・ ・ ・ ・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
頭山満「一人でいて淋しくない人間になれ」
・ ・ ・
保守も右翼も、一つではなく数多く存在する。
右翼本流は、頭山満だけである。
・ ・ ・
2024年8月24日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「「頭山満」日中親善論者としての実像、没後80年の再評価…「侵略者」との通説の誤り指摘する研究書
刊行された「頭山満・未完の昭和史」
明治から戦時中に活動した福岡市の結社「玄洋社」の創設メンバーで、中国の孫文らアジア各国の独立運動家を支援した頭山満(1855~1944年)は、今年没後80年。これに先立ち、頭山を再評価する研究書「頭山満・未完の昭和史」(花乱社)が刊行された。
【写真】頭山満(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
著者は福岡地方史研究会の石瀧豊美会長。数々の史料を検証して「中国大陸の侵略者」との通説の誤りを指摘し、日中和平の信念を貫いた人物像を浮き上がらせた。
頭山は福岡藩士の家に生まれ、西郷隆盛を敬愛する寡黙な人物だった。新聞社の社長に一時就いた以外は無位無官を貫いた。玄洋社では自由民権運動を経て、欧米列強の侵略に対してアジアの団結を訴える「大アジア主義」を掲げ、インドのラス・ビハリ・ボースや朝鮮の金玉均らを保護、支援した。
中でも孫文とは、辛亥革命(1911年)で清朝を打倒し、中華民国を建国する前の日本亡命時や、実権を失い再亡命した際に支援し、強い信頼関係を築いた。
本書が資料を引用して強調するのは、日中親善論者としての実像だ。玄洋社員で朝日新聞主筆や国務大臣を歴任した緒方竹虎は戦時中の44年、玄洋社の小冊子で、頭山が対中国強硬論者と思われていることに触れ「事実は正反対で、(頭山)翁のように日支親善論、提携論で一貫した人は無い」と証言している。
日本政府内部の反対で実現には至らなかったが、日中戦争が始まった37年以降、近衛文麿首相が頭山を内閣参議に起用し、中国との和平工作を託そうとした動きもつぶさに追う。戦後処理内閣で首相となった東久邇宮稔彦王、戦前に鉄道大臣などを務めた小川平吉、昭和天皇の側近だった木戸幸一らの日記や文書を突き合わせ、頭山が近衛首相と、中国側の指導者・蒋介石の双方から信頼されていた実態を明らかにする。
さらには、宮内庁が編集した「昭和天皇実録」をひもとき、44年の頭山の死去に際し、天皇が弔問の使者を頭山邸に派遣していた事実も盛り込んだ。石瀧さんは「無位無官への派遣は、例外中の例外。いかに頭山を評価していたかを示すものだ」と指摘。戦時中の中国・上海で頭山の大規模な追悼会が開かれたことを伝える新聞記事も紹介する。
明治末期の雑誌の人気投票で、乃木希典や大隈重信を引き離し「現代豪傑」部門1位に選ばれるほど国民に支持された頭山だが、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)が玄洋社に「侵略戦争を推進した団体」とのレッテルを貼り、一転してタブー視された。
本人の知らないところで、頭山の談話として戦争賛美や精神論を振りかざす記事が度々報道され、条約改正を巡り玄洋社員が大隈重信の殺害を図ったことも、戦後の平和主義の価値観では否定的に取られた。「侵略者説」は、曲解や思い込みが虚像を生み、それを基に悪評が再生産され続けた結果かもしれない。情報をうのみにして人をおとしめる危うさは現在に通じる問題で、頭山を巡る資料の冷静な検証が昭和史研究に不可欠なことを本書は強く訴える。(若林圭輔)
・ ・ ・
東京都神社庁
杉並区
天沼八幡神社
頭山満「國體明徴」石碑
同社鳥居脇に建立されている石碑。中央に「國體明徴」、向かって左脇に「頭山満」と刻まれている。
この碑は昭和14年建立であるが、元になった「國體明徴」の扁額は、昭和初期、頭山が天沼のさる貴人宅を訪問した折、同社を参拝し揮毫したと伝えられている。
