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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
「軍人を首相にすれば戦争を避けられる」
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正統保守を受け継いでいたのが、暗殺された新保守の安倍晋三元総理であった。
現代日本、特にメディアと教育において、神話宗教を正統の根拠とする男系父系皇室を護ろうとした安倍晋三元総理の歴史的評価は低い。
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令和6年7月号 正論「竹田恒泰 君は日本を誇れるか
第120回 女性皇族が婚姻後も皇室に残ることの問題点
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『女系』天皇の入り口
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皇位を担えない皇族をいくら得ても意味はない。皇位を担える皇族を確保することが肝要なのだ。
皇室を守るみは想像力を
なかには『そんなことは起きない』と思う人もいるだろう。しかし、皇統を守るためには、本来なら起きえない万が一の事態をも想像し、それにも備える思慮がなくてはならない。それが『保守』というものである。興味深い逸話を紹介したい。
昭和16年10月、近衛文麿内閣の後継として近衛首相と東條英機陸相が揃って推薦したのが東久邇宮稔彦王だった。昭和天皇も内々にご了解遊ばした。
しかし、これに強く反対したのが重臣会議を差配する内大臣の職にあった木戸幸一だった。
次の内閣は、日米交渉を妥結に導くか、それができない場合は開戦を指導しなくてはいけない。木戸は開戦の決定に皇族が関与することを不可とした。この時点で『敗戦』の可能性に思慮を巡らせた人物は、木戸を置いて他にいなかったと思われる。
木戸のこの判断は皇室を守った。もしこの時、東久邇宮稔彦王に限らず皇族を総理としていたら、東京裁判で絞首刑となったのは東條ではなかっただろう。さらに言えば、それを口実に、GHQは皇室を解体していたに違いない。結局、皇族内閣は不成立だった。
一方で、終戦を迎えた昭和20年、東久邇宮に組閣の大命が下った。推薦したのは木戸幸一その人だった。軍部を抑えられるのは、軍人かつ皇族の東久邇宮以外になかった。東久邇宮首相は、見事に終戦処理をやり遂げた。開戦前に組閣を回避させ、一方で終戦直後に皇族を推した木戸の判断は極めて適切だった。
目先の脅威に対応したのでは遅く、まだ顕在化していない隠れた脅威に備えるのが国防というものである。皇室も同様で、まだ顕在化していない隠れた脅威に備えてこそ、皇統を護持し得るのであり、木戸のような深い思慮が求められる。
皇統は『守れる』か『守れない』かのいずれかしかなく、その中間はない。皇室制度の議論が起きるたびに少しずつリスクが高くなっていったら、いつか皇統は断絶する。皇室制度の議論では一ミリも妥協は許されない。」
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ウィキペディア
木戸 幸一(1889年(明治22年)7月18日 - 1977年(昭和52年)4月6日)は、日本の官僚、政治家。侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。
東條の首班指名
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議において日本は日米開戦の準備の方針を決定したのだが、天皇はこの重要な方針を決定する会議の席上で参加者に直接質問をしたいという意向を示したのだが、木戸によって阻止された。天皇は直接の質問を控えて明治天皇の御製を詠んで平和への意向を示すにとどまった。
開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、日米交渉の行き詰まりによって第3次近衛内閣は1941年(昭和16年)10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった東久邇宮稔彦王による皇族内閣が東條も含めた広い支持を集めていた。近衛も東久邇宮内閣案を昭和天皇に奏上し木戸にも話した(「東久邇宮日記」)。 海軍も東久邇宮によって開戦回避のための組閣がなされるものと予測して準備していた。 ところが天皇は「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた」ために否定的であった。そこで内大臣室にて辞表提出後の近衛と後継について密談した木戸は、及川古志郎海相と東條英機陸相の名を挙げるも、及川では陸軍が陸相を出さないだろうと反論される。こうして後継候補決定に最も影響力を有する2人の間では東條指名で固まった。
