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2024年8月2日 MicrosoftStartニュース JBpress「いま注目される「弥助」、織田信長に召し抱えられた黒人は何者だったのか?
狩野内膳『南蛮屏風』には、黒人の従者と象使いが描かれている
(歴史家:乃至政彦)
弥助騒動から離れて
SNSで、織田信長に召し抱えられた黒人の「弥助」が注目を集めている。
発端は「アサシンクリードシャドウズ」(ユービーアイソフト、2024)という弥助をメインキャラとするゲームだが、詳細はインターネット検索すればいくらでも出てくるので割愛したい。
弥助の史料について、現在多くの識者が知見を披露しておられるが、まだ終着点は見えない。議論は、弥助が侍だったかどうかに重点が置かれがちである。
私は当初この問題に白黒つける必要はないと考えていたが、学説の一部が一般の史観と衝突したことで、楽観視できなくなってしまった。
多方面が互いを敵視している現状を遺憾に思う。このため、「弥助=侍」の是非は7月30日に別のところに公開したので、関心のある方は検索してもらいたい。
それはさておき、日本の歴史人物でも「この人は宗教家なのか武士なのか」「商人なのか武士なのか」と判断に迷う対象がたくさんいる。迷ってはしまうが、保留にしても大きな問題はない。例えば仮に武士の定義が明確化したとしよう。そこで「従者を伴って重武装で軍陣に赴き、屋敷があり、帯刀して、支配地がある。切腹などの作法を心得ている」からと言って、千利休や安国寺恵瓊は武士であるなどと理屈を並べても納得する必要などない。弥助が侍であるかどうかは、学説ではなく、日本人の感覚で決めていいはずだ。
それよりも重要なのは、「弥助をはじめとして日本に黒人奴隷が一般化した」「弥助は大黒天のように崇敬された」などといった海外で広まっている珍説を否定することであって、新たな問題を作り出し、主導権の握り合いをすることではない。
私は無学不才の身であるので、この議論に参加するつもりはなく、頭のいい皆さんに任せたいと思う。とはいえせっかくの機会なので、息抜きまでに、弥助に関して、誰にでも当たれる史料を使って、あまり役に立ちそうにない独自の見解を提示してみたい。
太田牛一自筆の『信長公記』と弥助
まずは皆さんご存知、織田信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』(原題『信長記』)から当たってみよう。同書には多数の写本があって、どれも微妙に文章が異なる。
参考にするのは、そのうちでも今回なぜか注目されていない池田本(太田牛一が姫田城主・池田輝政に献呈したもの。岡山大学付属図書館池田家文庫蔵)である。『信長公記』は写本同士も違っているが、いうまでもなく牛一本人が書いたものを最重視するべきだ。
写本の多くは、明智光秀後年の名字「維任」を「惟任」と書いている。だが牛一自筆本では「維任」と書いており、こうした違いを探っていくと意外な発見があったりするのだ。
早速ながら弥助の箇所に目を向けてみよう。『信長公記』巻第14の天正9年(1581)2月23日条に、宣教師が信長に弥助に該当する黒人を紹介したときの記録がある。
『信長記』巻第14(天正9年2月23日条) 岡山大学附属図書館所蔵
そこでは写本・自筆本ともに弥助が「十之人」に優越する力があったと記されている。この一文から「弥助は10人分の腕力を誇った」と見られている。これは日本も海外も同じ認識のようである。
周知のとおり、牛一は文章に誇張を挟まないタイプなので、書いたことは基本的に信用できそうだ。だが、10人相手に勝てるぐらいの力というのはいくらなんでも強すぎないだろうか?
