🏞74)─1・B─新潟・明和騒動は日本のパリ・コミューンであった。明和5年(1768年)。~No.295No.296No.297 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の庶民(百姓・町人)とは、神代の神話物語を信じ宗教心篤い日本民族の事である。
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 新潟口之神社。百姓は、百姓一揆で大名に反逆して処刑された罪人をムラを護る怨霊神(ムラ根性神・百姓根性神)として神社に祀った。
 日本は、怨霊が支配し、怨霊が護っていた。
 儒教による、「二君に仕へず」は武士・サムライであり、「尊皇愛国」は庶民であった。
 日本の国は、武士の国ではなく庶民の国であった。
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 庶民にとって、大名は鉢植えの木にすぎない。
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 日本の庶民は、中国や朝鮮の人民とは違い、西洋の大衆でもなく、異教排除のキリスト教や反宗教無神論マルス主義・共産主義を必要とはしなかった。
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 同じ日本人と言っても、昔の庶民と現代の国民とは違っていた。
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2024-08-23
🕍17:─1─エセ保守とリベラル左派による政治主導の多様化を阻む太古の伝統的血筋文化。~No.33No.34No.35 
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 一般社団法人 新潟青年会議所
 明和義人
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 『明和騒動』
 今から約240年前の封建時代1768年(明和5年)に長岡藩による悪政が続いていた江戸時代の新潟湊で町民たちが約2か月間かけて、命がけで市民自治を勝ち取った。これは新潟の歴史的史実で、不条理な「格差社会」への挑戦だったといえる。しかし長岡藩にとって不名誉な出来事である為、「明和騒動」とか「明和の騒ぎ立て」と名付けて歴史の片隅に追いやろうとした。その明和義人の偉業も、明治に入り古町愛宕神社境内社、口之神社にお祀りされた。そして、古町芸妓の口伝により、密かに伝えられているというものであった。
 明和義人1
 『倫理道徳・郷土の誇り』
 新潟青年会議所では2009年度(平成21年)に創立55周年事業として、次代の新潟を担う子ども達の育成を目的に郷土の歴史や文化を知り、郷土への誇り・正義の心・思いやりの心を再認識できるストーリーでアニメ化したDVD「明和義人」を作製し新潟市内の全小学校に寄贈したのである。
 『義』
 江戸時代の新潟で起こった史実を元に、“義”の精神を多くの子どもたちに伝えるため、「現代の小学生が江戸時代にタイムスリップし、町人のまとめ役だった涌井藤四郎から不正を許さない正義の心と町民の幸せを願う思いやりの心を学ぶ」ストーリーとなっている。新潟市出身の作家火坂雅志さんの小説などを基に、約25分の作品となっている。古町通2番町に開館している明和義人館の館内で、歴史パネルの展示、明和義人祭のフォトや顔出しパネル、大灯篭などの展示と合わせて明和義人歴史アニメーションの上映がされている。
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 明和義人祭
 1767年~1768年(明和4年~明和5年)にかけ、冷害などの不況に重ねて藩からの重税に苦しんでいた新潟湊の町人たちが藩への異議申し立てを「暴力を認めず話し合い」で進め2ヶ月間、町の政治を自分たちで取り仕切ったと言われる偉人たちの市民運動を明和義人と総称しております。力で解決せず、対話で町の政治を変える。明和の時代、町人が奉行所や藩に意見するなど考えられないことでした。その様子は閉塞感漂う現代においても学びの模範となるものです。その明和騒動の義人として伝えられる「涌井藤四郎」らの顕彰と慰霊を主旨として、新潟市中央区の古町通1番町から6番町までを会場に例年8月下旬に開催されるお祭りです。
 ことの起こりと経緯
 十六世紀より続く幕藩体制には、さまざまな課題が生じていました。