同月17日に宮中で開かれた重臣会議において、林銑十郎から東久邇宮の出馬を求める声が挙がった。これに対し、「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」と述べ反対した木戸が東條を推す。すると若槻禮次郎には、東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と反論された。かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸が東条英機が陸軍大臣のまま首相を兼任することを提案し、木戸の意見が「重臣会議」で承認された。その日の午後に天皇へ東條を後継内閣首班とすることを奉答した。 東条組閣を聞いた海軍省軍務局長の岡敬純は大きな衝撃とともに「とんでもないこと」と発言し、「これで戦争と直感した」と語っている。
木戸が東條を推挙した理由としては様々な説が唱えられてきた。木戸は戦後になって、当時既に対米戦争の開戦と敗北は必至であるとみており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えたと述べている。「対米開戦を主張する陸軍を抑えるには現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」との考慮があったとされることも多い。昭和天皇も東條の首班指名を聞いて「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」とコメントしていることもこの説の傍証となっている。
一方、木戸が東条を推薦した理由は「陸軍のじゃじゃ馬が言うことを聞かぬので、一度このへんで、東条あたりに国政をまかせてみよう。これで難しさを味わわせ、陸軍が失敗して懲りたななら、少しはおとなしくなるだろう」というような無責任とも言える理由があったとも言われている。実際に陸軍省にいた東条は宮内省から呼ばれた時に簡単な拝謁か、陸軍の強硬策について「お叱り」を受けるものだと考えていたという。
木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や東條英機陸軍大臣とは連帯関係にあった。
第二次世界大戦末期の和平工作
「近衛上奏文」も参照
第二次世界大戦初期こそ東條内閣を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。1945年1月には天皇の求めに応じ各重臣の謁見を手配し、戦争の見通しや人事政策などに関する意見を述べさせたが、この謁見が全て終了したのは2月に連合国側がヤルタ協定を締結したあとであり、結果的に終戦工作は失敗した。
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日本の保守は、世界の保守とは違う。
日本の保守は神話と数万年前の旧石器時代・縄文時代に数千年前の弥生時代・古墳時代からの歴史・文化・伝統・宗教であり、西洋の保守はキリスト教の慈悲・恩寵・赦しであり、中国の保守は儒教の仁・義・礼であり、中国共産党の保守はイデオロギーの暴力・死・恐怖である。
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日本の正統保守とは、数千年前の弥生時代・古墳時代から続く男系父系で受け継がれてきた現皇室の天皇神話を護り後世につなげる事であり、現皇室とは数万年前の旧石器時代・縄文時代から受け継がれた自然宗教・神話宗教・自然崇拝を後世につなげる事である。
自然の深淵に存在する心・精神、志・気概、品位・品格、人格、命・霊・魂、神秘・神性を、男系父系の現皇室の元で民族の歴史・宗教・文化そして伝統を祖先から受け継ぎ子孫につなげる事であった。
日本国を国として認める「信用」と日本民族を文明人として認める「認知」の源泉は、天皇神話に基ずく男系父系の天皇・現皇室の「正統性」である。
つまり国柄・国のあり方としての「国體」である。
ポツダム宣言受諾にあたって、昭和天皇や木戸幸一ら日本民族が命を犠牲にしてまで護ろうとした神話宗教の「国體護持」である。
現代日本人には神話「現人神」の本当の意味が理解できない、その証拠が昭和天皇の評価(天皇の戦争責任)と靖国神社(積極的自衛戦争)である。
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現代日本では、正統派保守は少数で劣勢に立たされている。