これが事実なら、ゲームで超人ヒーローにされてしまうのも納得だが、とりあえず池田本の原文から見てみよう。そこには写本にない情報が載っている。
二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参候、年の齢(ヨワイ)廿六七と見し、惣の身の黒き事、牛の如く、彼男健(スク)やかに器量也、しかも強力十之(ツヽノ)人に勝(スグレ)たる由、
(池田家本『信長記』巻十四 天正九年辛巳)
弥助と思われる「黒坊主」は、「26〜7歳ぐらいで、牛のように全身が黒く、健康的であった」と記されている。そして「しかも力強さは『十之人』に勝る様子であった」とある。
ここで注目したいのはルビである。
牛一は、「十人之」に「ツヽノ」とルビを付している。十人をどうやったらそう読めるのか不思議だと思ったが、友人の指摘でこれは「十」の音読みで、「つづ」と読むらしい。そうすると、『総見記』にはこの一文から派生しただろう同記事に「強力庸並ノ人」と書いてあるのにも納得がいく。
こうして現代ではあまり使われない「十人之」は、「常の」と同義に解釈できる言葉で、今でいう「十人並みの」という意味であるとわかってくる。
弥助の現実的な強さが見える一文
つまり太田牛一は、ここで「(弥助は)26〜7歳ぐらいで、牛のように全身が黒く、健康的であった。しかも力強さは、普通の人に勝る様子であった」と書いているのである。
なんのことはない。弥助はファンタジックに強かったわけではなく、普通の人になら余裕で勝てるぐらい強そうだったと、現実的なことを書いていたのである。
牛一が『信長公記』で誰か個人を「強力」と特記した例は、巻11における天正6年(1578)8月15日条「大相撲」シーンの「永田刑部少輔、阿閉孫五郎、強力の由」と書いてあるところだけだから、弥助もこれら無双の力士に匹敵するほど屈強な肉体を備えていたのだろう。
信長は初めて見た黒い肌の人間が日本人でも見ないぐらい屈強で、日本語もいくらか話せるようだったので、護衛に適していると思ったのだろう。ただ、実際にどれぐらい強かったのかは、戦績が何も伝わっていないので、よくわからない。
そこで我々の心を躍らせるのが、フィクションの仕事である。
異郷に流れ着いた孤独の勇者が、戦国時代トップクラスのウォーロードに気に入られ、日本の武士たちを相手に10人分の腕力をもって奮闘する姿は、どんな創作に繋げても絵になること間違いなしであるはずだった。
エンターテインメントは楽しむもの
そうした発想から、弥助が活躍するゲームが製作されることは、歓迎するべき出来事だった。それなのに、その「正しさ」をめぐって、政治や歴史の問題を口論する展開など、誰が求めていただろうか?
なかなか大変なことになったと思う。珍説を巧妙に広めた人々は罪深いが、これを無条件に持ち上げてしまった側はどうだろうか。そして、ここから取り返しのつかない溝が生まれたら、いったい誰が得をするというのだろうか。
ならばここで溝を生まないところに得をさせてしまおう。
戦国日本で弥助がカッコよく動いてくれるゲームを楽しみたいなら、ひとつの作品にこだわる必要などない。打ってつけの作品がある。歴史ゲーム会社の老舗コーエーテクモゲームスが提供する『戦国無双5』(2021)だ。
「戦国無双5」(Switch)ジャケットより
これこそ弥助を可能な範囲でリスペクトした日本製の歴史ゲームであると私は思う。
本作は従来のレギュラーキャラクターを一新したため、売れ行きは低調だったようだが、それでも無双ゲームとしての快適さはシリーズ随一といっていい。痛快アクション、気分のいい登場人物、味わいのあるストーリー、ここには全てが揃っている。
そして何より弥助をプレイアブルキャラクターにした世界初の歴史ゲームでもある。ここでの弥助は、《無双乱舞》のときに「士」、《無双奥義》のときに「侍」の一文字が大きく浮かび上がっているように、武士の精神を重んじる扱いである。だが、武士らしい武装と衣装と所作は整っておらず、心は武士だが、身は謎の異民族という印象が強い。大方の日本人はこの弥助を見て、何を思うだろうか。黒人への不快感や差別感を抱いたりはしないはずだ。
身分としての侍と美称としての侍
このゲームの弥助には、「身分としての侍」には似つかわしくないところもあるが、おのれを見失うことなく、信長や信忠に尽くす勇姿には、「精神としての侍」らしさが強く表されている。
弥助の面白さは、ここにある。
黒澤明監督の『七人の侍』や『用心棒』などでも「身分としての侍」と、「美称としての侍」が個別と概念として併存していた。これと同じように、見た目がそれらしくない弥助を、立派な「侍」として認めたくなるキャラクター造形がごく自然に噛み合っているのである。
無双シリーズのコンセプトは、「一騎当千の爽快感」にある。弥助で睨み合う必要はない。11月に日本語版が発売されるまでコーエーテクモゲームスの『戦国無双5』を楽しんでみたらどうか。みんな弥助で笑顔になってしまおう。