 新潟湊にも、その波が押し寄せており、町民による町政が行われる「新潟明和騒動」が起こります。
 これはパリコミューンよりも約100年前に起きた史実です。
 度重なる重税に苦しむ新潟湊町
 なんとか納めようと努力するが…
 江戸時代の半ばである明和4(1767)年、財政悪化に苦しむ長岡藩は、湊を運営する新潟町民に多額の御用金を納めるように命じました。当時、阿賀野川の改修によって船の出入りが減り、不況に苦しんでいた新潟町民は、御用金の半金を納め、残り半金は翌年に支払うことで許しを得ました。
 話し合う町民
 しかし密告者により…
 しかし、翌年になっても景気は回復せず、残り半金の支払いが難しくなった新潟町民は、涌井藤四郎らを中心に会合を開き、御用金の支払いを先に延ばしてもらおうとしたのですが、長岡藩はこの集まりをお上に対する反逆的な行動として、藤四郎らを捕まえ、牢に閉じ込めたのです。
 この動きに反発した新潟町民は、明和5年9月26日、大勢の人たちが集まって、米を買い占めて町民を苦しめていた豪商や町の有力者の家などを次々と打ち壊しました。奉行所は、この騒ぎを鎮めようとしましたが、結局失敗に終り、やむなく藤四郎らを解放し、その藤四郎たちの手によって打ち壊し騒ぎは鎮められたのです。
 町人による自治
 受け継がれる新潟魂…
 騒ぎを収めた藤四郎たちは、新潟湊を自分たちの手で立て直そうと、藤四郎を新潟町民の代表とする体制をつくり、秩序の回復に努めました。この町民による自治は、その後2カ月に渡って行われ、新潟湊は徐々に治安と経済の落ち着きを取り戻していったのです。
 しかし、同年11月末になり、長岡藩は藤四郎たちを長岡に呼び出し、吟味の末、藤四郎と、行動を共にした岩船屋佐次兵衛らを打ち首に処したのです。
 新潟湊の人々は、この出来事を誇るべき史実として口伝えに語り継ぎ、藤四郎たちを明和の義人(ぎじん)として、ひそかに祀りました。
 パリコミューンとは
 1870年フランスが普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)に敗れた後、
 反帝政運動を進めるパリの民衆と国民軍が、ティエールらの国防政府に反抗して樹立した革命的自治政権。
 フランス語ではCommune da Parisという。1871年3月18日から5月28日まで72日間続いた。
 政府がベルサイユにのがれたあと、パリの各区から選ばれた労働者・小市民からなる代議員がコミューンを構成し各目的行動の中核となったが、政府軍との激しい戦闘ののち崩壊。民衆の自発的蜂起と新しい連帯の原理は現代革命原型として重視され、マルクスはこれを最初の労働者政権として高く評価した。
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 ウィキペディア
 新潟明和騒動(にいがためいわそうどう)とは、1768年(明和5年)越後国新潟町(現新潟県新潟市)において町民が藩政に抵抗しおよそ2ヶ月にわたる町民自治を行なった事件。
 新潟町が長岡藩から御用金を課した事を受けて、新潟町の商人涌井藤四郎は各町内代表で無期延期を策した事で密告され藤四郎は投獄されてしまう。 その事に憤慨した町人たちが一揆を起こした。その後、藤四郎が中心となり約2ヶ月に渡り新潟町の自治を行っていたが、長岡藩は事の収縮のため、新潟町の町人達に米と引き換えに藤四郎の召集を命じた。 その結果、藤四郎は出頭し、後に打ち首となった。 この一蓮の騒動を明和騒動とという

 後世の評価
 新版 新潟明和騒動文献資料集成によれば、日本の歴史の中でも特異な歴史的事件であり、町民たち自らの手で町政を治め、日本史の中に「自治」を実現させた数少ない事件であったとされているほか、この騒動は旧特権商人と涌井ら新興商人の対立が根底にあったとされているが、2ヶ月とはいえ町民自らが町政を行うだけでなく、町民の多くが参加していることから「惣町一揆」の様相を示したとされている。
 安政6年(1859年)江戸の漢学者であった寺門静軒の著書「新潟富史」によれば、涌井のことを「越後にも惣五郎がいた」と紹介している。下総(現千葉県)の佐倉惣五郎という祟りを恐れた藩主から公認され、芝居などで全国的に名の知られていた者と一体視されることで、密かに語り継がれていた涌井の事績が広く知られるようになった。第二次世界大戦後には民主主義や市民自治の視点から、本騒動の町政は歴史上画期的なものだと、パリのコミューンにも並ぶと高く評価する論者も現れた。
