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2024年7月25日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ日本人は曖昧な表現をするのか…禅僧「グローバル社会」で日本人だけが持つ意外にも素晴らしき能力
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/triloks
ビジネスでは曖昧な表現は使わないほうがいいのか。禅僧の枡野俊明さんは「『白黒をつけない』『グレーゾーンを容認する』というのは、仏教の教えの根本にある『中道』という考え方に通じる。国際化が進むなかで、イエス・ノーをハッキリ伝える日本人が増えてきたように思うが、すべてをその場でハッキリさせるという姿勢で臨めば、相手との関係を円滑に保てなくなることもある。日本人の曖昧さと寛容さは、相手を傷つけない、相手をとことんまで追い詰めないというやさしさである」――。
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※本稿は、枡野俊明『迷ったら、ゆずってみるとうまくいく』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■すべてをその場でハッキリさせるという姿勢の罠
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「曖昧」にしたほうがよいこともある――白黒つけないのは優しさのあらわれ
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「前向きに善処いたします」
「一考させていただきます」
ビジネスシーンでは、その場で判断を下さないときにこんなやり取りがよく聞かれます。政治家のコメントでも多く使われます。
日本人の間ではふつうのやり取りですが、契約に基づいてものごとを進める欧米人は、このような日本人の曖昧な表現を嫌がります。
たしかに「前向きに善処いたします」には、「建設的に取り組みます」というポジティブな意味と、「できるだけ努力します」というややネガティブな意味があります。ビジネスパーソンや政治家が使う場合は、後者の意味が多いように見受けられます。
「一考させていただきます」も、「前向きに検討します」の意味より、「難しいけれど、一応持ち帰って考えます」といった意味合いが強いですね。
なぜ、日本人は曖昧な表現をするのでしょうか――。
それは、意見がなかったり、決められなくて曖昧な表現をしているわけではありません。
古来、日本人は「和」を大切にする民族です。たとえ相手の要求をのめないと思っても、頭ごなしに断るのは失礼だからと、相手を思いやって、曖昧な表現をしているのだと思います。ですから、この曖昧さは必ずしも悪いことではないと私は思っています。
「白黒をつけない」「グレーゾーンを容認する」というのは、仏教の教えの根本にある「中道(ちゅうどう)」という考え方に通じます。
日本人の曖昧さと寛容さは、相手を傷つけない、相手をとことんまで追い詰めないというやさしさなのです。
しかし国際化が進むなかで、イエス・ノーをハッキリ伝える日本人が増えてきたように思います。それも必要なコミュニケーション力ですが、すべてをその場でハッキリさせるという姿勢で臨めば、相手との関係を円滑に保てなくなることもあります。
■よいも悪いも、好きも嫌いも、一切忘れる
「両忘(りょうぼう)」という禅語があります。
よいも悪いも、好きも嫌いも、一切忘れなさい、という意味です。
白か黒かという二元論ではなく、ひとつの価値観にとらわれない生き方をすれば、見えなかったものが見えてきます。
あなたが、「これが正しい」と思っていることは、ほんとうに正しいでしょうか。大前提として、時代や場所によって正解は違います。それを冷静に受け止めることが大切です。
今、ダイバーシティ(多様性)を担保することが企業の常識になっています。
ダイバーシティとは、さまざまな民族、性別、性的指向など、人々の多種多様なバックグラウンドのことです。これらの違いを認めあい、尊重しあうことです。
意見の違いがあっても、徹底的に相手をやり込めてはいけません。相手のいいところを素直に認める懐の深さが大切です。
仏教は「個の尊重」をテーマにしており、ダイバーシティの思想と親和性が高いと思います。
■自分の健康管理をできることが大切な理由
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自分を大事にする人は相手も大事にできる――この逆はない
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人より先に行きたい、という気持ちは誰にでもあります。
通勤で道を歩いていても、とくに急いでいるわけではないのに、前を歩く人を追い越そうとちょっと足早になってしまう。
私たちは生まれたときから競争社会を生きているので、人より先に行きたいという気持ちが自然に植え付けられているのだと思います。