【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。
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中世キリスト教会・イエズス会伝道所群の日本布教は、西洋キリスト文明のインカ帝国やマヤ文明に対する侵略と同様に日本に対する宗教侵略であった。
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中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、非白人異教徒日本人をアフリカ人同様に商品として世界に輸出して大金を稼いでいた。
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現代の歴史教育は、西洋キリスト教文明による日本侵略、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による宗教侵略、白人至上主義者による日本人奴隷交易を教えない。
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戦国時代は地獄であった。
2024-04-01
⚔8)─2─日本は古代から人身売買があった。悲惨な日本の歴史と美しい日本。山椒大夫。〜No.32
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2022-09-05
⚔12)─1─天皇と神道は周辺諸国からの日本侵略を防ぐ宗教的精神的霊的盾であった。~No.39No.40
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2024-01-28
⚔21)─3・A─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92
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2024-07-16
✨5)─2─昭和天皇「日本国民に対する列強の人種差別が太平洋戦争の遠因」。日本の人種的差別撤廃提案。〜No.18
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2024-01-12
💖42)─1─日本の侵略者に対する積極的自衛戦争史観による「歴史の修正」は悪なのか…?〜No.172
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2021年5月19日 YAHOO!JAPANニュース「【戦国こぼれ話】織田信長が登用した黒人武将・弥助とは、いったい何者なのか
奴隷は足に鎖をつけられ、自由を奪われていた。(提供:PantherMedia/イメージマート)
NHK・BSプレミアムでドキュメンタリー『Black Samurai ~信長に仕えたアフリカン侍・弥助~』が放映された。今や弥助はアニメにもなるなど、関心が非常に高い。改めて弥助について考えてみよう。
■弥助とは
弥助とは、天正7年(1579)にイエズス会の巡察使・ヴァリニャーノが日本にやって来た際、インドから連れて来た黒人の使用人(奴隷)である(『日本教会史』)。弥助の出身地は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領の東アフリカだったといわれている。それ以上の詳しいことが不明なのは、仕方がないだろう。
■織田信長との謁見
織田信長が弥助に会ったことは、信長の一代記『信長公記』に記されている。
天正9年(1581)2月、ヴァリニャーノは弥助を伴って、信長と面会すべく本能寺を訪れた。初めて弥助を見た信長の感想は、以下のとおりである(『信長公記』)。
{きりしたん国より、黒坊主参り候。年の齢廿六・七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく、かの男健やかに器量なり。しかも強力十の人に勝たり。}
この記述によると、弥助の年齢は26・7歳で、皮膚は牛のように黒かったという。しかも体は丈夫で力が強く、10人の男の力にも匹敵したという。信長は、大いに弥助に関心を示した。
なお、『家忠日記』には、「タケ(丈)ハ六尺二分」と書かれているので、弥助の身長は約1.8mだったと考えられる。当時の日本人の体格(男子の平均身長は約160cm)からすれば、かなりの大柄だったようだ。
信長は初めて黒人を見たこともあって、最初は体に墨を塗っているのではないかと考えた。今まで見たことがなかったのだから、いたしかたないだろう。そこで、信長が弥助の体を洗わせたところ、いっそうその肌は黒光りしたという。
■評判となった弥助
