🏞71)─2・②─1741年に蝦夷地を襲った日本海側の大津波。噴火による山体崩壊。~No.290 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年10月30日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「じつは、はるか沖合で起こる「山体崩壊」で大災害が起こる…日本海の孤島に残る「噴火・崩壊」の現場と、「無視できないリスク」
 前野 深(東京大学地震研究所准教授)
 新たな火山島の出現は、島を知り地球を知る研究材料の宝庫。できたての島でなくては見ることのできない事象や、そこから伝わってくる地球のダイナミズムがあります。そして、地球に生まれた島は、どのような生涯をたどるのか、新たな疑問や期待も感じさせられます。
 今まさに活動中の西之島をはじめ、多くの島の上陸調査も行ってきた著者が、国内外の特徴的な島について噴火や成長の過程での地質現象を詳しく解説した書籍『島はどうしてできるのか』が、大きな注目を集めています。
 18世紀、徳川吉宗治世下の日本海側を襲った大津波。その原因となった噴火活動を調査するため、松前の沖合にある無人の孤島「渡島大島(おしまおおしま)」へ、著者が上陸調査した模様をお届けします。
 ※この記事は、『島はどうしてできるのか』の内容を再構成・再編集してお届けします。
 日本最大の無人島に残る噴火の痕跡
 松前半島は日本海を北上する対馬暖流の影響を受け、北海道の中でも平均気温が比較的高い。それでも一年の中で訪れるのに適した時期は限られる。
 18世紀の噴火の調査を行うために著者が産業技術総合研究所新潟大学の研究者らとともに渡島大島に向かったのは2019年7月中旬、気候が穏やかな時期だ。
 松前半島の西端、最も渡島大島に近い位置に漁業の街、江良(えら)がある。津軽海峡とつながる江良沖の海域は海産物が豊かなことでも知られている。晩餐に新鮮な魚介を堪能し、翌早朝、漁船に乗り込み、約50km先の島を目指し出発した。
 気候が穏やかとはいえ海上の風や波の状態は急変することがあり油断はできない。この日も漁船は時折やってくる高波に大きく揺られ、船にしがみつかなければいけない状況だ。
 1時間ほどで松前半島は後方に霞み、やがて前方に小さな島影が見え始める。さらに1時間半、頂を雲に覆われた渡島大島がしだいに大きくなり、波打つ海の上に静かに立ちはだかっている。急峻な斜面と断崖に囲まれた山体はまるで城塞のようで、異様な雰囲気を醸し出している。
 しだいに近づいてくる渡島大島。頂部は雲に覆われている。島にある白い建物は漁船避難用の港 photo by Fukashi Maeno
 © 現代ビジネス
 渡島大島は活火山の島であるとともに日本最大の無人島でもある。大きさは東4km、南北3.5km、標高は732mに達するが、実際には山体の裾野は水深1000m、直径
 12kmにもおよび、島は氷山の一角にすぎない。島の東側では漁船避難用の漁港の建設・維持のために工事関係者が滞在するが、定住者はおらず公式には無人島に位置付けられている。
 過酷な環境が人を遠ざけ、島の大部分に手付かずの自然が残されている。行政による保護の対象にもなっていて、とくに国指定の天然記念物オオミズナギドリの繁殖地であることから、上陸調査には文化庁長官の許可も必要だ。
 ようやく島東岸の港に接岸し、慌ただしく荷物を陸揚げすると漁船はあっという間に引き返してしまった。まさに人が寄りつかない絶海の孤島に取り残されたという心境だ。
 海岸線から一段上がった高台には飯場がつくられ、港で働く人たちはそこで生活している。調査はこの東岸を拠点として行われたが、目的地は山頂だ。すなわち海抜0mから700mを超える山頂まで、急斜面をひたすら登らなければならない。
 絶海の孤島を感じさせるふもとと、絶景が広がる山頂
