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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
小倉百人一首ちは、鎌倉初期の1235年(嘉禎1)年に藤原定家が「百人一首」を選んで成立させた歌集。
日本民族の男女が好んだ文化作品とは、物語の『源氏物語』(1001~5年の間に起筆)と詠の『万葉集』(~759年までの約350年の歌集)『小倉百人一首』であった。
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日本民族は、太陽を敬って祈るが、月を慕って物思いにふける。
日本民族とは、神話物語に生きる人々の事である。
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同じアジア人と言っても、日本民族と漢族系中国人・半島系朝鮮人とは遺伝子(科学)的文化的宗教的精神的に違っていた。
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在原業平朝臣(17番) 『古今集』秋・294
千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)からくれなゐに 水くくるとは
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2024年10月29日 YAHOO!JAPANニュース Book Bang「日本はなぜ「太陽の国」ではなく「月の国」なのか? アイルランド人翻訳家が見出した「日本文化のユニークさ」(レビュー)
『謎とき百人一首』の著者ピーター・J・マクミランさん
アイルランド国立大学を首席で卒業した詩人で、『百人一首』の英訳で日米の翻訳賞を受賞したピーター・J・マクミランさんが、この度『謎とき百人一首:和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮選書)を刊行。同書の魅力を脳科学者の茂木健一郎さんが語り尽くす。
茂木健一郎・評 自分たちを知るための大切な「気づき」
『謎とき百人一首 和歌から見える日本文化のふしぎ』ピーター・J・マクミラン
日本人ならば誰でも教科書やかるたを通して慣れ親しんでいる『百人一首』。アイルランド出身で、大学で教えるために日本に来てそのまま三十年以上住み、教師、翻訳家、詩人としてメディアの中でも活躍されているピーター・J・マクミランさんによる『謎とき百人一首』は、和歌、そして日本文化の語り尽くせぬ奥行きを論じた名著である。
『百人一首』の翻訳で、ドナルド・キーン日本文化センター日本文学翻訳特別賞を受け、日本文化の紹介者として国際的に評価されているマクミランさん。私は個人的にも存じ上げているが、その温厚なお人柄から発せられる日本への愛はほんものだ。ホメロスやイェイツ、ジョイス、ベケットなどに縦横無尽に言及しつつ和歌を論じる本書は、「世界文学」の中の和歌、そして日本の文化のありようを、時代の変化に動揺しがちな私たちの胸のど真ん中に届けてくれる。
『百人一首』には、「恋」を通して人生を味わう歌が多い。平兼盛の歌「しのぶれど色に出(い)でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」や、小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに 我が身よにふるながめせしまに」といった名歌をマクミランさんがどのように受け止めたか。私たち日本人が「言の葉」に託した「もののあはれ」が世界に広がっていく感覚は、感動的だ。
右にも述べたようにすでに定評ある『百人一首』の英訳は、本書の読みどころの一つである。ドナルド・キーンさんに訳文を見せて感想をもらうなどの交流があったマクミランさんは、見事な翻訳で『源氏物語』を世界に知らしめたアーサー・ウェイリー以来の受容史の中にある。
マクミランさんの英訳には、知性と愛がある。日本語における同音異義語を、どのように反映させるか。猿丸大夫の歌「奥山に紅葉(もみぢ)踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき」に見られるような、主語の曖昧さの持つ可能性をどう扱うか。シリアスな本質論を論じる一方で、柿本人麻呂の歌「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝ん」の英訳では、単語を縦長に並べることで、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のような軽やかな遊びの精神にも到達する。
もっとも、翻訳には困難が伴う。権中納言敦忠の歌「あひみての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり」の英訳はすばらしい。しかし、日本語の持つニュアンス、響きがどんなに卓越した英訳でも伝わりきらないことはマクミランさんご自身も繰り返し強調する。
