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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族は、数万年前から自然的宗教的文化的に花を愛(め)でる珍しい民族である。
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花を愛する心は、神道価値観の日本人、キリスト教価値観の西洋人、儒教価値観の中華人(中国人・朝鮮人)とは三者三様で微妙に違う。
人間は、同じ人間だから同じとは限らない。
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日本は、借景までも取り込んだ宗教的庭園文化、土弄りの箱庭文化。
西洋は、都市工学に基ずく高度な科学的公園文化、趣味人・教養人によるガーデニング文化
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日本のお花見・宴会文化は、西洋のピクニック・レジャー文化とは全然違うし、もしあれば中国や朝鮮の余暇文化とも違う。
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現代の超難関校出の高学歴な政治家、官僚、企業家・資本家・資産家などの富裕層には、江戸時代の上級武士や豪商・豪農に比べて金儲けの才は長けているが芸能・芸術などの文化と宗教の素養がない。
たとえ彼らが花を好んとしても、民族的に愛でていたわけではない。
日本独自の文化を破壊し消滅させる事に生き甲斐を感じる日本人が存在する。
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昭和中頃までの民族的庶民文化、経済的に貧しくとも精神的に豊かな中間層が人口増加で維持されていたからである。
日本の庶民文化は、西洋の大衆文化とは違っていた。
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2021-11-21
🏕29)─1─日本文化の自然哲学は小さく狭い駅弁と盆栽に込められている。~No.54No.55
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2023年1月31日 note「第1回 江戸っ子に人気の花の名は・・
日本花卉文化株式会社
江戸のまちでは、子どもから大人まで、武士から町人まで、さまざまな人が草花を育て愛でる趣味を持っていました。時には特定の花が人気を集め、大ブームに発展することも。そんな江戸園芸文化の一端をイラストと手書き解説でご紹介します。
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江戸時代を通して流行した花には、椿・菊・牡丹などがありました。
朝顔のブームは2回訪れており、いずれも江戸時代後期、庶民の生活も安定して文化が成熟した頃のことです。幕末には、約1200系統もの朝顔が生まれたとも言われています。
さまざまな色や形の朝顔が、さまざまな人の家の軒先を照らしていたであろう江戸の朝。そんな朝の風景に居合わせてみたかったな、と思うのでした。
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【参考文献】
監修・竹内誠『ビジュアル・ワイド江戸時代館第2版』小学館
監修・河合敦『図解 江戸の遊び事典』学習研究社
石川英輔『江戸っ子は虫歯知らず?<江戸文化絵解き帳>』講談社
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2024年9月号 WiLL「世界の潮流は右旋回
自国ファーストがなんで極右か
岩田温 施光恒
万国の庶民よ、立ち上がれ──
リベラルとグローバリストから政治の主導権を取り戻す
……。
昭和に回帰せよ!
岩田 一般国民を豊かにする経済政策は決して難しいことではない。古き良き〝日本型経営〟に回帰すればいいだけの話です。過去の姿をそのまま再現することは難しいかもしれない。しかし、カントのいう『統整的理念』、目指すべき理念として掲げることは間違っていません。
……。
岩田 私は断然、昭和の価値観を支持します。近ごろ『それは昭和の価値観だよ』などとバカにするような言説が飛び交っている。しかし、昭和なくして今の日本はありません。戦争には負けましたが、奇蹟の復興を遂げたのは昭和の先人たちだが残した遺産を食いつぶしているようなものです。私はなにより、昭和天皇の御代に生まれたことを誇りに思っています。
いや、江戸時代に回帰せよ!
