・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本人は、昭和天皇に対して薄情で冷淡である。
あいちトリエンナーレ2019は、昭和天皇肖像画の写真を燃やす動画を日本の代表する現代アートとして紹介し、多数の日本人が賛同し、少数の日本人が反対した。
昭和天皇は、歴代天皇の中で最も日本人に嫌われている天皇である。
・ ・ ・
昭和天皇は「日本人は私が好きである」、それは戦前の日本人であって現代の日本人ではない。
・ ・ ・
昭和天皇は、日本人による革命を怖れていた。
・ ・ ・
メディアや教育現場に潜む敗戦利得者の後継者達は、神話的日本を科学的日本に改造する為に、昭和天皇の戦争責任論と退位論、日本国憲法による国民主権成立と天皇主権破棄の8月革命説を広めた。
・ ・ ・
日本人共産主義者の二七年テーゼと三二年テーゼ。
そして、中国共産党と国際的共産主義勢力。
・ ・ ・
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
暗殺者を支援していたのが、抗日勢力である中国共産党とファシスト中国(国民党)そしてアメリカのプロテスタント系キリスト教会の反天皇反日本派キリスト教原理主義者であった。
反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人のメディアや教育は、暗殺者やテロリストを讃美し擁護して反対しない。
・ ・ ・
2020年4月18日 産経新聞「昭和天皇の87年
国民9割が天皇支持 かくて退位論の火は消えた
有料会員記事
第217回 イデオロギー対立(1)
東条英機ら7人が死刑判決を受けた極東国際軍事裁判(東京裁判)の終盤、昭和天皇の皇位も、重大な危機をはらんでいた。開戦の責任をとって退位すべきだという声が、主にインテリ層の間で再燃しだしたからだ。
発端は昭和23年5月、最高裁長官の三淵忠彦が週刊朝日の対談記事で、「陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかつたか」と発言したことだった。これが海外に誤伝され、ロンドン発ロイター電が「降伏記念日たる八月十五日を期して天皇の退位が行われるであろうとの噂が東京で強まつている」と配信。内外メディアの退位是非論に火が付いた。
・ ・ ・
2020年5月17日 産経新聞「昭和天皇の87年
臣吉田茂の直言「天皇退位を希望する者は非国民だ」
有料会員記事
第226回 高度経済成長
日本が主権を回復してから皇太子(上皇さま)が結婚されるまでの昭和27~34年、占領期にどん底を味わった国民生活は、劇的に変わった。
朝鮮戦争の特需に沸いた景気は、29年になるとさらに拡大。神武天皇の建国以来最大だとして、神武景気と名づけられる。企業の業績好転で庶民の購買力も増し、努力すれば手に届く電気洗濯機、冷蔵庫、テレビが「三種の神器」ともてはやされた(※1)。
・ ・ ・
2016年6月11日 東洋経済オンライン「 「退位した方が楽になる」自らの戦争責任を自覚
有料会員限定
解説(7) 昭和天皇の戦争責任
古川 隆久 : 日本大学文理学部教授
1941年12月の太平洋戦争の開戦、そしてそれが足かけ5年の長きにわたり、内外に多大な犠牲を出して日本の敗北に終わったことについて、昭和天皇(1901〜89)に責任はあったのか。
説は大きく二つに分かれる。一つは政治的責任があるのは明らかだとする説。大日本帝国憲法第4条が、天皇を「元首にして統治権を総攬(そうらん)し」、つまり国家の最高責任者と定めていることが根拠である。もう一つは、形式的にはともかく、政府・軍部が合意した場合、天皇はそれを受け入れるのが慣例だったので、天皇に実質上の政治的な責任はないという説である。
いったいどちらが正しいのだろうか。
日本政府は、実質責任なしという説を敗戦直後から一貫してとっている。しかし、大日本帝国憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」と、天皇に軍隊の最高指揮権があることが明記され、憲法の規定上、軍隊の指揮について輔弼(ほ ひつ)する機関は存在しない。日本軍の作戦本部として、陸軍に参謀本部、海軍に軍令部があったが、いずれも法的な位置づけとしては天皇に軍備計画や作戦計画を提案するだけで、提案を実施するかどうかの判断は天皇の専権事項だった。
この記事は有料会員限定です。
・ ・ ・
ウィキペディア
昭和天皇の戦争責任論は、1931年(昭和6年)9月18日の満州事変勃発から1945年(昭和20年)9月2日の降伏文書調印による日本の降伏までの十五年戦争(満州事変・支那事変/日中戦争・大東亜戦争/太平洋戦争)に対する昭和天皇の戦争責任に対する議論のこと。
昭和天皇が死去した1989年1月7日、日本共産党が「天皇裕仁は侵略戦争の最大かつ最高の責任者」とする中央委員会声明を発表している。
2005年5月8日に衆議院議員菅直人(当時民主党元代表、後に首相歴任)は出演したテレビ番組で「天皇機関説的に動いていたから直接的な責任はないが、象徴的な戦争責任はあり、退位することで戦争責任を明確にするべきだった」と述べた。
国内や他国からの反応
具体的には、昭和天皇をアメリカ軍の捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、内政干渉するという計画書が策定された。
一方で、イギリス、オランダ、中国の各国世論大半からは枢軸国の指導者としてアドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニに並んで、昭和天皇を憎悪の対象として見られた。
アメリカでは戦争終結直前の1945年6月29日に行われた世論調査によれば、「昭和天皇を処刑するべき」とする意見が33%、「裁判にかけるべき」とする意見が17%、「終身刑とすべき」とする意見が11%であった。
しかし後にハーバート・ビックスは著書『昭和天皇』において「昭和天皇が戦争に積極的に関与した」という主張を提示し、論争を引き起こした。
・ ・
八月革命説とは、1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾により、日本において革命が起こり、主権の所在が天皇から国民に移行し、日本国憲法は新たに主権者となって憲法制定権力が移行した国民が制定したと考える学説のこと。主権の所在の移行を、法的な意味での革命、革命という法的な擬制(フィクション)を用いて説くことからこう称される。憲法学者の宮沢俊義により提唱された。