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 2024年8月24日 YAHOO!JAPANニュース UX新潟テレビ21「ときは江戸時代…圧政に立ち向かった町民たち!功績たたえる「明和義人祭」【新潟】
 神輿で盛り上げ 明和義人祭
 新潟市の上古町で、江戸時代に圧政に立ち向かった商人たちの功績を称える「明和義人祭」が開かれました。
 【動画】ときは江戸時代…圧政に立ち向かった町民たち!功績たたえる「明和義人祭」【新潟】
 今年で14回目となる明和義人祭。江戸時代中期、冷害による不作と長岡藩の圧政のなか、自治のため立ち上がった町民と、犠牲となった商人たちの功績を称える祭りです。神輿の活気が盛り上げました。
■参加者 
 「重たいです もう右手ぷるぷるです」
 「なかなかこういう体験できないので楽しい」
 「めっちゃ活気があってすごいと思った」
 熱中症対策として、プログラムは夕方中心で、夜にかけて「明和義人行列」が町を練り歩き、そのあとは「樽きぬた」や「御霊返し」などが開催されました。
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 NSGグループ
 ニュース&トピックス
 地域の歴史や文化を語り継ぐ ~明和義人祭~
 2017.09.04 Mon
 NSGグループ本部のある新潟市中央区上古町商店街では、毎年8月24日に「明和義人祭」が開かれています。明和義人祭は、18世紀半ばの江戸時代に、長岡藩に代わり町人による自治を実現した涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛の二人の義人を顕彰するお祭りです。
 町人自治をリードした藤四郎と佐次兵衛の二人は、お上に背いた罪人として処刑されてしまいますが、この二人の活躍は新潟が誇るべき歴史として古町芸妓の口伝で語り伝えられました。そして、二人は「明和義人」として崇められ、明治時代に入ってから古町愛宕神社境内社、口之神社に祀られています。
 この出来事の精神を見つめ直し、義人を慰霊する主旨で2008年から始まった明和義人祭は、上古町の夏の恒例行事になっています。NSGグループもこの祭りの実行委員会に加わり、運営に積極的に関わっています。
 涌井藤四郎、岩船屋佐次兵衛を祀る口之神社
 祭りは地域愛 郷土愛を育む
 お祭りは地域の誇るべき歴史を語り継ぎ、地域の一体感や連帯感を感じさせてくれます。そして、祭りを通して多くの世代が交流し、地域の結びつきを強くする「地域愛」や「郷土愛」が醸成されます。
 特にこの明和義人祭は、地域の文化や歴史を語り継ぐお祭りです。自分たちが生まれた町、暮らした町はどのような地域だったのかを知ることが、地域に誇りを持ち、地域愛や郷土愛を育むことに繋がります。明和義人祭には、歴史や文化を受け継ぐ若者や子供が多く参加することが必要です。明和義人祭には、そうした若者や子供が楽しんで参加できる行事がたくさんあります。
 多くの子どもたちが参加
 今年の明和義人祭は、午前から昼にかけて時折雨が降り、一部のイベントが中止となってしまいましたが、テント内で行われたヨーヨー釣りなど、子ども遊びのコーナーでは子どもたちが楽しんでいました。
 古町神明宮の拝殿では、白山小学校の児童による万代太鼓の演奏が行われました。日頃の練習の成果を披露し、ご父兄や観衆から拍手喝采を浴びました。
 白山小学校の児童による万代太鼓
 子どもが一番楽しみにしているのが、明和神菓まきです。福のおすそ分けとしてお菓子が会場5か所で一斉に撒かれます。このとき撒かれるお菓子の数は約30000個で日本最大級とも言われています。
 袋を手にお菓子を集める子どもたち
 江戸の情緒を再現する明和義人祭
 明和義人行列は、義人役の二人や芸妓を中心に旦那衆やお稚児さんなど、江戸時代の当時を彷彿とさせる衣装で会場を練り歩きます。
 明和義人祭の主役である涌井藤四郎役と岩船屋佐次兵衛役の2人は、毎年一般公募で選ばれます。今年は、涌井藤四郎役に株式会社サイト社長の能登剛史さん、岩船屋佐次兵衛役にサッポロビール株式会社新潟統括支社長の浪間進さんが扮しました。
 能登さんのコメント
 「偉人たちをもう一度思い出し、新潟を盛り上げていくきっかけになるお祭りに参加するのだと改めて感じています」
 涌井藤四郎役の株式会社サイト社長 能登剛史さん
 浪間さんのコメント
 「新潟には歴史を語れるお祭りはなかなかないので、一緒に行列に参加させて頂き、貢献させて頂くことに価値を感じています」
