🏯41)─1─日本の武道は明治期に近代教育と近代軍隊の為に作られた新しい概念である。〜No.78No.78 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年8月に開催されたパリ五輪で行われた、ジュウドウ競技は勝ちのみを追求する世界ルールの下での武術であって正々堂々と勝ち負けを決める日本ルールに則った武道ではなかった。
 何時の時代でも、世界は倒すか倒されるかという「力の理論」で動いている。
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 令和6年8月号 正論「令和の教育論
 今こそやるべきは『心の修養』だ  古川雄嗣
 ……
 『道』とは、第一義的には高度に専門化された技芸を意味するが、その技芸の修練を通じて体得すべき世界の根源的な道理も意味する。その修練の過程、簡単に言えば、『心の修練』のこともまた、古来日本人は『道』と呼んだ。
 例えば、少し前の話になるが、2018年のワールドカップにおいて、日本がポーランド戦終盤に採った『パス回し戦術』が物議を醸したことがある。日本は残り10分の時点で0対1で負けていたにもかかわず、自陣でパス回しを始め、そのまま試合を終えた。これは、同じグループのセネガルもコロンビアに0対1で負けていたため、双方の試合がそのまま終了すれば、フェアプレーポイントの差で日本の決勝トーナメント進出が決まるという状況にあったためだ。作戦どおり日本は決勝トーナメント進出を決めた。」
 しかし、この作戦は大変な批判を浴びた。『正々堂々』と戦わないことが『卑怯』だという批判である。セネガルが残り10分で得点しないことを前提にした他力本願な作戦であることも、『情けない』と映った。
 この作戦の是非そのものは、今はどうでもよい。興味深いのは、この種の批判が『サムライブルーがサムライらしくない』という趣旨であったことだ。
 実際、もしヨーロッパのチームが同じ状況で同じ作戦を採ったとしても、あれほどの批判は上がらなかったに違いない。むしろ、『合理的』に『計算』して勝利を追求する点が『ヨーロッパらしい』と受け取ったことだろう。あれほどの批判が噴出したのは、日本のサッカーもまた、『武道』のように捉えられており、選手たちは『サムライ』らしく『正々堂々』『潔く』戦うべきだと観念されていることの現れだったのである。
 『武道』とは何か
 では、『武道』とは何か。武道の思想史に詳しい寒川恒夫氏によると、武道とは『武術による精神修養文化』である(『日本武道と東洋思想』平凡社、2014年)。以下の『武道』に関する記述は、本書に多くを負っている)。
 例えば、全日本柔道連盟など全十団体が加盟する日本武道協議会は、『武道の定義』を『武技の修練による心技一体の運動文化で、心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道』としている。『武道憲章』には、『武道は、武技による心身の鍛練を通じて人格を磨き、識見を高め、有為の人物を育成することを目的とする』とある。『こども武道憲章』はもっと直截(ちょくせつ)に『武道は、礼儀正しさを身につけ、技をみがき、心身をきたえ、りっぱな人になるための修業の方法です』と謳う。『技の稽古や試合の勝ち負けだけを目的にするのではなく』という記述もある。
 このように、『技術』(武技、武術)の習得や向上そのものを目的とするのではなく、それを通じた『修養』(人間形成)のほうこそを目的とするところに、『武道』という概念の本質的な特徴がある。
 このような意味での『武道』は、日本の伝統であるとされていながら、実は近代日本における新たな『発明』でもある。そのあたりの事情を簡単に説明しておこう。
 もともと、武道は『武術』であった。柔道は『柔術』、剣道は『剣術』だった。『武』とは、端的に暴力であり、『武術』とは、暴力によって敵を制圧するための『術(わざ)』、要するに『人殺しの技術』以外のなにものでもなかった。
 しかし、明治近代国家が誕生すると、その武術の担い手としての武士階級は消滅し、軍事は近代兵器を用いた近代軍隊によって担われることになる。伝統的な武術は存在理由を失ってのである。そこで武術は生きる場を求めたのが、警察と学校だった。警察は言うまでもない。問題は学校である。
 国民の鍛練という目的の下に、武術の学校教育への導入を求める動きは早くからあった。だが、これは難航する。ネックになったのが、他ならぬ武術の本質である暴力性だ。これが青少年の教育に適さないとか、安全を確保できないという概念が根強かった。