 植生は貧弱で背丈の低い草木のみが斜面を覆っていて見通しは良い。所々、火山砕屑物により滑りやすくなっている場所を避け、ルートを適切に選択しさえすれば着実に歩を進めることができる。
 このようにして懸命に登ること2時間半、ようやく島の東側をつくる江良岳の山頂に到着する。海岸から山頂までのこの往復行程を考慮すると、1日に調査できる時間と場所はとても限られたものとなる。
 尾根まで上がると一面が緑の絨毯(じゅうたん)で覆われたような、なだらかな斜面が広がっている(図「渡島大島江良岳西方の鞍部から清部岳への尾根筋」)。
 渡島大島江良岳西方の鞍部から清部岳への尾根筋。なだらかな草原斜面が続く photo by Fukashi Maeno
 © 現代ビジネス
 そして空気が澄んだ日には、はるか彼方に渡島半島、本州から奥尻島まで一望でき、まさに絶景が広がる。海岸付近とは全く異なる世界がそこには広がり、700mの高低差を苦労して登ってきたことを忘れさせてくれる。
 複数の山体が秘める噴火活動の歴史
 渡島大島は一つの大きな火山島だが、実際には複数の山体からなる。山頂には各山体のピークが並び、起伏に富む。東側にあるのが最高峰の江良岳で東山とも呼ばれる。島の西側は西山と呼ばれ、1741年に大崩壊を起こした山体だ。
 西山の崩壊前のピークは失われ、現在は馬蹄形に崩れ残った外輪山の一部が最高地点となり、清部岳と呼ばれている。そして西山の崩壊部に成長した火砕丘が寛保岳だ。渡島大島の中で最も新しい山体である。
 山頂付近には1741年噴火の噴出物が厚く堆積する。その大部分は山体崩壊前の玄武岩質マグマによる爆発的噴火(プリニー式噴火)に伴い噴出したスコリアや火山灰だ(「渡島大島の清部岳山頂付近」)。
 渡島大島の清部岳山頂付近。18世紀の噴火による噴出物が厚く堆積する photo by Fukashi Maeno
 © 現代ビジネス
 今も島に残る1741年の噴火の痕跡
 1741年8月29日以前に松前で記録された、黒色の降灰をもたらした噴煙に由来すると考えられる。現在の松前町一帯でこの時の降灰の痕跡を見つけるのは容易ではないが、噴出源付近にはこのように厚く堆積物が残されていて、山体崩壊直前の噴火活動を知るための重要な手がかりを与えてくれる。
 寛保岳は美しい円錐状の火砕丘だ。おそらくストロンボリ式噴火により形成されたのだろう。ほとんど侵食を受けていないその外見から、新しい火山体であることがよくわかる。
 裾野には小火口が複数存在し、そこからは何枚もの溶岩が北斜面を流下し海岸に達している。海蝕崖ではこれらの溶岩流の一枚一枚が薄く広がり、幾重にも積み重なり露出する。このような特徴は、溶岩の粘り気が非常に低く、何度も川のように斜面を流れ、海に流れ込んだことを示している。
 北側海蝕崖で見られる18世紀に噴出した溶岩流の断面。薄い溶岩が何枚も積み重なり層状の構造を呈している。表面には堤防構造など溶岩流特有の微地形が発達する
 © 現代ビジネス
 寛保岳とそれを取り囲む地形地質は、山体崩壊後も激しい爆発や溶岩流出があり、それに伴い火山灰が松前津軽まで飛散したことを裏付けている。1741年8月29日以降も非常に活発な噴火活動が続いていたのだ。
 徐々に明らかにされる噴火の推移と特徴
 渡島大島の島内に残された地質痕跡をもとに1741年噴火の推移が徐々に明らかにされるのと並行して、周辺海域での調査も進んでいる。山体崩壊により生じた岩屑なだれ堆積物や噴煙により運ばれ海に落下した降下物など、噴火と崩壊に起因する堆積物が海底にも見出され、その特徴がしだいに明らかになりつつある。
 陸上と海底の地質の対比や噴出したマグマの特徴の解明が進むことで、1741年の噴火で何が起きたのか、今後より明確になることが期待されている。
 馬蹄形崩壊部の上に成長した円錐状の寛保岳 photo by Fukashi Maeno
 © 現代ビジネス
 一方で、解決が簡単ではない問題も存在する。