弥助に関心を抱いたのは、信長だけではなかった。京都市中では弥助の噂が広がり、やがて見物人が殺到するような事態となった。それどころか、人々は弥助を見るため、喧嘩をするようなありさまだった。
同時代に活躍した絵師の狩野内膳は、「南蛮屏風」の作者として知られている。「南蛮屏風」のなかでは、傘をさす黒人の姿が描かれている。これが弥助か否かは不明であるが、誠に興味深い。
もともと好奇心旺盛な信長は、大いに弥助のことを気に入り、ヴァリニャーノに頼んで譲ってもらった。信長は弥助を武士として身辺に置き、将来的には城持ちにまで引き立てようとしたという。また、信長は弥助に邸宅と腰刀を与えたとも伝わる。
■本能寺の変と弥助
天正10年(1582)、弥助は信長をお供して、本能寺に宿泊していた。しかし、同年6月2日、突如として明智光秀が本能寺を襲撃し、信長は自害に追い込まれた。
光秀が本能寺を襲撃すると、弥助は信長の嫡男・信忠の居所だった二条新御所に急行し、光秀の謀反を知らせた。そして、弥助は二条新御所で明智軍と交戦したが、最後は奮闘虚しく捕らえられたのである。
光秀は弥助の処分について、黒人(弥助)は動物のようなもので何も知らず、また日本人でもないので殺すことはない、と明言した。結局、弥助は南蛮寺に送られ、命だけは助かったのである。
その後、弥助の動静はまったくわからない。
■ワールドワイドな時代
当時、ポルトガルはアフリカに進出し、黒人を捕らえて奴隷としていた。弥助もその一人である。弥助は、たまたま信長に気に入られたので、われわれの知るところになった。もしかしたら、弥助以外にも、宣教師に日本へ連れてこられた黒人がいたかもしれない。
なお、ポルトガルの宣教師とともに商人も日本にやって来たが、豊臣秀吉の時代になると、ポルトガルの商人は日本人を奴隷として購入し、東南アジアなどで売買していた。こうした時代背景があったことも忘れてはならないだろう。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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2024年5月21日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「ご存じですか? 織田信長が可愛がった黒人サムライ・弥助の「史実での来歴」 本能寺の変の後は不明
堀江宏樹
戦国時代の日本に、アフリカ出身の黒人武士がいたことをご存知だろうか? 織田信長は彼を気に入り、「弥助」と名付けて御小姓にも選んでいた。なぜ弥助は日本に来たのだろうか? また、本能寺の変のあと、彼はどこへ行ったのだろうか。
■信長に気に入られ、御小姓まで出世
弥助のイラスト(いらすとや)
人気ゲームシリーズ『アサシン クリード』が、戦国時代の日本を舞台にした最新作『アサシン クリード シャドウズ』の主人公が「忍」の奈緒江と「侍」の弥助であることを発表したことでネットはかなり沸き立ちました。
弥助は、晩年の織田信長に御小姓として仕えた黒人の青年・弥助をモデルにしたキャラクターだと思われるので、おもしろい人選だと個人的には感じました(ただし、弥助に関しては欧米で史実ではない情報が流布しており、かなり炎上中のようです)。
史実の弥助と信長の出会いは、天正9年(1581年)2月、京都の本能寺で、正確にいえば、弥助の名前もその時、信長から与えられたものです。もともと弥助はイエズス会の司祭・ヴァリニャーノがインドで買い求めたアフリカ系の黒人奴隷でしたが、黒い肌を持つ彼に強い関心を示した信長は、ヴァリニャーノから譲ってもらう形で彼を家臣の列に加えました。今日的な観点から見れば、本人の意思など完全無視、炎上間違いなしのやりとりではあります。
当時のインドにはすでに巨大な奴隷市場が存在し、インドはポルトガルの支配下にありました。アフリカ東海岸にあったポルトガルの奴隷輸出会社を通じて、黒人奴隷は安価な労働力として世界中に輸出されており、おそらく現在のモザンビーク出身だった弥助も不幸にして奴隷商人の手で捕らえられ、インドまで船底にモノのように詰めこまれて運ばれ、当地でイエズス会の宣教師に買われたという来歴のようです。
数奇な運命に導かれるまま日本にたどり着いた弥助でしたが、信長は彼を大いに可愛がりました。「彼の男(弥助)健やかに器量也。爾(しか)も強力十之人に勝ちたり」という記述が太田牛一による『信長公記』にあります(一部、原文の表記をわかりやすく改変)。
御小姓とは、主君の身辺に仕えて雑用をこなすのが仕事で、主に名門の子弟から選ばれてなるのが普通でした。黒人奴隷から御小姓とはかなりの出世です。健康で聡明、しかもパワフルな弥助は信長から大いに気に入られ、「侍」としての才能を見出されていたのでしょう。
仮に「本能寺の変」が起きていなければ、信長のもとで武士としての英才教育を受けた弥助は本当に織田家中を支える人物に成長していたかもしれません。
■「本能寺の変」のあと、どこへ行ったのか?
