🌺17:─1─リベラル左派系メディアの日本人像は嘘ばかり。ルース・ベネディクト『菊と刀』。~No.32No.33 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ステレオタイプとしての、西洋の「罪の文化」と日本の「恥の文化」。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、情緒的に花を好み、花を愛(め)で、花を楽しむ人であるが、多くの人間が持っている合理的論理的な花を愛するとは違う。
   ・   ・   ・   
 日本民族とは、数万年前の旧石器時代縄文時代から、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯の日本列島で生きてきた。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる程の世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
   ・   ・   ・   
 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
   ・   ・   ・    
 2024年8月25日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「メディアで取り上げられる日本人像は嘘ばかり…実際の日本人との間にあるとんでもない乖離
 メディアで取り上げられている“美しい”日本人像と実際の日本人との間には相当な隔たりがある。その驚きの理由を日本企業と個人のグローバル適応を専門とする明治大学教授・小笠原泰氏が語った。
 【写真】3か月で400億円近くの金が動いた「ビル」とは…
 美談的な言説としての日本人像ばかりがメディアで取り上げられることが多い。しかし、実際のところはどうなのか?グローバル社会で生き残れる最新の日本人になるための方法が書かれた新書『日本人3.0』では、その実像に鋭く迫っている。
 「日本人は文化と伝統を重んじる」は本当か
 日本人は実は文化も伝統も大事にしていない…/Photo by gettyimages
 これからの時代に生き残れる「『最新』の日本人=日本人3.0」に脱皮するにあたって、まずはそもそも日本人とはどんな生き物なのかを知って自覚しておく必要があるので、その解説を心地良い「オモテ」ではなく、ざらつく「ウラ」の視点で語ります。
私が率直に思うに、メディアで取り上げられる美談的な言説としての日本人像と実際の日本人の間には相当な乖離があります。
 日本には古き良き文化と伝統があり、日本人はそれを重んじているかのような記事や政治家の発言を見聞きしますが、本当でしょうか?
 もし“伝統”を重んじるなら、お正月やお盆という伝統行事や風物詩がなぜ力を失い、クリスマスやバレンタイン、ハロウィンなどといった伝統とは無関係なイベントが隆盛になるのでしょうか。「商業主義」という見方もありそうですが、正月だって同じことでしょう。
 要は、成功しているかいないかの違いでしょう。昨今のおせちは、中華風やフレンチ風など様々なバージョンが出回っています。「おせち」というフォーマットを残して、おせちの中身は伝統的なものから変容してしまいましたからね。
 実際、日本の伝統文化と言われる能や文楽をどのくらいの人が見ているでしょうか。
 たとえば茶道はどうでしょう。これまでの人生で一回でも、茶会に参加した人はどのくらいいるのでしょうか。俳句や短歌をたしなむ人はどのくらいいるのでしょうか。お仕事がらみでもないかぎり、着物を日常的に着る人は少ないですよね。卒業式の女性の袴姿は伝統でしょうか。
 シェイクスピアに発するイギリスの伝統といえる演劇ですが、オックスフォード大学においても演劇はとても重要ですし、夏になると野外ステージで劇を上演するなど、演劇はイギリスの日常の一部だと感じます。
 ヨーロッパ諸国におけるクラシック音楽も同様で、バイオリンなどの楽器も日本のような「情操教育」という名の“とりあえず舐めるお稽古”、つまりうわべの習い事ではなく、子供たちにとっては“当然のたしなみ”という印象です。
 フランスでは、バレエやダンスも同様で、親は子供がクラシック音楽やバレエに触れるのは当然と思っています。フランスでは、5月1日に愛する人々やお世話になった人々にスズランを贈ります。これは宮廷に由来する行事ですが、一般の人にも広く知られるようになったのは19世紀末ごろからといわれています。
 いまでは栽培したスズランが主のようですが、摘んできた野生のスズランを街角で売っている人が子供も含めてかなりいます。日本では死語かもしれませんが、まさに“風物詩”そのものです。市場規模は約1億ユーロといわれています。
 「焼き畑的思考」の日本人
 海外では伝統をしっかり守りぬく傾向が強い/Photo by gettyimages