施 経済停滞は文化の衰退も招きます。日本が世界に誇るマンガやアニメ、ゲームなどのサブカルチャーは、昭和から平成初期にかけて魅力的なコンテンツが量産された。庶民が豊かだったからこそ、趣味や娯楽にカネと時間をかける余裕があったのです。
岩田 1970年代、日本は〝一億総中流社会〟と呼ばれました。自分の生活水準を『中の中』と認識する日本人が最も多く、『上』あるいは『下』という回答は一割未満だった。アイドル文化が全盛を迎えたのも昭和40年以降です。分厚い中間層がサブカルチャーを消費していた。
施 政府はクールジャパン戦略を掲げ、海外に日本のサブカルチャーを売り込もうとしている。でも、最大のクールジャパン戦略は庶民の所得向上。好きなことにカネと時間を使える環境があれば、自然発生的に面白いコンテンツが育つものです。優良な作品が生まれれば、海外もそれを輸入してくれる。
岩田 文化華やかりし頃といえば、元禄時代ですね。演劇や文学、美術などの様々な文化が発展しました。元禄文化を代表する人物としては、近松門左衛門と井原西鶴が挙げられる。彼らは町人の姿を描き、その作品は町人に愛された。
施 庶民の、庶民による、庶民のための文化ですね。江戸時代の日本が平和で豊かだったからこそ、ハイレベルな芸術が生まれたのです。
岩田 私は文楽が好きです。とくに感銘を受けたのが、近松の『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』という人形浄瑠璃。初めて観劇したとき、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』に並ぶ傑作だと思いました。文楽は3人がかりで一体の人形を動かす。太夫の語りと哀愁ある三味線の音に合わさると、人形が人間よりも人間らしく見える瞬間がある。
物語の内容も素晴らしい。『心中天網島』では、毅然と生きた女性たちの姿が描かれている。現代のフェミニストが唱える〝女性のあるべき姿〟よりも自由で強い生き方をしています。
園芸とガーデニング
施 私は一時期、園芸に熱中していたことがあります。東京出張のついでに入谷のアサガオ市を訪れると、数十軒の朝顔業者が連なり、早朝から賑わっている。浅草のホオズキ市も盛況でした。
アサガオ市もホオズキ市も、その伝統は江戸時代に遡(さかのぼ)ります。江戸の人々は将軍から庶民まで園芸を楽しんだ。家康をはじめとする徳川初期の将軍は花好きで、それに影響されたのか、自藩で花づくりを奨励した大名も多かった。
岩田 江戸時代は庭園づくりも盛んでした。各藩が競い合うように庭園を築造することで、高度な造園技術が生まれた。
施 熊本藩は武家の精神修養の一環として、家臣に花づくりを奨励していました。現在でも『肥後六花』(菊、椿、山茶花{さざんか}、菖蒲{しょうぶ}、朝顔、芍薬{しゃくやく})と称される花づくりの伝統が続いている。
岩田 武士階級が愛でた園芸文化が徐々に庶民層にも広がっていった。
施 幕末に来日したフォーチュンという英国の植物商が、次ぎのように記している。
『日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな花を少し育てて、無上の楽しみにしている』
江戸の園芸は世界一の繁栄を誇り、海外のガーデニングにも影響を与えた。例えば〝斑(ふ)入り〟の植物。斑入りの植物とそれを愛でるセンスは、日本から欧州に持ち込まれたものです。浮世絵のジャポニズムが西洋文化に与えた刺激よりも、園芸植物の影響のほうがはるかに大きいと評する学者もいる。
岩田 江戸時代になぜ、園芸文化が花開いたのか。
施 日本人に中流意識が広まっていたからです。昭和から平成の時代にマンガやアニメが流行したように、分厚い中間層が良質な大衆文化を生み出してきたのです。
帝国主義の再来
岩田 日本の古き良き時代を懐古してしまいましたが……。」
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note
花を愛でることで得られる心の安らぎ|中村雄暉
2024年4月3日 18:27
今日は、私たちの日常生活における小さな幸せについてお話ししたいと思います。それは、花を愛でることで得られる心の安らぎについてです。
私たちは、忙しい日々の中で、自然の美しさを忘れがちです。しかし、たとえ一日がどれほど忙しくとも、花を見るだけで心が落ち着き、一瞬で日々のストレスが軽減されることをご存知でしょうか?
