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昭和天皇は、帝王学を理解していた。
現代日本のエセ保守とリベラル左派の政治的エリートと進歩的インテリ達は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がないだけに帝王学が理解できない。
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西洋の帝王学や中華(中国)の帝王学を妄信する日本人には、数千年の歴史ある日本の帝王学が理解できない。
西洋の帝王学はキリスト教価値観であり、中華(中国)の帝王学は儒教価値観である。
中国共産党の帝王学は、普遍的なマルクス・レーニン主義ではなく地域的な毛沢東語録による価値観である。
では、日本の帝王学とは?
反宗教無神論のマルクス主義・共産主義は、一党独裁の永久革命学であって倫理・道徳の統治帝王学ではない。
イスラム教には、人倫の帝王学は存在しない。
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2024年9月17日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「なぜ、天皇は「生物学」を研究するのか? 「歴史を学びすぎないように」と誘導される!? 皇族の教育方針の歴史
乃木希典
今年、悠仁さまが四人の研究者と共に「皇居のトンボ相」の研究成果を発表された。上皇(平成の天皇)や昭和天皇も生物学の研究をされていたが、なぜ「生物学」なのだろうか? 皇室の教育方針の歴史を振り返ってみたい。
■乃木希典が発案した「帝王学のための学校」とは?
昭和天皇のための「帝王学」の授業とは、いかなるものだったのでしょうか。のちにヒドロゾアなど、海洋生物の研究で世界的に有名になられた昭和天皇ですが、小学校に相当する学習院初等科を卒業すると、中等科には進学していません。
しかし、東京・高輪の東宮御所内に、学習院の院長だった乃木希典の発案で創設された「御学問所」にて、5人のご学友たちとともに個人授業を13歳から19歳まで受けておられます。
将来の天皇にふさわしい「帝王学」が授けられる学校が、皇太子時代の昭和天皇こと裕仁親王のためだけに建てられたというのはスケールの大きなお話です。将来の天皇のための教育は、一般人の教育とは異なり、あくまで「特別」であるべきであると誰もが信じていた時代の産物ですね。
■馬術や軍事学もあるが、重視されるのは「倫理」
注目すべきカリキュラムは「倫理、国文、漢文、歴史、地理、地文、数学、理化学、博物、フランス語、習字、美術史、法制経済(大竹秀一『天皇の学校』)」でした。
これらは通常の当時の中学ではありふれた科目ばかりでしたが、「御学問所」では馬術、軍事学の授業もあって、これらは戦前の男性皇族は、みな軍人になるべきという時代の空気を反映した結果だったと思われます。
しかし全科目の中でもっとも重視されたのは「倫理」で、担当は日本中学校という私立学校の校長をしていた杉浦重剛。彼は「宮中某重大事件」で、裕仁親王にアドバイスをした人物です。
「宮中某重大事件」とは、裕仁親王が当時婚約していた久邇宮良子女王の家系に、色盲の遺伝があることが憂慮されたという事件でした。山縣有朋などの政府有力者による婚約破棄論も唱えられましたが、杉浦は悩める裕仁親王に向かって、「婚約破棄は倫理に反する」とアドバイスし、実際に親王は初志貫徹で良子女王と結婚することができました。
■「歴史を学びすぎると危険」と、生物学に方向転換
少年時代の昭和天皇がもっとも好んだ科目は「歴史」の授業でした。しかし、「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」ということが当時、まだ存命だった「最後の元勲」西園寺公望に危険視されたので、歴史と同じくらいに興味が深かった生物学に関心が向かうようになったそうです。
昭和天皇ご自身が、1976年(昭和51年)11月の記者会見で「歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになりました」とおっしゃっていますが、そうなるように周囲が天皇を指導したことも「帝王学」の一貫だったといえるかもしれません。
■じつは運動神経がバツグンだった昭和天皇
昭和天皇には、余暇は皇居内の研究室ですごした生物学者という一面がおありで、日常生活においても、どちらかというと不器用だったという逸話が散見されるのですが、運動神経は抜群でいらっしゃいました。
1916(大正5年)、裕仁親王は正式に皇太子となり、病中の大正天皇の名代として、ヨーロッパを訪問なさっています。当地では「御学問所」で学んだ乗馬の技術だけでなく、ゴルフ、テニス、スケート、スキー、登山など様々なスポーツを経験し、日本に戻った後も続けていると知れ渡ると、右翼や国粋主義者から「西洋かぶれ」との批判を受けたことまであったのです。
明治時代以前の天皇はどちらかというとインドアな存在だったのですが、昭和天皇の時代にはスポーツで身体を鍛え、汗を流す健康な存在であることが盛んにアピールされるようになり、理想とされる天皇像が大きく変化していたことがうかがえて興味深いですね。
画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹
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9月10日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「学習院の「つめこみ教育」で体を壊すことも… 天皇が学ぶカリキュラムとはどんなものなのか?【天皇と教育】
皇室の教育史
今、悠仁さまの東大進学に反対署名1万人超が集まるなど、皇室の進学問題が世間を騒がせているが、皇室の教育とはどんなものなのだろうか? 明治天皇、大正天皇が受けた教育から、皇太子が受ける「帝王学」とは何かを考えてみよう。
■帝王学とはどんなものなのか?