 戦後の日本社会は、とくにバブル景気を契機として、「新しいものの摂取とその栄枯盛衰の連続」です。別の言い方をすると「猫も杓子も参加するブームという名の消費と使い捨ての連続」とも形容できます。
 生食パンではないですが、オワコンとなったブームは山ほどありますよね。長蛇の列で有名になったクリスピー・クリーム・ドーナツもそうでしょう。短いものでは、イタリア菓子のマリトッツォでしょうか。
 最近は複数の味のバラエティをつけたフランスのカヌレでしょうか。まさに「焼き畑的思考」とでもいえそうです。
 その一方で、日本の伝統行事や風物詩を深掘りするよりは新奇性を求めて定着したイベントもあります。クリスマスに始まり、バレンタインデー、ホワイトデー、最近はハロウィンでしょう。
 そこそこ定着しつつあるのは、10月という時期に関係のない「オクトーバーフェスト」でしょう。これは毎年秋にドイツ・ミュンヘンで開催される、200年以上の歴史を持つ世界最大のビールの祭りです。さすが節操のない日本人です。
 ドイツでは伝統を守るので、オクトーバーフェストミュンヘンで9月の中旬から10月の頭までの開催ですし、ミュンヘン以外ではオクトーバーフェストという名称は使わず、シュトゥットガルトではカンシュタッター・フォルクスフェスト、ブレーメンでは、ブレーマー・フライマルクトと呼ばれています。
 ここ最近のイベント的な流行は、「ヌン活」でしょう。「ヌン活」は、2022年の「ユーキャン 新語・流行語大賞」にノミネートされています。
 「ヌン活」とは「アフタヌーンティー活動」を略した言葉ですが、なんかとても軽いです。悪い意味ではないですが、言葉にこだわりのない、何でも短縮して、原形をとどめない(たとえば、ガクチカ=学生時代に力をいれたこと)。この軽薄さも、日本人の本質かもしれません。
 アフタヌーンティーとは、イギリスでの紅茶ブームを背景に、ヴィクトリア朝時代の世紀中ごろに英国貴族夫人の間で発祥した午後4時ごろに紅茶とクランペットという形式で始まった喫茶習慣です。その後、当時の中産階級、いまの日本でいえば中流ではなく「上級国民」の間に広がっていきます。
 いま、日本人がアフタヌーンティーと思っている、ホテルのラウンジへ行き、三段スタンドを前に紅茶とたしなむという正統な英国式スタイルは、20世紀になってからのものです。
 私は1990年代初めにイギリスに数年住んでいましたが、アフタヌーンティーといえば、ロンドンのフォートナム&メイソン(18世紀初めの創業の老舗百貨店)でしょう。
 面白いことに、当時バブル景気もあり、お客さんの多くは日本人でした。
 そもそも一般的なイギリス人は、フォートナム&メイソンを知らないと思います。多くのイギリス人にとって、午後のティーブレイク(a cup of teaと言いながらコーヒーを飲みます)はありますが、それは小休憩で日本人の考えるアフタヌーンティーではないのです。
 「節操がなく飽きやすいイベント好き」が日本人の本質
 日本人は何にでもすぐ食いつきやすく飽きやすい…/Photo by gettyimages
 さて、インスタ映えを背景に令和の日本で大流行している日本独自の変形を遂げた「ヌン活」とは具体的には、ホテルやカフェなどで提供されるアフタヌーンティーサービスを楽しむ活動のことを指し、まるで英国の貴族になったかのような非日常的な気分を手軽に味わえることから、とくに若い女性を中心に人気を集めているようです。
 ふつうの人が実態をまったく知らないはずの“英国貴族”のような気分になれるのも、「みんな同じ」という一億総中流意識の正の側面でしょう。つまり現代日本人は、よくも悪くも階級意識を持っていないのです。伝統的に階級意識の強いイギリスでは、ありえないことです。
 最近は、「ヌン活」にはまる人は、若い女性層以外にも広がっているようです。
 年配の女性や子供、若い男性やシニア男性、加えてペットの犬までも楽しめるように場所やメニューも趣向を凝らしています。いかにも節操のない日本らしく、中華料理店でもインド料理店でも、どこもかしこもアフタヌーンティーメニューを揃えています。これぞ節操なく新奇性を外部から取り込み、換骨奪胎してイベント化する日本人の真骨頂です。
 さて次は何でしょうか。
 11月のサンクス・ギビングデーか、4月のイースターか。はたまた3月のセント・パトリックデーのあたりでしょうか。これはアイルランド守護聖人のお祭りなので、ギネスビールを飲むようです。
 サッカーやラグビーのワールドカップの盛り上がりを見ていて思いますが、ルールを知らなくても、その場にいて楽しく盛り上がって、終わると、「じゃあ、4年後に」でいいんです。要は、イベントの中身ではなく、イベントそのものへの“参加”が重要なのでしょう。
 ジャン・ボードリヤールのいう「終わることのない記号消費」(イベントの中身の鑑賞ではなく、イベント参加が意味する記号)の最先端を行くのが、一般的な日本人なのです。まさに、イベント・アニマルです。「節操がなく飽きやすいイベント好き」が日本人の本質といっていいでしょう。
