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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
飢餓供養塔とは、葬式仏教(日本仏教)による貴重な歴史遺産であった。
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幕府や大名は、身銭を切って、無償で被災者を救済していた。
正統男系父系天皇は、神の血筋・現人神から、天地の神々に天災を鎮め生死の境を彷徨う被災者を救う事を願い祈りを捧げていた。正当女系母系天皇では、血統が途絶える為に宗教祭祀ができない。
日本仏教は、葬式仏教として犠牲者を懇ろに弔っていた。
それが、260年間続いた江戸時代であり、徳川の平和であった。
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天保飢饉の供養塔 - 東京大仏 乗蓮寺
http://www.tokyo-daibutsu.com>境内散歩
板橋区赤塚にあります東京大仏乗蓮寺の公式サイト
天保飢饉の供養塔
「天保の飢饉」は、「享保の飢饉」「天明の飢饉」と並び、 江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。
天保4年(1833)から同7年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。
幕府は、白米や銭を支給するとともに、同8年(1837)には、新宿・品川・ 千住板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる人は あとを絶ちませんでした。
この供養塔は、当時板橋宿の中宿(仲宿)にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬しその菩提を弔うために建立したものです。
正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」のお名号が、また台座には同8年3月から11月の間に 亡くなった423人(男333人、女49人、子ども41人)の戒名が刻まれています。
昭和61年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。
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地方自治体は、政教一体として、被災した祖先が残した天災警鐘石碑に対して公費(税金)を使って宗教祭祀をおこなっていた。
エセ保守とリベラル左派は、政教分離の原則から、公費でおこなう地方自治体の宗教儀式に反対している。
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無宗教無神論の現代日本人は、日本神道の祖先崇拝(人神)と葬式仏教の飢餓(仏)供養塔が理解できない。
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現代日本人にとって、祖先が残した飢餓供養塔などの天災石碑は「猫に小判」・「豚に真珠」である。
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「日本仏教は葬式仏教と批判し、貶し、否定する」現代の日本人には、数万年前からの民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない。
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日本民族・日本列島・日本の自然は、宗教と切り離せない。
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正統男系父系天皇・皇室と日本神道と日本仏教。
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日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
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日本列島・日本の自然には、反宗教無神論のイデオロギー(マルクス主義・共産主義)や奇跡と恩寵の一神教(キリスト教・イスラム教)は無益で有害である。