帝位を継ぐことを目される皇太子にだけ、現役の天皇から与えられるという「帝王学」。しかし、定番の教科書が何か存在しているというわけではなさそうです。
大きくわけて「帝王学」の伝授には、2つの方法があると考えられます。一つにはさまざまな講師たちを個人的に招き、彼らから「民の上に立つ帝王=天皇」としての心構えを教わること。さらにもう一つ、現役の天皇やその他の皇族の方々の生き様を間近で見て、そこから学び取ることも、「帝王学」では重視されるファクターのようです。
■なぜ、明治天皇は学習院に通わなかったのか?
明治天皇聖徳大鑑(国立国会図書館)
さて、明治天皇が受けた教育についてみてみると、幼い頃には、高名な学者の伏原宣輸(ふしはら・のぶさと)らが京都御所に招かれ、漢学の基礎にあたる「四書五経」を教授したという記録があります。
東京に移ってからは、当時の欧米の知見を反映した政治学や軍事学の個人授業もはじまり、ときに「ご学友」と呼べる同世代の子供たちと共に授業を受けることもあったようです。しかし、天皇が特定の学校に通うことは最後までありませんでした。
幕末の帝・光格天皇が公家の子弟たちに教育機会を与えるために誕生したのが学習院で、明治天皇の時代にはすでに学習院は存在していたのですが、なぜ通わなかったのでしょうか? そこには、明確な理由がありました。
当時の学習院といえば、現代の多くの人がイメージするような「皇室のための学校」でなく、個人教授を雇うことができない「貧しい公家のための学校」だと考えられていたのです。
■ツメコミ式教育で体を壊してしまった大正天皇
当時の上流階級の教育といえば、明治天皇が受けたように、マンツーマンか、ごく少数の生徒たちと1人の講師という形式で行われるのが普通でした。しかし、そうした教育費を捻出できないほどに貧しい公家の家庭が当時の京都にはあまりに多く、身分だけは高いのに、教育がない廷臣たちが宮中に増えることを憂えた光格天皇が、創設に踏み切ったのが学習院だったのです。
天皇の皇子で、最初に学習院に入学したのは嘉仁親王(のちの大正天皇)でしたが、中等科に進学後、わずか1年で退学することになりました。あまりのツメコミ式教育で、体を壊してしまったからだそうです。ただ、皇太子時代の嘉仁親王は健脚で知られ、徳川慶喜とも野山を駆け巡って狩猟を楽しんだ逸話がある方です。おそらくノイローゼになってしまったのではないでしょうか。
■帝王たるもの、考えてくれたカリキュラムに文句を言ってはいけない?