当然の事ながら、現代の日本人には真の保守派いないに等しい。
正統保守は、GHQの手先となった左右の敗戦利得者によって天皇主義者・民族主義者・軍国主義者・国家主義者らと共の「公職から追放」された。
現代日本を支配しているのは、左右の敗戦利得者の後継者であるエセ保守やリベラル左派である。
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正統保守とは、「日出ずる処の天子、書を没する処天子に致す、恙(つつが)なきや」で、国の独立・自尊・静謐、民族の安全・安寧・生存そして「自主防衛の覚悟」であった。
つまり、伝統文化としての「国柄」の事である。
それが理解できるのは、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持った日本人だけである。
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明治時代から大陸戦争は、積極的自衛戦争であり、その原因は江戸時代後期からのロシアの日本侵略であった。
戦国時代から日本は、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による宗教侵略を受け、日本人は商品として世界に輸出されていた。
大正時代から日本は、ソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力によるイデオロギー侵略を受けていた。
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
正統派保守は、神の血筋の昭和天皇、数千年前からの続く男系父系の現皇室、数万年前から生きてきた日本民族を、国内外の反天皇反日本勢力から護っていた。
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2020-01-29
✨5)─1─日中戦争は、宗教とイデオロギーの戦争であった。〜No.15・
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2024-07-16
✨5)─2─昭和天皇「日本国民に対する列強の人種差別が太平洋戦争の遠因」。日本の人種的差別撤廃提案。〜No.18
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2024-07-17
✨5)─3─昭和天皇「(天皇の)戦争責任は言葉のアヤ」。日本人共産主義者の二七年テーゼと三二年テーゼ。〜No.17
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2024-07-18
✨5)─4─昭和天皇が退位しなかったのは正しい事であった。8月革命説、退位論。〜No.18
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2017-09-26
✨19)─1─OSSのユダヤ人マルクス主義者(ニューディーラー)による敗戦国日本の共産主義化計画。~No.79No.80No.81・ @ ⑮
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2024-04-14
✨18)─3・A─終戦の時、チャーチルはアメリカに「天皇を使え」と伝えた。~No.78
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アメリカ、GHQ、リベラル派ユダヤ人ニューディーラーは天皇制度廃絶と皇室消滅させるべく仕組んだ、日本国憲法、改正皇室典範、皇籍剥奪の皇籍離脱、天皇家私財没収の皇室経済法、保守派の公職追放。
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2024-03-16
〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年版。
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天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論
第一弾 人間宣言。
第二弾 戦後版皇室典範、日本国憲法。
刑法改正、大逆罪・不敬罪の廃止。死刑反対。
天皇・皇族・皇室を護る特別法はなく、あるのは一般的な名誉毀損罪のみで、被害者として加害者に対して告訴する事ができるが、原則的にできない。
メディアによる皇室報道は、本当は少なく、嘘や捏造・歪曲が多い。
第三弾 皇籍剥奪=皇籍離脱=皇族追放。
第四弾 皇室私有資産没収して戦後復興に利用した。
