💄25)─3─吉原の遊女の多くが梅毒や性病で命を落としていた。〜No.53 

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 日本民族は、梅毒感染者である。
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 2024年7月13日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「「ほとんどは梅毒や性病で命を落とす」“江戸の歓楽街”「吉原」で働く遊女たちの悲哀
 〈「事実は小説より奇なり」恋人のイチモツを切った阿部定が「吉原」に住んでいた歴史背景 〉から続く
 「ほとんどの遊女は、梅毒などの性病などによって、年季を待つことなく命を落とし、三ノ輪にある浄閑寺などに葬られた」…華やかに見えるものの、内実は決して幸福とは言えない吉原の遊女たちの生活を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏のベストセラー 『江戸・東京色街入門』 (実業之日本社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編を読む )
 © 文春オンライン
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 ナゾの歓楽街「吉原」はなぜ誕生したのか
 ここで吉原の歴史を辿ってみよう。徳川家康が江戸に入府すると、江戸の街は急速に広がり、人口も増えていく。江戸造営のための職人たちや国元から江戸の屋敷に詰める武士たちが溢れていた。男女の割合は女が4割ほどで、常に女不足であった。さらには、関ヶ原の合戦大坂夏の陣などで取り潰しにあった大名家の浪人たちも江戸の街に流入していた。
 男たちの慰安施設と、幕府にとって不穏分子を監視する意味もあり、元和3年(1617)に庄司甚内の願いを認め吉原が設置されるのである。吉原の語源は、もともとは葦の原だったことから葦原となり、縁起を担いで吉原となったという。
 場所は今の吉原の場所ではなく、当時の町外れであった日本橋人形町界隈である。人形町の交差点から、大門通りを入ったあたりが吉原(元吉原)だった。当時は、四方を堀割で囲まれていたが、今ではアスファルトの道となり名残はない。ただ、居酒屋や割烹などが肩を寄せ合うように並び、雑然とした一角がある。この場所が単なるオフィス街とは違い、歴史の因縁を背負っているように思えてならなかった。
 明暦3年(1657)、10万人が亡くなったともいわれている明暦の大火が発生し、元吉原を含めた江戸の市街地のほとんどが焼けた。大火後、幕府は開幕以来手をつけてこなかった江戸市中の区画整理を実行する。寺などを郊外に移し寺町を形成するとともに、町外れにあった元吉原も幕府の命により、江戸のさらに町外れであった現在の場所に移転する。
 吉原の区画は、この場所に移ってきた明暦3年から400年近く変わらない。江戸時代初期に産声をあげ、戦後の昭和33年(1958)4月1日に施行された売春防止法により、遊廓からはじまった吉原と売春の歴史は途絶えたかと思われたが、ソープランド街として生まれ変わった。
 そもそもソープランドは吉原ではなく、東京の東銀座で誕生した「東京温泉」が最初だった。20人の女性従業員を抱え、「トルコ風呂」と名乗った。トルコ風呂の名称は、後にトルコ大使館からのクレームにより、ソープランドに改称されるまで使われ続けた。
 ソープランドが初めて吉原にできたのは、昭和33年8月のことだったという。「トルコ吉原」の名称で営業した。ちなみに当時の入浴料は700円で、今でいえば1万円ぐらいの換算になる。
 苦界に沈んだ遊女に思いを馳せる
 吉原にはかつて大門があったが、今では存在しない。大門のあった場所に足を運んでみると、そこには道路を挟んで柱が立っていて、大門があったことを今に伝えている。
 この柱のすぐ脇には、警察の派出所があるが、江戸時代の遊廓華やかりし頃には、吉原の私設の警察ともいうべき、四郎兵衛会所という番所があった。
 四郎兵衛会所の役割は、廓主たちにとって商品である遊女たちの逃亡を防ぐことであった。遊女たちは、芸娼妓の周旋人である女衒によって買い取られて、吉原へとやってきた。親に支払われるのは、5両から10両、時代によるが、現在の価値で1両は10万円ほどである。
 18歳前後で客に水揚げされ吉原の遊女となる。約10年勤め上げ20代後半で年季明けとなるのだが、ほとんどの遊女は、梅毒などの性病などによって、年季を待つことなく命を落とし、三ノ輪にある浄閑寺などに葬られた。
 年季前に、吉原という苦界から抜けるには、客から身請けされることである。実際に客が身請けをするとなると、遊廓の関係者などに、現在の金で1億円以上を支払わなければならなかった。
 遊女たちの中には、吉原から逃れようとするものが、後を絶たなかったのである。客と駆け落ちを試みたところで、番人たちの捜索から逃れることはほぼ不可能だったという遊廓へと連れ戻されると、遊女たちには、楼主や手下の男たちによる折檻が待っていて、それで命を落す者も少なくなかった。
 メインストリートである仲之町通りを中心として、大門から見て左右に通りが延びている。手前右から江戸町一丁目、左に二丁目、次の通りの右は揚屋町、左が角町、最後の通りの右が京町一丁目、左が京町二丁目と呼ばれた。
 目ぬき通りにいる遊女たちは、玉代といわれる料金も高くなるが、そこから離れれば、離れるほど、その値段は安くなる。時代によっても変化があるが、遊女たちには最高級の太夫から、最下級の切見世まで厳然たる階級が存在した。
 最下級の遊女たちがいたのが、大門から歩いていくと、南の外れにあたる羅生門河岸と呼ばれた一角である。
 ソープランドのネオンを横目に見て、歴史に思いを馳せながら吉原を歩いてみるのは、いかがだろうか。
 (八木澤 高明/Webオリジナル(外部転載))
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