日本民族は、日本列島・日本の自然で生き残る為に数万年かけて正統男系父系天皇を生み出した。
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無宗教無神論と普遍宗教信者の現代日本人は、昔の日本民族とは違う。
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2024年10月13日 読売新聞「あすへの考え 日本型の死生観
淑徳大学教授 郷堀ヨゼフ
死後も続く私たちの物語
死者を意識する機会減 バトンつなぐ『いのちの教育』
私は京都の国際文化センターで民俗学を研究したこともありますが、仏壇や遺影が『あの世』である異界との日常的な接点になり、死者や先祖に見守られているという思想には、仏教だけでなく土着の祖先信仰が影響していると思います。
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映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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八戸市博物館
飢饉【けがじ】
八戸では、飢饉のことを「けがじ」といいます。
作物が実らない凶作が起こると、食べ物がなくなり、八戸では何度もケガジが起こりました。
寒い地域である八戸には、米作りに向いていない土地が多くありました。夏に海から吹く冷たくしめった風(やませ)によって、たびたび凶作が起こり、作物が全く実らない大凶作の年には、ケガジでたくさんの人々が亡くなりました。
私たちの先祖の人は、豊年と凶年をくり返しながら、懸命に生き抜いてきました。
餓死万霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)
八戸藩領
新井田にある対泉院(たいせんいん)という寺の入り口にたっている江戸時代の飢饉(けがじ)で死んだ人を供養する塔。裏面に天明の飢饉の様子が刻まれています。
安永七年(1778)の頃から、ここ数年の間耕作はよくなかった。天明三年(1783)の大凶作の様子は、四月十一日の朝に雷が強く鳴り、やませ(冷たい風)が吹き、大雨が降りだした。
それ以来、八月の末まで雨が降り続き、九月一日にようやく晴れた。夏の間ずっと綿入れを重ねて着なければならないほど寒かった。田や畑の作物は実らず、青立ちのままだった。人びとは階上岳へ登りわらびの根を掘り、海草や山草はもちろん、わらも粉にして食べた。そればかりか■■■■■■(※この部分は削りとられています)。
翌年になると、領内すべてで収穫がなくなり、病気が流行し、多くの人が餓死(がし)して、死体が山のようであった。町や村では毎晩のように火事があり、押し込み強盗などが多くなった。しかし、新井田村では出火はなかった。
領内の人口六万五千人あまりのうち、三万人あまりが死んだ。新井田・十日市・田向・塩入・岩淵の人口男女あわせて千四百十八人、そのうち六百九十六人が死んだ。家は二百七十二軒のうち、百三十六軒がつぶれた。これまでにないことである。これからは、米や穀物をたくわえておくべきだ。
西町屋文書「卯辰飢饉物語」
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田川市立図書館
享保(きょうほう)の飢饉(ききん)と供養塔 江戸時代の災害と人々
188 ~ 189
【関連地域】田川市 香春町 糸田町 福智町
【関連166ページ】
江戸時代には、多くの災害が発生し農民を苦しめました。その中でも三大飢饉(ききん)として知られるのが、享保(きょうほう)・天明・天保の飢饉で、最も大きな被害をもたらしたのが、享保の大飢饉です。享保十七(一七三二)年、この年は四・五月の大雨で麦が腐り、七月からは、ウンカ、イナゴが西日本一帯に異常発生して、かつてない大凶作となりました。
小倉藩では、城下町の外に粥(かゆ)を施す施設を設置する他、村々に対して救済米の放出も行いましたが焼け石に水で、とても切り抜けられる状況ではありませんでした。そのため人々は飢えに苦しみ、いたるところに死体が放置されるという状況で、さながら地獄絵図であったといわれています。
小倉藩は十三万人の人口のうち餓死者四万三千人余りを出し、田川郡でも人口の四割に相当する六七三五人が餓死しました。