・ ・ ・
日本を動かしている超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達は、日本国憲法の国民主権から天皇主権破棄する8月革命説や昭和天皇の戦争責任論と退位論を教えられていた。
特に信じている日本人が多いのは、メディア業界と教育現場である。
・ ・ ・
日本の敵は、イデオロギー侵略を仕掛けてきた過激派マルクス主義・共産主義者と宗教侵略を仕掛けてきたキリスト教原理主義者であった。
日本に味方してくれる国は1カ国もなく、日独伊三国同盟のナチス・ドイツは日本の味方ではなかった。
第二次上海事変で始まった日中戦争で日本軍が戦った敵は、ファシスト中国とドイツ軍事顧問団であった。ヒトラーは人種差別主義者として親中国反日であり、ドイツの軍需産業とユダヤ系国際金融資本はファシスト中国を勝利させる為に支援していた。日本軍は、ファシスト中国とドイツ軍事顧問団の連携軍を撃破し、第二回南京事件を起こした。
・ ・ ・
昭和天皇は、明治天皇に匹敵する英明で偉大な天皇である。
日本民族は、昭和天皇に感謝する必要がある。
・ ・ ・
昭和天皇が退位する理由はない。
日本民族は、昭和天皇の退位など望んではいなかった。
もし、昭和天皇が退位していたら共産主義者による敗戦革命が起き、日本は共産主義国家となり宗教は破壊され天皇・民族そして日本が消滅した。
昭和天皇が戦った敵とは、ソ連・中国共産党などの国際的共産主義勢力であった。
明治天皇が戦った敵とは、ロシア、清国(中国)、朝鮮であった。
日本の大陸戦争は、正当権利としての専守防衛の積極的自衛戦争であった。
・ ・ ・
歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
・ ・ ・
現代の日本人には、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がないだけに本当の歴史が理解できない。
・ ・ ・
昭和天皇は、国内外の敵から歴代天皇の中で最も命を狙われた天皇であり、死後も国内外から戦争犯罪者として罵詈雑言で非難され続けている天皇である。
「昭和天皇は、ヒトラーと同類、同罪である」と。
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
・ ・ ・
日本民族は先住民・日本土人として、数千年前の弥生時代・古墳時代に国の平和と民の安寧の為に智恵を絞って神話を正統とする天皇家と男系父系の天皇制度を生み出し、日本を一つにまとめる国の御柱・民の要として受け継ぎ、神聖不可侵の神の裔を守る為に命を犠牲にして戦っていた。
つまり、天皇の命令だから戦争を起こし戦場で戦ったのではなく、天皇を国體として死守しようとしたのである。
それを破壊しようとしたのが、中世キリスト教原理主義者、中華儒学者、過激派マルクス主義者・共産主義者達であった。
・ ・ ・
中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に輸出していた。
・ ・ ・
現代日本のメディアと教育界の一部は、反宗教無神論・反天皇反民族反日的テロリズムに賛同している。その証拠が、昭和天皇の戦争責任と靖国神社反対である。
エセ保守とリベラル左派は、天皇の戦争責任や天皇の戦争責任を子供達に教えている。
彼らは、超エリート層と言われる超難関高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達として政界・官界・法曹界・教育界・経済界・市民団体など多方面の指導者になっている。
日本国民の90%が、男系父系の現皇室を女系母系新天皇に変更し、明治天皇・昭和天皇系の断絶を求めている。
・ ・ ・
日本民族が激減し外国人移民(主に中国人移民)が増加する事で、反宗教無神論・反天皇反民族反日的人間が日本国内で増えていく。
・ ・ ・
日本の大陸戦争は専守防衛の積極的自衛戦争で、前期は江戸時代後期から日韓併合までで敵はロシアであり、後期はシベリア出兵から太平洋戦争敗北までで敵はソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力そしてアメリカであった。
後期の積極的自衛戦争で、日本にイデオロギー侵略を仕掛けたのはレーニンであった。
レーニンは、国際的人民暴力革命を成功する為に手足として利用したのは、中国の孫文(中華民国)、蒋介石(ファシスト中国)、毛沢東(中国共産党)そしてソ連のスターリン、アメリカのフランクリン・ルーズベルトであった。
・ ・ ・
中国共産党は、レーニンの指示に従い日本を中国との戦争に引きずり込む為に、中国在住の日本人への侮日(ぶにち)行動や殺人や暴行などの犯罪行為を繰り返し、昭和天皇を殺害しようとした日本人共産主義者を支援していた。
・ ・ ・
昭和天皇や東条英機内閣は対米戦回避の為に外交努力を続けたが、国民世論と右翼は対米戦開戦を求めていた。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、対独戦参戦の為に対日戦を決断していて、日本が如何なる手段を使って戦争回避を求めても応ず意思はなかった。
つまり、日本は戦争を回避しようとしたが、アメリカは戦争を求めていた。
歴史的事実として、戦争を始め終わらせるのは大国・強国であり小国・弱小国ではなかった。
アメリカは前者であり、日本は後者である。
・ ・ ・
ソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力は、反宗教無神論・反天皇反民族反日として日本を共産主義化する為に昭和天皇と皇室そして日本人天皇主義者を全員惨殺するべく陰謀を巡らしていた。
・ ・ ・
日本に味方して共産主義と戦ってくれる国は1カ国もなかった。
日独伊三国同盟は、対ソ同盟であっても対共産主義同盟ではなかった。
対共産主義としては、カトリック教会とイスラム教徒であった。
・ ・ ・
昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
・ ・ ・
天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇と日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
