💖45)─1─柴田幸雄中尉はパプアニューギニアに植民地支配からの独立心を広めた。〜No.176No.177No.178 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @ 
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 朝雲新聞
 『朝雲』は自衛隊の活動、安全保障問題全般を伝える安保・防衛問題の専門紙です。
 「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった」
 ―帝国政府声明の発掘
                   安濃 豊著
 東京裁判史観では「日本軍によるアジアの植民地解放」は結果論で、日本軍の目論見はあくまで「植民地の横取りだった」としている。これに真っ向から反論しているのが本書だ。
 元米陸軍研究員だった著者は日本の「開戦目的」を徹底研究。これを客観化するため、第1次大戦後の植民地の動向を調べ、日本軍の進出後、ビルマ、フィリピン、インド、ベトナムなどが独立している状況を数理的に解明している。
 次に日本が開戦時、「アジア解放宣言」を行ったことを紹介。その趣旨は「アジアを白人の植民地から解放し、元の状態に戻す」で、当時の朝日新聞1面にその記録が残されていた。この帝国政府声明が戦後隠ぺいされたのは、米国務長官ハルの「日本をアジア解放の殉教者としてはならない」との指示が大きかったと分析している。
 最後に日本軍がアジア各地で独立軍を支えていた事実を紹介。読後、「歴史は勝者によって書かれる」ということを思わずにはいられなくなる。
 (展転社刊、1512円)
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 海外戦没者慰霊巡拝
 千葉県護国神社・栃木護国神社 主催
 慰め、慰められる旅
 東部ニューギニア戦線慰霊巡拝案内-ウエワク地区-
 栃木県護国神社資料展示室 中山郁
1:はじめに
 戦時中、兵隊たちに「ジャワは極楽ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたニューギニアの戦いは、大東亜戦争で日本の将兵達がなめたありとあらゆる惨苦が凝縮された戦場といわれています。特に現・パプアニューギニア(PNG)北岸一帯を舞台とした戦域(東部ニューギニア戦線)は、昭和17年から20年8月までの戦いで12万、または15万名とも言われる日本軍将兵が戦没し、終戦時に帰国できたのは約1万名に過ぎません。これらの戦没者の多くは戦闘による「戦死」ではなく、飢えや病いによるものでした。
2:東部ニューギニア戦線
 昭和17年ラバウルを占領した日本軍は、引き続きオーストラジアを拠点とする連合軍の反攻を封じるため、オーストラリアの委任統治領であったニューギニアの首都、ポートモレスビーの攻略を目指しました。当初は海路から、後に陸路オーエンスタンレー山脈を越えて進攻した日本の南海支隊は、米豪連合軍と激しく戦いましたがブナ地区で壊滅。以後、マッカーサー将軍の率いる連合軍はニューギニアの北岸伝いにフィリピンをめざして進撃を開始しました。これに対し日本側は新たに朝鮮駐屯の第20師団(朝兵団)、宇都宮編成の第41師団(河兵団)・第51師団(基兵団)を主力とする第18軍(猛集団)を編成して二ューギニアの防衛を担当させました。以後、第18軍はマダン・ウエワク地区に進出した第四航空軍や海軍部隊と協力し、ラエ・サラモア、フィンシハーフェン、アイタペと、各地で連合軍と激闘を繰り広げました。東部ニューギニア昭和18年春から19年にかけて、日本軍と連合軍の主力がぶつかりあう、最大の決戦場となったのです。
 昭和19年4月、米軍はウエワク後方のアイタペ・ホーランジャに上陸、第18軍は補給路を完全に断たれて孤立しましたが、同7月から8月にかけてアイタペの米軍に決戦を挑み (アイタペ作戦)、これに敗れた後もウエワク周辺や内陸部で現地自活を行ないつつ、米軍と交代し植民地奪回を目指す豪州軍と、終戦まで戦い続けました。