 岩船屋佐次兵衛役のサッポロビール株式会社新潟統括支社長 浪間 進さん
 このように話して下さったお二人は、行列に参加し、江戸時代に戻ったような雰囲気で観衆を魅了しました。
 江戸の情緒が感じられる明和義人行列
 踊りに若い力が結集
 明和義人祭の最後を締めくくるのは、「蜑の手振り」です。今年は24団体、1300人近くが参加して盛大に踊りました。蜑の手振りとは、初代新潟奉行・川村修就が、新潟の風俗を描かせた絵巻物のことです。その絵巻物に民衆が躍る姿が描かれており、それに倣って明和義人祭では、「蜑の手振り」と銘打って、祭りの最後に多くの参加者が盛大に踊ります。
 踊りは基本的に自由で、各団体ごとに様々な踊りを見せてくれます。かつて新潟で民衆が踊りを楽しんだように、この日は若者たちが明和義人祭で踊りを楽しんでいました。
 かつての民衆の踊りを彷彿とさせる「蜑の手振り」
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2022-04-02
⛩49)─1─日本民族と百姓の神様。怨霊信仰と鎮守の森。~No.115No.116 * ⑩

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の百姓(庶民)は扱いづらい民草で、中華(中国や朝鮮)の家奴・小人ではなかったし、西洋の民衆・大衆、奴隷・農奴でもなかった。
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 伝統的民族宗教の人神・百姓神は、排他的で不寛容なキリスト教と反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルクス主義共産主義と対立しそして拒絶し排除した。
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・小浜領新道村等訴願(1639年):第109代明正天皇(女帝)
 庄屋・松木荘左衛門。
 松木神社…福井県遠敷郡
・福岡領津屋崎、勝浦村漁場争論(1640年)
 庄屋・作左兵衛。組頭・七良兵衛、甚兵衛、作右兵衛、孫右兵衛。
 六之神社(六社宮)…福岡県宗像郡
・秋田領上到米越訴(1645年):第110代後光明天皇
 肝煎役・遠山治兵衛。百姓・佐藤甚助。
 甚助神社…秋田県雄勝郡
佐倉惣五郎一揆(1653年)
 庄屋・佐倉宗五郎と子供4人。
 口之宮神社…千葉県佐倉市
 宗五郎大明神…長野県飯田市
・二斗八騒動、松代領越訴(1674年):第112代霊元天皇
 百姓・助弥(19歳)。
 天神社(二斗八様)…長野市
・幕領青島村検地反対(1681年)
 庄屋・川口一郎兵衛。
 礫八幡神社静岡県富士市
・仙石領釘子村越訴(1682年)
 肝煎役・昆野八郎右兵衛。
 八郎右兵衛神社…岩手県磐井郡
・上田領入奈良本村越訴(1682年)
 増田与兵衛親子3名。
 与兵衛明神社…長野県小県青木村
・加助騒動、松本領強訴(1686年)
 庄屋・多田加助。その他、27人。
 加助神社…長野県南安曇郡
丹南領板倉村越訴(1741年):第115代桜町天皇
 庄屋・堀江六之丞と妻よね。
 堀江神社…栃木県足利市
・姫路領強訴、打ち壊し(1748年):第116代桃園天皇
 参加者約1万人
 百姓・滑の甚兵衛、塩田利兵衛ら7名 死罪。遠島、5名。
 置塩神社…兵庫県飾磨郡
・西讃岐一揆(1750年)
 参加者約4万人。
 庄屋・大西権兵衛親子。百姓・甚右衛門、金右衛門、弥一郎、嘉兵衛、兵次郎。
 七義士神社(権兵衛神社)…香川県三豊郡
・西条三万石騒動(1753年)
 庄屋・村上平兵衛、高橋孫兵衛、高橋孫市左衛門。
 平兵衛神社…愛媛県新居浜市
・宝暦郡上一揆、郡上領強訴、越訴(1754年)
 百姓・籐吉、喜四郎、定次郎、四郎左衛門、由蔵ら10名。
 籐吉稲荷神社…岐阜県郡上八幡
 藩主、改易。家老3名、遠島。寺社奉行根尾甚左衛門と寺社下役片重半助、死罪。その他数十人、処罰。
・徳島領五社宮騒動(1756年)
 庄屋・山口吉右衛門山口市左衛門、後藤常左衛門、佐藤京右衛門、宮崎長兵衛。
 五社神社徳島県名西郡 
・重清騒動(1758年)
 百姓・与右衛門の妻お秀。与右衛門は自殺。 
 秀塚神社…徳島県美馬郡 
・籾摺騒動、宇都宮領強訴、打ち壊し(1764年):第117代後桜町天皇(最後の女帝)
 庄屋・鈴木源之丞、増淵六平。百姓・太郎兵衛。
 喜国神社…栃木県宇都宮市
・富山領四方浦訴願(1806年):第119代光格天皇
 町年寄・栂野彦六。