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GHQは、旧日本軍が戦時中に民間から接収した宝石や貴金属、現金が隠匿資産として民間企業経営者や右翼を通じて保守的政治家に流れるのを摘発する為に東京地検特捜部を組織した。
その結果、芦田均内閣は昭和電工疑獄事件で総辞職した。
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国連の敵国条項。
国連とは、日本と戦った連合国である。
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2018年 天皇家の資産、皇室費は100億円。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
寸土を失う者は全土を失う。
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2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161
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江崎道朗「戦没学徒からの宿題
左派系への違和感
世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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日本を動かしている超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達は、戦後民主主義教育を受けてきたエセ保守やリベラル左派である。
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2020年4月21日 PRESIDENT Online「社会 | 『木戸幸一 内大臣の太平洋戦争』
昭和天皇最側近の読み違え「軍人を首相にすれば戦争を避けられる」
「戦争すれば負けると思った」
川田 稔
名古屋大学名誉教授
戦前の日本は、なぜ負けるとわかっていて対米戦争に踏み切ったのか。名古屋大学名誉教授の川田稔氏は「内大臣の木戸幸一は、対米戦争を避けるために陸軍を統率できる東条英機を首相に推したと語っている。しかし、それは皮肉な結果になった」という——。
※本稿は、川田稔『木戸幸一』(文春新書)の一部を再構成したものです。
東条英機の首相に推した内大臣・木戸幸一
近衛文麿の「突然の総辞職」によって、後継首班を決めざるを得なくなった。その選定をリードしたのが内大臣である木戸幸一だった。
木戸 幸一(きど・こういち)1889~1977/明治の元勲・木戸孝允(桂小五郎)の孫。政治家。父の侯爵・孝正は侍従長という華族の御曹司。京大法科卒。内大臣秘書官長などを経て、内務大臣に就任。戦後A級戦犯として終身刑となるが、のちに釈放写真=近現代PL/アフロ木戸 幸一(きど・こういち)1889~1977/明治の元勲・木戸孝允(桂小五郎)の孫。政治家。父の侯爵・孝正は侍従長という華族の御曹司。京大法科卒。内大臣秘書官長などを経て、内務大臣に就任。戦後A級戦犯として終身刑となるが、のちに釈放写真=近現代PL/アフロ
1941年10月17日、後継首相を検討する重臣会議が開かれた。出席者は、木戸幸一内大臣、清浦圭吾、若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎、阿部信行、米内光正(いずれも元首相)、原嘉道枢密院議長の9人だった。
そして、木戸のリードで、後継首班に東条英機陸相を奏薦したのである。会議の席上、木戸は次のように述べている。
「結局今日の癌がんは、九月六日の御前会議の決定である。東条陸相とかなりその点について打割った話をしてみると、陸軍といえども海軍の真の決意なくして、日米戦争に突入すること不可能なるは、十分承知している。……そうすれば、この事態の経過を十分知悉ちしつし、その実現の困難なる点も最も身をもって痛感せる東条に組閣を御命じになり、同時に……御前会議の再検討を御命じになることが、最も実際的の時局拾収の方法であると思う。」
ここで注意を引くのは、木戸が、対米開戦決意を含む9月6日御前会議決定の再検討を主張したことである。
木戸の意見に反対はなく、広田、阿部、原が賛意を示した。なお、若槻は宇垣一成を推したが、同意はえられなかった。
東条へ大命降下、「国策遂行要領」は白紙へ
東条に白紙還元を求める組閣の大命を受けた東条に木戸は、天皇の「思召おぼしめし」として九月六日御前会議決定の白紙還元を求め(いわゆる「白紙還元の優諚ゆうじょう」)、東条は了承した。「国策遂行要領」が、白紙に戻されたのである。
