ)
 1966年兵庫県生まれ。九州大学理学部卒、理学博士、動物学者。西南学院大学人間科学部教授。専門は動物生態学、集団遺伝学。30年前より福岡県・相島にてフィールドワーク、ノラネコの生態の研究を行っている。
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 2019年3月25日 産経新聞「ネコの渡来は弥生時代だった 歴博展示室が36年ぶり刷新
 磨井 慎吾
 ネコの渡来は弥生時代だった 歴博展示室が36年ぶり刷新
 日本唯一の国立歴史博物館である千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館歴博)。同館で先史時代および古代を扱う常設の第1展示室が、昭和58年の開館以来、初めてリニューアルされた。同室の対象時代は、日本列島に現生人類が出現した3万7000年前から、日本を国号とする古代国家が成立した7~8世紀までの約3万6000年間に及ぶ。弥生時代の開始年代が約500年さかのぼるなど、先史時代を中心に開館以降の36年間で大きく進歩した歴史研究の成果を反映させた、大規模かつ意欲的な展示刷新だ。
 大幅に変化
 「この30数年間、歴博は放射性炭素(C14)年代測定法などで多くの成果を生み出してきた。(展示は)われわれが学んだ40~50年前の教科書で描かれた歴史像から、大きく変わった」
 今回の全面リニューアルの背景について、歴博の久留島浩(くるしま・ひろし)館長はそう語る。
 考古学分野での自然科学的年代測定技術の発達により、縄文時代弥生時代の区分や時代像は、36年前と比べて大幅に変化した。
 第1展示室は6部構成。最初のコーナー「最終氷期に生きた人々」は、今回のリニューアルで大幅に拡充された旧石器時代(日本列島では約3万7千年前~約1万6千年前)を扱う。
 まず出迎えてくれるのは、ナウマンゾウの実物大模型を中心に約4万年前の南関東の風景を再現したジオラマ。寒冷な気候を反映した針葉樹が目立つ植生は、現代の南関東とはだいぶ異なる。
 最終氷期の「現代人」
 次に目に入るのは、革なめしの作業を行う日本列島の最初期の住人たちの模型だ。そのかたわらには、製革作業に使われた石器が並んでいる。毛皮を丁寧に加工した衣服をまとったその姿は、現代の極地に生きる民族とよく似ている。
 「旧石器時代人というとかつては野蛮で原始的なイメージを持たれていたが、実際はわれわれと変わらない現代人(ホモ・サピエンス)。当然、寒冷な環境に適応するための道具を工夫して作っていた」
 そう説明するのは、コーナーを担当した同館の工藤雄一郎准教授。
 1990年代まで、縄文時代の開始は気候が現代と同程度に温暖な後氷期に移行した約1万1千年前とされてきた。だが、最近の研究進展により、実は最終氷期まっただ中の約1万6千年前に土器が出現したことが明らかになり、従来の縄文時代の枠組みが問い直される状況になっている。
 旧石器時代後期と縄文時代草創期は生活環境面では共通するものが多く、画然と区分できるものではないことが、この2つを「最終氷期人」として同一空間で扱うことで示されている。
 繰り上がった弥生時代
 時代はある境で急激に変化するものではないので、移行期も重視しなければならない。時代ごとの変化や特徴を強く打ち出していた旧展示の反省の上に立つ、そうしたメッセージは、近年特に大きな研究進展があった弥生時代に関しても示されている。
 一般に水田稲作の開始をもって弥生時代の始まりとされる。その時期は従来、紀元前5世紀ごろとされてきたが、今世紀に入ってからの歴博の研究によって紀元前10世紀に九州北部で水田稲作が始まっていたことが明らかになり、弥生時代の開始を約500年繰り上げる説が定着しつつある。
 コーナーを担当した藤尾慎一郎教授は、「繰り上げの結果、稲作を中心にする人と、縄文的な文化で暮らしていく人が併存する段階が約600年にわたり日本列島に存在したことになる。そこをどう表現するかが一番難しかった」と明かす。
 展示では、朝鮮半島から九州に伝わった水田稲作が農耕社会を成立させ、西日本から東日本へと拡散していく様子が地域差に留意しつつ描かれている。
 “大発見”も反映
 弥生時代をめぐってはもう一つ、近年の目覚ましい大発見も反映されている。穀物を保管する高床倉庫の再現模型の入り口に陣取るのは、かわいらしい2匹のネコ。
 従来、イエネコは経典などの重要書物をネズミの害から守るため、奈良~平安時代に渡来したとされてきた。ところが近年、長崎県壱岐市の遺跡から弥生時代中期頃のイエネコと推定される骨が出土。日本へのネコの移入時期が一気に数百年さかのぼることになった。
 「穀物は相当、ネズミの害があるもの。ネコがいてもおかしくない」(藤尾教授)
 全体的に重視されているのは、再現模型などを多用した「可視化」だ。たとえば銅矛や銅鐸、鉄剣などの金属器は、緑青やさびにおおわれた実物とともに、新造時を再現した複製品も展示。金属製品の複雑な造形やまばゆい輝きが、石器や木製品ばかりの世界で生きてきた人々にどのような印象を与えたかを追体験させてくれる。現段階の先史・古代史研究の先端が詰まった、充実の展示だ。
 ◇
 一般600円。月曜休館。問い合わせは、ハローダイヤル03・5777・8600
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 2020年8月28日 TheIchi 猫まっしぐら「日本に猫はいつからいるの?日本における猫との歴史を紐解きます!