深い理解に基づく、工夫をこらした英訳ですら、もとの和歌の興趣は時に伝わりにくい。そのような和歌を敢えて英語に直そうというマクミランさんの試みは、ドン・キホーテのように美しく、真に創造的な行為であり、読んでいて深い感動があった。同時に、卓越した英訳をいわば「鏡」として、かえって、和歌は第一義的には日本語で味わうべき芸術であると読者に気づかせる点に、一つの「発見」があると思う。
本書は、いろいろな意味で忘れがたい読後感があるが、特に、マクミランさんの日本文化における「月」の持つ意味についての論は考えさせられた。「外国人は日本国旗『日の丸』を見て、日本は太陽の国と思いがちである。極東の日本は、アジアで初めに太陽が出てくる国でもある。ただ、日本文学の翻訳をしてきた私にとって、日本はむしろ月の国であるように感じる」という卓見は、長年古典文学に向き合ってきた著者ならではであろう。
確かに、日本人は月が大好きである。とりわけ、古典文学においては月が中心的な位置を占めている。そのことは日本人にとっては常識だが、世界的に見ればユニークな感性であることに、私はマクミランさんを通して改めて気付かされたように思う。
遣唐使とともに渡った唐に長年滞在して三代の皇帝につかえ、ついには帰郷がかなわなかった阿倍仲麻呂による歌「天の原ふりさけ見れば春日(かすが)なる 三笠の山にいでし月かも」を題材に、月に対する日本人の感性を文学的伝統の中で論じた項は、本書の白眉である。
人工知能やグローバル化といった流れの中、私たちは今、自分たちの居場所を見直すべき時を迎えている。世界をいわば「鏡」として、日本文化を再発見しなければならない。そんな時代に、マクミランさんの本書は大切な「気づき」の数々を与えてくれる。
和歌におけるジェンダーの問題など、本書で論じられた論点がこれからどのように発展して行くのか、ほんとうに楽しみだ。万葉集の英訳などにも取り組み続けるマクミランさんは、ウェイリーやキーンといった先人たちがたどった道を、さらにどこまで遠くに行くのだろうか?
[レビュアー]茂木健一郎(脳科学者)
1962年東京生まれ。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部を卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程を修了、理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。「クオリア(意識のなかで立ち上がる、数量化できない微妙な質感)」をキーワードとして、脳と心の関係を探求し続けている。『脳と仮想』(2004年、新潮社)で小林秀雄賞を、『今、ここからすべての場所へ』(2009年、筑摩書房)で桑原武夫学芸賞を受賞。
協力:新潮社 新潮社 波
Book Bang編集部
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世界大百科事典
小倉百人一首 おぐらひゃくにんいっしゅ
鎌倉初期成立の歌集でもっとも親しまれてきた〈百人一首〉。藤原定家撰。1235年(嘉禎1)成立か。古代から平安時代を経て鎌倉時代初期までの有力歌人100人を選び,それぞれの和歌1首を掲げたもの。歌はすべて《古今集》以下の勅撰集を典拠としている。本の形でも伝わるが,近世以後,〈歌がるた〉として愛好され,かるたの呼名としても定着した。1235年,宇都宮頼綱(定家の子為家の妻の父,法名〓生)は山荘の障子に貼る色紙和歌の選定と執筆を定家に依頼し,定家は《百人秀歌》(後鳥羽院,順徳院の歌を欠くなどいくつかの相違はあるが《小倉百人一首》と骨子は同じ)を編集,のちそれを改訂して成立したものとされるが,異説も多い。この経緯には,幕府の圧力によって《新勅撰集》に後鳥羽院の歌を入れられなかった定家の不満がからんでいるとされる。作者は,天智,持統,人丸(人麻呂)に始まり,定家,家隆,後鳥羽,順徳に至る。男性歌人79(うち僧侶13),女性歌人21。内容別では,春歌6,夏歌4,秋歌16,冬歌6,恋歌43,旅歌4,離別歌1,雑歌20で,恋の歌がきわめて多い。歌の選び方は必ずしもそれぞれの代表作とはいえないが,定家の好みがよく表れていて,優雅・流麗な作が多いとされる。王朝和歌のアンソロジーとして室町時代ごろから重視され,現代に至るまで愛好者が多く,かるたとして楽しむことと相まって古典に親しむ契機となっている。なお,《小倉山荘色紙和歌》と呼ばれて伝わる定家筆の色紙和歌(小倉色紙)は,《明月記》に,天智以来家隆,雅経に至る歌人の歌を色紙に書いて〓生に送ったとあることと対応するものとされるが,その段階で《小倉百人一首》が成立していたか,《百人秀歌》の段階のものか議論があり明らかではない。
→百人一首
[奥田 勲]
[索引語]
百人一首 藤原定家 歌がるた 百人秀歌 小倉山荘色紙和歌
©Heibonsha Inc.
