・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024年8月25日 YAHOO!JAPANニュース MBSニュース「『お前をじわりじわりと殺す』スパイの疑いで拷問されたフランス人神父 伝道を危険視され逮捕・死亡の日本人青年牧師補 戦時下の「宗教弾圧」の実態
アルフレッド・メルシエ神父(1905~1977)
「ごく自然に私は死の準備をした。死ぬことがきっと、最も確実にこの監獄から出る手段だった」
【写真を見る】「棒で何発か叩かれた」メルシエ神父が記した報告書
これは太平洋戦争終戦間際に、憲兵隊から激しい拷問を受けたフランス人神父の言葉です。戦時下の日本では、宗派を問わず、キリスト教の聖職者たちがスパイや不敬罪(天皇の尊厳を損なう罪)などに問われ、逮捕・拷問される弾圧が各地で起きていました。知られざる弾圧の歴史に、当事者本人の手記や当時を知る関係者の証言から迫ります。
“外国人はスパイ”…戦時色が濃くなるにつれ教会や神父への監視が強まる
兵庫県西宮市、阪急夙川駅にほど近い場所にある「カトリック夙川教会」。阪神・淡路大震災でも倒壊を免れた聖堂は、90年以上の歴史を誇ります。日曜日には多くの人がミサに集います。
今もなお、信者たちに祈りと安らぎの場を与えるこの教会が、第二次世界大戦中に悲劇に見舞われたことはあまり知られていません。信者のひとりが当時のことを語ってくれました。兵庫県宝塚市に住む五百旗頭邦夫さん、86歳です。
(五百旗頭邦夫さん)「メルシエさんは説教の時になったら、説教台に上がって、説教台から後ろまで聞こえるようにゆっくり大きな声で話された」
五百旗頭さんは1937年に生まれた直後、フランス人のアルフレッド・メルシエ神父(1905~1977)から洗礼を受けました。しかし、戦時色が濃くなるにつれ、教会やメルシエ神父への当局の“監視”の目が強まっていったといいます。
(五百旗頭邦夫さん)「“外国人はスパイ”ということで憲兵から目をつけられていた。ミサをやっている時に、聖堂の後ろにサーベル(軍刀)をぶら下げた憲兵らしき人が立って見張っていました」
そして1945年の5月、メルシエ神父は突如、尼崎の憲兵隊に逮捕され、終戦翌日の8月16日まで勾留されました。
『私は嘘つき扱いをされ、棒で何発か叩かれました』
メルシエ神父はその時の経験を、パリ外国宣教会からの要請を受け、報告書にまとめています。
【メルシエ神父の報告書より】
『私は、なぜ自分が逮捕されたのかについては全く考えませんでした。私の良心に、やましい点は何ひとつありませんでしたから。憲兵は私を責める証拠は何も持っていなかったので、ただ「お前がしたり言ったりした日本に不利になることをすべて話せ」と言うばかりでした。私が望みに合わない返事をするたびに、私は嘘つき扱いをされ、棒で何発か叩かれました』
スパイの疑いを一貫して否認したメルシエ神父。拷問は次第に激しさを増していきました。
【メルシエ神父の報告書より】
『憲兵たちは厚いブーツをはいたまま私の腰の上に乗り、踊ったり、足踏みしたり、思いきり鞭で打ったりしました。ごく自然に私は死の準備をしました。死ぬことがきっと、最も確実にこの監獄から出る手段でした。ある日限界に達した私は「たとえ死刑であっても刑に処されるほうが、毎日理由も結果もなく拷問されるよりましだ」と言いました。憲兵は皮肉な口調で答えました。「それではお前に優しすぎるだろう。俺の計画では、ここでますます拷問を厳しくして、お前をじわりじわりと殺すつもりだ」と』
「赦すという態度」獄中の経験を信者らに語ることはなかったメルシエ神父
メルシエ神父は日本の降伏に伴い解放されましたが、獄中での経験を信者らに語ることはなかったといいます。報告書も長らく非公開にされ続けました。
(五百旗頭邦夫さん)「メルシエさん自身はとにかく自分が受けた苦しみとかは一切言わない。赦(ゆる)すという態度だった」
のちに、憲兵のひとりが「アメリカ軍に告発しないでほしい」と嘆願した際も“決して告発しない”と赦しを与えたというメルシエ神父。その後、三田や神戸で司祭を歴任し、日本でその生涯を終えました。