花は、その美しさだけでなく、香りや色彩によっても私たちの心を癒してくれます。例えば、バラの香りはリラクゼーション効果があり、ブルー系の花は心を落ち着ける効果があると言われています。
また、花を愛でることは、心の健康にも良い影響を与えます。花を見ることで生じるポジティブな感情は、ストレスを軽減し、リラクゼーションを促進します。これは、心地よい環境が心の健康に良い影響を与えるという、環境心理学の基本的な考え方を裏付けています。
さらに、花を育てること自体も心の安らぎをもたらします。花を育てることで、生命の成長を目の当たりにし、その過程を楽しむことができます。
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株式会社 medelu(メデル)
花を愛でる人の声
お花を愛でるお客様の声2024.01.01
「花を愛でる」・・・花をこころで見ることで、自分以外の人や自然を想う利他的な心を育むこと。花を綺麗と感じたり、癒やされるよりも一つ深い心の動き。
「桜の花びらが散る姿を見て人生の儚さを想える
一輪の花を見て一日でも長く咲いて欲しいと自然の命を想える
花束を選びながら大切な人を想える」
人だけができる誰かや何かを想える利他的なこころ。
花を愛でる素晴らしさを多くの人に伝えたい。
花を愛でる人を増やして、温かさに包まれる社会をつくりたい。
花を愛でる人を増やすために、皆様の力をかしてください。
花を愛でる人達の温かいこころをご紹介させて頂き、花の素晴らしさを広めさせてください。
■ご紹介のお礼に
Instagram、Twitter、YoutubeなどのSNSでmedeluをご紹介して頂いた方の中から直近のブーケの代金を100%キャッシュバック致します。
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花 を 愛 す る 心 中村 浩
牧野富太郎先生の句に「草を褥(しとね→布団の意味)に木の根を枕、花に恋して九十年」というのがあるが、牧野先生は本当に花を愛しておられたと思う。先生は、花を細かく観察し、その仕組みの巧みさに感嘆の声を発せられ、いつも“自然は巧緻にして完璧だ”ともらしておられた。先生は花を愛されたといっても極めて広範囲で、その観賞は雑草の小さな花にまで及んでいた。
花の美しさを知る人は多いが、花の仕組みにまで目の届く人は少ないであろう。しかし、本当の花の美しさは、外形だけではなく細かい構造にもあると思う。ランの花などは花の仕組みを知っていなければその面白さはとうてい理解できないであろう。
花というものは、元来人間の目を楽しませるために咲くものではなく、生殖の目的で咲くものである。つまり子孫維持の大目的のためにである。花は科学的には生殖器にほかならない。
花が実を結ぶためには、雌しべの柱頭に花粉がついて受粉が行われなければならないが、この花粉の運搬は昆虫の媒介によることが多い。このため虫媒花では、昆虫の気を引くために美しい花弁で着飾り、香りを発し、甘い蜜まで準備する。花粉が風によって運ばれる風媒花では、花の装いは極めて地味で人目を引くことはないが、これは美しく着飾る必要がないからであろう。
園芸が盛んになると、人間はより美しい花を人工的に作り出そうとし、異種間の交配などによって新しい品種を数多く作り出すようになった。八重咲きの花などは人工的に作り出された典型的のものであろう。八重咲きの花には雄しべが花弁に変化したものが多いが、雄しべが花粉をつくる機能を失っては、花そのものの使命である結実を行うことができなくなる。
人間は全く勝手なもので、自分の目を楽しませるためには自然の摂理をねじ曲げてでも改良を試みてきた。このため草花は、野生のものとは比べものにならないほど立派で美しく、色彩も豊富になったが、花自身にとっては、奇形や不具にされてしまったわけである。
欧米では園芸草花を観賞し、野生の花はなおざりにされているきらいがあるが、日本人は野の花の美をもよく知っていると思う。真に花の美しさを知るには野の花の美しさをまず知らなくてはなるまい。