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日本民族を否定する反宗教無神論の日本人が存在し、そうした日本人が高学歴者に増えてきている。
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日本民族の心・精神の有り様は、和ごころ(天照大神)であって荒ぶる魂(須佐之男命)ではなく、武士道の勤倹尚武でもなかった。
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そろそろ、明治の近代化と共に創作された鎧武者の「武士道神話」を捨てる時である。
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日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
死への恐怖。
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2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
何もしない勇気
最適化された世界の窮屈さ
……
太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
……
『浅はかな干渉』が生み出す害
……
『注意の搾取』が奪い去ったもの
私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
……
物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
古神道のシャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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刀剣ワールド
小倉百人一首とは
「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ)は、鎌倉時代初期の13世紀前半に編纂された和歌集です。飛鳥時代から鎌倉時代までのすぐれた100人の歌人の和歌を、ひとり1首ずつ選んだので「百人一首」という通称で呼ばれるようになりました。 和歌集として編まれた小倉百人一首でしたが、歌かるたとして長く親しまれ、現在は競技かるたの大会も盛んです。小倉百人一首が完成したいきさつや、選ばれた歌人の横顔、また小倉百人一首にまつわる用語などを紹介します。
小刀百人一首
「小刀百人一首(小倉百人一首)」では、広木弘邦刀匠が小刀に刻んだ百人一首をご紹介します。
目次
小倉百人一首の歴史
小倉百人一首と歌人
小倉百人一首と六歌仙
小倉百人一首の関連用語
小倉百人一首を題材にしたアニメ
小倉百人一首一覧
小倉百人一首の歴史
撰者・藤原定家と依頼主・宇都宮義綱
小倉百人一首の撰者は、平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた「公家」(くげ)で歌人の「藤原定家」(ふじわらのさだいえ/ていか)です。
父の「藤原俊成」(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)も名高い歌人で、父子ともに勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう:天皇や上皇の命により編纂された歌集)の撰者を務めて家名が高まり、藤原家は和歌の名門の地位を確立しました。
この藤原定家に小倉百人一首の選歌を依頼したのは、「鎌倉幕府」(かまくらばくふ)の有力御家人だった「宇都宮頼綱」(うつのみやよりつな)です。
宇都宮家は、勇猛な武家一族として草創期の鎌倉幕府を支えましたが、5代当主の宇都宮頼綱は謀反の疑いをかけられ、政争を逃れるために1205年(元久2年)、27歳で出家して「蓮生」(れんじょう)と名乗りました。
宇都宮義綱の別荘・小倉山山荘で100首を精選
出家後の宇都宮頼綱は鎌倉を離れて、都の郊外、貴人の別荘地だった小倉山(京都府京都市)の山麓に隠れ住みます。ここで幼いころから親しんでいた和歌に打ち込むうちに、歌壇の第一人者、藤原定家と出会ったのです。ふたりは和歌を通じて親交を深め、宇都宮頼綱は娘を藤原定家の息子に嫁がせるほどの間柄になりました。