 日本に猫はいつからいるの?日本における猫との歴史を紐解きます!
 多くの人に愛されている猫はどのように私達の生活に溶け込んでいったのでしょうか?日本人と猫の深い関係を歴史から読み解きます。
 猫はどうやって日本人と深い関係になったのか
 穀物の栽培がはじまった古代日本においては、収穫した穀物を食い荒らすネズミは人間にとって悩みの種でした。そこでネズミを獲物とする猫は穀物倉庫番として重宝されるようになります。 ネズミを捕る猫とネズミの害から逃れられた人間。共に暮らしたことで、双方にとって利益が生まれたのです。 そして、猫は人間の近くにいることで、水や食べ物にありつけて天敵からも守られ、雨露がしのげる安全な暮らしやすい環境が手に入ります。人間の方も猫と共に暮らすうち、癒しを得ていた可能性も大いにありますね。 こうしてお互い共存関係を持ったことをきっかけに、猫と人間は関係を深めていったのではないでしょうか。 人間をネズミの害から解放した猫は、やがて日本において、富や豊かさの象徴や守り神として親しまれる存在となるのです。
 日本に猫はどこからいつ頃来たのか?
 猫と人間の関わりはおよそ9500年前、中東付近でのリビアヤマネコの家畜化がはじまりとされています。そして猫は古代エジプト王朝からヨーロッパ全域、さらにアジアにも広まり、その後中国を経て日本に渡ってきたというのがおおよその経過です。 猫が日本にやってきたのは当初、奈良時代から平安時代の1200〜1300年前とされていました。中国から仏教が伝えられた際、経典をネズミの害から守るため船に一緒に乗せられてきたというのが長い間の通説になっていました。
 弥生時代
 その後、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡でイエネコのものとされる骨が発掘されました。これにより今からおよそ2100年前、弥生時代からすでに日本には猫が存在していたという説が濃厚になりました。 もしこの説が本当だとしたら、猫が日本にやって来た歴史が数百年早まります。猫好きさんにとってもかなりのニュースなのではないでしょうか。 古代日本の猫は現在のような愛玩目的ではなく、貯蔵していた穀物をネズミや昆虫から守る役割を果たしていたようです。
 高貴な身分の人々に可愛がられた猫 平安時代
 平安時代になると、猫はようやく現在のような愛玩動物として扱われはじめます。しかし、まだまだ数も少なく貴重な存在であったため、猫の飼育は限られた高貴な身分の人のみに許された楽しみだったようです。 第59代天皇・宇田天皇は父である光考天皇から譲り受けた黒猫を飼っていたことでも有名ですが、日記「寛平御記」にもその黒猫の記述が残っています。これは日本最古の飼い猫の飼育記録と言われており、さしずめ現代の猫ブログのルーツといった位置付けになるのかも知れません。 さらに第66代天皇である一条天皇も無類の猫好きで、猫の誕生日を祝うための儀式を行ったり、昇殿が許されないからと飼っていた猫に階位を与えたという話もあります。 また「枕草子」によれば、猫に乳母として女官がつけられたともされます。
 やっぱりネズミが決め手? 安土桃山時代〜江戸時代
 慶長7年(1602年)になると、ネズミによる害を減らすべく猫をつながずに放し飼いにするようお達しが出されます。この令のおかげでネズミの害は激減したと言われており、なかなかの効果があったようです。 とはいえ江戸時代初期までは猫の数が増えることはなく、依然としてその存在は貴重でありました。そのため数少ない猫の代わりに、ネズミを駆除する力があるとして猫の絵が重宝されていたという史実もあります。 縁起物である招き猫が生み出されるなど守り神としても親しまれるようになり、やがて庶民の間でもネズミ駆除のために猫を飼う習慣が広まって行きました。
 猫を愛した人々と文化 江戸時代〜現代