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江戸東京博物館
花開く 江戸の園芸
世界がビックリ! 江戸のガーデニング
今から約150年前に来日したイギリスの植物学者、ロバート・フォーチュンが驚いたこと、それは日本人がみな花好きであるということ。花や緑を愛する心や、上手に育てるための技術は、大名から町人、農民まで、身分を超えて大切にされていました。 この展覧会では、花や緑に親しむ人びとが描かれた浮世絵や屏風、現代と変わらない技術が満載の園芸書、丹精を込めて育てた自慢のひと鉢が描かれた刷物などを通して、平和な時代に花開いた江戸時代の園芸文化を紹介します。たくさんの花と緑が、みなさまのお越しをお待ちしています。
歌川国貞(三代豊国)画「四季花くらべの内 秋」嘉永6年(1853)個人蔵<
秋の夜、縁日の植木市に持ち込まれた多くの園芸植物が、蝋燭の灯りに照らし出され、美しく描き込まれている。地面には植木屋の手になると思われる根巻きされた植物が並び、植木鉢の植物とともに売りだされている。
開催概要
会期 2013年7月30日(火)~9月1日(日)
(会期中、展示替えがあります)
会場
江戸東京博物館 1階展示室 (東京都墨田区横網1-4-1)
電話番号:03-3626-9974(代表)
展示構成
序章 プラントハンターの驚き
プラントハンターとは、新種の植物を採取するために、西欧諸国から全世界へ派遣された植物学者のことです。ここではイギリスから日本へ派遣されたロバート・フォーチュンが賞賛した、世界一の植木屋集中地帯、染井・巣鴨周辺、一大庭園と化していた向島など、緑あふれる美しい江戸の都市景観をフォーチュン自身の言葉とともに紹介します。
1章 花と緑の行楽文化
四季折々の変化を敏感に感じ取り、たくみに年中行事へ取り込んできた江戸時代の人びとは、信仰と娯楽を兼ねて江戸の名所を巡る文化を育んでいきました。江戸で人気を博した名所は、松や桜・梅といった伝統的な樹木が植えられた寺社が多かったのですが、花卉園芸が普及し、より多様な植物への関心が高まると、町人が開設した庭園が新しい名所として登場してきます。ここでは行楽文化の隆盛と花卉園芸の普及が、江戸の植木屋の発展と名所巡りのあり方を変えていく様子を紹介します。
歌川国貞(三代豊国)画「隅田川東岸花見図」文化~天保年間(1804~43頃)当館蔵
三囲稲荷付近における花見の景色を描いた作品。桜・松といった伝統的な人気樹木に交じって、花壇に植えられた園芸植物が美しい風景に花を添えるように描き込まれている。
第1節 四季折々の楽しみ
今も昔も散りゆく桜の美しさに心を動かされない日本人はいません。満開の桜をながめつつ、親しい仲間と飲食を共にする花見の原型がひろく庶民に浸透したのは江戸時代のことでした。当時の人びとが楽しんだのは、新春の梅見や花見、秋の紅葉狩りといった現代にも受け継がれている風習ばかりでなく、秋の虫聞きや冬の枯野・雪景などのように今ではすっかり廃れてしまったものもありました。ここでは、四季折々に変化する自然のなかに楽しみを見つけ出して文化の域にまで高めていた様子を紹介します。
第2節 植木屋伊兵衛の登場
書物の刊行が武士や僧侶といった知識階級の独壇場であった17世紀末、自ら野人と名乗ったひとりの農民が園芸史上に輝く園芸書を刊行しました。その人とは染井の植木屋、伊藤伊兵衛、その書名は『花壇地錦抄』です。植木屋伊兵衛が著した園芸書は、植物の栽培方法を平易な言葉で解説しており、庶民が著した庶民のための園芸書であった点に特徴がありました。伊兵衛の園芸書は、幕末期に来日したロバート・フォーチュンが感嘆した園芸の庶民性という日本の特質の形成に大きく寄与しました。ここでは植木屋伊兵衛の事績を、彼が残した著作を中心に紹介します。
近藤清春画「武江染井翻紅軒霧島之図」享保年間(1716~35)豊島区立郷土資料館蔵