 渡島大島の山体崩壊は、どうやらプリニー式噴火の最中に発生したらしい。このことからマグマの山体浅部への貫入が崩壊の引き金になった可能性がある。しかしマグマが火道を押し広げようとする力を山体が支え切れなくなったためか、あるいは継続する活動により山体の強度が急速に低下したためか、その原因はよくわかっていない。
 *参考記事:プリニー式とともに、「火山を象徴」する噴火様式
 噴火が続いている中で山体崩壊が起こるという同様の現象は、2018年にインドネシアのアナク・クラカタウ島でも発生し、この時にも津波による大きな災害が起きた。
 事後の解析により崩壊に先行する長期的な山体変形が観測されていたことがわかっているが、具体的にどのような条件が揃った時に崩壊が発生するかは明らかでない。世界の類似事例のデータの蓄積と比較に加えて、山体が崩れる条件や関係する物理パラメータをモデルにもとづき探るような研究も必要とされている。
 参考記事「プリニー式噴火」については…:プリニー式とともに、「火山を象徴」する噴火様式
 参考記事「クラカタウ島の噴火」については…:「1883年大噴火」の血脈を受け継ぐアナク・クラカタウの「驚愕の山体崩壊」
 江戸時代に続いた「山体崩壊」による大災害
 これらの事例は、崩壊現象の理解に対する課題だけでなく、噴火中の火山に山体崩壊のリスクが生じる場合があるという防災上にも重要な問題を投げかけている。
 さらに、日本列島の海域にある活火山といえば、伊豆小笠原諸島や南西諸島の島々を真っ先に想像するかもしれないが、渡島大島のように活火山は日本海側にも存在し、1741年のような大噴火、山体崩壊、津波による災害のリスクがあることを忘れてはならないだろう。
 渡島大島の山体崩壊から遡ること100年、1640年(寛永17年)には渡島半島東部に位置する北海道駒ヶ岳で山体崩壊が起こり、対岸にあたる現在の伊達市洞爺湖町の沿岸を中心に、津波により700名以上の犠牲者が出るという災害が発生した。
 山体崩壊の後には爆発的噴火が始まり、この時も噴火と津波による複合災害が引き起こされた。渡島半島は江戸時代に二度も山体崩壊による災害を経験した特異な場所といえる。
 北海道駒ヶ岳渡島大島より100年ほど前に山体崩壊を起こしている photo by Fukashi Maeno
 © 現代ビジネス
 渡島大島の山体崩壊から約50年後の1792年(寛政4年)には、現在の長崎県、雲仙眉山で山体崩壊が発生し、有明海を挟む島原と肥後の両地域で津波により1万5000人以上の犠牲者が出た。「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる大災害だ。この山体崩壊は雲仙普賢岳の火山活動と関係したもので、有史以降では国内最悪の火山災害である。
 このように江戸時代の寛永、寛保、寛政に起きた三つの山体崩壊と津波は、いずれも大規模な災害を引き起こした。そして、これらの噴火の特筆すべき点は、古文書の中に多くの記録が残されたことだ。
 被災地域と江戸幕府との間では、噴火や津波そのものだけでなく被害状況についてのさまざまな文書が交わされたようだ。それらの古記録は、堆積物など噴火痕跡の調査分析とは別の視点から山体崩壊に伴う現象や災害の理解を進めることに貢献している。
 山体崩壊における、防災上の重要問題
 火山体の崩壊は頻度は低いものの、ひとたび発生すれば甚大な災害となり得る点で、低頻度大規模な火山現象と見なされる場合が多い。
 しかし明治期以降の国内の事例(1888年磐梯山[ばんだいさん]の山体崩壊)や近年の海外の事例(1980年の米国セントヘレンズ火山、1997年および2003年スフリエールヒルズ火山、2018年アナク・クラカタウ島の山体崩壊など)を振り返ると、津波も含めたそのリスクは決して無視できないように思えてならない。
 江戸時代と比べれば格段に科学が進歩した現代では、火山噴火の推移をほぼリアルタイムで把握できるレベルに達しつつある。しかし、現代の日本列島で渡島大島と同様の現象が起きた時、果たして即時的に検知し、災害をより軽減することができるだろうか?
