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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本には、西洋や東洋とは違う、日本独自の民主主義が存在していた。
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日本民族は、数万年前の縄文時代から、ムラの集会で激論する騒々しい民族であった。
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西洋のデモクラシーは、奴隷制度で自由と生活が保障されていた古代ギリシャ市民による集会が元型であった。
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一君独裁の中国や朝鮮は、中華儒教が支配する恐怖体制であって庶民が自由に議論する民主主義を反逆罪で弾圧していた。
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令和6年6月号 正論「追悼 屋山太郎さん
真の保守思想の舵取り役たれ
〈正論創刊45周年大特集
第17回正論大賞受賞者〉 「正論」平成30年11月号掲載
……
真の保守思想をリードせよ
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また、日本の良き歴史・文化・精神を後世に伝えてほしい。フランスの絵画は、浮世絵の存在なくして成り立たなかった。つまり、北斎は洋画のコアの部分に絶大な思想的影響を及ぼしていたのである。ところが、先の大戦後に戦勝国や左派から『日本は欧米に比べて遅れている。民主主義を学べ』と〝洗脳〟された結果、日本人は誇りや自信をすっかり失ってしまった。
良き日本精神は皮膚の色やバックグランドに関係なく、根付くものである。『保守』とは本来、懐が深い思想であり、右翼や民族主義とは別物であることを知っている産経新聞と『正論』は、その視座を今後も守り続けてほしい。
……」
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ムラの長老達は、弥生の大乱による殺戮の反省から、「合議」で神聖不可侵で護られた一族としてのヤマト大王家つまり正統男系父系天皇家である。
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神話物語を正統根拠とする一系の男系父系天皇家とは、武力による征服王家ではなく、ムラの民主主義によって「象徴」としての役割を担わされて誕生した「和合」王家である。
それ故に、数千年の年月を経ても衰退せず滅びず今日まで存在してきた。
それを断ち切るのが、憲法・法律を正当根拠とする女系母系天皇家である。
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日本民族は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住み続けている先住民つまり日本土人である。
日本天皇と日本国は、数千年前の弥生時代・古墳時代に成立し今日に至っている古代制度国家である。
宗教的キリスト教史観、科学的マルクス主義史観・共産主義史観、観念的中華儒教史観では、日本民族の伝統・文化・歴史そして宗教を説明できない。
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2024年5月6日 MicrosoftStartニュース「「民主主義」とは何だろうか…民俗学者・宮本常一が見た「日本の寄り合い」の可能性
畑中 章宏
『忘れられた日本人』で知られる民俗学者・宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは?
「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が6刷とロングセラーとなっている。
※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
寄り合い民主主義
『忘れられた日本人』に収録された「対馬にて」の「一 寄りあい」は、1950年(昭和25)に八学会連合の対馬調査に民族学班として参加した宮本が仁田村伊奈(現・対馬市)で体験した寄り合いの話である。
この紀行文は、日本の共同体が継承してきた熟議による民主主義、満場一致の民主主義の一例として取り上げられることが多い。宮本が対馬で見聞した「民主主義」はこんな段階を踏むものだった。
