🎑7)─1─柳宗悦と民芸。「芸術は高尚であるべき」という「常識」にノーと突きつけた。~No.10No.11 

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 日本の文化・芸術は、価値はあるが高尚ではなく、優れてもいないし貴重なものでもなく、天狗になって自慢するほどのでもない。
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 2024年8月23日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「芸術は高尚であるべき」という「常識」にノーと突きつけた日本人がいた…柳宗悦がたどり着いた「民芸」という答え
 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」
 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
 「美術家」と「職人」
 写真:現代ビジネス
 明治期の思想家、岡倉天心は「美術家の覚悟」という講演のなかで「凡庸の職工人たるに至りては、何等の点にか特殊の尊敬を払うべき」と主張していた。天心は「美術家」と「職人」、あるいは「工人」とをはっきりと区別し、「工人」を「米櫃のために制作をする人」として、はっきりとおとしめる言い方をしている。
 しかし「工人」、あるいは工人が作り出す「工芸」は低い価値しか持たないのかというのは、深く考える必要のある問いであろう。たしかに「芸術のための芸術」、つまり他の目的のために作りだされる芸術ではなく、純粋に芸術的・創造的意欲から生みだされる芸術にこそ価値があるという考え方もある。そこには一理あるが、しかし生活のなかにある工芸のなかにもまた美が存在するのではないだろうか。
 そのことをとくに主張した人に柳宗悦がいる。柳は名もなき職人が作り、民衆がその日々の暮らしのなかで用いている器や家具、織物の美に注目し、「民衆的工芸」、つまり「民芸」の価値を再認識し、手仕事の文化を守り育てる運動、いわゆる「民芸運動」をリードした人として知られる。その代表的な著作の一つである『工藝文化』(一九四二年)のなかで柳は、美術を上に置き、工芸を下に置くような見方に、明確な反対の声を挙げている。
 『工藝文化』のなかでも言われているが、絵画や彫刻はもともと生活と密接に結びついたものであった──「生活」のなかには衣食住だけでなく、宗教に裏打ちされた生活をも含めて考えてよいであろう──。そこでは作り手の創意ということよりも、生活上の必要性の方が、より大きな意味をもっていた。そういう意味で、もともとはすべての絵画や彫刻が工芸性を有していたと言ってもよい。つまり「美術」というもの、言いかえれば、見るためだけに描かれた絵や、見るためだけに刻まれた仏像というものはなかったのである。
 近世における個人の自覚──柳は「我の自覚」という言い方をしている──を経て、はじめて「美術」が生まれたと言うことができる。個人の創意(creativity)に基づいて、あるいは画家自身の個性を表現するために絵を描くということがなされたのである。
 「美の大道」とは
 そのように見るために描かれ、刻まれるということ、言いかえれば創作が自律的(autonomous)なものになるとともに、美術と工芸とが分離したのである。そして美のためにという「純粋性」の故に、美術が上位におかれ、生活のためにという「不純性」の故に、工芸の方は下位に置かれた。
 それに対して柳は、生活と結びついた美は、ほんとうにおとしめられるべきものであろうかという問い直しを行ったのである。
 そういう問い直しの根底にあったのは、柳の独自の美の理解であった。それを柳はこの著作において「無事の美」と表現している。この表現は禅からとられたものである。たとえば『臨済録』において「無事はこれ貴人、ただし造作することなかれ」という表現がある。無事の境地にすむ人こそ貴いのであり、強いて事を作為するようなことをしてはならない、という意味であるが、このようなことばを踏まえて「無事の美」ということが言われている。
 近世、あるいは近代における個人の自覚に基づいた天才の芸術においては、個性的なもの、卓越したもの、非凡なもの、日常性を超えたものが価値のあるものとされた。言いかえれば、強烈なもの、刺激の強いものが美とされた。そういったものをあえて作りだすところに芸術の意義が見いだされたと言うことができる。
 それに対して柳は、本当の意味で人間を幸福にするものは、そのような偉大な美ではなく、生活のなかに現れる「尋常の美」ではないのか、ということを主張したのである。もちろん柳も天才の偉大な美を否定しようとしたわけではない。そうではなく、それとともに、「個人の泉からは発しない美」というものがあるのではないか、ということを言おうとしたと考えられる。
 偉大な天才的芸術家が生みだす美は、道にたとえれば、凡人が決して歩むことのできない険阻な道である。それに対して、工芸品がもつ美は、誰でも行くことのできる平坦な道である。もちろんそれなりのものを作り出すためには修業が求められるが、しかし、修業さえ積めば、天才でなくてもその美を生みだすことができる。そういう観点から言うと、天才が歩む険阻な道は、むしろ「傍系の道」であって、工芸品の美の方が、「美の大道」なのではないか、ということを柳は主張しようとしたのである。
 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
 藤田正勝
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