 過去の山体崩壊や津波の発生過程の調査研究はもちろん重要だが、観測体制の整備、リスク評価など課題はまだ多く残されている。
 *      *      *
 このように、海の向こうからやってくる大津波の原因には、噴火活動による山体崩壊が潜んでいました。発生頻度が高く無いという観点から、これまで脇役的にみられてきた山体崩壊ですが、じつは、最も多くの犠牲者を出してきた現象のひとつです。次回は、この山体崩壊の起こるメカニズムについての解説をお届けします。
 島はどうしてできるのか 火山噴火と、島の誕生から消滅まで
 島……その創造と破壊から、地球の姿が見えてくる
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 11月1日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「じつは、日本列島では「かなりの頻度で起こっていた」…あまりに多くの犠牲者を出してきた「噴火による山体崩壊」。その発生要因と「リスクへの備え」
 桧原湖から望む磐梯山1888年の山体崩壊では、岩なだれで477名の命を奪われた photo by gettyimages
 新たな火山島の出現は、島の成り立ちを知り、地球の活動を知るための研究材料の宝庫。できたての島でなくては見ることのできない事象や、そこから伝わってくる地球のダイナミズムがあります。そして、地球に生まれた島は、どのような生涯をたどるのか、新たな疑問や期待も感じさせられます。
 【画像】「街をまるまる飲みこむ」ほどの大噴火を起こした島…日本と同じ島孤だった
 今まさに活動中の西之島をはじめ、多くの島の上陸調査も行ってきた著者が、国内外の特徴的な島について噴火や成長の過程での地質現象を詳しく解説した書籍『島はどうしてできるのか』が、大きな注目を集めています。
 ここでは、実際に現場を見てきた著者ならではの、体験や研究結果をご紹介していきましょう。今回は、じつは日本で多発している山体崩壊について、その起こるメカニズムを解説します。
 ※この記事は、『島はどうしてできるのか』の内容を再構成・再編集してお届けします。
 「最多の犠牲者」を出してきた現象
 御殿場市側から見た富士山麓 photo by gettyimages
 富士山のような成層火山体は裾野が広大で、一見安定して存在しているようにみえる。しかし山体の構成物は火砕物や溶岩で、これらが幾重にも積み重なっているため全体としては不均質かつ多孔質の構造となっている。
 そのため山体表層付近は雨水の浸透などにより風化変質を被るだけでなく、山体内部では帯水層が発達したり、マグマや流体が貫入すれば熱水変質が進んだりして、山体全体として弱化が進行しやすい状態にある。火山ごとに程度は異なるが、火山体は常に変質作用を被り、徐々に脆弱化していくという性質を持っている。
 「山体崩壊」は、山体構成物の脆弱化に起因し、とくに中型~大型の成層火山体で発生しやすいと考えられてきた。しかし、アナク・クラカタウ火山の例*をはじめ、世界のさまざまな事例を見てみると、若い火山体であっても条件さえ揃えば崩壊に至る場合がある。
 *クラカタウ火山の噴火について〈明治日本をも震撼させた「クラカタウ火山」の大ニュース…消滅後の海に現れた「子供島」の成長と、その後の姿〉
 山体崩壊の規模と被害
 崩壊量は小規模なもので1km³以下、大規模なものでは数百km³に及ぶこともある。
 山体崩壊により、崩壊物は岩屑なだれ(debris avalanche)として火山体周囲に広がり堆積するが、流路にあるものはほとんどがなぎ倒され堆積物の下に埋もれてしまう。山麓の広範囲に火山体の残骸である多数の地形的高まり(流れ山)が形成され、給原には崩壊地形ができる。
 世界には多くの崩壊事例があるが、いずれも特定の方向に馬蹄形に開いた崩壊地形とその下流域に流れ山が存在し、それらが山体崩壊の発生の根拠となっている。このような地形的な特徴は海底での斜面崩壊が起きた場合にも共通する。
 一方で明瞭な流れ山地形が形成されないこともある。例えばラスタリア火山(チリ)で発生した山体崩壊では、流れ山が形成されない代わりに堆積物末端での高まりや堤防状地形など、火砕流堆積物によく見られるような地形が形成された。こうした例は、山体崩壊では場合によっては崩壊物の細粒化が急速に進み、火砕流と同じような挙動をとることを示している。