 歌川国芳は江戸時代末期に活躍し、猫にまつわる浮世絵を数多く残した浮世絵師ですが、かなりの愛猫家であったことでも知られる存在でした。 国芳は数匹から十数匹の猫を飼い、死んだ猫のためには仏壇を用意し、位牌も作って供養していたほどです。また創作は猫を膝に抱きながら行うなど、本当に猫を愛していたことがうかがえます。 明治になるとさらに多くの絵画に猫が描かれるようになります。中でも竹久夢二美人画に描かれた猫は大変有名で、妖艶な美人画に趣を添えています。また、文芸作品でも猫が登場するものが多数見られますが、やはり代表的なのは夏目漱石の「吾輩は猫である」ではないでしょうか。 日本においても猫は多くの芸術のモチーフとされ、人々に愛され続けています。 やがて、第二次世界大戦が終わって庶民にも生活のゆとりが生まれると、動物をペットとして飼う家庭も増え始めました。犬人気が衰えることはありませんが、猫の人気は年を追うごとに高まり、飼われる数も増加し続けています。 自由気ままな性格と愛らしいルックスがやはり人気の秘密ですが、犬に比べ散歩などの世話がかからないなど、猫の特性と日本の住宅事情や家庭環境がマッチしたことも要因の一つとされています。
 まとめ
 以上、日本の歴史において、猫と人間がどのように関わってきたのかをご紹介しました。 今こうして猫が日本にいるのは、数千年前さまざまな道筋をたどってきてくれたからだと思うと胸が熱くなりませんか? 日本にやってきて猫は多くの人々と関わり、そして魅了し続けました。猫の可愛らしい魅力に触れると先人たちの気持ちに共感せずにはいられません!
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 2025年1月10日 YAHOO!JAPANニュース ねこちゃんホンポ「人々に崇められる『猫の神様』3選 日本のみならず、海外でも猫が神として愛される理由
 1.古代エジプト人を守ったバステト神
 世界で最も有名な「猫の神様」と言えば、エジプト神話に登場するバステト神でしょう。バステト神は、不死の象徴・太陽神ラーの娘、妹、妻として、現在まで語り継がれています。
 イギリス・大英博物館収蔵のバステト像を見ればわかるように、姿かたちも猫そのものです。今の猫種でたとえれば、まるでアビシニアンのごとく、大きめの耳、スラッとした手足と胴体を持っています。
 古代エジプトでは、「ブバスティス(バステトの家)」という名の都市が作られ、亡くなった猫たちは、地位の高い人しか許されなかった埋葬法、ミイラによって手厚く埋葬されました。
 この2つの史実からも、当時の人びとがいかにバステト神を崇拝し、その化身のような猫たちを大事にしていたかがわかります。
 古代エジプト人にとって、バステト神は、多産のシンボルであり、悪霊や病気から人びとを守る存在でした。象徴として描かれた背景には、穀物などの食料を荒らすネズミや害虫を駆除し、子猫をたくさん産む、という猫の実際的な生態が関係しています。
 2.「猫の島」、宮城県・田代島の猫神社
 一転して、日本国内にも、「猫の神様」を祀った神社が存在します。その代表的なものが、宮城県・田代島にある「猫神社」です。「猫の島」として有名で、愛猫家なら一度は訪れてみたいスポットかもしれません。
 「猫の島」と言われる通り、田代島は、島民よりも猫のほうが多い島です。陸から遠く離れた小さな島でなぜ「猫の神様」が祀られるようになったのか、実は、島の歴史が深く関わっています。
 田代島では、その昔、養蚕が盛んでした。養蚕とは、カイコという虫の繭から生糸を紡ぎ出す生業です。卵から繭玉に至るまで、カイコを食べ尽くすネズミは、養蚕にとって天敵。カイコをネズミから守るために、島民たちは猫を飼うようになりました。
 同時に、田代島の漁師たちには、猫の行動(雨が近づくと顔を洗うなど)に基づいて、天気の変化を見極めてきた歴史があります。今で言う天気予報の代わりのようなものです。

 そういった要素を土台にして、漁具制作時の不慮の事故で亡くした猫を弔うために、ひとりの漁師さんが島内に神社を建てました。それが、現在に続く「猫神社」の始まりです。ちなみに、神社建立以降、島は好漁に恵まれ続けたと言います。