頭山満(とうやまみつる)(1855〜1944)は、戦前日本にて無位無官でありながら強大な影響力をもった人物。中国革命家の孫文、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボース、朝鮮開化派の金玉均(きんぎょくきん)らを支援し、国際的に活躍した。
頭山がその「総帥」と称された玄洋社は、「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三ヶ条を根本におく組織で、福岡県の自由民権運動団体として発足。日本のアジア主義・民族主義の源流ともされる。
頭山門下生は多数にのぼり、神社新報主筆であった葦津珍彦(あしづうずひこ)は、「頭山翁に対する私の感激は、生涯を通じてもっとも強烈」「私は、来世にあっても、頭山門下生であろう」と記し、『大アジア主義と頭山満』などの著作を遺している。
天沼八幡神社について
天正年間(1573~92)、武勇の守護神として天沼村に勧請されたと伝えられる。天沼村は、日枝神社(千代田区)社領であった関係で境内末社に日枝神社がある。明治40年に四面道の厳島神社を合祀。昭和2年には、村社となる。昭和52年に鉄筋コンクリート造の社殿が竣工した。
【鎮座地】東京都杉並区天沼2-18-5
・ ・ ・
何故、正統保守や右翼本流がキリスト教を恐れたのか。
・ ・ ・
中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に商品として世界中に輸出していた。
・ ・ ・
2020-08-30
🌏49)─1─明治時代。イスラム教の日本伝来。イスラム1・0時代。イブラヒム。~No.168No.169No.170 ⑮
1909年に東亜同文会会員で初めてイスラムに改宗した日本人と呼ばれる大原武慶陸軍中佐を会長に、アジア主義団体亜細亜義会が設立された際には、犬養毅、頭山満、河野広中、中野常太郎らと共に設立発起人に名を連ねた。 また、イブラヒムは、ムハンマド・バラカトゥッラーら在日インド系ムスリムと共に、東京にモスクの建設を計画した。
・ ・ ・
イスラム教は、キリスト教と共産主義の敵であった。
・ ・ ・
日本の文化で、政治文化は隋・唐の中国の影響を受けていたが、宗教文化はインド・中央アジア・ペルシャの影響を受けていた。
・ ・ ・
ウィキペディア
頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、日本の国家主義者]、アジア主義者、西日本新聞創業者。号は立雲[1]。
1878年に板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進した。
概略
頭山満の組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。
条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。
・ ・ ・
2024年8月31日 YAHOO!JAPANニュース Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE「21世紀の「尊皇攘夷」は可能か 日本ナショナリズムと文明転換
パリオリンピックの直前、五輪開催に反対する現地の複数の市民団体関係者が抗議集会を開きました。選手村建設に関連して、外国人労働者向けの住宅が取り壊され、転居を余儀なくされる人が大勢出たことなどが背景にあるようです。
建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は「今の世界では、平和の祭典の一方で、民族主義的ナショナリズムの嵐が吹き荒れている」といい、「日本だけが例外でありうるだろうか」と問います。若山氏が独自の視点で語ります。
平和の祭典と極右の伸長
[写真]パリオリンピックの開会式(長田洋平/アフロスポーツ)
パリオリンピックを観ていて気づいたのは、国家と民族の関係の複雑化である。
国家とは基本的に国民の特性(民族や言語)をもとに形成されるもので、ネイションステイトといわれる近代国家はその傾向が強い。しかしその実態は、植民地主義の歴史と深く関わっていて多様である。グローバリズムが進む今日、特に西側先進国において、国家と民族の関係は複雑化している。