・ ・ ・
昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者と無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズム、ボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
・ ・ ・
天皇のご威光(国體・国柄)、皇道主義、民族主義、神話物語、八紘一宇 vs. マルキシズム(共産主義・社会主義)、ボルシェビキ、レーニン主義、スターリニズム、マオイスト(毛沢東主義)、ファシズム、ナチズム。
・ ・ ・
既に日本は中国共産党の軍門に降って降伏している、その証拠が平成4(1992)年10月にエセ保守が強行した天皇皇后両陛下による中国訪問であった。
・ ・ ・
2023-12-28
⏱20:ー3ー日本のエリート学生が「まるで中国政府のスポークスパーソン」~No.61
・ ・ ・
2020-09-17
🎷20:─1─中国共産党の主席国賓訪日・天皇中国訪問は日米離間策である。~No.82No.83No.84No.85 ⑲
・ ・ ・
2024-06-05
🎻45:─2─李鵬発言「日本は40年後には消えるかもしれない」。平成8(1996)年。~No.130
・ ・ ・
2024-06-05
💎16)─3─唐家旋外務大臣は首相の靖国神社公式参拝中止を「厳命」した。平成13(2001)年~No.62No.63
・ ・ ・
2024-05-24(令和6年)
🌦32¦─1─中国駐日大使「日本の民衆が火の中に…」と日本人媚中派、反米派・反安保派、反自衛隊派。~No.102No.103
2024-05-25
🌦32¦─2・A─呉駐日大使〝火の中〟恫喝とは「岸田政権は中国にナメられた」。怒らない日本人。~No.103
・ ・ ・
日本人の媚中派、反米派・反安保派、反自衛隊派そして反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人は、メディアや教育界に多く存在する。
・ ・ ・
現代日本のエセ保守やリベラル左派は、親日知日同盟国アメリカではなく反日仮想敵国中国共産党からの外圧に弱い。
・ ・ ・
天皇の御威光とは、庶民を「大御宝」と念う天皇の御稜威、大御心である。
昭和天皇と東条英機・松岡洋右・松井石根らA級戦犯達が行った、ヒトラーとスターリンから逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民を助け保護したのも、差別反対・弱者救済・貧困愛護そして儒教的徳以上の神話的道理(本質的価値観)に命を賭ける天皇の御威光であった。
日本の国際的信頼性や外交・金融・文化的信用度を、保証できるのは数千年の歴史を持つ正統な天皇の御威光のみである。
天皇の御威光は「穏やかな祀りと祈り」として、日本国や日本民族だけではなく世界の平和と安寧、人類の幸福と繁栄をも対象とした、それが「八紘一宇」であった。
歴代天皇の中で、それを深く考え実行したのが昭和天皇であった。
・ ・ ・
天皇の御威光が誕生したのは7世紀初頭の第33代推古天皇(女帝)御代であり、生んだのは聖徳太子である。
・ ・ ・
歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
・ ・ ・
同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
・ ・ ・
現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
・ ・ ・
戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
・ ・ ・
少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
・ ・ ・
保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
・ ・ ・
2024年7月18日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「昭和天皇が「退位しなかった」ことの影
芦田均首相(当時)=1948年2月21日、 写真部員撮影
敗戦をうけて昭和天皇が退位しなかったことは、今も影を落としています。「昭和天皇退位論のゆくえ」などの著書がある、政治経済研究所研究員の冨永望さんに聞きました。 【聞き手・須藤孝】
【写真】靖国神社を参拝した昭和天皇
◇ ◇ ◇ ◇
◇今の天皇制に影響
――憲法が変わっても天皇は変わりませんでした。
◆大日本帝国憲法時代と同じ天皇が、日本国憲法のもとでも40年あまり続きました。昭和天皇が退位しなかったことは、その後の天皇制の運用面では、一番大きな分岐点でした。
――天皇は戦争に、また政治に主体的には関わっていない建前が関係します。
◆天皇を政治に巻き込むべきではないという考え方は戦前からあります。ただ、実際には政治と無関係ではいられないことは、政治に携わる人は知っていました。しかし、おおっぴらには言えないことでした。
特に敗戦直後の時点では、戦争責任に直結してしまうので、天皇は開戦の決定には関わっていなかったとする建前を貫くしかありませんでした。
日本国憲法のもとでは、4条に「国政に関する権能を有しない」とありますから、天皇の政治への関与はあってはならないはずですが、実際は国政報告(内奏)などを通じて機会があります。こちらも、政治に携わる人は知っています。しかし、その認識は共有されませんでした。
◇天皇の役割はあいまいなまま
――天皇の役割が明確になりません。
◆1948年には退位について国民的議論になりました。日本国憲法のもとでの天皇の役割が課題でした。
君主の役割を期待するならば、未成年だった皇太子に務まるのかとなります。吉田茂元首相もそうですが、政治の現場にいる人は、天皇はただいるだけではすまないとわかっていました。
戦争責任の問題を背負った昭和天皇には務まらないという考え方も、48年の段階では少数派ですが、あります。旧軍人からみると、戦争責任を軍人に押しつけて、自分は責任を取らない昭和天皇を再軍備の時に最高統帥者としてあおぐ気にはなれないということです。