 田代島の「猫神社」もまた、古代エジプトのバステト神と同様に、人びとの暮らしに猫が密接に関わり合っていたからこそ、現在でも、豊漁の守り神として崇められているわけです。
 3.願掛け成就の猫神さん、徳島市八万町の「王子神社
 3つ目に紹介するのは、徳島市八万町にある「王子神社」です。主祭神は、天津日子根命で、商売繁盛、開運合格のご利益があるとして、地元の方たちを中心に親しまれています。
 現在、「王子神社」が別名「猫神さん」と呼ばれているのは、約300年前にあった実際の出来事がきっかけとなっています。
 亡くなった夫の借金問題で濡れ衣を着せられた結果、死罪となってしまったお松さんという女性の悲しい物語、俗に言う「阿波の猫騒動」がもとの始まりです。
 命を絶たれる前に、お松さんは、飼っていた三毛猫のお玉に対し、無実の罪を画策した当時の富商や奉行への報復を命じます。すると、富商と奉行の家で猫の祟りが起こり、やがて両家は滅亡しました。
 のちに、祟りを鎮めるために、お松さんとお玉を、それぞれ「お松大明神」「お玉大明神」に祀ったのが、この「王子神社」です。いわゆる「倍返し」に成功した歴史的いきさつから、今では願掛け成就の「猫神さん」として人気を集めています。
 まとめ
 国内外を問わず、古くから人間は猫に特別な感情を抱いてきました。その一例が、今回紹介した「猫の神様」たちです。ミステリアスで神秘的、獰猛でありながら愛らしさあふれる猫の魅力は、今も昔も変わりません。
 現在でも多くの猫飼いさんが、おうちの「愛猫神」を崇めています。その存在は、みなさんそれぞれにあり余るご利益をもたらしてくれるはずです。
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 2019年11月15日 tama たまのおねだり「古代エジプトの猫の神様!人々の信仰を集めた古代の猫はスゴかった
 スタッフミライが猫と歴史を探る企画の第2弾。今回の歴史の舞台は日本から遠く離れた古代のエジプト。
 エジプトといえば、猫が人々と一緒に暮らし始めた、猫と人間の歴史の始まりの地。そんなエジプトでは、猫たちがとても大切にされていたことは良く知られています。
 でも、今回のお話は、古代エジプト人がどれほど「猫好き」だったかというお話です。私たち人間と猫がどれほど昔から惹かれあって(?)いたのかをご覧ください。
 目次
 古代エジプトの美しい猫の神様 バステト神
 バステト神ってどんな神様なの?
 猫の都・ブバスティス
 古代エジプト人が猫のせいで戦争に負ける?
 その後の古代エジプトの猫の神様
 古代エジプトの美しい猫の神様 バステト神
 こちらのお姿はバステト神の像のミニチュアです。大英博物館に会いに行きたいです。
 古代エジプトにはなんと、猫の神様が存在していました。その名はバステト。現代まで残っている姿は、壁画では猫の顔をした女神さまと、そのまんま、the 猫という像の二つが知られています。
 特に大英博物館に収蔵されているバステト像は、大きな耳とすっと長い手足、しなやかな体格、意志が強そうな目付きをしています。首元や額、そして耳元に金でゴージャスな装飾を施されている辺り、なんだかおめかしをして、自慢げにおすまししているように見えなくもありません。
 さらに、古代エジプト人のこだわりを感じさせるのは、そのバステト神の瞳。今では失われてしまっていますが、このバステト神の像の瞳には、当時は貴重なガラスがはめ込まれていて、猫の美しい瞳をばっちり再現していたのだとか。古代エジプト人もキラキラと輝きを変える猫の瞳の美しさに神秘的なものを感じていたのでしょうね。
 美しく、猫好きの「ツボ」をしっかりと押さえた姿で現在でも大人気のバステト神。大英博物館ではお土産品としてぬいぐるみなどにもなっているのだとか。古代エジプトで生まれたバステト神は、今でも世界中の猫好きたちの心を掴んでいます。ぜひ、一度「大英博物館 バステト」で検索してみてくださいね。
 バステト神ってどんな神様なの?
 古代エジプトでもその美しさを余すことなく発揮していた猫の神・バステト神は、どんな神様だったのでしょうか?