 1つに特定することの難しい、山体崩壊の要因
 山体崩壊の要因として、
 マグマや熱水(流体)の山体浅部への上昇などに伴う山体内部からの加圧・破壊の進展火山性または非火山性の地震地殻変動など外的な要因による応力状態の変化風化・熱水変質作用による長い年月をかけての山体強度の低下
 などが挙げられる。これらの要因が複合的に関与する場合もある。とくに古い時代の事例については、マグマ活動と非マグマ活動のどちらが直接的に崩壊現象に関与したかを厳密に決めることが難しい場合が多い。
 火山観測で捉えられた「セントヘレンズ火山」の山体崩壊
 1980年5月18日、山体崩壊直後のセントヘレンズ山 photo by gettyimages
 山体崩壊が近代的火山観測網により捉えられ、その脅威が初めて認識されたのは1980年のセントヘレンズ火山(米国)でのイベントだ。
 このイベントは先の山体崩壊要因の候補のうちA. に相当し、マグマ貫入に伴う浅所での破壊の進展が引き金となり、標高2950mの火山体が大崩壊を起こした。その結果、岩屑なだれの発生とともに馬蹄形の巨大な崩壊地形が生まれ、標高は2550mまで減少した。崩壊量は2.5~2.8km³に達し、周囲への影響も極めて甚大なものだった。
 特筆すべき点は、単に山が崩れるだけでなく、崩壊に伴い浅所に貫入していたマグマが急減圧を受けて爆発的に膨張し、既存山体とマグマが一体となり莫大な運動エネルギーをもって一気に噴出したことだ。
 その結果、岩屑なだれのみならずブラスト(爆風)が発生し、山体北側の広大な地域を破壊した。さらに山体荷重が取り除かれたことにより、減圧されたマグマが引き続き上昇しプリニー式噴火に移行したのだ。
 このイベントは、山体崩壊が時にはマグマの動きと密接に関係し、大爆発を引き起こす非常に危険なものであることを示した。
 多くの事例がある日本列島
 約2500年前に山体崩壊を起こした鳥海山 photo by gettyimages
 日本列島では、活火山を含む多くの第四紀火山で山体崩壊の痕跡(馬蹄形地形、岩屑なだれ堆積物)が確認されている。
 富士山も例外ではない。富士山の東側で約2900年前に発生した山体崩壊では、東麓には御殿場岩屑なだれ堆積物(約1km³)が、その二次移動により御殿場泥流堆積物(約0.7km³)が広範囲に堆積した。崩壊物には著しく変質した古富士火山の噴出物が多数含まれることから、地震または水蒸気爆発を引き金にして、古富士火山の変質した堆積物内に滑り面が形成され、山体崩壊が発生したと考えられている。
 鳥海山の約2500年前の山体崩壊に伴う象潟(きさかた)岩屑なだれ堆積物や、浅間山の約3万年前の山体崩壊に伴う応桑(おうくわ)岩屑なだれ堆積物など、数千年から数万年の時間スケールで日本国内の活火山全体の噴火履歴を概観すると、山体崩壊はそれなりの頻度で発生している。
 多くの犠牲者をともなう山体崩壊
 17世紀以降の、日本国内において犠牲者が多かった火山噴火イベント。棒グラフの右に、それぞれの主な災害の原因を付している。上位はいずれも岩屑なだれや津波による。気象庁のデータをもとに作成
 山体崩壊は一般に低頻度の火山現象と捉えられがちだが、それは正しい表現ではないかもしれない。17世紀から19世紀にかけては、北海道駒ヶ岳渡島大島、雲仙眉山磐梯山で山体崩壊が発生し、多くの犠牲者が出ている。
 *参考記事:「日本海の孤島・渡島大島」の噴火…「降灰まみれの悲劇」に見舞われた松前を、さらに襲った10m超の「大津波」の正体
 山体崩壊による災害の規模が他の現象による災害の規模よりも圧倒的に大きいのはなぜだろうか? これは山体崩壊が突発的に発生する場合が多いことや、広域にわたり崩壊物質によるダメージが生じるためと考えられる。
 とくに北海道駒ヶ岳、渡島大,島、雲仙眉山の事例に見られるように、海域・臨海域での山体崩壊では大量の崩壊物が海へ流入して津波が発生し、これが被害を拡大する要因になっている。
 日本列島のような島弧は、山体崩壊そのものだけでなく津波との複合災害が発生しやすい環境にあることを忘れてはならないだろう。
 山体崩壊にどう備えるか
 アナク・クラカタウの変化(既出の記事より再掲)。2018年山体崩壊前(上。2014年時)と後(2019年時)を比較する photo by Fukashi Maeno
 山体崩壊に対して私たちになす術はないのだろうか?