一方で、天皇は飾り物になり、実害はないのだから無理に退位させる必要はないという考え方があります。昭和天皇でなければだめだと言っているわけではありませんから、消極的支持です。
未成年の皇太子でも問題はないし、そのほうが日本は変わったと示せるので望ましいという意見も、知識人らにありました。
天皇に政治的な役割を期待する考え方と、実害はないという考え方があわさって、退位しないことが多数になりました。
――同床異夢ですね。
◆政府はできるだけ、退位の議論を避けようとしました。当時は天皇制の廃止を主張する共産党に勢いがあり、「やぶへび」を恐れたのです。
保守勢力の政権独占が長い間続いたので、日本国憲法における天皇の位置づけを、与野党間ではっきりさせずにすみました。その結果、いまだに、天皇の役割についての共通認識がありません。
◇戦争をどう考えるか
――退位しないならば戦争責任に触れるべきではなかったでしょうか。
◆48年には、芦田均内閣で、退位をしないことについての「首相謹話」を出そうとしましたが、できませんでした。芦田は、国民への説明が必要だと考えましたが、宮内庁長官だった田島道治が消極的で実現しませんでした。うまく説明する自信が無かったのだと思います。
――52年の吉田内閣で退位しないという昭和天皇のおことばが出されました。
◆首相謹話とは形式が違いますが、作成にあたった田島のなかでは、問題意識は続いていました。田島の草稿では、天皇としては戦争については悔やんでいるし、内外に対して申し訳なく思っている。けれども辞めるのではなく、在位して再建に取り組むので理解してほしいという論理になっています。
しかし、吉田は退位論の再燃を懸念して、戦争への言及があった一節を削除します。退位しないと言った点では答えを出したわけですが、天皇の憲法上の役割を明確にできなかったことは48年当時と変わっていません。
――「日本の再建」を理由にしたことはどうですか。
◆日本国民に対しては一定の説得力はありますが、海外の被害者には関係ありません。海外には天皇が在位し続ける理由を説明のしようがなかったのではないでしょうか。実際にのちのちまで問題が残ります。昭和天皇が戦後も長く在位したことが、海外の人に否定的な印象を与えたことは覚えておかなければなりません。(政治プレミア)
・ ・ ・
NHK
昭和天皇「拝謁記」ー戦争への悔悟ー
昭和天皇「国民が求めるなら退位躊躇せぬ」
「拝謁記」には、国民が求めるなら天皇の位にとどまることにはこだわらないとする昭和天皇の言葉が記されていました。
目次
退位も辞さない言葉に感涙
戦争の道義上の責任を強く意識
退位も辞さない言葉に感涙
昭和24年12月19日の拝謁では、田島長官が当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させるべきだという昭和天皇に理由を尋ねたところ、昭和天皇が「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ 又退位等ノ論が出テ イロイロノ情勢ガ許セバ 退位トカ譲位トカイフコトモ 考ヘラルヽノデ ソノ為ニハ 東宮チャンガ早ク洋行スルノガ ヨイノデハナイカト思ツタ」と語ったと記されています。
民間出身で、長官就任以来、皇室と国民の関係づくりに力を注いできた田島長官は、昭和天皇の退位も辞さない言葉を聞いて、感激して涙を流し声を発することができなかったと記しています。
田島長官は、しばらくして、「大元帥陛下ノ馬前(ばぜん)ニ 戦死シタモノヽ心 及其遺家族ノ 殊ニ母トカ未亡人トカノ 心情ヲ考ヘマスレバ 陛下ノ只今ノ様ナ御考ヘ方ヲ 拝シマスルコトハ 悲シイコトデハアリマスルガ 又実ニウレシイコトデ ゴザイマス」と述べたと記されています。
そして、「御発表ノ好機迄ハ 絶対ニ御発言無之(これなく)、 又時来レバ 何卒御発意ノ通リニ 御発言願度(ねがいた)キヤウニ存ジマス 田島自身モ 今日陛下ノ御言葉ヲ 承リマシタコトハ 腹ノ底ニシマイオキマスルガ/只今ノ御言葉ノ様ナコトガ 伺ヘレバ 日本再興ノ道義ノ上ニモ 大変有難イコトト存ジマス」と述べたと記されています。
戦争の道義上の責任を強く意識
また、昭和26年8月22日に静養先の那須御用邸で拝謁した際には、昭和天皇は「長官だからいふのだが」と前置きしたうえで、終戦の日に放送された「終戦の詔勅」の内容に触れ、「あれは私の道徳上の責任をいつたつもりだ。法律上ニハ全然責任ハなく又責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易であるが道義上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して 多少とも償ふといふ意味であるがデリケートである」と述べたと記され、戦争の道義上の責任を強く意識していたことがうかがえます。
この日の拝謁では、さらに田島長官が昭和天皇に「真似目な智識人の内ニ 矢張り御退位の方が陛下の道義上の責任として至当であるといふものゝ相当居ると思ひまする」と述べたと記されています。
その6日後の拝謁(昭和26年8月28日)では、昭和天皇の退位問題をどうするか田島長官が当時の吉田茂総理大臣に相談した際のことが記されていました。
この中で、田島長官が吉田総理大臣は退位問題に対して「世の利口ぶるものが そんな事をいふのもあるが人心の安定上そんな事は考へられぬ」という態度だとしたうえで、「私も大体結論はそうかと思ひまするが世の利口ぶつたものゝ話をきけば一理あるやうに感じられまするので 世の利口ぶつた人が納得して退位論をいはぬ様ニなるやうな方策も考へられねばならぬ」などと話し合ってきたことを報告したと記されています。
昭和26年12月13日の拝謁では、独立回復を祝う式典で述べるおことばの文案を検討する中で、昭和天皇が「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬといふ事も書いて貰ひたい」と述べ、田島長官が「それは織り込みますれば結構でございますが余程六ケしいと存じますがどこかに其意味ハ出なければならぬと存じます」と述べたと記されていました。
一方で、昭和天皇はこの直後に「東宮ちやんは大分できてゝいゝと思ふがそれでも退位すれば私が何か昔の院政見たやうないたくない腹をさぐられる事もある。そして何か日本の安定ニ害がある様ニ思ふ」と述べ、当時まだ若い皇太子だった上皇さまに位を譲れば「院政」と言われ、日本のためにならないのではないかという認識を示したと記されています。
・ ・
NHK