しかし、明治天皇の強いご意向で、嘉仁親王が当時お住まいだった東宮御所において、専門的な教育が個人授業という形式で続行されました。
さらにこれも明治天皇の強いご意思で、過去の帝たちが学んできた和歌や漢文といった学問の基礎知識の習得に加え、欧米における最先端の歴史学、地理学、さらには当時の国際言語だったフランス語もかなり専門的に学ばれたようです。
ただ、最小限の年数で最大の量の内容を習得できるカリキュラムが東宮職(皇太子つきの役人たち)の手で組まれていたので、ツメコミ式教育が合わずに退学した嘉仁親王としては、不信感を抱いてしまったようです。役人たちをクビにしようとしたところ、そこにも明治天皇が立ちはだかって、厳しい教育が続けられたのでした。
ここでわれわれが感じ取るべきなのは、嘉仁親王の教育現場において、何を学ぶかと同時に、「帝王たるもの、臣下の役人たちが考えてくれたカリキュラムに文句をいうことは許されない」という明治天皇からのメッセージこそが、「帝王学」の本質だったのかもしれません。
ちなみに、学習院などとは異なり、大正天皇の授業に数学、理学(理科)といった理系科目の授業は存在しませんでした。それゆえ純粋な「文系」だったと思われがちですが、大正天皇は父宮である明治天皇譲りの「動物好き」であり、兎の動き方を見て、ペットの兎と野生の兎を一瞬で見分けられる鋭い観察眼をお持ちだったことは有名ですね。
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2023年9月22日 Nnippon.com「【書評】地位にふさわしい素質と見識を身につける修養:小田部雄次著『天皇家の帝王学』
Books 皇室 社会
斉藤 勝久 【Profile】
帝王学とは本来、天皇や国王になる方がその地位にふさわしい素質や見識などを身につける修養のことである。天皇家が連綿と続く傍らには常に帝王学と、それを養成する教育システムがあった。だが、「皇太子不在」の今日の皇室には未知数のことが多く、帝王学を体系的に学ぶ場も失われている。
明治天皇の交遊に見られる帝王学の実践
古くから皇室の帝王学の書として知られるのは、中国の唐の第2代皇帝で、善政を行ったとされる太宗(たいそう=即位626年)の言動がまとめられたものだ。このうち『帝範』は太宗が自ら編集し、後に皇帝となる太子に帝王となる者の心得を示した教科書である。日本では平安時代、56代清和天皇(在位858‐876年)が皇太子時代に同書の進講を受けたという。
また、太宗と廷臣との問答をまとめた『貞観(じょうがん)政要』は宮中での必読書とされ、平安中期から進講に使われた。現在でも企業経営者などに、上に立つ者の心構えの書と言われる。
幕末最後の孝明天皇にとって、成長した唯一の男子だった祐宮(さちのみや=明治天皇)は4歳の誕生日の後、天皇の命で母方の実家から宮中に移り、天皇のもとで育った。天皇は自分が関わる行事を幼い祐宮に見せて宮中儀式になれさせ、教育に気配りした。学びの中心は、従来の『論語』や『孟子』などの素読だった。
明治維新の前後で、明治天皇のイメージは公家社会に育ったひ弱な少年から、政治や軍事を統率する元首かつ大元帥に変化していく。京都から東京に移り、15歳で新たな日課が定められた。「三と八の日」の午後は乗馬訓練となり、ほかの日も午前と午後に分け習字、史記講義、神皇正統記輪読などの日程が決まっていた。
前述の『貞観政要』や『帝範』も学んでおり、天皇自身が側近に両書の講義をしたという記録もある。乗馬と酒を好み、江戸城内跡の山里などで岩倉具視、三条実美ら近習と乗馬に励み、その後で酒宴を開いていた。
また、交流のあった政治家は身分の高くない西郷隆盛や大久保利通らで、高級の公家ではない岩倉、三条らと同様に、低い身分の人々を軽んじなかったところに、新時代の君主になる明治天皇の帝王学があった。侍講(じこう=学問を教授する職)は、象牙の塔の研究者というよりも、社会を積極的に変えようとするタイプの知識人が多い。明治天皇の人的交遊こそが新しい時代の帝王学の実践だったのである。
生まれながらに病弱だった大正天皇には、幼い時からの教育指導として、知識よりも帝王学につながる道徳が重視された。学習院に初めて入学した皇太子となったが、中等学科を中退。赤坂離宮内の御学問所で学力に応じた個人授業を受け、後に漢詩や和歌を数多く遺した。
戦争体験が「象徴学」の核に
昭和天皇は学習院幼稚園に入り初等学科1年級から学んだ。学習院長は明治天皇の指名を受けた日露戦争の英雄、乃木希典で、質実剛健、質素倹約を皇孫に教えた。5年級の時に明治天皇が亡くなり、乃木院長も跡を追って自刃するが、皇太子となった昭和天皇は弟宮たちと離れて新しい生活に入る。
6年級の頃には将来の大元帥になるための活動も増え、軍学校、練兵場などに足を運んだ。『世界名君伝』『世界名臣伝』など帝王学に結び付く書を熱心に読むようになったのも、この頃だった。