伊奈の区長の家を訪ねていった宮本は、区長の父から区有文書の存在を知る。翌朝、借用を願い出ると、村の寄り合いを中座して戻ってきた区長は寄り合いにかけなければならないと言って出て行った。午後3時を過ぎても区長が戻ってこないので、しびれを切らした宮本は寄り合いが開かれている神社に出向いて行った。
© 現代ビジネス
寄り合いでは板間に20人ほど、その外にも多くの人が詰め、区有文書の貸し出しや、さまざまな議題について、朝からずっと協議していた。そして訪れてから1時間ほど経って、区長が一同から同意を取り付け、ようやく借用することができた。
「村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう」
みんなが納得のいくまで話し合い、結論が出ると守らなければならない。
「理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである」
宮本は本編を、「昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような形で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたか」を知ってもらうために書いたという。
そして、そういう共同体ではたとえ話、体験したことに事よせて話すのが、他人の理解も得られやすく、話すほうも話しやすかったのである。また、近世の寄り合いでは郷士も百姓も村落共同体の一員として互角の発言権をもっていたと考えられるのだ。
村の伝承に支えられながら村の自治が成り立っていた。すべての人が体験や見聞を語り、発言する機会をもつことは、村里生活を秩序だて、結束を固くするのには役立った。しかしいっぽうで、村が前進し、発展していくための障碍を与えていたことも宮本は指摘している。
共同体における自主性と束縛
同じく『忘れられた日本人』中の「子供をさがす」は、共同体のもつ自主性と束縛を、小品のなかに描き出している。
「共同体の制度的なまた機能的な分析はこの近頃いろいろなされているが、それが実際にどのように生きているか。ここに小さなスケッチをはさんでおこう。これは周防大島の小さい農村が舞台である」という序文で「子供をさがす」ははじまる。
近所の家にテレビを見に行っていた一人の子どもが母親に叱られたのをきっかけにいなくなってしまう。それをめぐって、村中の大人が動き出す。子どもは家で隠れていたのを見つかるが、そのなかで動く村人たちの行動が映し出される。だれかがリーダーシップをとって手分けしたのではなく、村人たちは自主的に、いなくなった子どもが出かけそうで、なおかつ自分が熟知している場所に探しにいったのだ。
「Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子どもの友だちの家を、Dは隣部落へという風に、子どもの行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている」
宮本はこうした行動力から、この島も近代化し、村落共同体的なものは壊れ去ったと思われていたが、目に見えない村の意志のようなものが動いていて、一人ひとりの行動におのずから統一ができているようだという感想を抱く。
しかし、村人が探しまわっている最中、道にたむろして噂話に熱中している人たちがいた。最近になって村へ住むようになった人びとである。
古くからの村人と日ごろの交際はこだわりなしにおこなわれ、通婚もなされているのに、子どもの行方不明に無関心であったり、まったくの他人事として捉える人びともいた。
宮本は、新しい技術や文化が入ってきている近代化された場所にもかかわらず、かつての共同体的な人間関係が残っていたことに驚かされる。ここにはだれに命令されるわけでもなく自分の意志で子どもを探す共同体の姿とともに、そうした自主性をわずらわしく感じる、新しいタイプの住民との対比が描き出されているのである。
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YAHOO!JAPANニュース ブックバン「日本人は本当に議論が嫌いか?「本居宣長」は“議論のかわりに和歌”の民族と言ったけど…日本から議論が消えたワケ
ニュースBook Bang編集部 [ニュース] (哲学・思想)
「本居宣長六十一歳自画自賛像」(出典:Wikipedia)
日本人は「和」を乱さない、議論を好まない人々だと言われる。実際、議論に苦手意識を持ち、他人の議論を見るのもストレスだという方も多いのではないか。
しかし、本当に日本人は議論や論争が嫌いなのだろうか?比較文学者で『1日10分の哲学』(新潮新書)の著者・大嶋仁さんは、そう結論付けてしまっては早とちりだという。もともとは議論が嫌いではなかったのに、明治時代後半に議論なんて「しても始まらない」という風潮が蔓延してしまったとも語る。
いったい何があったのか。以下、同書から見てみよう(『1日10分の哲学』を引用・再構成しました)。