昭和天皇「拝謁記」ー戦争への悔悟ー
退位への言及 専門家の見方
天皇の位にとどまるという決断に対する「拝謁記」の分析に当たった専門家の見方です。
目次
「初めて詳細に手に取るようにわかった」
「すごく重苦しい選択」
「物を投げつけられる体験も」
「道義的な責任 はっきり意識」
「初めて詳細に手に取るようにわかった」
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、独立回復を祝う式典でのおことばについて、「昭和天皇は田島長官を通じて昭和23年の東京裁判の判決の際に、マッカーサー元帥に手紙で退位しないことを伝えていたが、これは当時公になっていないので、昭和天皇が自ら退位を否定した発言は、昭和27年の独立回復のときのおことばしかない。最終的に留位を決心していく状況や、そこに至る昭和天皇の気持ちや心の揺れは全く表に出ておらず、これまでは断片的な資料から推測していたが、今回の拝謁記で初めてそれが詳細に手に取るようにわかった」と話しました。
「すごく重苦しい選択」
また、古川教授は「昭和天皇にとっては、在位し続けたことで一生戦争のことを言われ続けていくことになった。そのストレスを考えると、実はそんなにうれしい選択ではなく、すごく重苦しい選択だったと思う」と指摘しました。
そのうえで、「在位し続けたことでちゃんと責任をとらなかったと言われ、それが日本社会に影響して、ちゃんと責任がとれない社会になったんじゃないかとまで言われてしまった。この段階ではすでに君主ではなく象徴なので、仮に天皇が謝罪して退位しても一定程度批判は和らいだかもしれないが、国として謝らないかぎり劇的に状況は変わることはなかっただろう」と述べました。
「物を投げつけられる体験も」
さらに、「このときの決断の影響で、発言はなるべく慎重にするなどその後の行動様式が非常に抑制的になったと思う」としたうえで、「戦後長い間、海外に出ることができず、晩年に近くなってからヨーロッパを訪問した際に、物を投げつけられるなどの苦い体験をしたことや中国や沖縄など内心行きたいと思っていても行けない場所がいくつもできてしまったのは、戦争の影を引きずっていたことと結びついている」と話しました。
そして、「退位した方が、すべてを明らかにしてすっきりして、違う人生を歩めたかもしれない。でも退位できなくて、どこにも思いを吐露できない中で、戦前の追憶をずっと何十年もしなければいけない形になっていったので、心が晴れるような日は戦後なかったと考えてもおかしくはないと思う」と述べました。
「道義的な責任 はっきり意識」
日本の近現代政治史が専門で一橋大学の吉田裕特任教授は「昭和23年末の段階で退位問題には 決着がつけられたと思っていたので、その後もくすぶっていて、昭和24年の段階でもまだ退位のことを言っているというのはまったく予想しなかった」と述べました。
そのうえで、「退位問題の裏には君主としての責任感があるが、それは国民に対する責任と歴代の天皇や天皇家の祖先に対する責任の2つがある。敗戦という事態を迎え、それまで続いてきた国体を危機に陥れてしまったことに対する道義的な責任をはっきり意識していることが、拝謁記の記述からわかった」と話しました。
さらに、「天皇制廃止の立場からではなく、天皇制や国体の護持を望む立場からの退位論が周囲にかなりあり、それを意識せざるをえない状況がずっと続いていたことがわかるし、昭和天皇が退位論に関するいろいろな議論に細かく目を通していたこともよくわかる」と述べました。
・ ・ ・
2020年4月29日 アゴラ 言論プラットフォーム「昭和天皇は退位すべきだったか?
高山 貴男
もし昭和天皇が退位していれば…
4月29日は昭和天皇の誕生日である。だから昭和天皇についても語っても良いだろう。
巷に「昭和天皇論」は様々なものがあり、多いのはやはり「ご聖断」に関わるものだが、あまりに注目されていないのものとして「昭和天皇の退位」である。これは「歴史のif」に属するものだが、戦後当初は少なからず議論された。
日本国憲法に署名する昭和天皇(Wikipedia:編集部)
例えば昨年亡くなった中曾根康弘元首相は若手政治家時代に昭和天皇の退位について国会で質問している。
最後に御質問を申し上げますが、それは天皇御退位の問題であります。(中略)皇太子も成年に達せられ、戦死者の遺家族たちにもあたたかい国家的感謝をささげ得ることになつた今日、天皇がみずから御退位あそばされることは、遺家族その他の戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基礎を確立し、天皇制を若返らせるとともに、確固不抜のものに護持するゆえんのものであると説く者もありますが、政府の見解はこの点についてはいかなるものでございましようか、御親切な御答弁をお願い申し上げます。(1952年1月31日)
第13回国会 衆議院 予算委員会 第5号 昭和27年1月31日
中曽根は他人の意見を紹介しているだけだが、天皇・皇室制度への敬愛が誰よりも強い「保守政治家」が退位論を紹介すること自体、興味深いし「保守政治家」特有の着眼点、すなわち、退位通じて「天皇制の道徳的基礎を確立し、天皇制を若返らせるとともに、確固不抜のものに持する」が確認できる。
確かに昭和天皇が退位することで良く悪くも天皇は「大日本帝国的なもの」から離脱し、真の意味で日本国憲法で要請される「国民統合の象徴」となり、それこそが天皇制度を安定させるという考えは説得力がある。
そして天皇が「大日本帝国的なもの」が離脱した場合、その影響は天皇制度の次元に留まらない。おそらく「戦後」の政治地図も大きく変え、具体的には護憲派の政治勢力も相当に小さくなったと思われる。
護憲の大義名分として「大日本帝国の復活阻止」があるが、昭和天皇の存在自体が「大日本帝国の復活」にリアリティを持たせていた。なにしろ昭和天皇は「大元帥」だった。
更に昭和天皇を巡っては「戦争責任」の議論で右翼テロ(長崎市長への銃撃等)もあり、まさにこれは昭和天皇だからこそ起きたものである。
1952年の講和条約発効と同時に昭和天皇が退位していれば議論を破壊・混乱させる護憲派も政治勢力として限定的となり、また大日本帝国に憧憬を持つ右翼も問題外となり、リベラルな性格を持つ「寛容な保守」が政治・社会で圧倒的勢力となり改憲も現実的な政治課題となり日本は1970年代くらいに憲法9条改正(9条2項削除)ができたのではないかと考えるのは夢想だろうか。
やはり夢想だったか?