この白紙還元の優諚は木戸の考えによるものだった。大命降下のさいの昭和天皇の発言は、憲法の遵守じゅんしゅと、陸海軍の協力を求めており、御前会議決定の白紙還元にはふれていない。
「白紙還元の優諚」は、天皇から直接東条に示されたものではなく、木戸から間接的に「思召」として、こう伝えられたのである。
「ただいま、陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察いたしますが、なお、国策の大本を決定せられますについては、九月六日の御前会議の決定にとらわるるところなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うることを要すの思召であります。」
木戸が「思召」を東条に“間接的”に伝えた理由
木戸はなぜこのような形式を取ったのだろうか。それについて、木戸自身はふれていない。だが、おそらく、この白紙還元による戦争回避の結果が後に大きな問題になった場合を考えてのことと推測される。
戦争回避に成功した結果、それが原因で日本が何らか国内外の困難な局面に立たされた場合、その責任を木戸自身が負うつもりだったのではないかと思われる。
白紙還元により戦争が回避されれば、副作用として、そのような状況になる可能性は十分にあると木戸は考えていた。その場合、非難が天皇や皇室に及ばないよう、自身の独断によるものと処理することが可能な、間接的な手法をとったのではないだろうか。
なぜ木戸は東条を選んだのか
東条推薦の経緯について木戸は、その手記「第三次近衛内閣更迭の顛末」(昭和16年11月付)に次のように記している。少し読みづらいが重要なので直接引用する。
「今日海軍の態度より推して対米開戦は容易に決し難しと認めらる……、九月六日の御前会議の決定は不用意なる点あり……敢然再検討をなすの要あるべきは勿論なりと信ず。要するに海軍の自信ある決意なき限り、国運を賭する大戦争に突入するは、最も戒慎を要するところなるべし。東条陸相も余の意見に全然同感にして、九月六日の御前会議の決定は癌がんにして、実際海軍の自信ある決意なくしてはこの戦争はできざるなり、とまで述べられたり。而して……少なくとも九月六日の御前会議の決定を一度白紙に返すことが、今日なすべき最小限度の要求なのであるが……[それは]最近の情勢よりみて至難事中の至難事である。すなわち今回大命を拝して組閣するものは、陛下の思召を真に奉戴して、軍部ことに陸軍を充分統率するとともに、陸海軍の協調をも完全になさしむることが肝要である。……余は以上の理由をもって東条陸軍大臣を推選し、多数の同意の下に奉答したのである。」
すなわち、御前会議決定を白紙に返すために、その方向で陸軍を統率しうる東条を首相に奏薦したというのである。しかも東条自身、御前会議決定を「癌」だとして、木戸の考え(決定再検討、白紙還元の方向)に同調していた。
なお、東条が、海軍に自信がなければ戦争はできないとの判断に傾いてきたのは、武藤章軍務局長の説得によるものだった。
この選択は木戸にとっても危険な賭けだった
木戸が東条を選択したのは、よくいわれているように、単に天皇の意向を尊重し陸軍を統率できる人物だったからだけではない。それに加えて、すでに東条が御前会議決定の白紙還元に同調していたからだった。木戸は白紙還元による対米戦争回避を意図していたのである。
ただ、この選択は木戸にとっても危険な賭だった。
木戸が望んだ、東条内閣下での白紙還元による戦争回避は、海軍が対米戦への「自信ある決意」を示さないことを前提としていた。したがって、もし海軍の態度が変われば、東条ら陸軍の本来の主張すなわち御前会議決定(開戦決意)のラインに回帰する可能性をもつ選択だったからである。
なお、木戸は戦後、東条を近衛の後継首班に推した理由として、「東久邇さんという意見もあったがね、僕はその時に、要するに戦争は避けられないと思っていたんだ。……そして戦争すれば負けると思ったんだ」。だから、敗戦によって「皇室が国民の怨府になる」ことを避けるため東条にした、と回想している。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
しかし、この回想は、右の手記の記述と必ずしも整合性がとれていない。手記では、東条が9月6日御前会議決定の再検討(白紙還元)に賛成していたから、後継首班に推したとしている。
当時木戸は何とか対米戦を回避しようとしており、そのため、御前会議決定の再検討に同調し、しかも陸軍を統率しうる人物として、東条が妥当と判断していたのである。
この(1941年)10月の時点では、木戸は必ずしも戦争は避けられないとみていたのではなく、対米戦回避に力を傾けており、東条ならその可能性があると考えていたことは間違いない。