やがて宇都宮頼綱は藤原定家に、小倉山麓に建てた山荘の襖(ふすま)を飾る色紙を書いてほしいと頼みます。引き受けた藤原定家は、この山荘で「古今和歌集」や「新古今和歌集」などの勅撰和歌集から100人の歌人の和歌を選んで色紙にしたためたのです。
こうして小倉山で100首が編纂されたことから、この選歌集はのちに小倉百人一首と呼ばれるようになりました。
小倉百人一首と歌人
小倉百人一首に選ばれた歌人は、天皇や皇族、公家、朝廷に出仕した女房、武士、僧侶と多彩で、その歌からは詠み人の社会的立場や時代の作風が読み取れます。
奈良時代「万葉歌人」
「万葉集」(まんようしゅう)は、貴人から庶民まで様々な階級の人々の歌を収載しており、技巧に走りすぎない率直な歌風が特徴です。小倉百人一首に採用された万葉歌人には「柿本人麻呂」(かきのもとのひとまろ)や、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴家持(おおとものやかもち)らがいます。
「柿本人麻呂肖像画幅」を観る
柿本人麻呂肖像画幅
平安時代「六歌仙」
「六歌仙」(ろっかせん)は平安時代の代表的な以下6人の歌人です。
「遍昭」(へんじょう)
「在原業平」(ありわらのなりひら)
「文屋康秀」(ふんやのやすひで)
「喜撰」(きせん)
「小野小町」(おののこまち)
「大友黒主」(おおとものくろぬし)
成熟した貴族文化を反映して、比喩表現や掛詞(かけことば)を使う趣向を凝らした歌が小倉百人一首に選ばれています。
平安歌壇の才女「女流歌人」
紫式部
平安時代の文学界では、宮中に出仕する女性らが活躍しました。
小倉百人一首には「枕草子」の作者「清少納言」(せいしょうなごん)や、「源氏物語」の作者「紫式部」(むらさきしきぶ)を筆頭に、17名もの宮廷女性の歌が登場します。
乱世を癒した「僧侶歌人」
小倉百人一首が完成した鎌倉時代初期は、朝廷政治に代わって武家政権が確立した時期でした。こうした戦乱と混迷の時代に、撰者の藤原定家は、僧侶が心静かに詠んだ歌を12首、選んでいます。
その詠み人のひとり「寂蓮」(じゃくれん)は藤原俊成の養子でしたが、実子の藤原定家が生まれたために出家した人物です。
小倉百人一首と六歌仙
「六歌仙」(ろっかせん)は、平安時代を代表する6人の歌人、遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰、小野小町、大友黒主です。
905年(延喜5年)に編纂された勅撰和歌集「古今和歌集」の序文で、撰者のひとり「紀貫之」(きのつらゆき)が、和歌の歴史を論じつつ、この6人を紹介しました。実は、紀貫之は6人を手放しで褒めたのではなく、むしろ鋭く論評しているのですが、それに値する6人だったことも確かで、のちに和歌の名手とされ六歌仙と呼ばれるようになったのです。
出家後も歌壇の中心で華やいだ「遍昭」
遍昭は「桓武天皇」(かんむてんのう)の孫で、朝廷の要職「蔵人頭」(くろうどのとう)まで昇進しましたが、寵臣として仕えた「仁明天皇」(にんみょうてんのう)の崩御に従い、出家しました。
この時期には悲痛な心境を詠んだ歌がありますが、多くは心情を艶やかに詠んだ歌で、小倉百人一首に採られた歌でも「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」と、若い女性の美しさを讃えています。出家後は僧侶としても出世し、朝廷との交流を続け、歌壇の中心人物として華やかに暮らしました。
竜田川の紅葉は屏風絵だった「在原業平」
在原業平(小刀百人一首)
在原業平は、平安時代の貴公子の恋愛遍歴を描いた「伊勢物語」の主人公のモデルとされる公家で、本人も高貴な女性との恋の噂がいくつか伝わっています。
小倉百人一首に選ばれた歌「ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」は、紅葉に染まる奈良県の竜田川の川辺で詠んだように読めますが、実際は屏風絵(びょうぶえ)を見て詠みました。
その屏風の持ち主は、清和天皇の寵愛を受けた藤原高子(ふじわらのこうし/たかいこ)で、かつて在原業平と恋愛関係にあったという説があり、在原業平はこの歌を昔の恋人に捧げたのだとも言われているのです。その真偽は確かではありませんが、プレイボーイと言われる在原業平らしい逸話です。