3:東部ニューギニア戦の特色一激戦と敗走と飢餓-
 東部ニューギニア戦の特色は、相次ぐ転進と餓え、そして飢えと病につきるといわれています。 第18軍が相次ぐ戦闘と後退の間に踏破した距離はおよそ二千キロメートル。その中には未開のジャングルやラム・セピック河の大湿原、サラワケット山脈やフィニスティール山脈など標高3千~4千5百メートルの山々が含まれています。更に昭和19年に内地からの補給が一切途絶えてから、将兵達は芋・サゴ椰子澱粉、野鳥、蛇、野草や本の根、昆虫など、あらゆる動植物を口にせざるを得ませんでした。そして、体力の衰えた将兵達にマラリア赤痢など病気が追い討ちをかけていったのです。昭和19年8月以降、日本軍将兵たちは、飢餓がもたらす極限状況のなかに飲み込まれていきました。
 しかし、こうした状況の中で、まがりなりにも約1万名の将兵が生き残ることができたのは、現地住民のおかげです。ニューギニアを舞台とした日本軍と連合軍の死闘は、多数のパプアニューギニア住民を巻き込んで行われました。連合軍による無差別な砲爆撃や、飢えに苦しみつつ敗走する日本軍の通過は多くの村々に被害を及ぼし、また、山南やセピック地区における日本軍による「現地自活」も、事実上、村々の畑の作物や財産であるサゴ椰子の供出に拠ったものであることから、住民の生活を圧迫しました。しかし、地域差や戦況の推移による変化はあるものの、白人による植民地支配を嫌う住民たちは、餓えた日本兵を村に住ませ、食料を与えるなど、手厚く協力してくれました。暗く光明のないニューギニア戦のなかで、唯一のともし火ともいえるのが、第18軍司令官としての責任を最後までまっとうしたうえで終戦後に自決した、安達二十三中将の存在と、現地住民と日本軍将兵の交流のエピソードです。このことは日本人が長く心に留めておかなくてはならないことです。そうした交流の中で、もっともニューギニアの人々に知られているエピソードが、柴田幸雄中尉と現パプアニューギニア首相、マイケル・ソマレ氏の話です。
4:カウプの学校-柴田中尉とソマレ首相-
 昭和19年、船舶工兵第9聯隊(上陸用舟艇部隊)の柴田幸雄中尉は、現地住民宣撫の任を帯びてウエワク東方にあるカウプ(コープ)に赴任し、カウプ一帯の部族の宣撫にあたりました。また、彼は協力してくれる村人へのお礼のため、酋長の賛同を得て学校を建て、子供たちに数や初歩の日本語、英語の教育を行いつつ、植民地からの独立を説きました。
 その教え子のひとり、当時8歳のマイケル・ソマレ少年は、後にパプアニューギニア独立運動に身を投じ、1975年(昭和50年)、独立後初代首相に就任しました。柴田中尉(キャプテン・シバタ)の教えに感謝の念を持ったソマレ首相は、PNG独立後に在日大使館を通じて、当時宇都宮市で飲食店を営んでいた柴田氏を探しあて、昭和60年、念願の再会を果たしました。
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 JAPIA 一般社団法人 太平洋協会
 巻頭言
 安倍総理オセアニア訪問
 一昨年の首相就任以来、世界中を飛び廻る積極的外交を展開している安倍総理である。この分なら、オセアニア諸国を訪問する日が来るのもそれほど遠い先の話ではないだろう、と私たちの周りでは誰しもが期待していた。実際に、この一年、ミクロネシア諸国あるいはメラネシア諸国を訪問する計画があるとの噂は何度も耳にしていた。
 これがこの7月にようやく実現。豪州、ニュージーランドの後に、パプアニューギニアPNG)に立ち寄ったのがそれだ。首相の島嶼国訪問は、1985年に中曽根総理がフィジー経由でPNG訪問を果たした時から、実に29年ぶり。その前の1980年に、環太平洋構想を掲げて登場した大平正芳首相がやはり豪州、NZの帰りにPNGを訪れているので、島嶼国を訪問した日本の首相としては3人目である。
 この度のオセアニア歴訪で、太平洋があらためて大きく注目されることになったのは、私たちにとっては真に有り難い。しかし、島嶼諸国の中で、あるいは日本にとってもミネラルブームに沸くPNGは特別な地位をしめる国だから、ここ一国で島嶼諸国訪問を代表することはできない。安倍総理にはまた別の機会に、小さな島嶼諸国を訪問する機会も作って欲しいものだ。