この手記は東条組閣の翌月に書かれたものであり、事実はこちらに近かったのではないかと推測される。木戸は戦後さまざまな回想を残しているが、その資料評価には注意を要するだろう。
10月20日、木戸は昭和天皇に、「今回の内閣の更迭は真に一歩を誤れば不用意に戦争に突入することとなる虞れあり。熟慮の結果、これが唯一の打開策と信じたるがゆえに奏請した」旨を言上した。これに対して昭和天皇は、「いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」、と答えている。
首相が陸相、内相を兼任する異例の組閣
10月17日、組閣の大命を受けた東条は、閣僚の選考に入った。陸相は、陸軍三長官会議(陸相、参謀総長、教育総監)において、東条自身の希望で首相との兼任が決まった。これは木戸内大臣の意向によっていた。
川田稔『木戸幸一』(文春新書)川田稔『木戸幸一』(文春新書)
陸軍統制のためだった。また東条は自身の判断で内相も兼任した。東京裁判の宣誓供述書によれば、戦争回避となった場合の国内の混乱に対処するため、とされている。
海相については、海軍側は豊田副武そえむ呉鎮守府司令長官を推したが、豊田はそれまで東条ら陸軍との折り合いが悪く、東条が忌避した。そこで結局、嶋田繁太郎横須賀鎮守府司令長官を推薦し、嶋田が海相に決定した。
そのほかは、外相に東郷茂徳、蔵相に賀屋興宣、企画院総裁に鈴木貞一、商工大臣に岸信介、内閣書記官長に星野直樹などが就く。
こうして、10月18日、東条英機内閣が成立した。東条は陸軍大将に昇進し、現役のままで首相、陸相、内相を兼ねた。異例のことである。
川田 稔(かわだ・みのる)
名古屋大学名誉教授次ペ
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「勝てる自信はないが、それを言い出せない」日米開戦を招いた日本人の悪癖
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本の話
日米戦回避、終戦に尽力した“天皇側近”の実像とは
川田 稔
『木戸幸一』(川田 稔)
出典 : #文春新書
ジャンル : #ノンフィクション
『木戸幸一』(川田 稔)
木戸幸一は、昭和の歴史を考える上で、欠かすことのできない存在である。
一九四〇年(昭和一五年)六月から、終戦後の一九四六年(昭和二一年)一一月まで、昭和天皇の最側近の一人として難局にあたった。戦後は極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で、A級戦犯として終身刑となったが、後に釈放される。
なかでも、よく知られているのは、一九四一年(昭和一六年)、第三次近衛文麿内閣の総辞職にさいして、陸軍の東条英機を首相に推挙したことだろう。
このほかにも、戦争に至る重要な岐路で、木戸は軽視しえない役割を果たしている。一つの例を挙げれば、二・二六事件の処理(後述)である。このとき木戸は事態の収拾に決定的な役割を果たした。さらには太平洋戦争末期、天皇の「聖断」による戦争終結の青写真を書いたのも木戸だったのである。
まず木戸が重きをなしたのは、天皇、宮中との関係においてだった。木戸は、欧州での第二次世界大戦勃発時から太平洋戦争開戦を経て、戦争終結時までおよそ五年半内大臣を務めた。内大臣として昭和天皇を直接補佐し、天皇の意志決定(裁可)に、多かれ少なかれ影響を与えたといえる。
内大臣は、戦前、政治全般について天皇を補佐する宮中重職で、天皇の最側近のひとつだった。天皇側近の宮中最重職としては、内大臣のほかに、侍従長、宮内大臣があるが、政治全般について天皇を補佐する内大臣が、政治的には最も重要な役割を果たしていた(侍従長は、天皇に直接奉仕する侍従の統括責任者。宮内大臣は、皇室関係事務全般を司る宮内省の長官。なお、内大臣、宮内大臣は、閣僚と同様「大臣」の名称がついているが、内閣には属さない宮中職である)。
また、木戸は日中戦争時から太平洋戦争開戦まで三度にわたって首相を務めた近衛文麿ときわめて親しい関係にあった。近衛を「表」の存在だとすれば、それと対をなし、近衛の政治活動を裏面から支えた。
さらに見逃せないのが軍部との関係である。木戸は、その政治的キャリアにおいて、元老として政界に大きな影響力をもっていた西園寺公望の側近として出発したが、早くから陸軍との個人的なパイプをもち、徐々に陸軍の考えに同調するようになる。同様に西園寺の側近として出発しながら軍部に接近する近衛とともに陸軍に協力し、宮中におけるその伴走者となっていく。その意味でも、木戸は昭和史における最重要人物の一人といえる。