 これは難しい問題だが、災害にどう備えるかの観点からは、事前のリスク評価と即時検知が重要ということはいえるだろう。ただし現在確立された手法があるわけではない。まずは過去事例の詳細な復元と現象の解明が将来のリスク評価のためには必要だ。
 過去の山体崩壊の復元には地質学が威力を発揮する。崩壊地形や岩屑なだれの分布・体積・構成物などの地質痕跡は、山体崩壊のプロセスや影響範囲を明らかにし、どのような災害リスクがあり得るかを知ることに着実に貢献する。
 また過去事例の復元にもとづき、崩壊(地形変化)を再現する土砂移動やそれに伴う津波発生の数値モデルを構築、さらには高度化することも重要だ。その上で想定される崩壊シナリオに対して、崩壊量や土砂の移動経路、流域の推定、津波の規模や到着時間の予測などを行うことは現在の技術で十分可能と考えられる。
 崩壊ポテンシャルの評価は最も難しいが、例えば火山体の表面や内部に存在する変質域・脆弱部の発達の程度や分布を、物理探査により明らかにすることができれば評価に活用できるかもしれない。
 また、マグマや流体(熱水)の貫入時や周囲での強い地震地殻変動の際に、山体内部の応力状態がどのように変化し、どのような場所から崩壊が起こりやすいかなどをシミュレーションにより評価することは可能かもしれない。
 先の記事でアナク・クラカタウの崩壊とそれに伴う津波を取り上げた。じつはこの火山での山体崩壊や津波の発生の可能性がフランスの研究者らによって事前に指摘され、スンダ海峡での山体崩壊とそれに伴う津波のシミュレーションが行われ、沿岸への津波の影響の評価が行われていたことは注目に値する。
 残念ながらその結果を活用した事前対策が行われることはなかったが、この例のように崩壊の可能性がありそうな火山に対して、事前にリスク評価を行うことは重要だろう。
 崩壊現象の即時検知については、崩壊による地表面・海面の変位や地震動を観測によりいかに早く捉え、警報に繫げられるかが鍵だろう。島嶼域の活火山では、観測網の整備に加えて津波計を用いた観測システムの構築により、検知能力を増強する必要がある。
 山体崩壊は他の火山現象と比べて低頻度といえるかもしれないが、地球上での発生頻度や規模を考慮すると、私たちが想定している以上にリスクが高い火山現象ではないだろうか。
 アナク・クラカタウなど近年の事例は、山体崩壊のプロセスそのものの理解だけでなく、それが引き起こす災害に対しても重要な示唆を与えている。国内の山体崩壊研究やリスク評価の現状を見直し、今後の研究の方向性や対策について、あらためて考える機会が訪れているように思える。
 大きな被害を出す山体崩壊。近年、山体崩壊と、それに伴う津波の観測で、メカニズムや周囲への影響に関する理解が大いに進んだ事例があります。続いては、カリブ海の英領・モンセラート島の解説をお届けします。
 島はどうしてできるのか 火山噴火と、島の誕生から消滅まで
 島……その創造と破壊から、地球の姿が見えてくる
 前野 深(東京大学地震研究所准教授)
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 11月1日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「まるで「日本列島のよう」…「プレートの沈み込みからできる火山弧」の一端にある島で起きた「街をまるまる飲みこむ」ほどの大噴火
 前野 深東京大学地震研究所准教授
 新たな火山島の出現は、島を知り地球を知る研究材料の宝庫。できたての島でなくては見ることのできない事象や、そこから伝わってくる地球のダイナミズムがあります。そして、地球に生まれた島は、どのような生涯をたどるのか、新たな疑問や期待も感じさせられます。
 今まさに活動中の西之島をはじめ、多くの島の上陸調査も行ってきた著者が、国内外の特徴的な島について噴火や成長の過程での地質現象を詳しく解説した書籍『島はどうしてできるのか』が、大きな注目を集めています。
 前回の記事では、山体崩壊のメカニズムについて取り上げましたが、それに続いて、大規模な山体崩壊とそれに伴う津波が観測され、また大量の火山噴出物によって首都壊滅の被害まで生じた、カリブ海小アンティル諸島のモンセラート島の噴火活動についての解説お届けします。
 【書影】島はどうしてできるのか・帯
 ※この記事は、『島はどうしてできるのか』の内容を再構成・再編集してお届けします。
 変わり続ける火山島
 私たちの身近にある豊かな自然で魅了する「火山島」はどのようにして生まれ、成長していくのだろうか。活火山として成長する火山島は、噴火活動を繰り返しながら地形地質を変化させ、周囲の陸や海、人間活動にも大きな影響を及ぼす。
 新たに生まれた火山島はその後、数千年、数万年あるいはそれ以上にもおよぶ長い時間をかけ噴火を繰り返すことでしだいに大きな火山島へと成長し、やがて人間活動を含む生態系がそこに根付くことになる。日本列島では伊豆諸島や南西諸島の島々をはじめ、活火山とともに美しく豊かな自然が広がる「火山島」は、このような長い年月をかけて成長し変化してきた、ある意味成熟した島がほとんどだ。