だから、人に後れを取ってしまうと心が揺らぎます。自分がダメ人間のように錯覚し、ひどい場合には自己嫌悪に陥ってしまう人もいます。
「ゆずる」を本書のテーマにしたのも、人より先を目指すより、競争から一歩離れて、お先にどうぞの気持ちをもてば、自分をもっと好きになれることを知ってほしかったからです。
自分を好きになれる人は、人も好きになれる人です。何かを好きになると、必然的に好きなものを大切にするようになります。
たとえば、自分を好きな人は「健康管理」を大切にしています。忙しいからといって昼食もとらずにがむしゃらに働いたり、連日飲み会を繰り返していれば体調を崩すのは当たり前です。
若いころは体力でカバーできても、年を重ねていくうちに回復力が鈍り、疲れがたまっていきます。ひいては大きな病気になりかねません。
忙しくても、昼食をしっかりとる、残業を連日つづけない、休肝日をつくるなど、自分の健康管理をしっかりとしてください。
自分の健康管理ができる人は、他人に対しても自分の経験を踏まえて、「そろそろ休憩を入れたほうがいいんじゃないか」、「残業がつづいているから、今日は定時で帰ったほうがいいよ」という気づかいができます。
いっぽうで、自分が無理をしている人は、部下がヘトヘトになっていても「まだ頑張れるだろう」と平気で言ってしまいます。そして部下が倒れてしまってから、「えっ、なんで?」と驚きます。
■自分の小さな変化に気づけるか
自分を大切にするという意味では、日常生活のルーティーンが効果的だと思います。毎日決まった所作や動作を繰り返していれば、小さな変化に気づくからです。
私の場合は、ご本尊さまの前で行う朝のおつとめが健康管理のバロメーターになっています。これが50年以上ほぼ毎日つづいているモーニング・ルーティーン。ですから、その日の朝の第一声で今日の調子がだいたいわかります。
声がポーンと透き通って出ると、「おっ、今日は調子がいいな」と感じますし、少し喉がガラついた感じだと、「おや、今日は少し用心したほうがいいな」と思います。
また、朝食の梅干しを食べたとき、あまり酸っぱく感じなければ、体調が思わしくない日です。味覚が鈍っているのは調子がいまひとつの証拠です。
自分の小さな変化に気づく人は、周囲の人の変化にも気づける人です。
「今日はちょっと風邪声だね。気をつけたほうがいいよ」、「顔色がすぐれないようだけど、体調が思わしくないの」などと声をかけられます。
さらに、「あっ、今日のネクタイ素敵ですね」と、こんな気づきの声かけもできるようになります。
■最初に使うお金、時間、労力はすべて将来へ向けた生きた投資
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損して“徳”取れ――最初の一歩を踏み出せないときの対処法
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新たに何かをはじめようと思ってもなかなか踏ん切りがつかない、こんなところで立ち止まって迷っていられないことはわかっていても一歩を踏み出す勇気が湧かないことがあります。
その根底には、もしも失敗し、お金、時間、労力などの損失が生じてしまうのが怖いからという思いがあります。
企業経営でいえば、このタイミングで成長株の事業に投資すれば会社の業績は上向くだろうと感じていても、目先の数字が落ち込むことから投資に舵を切れないといったケースです。
オーナー社長ならある程度思い切って決断できますが、サラリーマン社長は自分の代で損失を出したくないので、次の代にバトンタッチするまで現状維持でやり過ごそうという気持ちがはたらくでしょう。
プライベートでいえば、将来を見据えて英会話を習おうと思っても、授業料の高さや仕事の忙しさを理由に二の足を踏んでしまうというようなことです。
そこで、「損して得取れ」ということわざがあります。
将来、大きな利益を得るためには、目先の小さな損に気を取られず、長い目でものごとを見よ、という意味です。
成功への呼び水として、はじめに損をしろということではありません。最初に使うお金、時間、労力はすべて、将来へ向けた生きた投資である、そう思えたら思い切って一歩を踏み出しなさい、ということです。
私は「損して“徳”取れ」という気持ちが社会にもっと広がればよいと思います。「得」ではなく、功徳の「徳」です。自分のためばかりでなく、人のため社会のために積極的に取り組む姿勢がよい社会をつくっていくはずです。
■「ここぞ!」のタイミングを見極めて、ことに当たる
新しいことに取り組むには相応のエネルギーやパワーが必要です。ですから、「ここぞ!」というタイミングが大切です。
自動車産業でいえば、新世代の主流になるのはEV(電気自動車)かFCV(燃料電池自動車)か、はたまたCNG(天然ガス自動車)か――。開発の方向性を見極めるタイミングに社運がかかっています。
私が住職をつとめる建功寺でも、本堂の建て替えのタイミングに苦慮しました。資金が貯まってからと思っても、物価が先にどんどん上がってしまえば、資金繰りが追いつかず、いつになっても建て替えられません。本堂は老朽化するいっぽうです。