「当たり前である! 『歴史のif』でも夢想が過ぎる!」とのお叱りの声が聞こえそうである。昭和天皇がいたからこそ「保守」は政治的に結集して自民党という巨大な政党を立ち上げ、護憲派と闘ったのだと。
実際、中曽根のような姿勢は「保守」界隈でも少数派であり、決して主流にならなかった。確かに昭和天皇の退位が退位に留まる保証はない。退位に続いて「廃止」の声が高まることも十分にありえる。
1952年、明仁親王(当時)とともに:Wikipedia
また1952年時点で「明仁天皇」が成立してもその「若さ」が武器になるとは限らない。「若さ」はどうしても「軽さ」「優柔不断」と解釈されがちであり、天皇・皇室制度の廃止を目指す勢力はそれを強調するだろうし、廃止の急先鋒だった日本共産党は講和条約を締結した1951年9月の翌月には武装闘争を決定しより過激になっていた。
中曽根がこうした社会情勢を念頭に退位論を紹介したのかどうかはわからないが少なくとも「落ち着いた議論」ができる環境ではなかったように思われる。
昭和天皇の退位を巡る議論が逆に日本社会を分断させてしまうならば退位論には触れないほうが賢明であるし、むしろ求められる。
そうすると「昭和天皇退位→護憲派・極右の衰退→寛容な保守の成立→9条改正」はやはり夢想だったということか。
「落ち着いた議論」を阻むもの
ここまで書いたことはどこまで行っても「歴史のif」である。
それでも「もう一つの戦後」の可能性があったことを意識することは無駄ではないだろう。仮に1952年前後「落ち着いた議論」ができる環境が整っていたら、例えば天皇・皇族個人に対する名誉棄損、侮辱を守る体制が整備されていたならば状況は違っていただろう。
今でも天皇・皇室制度を巡る議論はとにかく騒がしく過激で品位がなくなりがちである。それを改めるためにも主従関係を意味する「不敬罪」は復活させることはできないが、日本国憲法の理念に合致した天皇・皇族個人の防御体制の整備は積極的に議論されるべきである。
昭和天皇は守ったのは昭和天皇自身
昭和天皇個人への評価も退位論に影響を与えたのは間違いだろう。
昭和天皇は純然たる「平和主義者」ではなかったかもしれないが戦争を極力さけ外交を重視するリベラルな国際主義者だった。
アメリカのニクソン大統領夫妻と昭和天皇・香淳皇后(Wikipedia)
筆者は歴史趣味の一環として昭和天皇の発言記録を可能な限り集めているが、記録にある昭和天皇の発言から一貫して感じられるのは「理性」である。
昭和天皇の記憶がない「昭和生まれ平成育ち(1983年生まれ)」の筆者からすると「もし大正天皇だったらどうなっていたことか」という感想すらでる。
昭和天皇は「理性」があったからこそ二・二六事件を鎮圧、本土決戦に燃える陸軍を抑え連合国に降伏することができたのである。
もし戦前、昭和天皇が「私はいつでも開戦の詔勅を読み上げる用意がある」とか「アメリカといつ戦うのか」と述べていれば間違いなく「最後の天皇」になっていただろう。
今も昔も日本国民は決して「従順な羊」ではない。
こう考えると昭和天皇を守ったのは昭和天皇自身といえる。
・ ・ ・
2005年8月12日 All About公式SNS「終戦と「昭和天皇退位工作」(3ページ目)
終戦前後、昭和天皇を退位させようとする動きがあったことは知られてはいても、その詳細を知っている人は少ないでしょう。それは盛り上がり、しかし挫折したのでした。
止まらぬ「昭和天皇退位論」
1946年2月、枢密院(明治憲法下での天皇の最高諮問機関)で、昭和天皇の3人目の弟、三笠宮崇仁親王が、遠まわしに「天皇退位」を求めました。
『芦田均日記』(芦田はのちの首相)によると、そのとき昭和天皇の顔は青ざめ、神経質な態度をあらわにしたといいます。
また、東久邇宮も、前ページで出てきたAP通信のラッセル記者に対し、こちらはわりとストレートに、天皇退位の必然性について語り、そして、「それに多くの皇族が賛成している」と述べているのです。
思わぬ皇族からの「反乱」は、昭和天皇にひとつの決断を迫りました。
「三笠宮発言」と高松宮
さて、なぜ三笠宮は唐突に昭和天皇退位論を述べたのでしょう。詳細はわかりません。
しかし、三笠宮の兄で、昭和天皇の弟、高松宮の動きが影響していないとは、いえないでしょう。
高松宮は先にも述べたとおり「天皇退位論者」近衛との結びつきが強かった人でした。すでに終戦前、近衛とたびたび会い、「退位した際、高松宮が摂政につく」ことを、話し合っていたとも言われます。
そして終戦前から、このことが原因で天皇と高松宮の間には次第に大きな対立が生まれてきたようです。
それが、三笠宮発言にどのような影響を及ぼしたかはわかりません。しかし、宮中で孤独な昭和天皇と、割と自由に動きがとれる高松宮、三笠宮がどのように結んでいたか、想像できないことはありません。
ちなみに、1975年2月号の『文藝春秋』に、高松宮のインタビューが掲載、自らを「和平派」と語る高松宮の記事に昭和天皇は激怒したといいます。また、高松宮が「昭和天皇は戦争をとめることができた」という発言があったということも(高松宮の死後発覚)、問題になりました。
退位できなかった昭和天皇
しかしながら、昭和天皇は退位しようとまったく考えなかったわけではありません。むしろ、積極的に考え、その意向を示していた時期もありました。
敗戦直後、昭和天皇は退位を木戸内大臣にもらしています。木戸幸一日記の8月29日の項から一部引用します。
戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起すの虞(おそ)れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。
その後、東京裁判終結時、そして占領終結時の2回、天皇は退位の意向を漏らしたといいます。しかし、ワシントンの意向で、それは実現しませんでした。昭和天皇の退位は、東京裁判の正当性を揺るがしかねない問題だったからです。
・ ・ ・
ウィキペディア
昭和天皇の戦争責任論は、1931年(昭和6年)9月18日の満州事変勃発から1945年(昭和20年)9月2日の降伏文書調印による日本の降伏までの十五年戦争(満州事変・支那事変/日中戦争・大東亜戦争/太平洋戦争)に対する昭和天皇の戦争責任に対する議論のこと。
敗戦後の連合国軍占領下での連合国からの極東国際軍事裁判(東京裁判)における対外的責任に基づく訴追問題と、日本国内における敗戦責任、戦争によって出た犠牲に対する責任の議論などがある。
その責任の有無を巡って肯定論、否定論ともに主張されている。
概要
終戦直後の南原繁は戦争責任について具体的に法律的、政治的、倫理的カテゴリーを区分した上で発言した。山折哲雄によれば、「戦後まもなくは天皇の戦争責任が取り上げられ退位すべきだという意見もあった」という。