 そこで、こうした概念を払拭するために登場したのが、『武道』という新たな概念であった。決定的な役割を果たしたのは、『柔道』を発明した嘉納治五郎、そして嘉納の影響を受けた剣道家で内務官僚の西久保弘道である。
 嘉納の業績はよく知られているよう。彼は、柔術が持つ近世性を徹底的に払拭し、これを近代化した。例えば、……。こうして嘉納は、殺傷術であった『柔術』を、人物教育のための『柔道』へと変身させたのだ。
 そして、嘉納がこの『柔道』の『道』という言葉に込めた意味、すなわち心身の修養と人格形成という意味を、武術全体に拡大し、『武道』という新たな概念を誕生させたのが西久保である。
 西久保は、『術』を排して『道』を用いていることに徹底的に拘った。『武なるものは決して技術ではないという概念を明らかならしむる』ためである。こうして彼は、『剣術』『柔術』『弓術』をすべて『剣道』『柔道』『弓道』に仮称。『技術』を本質とする『武術』と決別し、『修養』を本質とする『武道』の概念を確立した。さらに、武道の目的は『武技の習得』ではなく『心身の修養』である以上、それは武技を事とする軍人や警察官に限らず、すべての国民に施されるべきである。そう説いて彼は、学校教育への武道の導入を強力に推進したのである。
 二つの伝統
 西久保を中心に創り出された『武道』概念は、ほとんどそのまま今日に継承されている。例えば彼は、『相手を欺(あざむ)いても如何なる手段を弄してもただ勝てばよろしい……中略……という不真面目なる精神に至っては、まことに情けないではないか』と言う。先に見た現代の日本武道協議会の『こども武道憲章』にある『試合の勝ち負けだけを目的にするのではなく』と言うのと同じだ。……。
 しかし、より重要なことは、いかに『武道』の概念が、このように近代の『創られた伝統』であるとしても、それは近代以前からの伝統とまったく無関係に捏造されたわけではないということだ。
 『武術の修練』と『心の鍛練』とを不可分離のものと捉える見方そのものは、むしろ近世以来の日本の伝統でもあった。
 そこには、大きく二つの考え方があった。一つは、儒者による文武関係論である。例えば中江藤樹は、『文は仁道の異名、武は義道の異名』と説いた。仁と義とが本来一つのものとされるように、文と武とも本来一つである。これが『文武両道』論である。
 そしてこの場合、あくまでも義の徳が『本』であり、武芸の技術は『末』にすぎない。したがって、大事なのはあくまでも『本』である徳の涵養(かんよう)であり、徳を伴わない単なる技術としての武術は、本来の武ではないとされる。これは明らかに、西久保らによって創られた近代の武道論に近い。その思想的淵源(えんげん)は、このような儒学における文武論にあったのである。
 他方、それとは異なる、もう一つの伝統がある。それは、武術を極めるためには心の修養が必要であるという考え方だ。儒者の文武論や近代の文武論が、あくまでも『心の修養』を目的とし、『武術の修練』そのものは単にそのための手段にすぎないと考えるに対して、むしろ『武術の修練』のほうが目的で、『心の修養』はそおのための手段であると考えるのである。
 この伝統は意外に注目されていないようで、現代でもこの種の思想を指し示す研究上の専門用語は存在しないらしい。そこで寒川氏は、これを仮に『心法武術』と名付けている。だが、考えてみれば、近世の武術においてはむしろこちらのほうが主流であったことが容易に合点」がいく。
 時代小説などでも馴染み深い柳生宗矩宮本武蔵を考えてみれば分かるだろう。彼らの剣術に大きな影響を与えたのは禅の思想である。いわゆる『剣禅一如(いちにょ)』も、禅僧の沢庵宗彭(そうほう)が説いたものだ。柳生宗矩の求めに応じて書いたと言われる『不動智神妙録』において沢庵は、執着する心を克服し、『無心』の境地に至ることこそ、あらゆる状況において敵に斬り勝つための極意であると説いた。繰り返しが、ここでは、禅の修行によって煩悩や執着を克服することが、敵に勝つための極意であるとされている。『心の修養』はそのための手段なのだ。
 そうすると、本稿の冒頭に例示した王貞治氏や川上哲治氏、あるいは現代のイチロー氏などは、近代武道よりも、むしろこのような近世の心法武道の伝統に連なると考えたほうがよい。
 言うまでもないが、彼らは人格を磨き心を修養するために野球をやったのではない。野球で勝つためには、心の修養が必要だと考えたのである。広島カープ阪神タイガースで活躍した金本知憲氏や新井貴浩氏が、心を鍛えるために護摩行に励んだのも同じである。