 【続きはこちら】リスクなくして決して生き残れない…「これからの日本人」に必要なたった1つのこと
 小笠原 泰(明治大学国際日本学部教授)
   ・   ・   ・   
 8月24日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「海外からは「日本人」ってどう見えてるの?…ある人類学者が提唱した「超重要キーワード」
 奥野克巳 の意見
 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
 日本研究の名著
 アメリカ人類学における重要人物、ルース・ベネディクトの著作として『菊と刀』を取り上げてみましょう。この本のタイトルを聞いたことがある人も多いかもしれません。日本国内では日本研究の書としてよく知られています。
 ベネディクトは日本を一度も訪れないままこの本を書いたのですが、だからといって彼女がフィールドワーカーでなかったわけではありません。ベネディクトは1922年にセラノ、1924年にズニ、翌年にズニとコチティ、1927年にピマのフィールドワークを行い、1931年以降には学生とともに、アパッチやブラックフットという、数々のネイティブ・アメリカンの現地調査を行っています。彼女も師であるボアズの考えを引き継いで、急速に失われゆくネイティブ・アメリカンの伝統文化の記録を残すべきだと考えていたのです。
 ベネディクトは第二次世界大戦が始まると、アメリカ軍の戦時情報局に召集されます。1944年に日本研究の仕事を委嘱され、その時まとめられた報告書をもとにして、戦後の1946年に『菊と刀』を出版しています。
 海外からは「日本人」ってどう見えてるの?…ある人類学者が提唱した「超重要キーワード」
 海外からは「日本人」ってどう見えてるの?…ある人類学者が提唱した「超重要キーワード」
 © 現代ビジネス
 彼女は『菊と刀』の第1章で、現地に行かないで日本研究を行うことに関して、アメリカには日本で育った日本人がたくさんいて聞き取りが可能であり、また過去に蓄積された日本研究の厖大な資料を参照することができる状況だったと述べています。
 この著作に関しては、日本人がどんな国民であるのかを解明してほしいという依頼をアメリカ軍から引き受けた点で、人類学が戦争協力に与したという指摘があります。たしかにそうなのでしょうが、事情はもう少し複雑かもしれません。
 それはアメリカという特有の政治状況の中で、人類学が発展してきた事実にも関わっています。すでに述べたように、アメリカ人類学はファシズム共産主義思想に対抗し、民主主義を守るための理想を追求するという観点から発展を遂げていきました。そうした政治状況の中で『菊と刀』は書かれたのです。
 『菊と刀』は、日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」を対比的に語っている本であると評されます。ベネディクトは、欧米の「罪の文化」は、善悪の絶対的基準を用いて良心の啓発を説く、キリスト教をベースにしていると見ます。その観点から、人々は神の視点を内面化し、罪の意識という強制力によって自己を律し、善行に♯勤{いそ}しむのです。
 「罪の文化」と「恥の文化」
 それに対して「恥の文化」では、善悪の絶対的基準となるものがありません。「恥の文化」にいる人々は、「世間の目」によって自分の行動を決めると言います。要するに、人からどう見られているかを基準にして生活を送っているのです。他人からの批評という外面的な強制力に基づいて日常の振る舞いが決められるのです。
 日本人は、恥辱感を原動力としています。世間の目を気にしながら、恥をかかないように自己を抑制するのです。ベネディクトはそこから論を進めて、日本人たちは、恥をかくことがないように自分で自分を監視するために、「無我」の境地や「死んだつもりになって生きる」ことを理想としているのだと、とてもユニークな解釈を提示しています。
 こうした分析の根底にあるのは、文化相対主義的な視点です。彼女は欧米の文化と日本の文化、「罪の文化」と「恥の文化」には優劣はないという前提から持論を展開しています。
 ただ、『菊と刀』最終章の「降伏後の日本人」でベネディクトが述べていることは、文化相対主義と矛盾するかもしれません。ベネディクトは、アメリカの民主主義の理念である個人主義や契約の概念に合致しない非民主的な制度や慣習は廃止しなければならないと断じています。そして文化は学習可能だとするボアズ以来の見方に沿って、日本はアメリカの民主主義的な国家に生まれ変わらなければならないと唱えるのです。つまり、アメリカの民主主義という方便に、文化相対主義が無残にも組み込まれてしまっているのです。
 「生のあり方」を探究するアメリカの人類学はここへ来て、現実への提言をする中で、大きな困難を抱え込んでしまったのだと言えるのかも知れません。
 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
   ・   ・   ・