 四方神社…富山市
・平戸領可須村越訴(1819年):第120代仁孝天皇
 百姓・源三。
 源三神社…長崎県壱崎郡
・その他。
 <参考文献・『日本神社名辞典』神社新報社。『近代義民年表』保坂智。『百姓一揆総合年表』青木虹二> 
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 百姓の神社は、犯罪者を祀るがゆえに否定された。
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 鵜飼秀徳「日本全国の寺院のうち、35.6%が消滅の可能性がある」(『寺院消滅』)
 少子化によって檀家の減少と墓じまいで、浄土真宗本願寺派の寺院の約45%が年収300万円以下に過ぎない。その為に、幼稚園や保育園の経営以外の副業を行う僧侶が急増している。
 無住職となった寺院も増え、そうした寺院を維持できない本山は「寺院じまい」を始めている。
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 百姓一揆の首謀者として処刑された百姓は、百姓の英雄となり、村社会の神(人神)として祀られた。
 それが、地方・農村でキリスト教が根付かず、百姓(庶民)がマルクス主義共産主義)を排除した理由である。
 日本には、キリスト教マルクス主義共産主義)も、そして中華儒教も馴染まなかった。
 百姓(庶民)は、キリスト教が説教する「迷える子羊」や「罪深き人間」ではなかったし、マルクス主義共産主義)が叫ぶ「搾取され虐げられている人民」でもなかったし、中華儒教が唾棄する「教養なき小人」でもなかった。
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*騒動や一揆で処刑され、その後、日本の神として神社に祀られた身分卑しき百姓達。
 信仰心篤い日本人は、氏子として、偉業に関係なく、犯罪者であっても、全ての祖先を氏神として平等に神社に祀り、家の神棚で神の裔・天皇の祖先神と共に敬っていた。
 百姓は、御上の言う事は信用せず、自発的に考え、責任から逃げる事なく、主体性を持って行動した。
 日本の百姓は「庶民」であって、大陸の支配階級から鞭で打たれる下層階級である「民衆(ピープル=被支配者)」ではなかった。
 日本の庶民とは、マルクス主義による階級闘争の人民ではないし、資本家・ブルジョアと対立する労働者・プロレタリアでもない。
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 百姓一揆の首謀者として処刑された重罪人の怨霊を鎮める為の人神神社は、御上に対する百姓の声なき意思表示であった。
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 処刑された百姓を神として祀ったのは怨霊信仰からである。
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 江戸時代、全国で約3,200件の一揆が起きていた。
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 江戸時代までの日本の神々に神格を与えていたのは、祭祀王・天皇のみである。
 祭祀王・天皇の皇統は、天孫降臨神話に基づく神の血縁をもって正統な後継者とされている。
 神の裔である天皇が神としての位を与えなければ、日本の正式な神とはされなかった。
 最高の格式を持つ神は、稲荷神社に祀られている正一位の「キツネ」であった。
 天皇制度を廃止すれば、神の裔・天皇が承認した日本の神々は消滅する。
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 キリスト教会などの一神教は、神に神格を与える天皇の神性を否定し、人を神として祀り崇拝する事にも猛反対した。
 功績を挙げた偉人でもなく、ましてや罪人として処刑された庶民を人神として祀る事が理解できなかった。
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 皇室神道神社神道も元を辿れば、数千年前の弥生時代古墳時代から始まり、その原型を遡れば数万年前の石器時代縄文時代にあった。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。 