飢饉で亡くなった人を弔うために、各地で供養が行われました(表・図)。小倉開善寺の住職大宙禅師は、藩命によって領内の餓死者を調査しその冥福を祈って廻りました。後に延享元(一七四四)年、過去帳を作り供養塔を建てています。田川地域でも、田川市内では、伊田の成道寺(じょうどうじ)境内に、宝暦六(一七五六)年、供養塔(施主として糒村の紅田權平吉文の名があります)が建てられ、死者の大供養が行なわれました。毎年土地の人によって供養が行われていましたが、年と共に廃れ、最近では成道寺の住職が年に一度その霊を弔っています。
田川地域飢饉関係供養塔一覧
田川地域飢饉関係遺構分布図
成道寺境内の供養塔「宝篋印塔」
(田川市伊田)
また定林寺(じょうりんじ)(後藤寺平松)の境内には、餓死者の御霊を納めたと云われる石祠(せきし)があります。現在のものは、その後再建されたもので、前面左側に「天保六未年再興」と書かれた石柱が埋め込まれています。餓死者を弔うために始められた盆踊りは毎年八月二四日に行われ、現在でも田川地区を代表する盆踊りです。法光寺(田川市川宮)には、慰霊碑が多くありますが、その中の一つに花崗岩(かこうがん)で作られた享保大飢饉の慰霊碑が立っています。
香春町では、高座石寺(こうぞうじ)(香春町香春)に享保飢饉の餓死者を祀った地蔵堂があり、八月二四日には、万年願の盆踊りが行われています。近くの神宮院にも天明の飢饉のものですが供養塔があります。下高野の薬師堂は享保一八(一七三三)年に飢饉の影響で悪疫が流行ったのがきっかけで創建されたと云われています。
高座石寺(香春町香春)
福智町には、旧金田町の碧巌寺(へきがんじ)の餓死者慰霊碑、旧方城町の伊方野添墓地に餓死者供養塔、浄万寺(弁城)の個人の敷地内に祀られている餓死者供養碑、旧赤池町の若八幡神社(赤池)に餓死者の碑があります。
碧眼寺供養塔(福智町金田)
下高野の薬師堂(香春町高野)
糸田町には、鼠ケ池(ねずがいけ)の千人塚、宮床の御大師堂、伯林寺境内には、供養碑の他、犠牲者と思われる個人墓も立っています。
鼠ヶ池千人塚(糸田町見立)
飢饉の空腹に耐えかねた人達は、隣国まで食べ物を求めてさまよったようです。旧筑前国の佐与地区(飯塚市)には豊前墓と呼ばれる一字一石塔があります。由緒によると、「佐与村に行くと『お粥』がもらえるという噂が豊前の国に広がり、人々は弱った体にむち打って、佐与村をめざして歩きました。ある朝、佐与村の人たちは、村の入口の小さな峠で力尽き折り重なるようにして死んでいる豊前の人達を見つけ、この峠の近くに埋葬し、小さな石を墓石としました。そして、峠の麓に「一字一石塔を建てた」ということです。
飽食の時代といわれる現在では、想像もつかない歴史上の出来事ですが、食物の大事さを考えるうえで伝えていきたい話です。
(長谷川清之)
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涌谷町役場
萬霊塔(ばんれいとう)・天保飢饉供養碑
萬霊塔
涌谷町花勝山、国道108号線とJR石巻線が並行する花勝山墓地入口、老杉の下に「萬霊塔」があります。
萬霊塔は、天保7~8年(1836~7年)飢饉の十七回忌に餓死者供養碑として嘉永5年(1852年)に建てられたものです。
碑の中央に「萬霊塔」と刻まれ、左右には「天保七・八年の飢饉で冥途に行った餓死者の冥福と成仏を祈願して領内の人々が助け合ってこれを建てる」という意味の供養文が刻まれています。
江戸時代の約270年間、東北地方は天候不順で冷害に何度も襲われ、多くの人々が餓死しました。
宝暦5年(1755年)、天明3年(1783年)も飢饉でした。
この時代は6月に氷柱が下がり、九月には霜が降り、夏には北太平洋から冷風「やませ」が田畑に吹き付ける「夏の来なかった時代」でした。
「やませ」は遠田郡より海に近い旧本吉郡、牡鹿郡、旧桃生郡にきびしく、飢えに苦しむ人々は食糧を求めて石巻街道(ほぼ国道108号沿)を内陸部に向い、花勝山、砂田周辺で行き倒れたと伝わります。
「萬霊塔」には、涌谷地方の餓死者も共に埋葬されました。
飢饉の時には涌谷地方の人々も大変苦しみました。
花勝山の地名は「飢渇」(空腹とのどのかわき)に由来すると云う人もあり、「飢饉」は人々に語り継がれています。
いまも「萬霊塔」は、お盆とお彼岸に、人知れず掃き清められ、水と花や香が手向けられています。
餓死者へのささやかな供養が続いています。
(伊藤源治)