 他方、同じ野球でも、高校野球では事情が異なる。高校野球はむしろ、近代武道の発想で成り立っている。人格の陶冶(とうや)や道徳教育が目的であり、野球の技術を磨くことや勝利を目指すことは、そのための手段であると考えられている。だから、『如何なる手段を弄してもただ勝てばよろしい』式の野球は、高校野球の本義に悖る。勝つための戦略だからといって、強打者とは一切勝負せず、全打席を敬遠で歩かせるというのは、『卑怯』であり相手に『失礼』だとされるわけである。
 イチロー氏の卓見
 文武両道論(ないし近代武道)と心法武道。これは『技』と『心』、教育学的な言葉を使えば『技術の習練』と『人格の陶冶』との関係に関する、わが国における二つの伝統である。もちろん、どちらが正しいかという問題ではない。あえて単純化して言えば、あくまでも勝ち負けの結果が問われるプロの世界では後者が、勝ち負けそのものよりお人格の陶冶が重視される教育の世界では前者が、各々(おのおの)優勢になるのが当然である。
 しかし、より重要なことは、両者は現実的には互換的であるということだ。なぜなら、いかに近代武道のように『人格の陶冶』を目的とするにしても、それ自体を目的に指導や試練をすることはできない。現実の実践としての指導や修練は、あくまでも技術の向上や試合での勝利を目的とする。上達するためや試合に勝つために、懸命に努力し、研究や試行錯誤を重ねることが、結果として人格の陶冶につながると考えるのだ。結果として人格の陶冶につながることを、いわば隠された目的とするがゆえに、現実には、技術の習練を目的として指導する。こうなると、もはや近代武道と心法武道との区別は、ほとんどつかない。
 このように、『技』と『心』、『技術の習練』と『人格の陶冶』とを一体のものと考えるところに、わが国の広い意味での教育思想の伝統があると言えよう。しかも、本稿の例として挙げた野球選手たちが典型であるように、この伝統が活かされてこそ、いわゆる『グローバルに活躍する日本人』が育つと考えるべきであろう。
 だとすれば、旧来の『日本的』教育を一掃し、子供を型にはめず、自発性を尊重して個性を伸ばし、自由な発想力や創造性を育むべきだと主張する近年の教育改革は、実に80年代後半以降、30年以上にもわたって延々と繰り返されてきた。近年は『グローバル人材の育成』や『イノベーションの創出』といったスローガンを掲げて、さらに加速化している。だが、これは伝統に裏打ちされた日本人の強みを、自ら否定する行為でもある。いわゆる『失われた30年』とは、この『教育改革の30年』でもあるのだ。
 さらに近年では、長く日本人の育成に大きな貢献を果たしてきた部活動の武道的性格が攻撃の対象になっている。『心の修養』などという前近代的あるいは戦前的な教育理念こそが、体罰パワハラの元凶だ、などという見当違いいな批判が後を絶たない。その結果、部活動やスポーツは何よりも『楽しむ』ことが目的だとされる。確かに楽しむことは必要だ。だが、それは単に強制されて嫌々やるばかりでは修養にならないからである。目的は修養であり、楽しむことはその手段なのだ。楽しむこと自体が目的になっては、それこそ文字通りの本末転倒だ。
 その点、イチロー氏が高校野球の指導をしながら、『大人が子供を厳しくできなくなった今の時代は、子供たちにとって残酷』という趣旨のことをたびたび述べているのは、極めて示唆的であり、さすがの卓見である。
 子供が大人になるための修練を課してもらえる場が、なくなりつつあるのだ。大人がその責任を放棄してしまっている。これが、今のわが国における最も深刻な教育の危機である。」
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 現代日本人には武士道精神も大和心もない、特にエセ保守やリベラル左派と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリにその傾向が強く、当然彼らはサムライ・武士でも百姓でもなく貧しく虐げられた賤民(非人、えた{穢多}、散所{さんじょ}、河原乞食)・部落民でもない。何故なら、彼らは自分が信仰している政治的イデオロギー的理由で日本民族の全てを否定し破壊しようとしているからである。
 部外者でありながら、正義の執行者として上から目線で、他人を誹謗中傷、暴言を吐く日本人やイジメや意地悪をする日本人も、またサムライ・武士でも百姓でもない。
 彼らには日本民族としての素養がない。そうした日本人が増えてきている。
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