 バステト神は、「太陽神・ラーの目」として人々の行いをじっと見守り、時には罰する者とされていたようです。
 大英博物館のバステト神も、瞳をガラスで再現されているように、猫は特にその目に不思議な力を持っていると考えられていたのかもしれません。吸い込まれてしまいそうな猫の瞳の美しさに、神々しさを感じることがあるのは現代人の私たちも、古代エジプト人も同じなんですね。古代エジプト人たちは、猫の前では悪さは絶対にできなかったのかもしれません。
 その後、バステト神は「家を守る神」としての顔も持つようになります。子孫繁栄と人々を病気などから守る力を持っていると考えられていたようです。
 これは、猫たちは一度にたくさんの子どもを産むこと、そして時には病原菌などを持ち込むネズミなどの害獣や、伝染病を媒介する害虫を猫たちが勇敢に倒してくれる姿に、人々は大いに助けられてきたことに由来しているのでしょう。
 猫たちに命を救われた古代エジプト人たちは、さらに猫たちとバステト神の力を信じ、大切にしていくようになります。
 猫の都・ブバスティス
 遂には、聖地として古代エジプト人はブバスティスという都市を作りました。このブバスティスという街の名前は、バステトの家という意味で、この都市では特に猫たちを手厚く扱い、とても大切にしたといわれています。
 有名なエピソードでは、高貴な人々だけに使用された埋葬方法のミイラが、たくさんの猫たちに使用され、埋葬されていたのがこのブバスティス。
 古代エジプトのミイラは、高貴な人々が再び生き返ることを願って施された埋葬方法です。ブバスティスの人々は、亡くなった猫たちが再び自分たちの側に帰ってきてくれることを願って、特別手厚く葬ったのかもしれません。その証拠に、猫たちの食事として死後の世界で食べられるようにミルクとネズミと一緒に埋葬されています。
 「戻ってくるときに猫たちがお腹が減っていたらかわいそうだ」という気持ちで食事を捧げた古代エジプト人の気持ち、なんだかとっても良く分かります。
 古代エジプト人が猫のせいで戦争に負ける?
 さて、猫をとことん愛し、猫たちを大切にしてきた古代エジプト人たちですが、有名なエピソードに「猫のせいで戦争に負けた」というお話があります。
 これは紀元前6世紀頃、ペルシャに侵攻されたエジプトは、軍を差し向けこれを撃退に向かいました。愛する祖国と家族、それから猫たちを守るために兵士たちは意気揚々と戦地へ赴いたことでしょう。
 しかし、ペルシャ軍は「エジプト人は猫がとにかく好きらしい」という情報を入手。あろうことか、ペルシャ兵は盾に猫の絵を描き、更に猫たちを最前線に配置したというのです!
 エジプト人たちは戦いに来たはずなのに、目に入るのはたくさんの猫。これにエジプト人たちは「ね、猫を攻撃するなんてできない…」と手も足も出せず、ついには降伏してしまったのだとか…。
 このお話の信憑性には疑問が残りますが、古代エジプト人がどれほど猫たちを愛していたかということをイメージさせるには十分なエピソードですよね。
 また、別のエピソードではエジプトの領内で猫を傷つけてしまった古代ローマ人が死刑になった、という事例も。こちらに関しては、シケリアのディオドロスという人物が残した文書によれば、猫を傷つけたローマ人をエジプト人は決して許さず、戦争すらも辞さない構えだったといいます。猫への愛が国をも動かす、それが古代エジプトという国だったのです。猫のせいで戦争には負けるけれど、猫のためなら戦争も辞さない。なんとも男気に溢れた猫への愛に共感せずにはいられませんね。
 その後の古代エジプトの猫の神様
 古代エジプト文明は、プトレマイオス朝(クレオパトラの王朝)の滅亡を最後に、歴史の表舞台からは姿を消し、バステト神への熱烈な信仰も消えていきます。しかし、バステト神は古代ギリシャの神話や、北欧神話クトゥルフ神話の中で姿を変え、生き続けることになりました。特にギリシャ人の解釈では、美しさと愛の女神・アフロディテ(ヴィーナス)などと同一化されていきます。
 これも、猫たちの美しさや気高さ、そして家族へ向ける愛情深さにギリシャ人たちも魅了された結果……なのかもしれません。歴史の真相は分かりませんが、私にはそんな風に思われてならないのです。
 現在、私たちと一緒に暮らす猫の中にも、バステト神の姿をモデルにした猫たちがいます。アビシニアンやエジプシャンマウなど、アフリカ原産の猫をもとに生まれた猫たちが代表的ですね。これらの猫たちと一緒に暮らしている方は、バステト神の姿と猫の様子を見比べてみると…ちょっと古代エジプトに親近感を覚えられるかも。