お檀家さんのお力添えも必要ですから、景気が悪いときよりも、社会全体が上向いている時期であることも大切です。最後は、住職である私が「今しかない!」という時期を決断。なんとかよいタイミングを見計らうことができ、建て替えを無事に終えました。
「ここぞ!」のタイミングを見極めたら、あとは失敗を恐れず勇気を持って、ことに当たりましょう。明るく前向きに、夢を抱いて前進あるのみです。
「不動心(ふどうしん)」という禅語があります。
何ごとにも揺れ動くことのない不動明王の精神を意味します。
決断したら、多少の困難にぶち当たっても絶対に乗り越えてみせるという気迫でエネルギーを注ぎ込み、動き出すのです。
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枡野 俊明(ますの・しゅんみょう)
曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー
1953年、神奈川県生まれ。多摩美術大学環境デザイン学科教授。玉川大学農学部卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行ない、国内外から高い評価を得る。芸術選奨文部大臣新人賞を庭園デザイナーとして初受賞。ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を受章。また、2006年『ニューズウィーク』誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。
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2023年3月12日 DIAMONDonline「「自分の話が伝わらない」という人がまず考えるべきこと
山田史生:中国思想研究者/弘前大学教育学部教授
クセになる禅問答
関西大学総合情報学部教授の植原亮氏が「頭の中だけの(いわば狭い意味での)論理的思考から抜け出すきっかけとなる一冊」と薦める『クセになる禅問答』(山田史生・著)をご存じだろうか。いまやグローバルなものとなった禅のもつ魅力を、もっとも見事にあらわした大古典、『臨済録』をわかりやすく解説した同書が3月7日に刊行された。この本は「答えのない」禅問答によって、頭で考えるだけでは手に入らない、飛躍的な発想力を磨けるこれまでにない一冊になっている。今回は、本書の刊行にあたり、著者に「『話が伝わらない』という悩みに効く禅問答」について教えてもらった。
クセになる禅問答
言葉というツールの使いかた
「どんなに丁寧に説明しても、相手に伝わらない」「なんで、こんな反応が返ってくるんだろうか」と感じ、悩む人は多いのではないだろうか。そのときは「言葉にすれば伝わるはずだ」「相手は自分と同じものをみている」という思い込みを外してみてはどうか。
言葉を自在に使いこなす方法を、禅問答から考えてみたい。
ある僧がいう「言葉をしゃべればしゃべるほど、道からどんどん遠ざかります。言葉をしゃべることなく、どうかお教えください」。
玄沙(げんしゃ)がいう「おいおい自縄自縛におちいってどうする」。
「それこそが言葉をしゃべらないことなのですね」。
「いい加減なことをいうな」。
(『玄沙広録』より)
自分の体験をどれくらい言葉で表せているか
ある日、オフィスの窓から外をながめると、緑の木の葉がみえる。
ぼくの身には「緑の木の葉がみえる」という出来事が起こっている。これを、言葉をもちいて正確に表現しようとすると、たちまち困難におちいる。
「木の緑の葉がみえる」という言葉をしゃべることによって、ぼくは自分の経験をどれくらい同僚に伝えられているだろう?
この緑の、この木の、この葉をみている。日が暮れてきた。だんだん薄暗くなってくる。みえている葉っぱの色合いも、刻一刻、変わってくる。すこし風もでてきた。
たぶん半分も伝えられていない。とはいえ、同僚を窓のところにつれてきて、木を指さしてみたところで、事態はちっとも好転しない。「ほら、あの緑の木の葉だけどさ」と言葉を使うことになる。
言葉の性質をわかっておこう
言葉は、その性質からして、一般的・間接的・作為的・公共的にしか表現できない。
たとえ百万言をついやしたところで、現にみえていることを、そのままダイレクトに伝えることはできない。言葉はしょせん「事の端」でしかない。
冒頭の問答を考えてみよう。
僧は「言葉であらわそうとすると真実から遠ざかるといいますが」と釘を刺したうえで、「どうか言葉を使わずに教えてください」と言葉を使ってリクエストする。言葉を使わずに教えてほしいなら、言葉を使わずに頼むべきだろうに。
みな世界のなかで生きている。その世界をとらえる有効な手立てとして、ひとは言葉をもちいる。
好むと好まざるとにかかわらず、ひとは言葉を介して世界を受けとめている。言葉にまったく染まらない「出来事そのもの」などというものは、人間にとってほとんど無意味なものだ。
なぜ、言葉を使うのか?