小野小町にアタックした?「文屋康秀」
文屋康秀は、歌人として4首が「古今和歌集」に採用されていますが、官吏としては平凡な官位にとどまり、詳しい経歴が伝わっていません。しかし、地方に赴任する際に、六歌仙のひとりで絶世の美女と言われた小野小町を誘ったという逸話は有名です。
この誘いに小野小町は「わびぬれば 身をうき草の根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」と返歌したとされ、わが身を浮き草に喩えて「誘ってくれるなら一緒に流れていきます」と同意したように読めます。しかし、小野小町が文屋康秀に同行したという記録はなく、これが実話かどうかも分かりません。
小倉百人一首に入った文屋康秀の歌「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ」は、吹き荒れる秋風の厳しさを詠みながら、「山」と「風」で「嵐」になるという言葉遊びを仕掛けています。
宇治山に隠棲した孤高の僧「喜撰」
喜撰は「古今和歌集」に「宇治山の僧」と記されるだけで、都の郊外の宇治山(京都府綴喜郡宇治田原町)に住んだことしか分からず、歌も2首しか伝わっていません。古今和歌集の撰者、紀貫之でさえ、その序文で喜撰を紹介するのに「よめる歌多く聞えねば、かれこれをかよはして、よく知らず」(知られている歌が多くないので、あれこれ比較できず、よく分からない)と書いたほど、当時から情報の少ない歌人でした。
この時代には出家しても政財界に影響力を持ち続けた貴人もいましたが、喜撰は小倉百人一首に入撰した歌「わが庵は都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり」の通り、都の辰巳(たつみ:東南の方角)に構えた庵で、静かな暮らしに満足していたのです。
謎に包まれた美女「小野小町」
小野小町(小刀百人一首)
小野小町は美貌の歌人として知られ、恋の逸話は数多く、全国に生誕の地や墓所だと伝わる場所がありますが、そのほとんどは伝承で、両親や生没年、晩年の消息も不明です。
分かっているのは、小野家が「遣隋使」(けんずいし:6世紀後半から7世紀初期に中国の隋王朝へ派遣された使節)を務めた「小野妹子」(おののいもこ)に連なる一族で、小野小町は宮中に出仕していた教養のある女性だったことです。
小野小町が詠んだ「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」は、小倉百人一首のなかでもよく知られ、人気があります。桜の花が長雨に打たれて色あせてしまったように自分の容色も衰えたという、嘆きまで美しい美女の歌です。
小倉百人一首に選ばれなかった「大友黒主」
大友黒主は、六歌仙でただひとり小倉百人一首の撰から外れた歌人です。それでも古今和歌集をはじめとする勅撰和歌集に11首が収録された、すぐれた詠み人でした。
また、大友黒主は近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の役人で、宇多法皇(うだほうおう)が石山寺(滋賀県大津市)に参詣した折に、歌を献上したとも伝わっています。
こうした実績がありながら、後世の演劇作品で敵役にされており、能の演目「草子洗小町」(そうしあらいこまち)では、大友黒主が小野小町の歌を盗作し、歌舞伎の演目「積恋雪関扉」(つもるこいゆきのせきのと)には天下を狙う悪人として登場するのです。
しかし、この配役に深い意味はなく、有名人の名を役名に借りるにあたり、大友黒主の「黒」の字が悪役イメージにかなっていたのではないかと言われています。
小倉百人一首の関連用語
和歌や歌かるたの関連用語を知ると、小倉百人一首をより楽しめます。ここでは主な用語を解説しましょう。
歌枕
歌枕(うたまくら)は、和歌によく詠まれる名所や旧跡のことで「逢坂山」や「小倉山」、「吉野」、「須磨」などが知られています。これらは古くから多くの歌に詠み込まれてきた結果、歌を作る人や読む人が、その場所に行ったことがなくてもイメージを共有できるようになりました。
やがて、桜の歌なら「吉野山」、紅葉の歌には「竜田川」を詠み込むという組み合わせも決まっていったのです。
枕詞
枕詞(まくらことば)は、特定の言葉の前に置いて、歌のリズムを整えたり、情緒を添えたりする言葉のことで、万葉集の頃から用いられてきました。