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 2021年10月22日 日本経済新聞「ネコ神はなぜ誕生? 古代エジプト、動物の神々の秘密
 ナショナルジオグラフィック日本版
 ネコの像で表現された女神バステト。紀元前7世紀。コペンハーゲン、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館(PRISMA/ALBUM)
 ライオンの頭を持つ戦の女神セクメト、ジャッカルの頭を持つ冥界の神アヌビス、ウシの角をつけた女神ハトホル……。古代エジプトには動物の神が数多く存在した。
 その信仰の起源は、はるか昔にさかのぼる。肥沃なナイル沿岸に暮らしていたエジプトの人々は、そこにいる動物たちについて深い知識を持つようになり、やがてそうした動物たちを神の領域へと持ち込んだのだろう。エジプト初期王朝の黎明(れいめい)期、紀元前3100年ごろには、神々は動物の姿を取るようになっていた。
 エジプトの神々の世界は、混沌として見えるかもしれない。しかし忘れてはならないのは、エジプトの宇宙観が数千年をかけて形成されたものだということだ。時とともにエジプトを支配する王国が入れ替わる中、神々も移り変わり、進化し、ときに混ざり合った。
 たとえば、最も古い神のひとつ「ホルス」は、ハヤブサの頭を持つ天空の神だが、その役割はやがて、同じくハヤブサの姿で描かれることの多い太陽神ラーと融合していく。ラーがその後、ホルス神やほかの神々と融合して生まれた神ラー・ホルアクティも、やはりハヤブサの頭部を持った。
 上エジプトのネケンで発見された、ハヤブサの神ホルスをかたどった紀元前3000年の黄金像。カイロ、エジプト博物館(AKG/ALBUM)
 ハーレムを与えられた雄牛
 古王国時代(紀元前2575~前2150年)に入り、ギザにクフ王の大ピラミッドが建設されるころになると、動物の神は多種多様になる。
 天空の神ホルスは、ごく初期の図像では空の船に乗っている姿でも描かれている。天空を渡って冥界へと下り、夜明けに再びのぼってくるこの船は、エジプト神学において核となる存在だ。ホルスという名は「遠くにいる者」を意味し、そこに含まれた高く飛ぶ存在というニュアンスが、鳥と飛翔(ひしょう)と宗教的な畏怖とを結びつけている。
 男性神はこのほか、雄牛や雄羊の姿でも描かれた。エジプトの雄牛崇拝において、神は選ばれた個体に宿るとされた。
 聖なる雄牛アピスをまつる儀式は、古王国時代に起源を持つ。アピスとされた雄牛をメンフィスの街に放って走らせ、象徴的に土地を肥沃にするというものだった。雄牛が死ぬと、その死骸はメンフィスからほど近いサッカラに葬られた。その後、後継となる牛探しが始まるが、その牛は毛皮に特定の模様が入っていなければならないとされていた。新たなアピスとして認められた雄牛は、メンフィスの神殿に連れて行かれ、自分専用の牛の「ハーレム」が与えられた。
 ハヤブサは戦士と太陽の神々の化身であり、中でも重要な神がホルスだった。この壮麗な胸当ては、紀元前1325年ごろに10代で亡くなったツタンカーメン王の墓から出土したもの。カイロ、エジプト考古学博物館(ARALDO DE LUCA)
新王国時代(紀元前1539年~1075年)には、ファラオによる統治の座はメンフィスからテーベへと移された。この移動は神学的に大きな影響を及ぼし、カルナック神殿などテーベにある神殿で崇拝されていたアメン神が国神へと格上げされた。アメン神は、ラー神と一体化したアメン・ラーの姿で雄羊として描かれることが多い。
 アメン神と雄羊とのつながりは、はるか昔のエジプトの神で、人間を作り出したとされるクヌムにまでたどることができる。アメンは「2本の角を持つ神」と呼ばれることも多い。雄羊は豊穣(ほうじょう)や戦争を象徴し、新王国時代のファラオを守る強力な守護神となった。
 角を持つ女神たち
 初期の女神たちはその多くが、出産、豊穣、栄養など、生命や生殖に関連するものをつかさどっていた。最も古い女神の中には、牛の頭部や角が付いている者もあった。
 たとえばバト神は、エジプトの国家統一をたたえる内容が記された紀元前3100年ごろの重要遺物「ナルメルのパレット」に、牛の角をつけた姿で描かれている。時がたつにつれ、バト神はまた別の強力な女神ハトホルへと進化していったようだ。ハトホルは、母性、音楽、農業、喜び、さらには死など、生命に関わる数多くの領域に影響を与えた。