学習院の中等学科へは進まず、新たに設置された学問所で学んだ。総裁は日露戦争のもう一人の英雄、元帥海軍大将の東郷平八郎。帝王学である倫理は私立日本中学校長の杉浦重剛が担当し、「三種の神器」、徳目、箴言(しんげん=戒めとなる言葉)などに関する講義を昭和天皇に7年間、381回行った。
平成の天皇は皇太子時代に疎開や、東京の焼け野原を見たなどの体験をした近代では初めての天皇である。
この経験がのちの平和志向や象徴天皇としての「帝王学」(いわば「象徴学」)の核となったのではないか。
この「象徴学」は、従来の「帝王学」と相反するものではなく、むしろ従来の「帝王学」をベースにした人格形成の上に成りたち、日本国憲法における「象徴」としてのふるまいのあるべき姿を目指す理念といえよう。
皇嗣家の迷走と令和の皇室の模索
令和の天皇は、祖父の昭和天皇と、父である皇太子に直接触れて帝王学を学んでこられた。天皇の歴史は学校の授業では不十分なので、専門家から独自に学んだ。本書の最終章「令和の天皇の模索と皇嗣家の迷走」は、歴史学者で、皇室に関する著書も多い著者ならではの冷徹な記述が続く。
帝王学にせよ象徴学にせよ、唯一の天皇なるための学びであり、同様の学びを弟宮たちにさせることはない。弟宮たちの帝王学は「帝王に仕える臣下」としての態度やふるまいを学ぶものであり、東宮と同じ立場で学ぶことは許されなかった。
天皇としての自覚を促されてきた令和の天皇と、弟宮としての一生を予定されていた秋篠宮とでは象徴学への取り組み方の熱意が異なっていった。
悠仁親王の誕生で、皇位継承者としての教育を十分には受けてこなかった秋篠宮が突如、皇嗣となった。(中略)フレンドリーな性格の秋篠宮は(一方で)歴代天皇家の伝統と慣行をどこまで背負っていけるかという家長としての信念と責任感に欠けるきらいもある。
将来の天皇に予定される悠仁親王の養育にあたり、かつてのような御学問所も、教育参与も設けられず、ひたすら紀子妃(母)の奮闘にかかっているのが現状である。
令和の次の時代を考えると未知数の点が多く、現在の皇室にとって暗中模索の険しい道のりが続くと予想される。本書を読み終え、ますますその危機感が増してきた。
『天皇家の帝王学』
小田部雄次(著)
発行:星海社
発行日:2023年6月19日
新書判231ページ
価格:1375円(税込み)
ISBN:978-4-06-532215-4
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2022年3月1日 Nnippon.com「次代の皇位継承者に帝王学の書を教えられた天皇陛下:62歳誕生日会見の真意を拝察
斉藤 勝久 【Profile】
天皇陛下は2月23日、62歳の誕生日に際しての記者会見で、コロナ下のお考え、成年を迎えた長女愛子さま、本土復帰50年の沖縄への思いなどを語られた。この中で、陛下は皇位継承問題に関する質問に対し、鎌倉時代の天皇が兄の子である甥(おい)で16歳の皇太子を訓戒するために著した書の名を挙げ、天皇になるために「徳を積むことの大切さ」を説明された。次代の若い皇位継承者に、陛下ご自身が熟読した帝王学の書を示し、その覚悟を教えられたのである。
何度もあった皇位を巡る危機
今回の記者会見は、秋篠宮家の長女小室眞子さんの結婚騒動を含めて、記者会からの質問が多岐にわたり、約50分間に及んだ。国会に論戦が移った皇位継承問題に関して、陛下がどのように語られるかも焦点だった。
記者会からの質問は、「政府の有識者会議が報告書をまとめ、皇族数の確保策として女性皇族が結婚後も皇室に残る案と、旧皇族の男系男子を養子に迎える案の2つを示した。皇室の歴史を振り返ると、皇位を巡る危機が幾度もあり、その度に乗り越えてきた。歴代天皇について深く学んできた陛下は、今日まで皇位が連綿として継承されてきた長い歴史をどう受け止められていますか」
陛下はこう答えられた。
「古代の壬申の乱(天智天皇の死後、天皇の皇子と、天皇の弟との間の内乱)や、中世の南北朝の内乱など、皇位継承の行方が課題となったさまざまな出来事がありました。そのような中で思い出されるのは、『天皇は、伝統的に、国民と苦楽を共にするという精神的な立場に立っておられた』という上皇陛下のお言葉です。歴代天皇のお考えに通じるものと思います」
「洪水など天候不順による飢饉(ききん)や、疫病の流行で苦しむ人々の姿に心を痛められた天皇自らの般若心経の写経を拝見して、歴代の天皇は、人々と社会を案じつつ、国の平和と国民の安寧のために祈るお気持ちを、常にお持ちであったと改めて実感しました」
「また、武ではなく文である学問を大切にされてきたことも、天皇の歴史を考える時に大切なことだと思います」と述べると、陛下は1つの書を挙げた。鎌倉時代末期の学問、歌道に優れた花園(はなぞの)天皇が1330(元徳2)年、まだ10代半ばの皇太子、量仁(かずひと)親王に宛てて書き残した「誡太子書」(かいたいしのしょ)である。
「誡」は戒めるを意味し、後に光厳(こうごん)天皇となる皇太子に厳しい言葉で戒めを説いている。
徳を積み、学ぶことの大切さ
陛下は記者会見を、こう続けられた。