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はちのへヒストリア
餓死萬霊等供養塔及び戒壇石
文化財区分 史跡(旧跡)
時代区分 江戸時代,江戸中期
指定区分 史跡
収蔵場所 寺社仏閣
対泉院山門前に、天明飢饉の惨状が記された餓死萬霊等供養塔と戒壇石が建立されている。
天明3年(1783)、春から秋までやませが吹き続いたうえに、浅間山噴火やアイスランドのラーキ火山噴火により日射が遮られ、異常低温となり大凶作となった。約30年前の宝暦5年の飢饉の経験を忘れて、備蓄食料を売り払っていたため八戸藩領は飢饉に陥った。さらに全国的にインフルエンザが流行し、八戸藩の疫病死と餓死者は計3万322人に上った。これは前年の藩人口6万3158人の約48%に当たる。
対泉院の餓死萬霊等供養塔は、餓死者と病死者を供養するため、新井田村の有志たちが願主となって建立したものである。碑の表面に「餓死萬霊等供養塔」「天明四年申辰 十二月十一日」が記載され、裏面には、飢饉の惨状や食料相場などが克明に記されている。
戒壇石(※)の裏面には、天明飢饉での対泉院領の惨状が記されている。対泉院領では308名のうち232名が餓死・病死した。両碑には、共通して、後世の人々に穀物を蓄えておくよう、教訓が記されている。
※戒壇石:僧に戒律を授けるために、禅宗などの寺院の前に立てた石柱。多くは、面に「不許(くんしゅ)葷酒(さんもんに)入山門(いるをゆるさず)」と刻まれている。
解説執筆者 八戸市教育委員会社会教育課
推薦文献 ①弘前大学人文学部文化財論ゼミナール 2005 弘前大学人文学部文化財論ゼ ミナール調査報告Ⅴ『下北・南部の飢饉供養塔-補遺 津軽の飢饉供養塔-』 ②八戸市 2013『新編八戸市史 通史編Ⅱ近世』 ③上田三蔵2018『寺誌 安心立命』貴福山対泉院 ④八戸市博物館 2020『飢饉の郷土史-八戸ケガジ録-』
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申年がしん
-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-
2024年8月14日 10:03
近世以前の日本では、災害や封建諸侯による収奪などが原因で多くの飢饉が起こりました。特に江戸時代に起きた次の四つの大飢饉を「江戸四大飢饉」と呼んでいます。
・寛永の大飢饉 1642~43年
・享保の大飢饉 1732年
・天明の大飢饉 1782~1787年
・天保の大飢饉 1833~1839年
この中で最も規模と被害が大きかったとされるのが「天明の大飢饉」ですが、鳥取県東部では「天保の大飢饉」を「申年(さるどし)がしん」と呼んで、その悲惨さが語り継がれていました。
鳥取県内にも「申年がしん」に関連した遺跡が残っており、鳥取市周辺に残る飢饉を物語る遺跡を訪問しました。
天保の大飢饉は前記のとおり、天保4~10年(1833~1839年)の足かけ7年にわたった大飢饉ですが、飢饉がいよいよ本格化した天保7年(1836年)が申年にあたっていたため、申年がしんと呼ばれています。
昔語りに残る申年がしんの悲惨さ
1975年(昭和50)に毎日新聞鳥取支局が編集し日本写真出版が発行した「むかしがたり」という本があります。当時、岩美郡岩美町田後(たじり)にお住まいだった山田てる子さん(1902~1983年)という主婦の方が、幼い頃におばあさんから寝物語に聞いた鳥取の昔話や伝説を毎日新聞の鳥取版に連載し、それをまとめた本です。
その中で、申年がしんの悲惨さが語られています。
その年(天保7)は前々からおかしい天気が続いていたが、その年にはいよいよひどくなり、ひな祭りの時分になっても雪が降り続き、田にも畑にも出ることができないでいた。五月になっても田の水に氷が張るような有様だった。
土用近くになっても、綿入れが手放せないような状態だった。この頃になってようやく田植えはしてみたが、稲にもならず、秋には一粒の米もとれなかった。木にも実がならず、口に入れられるものなら、木の芽・草の根など何でも食い尽くしてしまい、しまいには座敷に敷いた荒筵まで叩いて粉にして食べた。
村々の年寄りや子どもはやせこけてたくさん死んだ。さらに、どこからともなく大勢の飢えた人々が流れてきて、蒲生峠(がもうとうげ)を越しかねて、たくさんの人が行き倒れになった。河原には弔う人もないそれらの人々の死体が打ち捨てられていた。 (Wikipediaの「申年がしん」の項から転載)