僧は「言葉であらわそうとすると真実から遠ざかる」と前提することによって、みずからの世界を限定している。それを受けて、「自分で自分の首をしめおって」と玄沙は苦笑い。
すると僧は「なるほど、それが正しい言葉の使いかたなのですね」と、ものわかりよく事を片づけようとする。「このお調子ものめ」と玄沙は叱りつける。
玄沙は僧のなにを叱っているのだろう? 玄沙の真意を知るためには、ひとが言葉をもちいて「なにをしているのか」ということをわきまえておく必要がある。
言葉にするときに気をつけるべきこと
ひとが世界を受けとめ、行動するさい、言葉はきわめて重要なはたらきをしている。ただし言葉は、ひとの行動から一歩はなれた間接的なところにあって、はじめて言葉として機能する。ひとの行動とピッタリと隙間なく密着した言葉は、おそらく悲鳴や掛け声にしかならない。
世界を間接的に受けとめられるからこそ、ひとは言葉をうまく使いこなせる。
こういう言葉のもっている本質的な間接性をわきまえず、言葉をすぐに現実とむすびつけ、それを発した「責任」を追及しようとすると、とたんにギクシャクしてくる。
病気の診断とは、症状に病名を与えることだ。病名を与えたからといって、病気が治るわけじゃない。しかし病名が与えられて、はじめて治療はスタートできる。
仕事をスムーズにおこなうためには、現実と言葉との「つかず・はなれず」の関係をわきまえておかなければならない。
山田史生(やまだ・ふみお)
中国思想研究者/弘前大学教育学部教授
1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学大学院修了。博士(文学)。専門は中国古典の思想、哲学。趣味は囲碁。特技は尺八。妻がひとり。娘がひとり。
著書に『日曜日に読む「荘子」』『下から目線で読む「孫子」』(以上、ちくま新書)、『受験生のための一夜漬け漢文教室』(ちくまプリマー新書)、『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)、『中国古典「名言 200」』(三笠書房)、『脱世間のすすめ 漢文に学ぶもう少し楽に生きるヒント』(祥伝社)、『もしも老子に出会ったら』『絶望しそうになったら道元を読め!』『はじめての「禅問答」』(以上、光文社新書)、『全訳論語』『禅問答100撰』(以上、東京堂出版)、『龐居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)など。
■新刊のご案内
「極限の思考へ全身ダイブ!途方に暮れる自由すらも味わい尽くす」
植原亮氏(科学哲学者/関西大学総合情報学部教授)推薦!
クセになる禅問答
『クセになる禅問答』山田史生著、ダイヤモンド社刊
★こんな方におすすめ
・論理的思考力をつけたい
・常識を超える発想力がほしい
・教養を高めたい
・朝礼やスピーチのネタに困っている
「答えのない」禅問答で考える力を磨く
禅問答とは、禅の修行において行われる、禅者の言動や問答などのこと。
常識的な発想では理解困難だったり解決不可能だったりで、それを考えさせ悟りへと導きます。
だ、「非常識的」ではあるが、「非論理的」ではないのがおもしろいところ。
この「ちぐはぐで分かりにくい問答」を、あえて「考える」ためのエクササイズとして読み解きます。
本書は、「語録の王」と称される『臨済録』を超解説。
『臨済録』とは、唐の時代の中国で活躍した臨済義玄という僧の説法や問答などをあつめたものです。
そのなかから、選りすぐりのものを解説しています。
それぞれの問答をじっくり味わえるよう、背景が理解できるイラストを入れています。
【本の掲載の禅問答の一部】
三度問うて、三度打たれる/トラのひげをひっぱりおった/無事であればよいとおもうな/地べたの線は売ってこれたか/なんたるカチカチのウンコ/いえてもダメ、いえなくてもダメ/よくきたのか、わるくきたのか/けっきょく意味などない/一銭、めぐんでやろう/足を洗っておるところだ/ひっくるめて生き埋めだ/叱られても眠りつづける/「お大事に」といって去る/お膳をひっくりかえす/野菜を生で食らう/鈴の音とともに去りぬ
クセになる禅問答
山田史生 著
<内容紹介>
ちぐはぐで分かりにくい禅問答を「考える」ためのエクササイズとして読み解く。それぞれの問答の背景が理解できるよう、丁寧な解説とイラストを入れて解説。すぐに「わかる」ものより、なかなか「わからない」ものをわかるほうがずっとおもしろい。わからない不安がおもしろさに変わる本。
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