何者かに告発され憲兵隊に突如逮捕…獄中に散った青年牧師補
キリスト教の聖職者たちが戦時下で受けた“弾圧”。スパイの疑いなどではなく、信仰や伝道活動そのものを当局が危険視し、弾圧の標的にした例もあります。
(日本基督教団函館教会 松本紳一郎牧師)「小山宗祐牧師補は昭和17年(1942年)1月に憲兵に捕らえられて、函館で亡くなりました。神社崇拝をしていないということを近所の人に訴えられたんじゃないかと言われています」
1916年に大阪で生まれた小山宗祐さんは、1941年の夏、牧師補として函館に着任。五稜郭の近くで日々、熱心に伝道活動を行っていたといいます。
しかし、翌年の1月、憲兵隊に突如逮捕されます。戦勝祈願のための護国神社への参拝を拒んだことを、何者かに告発されたことがきっかけとされています。小山さんはその後、天皇の尊厳を損う言動をしたとして不敬罪などで起訴され、非公開で即日判決の裁判が行われました。判決内容は不明。その直後、拘置所の中で死亡しているのが見つかります。26歳という若さでした。
当局の説明は“自殺” 自殺はキリスト教でタブーとされるが…
遺体を引き取った牧師は手記にこう記しています。
【小山牧師補の遺体を引き取った牧師の手記より】
『死体は既に棺桶に納められていた、ふたをとって見ると、がっくりと首が下がっている。リヤカーに棺をのせ、人目をはばかるような姿でまだ消え残っている雪路を火葬場まで運ぶのも言い知れぬ悲痛の極であった』
当局の説明は“自殺”。現在の函館市史にもそう記録されています。一方で、検死は行われず、浴衣の背中の部分に血痕があったという証言も残っています。何より、キリスト教で強くタブーとされる自殺を選ぶのか…。疑問視する研究者もいます。
さらに、小山牧師補の獄死から数か月後、牧師補が所属していたプロテスタント・ホーリネス派は、130人以上の聖職者が一斉に検挙される“大弾圧”を受けました。
「誰かを排除しようとか、そういう事柄が戦争にも結びつく」
キリスト教への敵視。背景には、天皇の存在がありました。
(日本基督教団函館教会 松本紳一郎牧師)「キリスト教の信徒は、“すべての人が罪びと”だという信仰に立っていますけれども、すべての人が罪びとだと言った途端に“天皇も裁かれなくちゃいけないのか”という話になってしまう。当時は天皇は神として崇められていましたから、天皇が神ではないということは国体に反するということになってしまいますね。戦時下の当局の見地からすると、危険思想だと」
そして松本牧師は、市民の密告が小山さんの逮捕につながったことも現代の私たちに重い教訓を投げかけていると考えています。
(松本紳一郎牧師)「権力に直接弾圧されたというよりも、隣の人が“こういう思想は好ましくない”というふうに思った時にそれを排除すると。連帯意識を強めるために誰かを排除しようとか、よそ者扱いしようとか、そういう事柄が結局やっぱり戦争にも結びつくし、ごく身近で起こりうるんだということを、私たちはこの機会に考えなくちゃいけないんじゃないかと思いますね」
(2024年8月15日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」内『特集』より)
・ ・ ・
阪急・阪神沿線文学散歩
メルシェ神父の獄中記について
パリミッション会の要請により書かれたメルシェ神父の獄中記は、1945年5月7日に憲兵隊に連行されてから、同8月17日に解放されるまでの103日間の記録ですが、東京のパリミッション会の本部に保管され、これまで誰も見ることができませんでした。
メルシェ神父の獄中記について_a0299862_14102278.jpg
遠藤周作も述べているように、メルシェ神父は逮捕と拘留生活のことについては、生前一言も話しませんでした。しかし、メルシェ神父の帰天から30年以上たち関係者も亡くなっていることから、2012年に初めて夙川カトリック教会の月報に公開されたのです。