「誡太子書においては、(花園天皇は)まず徳を積むことの大切さを説かれ、そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。このような歴代の天皇の思いに、深く心を動かされました」
「(陛下は)歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、研鑽(けんさん)を積みつつ、国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての務めを果たすべく、なお一層、努めてまいりたいと思っています」
陛下が誡太子書を記者会見で挙げたのは、今回が初めてではない。浩宮時代の1982年、学習院大学文学部史学科を卒業する際の記者会見で語ったのが最初で、皇太子だった50歳の誕生日会見(2010年)でも、こう述べられた。
「(誡太子書に)感銘を受けたことを思い出します。花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼義をも含めての意味で使われた言葉です。私も50歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
新年をお迎えになった天皇ご一家=2022年1月(代表撮影、ロイター)
陛下はなぜ今回、皇位継承問題に関連してこの書を挙げたのだろうか。その内容や時代背景をみると、意味深い点が浮かび上がってくる。
花園天皇がこの書を著したのは、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて半世紀余も対立した「南北朝の内乱」が始まる数年前だった。当時、天皇家は2つに分裂して皇位継承が争われていた。花園天皇は20歳と若くして、対立派で後の後醍醐天皇に譲位。その後、皇太子となった量仁親王の養育に当たった。花園天皇にとって量仁親王は兄、後伏見天皇の嫡男で、甥に当たり、やがて訪れるであろう動乱の時代に備えて、帝王学を授けた。
「先祖のおかげで天皇になろうとする自分が恥ずかしくないか」
宮内庁書陵部に所蔵される花園天皇直筆の誡太子書は、原文が漢文で難しいが、要約するとかなり激烈な内容となっている。
「皇太子は宮中で育ったので、民人の苦しみを知らず、知ろうともしない。国への功績も、人々への恵みもない。ただ先祖のおかげで天皇になることを期待している。そんな自分を恥ずかしく思わないか」
「愚かな人たちは言う。『我が国は皇胤(こういん)一統(万世一系)で、興亡を繰り返してきた外国とは違う。だから、為政者に徳がなくとも、心配ない。先代の残したものを守って治めていれば、それで十分である』と。私(花園上皇)は、これは大きな誤りだと思う」。そして、数年のうちに内乱が起き、国が衰えることを予言した記載もある。
厳しい帝王学を授けられた量仁親王は、討幕の計画が発覚した後醍醐天皇が廃されたのを受け、光厳天皇になる。しかし、時代が激しく動き、鎌倉幕府は滅んだ。隠岐に流されていた後醍醐天皇が復権して建武の新政を始めると、光厳天皇は都から東国に逃れることになり、在位わずか1年半ほどで廃立されてしまう。その後、光厳は北朝初代天皇となるが、南北朝の混迷した時代に巻き込まれて、寺の禅僧として亡くなった。
光厳天皇は現在では歴代天皇から除外され、南朝初代の後醍醐天皇と比べて知る人は少ない。しかし、光厳天皇の血を引く北朝6代の後小松天皇が南北朝合一で第100代天皇となり、今日の皇室につながっていくのである。
若い皇位継承者は天皇になる覚悟が必要
こうした歴史的背景を持つ誡太子書を、陛下は若い頃から皇位を継ぐ立場で読んできたが、天皇になって、帝王学を授けた花園天皇の思いを悟られたのであろう。陛下はお立場を考え、今日の皇位継承問題に関する直接の回答を控えているが、今回は誡太子書を通じて、若い皇位継承者にこんなことを伝えようとされたのではないかと筆者は拝察する。
「天皇となるものは誰であれ、しっかりした覚悟が必要である。徳を積み、学問をきちんと修めて、国民に寄り添えるようになりなさい。天皇に徳がなければ、国民の支持はなくなり、天皇制は危うくなる」と。
秋篠宮ご一家=2022年1月(宮内庁のHPから)
陛下は記者会見の最後に、記者側からの「皇位継承順位第2位の悠仁さまへの期待感」などについての質問に、こう答えられた。
「先日、悠仁親王の高等学校の進学が決まったという報告を受けましたが、是非実り多い高校生活を送ってほしいと、心から願っております」。
(2022年2月25日 記)
バナー写真:62歳の誕生日を前に、記者会見に臨まれる天皇陛下=2022年2月21日、皇居・宮殿「石橋の間」[代表撮影](ロイター)
斉藤 勝久SAITŌ Katsuhisa経歴・執筆一覧を見る
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。
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