申年がしんの推移状況
1831年(天保2)
鳥取藩領へ、隣国の但馬、播磨、美作から飢えに耐えかねた人々が多く入り始める。藩内の町や村にも、行き倒れや捨て子が数多く見られるようになる。
1833年(天保4)
邑美郡岩坪、気多郡母木(ほうぎ)・青谷、八東郡姫路、岩井郡湯村で相次いで大火が発生し、村人の大半が焼け出される。
12月5日、不作のため鳥取藩が在中(領内の各村)に2歩の御救米を施す。
1834年(天保5)
藩内暴風雨で洪水が発生する。青谷海岸に帆立貝が異常発生する。
1835年(天保6)
5月22日、藩内暴風雨で洪水が発生する。
1836年(天保7)
春から天候不順で雨が降り続き、田の水も温まらなかったため、田植えができない状態となる。
夏、邑美郡覚寺の狼庵に50人ほどの尼僧が集まり、法華経の加護を信じて祈る。
8月27日、異常な冷害による凶作のため、鳥取藩が在中に3歩の御救米を施す。因伯両国在方の難渋人を両国の全在方人口28万7千人中、約10万人と見積もる。
因伯両国の凶作による損害高が全石高42万石中、26万8287石に達する。
1837年(天保8)
この年飢饉のピークを迎える。1月、鳥取城下に多数の難民が食を求めて集まる。藩は城下に小屋を建てて難民を収容したが、極度の不衛生のため9月で閉鎖する。
4月、藩内に疫病が流行し、餓死者と合わせて死者2万人に達する。
1838年(天保9)
八東郡安井村で御救米を着服していた庄屋宅を47人の農民が打ち壊す。
1840年(天保11)
覚寺の狼庵の良卯尼(りょううに)が、法華経のさらなる加護と餓死者・病死者の冥福を祈って供養塔を建立する。
1843年(天保14)
播磨国赤穂の町人・吉野屋栄次郎が施主となり、餓死者・病死者の冥福を祈って、邑美郡丸山に飢饉供養塔を建立する。
(Wikipediaの「申年がしん」の項から転載)
鳥取市覚寺 天保11年建立の飢饉供養塔
鳥取市郊外の覚寺という集落の村はずれに、椎谷神社という集落があり、その入り口近くに石仏が寄せ集められた場所があります。そこは、狼庵(おおかみあん、ろうあん)という尼寺があった場所です。
1836年(天保7)夏、狼庵の庵主だった良卯尼という尼僧が50人ほどの尼僧とともに、法華経の加護を信じて祈りました。
1840年(天保11)夏、餓死を免れた良卯尼が、餓死者の冥福を祈り、再び法華経の加護を祈って建立したのが「大乗妙典千部供養塔」と記された供養塔です。
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良卯尼や尼僧たちが法華経の加護を祈った狼庵跡
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大乗妙典千部供養塔
良卯尼が申年がしんの餓死者、病死者の冥福を祈って建立した供養塔
この場所は、かつては「たたるところ」といって崇敬されていました。申年がしんの悲惨な記憶が、こうした形で近年まで伝わっていたのかもしれません。
この集落の上に、多鯰ヶ池(たねがいけ)の脇を通って鳥取砂丘へと抜ける、細くて昼なお暗い旧道があります。その旧道のほぼ椎谷神社の真上のあたりにモーテルの廃墟がありますが、そこが「心霊スポット」として隠れた噂になっているようです。たしかに荒れ果てたモーテル廃墟なのですが、この都市伝説あたりも、申年がしんの悲惨な記憶が派生して作られたものかもしれません。
鳥取市丸山 天保14年建立の飢饉供養塔
鳥取城下の湯所町から北に向かう、山裾を通る細い道があります。この道は但馬往来(たじまおうらい)といって、鳥取の町から但馬国(兵庫県北部)に通じる街道でした。この但馬往来が旧国道9号線と合流する山の端に石仏が寄せ集められています。ここが「丸山の追分」といって、鳥取城下と在中(村)の境目でした。
先日公開した「旧丸山の火葬場跡」【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・4】鳥取市の旧丸山火葬場跡|Yuniko noteでも簡単に触れています。
ここに、飢饉が治まった1843年(天保14)に播磨国赤穂(はりまのくに・あこう)の町人・吉野屋栄次郎が施主となって、餓死者・病死者の冥福を祈って建立した飢饉供養塔があります。
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丸山の追分
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吉野屋栄次郎が建立した飢饉供養塔