小倉百人一首の歌から1例を挙げると、柿本人麻呂の作「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」に登場する「あしひきの」が、続く「山」の枕詞です。
「あしひきの」の意味には諸説があり、なだらかな山の稜線が裾野まで引いたように続いている様子だとも、山の麓では木の実や焚き木などの恵みが採れることを「引く」と言ったのだとも言われます。
このように語意は曖昧でも、「あしひきの」で山を連想するルールが確立しており、山という語に趣きを与え、歌に心地良いリズムが生まれるのが枕詞の面白さです。
本歌取り
本歌取り(ほんかどり)は、有名な古歌(本歌)の一部を新作に取り入れる技法で、感動を重ね、表現を深めます。小倉百人一首にある本歌取りの例を見てみましょう。
清原元輔(きよはらのもとすけ)作「契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波越さじとは」の本歌は、古今和歌集にある、詠み人知らず(作者不詳のこと)の歌「きみを置きて あだし心をわが持たば 末の松山 浪も越えなん」です。
末の松山は、現在も宮城県多賀城市にある景勝地の丘で、大津波でも越えることはないと言われてきました。これを踏まえて、本歌は「あなたをさし置いて、私が浮気心を持つことがあれば、末の松山を波が越えてしまうでしょう」と誓っているのに対して、清原元輔は「誓ったではないですか、涙に濡れた袖を絞りながら。末の松山を越す波がないように心変わりしないと」と恋人を咎めています。本歌取りで、本歌に返歌しており見事です。
競技かるた
競技かるたは、ルールに従って小倉百人一首の歌かるたの技を競います。こうしたかるた大会は明治時代から開催されていましたが、1957年(昭和32年)に「全日本かるた協会」のルールに統一されました。
競技では、読み手が上の句を読み上げると、選手が下の句が書かれた札を素早く取り、獲得した札の数を競います。記憶力と瞬発力、激しい争奪戦を戦い抜く精神力が必要で「畳の上の格闘技」と言われるほどです。
毎年1月に、競技かるた最高峰の大会である「名人位戦」と女性部門の「クイーン位戦」が開催されます。
小倉百人一首を題材にしたアニメ
小倉百人一首をカードゲーム化した歌かるたは、江戸時代から楽しまれてきました。現在は競技種目にもなり、競技かるたを題材にした漫画やアニメーションも制作されています。そうした作品のなかから人気の高いアニメ2作を紹介しましょう。
名探偵コナン から紅の恋歌
「名探偵コナン から紅の恋歌」(めいたんていコナン からくれないのラブレター)は、漫画原作のテレビアニメ「名探偵コナン」シリーズの劇場版21作目、2017年4月に公開されました。
主人公の少年「江戸川コナン」(えどがわこなん)は、鋭い推理で数々の難事件を解決してきた名探偵です。本作では、競技かるた高校生大会をめぐる事件に挑みます。
江戸川コナンと仲間が見学する、競技かるた高校生大会で、会場爆破事件と大会主催者の殺人事件が相次ぎました。殺害された大会主催者が死の直前まで見ていた映像には、高校生かるたチャンピオンの大岡紅葉(おおおかもみじ)が映っていたと判明します。
この事件解決に、江戸川コナンと何度も推理勝負をしてきた、ライバルの高校生探偵・服部平治(はっとりへいじ)も参加。すると、捜査線上に浮かんでいた大岡紅葉が、服部平治を「私の婚約者」と言い張り、身に覚えのない服部平治と、彼のガールフレンド・遠山和葉(とおやまかずは)は戸惑います。そして、大岡紅葉と遠山和葉は、服部平治への告白権を賭けて、高校生かるた大会で対決することに。
ミステリーとラブストーリーの2重構造の物語が展開する本作は、2017年邦画興行収入ランキング第1位を獲得するヒット作になりました。
ちはやふる
「ちはやふる」は、競技かるたに打ち込む少年少女を描く漫画作品です。2008年から2022年まで雑誌「BE・LOVE」(講談社)に連載されました。
連載中から人気を博し、2011年にテレビアニメ化され、2013年には「ちはやふる2」、2019年には「ちはやふる3」が放送されています。
主人公の小学生・綾瀬千早(あやせちはや)は、転校生の少年・綿谷新(わたやあらた)の手ほどきで、かるたを始めます。この様子に、綾瀬千早に好意を寄せる真島太一(ましまたいち)は嫉妬しますが、やがて綿谷新の情熱に感化されて、3人はかるたチーム「ちはやふる」を結成。3人は転校や進学による別れ、高校生大会での再会を経験しながら成長していくのです。