 「黄金の者」として知られ、何世紀にもわたって輝きを放ち続けたハトホルだが、その役割はやがて、重要性を増したイシス神へと組み込まれていった。イシス神は通常、人間の姿で描かれ、動物とのつながりはさりげない形で示される。イシスの頭の上には牛の角が描かれていることが多く、これはハトホルへの賛意を表している。イシスはその後、ハトホルの役割を引き継ぎ、とくに冥界の支配者オシリスの配偶者・守護者として、エジプトの母・妻の普遍的なシンボルとなっていった。
 ワニとハヤブサが混ざり合った姿のホルスは、ナイル川デルタでよく見られた。紀元前7世紀。カイロ、エジプト考古学博物館(ARALDO DE LUCA)
 イヌとネコの神々
 ペットとして世界で最も人気のあるイヌとネコもまた、エジプトの神話において大事な役割を担っていた。冥界でオシリス神に仕えた重要な神が、ジャッカルの頭部を持つミイラづくりの神アヌビスだ。力強いジャッカルが死者のために行動するというのは、埋葬されたばかりの死体を掘り起こす習性のある自然界のジャッカルに対する防御としては最適だっただろうと、歴史家は考えている。
 ネコの女神たちは今日、多くの博物館で人気を集めている。ネコの神々へ信仰は、当初は特定の都市と結びついたものだったが、その名声が広まるにつれて、地域にいるよく似た神々と結びついていった。たとえばメンフィスで重要だったのは、ライオンの頭を持つ戦の女神セクメトだった。
 紀元前13世紀の「アニの死者の書」の一場面。カバの姿で描かれた女神オペトが供物の祭壇の前にいる。その後ろには、女神ハトホルを連想させる雌牛が、生い茂るパピルス草の中から出てきている。どちらも2本の角の間に太陽の円盤が見える。ロンドン、大英博物館BRITISH MUSEUM/SCALA, FLORENCE)
 セクメトのことを気に入っていたアメンホテプ3世は、紀元前14世紀にテーベに建設された自身の巨大な葬祭殿のために、この女神の石像を730体も作らせた。エジプト学者らは、ファラオがこれほど多くの像を作らせたのは、セクメトの恐ろしい性質をなだめるためと、その保護の力を引き出すためだったと考えている。
 セクメトと混同されることもある、また別のネコの女神にバステトがいる。バステトは下エジプトのブバスティスを中心に信仰されていた。ときに太陽神ラーの化身である聖なるネコ、マウとして描かれるバステトは、手にナイフを持ち、邪悪な蛇アポピスを殺している姿で知られる。どう猛さと親しみやすさを兼ね備えたセクメトとバステトは、ネコの性格の矛盾を体現する存在として、互いに結びつけられるようになっていった。やがて、セクメトの凶暴さを相殺するかのように、バステトはそれとは正反対の、優しく子を育てる側面を表すようになった。
 王朝が出現する前から、エジプトでは雌牛は神聖なものとされていた。牛の女神として最も重要なハトホルは、空、愛、豊穣、女性、出産の神。紀元前7世紀あるいは紀元前6世紀のこの像では、女神が主席書記官プサムティクを守っている。カイロ、エジプト考古学博物館(ARALDO DE LUCA)
 奉納品だった動物のミイラ
 動物の性質を持つ神々の好意を得るために、古代エジプト人は現世の動物たちを利用した。ミイラにされた鳥や獣は、エジプト全土の遺跡から何千体も発見されている。その多くは、宗教的な祭事に捧げられた奉納品だったと考えられている。
 2018年、考古学者らはサッカラにある4500年前の墓から、ネコのミイラ数十体とバステトの像100体を発見した。知恵と文字の神トトに関連する鳥トキのミイラは、エジプトの最初期の支配者たちが埋葬されているアビドスで大量に見つかっている。
 紀元前1世紀のプトレマイオス朝末期には、動物崇拝は下火になり始めた。ローマ帝国支配下に入り、キリスト教がエジプトに進出すると、古い神々は見捨てられていった。今日では、新たな発見や古代エジプトを象徴する遺物が、動物たちが持つ力、魅力、強さが崇拝を集めた3000年間を思い起こすよすがとなっている。
 コブラの女神ネチェル・アンク。木像に金箔。紀元前14世紀。ツタンカーメンの墓から出土。カイロ、エジプト考古学博物館(UIG/ALBUM)
 紀元前13世紀、セティ1世の墓に描かれた、このファラオの称号にちなんだ蜂のフレスコ画SCALA, FLORENCE)
 セクメトと関係の深い、どう猛な雌ライオンの頭を持つメヒトーは、ファラオに戦争での幸運をもたらした。金箔が施されたこの木製のライオンは、ツタンカーメンの墓にあった紀元前14世紀のベッドの枠組みに付いていた。メヒトと考えられている。カイロ、エジプト考古学博物館(ARALDO DE LUCA)
 イビス。知恵の神トトの聖鳥であるトキをかたどった、ブロンズの頭部を持つ像。紀元前4世紀から紀元前1世紀。ニューヨーク、メトロポリタン美術館AKG/ALBUM)