 実際にこの度のオニール首相との首脳会談では、他の島嶼国とでは成り立ちにくい資源外交や貿易・投資といった話題に、たくさんの時間が割かれたのである。だが、両国の経済関係は、既に新たな段階へと動き出していた。ちょうどそのころ、PNGが産出した液化天然ガスLNG)搭載の日本向け輸出船第一便が、買い手の東京電力大阪ガスに搬入するために向かっていたのだ。これが順調に進めば、現在のLNG年間輸入量の5%(450万トン)程度になる。2013年時点での最大輸入先は豪州で、1800万トン(20%強)。日本には、2019年までに、このオセアニア2国からのLNG輸入量を倍増させたい考えがある。安倍総理が、豪州、PNG両国に対してガス油田開発への協力を申し出たのも、今後3年間で200億円のODAPNGに拠出すると約束したのは、このためだった。
 日本の総理を迎えるPNG側も、今回はそうとうに気合いが入っていた。実は2011年4月に「日本・PNG投資協定」が調印されたが、その後日本での国会承認がスムースに運ばず、同協定が批准・発効したのが本年の1月17日。そのため、従来の政治関係中心から経済関係の拡大を実現するお膳立てが、ようやく整ったと地元の期待は高まっていたのだ。今回、日本から13企業、2団体のトップが総理に同行したのは、今年を日本・PNGの経済関係拡大元年にしたいとする双方の期待の表れだろう。
 安倍総理はオニール首相との会談翌日、東セピック州の州都ウェワクを訪問した。PNG地域での日本人戦没者は12万人とも15万人とも言われているが、半数以上の遺骨は未だ回収されていない。総理の旅は、この地への慰霊が目的だった。この地は、PNG建国の父とも言われるマイケル・ソマレの出身地であり、現在は州知事を務めているが、ここで一つ、この地にまつわるエピソードを紹介しておきたい。
 昭和19年に住民宣撫の目的で、陸軍中尉柴田幸雄がウェワクに派遣された。彼はこの地に学校を建設し、地元民に日本語、英語を教育するとともに、植民地化への抵抗の意味を教えた。その教え子の中にマイケル・ソマレがいたのである。ソマレが最初に受けた学校教育が日本語で、それ以来、ずっと日本贔屓になったと彼自身が語っている。昭和60年、首相として来日したソマレは、宇都宮で飲食店を営んでいた柴田氏を捜し当て、感激の再会をしたという当時の新聞記事を私は見たことがある。日本人としては良い話だと思うが、この話を知って安倍総理が記者会見で披露したところ、韓国メディアが早速反応して、「過去の日本軍の行為を美化し、戦争を肯定する日本の首相」と書いた。そんな反日報道は、日本とPNG関係の展開に何も影響を与えないけれど、「何でも文句をつける材料になるのだな」と苦笑するばかりだ。
 いずれにせよ、この度の総理のPNG訪問は、ここ一国との関係だけに止まらず、他の13島嶼諸国との関係性をさらに強力に推し進めていくきっかけになるだろう。来年5月に福島県いわき市で開催予定の第7回太平洋・島サミットについては、その中身を決める作業が始まっているだろうし、天皇・皇后両陛下のミクロネシア訪問も実現性を検討しているようである。本誌が発刊された直後には、フィジー民主化選挙が行われ新政府ができるはずだから、そうなれば日本も新たなフィジー対応を打ち出さなければならない。あれもこれも、暑い夏が終わる頃には、オセアニア問題は大忙しになる予感がする。 (小林 泉)
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 キャリコネ 企業ニュース
 ビジネスTVウォッチ
 太平洋戦争の激戦区「パプアニューギニア」が、いまバブル経済の舞台に
 2014年8月23日ビジネスTVウォッチ
 69年前、先の大戦で激戦区となった南太平洋の島国、パプアニューギニア。2009年に天然資源が発見され、国民所得はこの5年間で倍増。高級マンションに富裕層が飛びつくなど、パブル経済を迎えている。