本作は、かるた競技に挑む青春をスポーツアニメさながらの熱量で描き、友情や恋愛も展開します。アニメ化に次いで、実写映画にもなり「ちはやふる -上の句-」、「ちはやふる -下の句-」、完結編「ちはやふる -結び-」の3作が公開されました。
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精選版 日本国語大辞典 「小倉百人一首」の意味・読み・例文・類語
おぐら‐ひゃくにんいっしゅをぐら‥【小倉百人一首】
藤原定家が宇都宮頼綱(蓮生)の依頼で、蓮生の小倉山麓中院の山荘の障子に貼る色紙形の和歌として選んだといわれる一〇〇首の歌。天智天皇から順徳天皇までの、百人の歌人の秀歌を一首ずつ集めたもので、近世以降、歌ガルタとして広まった。定家が選んだ一〇〇人秀歌を、後年その子為家が改訂したものが今日伝わるものであるともいう。小倉百首。
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国史大辞典
小倉百人一首 おぐらひゃくにんいっしゅ
百人の歌人から秀歌を一首ずつ集めたもの。最初は、嵯峨の小倉山荘の障子に張った色紙和歌の意の「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙形」の名称であったものが、内容的名称の「百人一首」となり、さらに、のちの『新百人一首』『武家百人一首』と区別するため「小倉百人一首」となった。撰者としては、室町時代以来、藤原定家撰説があったが、安藤為章の宇都宮頼綱撰説、吉沢義則の宗祇撰定家仮託説などの提唱を経て、近来再び定家撰説がとられ定説化している。これは、『百人秀歌』や応永本『百人一首抄』の出現と『集古十種』中の「小倉色紙」の再評価によるものであり、『百人秀歌』が草案で『小倉百人一首』が完成本であろうとされている。選ばれた歌人は、万葉時代から新古今時代までの男七十九人、女二十一人の代表的歌人で、歌は恋歌四十三首(四季三十二首、その他二十五首)が中心であり、妖艷の歌風を重んじ、流麗な歌調のものが多い。歌人の選択秀歌例ともに、定家の歌論書と一致するものが多く、定家の晩年の愛誦歌的性格がみられる。室町時代には、和歌・連歌の専門家に継承され、江戸時代からは教養書としても、広く一般に愛唱活用されるようになった。『百人秀歌』は、宮内庁書陵部蔵本・久曾神昇蔵の二本。『小倉百人一首』の方は、諸本きわめて多く、注釈書が中心で、現存最古の『小椋山庄色紙和歌』(応永十三年(一四〇六)藤原満基の奥書、書陵部蔵)や『百人一首宗祇抄』が基盤になっている。
[参考文献]
石田吉貞『百人一首評解』、鈴木知太郎『小倉百人一首』、田中宗作『百人一首古注釈の研究』、島津忠夫訳注『百人一首』(『角川文庫』)
(有吉 保)
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ウィキペディア
ツクヨミ、またはツキヨミは、日本神話に登場する神。
『古事記』は月読命、『日本書紀』は月夜見尊などと表記する。一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。
神話での記述
記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる。
ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記では伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。
この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。
日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。
ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが追加されたためではないかと考えられている。
ツクヨミはスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる。
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