(文 ELISA CASTEL、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
 [ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年9月26日付]
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 2025年2月2日 YAHOO!JAPANニュース サライ.jp「江戸時代にもあった猫ブーム。猫神様から化け猫まで、猫は大忙しだった!【べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ 満喫リポート編】江戸猫編
 江戸時代後期の浮世絵師歌川国貞の『江戸名所百人美女』「四ツ谷」に描かれた猫。猫はとても身近な存在だった。(国立国会図書館蔵)
 ライターI(以下I):『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(以下『べらぼう』)第4回では吉原の忘八親父らが猫語を交えて会話をかわす場面が描かれました。こういう場面が登場すると、猫好きとしては萌えますね。
 編集者A(以下A):昨年の『光る君へ』でも左大臣家の飼い猫が2匹も登場して、ニヤついてしまいました。『初めての大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」おもしろBOOK』の受け売りですが、江戸時代の「猫ブーム」についてかいつまんでおさらいしましょう。
 猫も大事にされた生類憐みの令
 わんこ大好き5代将軍徳川綱吉の時に「生類憐みの令」が発せられると、お犬様は人間以上に大事にされたといわれるが、他の動物も大事にされた(人間の捨て子などにも適用された)。猫も例外ではない。仕事で大きな荷物を運ぶ大八車をひいていた男性3人が、道にいた猫をひいて死なせてしまうという事件がおきた時には、その男性3人は逮捕されて牢屋に入れられたという。
 猫の手も借りたい、猫に小判
 商業が発展し、かつては高価で貴族などが飼っていた猫は庶民の間でも気軽に飼われるようになった。猫が身近な存在になると、猫に関することわざもたくさん生まれた。その数100以上! それだけ猫は生活に密着していたということだろう。
 江戸時代の猫の鳴き声は「みゃう」だった?
 大の猫好きで猫の位牌まで作ったことで知られる浮世絵師の歌川国芳(蔦重よりちょっと後の時代に活躍)が作ったのが、江戸と京都を結ぶ東海道五十三次をもじった「其まま地口 猫飼好五十三疋(みゃうかいこうごじゅうさんびき)」。この作品の読み方から、当時の猫の鳴き声は「みゃう」だったことがわかる。
 猫神様に化け猫と、猫は大忙し
 江戸時代には、『鍋島猫騒動』など、実際にあったお家騒動をモチーフに化け猫が大暴れする物語がたくさん作られ、歌舞伎などで演じられたり、草双紙や浮世絵として描かれたりして出回った。かと思えば、鼠から蚕を守る猫神様としてもあがめられた。今も北関東や福島などに猫神様を祀る祠や碑が多く残る。
 黒猫は労咳と恋の病に効くといわれた
 江戸時代には、黒猫が密かに人気を集めていたらしい。というのも、黒猫を飼えば重い病である労咳(肺結核)と、やはり重症である恋の病が治ると信じられていたから。ヨーロッパでは黒猫は魔女の使いとして嫌われた時代もあったけれど、日本では恋のキューピッドだったのかも。
 I:『べらぼう』第4回では、白い猫も登場しました。前述のように、昨年の『光る君へ』では、小麻呂という猫が登場して、ニモという猫キャストが演じていたということがアナ ウンスされて、猫好き界隈では盛り上がりました。
 A:その後登場したのが小鞠(演・ひげ)ですね。やっぱり猫は可愛いですもんね。
●編集者A:書籍編集者。『べらぼう』をより楽しく視聴するためにドラマの内容から時代背景などまで網羅した『初めての大河ドラマ べらぼう 蔦重栄華乃夢噺 歴史おもしろBOOK』などを編集。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好きで、猫の浮世絵や猫神様のお札などを集めている。江戸時代創業の老舗和菓子屋などを巡り歩く。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり
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