しかし、弥助が信長に取り立てられてからわずか1年4ヶ月後、「本能寺の変」が勃発しました。「本能寺の変」当日の天正10年(1582年)6月2日、本能寺に宿泊していた信長の側に弥助も控えており、武器を取って明智軍と戦ったそうです。
信長が自害に追い込まれた後も弥助は奮戦を続けましたが、明智軍に捕らえられ、光秀から「彼は黒人で、動物のようなものだ」という理由で「南蛮寺」――つまりイエズス会の運営する教会に引き渡される形で釈放されています。
そして、それ以降の弥助の足取りを史料上は辿れなくなるのですが、宣教師たちと共にヨーロッパに向かったか、あるいはゲームのように「侍」として、生涯を過ごしたのかもしれません。
ちなみに17世紀後半、ロシア帝国の君主だったピョートル大帝も、黒人の小姓アブラム・ガンニバル(イブラヒム・ガンニバル)に高い才能を見出し、後には貴族の身分を与えて、重用したことは有名ですね。
もともとガンニバルはトルコ人に拉致され、奴隷としてロシアに売られてしまったアフリカ系黒人奴隷だったと考えられていますが、ロシアの貴族になった結果、彼のひ孫には「近代ロシア文学の祖」と謳われる文豪・プーシキンの曽祖父がいますし、ヨーロッパ中の貴族たちに彼の血統は現在でも受け継がれています。
ちなみにガンニバルのひ孫のプーシキンの時点で、彼の曽祖父が黒人であったとうかがえる外見的要素はほとんど見当たりません。このように、日本のどこかで、信長の御小姓だった弥助の血統も、今もなお、ひっそりと受け継がれ、続いているのかもしれません。 ・ ・ ・
和楽「弥助とは何者なのか
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会巡察師ヴァリニャーノの背後に控える男
本能寺の変からさかのぼることおよそ3年の、天正7年(1579)7月25日。アジア、アフリカ地域で最も高貴とされるカトリック教徒が日本に上陸した。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。巡察師とはイエズス会総長の名代として、各地の布教状況の査察、指導を行う宣教師をいう。イタリアのキエティ(当時はスペイン領)生まれのヴァリニャーノは、この時、40歳。威厳に満ちた彼を筆頭とするイエズス会一行は、上陸した島原半島の口之津で日本の信者たちに迎えられ、長崎へと赴くのだが、ひときわ人々の目をひいたのが、ヴァリニャーノの背後に控える、従者で護衛役でもある大男であった。
ずば抜けて背が高く、屈強な肉体を持ち、肌の色は墨を塗ったかのような漆黒。坊主頭を日差しから守るためか白い布をターバンのように巻き、槍を手にしていたと思われる。年齢は20歳代前半。名前は不明だが、これが後年、「弥助」と呼ばれる若者であった。ヴァリニャーノらは、若者を「イサケ」と呼んでいた可能性があるという(『信長と弥助』)。
弥助がこの時、24歳であるとすれば、生まれは1555年ということになる。しかし出身国、出身民族、母国語などはわからない。ただ、彼がアフリカにルーツを持つことは間違いないようで、ルイス・フロイスの書簡に弥助について「Cafre(カフル)」と記されている。カフルとは、同じく肌の黒いインド人、東南アジア人、アラブ人と明確に区別して、アフリカ人のみを指すポルトガル語であった。また、ポルトガル領東アフリカ(現、モザンビーク)出身とする説もあるが、『信長と弥助』のロックリー氏は、断定はできないとする。
弥助は「ハブシの戦士」だったのか