植木屋伊兵衛の庭を描いた本図には、樹木を龍虎の形に刈り込んだ現在のトピアリーなどが描き込まれています。
第3節 メディアの発達と行楽文化
明和2年(1765)に確率された多色摺木版画の技術は、それまで文字中心であった名所案内にも革新をもたらしました。錦絵という新しいメディアの登場によって、美しい花や珍しい花に関するニュースは、より正確に伝えられ、多くの人びとを動員する影響力をもつようになります。ここでは、錦絵の登場というメディアの革新が、新しい花の名所を生みだしたり、既存の名所に園芸植物が植え込まれることによって一層美しさが増し、これによって行楽文化の発展が促されていった様子を様々な名所に即して紹介します。
第4節 梅屋敷と花屋敷-民間庭園の登場-
幕府が開かれて100年余り経過した享保年間、時の将軍徳川吉宗は、飛鳥山・品川御殿山・墨堤・小金井堤など、江戸近郊の各地に桜を植樹しました。 これらは江戸で人気の花見の名所へと発展していきました。また園芸植物の美しさを伝えるのに適したメディアの革新によって、名所廻りは一層活発になりました。やがて寺社中心であった江戸の名所のなかに、百花園のような美しい草花を備えた民間庭園が誕生していきます。江戸時代後期になるとこうした流れはさらに加速し、引札のような宣伝媒体を活用し、積極的に集客を図る花屋敷も各地に誕生しました。
鍬形蕙斎画「角田川花屋敷梅屋図」江戸後期 当館蔵
文化2年(1805)に開園した向島百花園付近を描いた鳥瞰図
2章 植木鉢の普及と高まる園芸熱
自然とともに暮らす素朴な生活文化をつくりあげてきた日本人が、販売するために植物を栽培したり、生活を飾るために植物を購入し始めたのは江戸時代のことです。園芸植物が商品となると、栽培にも創意工夫を凝らす動機が生まれ、より洗練された品種の生産が促進されていきました。こうした変化と大きく関係していたのが植木鉢の普及です。植木鉢は植物の運搬を容易にし、販売と栽培の両面からそれまでの園芸のあり方に大きな変化をもたらしていきました。本章では、植木鉢の普及によって園芸文化のあり方が大きく変質していった様子を紹介します。
第1節 植木鉢のインパクト
花卉園芸に不可欠な用具となっている植木鉢が本格的に普及し始めるのは江戸時代の中頃、享保~元文年間(1716~40)のことでした。花卉園芸が本格的に普及する前段階では、貧乏徳利などを加工して植木鉢に仕立てた代用植木鉢の事例が多くみられましたが、やがて専用の植木鉢が商品化されていきました。ここでは、江戸の植木屋跡地の発掘調査によって出土した植木鉢など、さまざまなタイプの植木鉢を紹介します。
戸田熊次郎著・狩野勝波画「久留米藩江戸勤番長屋絵巻」明治初期 当館蔵
江戸勤番武士の長屋での日常生活を描いたこの作品には、朝顔の栽培を楽しみ、いやされていた様子が活写されている
坂昇春画「赤坂御庭図(部分)」文政末期(1827~30)和歌山市立博物館蔵
紀州藩赤坂邸の庭園を描いた本作品は、大名庭園に多くの植木鉢が並ぶようになっていったことを示す。
第2節 暮らしを彩る草花
手軽に持ち運べるようになった植木鉢が普及し始めると、人びとの生活空間にも変化が見られるようになりました。美しい花を咲かせる草花によって室内が彩られるようになり、庭にも植木鉢が並び置かれた棚がみられるようになっていきます。ここでは生活が園芸植物によって豊かに彩られるようになっていった様子を紹介します。
第3節 商品となった草花
園芸植物への需要の増加と植木鉢の普及は、植木鉢に入れた草花の商品化を促していきました。植木鉢を担ぎ売りする商人は、生産者が販売も兼ねる場合、植木屋から仕入れて販売する場合がありました。販売する場は、縁日での露地売りから、移動しながらの振り売りまで多様でした。商品となった植物のなかでも、福寿草や梅は、新春を寿ぐ新たな贈り物として人気を博しました。また縁日では季節ごとに植木鉢に植えられた草花が売りだされ、その様子は四季の風物詩として多くの絵に描き込まれています。