その記録は、戦時下で日本に留まった敵国人がどのように処遇されたのか明らかにする歴史的にも貴重な資料でした。決して残虐性などを誇張したものではなく、淡々と獄中の出来事が記されているのです。
メルシェ神父の獄中記について_a0299862_14104591.jpg
(メルシェ神父の自筆)
そして「私は日本人を決して恨んではいません。」という言葉は本心からの言葉でした。獄中記の最後の部分から少し引用させていただきます。
<私の収監に関して「長期にわたり繰り返された拷問」という観点からのみ語る人々がいます。確かに、私は拷問を受けました。しかし苦しみには良い面もあるのです。私はこの100日間に起きたすべてのことの中で、これだけ多くの人たちが私に心配と共感を寄せてくれたということの方が、軍国主義精神によって心のバランスを崩した野卑な伍長の残虐さよりも、思い出として残っています。私の逮捕が信者さんや求道者の方たちに悪い影響をもたらすのではないかと心配していましたが、全くそんなことはなくその逆の結果をもたらしました。>
普通の人なら決して耐えられなかったであろう激しい拷問にも屈せず、100日間を生きぬいたのは、やはりメルシェ神父の強い信仰の力だったのでしょう。(私はクリスチャンではあいませんが)
最後に夙川カトリック教会の建堂80周年誌に掲載されていたメルシェ神父のエピソードを紹介させていただきます。
<戦争が終わってしばらくしてからのこと、新聞記者が夙川教会の神父館にメルシェ神父さんを訪ねてきたのだそうです。多分、戦争末期のいわゆる「敵国民」に対する憲兵隊の仕打ちの残虐さを取材しようとしていたのでしょう。ところが通された応接室には、戦時中はどこの家でも掲げられていたがその頃はすでにたいてい降ろされていた天皇・皇后の「ご真影」が、まだ掛かっていたのです。記者たちは驚いて「ここにはまだご真影が」とたずねたところ、神父さんは静かにこう仰ったのだそうです。「掛けていては悪いですか。戦争をこんなに静かに終えることができたのは、この方のおかげではないでしょうか。私の国もドイツと何度か戦争をしましたが、こんな静かな終戦はなかったですよ。>
神父館にご真影があったということさえ信じがたいのですが、もしこのエピソードが真実であったならば、メルシェ神父の心の広さは計り知れないものです。
メルシェ神父の獄中記について_a0299862_14103595.jpg
メルシェ神父の「逮捕拘留と解放についての報告書」(正価150円)を入手されたいかたは、
〒658-0026 神戸市東灘区魚崎西町2-1-20-311
高間友の会
TEL/FAX 078-843-4774
E-mail yohanep@me.com
にご連絡ください。
・ ・ ・
レファレンス協同データベース
提供館 尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室 “あまがさきアーカイブズ” (5000006)
管理番号 107
質問
アジア・太平洋戦争末期に、西宮市内のカトリック教会の神父が尼崎の憲兵隊に逮捕・連行された事件について調べたい。
回答
夙川カトリック教会発行の『建堂80周年記念誌』によれば、アジア太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月7日、夙川カトリック教会主任司祭のアルフレッド・メルシエ神父 がスパイ容疑により大阪憲兵隊尼崎憲兵分隊(浜田崇徳院に所在)に逮捕・連行されました。厳しい取調べ・拷問ののち、8月16日に解放された際には歩行もできない状態だったということです。
これとは別に、夙川カトリック教会創設者で、昭和20年当時は北野教会主任司祭だったシルベン・ブスケ神父が、やはり大阪憲兵隊に逮捕・連行される事件がありました。ブスケ神父は、やはり厳しい取調べ・拷問ののち病院に送られ、亡くなりました。
こういった事件の概要を、前掲の夙川カトリック教会『建堂80周年記念誌』等により調べることができます。
・ ・ ・
カトリック夙川教会
教会のあゆみ