とはいえ、その西側先進国が安定的にグローバル化しているのかというと、決してそうではない。西側各国では、移民難民の排斥を旨とする、いわゆる極右団体が力を伸ばしつつあるのだ。このオリンピックの厳戒態勢にはフランスだけでなくヨーロッパ各国の治安当局が参加していたというが、事実ヨーロッパでは、オリンピックと並行して、いくつかのテロや暴動が起きている。
今の世界では、平和の祭典の一方で、民族主義的ナショナリズムの嵐が吹き荒れているのだ。日本だけが例外でありうるだろうか。実は日本にも、幕末の「尊皇攘夷」思想に端を発する強いナショナリズムが存在する。戦後の民主主義、国際主義によって押さえつけられてはいるが、この思想傾向が日本人の心から消え去ったわけではない。
今回はこの「尊皇攘夷」について、過去を振り返りながらその現在と未来について考える。危険な匂いもするが、ここではあえて肯定的にとらえてみたい。世界中で極右団体が伸長し自国主義が蔓延する現在、この思想傾向に目をつぶることは、戦争に目をつぶるのと同様に、かえって現実から遊離した脆弱な平和主義になってしまう恐れがあるからだ。
「普遍的人道」と「集団求心力」
「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉は、なるほどそのとおりだと思いつつも、人は自国の選手が勝つことに熱狂する。人間の心の中には、世界のすべての人々の平和と幸福を願う普遍的な人道主義の力と、それぞれの集団(国家、民族、企業、家族など)の繁栄を願う集団求心力とが拮抗しているものである。
特に国家の求心力を強める思想をナショナリズムと呼ぶのだが、それは人間の自然な属性であり、それ自体は悪いものではない。世界各国にナショナリズムが存在し、それぞれの歴史的な特徴がある。ヨーロッパのそれは、キリスト教に対するユダヤ教やイスラム教という宗教問題を根底として、植民地の歴史を背景にした移民難民の問題が絡んでいる。アメリカはもともとの国家が内包する人種差別の問題があり、国際介入主義とモンロー主義(孤立主義)が葛藤している。またイスラム圏はイスラム原理主義、中国は中華思想という自己中心思想を抱えている。一般に、国家がその現状を根底から変えようとする時にはナショナリズムが燃え上がるものでもある。
現在の日本は、あまり思想的な主義主張のない国ととらえられがちだが、実は日本社会の根底に「尊皇攘夷」という強いナショナリズムの思想が存在する。黒船の脅威にさらされた江戸末期には、この思想が燎原の火のごとく燃え上がって、結局はそれが近代国家の成立に結びついたのだ。
「尊皇攘夷」。今ではカビの生えたような言葉であるが、実は現在も命脈を保っていて、日本国民の精神的な中核となっているのではないか。もっといえばこの「尊皇攘夷」こそ、日本人の集団求心力としての文化的本質であり、日本人が自ら思索し激しく実践した唯一の思想ではないか。危険思想として無視するより、これを21世紀に活きるものとして解釈しなおすことはできないだろうか。
尊皇攘夷という炎
[写真]長崎市の風頭公園にある「坂本龍馬之像」(w.mart1964/イメージマート)
僕は、大佛次郎の『鞍馬天狗』から司馬遼太郎の『竜馬がゆく』まで、幕末の勤王の志士に、なんとなくヒーローというイメージを抱いている。もちろん血生臭いテロもあり、強引と思われる討幕戦争もあり、維新前後の権力闘争もあったのだが、結局は彼らによって、封建社会から近代社会へと夜が明けたのだ。僕らの世代の多くはそう考えているのではないか。
幕末に日本の沿岸を脅かした黒船とは、沿岸都市を壊滅させるだけの艦載砲をそなえ、蒸気力という新しい力で動き、アジアの国々を植民地化する西洋文明の支配力の象徴でもあった。当時の西洋列強は、明らかに帝国主義であり、イギリスはヴィクトリア女王が君臨する大英帝国の最盛期、フランスはナポレオン3世の帝政期、アメリカは強い権限をもつ大統領制をとり、ロシアはロマノフ王朝のツアーリ(皇帝)が治め、ドイツ諸国はやがてビスマルクのプロイセンを中心とする帝国建設に向かう。