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 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性世襲男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
 ゆえに、日本民族日本人は天皇・皇族・皇室、国體=天皇制度を守る為ならば死を厭わず、武器を取って戦った。
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 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
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 日本民族は、血の繋がった祖先から命・魂(霊魂)、身体、心、志、気持ち、気概を受け継いで産まれ生きてきた尊い人であって、全知全能の唯一絶対神が自分に似せた姿に土塊・塵・ゴミをこねて形を整え命・魂を吹き込み祝福した貴い土人形ではなかった。
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 日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
 帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
 何故なら、帰化人は利他として天皇に忠誠を誓い日本国の為に働いたからであり、渡来人は自利として天皇への忠誠を拒否し日本国に叛き自分の為のみに働いたからでる。
 昔の歴史は帰化人の神話・物語であったが、現代の歴史は渡来人の話である。
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 日本民族は自分の父母・祖父母・曾祖父母・祖先を、「家の神様」として神棚に祀り、「家の仏」として仏壇に納めた。
 家の神様や家の仏様は、必ずしも血縁者だけではなく血の繋がりのない赤の他人の他家からの養子も入っている。
 日本の世襲とは、そういう意味である。
 日本民族の宗教とは、自分につながる祖先を祖先神・氏神様として祀る人神崇拝宗教つまりローカルな家・家族・一族限定宗教であって、天地創造絶対神の福音を信じる信仰宗教・啓示宗教・奇跡宗教・救済宗教といった人種・民族といった枠組みを超えたグローバルは普遍宗教ではない。
 その象徴が、最高神である女性神天照大神を祀る天皇家・皇室である。
 日本の宗教では、仏教が伝来するまでは人が死んで行く死後の世界はなかった。
 天上界の高天原も地下界の黄泉国も、死ぬ事がない天孫系(天皇系)の天つ神が住む世界であり、死んでしまう八百万の神である国つ神が行ける世界ではないし、ましてや人が死んでいく世界でもなかった。
 死んでしまう国つ神や人は、死んだら神域である鎮守の森・ご神体とされる高い山・大岩・巨木・海の向こうに宿り、家の近く・家族の近くにある地元の氏神神社に鎮座した。
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 祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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 人は、二人の両親から産まれてくる。
 日本民族の祖先な数は?
 日本人の命が尊いわけ。 
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 祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
 一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
 14世代前では、8,192人。
 23世代前には、419万4,304人。
 25世代前では、1,677万人。
 27世代前では、1億3,422万人。
 だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。 
 30世代前には、5億3,687万912人。
 40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
 50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
 100世代前の、祖先の人数は?