鳥居清長画「風俗東之錦 植木売り」天明3~4年(1783~84) 個人蔵
歌川芳玉画「見立松竹梅の内 うゑ木売の梅」弘化年間(1843~47年)個人蔵
歌川国芳画「百種接分菊」弘化2年(1845) 当館蔵
第4節 伝統文化に浸透する草花
園芸植物の普及は、次第に生活から文化の領域へと広がっていきます。芝居に取り入れられた草花、狂歌や川柳、文芸作品のなかにも草花を取り入れたものが多くみられるようになっていきました。芝居絵や文芸作品の挿絵などをとおして、江戸文化のなかに草花が溶け込んでいった様子を紹介します。
3章 武士の愛した不思議な植物たち
江戸時代の鉢植え植物のなかでも、とても美しくかつ珍しい植物は“奇品”と呼ばれて珍重されました。武士たちが限りない愛情を栽培に注いだ奇品は、花の美しさを基準とする現在の感覚からみれば、到底美しいと形容できるものではありませんでした。にもかかわらず一部の武士たちは手間と時間を惜しまず、葉の形や斑の入り方・色などが他に類をみない奇品を育てることに熱中しました。ここでは武士たちが奇品に注いだ深い愛情と世界に類をみない独特の奇品文化を紹介します。
「椿図屏風」年未詳 個人蔵(千葉市美術館寄託)
椿の立花図と接ぎ木によって栽培された椿の図を組み合わせた興味深い作品。室町時代以来の伝統文化である立花に江戸時代の園芸植物が融合していったことを示している。
関根雲停画「小不老草名寄」天保3年(1832)雑花園文庫蔵
天保3年、幕臣水野忠暁が選者となって開催された品評会に出品されたコオモト90点を植物画の名手関根雲停が15点ずつに分けて描いて版行したもの。
関根雲停画「金糸南天」江戸後期 雑花園文庫蔵
第1節 武士の園芸
伝統的な名所の見立てと松梅桜などの伝統樹木によって構成されることの多かった大名庭園にも、植木鉢とその植木鉢を育てる温室、すなわち室(むろ)などもみられるようになっていきました。また植物への学問的な関心を高めていった武士たちは、同好の士を集めた植物研究サークル(連、会、側)を結成し始めます。そのなかから岩崎灌園、毛利梅園、馬場大助のように植物図鑑の編纂に心血を注ぐ幕臣も現れました。植物に注がれた武士達の熱い眼差しは、植物学の発展ばかりでなく園芸技術の向上に寄与し、奇品栽培を促すことになりました。
第2節 奇品栽培の情熱
泰平の世が続く江戸社会で最初に“奇品”栽培に情熱を傾け始めたのは武士たちでした。かれらは植木鉢に入れた奇品の栽培に情熱を注ぎ、これらを持ち寄って比較して、その結果を美しい絵入りの印刷物に仕立てて仲間うちに配付しました。ここでは奇品好きの武士たちによって見いだされた植物、なかでも寛政期に一大ブームを巻き起こした橘、徳川家康との由緒を誇る常緑の縁起物として人気を博した万年青をはじめ、松葉蘭、南天、福寿草、長生草などの奇品を描いた作品を紹介します。
栗原信充著「松葉蘭譜」天保7年(1836) 雑花園文庫蔵3_3l
奇妙な形状を特徴とする松葉蘭は生きた化石ともいわれた。「金生樹譜」シリーズの1冊として刊行。「金生樹」とは金の成る木を意味し、松葉蘭が高価な値段で取引された奇品のひとつであることをよく示している。
萬花園主人撰・服部雪斎画「朝顔三十六花撰」嘉永7年(1854) 当館蔵
江戸期を通じて最高の出来映えと評価される変化朝顔の図譜。掲載されている朝顔は、およそ朝顔の原形をとどめない程に著しく変化しており、江戸期の栽培技術の高さをうかがわせる。
4章 江戸園芸三花 -朝顔・花菖蒲・菊-
このコーナーでは、江戸の花卉園芸のなかでも特異な発展をみせた花菖蒲・朝顔・菊の三花に焦点をあてます。これらはいずれも武士が深くかかわって園芸品種の基礎をつくり、やがて植木屋がこれを受け継ぎ発展させていきました。
第1節 朝顔の変化を追い求めて
早朝に咲いて瞬く間に萎れる朝顔の特性は、散りゆく桜のイメージに一脈通じ、日本人の嗜好に合致しました。俳諧をたしなむ多くの人びとの詩情をかきたて、朝顔人気に拍車がかかりました。やがて突然変異が葉や花に変化をもたらす変化朝顔を栽培し、これを持ち寄って較べ合う花合わせが盛んになっていきました。 ここでは園芸植物として伝統文化に溶け込んでいった朝顔と江戸の園芸文化のなかでもひときわ異彩を放った“変化朝顔”の世界を紹介します。