21世紀となってから秦郁彦は「戦争責任は法律的、政治的、道徳的、形而上的の区分がある」と発言した。
東京裁判では昭和天皇が大日本帝国憲法の規定によって、大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍の統帥権を有する国家元首、かつ大日本帝国陸海軍の最高指揮官(大元帥。軍の階級としては陸海軍大将)であったため、「侵略戦争」を指導した国際法違反を昭和天皇が犯したとする法的責任があったと指摘を受けた場合に、訴追対象になる可能性があった。
一方、立憲君主制の下に日本国民に対する政治的、道徳的責任、すなわち国民国家に対する多大の人的・物的損害と領土失地などの敗戦責任を何らかの形で取るべきであったのではないかという議論があった。後者については秦によれば、昭和天皇は自らが退位することで責任を取る意思があったが、こちらも実現することはなかった。
その後、同盟国であった第一次世界大戦敗戦後のドイツにおける帝政崩壊とは相違して、占領政策を円滑に行うためのGHQ(SCAP、連合国軍最高司令官総司令部)の意図もあり、敗戦後も皇室は維持されることになった。昭和天皇は1947年(昭和22年)5月3日の大日本帝国憲法改正による日本国憲法施行及び1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効による連合国軍占領終了・主権回復以降も、1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまで第124代天皇として在位し続けた。
戦争責任を肯定する立場の主張
戦争当時の日本では国家主権は天皇に帰属し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとする全ての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇に戦争責任があったとする主張がある。
極東国際軍事法廷(東京裁判)では天皇は起訴されなかったが、裁判長のウィリアム・ウェブは、個人的な意見として天皇の戦争責任を言及した。
一、天皇の権威は、天皇が戦争を終結された時、疑問の余地が無いほど証明されている。(略)
一、天皇が裁判を免除された事は、国際軍事法廷が刑を宣告するに当たって、当然配慮すべきことだったと私は考える。
一、天皇は常に周囲の進言に基づいて行動しなければならなかったという意見は、証拠に反するか、またかりにそうであっても天皇の責任は軽減されるものではない。
一、私は天皇が処刑されるべきであったというのではない。これは私の管轄外であり、天皇が裁判を免れた事は、疑いも無く全ての連合国の最善の利益に基づいて決定されたのである。
ウェブはこう述べて、天皇には戦争責任があるが、政治的配慮によって起訴されていない事を明らかにした。
また、天皇自身も戦争責任を意識している節は各種証言や手記によって確認されている。ポツダム宣言受諾の際の1条件(国体護持)を巡る回答や、(中曽根らの進言に沿って戦後に退位を望む意向を示したことなど。
天皇の戦争責任を問う声は、敗戦直後からすでに緩やかな形で存在しており、三好達治は人間宣言した天皇について、「神にましまさぬ陛下は、人の子として世の中の道理にお従いになるがよろしい」と述べ、人としての責任を問い、アメリカから帰国した大山郁夫は天皇の退位を論じた。
1948年の『中央公論 昭和23年7月号』に大山郁夫が寄稿した『戦争責任と天皇の退位』では、「それ(=戦争についての天皇の責任)は単純に個人道徳上のそれにあるにとどまるものではなく、さらに・・・政治道徳上の責任に渡るものだと思う」と書いている。
山田朗は、「戦争指導の責任を追及する時期や体験としての戦争を語る時期を経て、侵略性告発を伴う加害性責任が問われるようになったが、この時代にはまだ天皇の責任は問われておらず、天皇の責任を問うたのは井上清の『天皇の戦争責任』が嚆矢であった」と書いている 。
井上清の主張は次のようなものだった。
昭和天皇は帝国憲法第1条、第3条、第4条において、統治者であること、神聖さ、元首である事が規定されており、大日本帝国の唯一最高の統治者であった。もし裕仁個人が戦争を欲しなくて、臣下に仕向けられたとしても、「結局は天皇が戦争を決意することによってしか」戦争はできない。
「天皇は日本軍隊唯一絶対の統帥権者であった」。天皇は憲法第11条と勅諭によって軍の統帥権者であるとともに忠君の道徳が強調され、上官の命令は天皇の命令として遂行する事が正当化された。参謀本部等は天皇のみの命令を受ける機関であり、規定、命令等は全て天皇に報告され、裁可を受けて天皇の命令として伝達・実施された。統帥権者である天皇が命令指揮しない戦争はないのであり、これだけでも「責任は疑う余地がない」。
さらに天皇は憲法第1条と第3条に規定される神的権威をもっていた。1868年(新暦における明治元年)に天皇が統治者となった時から、政府は「天皇が神の子孫であり、正当支配者であり、日本の国民は天皇を無限に尊崇し、絶対に従わなければならない」という思想・信仰を憲法と教育勅語に経由し3代(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)にわたって国民に植え付けた。こうして「天皇の権威が日本国民をあの戦争へと駆り立てた」のである。1931年から1945年に至るまでの戦争は「犯罪的侵略戦争」であり、天皇は責任を負わなければならない。
昭和天皇が死去した1989年1月7日、日本共産党が「天皇裕仁は侵略戦争の最大かつ最高の責任者」とする中央委員会声明を発表している。
2005年5月8日に衆議院議員菅直人(当時民主党元代表、後に首相歴任)は出演したテレビ番組で「天皇機関説的に動いていたから直接的な責任はないが、象徴的な戦争責任はあり、退位することで戦争責任を明確にするべきだった」と述べた。
より具体的に昭和天皇の具体的な意識と判断を含めて責任を追及する声もある。昭和20年(1945年)2月14日に近衛文麿元首相(終戦後、戦犯指名により自殺)は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方が良いと判断、これを拒否したという。このことは、少なくともある局面では天皇が能動的判断で戦争の継続を選択していることを意味するとも取れ、またこのときの判断次第ではそれ以降の敵味方の損害はなかった可能性をも示す。つまり、この時に天皇がこれを受け入れていれば少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはず、というものである。