では、弥助はどこでヴァリニャーノらと出会い、従者になったのか。それについては、インドの可能性が高いようだ。1574年にポルトガルのリスボンを発したヴァリニャーノらの一行が、まず目指したのはインドのポルトガル領であった。途中、モザンビークに3週間寄港しているので、そこで弥助と出会った可能性もないわけではないが、インドには3年間滞在して、布教状況を査察している。そして当時のインドのポルトガル領には、アジア、アフリカから膨大な数の人々が奴隷として連行されており、その中にはインド軍の主力を形成した軍事奴隷の「ハブシ」も多数含まれていた。
ハブシとは北東アフリカの奴隷を指す言葉である。ハブシの男は獰猛(どうもう)で戦闘技術が巧みであり、さらに忠誠心が高いことから、軍事奴隷としての実力は当時のアジア全域に知られていたという。ハブシを手に入れた者は、十分な訓練と食事を彼らに与えて戦士として育成し、ハブシは忠誠心をもって主人の護衛や用心棒を務めた。また軍に属するハブシは乗馬技術に習熟した者が多く、主人との雇用関係が切れたハブシが、傭兵として自らを売り込むようなこともあったという。弥助もまた、こうしたハブシの一人ではなかったろうか。
弥助の体格のよさから見て、10代の頃からハブシの戦士として育成されていた可能性があるだろう。3年間のインド査察を終え、次に戦乱の続く極東に向かわなければならないヴァリニャーノが、ハブシの屈強な若者をボディガードに選ぶのは自然なことであった。ただしイエズス会は建前上、奴隷を認めていない。弥助も軍事奴隷ではなく、イエズス会と雇用契約を結んで、ヴァリニャーノの身辺護衛と従者を自らの任務としていたはずである。
戦乱の九州で過ごした2年間
10万人の信者を獲得していたイエズス会
三勢力鼎立の九州から都へ
戦乱の九州で過ごした2年間
フランシスコ・ザビエル
10万人の信者を獲得していたイエズス会
イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって、キリスト教が初めて日本にもたらされたのは、天文18年(1549)のこと。弥助らの日本上陸の、ちょうど30年前であった。ザビエルは日本人について、「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見出せない。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がない。驚くほど名誉心が強く、他の何ものよりも名誉を重んじる」と語っている。
ザビエル来日から30年の間に、日本におけるキリスト教信者は10万人にのぼっていた。特に九州地方と、京都周辺での布教の成功は目覚ましかったという。天正4年(1576)には、イエズス会によって京都に教会堂が建てられ、「都の南蛮寺」と呼ばれた。
一方、ヴァリニャーノ一行が上陸した九州では、来日の翌年にあたる天正8年(1580)にキリシタン大名の大村純忠(おおむらすみただ)が、なんと長崎の地をイエズス会に寄進している。その背景には、ポルトガルとの交易による利益と軍事力を自領に確保しようとするねらいがあったが、純忠自身が熱心なキリスト教信者であることもまた事実だった。のちに純忠はヴァリニャーノと面会し、「天正遣欧少年使節」の派遣も決定している。
長崎
三勢力鼎立の九州から都へ
ヴァリニャーノ一行は来日してから2年間を、主に九州で過ごした。九州では豊後(現、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が最有力の大名であり、キリシタン大名でもあったが、薩摩(現、鹿児島県)の島津氏に高城(たかじょう)川の合戦で大敗を喫して以来、失速。代わりに島津氏と肥前佐賀(現、佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が台頭して、三勢力鼎立(ていりつ)の争いとなっていた。しかしヴァリニャーノ一行に危害が及ぶことはなく、ボディガードの弥助が腕力を振るう機会もなかったろう。ただし、弥助の姿に驚いて、一行のもとに群がる日本人は少なくなかった。