西ヨーロッパの世界進出と支配はすでに16世紀から始まっており、日本にもその空気は伝わっていた。徳川体制を維持するための「忠孝」を基本とする儒教的、家社会的、諸法度制度は、平和ではあっても息苦しい。官学としての朱子学にあきたらない何人かの学者たちは、天皇を中心とする日本ナショナリズムの思想を展開していったのである。
19世紀、黒船の出現によって、それが一挙に加熱する。
水戸学の藤田東湖、長州の兵学者吉田松陰などと、その影響を受けた西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬などの下級武士たちが、天皇を中心とする集権国家によって国を守ろうとする果敢な行動思想としての「尊皇攘夷」に走るのも必然であったと思われる。幕末にはこの思想が日本列島をおおったのだ。長く続いた武家支配の封建制を打破するのだから、悲惨なテロ行為も戦争もあった。
文明転換の思想
明治新政府が成立すると、一挙に西洋文明をとり入れることとなる。「文明開化」だ。
この「尊皇攘夷から文明開化への転換」という一見不可解な現象こそ、実は、思想のない国といわれがちな日本の思想的本質ではないか。尊皇攘夷とは単なる偏狭な民族主義ではなかったのである。それは、時代に合わなくなった旧い体制を打ち破り、新しい文明の社会を切り開く「文明転換思想」だったのではないか。維新によって、西洋文明は追いかけるべきものとなり、西洋の知識人は「お雇い外国人」という教師となった。「脱亜入欧」とはよくいったものだ。
いうまでもなく攘夷の「夷」とは、古代中国の世界観からくる、化外の地(文明の外側)にある粗暴な連中をさす。征夷大将軍とは、大和朝廷が体現しようとする文明に刃向かう者を征する指揮官の意味である。また大化改新でも、明治維新でも、天皇は常に外来文明の体現者として国民の前に立ち現れている。つまり攘夷もまた尊皇も、新しい文明に向かう思想なのだ。
そう考えていけば、この国で西洋化と近代化がアジアでは例外のごとく進んだのも、その根底に尊皇攘夷思想があったからこそではないか。しかし日本社会全体が完全に西洋化し近代化したわけではない。維新以後も、日本の津々浦々には封建時代の遺制が色濃く残っていた。
また、文明に立ち遅れた国を蹂躙する植民地主義によって近代化を遂げた西洋のあとを追うだけの「無批判な西洋追随主義」、その表層だけをまねる「浮かれた西洋かぶれ」、そういったものに対する反感も強かった。維新のあと、西洋文明を野蛮と批判し、西南戦争で賊軍の頭目として死なざるをえなかった西郷に共感する頭山満の玄洋社が右翼思想の源流を形成する。幕末の「勤王の志士」たちの過激性は、維新後に「民権の壮士」たちの過激性に転じる。
国家という集団の求心力には、体制と反体制の力が拮抗している。歴史は時に、その時代の反体制エネルギーに、特に若者たちのそれに火をつける。燃え広がった炎は山火事に似て、右から左に、左から右に、どちらの方向に進むか分からないものだ。人力で(政府が)消火するのは難しいが、体制転換につながる場合もあれば、いつのまにか落ち着いてしまう場合もある。
昭和ファシズムは尊皇攘夷か
満州事変を契機として、日本の軍部は大陸への進出を加速し、国内では青年将校らによるテロリズムが横行する。一見、幕末の尊皇攘夷が昭和ファシズムとして復活したように見えるが本当にそうだろうか。
5・15事件や2・26事件に決起した青年将校たちの主張には、資本主義の矛盾に対する怨念が強調されている。彼らに影響を与えた北一輝の「純正社会主義」には、資本主義を超克するという意味で左翼革命に似た論理が説かれている。東亜共栄、王道楽土といったプロパガンダ的標語は、欧米の帝国主義に対するアジア・ユートピア的な平等思想である。たしかに果敢な行動精神としての尊皇攘夷のエネルギーは受けつがれているのだが、先に述べた「反体制の山火事」で、思想の方向性はだいぶ揺れ動いているのだ。
また僕は、あの戦争の最大の問題点は、総合的な戦略と時勢の変化に応じて機敏に舵を切る指導者の不在と、その動向を支持し補完する層の薄さにあったと考えている。それは世界の文化文明を深く理解する知識人層の薄さ、内外の力関係を冷静に分析する政治指導層の薄さでもある。あの戦略なき無謀な総力戦の原因は、軍部の独断専行だけでなく、むしろ同調志向の強い国民を誘導するべき知識人とマスコミの脆弱さにあったのではないか。大正昭和の西洋借りものの進歩主義知識人は、幕末明治の白刃の下を東洋から西洋へと潜り抜けた思想家行動家に及ばなかった。