 変化し続ける火山島は、海域・島嶼域(とうしょいき)で起こる火山噴火とその自然や人間活動への影響について私たちに多くのことを教えてくれる。今回は火山島で起こる噴火活動に注目し、島の成長と変化、そしてその過程で生じる噴火による脅威を取り上げる。
 噴火活動は地球の躍動的な姿を目の当たりに見せてくれる一方、そこで暮らす人々にも大きな影響を与える。日本列島では活火山のうち約2割が火山島だが、諏訪之瀬島(すわのせじま)など一部の火山島を除き、多くは静穏な状態にある。しかし鹿児島県口永良部島の2015年の噴火に見られるように、島民が長期間島外への避難を余儀なくされる事態もたびたび起きている。
 多くの島民が避難した伊豆大島、1986年の噴火や三宅島、2000年の噴火は、火山噴火の推移予測の難しさに加えて、離島という隔絶された環境が住民避難など行政による噴火対応を難しくした事例といえる。同様に火山噴火が島に居住する人々に大きな影響を及ぼした事例は地球上のさまざまな海域に存在する。
 【写真】伊豆諸島・三宅島伊豆諸島・三宅島。変化する火山島は、私たちに多くのことを教えてくれる photo by gettyimages
 カリブ海に浮かぶ英国領モンセラート(Montserrat)島は、人間社会が活火山の傍らで発展しつつも、時に噴火による甚大な影響を受けながら共生している島で、海域・島嶼火山を多く抱える日本列島と通ずるものも多い。
 近年のモンセラート島での噴火は詳細に観測され、噴火に伴われたさまざまな現象とそのメカニズムの理解が進展するなど学術的にも重要な場所だ。
 しかし同時に噴火は島民たちにそれまでの首都を放棄し、新たな歴史を踏み出すことを強いた。今回は近年モンセラート島で起きた噴火活動を振り返りつつ、著者の訪問記録も交えながら離島火山の噴火が私たちに示唆するものを考えていく。
 日本列島のような火山弧に位置する諸島
 飛行機から降り立った瞬間にむっとした熱気を感じ、いかにもカリブの島にやって来たという雰囲気に包まれる。V・C・バード国際空港は西インド諸島の中でもリゾート地として人気が高いアンティグア島の空の玄関口だ。
 忙しなく行き交う人々の流れに揉まれながら、乗り継ぎのためにモンセラート航空のカウンターを探していると、ようやく見つけたそのカウンターは大手航空会社が軒を連ね、長蛇の列がいくつもできているその最も奥の方にひっそりと設営されていた。
 さほど待つこともなく搭乗手続きを済ませ、待合所を抜けると、滑走路には小さなプロペラ機が待っている。モンセラート航空が運行するのは操縦士を含め定員8名の小型機だ。欧米や周囲の島々へ飛び立つ国際線の大型旅客機が轟音を上げて離着陸する合間を縫って、著者を乗せたその小さな機体はモンセラート島に向けて静かに飛び立った。
 南米大陸の北に大小の島々が密集した地域があり、西インド諸島と呼ばれる。この西インド諸島中南米に囲まれた海域がカリブ海だ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』でもお馴染みの17〜18世紀頃に海賊が栄えた地域でもある。
 西インド諸島の東縁では小さな島々が弓を描くように帯状に連なり、大西洋側に迫り出すように配列する。これらの島はとくに小アンティル諸島と呼ばれる。
 【地図】小アンティル諸島とモンセラート島カリブ海小アンティル諸島とモンセラート島の位置
 亜熱帯の気候とそこで育つバナナやサトウキビ、それらを元にした食文化など特色ある風土がこの地域の魅力で(とくにこの気候で嗜むラム酒は格別だ)、リゾート地も多く、欧米諸国の避寒地としても知られている。
 小アンティル諸島は日本列島と同様にプレートの沈み込みに起因する火山弧で、11の活動的火山が含まれる。モンセラート島はこの諸島の中でも北寄りに位置し、東西10km、南北16kmの洋梨のように下膨れした形の火山島だ。この島のことを知らなければ、地図を眺めてもほとんどの人がその存在に気づかないだろう。
 「硫黄」という名の山を戴くモンセラート島
 かつてモンセラートは一つの小さな離島にすぎなかったが、1995年に始まったスフリエールヒルズ火山の噴火とそれによる災害がこの島を一躍有名にした。
 小アンティル諸島の島々は歴史的な経緯から独立国家として存在する島もあれば、現在も欧州列国の領土(海外県)となっている島もある。モンセラートは正式には「英国領モンセラート島」で、植民地時代を経て現在も英国の一部を構成する。ただ英国本土から直接アクセスできる手段はない。ふつう欧州や北米経由で、まず隣のアンティグア島に入り、そこから空路を使う。
 モンセラートには大型旅客機が離着陸できるような長い滑走路はなく、航空機は小さなセスナ機やヘリコプターに限られる。小型機は天候の影響も受けやすく、アクセスするのはなかなか大変な島だ。
 しかし無事にアンティグアを出発することができれば、モンセラートに近づくにつれて、この島をつくる火山の迫力ある姿を小型機ならではの臨場感を持って堪能することができる(写真「セスナ機より北東側から見たモンセラート島」)。