第2節 花菖蒲に魅せられた人びと
花菖蒲の品種改良に生涯をささげた武士がいます。京都町奉行など幕府の要職を歴任した旗本、松平定朝(1773~1856)です。松平定朝は花菖蒲に関するもっとも完成度の高い園芸書「花菖培養録」を著し、生涯に作り出した花菖蒲の品種は300に及んだといわれます。定朝は自ら作り出した品種を、同好の士に惜しげも無く分かち与え、花菖蒲栽培の普及につとめました。その結果、堀切などに菖蒲園が誕生することになりました。ここでは定朝ゆかりの資料を中心に美しい花菖蒲の世界へとご案内いたします。
松平定朝画「花菖蒲画讃」 安政2年(1855) 雑花園文庫蔵
第3節 菊花のたのしみ
栽培から菊人形まで菊は江戸時代以前から多くの人びとに愛された園芸植物です。江戸時代になると菊の栽培は、大名から庶民までひろがりました。菊人気をあてこんだ近郊の植木屋たちは、菊を使って様々な形をつくる興行を始め、やがて現代に続く菊人形を生み出していきました。
葛飾北斎画「菊図」弘化4年(1847) 一般社団法人 北斎館蔵
江戸近郊において菊花興行が盛んに行われていた弘化4年、88才の葛飾北斎が描いた本作品は、発展した菊の品種改良の有様を如実に伝えてくる。
終章 園芸文化の明治維新
江戸から東京へと移りゆく時代の流れの中で、江戸の園芸文化は大きな曲がり角を迎えます。西欧から輸入された洋薔薇の美しさは文明開化の日本において急速に受け入れられていきます。これと対極的に斑入りの常緑植物にあれほど惚れ込んでいた奇品栽培家の姿は次第に影を潜めていきました。植物に注がれる審美の基準は、近代化の過程で逆転したまま現代に至っています。展覧会のフィナーレをかざるにあたり、江戸の園芸文化の近代化を見通し、今後の園芸文化の行く末を考えたいと思います。
勝川春好(二代)「薔薇図」 文化12年~文政2年(1815~19)年頃 個人蔵
バラを単独で描いた珍しい錦絵。現在、世界中で最も愛好されている植物であるバラは、日本にも自生していたが、なぜか人気を博した痕跡がない。バラをめぐる評価の差は江戸時代の園芸の特質を読み解く鍵になるのではないだろうか。
関連事業
「花開く 江戸の園芸」展 記念講演会「江戸の園芸文化 -将軍から庶民までの楽しみ-」
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公園文化WEB
第9回 公園文化を語る
「公園文化を語る」は、様々な分野のエキスパートの方々から、公園文化について自由に語っていただくコーナーです。
第9回目は、現国土交通省入省後、主に都市公園の整備を中心とした行政に携わり、沖縄の首里城復元事業、国営吉野ケ里歴史公園計画策定などのプロジェクトの他、日本の伝統園芸植物の保全手法の研究などを進めてきた、東京都市大学環境学部客員教授の加藤真司氏にご寄稿をいただきました。
東京都市大学環境学部客員教授
加藤真司氏
日本の園芸伝統文化
五色の散り椿(地蔵院)
我が国の歴史は、鎌倉時代や江戸時代にように政治の中心都市によって区分されており、その中でも安土桃山時代が織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代を指していることは承知の通りであるが、この桃山が意味するところを殆どの人は知らないのではないだろうか。実は、豊臣秀吉の居城だった伏見城にちなんで安土伏見時代と称するところを、伏見城が桃の名所であったことから敢えて安土桃山時代と名付けたようである。しかし、時代考証上はこの命名は正しくはない。伏見城が桃の名所となったのは、廃城となってから近在の百姓が桃の木を植え始めてからであり、それは江戸時代のことである。秀吉は大の椿好きだったようで大名もこぞって椿の名花を献上し、京都の地蔵院には加藤清正が献上したという五色の散り椿の名木が今も残る。おそらく伏見城には椿は多く植えられていたはずなので、本来ならば安土椿山時代と称すべきだったのかもしれない。