外交評論家の加瀬英明も終戦時の昭和天皇の態度について「要は天皇以下、当時の指導者たちには、国民に対する責任感が全くなかった。この無責任な人間としての心を失った姿が、戦後日本の狂いの初めであると思う。苦境に際して、己の責任を回避して、他に責任を転嫁、己の生き残りを優先する。迷惑をかけた人々に対し、何らの責任を取ろうとしない。この無責任体制が、今日の日本をもたらしたと言えないか」と述べている。
戦争裁判における昭和天皇の免罪
戦後、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判では、昭和天皇を訴追する動きもなかったわけではないが、早い時期にそのような動きは撤回され、昭和天皇は裁かれないことになった。また、戦争直後には昭和天皇が退位するという選択肢も全く検討されなかったわけではないが、実際には戦後の民主的な選挙によって構成された国会によって日本国憲法が制定され、大多数の国民の支持を得た上で昭和天皇は第124代天皇の地位に留まり、戦後の象徴天皇制が始まった。
これに対して、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物[誰?]は、これらの一連の措置は、アメリカによって行われた非民主的な措置であり、昭和天皇の戦争責任を歴史的な研究課題として今日まで未解決のまま残した決定的な原因であるとしている。しかも、この措置は戦争責任に関する議論によって決定されたものではなく、多くは冷戦に向かう戦後政治の中で、日本を西側陣営に引き込もうとするアメリカなどの西側連合国の政治的な動機により採られたものだったと強く主張している。
一方、昭和天皇の戦争責任を追及しない立場の人物[誰?]は、アメリカによって行われた合理的な措置であり、戦後日本の民主化への移行を円滑に導いた要因であるとしている。この措置は、日本国民に根付く天皇の伝統文化的な価値観と誇りを破壊することによって生じるであろう多大な悪影響と混乱を回避し、民主化達成後の日本国民自らがその価値観を象徴天皇という概念として受け入れるための意識改革にとって適切な思考期間を与えた成功例であると主張している。仮に昭和天皇が戦争犯罪人として処刑されていた場合、あれほど日本国民がGHQの占領政策に協力したであろうか。それだけではなく現在の日本人の価値観、思考などさまざまな点で異質の民族性を生み出していた可能性が指摘されている。
タブー化
このように、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人々は、天皇の戦争責任は戦後における未解明の問題として残されていることを主張している。また、これらの人物は、戦後の日本で昭和天皇の戦争責任を追及することは禁じられており、何者かの強い圧力によりこの問題はタブー化され、その傾向はより一層顕著になっていると主張している。その根拠として、1988年に天皇の戦争責任について長崎市議会で答弁した長崎市長本島等が右翼活動家の若島和美に銃撃された事件(長崎市長銃撃事件)等がその証拠であると主張している。
一方で、これらの討論などは法律などによって規制されているわけではない。つまり、日本人が昭和天皇の戦争責任の追及をタブー視して、タブーがあると主張する昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人々が否定的に見られるのは、大半の日本人が天皇の戦争責任に対して否定的な見解である証左であると見なす論者もいる[誰?]。
『長崎市長への七三〇〇通の手紙』
1988年12月に長崎市議会で本島等長崎市長が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言した問題は大きな波紋を呼んだ。
日本全国から、さらに国外からも多くの封書、葉書などが寄せられ、それらをまとめた書籍も発行された。『長崎市長への七三〇〇通の手紙』は、1988年12月8日から1989年3月6日まで市長宅に届き、そこから編集部に送られたはがき、封書、電報、電子郵便の合計7323通が収録されている。その内容については、市長を激励するものが6942通、批判・抗議するものが381通で、圧倒的に市長が支持されている内容となっている。
ただし本島市長を「支持する」内容が即ち「天皇の戦争責任を認める」ものとは言えず、たとえば「その勇気に感銘した」という論旨のものや、反対勢力の暴力的恫喝的な行動への批判を表明するもの[17]なども散見される。しかし、自分の体験などに言及しつつ市長の発言に支持を表明するものも数多く収められている。
国内や他国からの反応
具体的には、昭和天皇をアメリカ軍の捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、内政干渉するという計画書が策定された。
一方で、イギリス、オランダ、中国の各国世論大半からは枢軸国の指導者としてアドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニに並んで、昭和天皇を憎悪の対象として見られた。
1971年(昭和46年)に昭和天皇がヨーロッパを訪問した際、ベルギー、フランスでは歓迎を受けたが日本と交戦国であったイギリス(日英同盟での旧同盟国)、オランダでは昭和天皇に憎悪感情を抱く退役軍人等からの抗議に遭い、イギリスでは馬車に乗っている最中に「天皇は帰れ!!」と抗議を受けた。
イギリスの場合、大衆紙の『ザ・サン』は「血に染まった独裁者」として昭和天皇の写真を掲載し、昭和天皇を「バッキンガム宮殿からVIP待遇を受けた血に染まった独裁者達」として特集していた。1989年2月24日、大喪の礼の際にメディアでは昭和天皇の戦争責任を問う報道があった。
オランダでは昭和天皇が乗車する車に卵や魔法瓶や手植え苗を投げるほど反日感情が根強く、昭和天皇が在位中の1986年のベアトリクス女王の日本訪問はオランダ国内で反対を受けた。
アメリカでは戦争終結直前の1945年6月29日に行われた世論調査によれば、「昭和天皇を処刑するべき」とする意見が33%、「裁判にかけるべき」とする意見が17%、「終身刑とすべき」とする意見が11%であった。
1975年(昭和50年)に訪問したアメリカでは、侍従長入江相政によると「天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいた」といい関係者を悩ませたものの、歓迎ムードであり、後にディズニーランドにも訪問した。また昭和天皇はアメリカ兵犠牲者の慰霊碑に訪問して、アメリカ人を喜ばせている。
しかし後にハーバート・ビックスは著書『昭和天皇』において「昭和天皇が戦争に積極的に関与した」という主張を提示し、論争を引き起こした。
・ ・ ・