 【写真】セスナ機より北東側から見たモンセラート島セスナ機より北東側から見たモンセラート島。奥の灰色の山がスフリエールヒルズ火山。2011年4月撮影
 とくに島の南側を占める最高峰スフリエールヒルズの岩石質で険しい山肌と山頂付近から活発に噴気が出ている様子には目を奪われる。著者が初めて島を訪れた2010年5月はちょうど噴火活動の休止期間だったが、まさにできたてほやほやの山という様相を呈していた。
 「スフリエール」はフランス語で硫黄を意味し、噴気活動が活発な火山にしばしば付けられる名前だ。カリブ海には他にも「スフリエール」と付く活火山が複数あり、混同されることが多い。モンセラートの「スフリエール」にはさらに「ヒルズ」が付くことで他の山と区別できる。
 日本国内に「硫黄山」「硫黄岳」「硫黄島」など硫黄が付く火山地域が多くあるのによく似ているが、モンセラートのスフリエールヒルズはまさにその名にふさわしい山だ。
モンセラートの高度な観測システム
 モンセラートを含め小アンティル諸島の多くの居住者は、アフリカに起源を持つ。その由緒は15世紀末のクリストファー・コロンブスによる西インド諸島発見に遡る。
 このコロンブスによる西インド諸島発見を境に、カリブ海では欧州列国による植民地支配の下、アフリカから多くの移民が入植した、正確には強制的に入植させられたという歴史的経緯がある。モンセラートは1493年にコロンブスにより発見された後、1632年に初めて人が入植するまでは無人島だった。その後人口は増え続け、1995年の噴火前には約1万2000人が居住していた。
 その美しい緑に覆われた外観に由来してエメラルドの島とも呼ばれ、在りし日のカリブの島の雰囲気を留める島として親しまれ、観光産業も確立していた。首都プリマスは西海岸に位置し、噴火前は人口4000人ほどで島の拠点として活気に満ちていた。いくつもの精米所や綿農家があり、北米やイギリスからの居住者も多く、アメリカの医学校も建てられた。
 カリブ海の島々には過去の欧州列国による支配の影響が今もさまざまな場所に残されているが、それは負の側面ばかりではない。政治・経済の発展には欧米の力が重要な役割を担い、それは今日に至るまでカリブ海諸国の人々が豊かに生活するための基盤を支えてきた。
 地震や火山の観測研究についても欧米諸国からの支援・協力が不可欠で、活動的火山を有する火山島のいくつかには専門のスタッフが常駐する観測所が設置されている。
 モンセラート島の場合、1990代初頭の地震活動の活発化に伴い、西インド諸島大学地震研究ユニット(現在の地震研究センター)が観測網を強化し、その後、本格的に観測を行うための活動拠点としてモンセラート火山観測所を設立した。
 西インド諸島大学はカリブ海英語圏の国や地域が自治・運営する大学で、この地域の地震火山観測研究を欧米諸国の研究機関と協力して支えている。スフリエールヒルズの噴火の際にはモンセラート火山観測所が情報発信を逐次行い、噴火活動の理解と災害軽減に貢献してきた。
 【写真】モンセラート火山観測所写真6-1 スフリエールヒルズ火山山頂から約6km北西にあるモンセラート火山観測所(MVO)。噴火により現在の場所に移設された。2010年5月14日撮影
 スフリエールヒルズの目覚め
 1992年、スフリエールヒルズ火山とその周辺で通常の活動を上回る地震が観測された。1995年7月までの3年間に地震が活発になった期間は合計18回にも上った。
 1890年代、1930年代、1960年代にも地震が活発化したことがあったが、結局噴火に至らなかったという経緯があり、そのためこの時もすぐには噴火に結びつけて考えられなかった。しかし1995年7月18日、山頂の東側に開いた凹地(イングリッシュ火口)でとうとう水蒸気爆発が発生した。スフリエールヒルズ火山が長い眠りから目覚めたのだ。
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 続いては、長い眠りから目覚めた1995年のスフリエールヒルズ火山の噴火。その経緯を追いながら、活動の詳細を検証していきます。噴火により、わずか数年で島の姿と、人々の生活は大きく変わっていきます。
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 島はどうしてできるのか 火山噴火と、島の誕生から消滅まで
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 島……その創造と破壊から、地球の姿が見えてくる
 西之島をはじめ多くの島の上陸調査も行ってきた著者が、できたての島でなくては見ることのできないこと、そこからわかる地球のダイナミズム、今後西之島はどのように変化していく可能性があるのか、などを解説する。
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