また木戸は、政変時における後継内閣首班決定の新しい手続き原案を作成し、それがほぼそのまま正式に決定された(内容については後述)。どのような手続きで首相が決められるかは、政治上極めて重要な意味をもつ。そして、この変更は、のちに首相選定の主導権が元老から内大臣に移行していく一つの契機となる。そして自らも内大臣に就任、いわば西園寺の後継的存在となったといえる。
このほか、以下にみるように、満州事変・日中戦争をへて、太平洋戦争開戦から終戦に至るまで、様々な重要な局面で木戸は軽視しえない役割を果たしている。したがって、その思想と行動を把握することは、戦前昭和史を理解する上で欠かせないものといえる。
このように、木戸は昭和史を考えていくうえで極めて重要な存在であるが、意外なことに、木戸を正面からあつかった著作はきわめて少ない。
そのような現状を念頭に、本書では、木戸の内大臣期の動きに焦点をあて、それ以前の時期にも簡単にふれながら、彼の歴史上の役割を明らかにしていきたいと思う。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
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現代日本には、戦前のような皇室と天皇制度を命を呈しても護ろうとする正統保守の天皇の藩屏は存在しない。
天皇の藩屏である正統派保守は、GHQや日本人リベラル左派(左派系敗戦利得者)によって公職から追放され、代わって右派系の敗戦利得者であるエセ保守が蔓延った。
リベラル左派やエセ保守は、日本を反天皇反民族反日本に大改造する為にメディアや教育を支配した。
が、彼らの人民革命の悉くが昭和天皇の民族的な伝統・文化・歴史そして宗教を秘めたカリスマの為に失敗した。
民族的な伝統・文化・歴史そして宗教は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本に根付いていた。
リベラル左派やエセ保守は、日本から民族的な伝統・文化・歴史そして宗教を消滅させ、皇室と天皇制度を形骸化する為に、多様性を持った共同社会を目指すとして外国人移民(主に中国人移民)を大量に受け入れ始めた。
つまり、単一民族国家から移民による多民族国家への大改造である。
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現代日本には、本気で皇室の行く末を憂い、現皇室を残そうと真剣に思う悩む正統保守は少数派で、何となく雰囲気でうっすらと考えているエセ保守と皇室を消滅させようと行動しているリベラル左派が多数派である。
その証拠が、国民世論の90%が女系女性天皇即位を支持しているし、天皇に国家を主体的に指導する強力な政治的リーダーシップを求める国民がいる。
政権与党の自民党は正統保守ではないし、公明党や野党はエセ保守でもない。
その証拠が、話し合うだけで何も決めず放置を続ける自民党内の「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」や国会内での「皇位継承問題審議会」である。つまり、彼らは皇室や天皇制度を放棄しているのである。
リベラル左派のメディアと教育現場は、「何も決めず消滅を待つ」事に賛成し、超難関校の優秀な学生に対して民族的な伝統・文化・歴史そして宗教を抹消した科学教育を行い政治的エリートと進歩的インテリを育てている。
中国共産党は、超難関校に浸透して媚中派・反米派・反天皇反民族反日的な日本人を増やしている。
江戸時代後期から明治期の偉人・英雄・英傑を尊敬し憧れると口にする日本人が数多くいるが、それは「嘘」で本心ではない。
特に、エセ保守やリベラル左派にそうだと言える。
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戦争を起こし戦争を止める事ができるのは、アメリカやソ連(ロシア)などの強国・大国であって日本の様な中程度国ではなかった。
つまり、日本には戦争を主導してコントロールする能力も国力(軍事力・経済力)もなかった。
その意味で、太平洋戦争を日本は望んでいなかったが、アメリカは早期から決断して開戦準備を進めていた。
同じ事が、戦争終結と原爆投下実験でも言え、昭和天皇や政府と軍部は原爆投下前に降伏したかったが許されなかった。
なぜなら、アメリカ・イギリス・カナダの3カ国とユダヤ人などの科学者達は、正当な権利者として戦争犯罪者である日本人を実験体・モルモットとして原爆投下実験を強行したからである。
つまり、平和に対する罪=A級戦犯は、アメリカであって日本ではなく、人道に対する罪も日本ではなくアメリカにあった。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
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