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日本人は議論のかわりに和歌を詠む民族だと言った「本居宣長」
日本人は議論が苦手であるにちがいない。議論好きのインド人を相手にするのは疲れる、とある商社マンから聞いたことがある。中近東に派遣するなら、口の達者な大阪人を派遣しろと方針を固めた総合商社もあったと聞く。日本人は言わなくても通じる相手を好み、言外のコミュニケーションを尊ぶ。
私自身、南米はアルゼンチンにいたとき、ある家に招かれてそこの奥さんの察しのよさに驚いたことがある。旦那がしゃべっている間に、奥さんが周囲の状況を把握し、客人である私の居心地をできるだけよくしようと心配りをしてくれたのである。
後でわかったが、その奥さんはロシアから移住したユダヤ人で、旦那の方はナポリ出身の移民の子であった。以来、ユダヤ人には他の西洋人にない直感力があるという「偏見」を抱くことになった。
議論がなければ“都合のよい人”に…
だが、そうはいっても、議論はやはり必要である。論争も時には大事である。キリシタンの宣教師が日本に来た時も、仏教の僧侶が宣教師と大論争をしている。これらの論争は、どちらが勝ったかということより、それぞれが主張をぶつけたこと自体に意味がある。それを避けていれば、日本人は宣教師にとって都合のよい「温和な人々」ということで終わっていただろう。日本人が論争嫌いなどというのは、早計である。
感情的になれば話は別だが、そうでなければ論争には二つのメリットがある。互いの立場がはっきりすること、また場合によっては自らの立場を修正できることである。そこで思い出されるのが、明治の半ばに起こった二人の文学者の論争である。ドイツ留学から帰ったばかりの森鴎外と、英文学者として名を成していた坪内逍遙のあいだで争われた。
論争は、逍遙がシェイクスピアには理想がない、自然そのものであるところが素晴らしいと誉めたのに対し、鴎外が理想がなくて作品はつくれない、シェイクスピアが優れているのはその理想が見え見えでない点にある、と逍遙の立場を否定したことから勃発した。逍遙はあくまでも芸術は自然に近ければ近いほどよいという立場で、鴎外は自然界にも理想はあり、その理想を掘り出すのが芸術家の仕事だという立場に終始したのである。つまり、芸術とは何かという問題に関しての論争で、これによって論争者それぞれの自然観が浮き彫りにされた。
この論争の面白さはそれがバトルだからで、格闘技を見て面白いのと共通する。鴎外の西洋型論理に対する逍遙の伝統的ねばり腰。一見して鴎外が打ち負かしたように見えて、実はそうでもないところが面白い。
明治時代後半に消えた論争
さて、このような論争が明治半ばに起こったのはいいが、それ以降はそれが消えてしまう。文学者にかぎらず、政治家どうしでも、学者のあいだでも、論争が消える。一体、明治の後半、何があったのか。
よく言われることだが、明治の歴史は大逆事件を機に大きく変わったという。この事件は幸徳秋水らの社会主義者が天皇暗殺を企てたとされる事件で、首謀者ら26名は秘密裁判で大半が死刑判決を受け、そのうちの12名が実際に処刑された。これを機に政府は強圧的監視機関となり、日本はファシズム化していったのである。
もう一つの転機は日露戦争である。この戦争で日本は勝利したことになっているが、国情は悪化の一途をたどり、軍部が政治に口を出す一方で、社会主義者への弾圧が強化されていった。明治維新期にあった言論の多様性がなくなっていくのである。
言論の多様性がなくなるとは、議論や論争が不活発になることである。明治後半から昭和の戦争期に至る日本は本質的に変わるところがなく、変わっていったものがあるとすれば、意見の多様性を認めない度合いが増したことぐらいである。戦時中は言論の自由がなかったというが、実は明治後半からない。日中戦争や太平洋戦争は、大逆事件以来の政治の総決算だったのである。
現在の日本はどうだろう。議論はなされているか? 論争は?
「しても始まらない」という風潮が蔓延しているのではないだろうか。演劇にしても、映画にしても、基本的にドラマ性がないというのも、論争の面白みを国民が知らずにいる内に、時が流れてしまったことを示していると思われる。
そんなことを考えていて思い出されるのは、子どものころのテレビの風刺寸劇である。首相らしき人物が「自衛隊は我が国のホープじゃのう」と言うと、その秘書が「首相、お言葉ですが、ホープよりピースの方がおいしいのでは」というのがあった。昭和30年代のことである。これを思い出すにつけ、古(いにしえ)の中国の義人にならって、「ああ徂(ゆ)かん、命(めい)の衰えたるかな!」と言いたくなる。
協力:新潮社 新潮社 波
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