1865年3月17日 長崎大浦天主堂でキリシタンが発見されて以来、日本人の信教の自由が徐々に回復してゆく中で、フランスから渡来した宣教師たちは神戸、大阪の外国人居留地を中心にミッション活動を始めていました。彼らは月に一度、神戸と大阪を東と西に向かって徒歩で出発して夙川あたりで落ち合い、お互いの活動を報告しあって一日を過ごしたと云います。明治末から大正にかけて、大阪や神戸の市街地から離れた郊外住宅地が各地に造成されるのを見て、宣教師たちは次の新しい教会を阪神間に建てようと考えます。
1921年(大正10年)、パリ外国宣教会のブスケ神父は札場筋にあった20坪の家を借り、2階を聖堂にして11月に初ミサを捧げ、「聖なるロザリオの教会」と命名しました。これが夙川教会のはじまりです。2年後に神父は現在地に土地を購入し、神戸居留地にあった「悲しみの聖母教会」の旧建屋を移設して仮聖堂とし、本格的な聖堂の建設計画に取り組み始めました。写真のピエタ(「悲しみの聖母」の木彫り)は居留地の聖堂入口の上に掲げられた飾り(タンパン)で、2007年に当教会の信徒の手によって修復を終えました。
ヨゼフ梅木省三氏の設計になるネオ・ゴシック様式の聖堂が1932年(昭和7年)4月に完成します。新聖堂はブスケ神父が敬愛してやまなかった聖テレジアに献げられ、以後夙川教会は「幼きイエズスの聖テレジア教会」と呼ばれています。1945年から1963年まで大阪教区の臨時司教座聖堂としての役割を果たしました。
1995年(平成7年)1月の阪神淡路大震災で大きな被害を受けましたが幸いにも倒壊を免れ、2012年(平成24年)9月には耐震・改修工事が完了し、夙川のシンボルとして壮観な外観とともに、美しいステンドグラスや鐘の音が人々に心の安らぎと祈りの場を提供しています。祭壇奥のアルコーブに聖テレジア像がおかれ、右には聖テレジアと建堂当時の信徒の子どもたち、左にロザリオを手にした聖母子と聖ドミニコのステンドグラスが配されています。聖堂および鐘楼の歴史的、文化的な価値が評価され、2009年に「西宮市都市景観形成建築物」、2012年には「兵庫県景観形成重要建築物に指定されました。
夙川にゆかりのカトリック作家としては遠藤周作と須賀敦子がいます。この教会は遠藤少年が母に連れられてキリスト教という西洋仕立てのぶかぶかの洋服を着せられるに至った場所として彼の作品にしばしば描かれ、遠藤文学の原点といわれています。須賀敦子は小林聖心で早くに洗礼を受けた後、一筋の道を求めてフランスへ旅立ちました。敦子の感性が共鳴したのはイタリアで、日伊の作家を相互に翻訳する忍耐強い仕事は文学における日伊の架け橋となりました。明晰・静謐・澄明なその文体は、古き良き夙川を彷彿させます。
カトリック夙川教会のあゆみを動画でご覧いただけます
2011年に修復された夙川教会のカリヨンの音を動画でご覧いただけます(ナレーションあり)
2011年に修復された夙川教会のカリヨンの音を動画でご覧いただけます(ナレーションなし)
・ ・ ・
・ ・ ・
外国人抑留者
2024年8月27日 NHKクローズアップ現代「ある日突然、私は“敵国人”にされた… ~イタリア人作家ダーチャ・マライーニさんに聞く、日本での抑留~
終戦から79年。
戦時中、日本で苦しんでいたのは、日本人だけでありませんでした。太平洋戦争開戦と同時に、日本に住んでいた一般の外国人たちが突然、捕らえられ、最長で3年8か月にわたり、隔離、管理されました。日本政府が行ったこの「敵国人抑留政策」の対象となった人の多くは、日本を愛し、日本社会で共に暮らしていた人たちでした。
今もなお世界で戦争がやまない中、私たちは、この歴史から何を学ぶことができるのか。
イタリア人作家ダーチャ・マライーニさん(87歳)は、実際に日本で抑留された一人です。敵国人抑留の歴史が「語り継がれていない」という危惧を抱いたダーチャさんは今年6月、その警鐘を鳴らすために来日し、戦時中に過ごした地を訪れました。私たちは、その旅に同行し、日本での抑留経験とそこから学んだことについて聞きました。