尊皇攘夷は、変革の思想であり、文明の思想であり、ナショナリズムではあってもファシズムではない、というのが僕の考えである。
近代文明を方向転換する「新尊皇攘夷」論
[写真]世界各地で行われる気候変動に抗議するデモ(ロイター/アフロ)
太平洋戦争後、日本を支配したアメリカの戦略は、日本の民主化を進めながらも尊皇攘夷の思想エネルギーを残し、せまりくる共産主義の脅威に対して、米軍を補完する力として利用するというものであった。左翼陣営が親ソビエトだったことの反力でもあるが、日本は、少し前まで鬼畜米英といっていたのが一転して、不思議なほどの親米国家となった。今はその米軍を補完する力が中国に向けられようとしている。
しかし本来の尊皇攘夷とは、戦争に向かうのではなく、新しい文明に向かうイデオロギーなのだ。
温暖化による異常気象はまったなしである。近代文明は「脱炭素」に向かって大転換される必要がある。またこれまでの欧米的普遍性は「グローバルサウス」を含めた地球的普遍性に大転換される必要がある。今、世界は新しい文明の思想を求めているのだ。そこに、文明転換思想としての尊皇攘夷論が浮かび上がる。
日本の天皇家は他国の王室とは違って、武力の頂点であったことはほとんどなく、ほぼ一貫して平和と豊穣を祈る文化的求心力の象徴であった。また現在の皇室は強く世界の平和を希求している。そういったことを総合して、21世紀の「新尊皇攘夷」を定義するなら「国民の平和と生活と文化を守り近代文明を方向転換する果敢な行動精神」というべきだろう。日本ナショナリズムが生きる道はこの方向しかない。
・ ・ ・
明治・大正・昭和初期の右翼本流は、人種差別主義者ではなかった。
現代の有象無象の属的な右翼・右派・ネットウハは、差別主義者でありトラブルメーカーにすぎない。
・ ・ ・
日本の右翼は、中国人民を清国の圧政から解放する為に孫文ら中国人革命かを支援し、中国人エリート青年を日本に留学させて自由と民主主義そしてマルクス主義・共産主義を教えていた。
日本右翼の大陸政策は、徳川幕府の大陸政策と同じで、西洋のキリスト教やロシア・イギリスなどの列強の侵略から東洋・アジアを守るべく日本・中国・朝鮮の3カ国が軍事同盟を結成する事であった。
その為には、古代からの敵日反日勢力を一掃し親日知日のよる国家・政権を樹立する為に、中国の革命勢力や朝鮮の開化勢力を支援していた。
・ ・ ・
明治期の右翼は、植民地拡大の帝国主義者でも、領土拡大戦争を仕掛けた軍国主義者でもなく、中国人や朝鮮人に対する偏見を持った狂信的差別主義者でもなかった。
むしろ、西洋キリスト教列強と共産主義勢力の侵略から神国日本とアジアを守り白人と清国の奴隷化されたアジア人を解放する為に、東洋をまとめアジア人を糾合して戦うべく行動したアジア主義者であった。
目的は、アジアの解放であり、唯一近代化した日本がその指導者としてアジア人を導く事であった。それが、八紘一宇であった。
日本の右翼と言っても、戦前の右翼と敗戦利得者である現代の右翼は別物である。
戦前の正統保守や右翼は、民族主義者・天皇主義者として天皇と国家と民族を国内外の敵から護っていた。
・ ・ ・
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
・ ・ ・
戦国時代。日本は中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による宗教侵略を受けていた。
江戸時代後期。日本はロシアの軍事侵略を受けていた。
明治初期。日本は清国(中国)と朝鮮の連合軍による軍事侵略の危機に直面していた。
明治後期。日本はソ連の共産主義勢力によるイデオロギー侵略を受けていた。
大正時代。中国共産党は、コミンテルンの指示に従って日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストを支援していた。
上海のキリスト教会は、キリスト教系朝鮮人テロリストを庇い日本へのテロ行為に協力していた。
明治以降の日本の大陸進出は、積極的自衛戦争であった。
・ ・ ・