この丸山の追分は、覚寺地区の奥にある、因幡第一の霊場とされた摩尼寺(まにじ、まにでら)への参道の起点でもあり、道しるべの石地蔵や石塔も並んでいます。
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石地蔵
こちらの石地蔵は、向かって左手に古い墓石が並んでおり、死者の冥福を祈る石地蔵ではないかと思われます。
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石地蔵
こちらが摩尼寺への参道を示す石地蔵
この石地蔵が摩尼寺への参道を表す石地蔵で、表側には「右ハまにみち 是より三十四丁たじま山道 まにへかけれバ四丁のまわり 左ハたじまはま道」と刻まれています。
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南無阿弥陀仏の念仏碑
この念仏碑は、碑の横に「享保六年 湯所村住人 秋山六太夫」と彫られています。この前年、享保5年(1722年)に鳥取城下で石黒火事と呼ばれる大火が起こり、城下町はもちろんのこと鳥取城もそのほとんどが焼け落ちる大火でした。碑の仔細は不明ですが、この大火と関連があるのではないかと言われています。
宅地化が進む道端に静かにたたずむ石碑ですが、昔人の信仰や歴史の悲惨な記憶を静かに物語る遺跡です。
<参考文献>
・むかしがたり 著:山田てる子 版画:岸信正義 企画:毎日新聞鳥取支局 日本写真出版 1975年4月1日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・丸山の追分の現地解説板 久松山を考える会、城北ふるさと塾 平成16年(2004年)8月吉日
・Wikipedia 「申年がしん」「江戸四大飢饉」「天保の大飢饉」
Yuniko note
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ようこそおこしくださいました。 経歴:鳥取県生まれ&育ち。現在、新潟県中越地方に在住。 干支:巳年 家族:あり 興味のあること:地域の古城、古戦場、供養塔。斎場&火葬場跡訪問。クラシック音楽。フィギュア&ジオラマ製作。料理。読書。 よろしくお願いいたします。
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兵庫県新温泉町
萬霊供養塔
天保の飢饉は、天保7・8年(1836~7)頃全国的な天候不順で米価が高騰し、飢餓や疫病の流行により多くの人々が亡くなりました。
高見の萬霊塔は、この犠牲者を供養したもので、そのときの様子を次のように記しています。
「天保七丙申海内末曽有の飢饉且疫病流行諸人是をすくふといへども終にふたつの難に死するもの子は親を背負ひ親は子をいたき阿るき二子を担ひ又は道路に
倒れ死して僧の弔ひも受けずみずから穴をうがち埋めるもの多く中に家絶へ行訪ふ人のなきもあればいささか追善を営まんとて四五輩志を一にし諸施をこひ四緑
の施餓鬼をうけ諸霊の塔をここに立て衆人の回向をすすむ。」
また、高見墓地内に明和8年(1771)9月に施主市原氏・再興施主村中によって建てられた「萬霊供養塔」があり、以前にも同様のことがあったがと思われます。
○萬霊(高見)
・建立年月日 天保9年(1838)
・碑文 碑面 萬霊 建立主旨(内容省略)
・建立者 有志
○萬霊供養塔(高見墓地)
・建立年月日 明和8年(1771)9月
・碑文 碑面 萬霊塔
碑陰 建立年・建立者等(内容省略)
・建立者 施主市原氏 再興施主村中
お問い合わせ
文化財室・浜坂先人記念館
〒669-6702 兵庫県美方郡新温泉町浜坂
0796-82-4490 0796-82-4490 メール
・ ・ ・
京都歴史研究會 a
天保の大飢饉・横大路の餓死供養塔
2023年11月11日(土)、今年の正月に発見した横大路墓地の餓死墓調査・採択を行いました。
横大路墓地・餓死□□供養塔(天保の大飢饉 2023年1月3日(火)羽束師横大路「餓死」天保の大飢饉・碑
無縁墓内に埋もれた餓死墓、幸い一番端にありましたので、金網フェンスの隙間に滑り込み、
プロの石屋の機具でないと動かせない、大変重い重い墓石を少しずつ移動させながら拓本を採りました。
すると餓死墓は個人墓ではなく【餓死諸霊塔】でした。正に、【天保の大飢饉の災害伝承碑】。