そして天正9年(1581)に入ると、ヴァリニャーノは使節として都を訪問することを決意する。実はヴァリニャーノが日本を去る日が近づいており、その前に日本最大の実力者である織田信長に拝謁して、イエズス会の布教活動の庇護を確かなものにしておきたかったようだ。大友宗麟の献身的な協力を得て、宗麟が仕立てた船に乗ったヴァリニャーノ一行は、瀬戸内海を一路、和泉(いずみ)の堺(現、大阪府)へと向かう。それは弥助にとっても、運命的な旅路であった。
大友宗麟像
織田信長との出会い
死傷者が出るほどヒートアップした弥助見物
信長に気に入られた「黒い大男」
戦国の覇者の小姓「弥助」
「いずれどこかの領主になるのでは」
信長とともに戦場にも赴く
織田信長との出会い
南蛮寺
死傷者が出るほどヒートアップした弥助見物
当時の国際貿易港である堺に到着した一行は、船から馬に乗り換え、紋章旗や十字架を掲げながら京を目指した。そんな一行が物珍しく、群衆が取り囲む。特に「黒い大男」弥助の姿は、多くの日本人を驚かせた。一行は摂津(現、大阪府)高槻(たかつき)城主でキリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)の歓待を受けた。のちに信仰を守って国外追放となり、フィリピンのマニラで生涯を閉じる右近だが、このときは織田信長の有力な配下である。右近は、ヴァリニャーノらが速やかに信長に拝謁できるよう祈ったという。
そして、事件は彼らが京都に到着し、教会堂(南蛮寺)に入ったところで起きた。黒い大男の噂は一行が到着するよりも先に京都に届いており、その姿を見ようとする群衆(1,000人を超したとも)が教会堂に押し寄せたのである。宣教師たちは建物が壊されるのを恐れ、門扉(もんぴ)にとりついた群衆の中には、押しつぶされて死傷する者まで出た。騒ぎは、京都に滞在していた信長の軍勢が派遣されて、ようやく収まったという。信長は、騒動の原因となった黒い大男の正体を知りたがり、自分のもとに連れてくるよう命じた。図らずもヴァリニャーノ一行は、上洛直後に信長への拝謁のチャンスを得たのである。
本能寺跡碑
信長に気に入られた「黒い大男」
信長が京都で宿所としている本能寺は、教会堂から徒歩5分程度の近距離にあった。弥助を含むヴァリニャーノ一行は、織田家の武士たちに守られながら信長のもとへ赴いたのだろう。その謁見の様子を、織田家家臣の太田牛一(おおたぎゅういち)は次のように記す。
「二月二十三日、キリシタン国から黒坊主が参上した。年のころは二十六、七歳でもあろうか、全身の黒いことは牛のようである。見るからにたくましく、みごとな体格である。その上、力の強さは十人力以上である。伴天連(バテレン、ヴァリニャーノらのこと)がこの男を召し連れて参上し、信長公に、布教のご許可にたいしてお礼を申し上げた(以下略)」(太田牛一『信長公記』の現代語訳)。
また宣教師ルイス・フロイスは、弥助を見た信長の反応を次のように記録している。
「大変な騒ぎで、(信長は)その色が自然であって人工でないことを信ぜず、帯から上の着物を脱がせた」
信長が弥助の体を洗わせたという説もあるが、そこまでせずとも着色でないことはわかっただろう。弥助が正真正銘の「黒い大男」だと知れると、信長も居並ぶ家臣たちも、敬意をもって彼に接したようだ。『信長公記』には弥助が「十人力」であると記されており、その腕力を見せる機会もあったのかもしれない。しかし弥助の振る舞いはあくまで礼儀正しく、信長はすこぶる上機嫌で、弥助に褒美として銭一万(十貫文)をその場で与えている。