(クローズアップ現代 ディレクター 内田理沙)
・ ・ ・
朝日新聞デジタル記事
埋もれた「敵国人抑留」 廃校跡にたたずむ墓碑見つめて
田井中雅人2023年7月5日 17時00分
「神奈川第一抑留所」跡の墓碑に献花する人たち=2023年6月11日、神奈川県南足柄市内山、田井中雅人撮影
写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
太平洋戦争中、日本で暮らしていた民間の外国人たちが日本各地で「敵国人」として抑留されていたことは知られていない。
6月のある雨の日、神奈川県南足柄市内山の山あいにある廃校になった中学校に住民ら約50人が集まっていた。ここにはかつて「神奈川第一抑留所」があった。戦争末期の食糧不足や適切な医療が受けられなかったことなどにより、5人が亡くなった。
出羽仁さん(70)の祖先は幕末に英国から横浜にやって来た。
日本人女性と結婚し、貿易業を営んでいた祖父は1941年12月8日に太平洋戦争が始まった後、医学生だった長男(出羽さんの父)とともに特別高等警察に連行された。抑留は終戦までの約3年8カ月間に及んだ。
出羽さんは、ほかの抑留者遺族や地元住民らとともに廃校跡であった「語り継ぐ集い」に参列。地元住民らによって跡地に建てられた墓碑に献花し、犠牲者を悼んだ。
「戦時中の日本に外国人の抑留所があったことは、学校では教えられていない。外国にルーツを持つ人が増えている。国や民族、宗教の違いを超えて、人間同士として見つめ合うことが大事。(ウクライナなどで)おろかなことが今も繰り返されているが、歴史に思いをめぐらせるべきだ」。出羽さんは集いでそう語った。
抑留の対象、女性や高齢者にも拡大
抑留所跡の近くに住む細谷賢…
この記事は有料記事です。残り1080文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
・ ・ ・
ウィキペディア
日本での敵国人の抑留(にほんでのてきこくじんのよくりゅう)では、第二次世界大戦中の日本における、交戦国民の抑留について説明する。
概要
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国では約12万人の日系人が強制収容所に抑留されたが(日系人の強制収容)、日本では合計1,100人前後の敵国(連合国)の民間人が収容所に抑留された。
経過
1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日本が第二次世界大戦に参戦すると、英米の大使(ジョゼフ・グルー、ロバート・クレイギー)や外交官が大使館などに軟禁されたが、それと並行して、日本に残留・在住していたアメリカ人やイギリス人などの民間の敵国人342人(主として成年男性)が日本各地の収容所に抑留された。この中には、商社などに勤務していた者もいたが、キリスト教関係者も多かった。特にカトリック教会では、ローマ教皇ピウス12世が引き揚げを指示しなかったことから、開戦時点で多くのカトリック聖職者が日本に残留し、そのうちアメリカやイギリスの国籍を有する者が抑留された。また、日本軍が占領した地域(アッツ島など)に住んでいた住民や、拿捕した船舶(第二氷川丸など)に乗っていた者も、一部は日本に連行して抑留された。抑留所に指定されたのは、教会、修道院、ミッションスクールの校舎など、洋風の建物が多かった。
抑留された人数は、時期によって増減があった。増える要因としては、スパイ防止などのために女性も抑留されるようになったことや、イタリアが降伏して日本にとって敵国になったことでイタリア人も抑留されるようになったことなどが挙げられる。減る要因としては、交換船による帰国や、病気療養による釈放などがあった。日本で大戦中に抑留された民間人(外交官とその家族らは除く)の合計人数は、小宮まゆみは「およそ1,180人」としているが、大橋尚泰は戦争末期の「抑留」を集団疎開の文脈で捉えることで除外し、合計「1,058人」としている。
・ ・ ・