天保4年~10年(1833-18639)年、江戸三大飢饉の一つ「天保の大飢饉」は、全国的規模で起こりました。
気候不順、イナゴの害、地震、幕末の混乱による食料政策の貧困が拍車をかけた複合型飢饉でした。
天保8年2月に大坂で起こった「大塩平八郎の乱」の原因にもなりましたし、
大坂では、毎日約150人から200人を超える餓死者を出していたそうです。
横大路の死者数は不明ですが、
飢饉の死者数は流行り病(疫病)も重なり、全国で20~30万人だったと伝わります。
京都では東町奉行組与力「平塚瓢斎」が企画発案し、
鳩居堂主人「熊谷直恭」らが、鴨川三条橋の南に御救小屋を設置した救援事業が知られており、
この事業は天保8年(1837)正月~翌3月間に1480余人の流民を救援し、うち974人が寺院に埋葬されました。
(その様子は小沢華岳筆「荒歳流民救恤図」に描かれ、山本読書室資料が所蔵。渡辺崋山筆とする偽物も流布。)
さて、拓本と読みをキチンと確認した物(コピー)を、地元の名士と管理のお寺に渡し、
横大路地域の災害伝承の遺産にしてもらえたら、先人の慰霊と未来への警鐘になると思います。
また広く京都の方々に知ってもらえたらと考えずにはおられません。
お参り出来る場所に移動➡京都の【災害伝承歴史碑】として認定➡駒札➡お披露目➡人々のお参り……
全国には餓死者の慰霊碑が存在し、岩国市では市指定文化財になっています。
ですが、『餓死』というインパクトある文字がこのように大きく刻まれている石碑は珍しいです。
いずれにしても、今回は慰霊碑の向きを変えて、正面と碑文を見えるよう設置しました。水鉢を起き、野花も供えました。
KIMG8497.jpg KIMG8486.jpg
【正面】
淨極光通達 寂照含虚空
餓死諸靈塔
却來観丗間 猶如夢中事
【左(北)側面】
・茲従天保七丙申(1836)秋八月至同八年丁酉(1837)秋天下罹飢餓死
・者不遑枚挙干此山城州横大路郷功徳主某者發志造
・立石浮啚佛一基以修餓死諸霊追惜此箇善利奉供養三
・世十方諸佛菩薩天界地界一切含㚑(=霊)等伏願諸霊憑
・此勲力速脱生死海永皈(=帰)自性本源矣
意味:天保七年から八年に大飢饉があり、罹災し亡くなった餓死者を慰霊した石碑。
建立年と建立者は、台座に刻まれていたと推測します。
●不遑枚挙(フコウマイキョ)=余りにも多くの数えられない人数。
⚫㚑は[霊]の異字体。
⚫最後の行に出てくる[皈(き)]は[帰]の異字体。
○【側面碑文読み下し】
ここに天保七丙申(1836)秋八月より、同八年丁酉(1837)秋に至り、
天下の飢えに罹る餓死者は、枚挙(マイキョ)にいとまなし。
この山城国横大路郷の功徳主の某が志を発して
石浮図仏一基を造立する。餓死諸霊を修め追惜(ツイセキ)する。この善利を供養奉り、
三世十方諸仏卯菩薩天界地界一切含霊等を伏して願わくば、諸霊は
この勲力(功力)によりつき、生死海(ショウジカイ・迷いの海)を速脱し、本願の自性(起源の性質)に永帰するだろう。
記:京都歴史研究會代表・吉平裕美
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WIKI油川
千人塚 天明飢饉供養塔
2023年7月3日 歴史
旧奥州街道104番目の宿場・油川宿入口付近に集められている寺社の最後が浄満寺。
油川宿中心部に近いにところにあり、津軽半島で最古の寺と言われています。
浄満寺境内には、青森湊を開いた森山弥七郎の供養塔や、本堂背後の高台は千人塚と呼ばれ、天明3年(1783年)の大飢饉で餓死した人々を埋葬しています。油川周辺では住民の内約300人が餓死し、流浪の末当地で亡くなった人約400人が道端で息絶えたを事を受け当時の代官と浄満寺の住職が相談の上、境内の空き地に大きな穴を掘りそれらの死体を埋め供養し千人塚と名付けたと伝えられています。津軽藩全体で約8万2千人が餓死したといわれ、油川とその隣の後潟地区と合わせ、全住民1万8600余人の3分の2が死亡したといわれています。
奥瀬家五輪塔
2023年7月5日
浄満寺
2023年6月21日
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2022.01.17XML
八戸のヤマセとケガジ(飢饉)(7)大正2年の大凶作
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「大正2年(1913)の大凶作」・・・20世紀最大の冷害です。
状況