 今年5月には天然ガスの日本への輸出が始まり、日本にとっての重要度も増している。めざましく発展している一方、都市部での失業率は80%と高く、貧富の差も激しい。治安の悪さから「天国に一番近い島」との皮肉な呼び名もある。
 2014年8月18日放送の「未来世紀ジパング」(テレビ東京)は、かつての日本兵がつなぐ強い絆や、資金援助だけではない日本式の援助の仕方など知られざる関係を紹介した。
 初代首相を指導したのは「元日本兵
 太平洋戦争では、戦闘だけでなく飢餓やマラリアで13万人もの日本兵が亡くなり、現地の人たちもおよそ5万人が犠牲になった。
 そんなかつての激戦地で、私財を投じて地元ホテルを再建した日本人がいる。海の特攻隊である人間魚雷「回天」の元乗組員で、出撃直前に終戦を迎えた川畑静さん(88)だ。 「ここの人たちの窮状を少しでも日本人が分かってくれれば、その話が伝わり、一度パプアニューギニアに行ってみようかと、1人でも2人でも来てもらえれば友好の促進につながる。小さな力だけど」(川畑さん)
 川畑さんは自然しかなかったこの村に、観光という産業を根付かせた。現地のひとを大勢雇い、彼らの生活を豊かにしたかったそうだ。
 ここで働くスタッフの中には、身寄りがなく川畑さんが育てた人も多い。川畑さんがスタッフを「うちのファミリーみたいなもんです」と話すと、うつむいて涙をにじませた女性もいた。細身の川畑さんは「ビッグマン」と呼ばれ、人々の尊敬を集めている。
 ジャングル深くにあり、船でしか行くことのできないニューギニア島カウプ村では、戦争中、飢餓状態にあった日本兵たちに食べ物を分け、温かくもてなしてくれた。当時中尉だった柴田幸雄さんが恩返しにと、教育のなかったこの村に読み書きを教えはじめた。その中に、初代首相のマイケル・ソマレ氏がいた。
 「柴田さんは素晴らしい先生でした。学ぶことの大切さを教えてくれ、私は進学することにしました。私を導いてくれたのは柴田さんでした。人生で何をすべきかを」(ソマレ氏)
 中国との「ODA合戦」が激化
 1949~75年、パプアニューギニアは、オーストラリアの委任統治下にあった。ソマレ氏は「いつか、国を作りなさい」という柴田さんの言葉を胸に独立運動に身を投じ、1975年に独立。初代首相に就任した。
 日本はこの40年間で1500億円のODAを行っている。一番の友好国だと思いたいところだが、中国は2014年の1年だけで3000億円の援助を行い、関係を強めている。天然ガスは日本だけでなく中国にも輸出され、中国企業の進出も相次いでいる。
 開発ラッシュに沸くこの国は、かつて国土の9割だった森林が6割にまで減っている。深刻な森林破壊の原因は、木材の海外輸出と、次々に森を焼く「焼き畑農法」だという。
 この問題に取り組むのが、日本のNGO団体「オイスカ」だ。各部族の代表を集めて農業研修を行っている。稲作・野菜栽培・養豚などを教え、輸出用の野菜栽培も進めている。
 さらに、パプアニューギニア産の天然エビが日本に輸出されていた。漁師は「エビで大儲けさ」と嬉しそうに語る。GDP成長率は来年20%を超えると言われ、日本人の所得を超えるとも言われている。
 「金儲け」だけでない関係づくりを
 番組ナビゲーターの太田泰彦氏(日本経済新聞社論説委員編集委員)は、医療や上下水道のインフラ整備、地震津波など自然災害の対策は日本の得意分野とした上で、日本との特別な関係をこうまとめた。
 「パプアニューギニアは、ただ”金儲け、市場”という見方で付き合っていく国ではない。お互い助け合い、償い、慰霊、鎮霊もある。そういう特別な心のつながりがある国だ」
 日本は今後3年間で200億円の経済援助を決定しているが、これが「援助合戦」「資源の奪い合い」になっていくのではと気になった。パプアニューギニアに資源があろうとなかろうと、太田氏の言うように「特別な心のつながり」があって、お互いの国益につなげられれば良いのだが。(ライター:okei)
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