後日、ヴァリニャーノは再び信長に拝謁し、西洋の様々な品物を献上するが、その際に、政治的配慮で信長気に入りの弥助も献上されたのではないかと、『信長と弥助』のロックリー氏は推測する。また初対面後、信長自ら教会堂に出向き、弥助と再会したことをうかがわせる記録もあり、信長がヴァリニャーノに弥助を譲るよう求めた可能性もある。いずれにせよ弥助の意思に関係なく、その身柄はイエズス会から信長の下に移ることになった。しかし信長は彼を、お飾り的な「黒い大男の従者」にするつもりはなかったのである。
戦国の覇者の小姓「弥助」
復元された安土城天主
「いずれどこかの領主になるのでは」
なぜ織田家で弥助と名づけられたのかは、よくわからない。ロックリー氏は、ヴァリニャーノ一行が彼を「イサケ(ユダヤ名イサク)」と発音するのを聞いて、「ヤスケ」にしたのではとする見方とともに、彼の出身がモザンビーク北方の「ヤオ」族で、それを聞いた信長が日本男性の名前に多い「助」を加えて、「ヤオ助→弥助」にした可能性も紹介している。
織田家の家臣となった弥助は、主君に従って近江(現、滋賀県)の安土に赴くと、小姓(こしょう)に任じられた。信長の小姓といえば森乱丸(蘭丸、もりらんまる)が有名だろう。常に主君の側近くに仕え、身の回りの世話を焼くだけでなく、使者として信長の意を伝え、ときに自分より格上の部将に指示を与えることもあった。そんな要職に異国人が抜擢されるのは破格のことだが、合理的な信長が理由もなく弥助を小姓にするとは考えにくく、弥助が多少は日本語で会話できたこと、また軍事奴隷(ハブシの戦士)として、ヨーロッパの最新の軍事知識と技術を身につけていたことが高く評価された可能性があるという。
弥助は信長の太刀持ちなどを務め、常に側近くに控えていたようである。また扶持(ふち、給与のこと)を与えられ、装飾付きの短刀、さらに安土城内に私宅まで下賜された。たまに従者を伴って安土城下を歩くこともあり、城下の人々は弥助が信長の寵愛を受けていることを知って、「いずれどこかの領主になるのでは」と噂したと伝わる。外国人領主が現実的であるのかはともかく、小姓が城持ちの領主となる可能性は十分にあった。たとえば森乱丸は、本能寺の変の直前に5万石を領し、小姓を務めながら大名になっている。日本初の外国人侍である弥助は、運命の変転にとまどいながらも、信長の厚遇に感謝していただろう。
信長とともに戦場にも赴く
次に弥助が記録上に現われるのは、天正10(1582)年4月19日である。長年の宿敵であった甲斐(現、山梨県)の武田氏を滅ぼした信長は、戦場の視察に赴くが、その傍らに弥助の姿があった。信長と同盟を結ぶ徳川家康(とくがわいえやす)の家臣・松平家忠(まつだいらいえただ)が、信長主従を記録している。
「信長様が、宣教師から進呈され、扶持を与えたというくろ男を連れておられた。身は墨を塗ったように黒く、身長は6尺2分(約182cm)。名は弥介というのだそうだ」(『松平家忠日記』の現代語訳)
すでに決着はついていたとはいえ、信濃(現、長野県)、甲斐の敵地に乗り込む以上、不測の事態が起きることは十分にあり得た。信長に近侍(きんじ)する弥助は、いざという時には主君の楯(たて)となり、敵を撃退するという重大な任務を負っていたはずである。記録にはないが、弥助も甲冑(かっちゅう)姿であっただろう。信長が小姓の一人として、弥助に信頼を置いていたことがうかがえるのではないだろうか。しかし、それからわずかひと月余りのちに、信長と弥助は運命の本能寺の変を迎えるのである。
戦国時代 戦国武将
書いた人
辻 明人
東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。
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