・天候不順。6月と8月の風水害。
・遅延型と障害型の混合型冷害。5月中旬頃より、長期に低温が続きました。
被害
・青森県東南部の米作況指数:19 稗は半分作。
・青森県全体としては半分作で、天明以来の凶作とみなすほどでした。
・県東南部の被害は甚大でした。
『大正2年青森縣凶作救済誌』からの抜粋です
「而も凶作の影響を被りたる区域を三分すれば之に次ぐは五戸方面にして三宝方面は比較的影響の緩やかなるものありたるを、本群は凶作の最も猛烈な群にして米作の平年8万5千石の総収穫なる大正2年はわずかに8千石内外の収量而も品質粗悪にして市價を有せざるの状態なり而も米作の凶荒に加えて漁業の不振等惨状甚だしく・・・」
・地租延納、北海道への出稼ぎ者・小作農の増加、商況の揖斐、児童の欠席
県による主な救済方針
・能児改良の指導。稲作の心得としての品種の選択、時期、施肥
・外米の輸入。三井商事(と書いてあります)が中国から。
・耕地整理事業
・低利資金の貸付。凶作救済資金の貸付。種籾、漁業、地域の食料購入支援、副業奨励(麻糸繋・製炭)
・市町村に於ける各救済事業の奨励 → 大正3年「小中野堤防救済工事」
・地租の延納
社会的支援
・三戸郡凶歉救済会(本部:八戸町番町)による救済活動
米の廉価販売・窮民への施米、無料の医療活動、衣類の供与など
郷土の民俗芸能「えんぶり」は中止になりました。
飢饉供養塔
・山寺供養塔群(八戸市長者)・・長者山の男坂に近い所にあります。簡単な屋根がかかっています。
元禄・天明・天保飢饉に係る4基の供養塔が並ぶ。当時の山寺には非人穴があり、餓死者を埋葬した。元禄11年(1698)建立の供養塔は、地域でも最も古く、かつ地域最大。
・餓死万霊供養塔・戒壇席・・八戸市新井田、対泉院山門前
天明飢饉の惨状を伝える。供養塔は、当時の穀物相場も記し、戒壇席は、雑穀でさえ備蓄するように訴える。人肉を食べたと噂されている、一部の文字が削られている話は有名です。
・悪霊退散の碑(八戸市根城)・・隅の観音にある供養塔。寛延4年(1751)年建立。唯一、獣の名を冠する飢饉である、寛延年間の“イノシシケガジ”にまつわる。
・砂森天保飢饉供養塔(八戸市白銀)・・弘化3(1846)建立。天保10年(1839)、福昌寺に命じ、海岸に散在する骨を集めて供養させたとあり、この場所か。7回忌に当たる。
・心月院宝暦飢饉供養塔(八戸市吹上)・・明和5年(1768)建立。宝暦飢饉の13回忌に当たる。
・惣百姓無縁の碑(階上町角柄折)・・應物寺山門前に建つ、天明飢饉の供養塔。無縁になった地内の百姓供養のために、地主が建てたもの。
・斗内千人塚(三戸町斗内)
天明の飢饉の惨状を伝える。供養のため、餓死者の頭骨を拾い集めて、4つの塚と供養塔を設けた慰霊場。林泉寺が管理しています。
●獣肉食
・城下の市日では、米・麦・大豆などの穀物のほか、魚や鳥、四足(鹿・猪)が売られていた。
・飢饉で食糧不足になると、「犬・猫・鶏」 → 「馬・牛」の順に食べていた。
・馬を食べるのは、タブーに近い観念がありました。
農業や運搬の労働力、肥料の生産に不可欠
馬産地であり、現金収入源でした
・天明・天保の飢饉時には、馬はよく食べられていました。
市の商品:鹿肉や猪肉として販売。馬肉だと、取り締まりの対象になりました。
持ち馬の処分:自分の馬を売り、別の馬を買って処分し、食用にしました。自分の馬を食べるのは
忍びないという感情から出た行為です。
窃盗による入手。
●救慌食(かてもの)
・あも・・蕨の根から澱粉を取り出したあとのカス
・そそめ・・葛の根から澱粉を取り出したあとのカス
・藁香煎(わらこうせん)・・干した稲わらを煎って粉末状にし、湯でこねたもの。他に豆柄香煎・あも
香煎・そそめ香煎などがある
・藁餅・・・干した稲わらを、煎って粉末状にしたものに、葛や蕨粉、小麦粉を入れ、蒸したもの。
・根餅・・蕨や葛の根を餅にしたもの
・松皮餅・・松の皮の内側(真皮)を水に浸して柔らかくしたものに、蕎麦粉などを入れ、蒸したもの
・あざみの葉
・つのまた・・海藻。穀類に混ぜて食べる
・めのこ・・昆布やワカメを刻んで干したもの。穀類に混ぜて食べる
・ひとで・・海に生息する星形の棘皮動物。煎って食べる。
八戸の種差海岸には、ヤマセの影響で、海抜0メートルの所に、高山植物が生育しています。
以上で、「八戸のヤマセとケガジ(飢饉)」の話は終わりです。
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