 指数関数的な増加。
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 祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
 今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
 それが、命の重みである。
 そして、日本の家である。
 昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
 ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
 この世は、生きるに値する。
 命は、等しく尊い
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 日本民族の宗教とは、亡き家族の魂を仏として弔って拝み、祖先の霊魂を祖先神・氏神の人神として祀り崇拝する事で、そこにあるのは「畏れと加護の慎み」であって「奇跡と恩寵の信仰」ではない。
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 祖先神・氏神の人神崇拝とは、永遠の命、生命の連続、命の継続として、祖先から子孫への絆であった。
 日本民族は、家族・自分の欲得としての短期的願望と家・子孫の理想としての長期的願望を持っていた。
 日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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 日本民族の言霊信仰とは、民族中心神話に基ずく自然崇拝であり、宗教的精神的な自然への畏怖つまり畏れと敬い事である。
 それは、数千年前の弥生時代古墳時代から断絶する事なく繰り返されてきた正統世襲男系父系天皇による一子相伝宮中祭祀、さらには数万年前の石器時代縄文時代からの日本民族が受け継いだ自然の精霊と生命の永遠に対する崇拝宗教につながっている。
 日本民族伝統宗教とは、精霊崇拝宗教、八百万神の神話宗教、祖先祭祀宗教であって、信仰宗教、啓示宗教ではない。
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 小林武彦(東京大学定量生命科学研究所教授)「いま、私たちが存在するのは、過去に夥しい死に支えられているから。生き物にとって死とは、進化を実現させるためにある。変化と選択を繰り返して進化し、生き残った末裔が私たちなのです。自分も生まれてきた以上は生を謳歌し、命を次の世代につなぐためにも〝利他的に〟死んでいかなければならないのです」
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 靖国神社の心・志・精神は、戦前の軍国日本にはあったが、戦後の平和国家日本にはない。
 が、1980年頃まではあったが、1990年以降から消え始め、2020年以降には消滅した。
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 諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか?死んだ仲間もそうなのか?あの兵士たちも、無意味だったのか?いや違う‼あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼あの勇敢な死者を‼哀れな死者を‼想うことができるのは生者である我々だ‼我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
 同じ自殺行為といっても、カミカゼ特攻とイスラムテロリストの自爆テロとは根本的に意味が違う。
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 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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 イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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 H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
 人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
 最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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 マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
 私は お前に教えられた。
 それは
 命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
 海に生まれた命を奪い
 野山に育つ命を奪い
 人は生きて行く。
 罪を背負い
 それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
 だからこそ 
 この世は美しい。
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 石原慎太郎「(靖国神社参拝について)根本を云えば、民族としての〝垂直の情念〟をどう認識するかということなんだ。国の礎として斃(たお)れた死者の存在を抜きにいて今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決めていいのか。その慮(おもんばか)りと畏怖が今の日本人にはない。
 〝死者の不在〟ということを強く感じるね。今の日本には死者の居場所がない。それぞれの家庭を見ても仏壇なり、神棚なり、壁に掛けた写真でもいい、死者たち、亡くなった両親や祖父母、曾祖父さんや曾祖母さんの占める場所があるかね。核家族が当たり前になって家の中で身内の死を見取ることもない。死は病院の中にしか存在せず、家の中には生者しかいない」
 「靖国参拝は政治じゃないんだよ。参拝は殊更(ことさら)なことじゃないし、褒められる事でもない。ただある少年の日に米軍機を追撃して私を守ってくれた、芋畑で仰ぎ見た戦闘機のパイロットがそこにいるかもしれず、確かなことは女房の親父や多くの親戚が私にとってあそこにいるといことなんだ」
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 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反宗教無神論・反天皇反民族反日本だからである。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などに陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人は不明である。
 これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
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 反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
 その代表的人物が、楠木正成であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92 
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2022-05-30
🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
 お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
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 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
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