秀吉に限らず、家康も園芸にいそしみ、江戸城には花畠までが設けられていた。戦国大名に花は似つかわしくなさそうだが、どうやら彼らは貴族から繋がるステータスとしての園芸文化に憧れていた節が見受けられる。江戸時代になって太平の世が到来すると、庶民までがこの園芸に熱を上げることになる。もともと日本人は自然を愛でる民族ではあったが、それ以上に多くは投機の対象として園芸が営まれていき、下級武士も糊口をしのぐために庭先で園芸に手を染めていった。日本人の珍品好きもあってか、珍しい品種には多額の値がついた。このため、敢えて育てるのが難しくて珍しい品種が作出されていき、この結果多くの品種が生まれ、それらの優劣を競うために相撲のような番付が頻繁に作成されたほどであった。
変化朝顔(くらしの植物苑:佐倉市)
こうした品種を象徴する最たるものは変化朝顔であろう。もともと虫下しの薬としてアサガオの種が輸入されてきたものであるが、日本人はその花を愛で、ついには原型をとどめないほどまでに花の形態を変えていった。こうした形態は、遺伝的には劣性遺伝子の組み合わせによって生じるために、多くの種子を播き、その中から選びぬかれた個体をさらにかけ合わせていって選抜するといった、およそ遺伝の法則を熟知しなければ為し得ないような手間をかけることになる。しかし、こうした園芸品種の作出技術は各々の園芸家の秘伝として秘匿され、およそ学術的に体系化されることはなかった。変化朝顔の最初の記録は平賀源内の著した「物類ぶつるい品隲ひんしつ」に見受けられるが、それはメンデルが遺伝の法則を発表する100年以上も前のことである。場合によれば遺伝の法則は日本の園芸家によって見出されていた可能性もあったわけであり、返す返すも残念なことである。
江戸時代に興隆を見た園芸文化も、明治維新を迎えてからは斜陽に転じ、今ではその担い手も高齢化の一途をたどっている。新宿御苑で菊の管理をしている環境省の管理者にヒヤリングした際には、あと20年もしたら菊の伝承者はいなくなってしまうのではないかと嘆いていた。担い手だけでなく、深刻なのは貴重な園芸品種が無くなっていくことである。原生自然であれば人の関与を無くせば保全することが可能である。しかし、園芸品種は人の関与が無ければ残すことができない。すなわち残す努力が払われなければ残らないのである。
鷲の尾(カキツバタ)
京都の同志社大学キャンパスの北西あたりはかつては室町幕府の置かれた場所で、そこには尼門跡寺院が散見される。尼門跡寺院とは天皇家にゆかりのある者が住職を務めた尼寺のことであり、天皇家に名花が献上されたことから、今もこれらの寺には名花が秘蔵されている。場所は明かせないが、そうした尼寺の一つから五月初旬に「今はちょうど鷲わしの尾おが咲いている」と連絡を受けたことがあった。最初はそれが何の花のことなのか分からなかったが、行って見てみるとそれは今では折鶴と称されるカキツバタだった。江戸時代には「鷲の尾」と呼ばれていた名品である。古い名称が今も受け継がれていたことが意外だったが、それ以上に坪庭に咲く凛とした姿があまりに美しく、思わず鳥肌が立ったことを覚えている。しかし、こうした寺院に園芸植物の専門家がいるわけでもなく、また、今後も伝統園芸に理解のある者が寺を継承するとは限らない。我が国では、バレエやオペラなどの外国の文化振興に対してすら公的支援がなされているにも関わらず、本来日本人が誇りを持って守らなければならない伝統園芸文化については皆無と言っていいほどそうした財政的な支援は見られない。少なくとも都市公園に関与する者として、日本の伝統園芸の保全の必要性は認識していたいものである。
※文中に出てくる所属、肩書等は、掲載時のものです。2017年4月掲載
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