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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
昭和天皇は、国内外の敵から歴代天皇の中で最も命を狙われた天皇であり、死後も国内外から戦争犯罪者として罵詈雑言で非難され続けている天皇である。
「昭和天皇は、ヒトラーと同類、同罪である」と。
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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日本民族は先住民・日本土人として、数千年前の弥生時代・古墳時代に国の平和と民の安寧の為に智恵を絞って神話を正統とする天皇家と男系父系の天皇制度を生み出し、日本を一つにまとめる国の御柱・民の要として受け継ぎ、神聖不可侵の神の裔を守る為に命を犠牲にして戦っていた。
つまり、天皇の命令だから戦争を起こし戦場で戦ったのではなく、天皇を国體として死守しようとしたのである。
それを破壊しようとしたのが、中世キリスト教原理主義者、中華儒学者、過激派マルクス主義者・共産主義者達であった。
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昭和天皇は「日本人は私が好きである」
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昭和天皇は、日本人による革命を怖れていた。
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1975年11月1日朝日新聞朝刊「1975年、天皇記者会見一問一答の中身 URL
なお、同紙1面の記事によると、記者会見は日本記者クラブの申し入れで行われ、同クラブ代表31人・宮内庁記者会常勤記者14名・日本駐在の外国記者代表5人の計50人が出席した、とのこと。
(引用開始)
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両陛下公式記者会見の内容
31日午後、皇居宮殿で行われた天皇・皇后両陛下の日本記者クラブとの一問一答の内容は次の通り。
渡辺日本記者クラブ理事長(引用者注朝日新聞副社長) 本日は天皇・皇后両陛下をお迎えして、日本記者クラブの記者会見を催すことになりましたことは、歴史的に見ても画期的な事柄でございます。今日はどうかおくつろぎになったお気持ちで、ご訪米のおみやげ話、その他をお聞かせいただきたいと思います。
天皇 米国訪問に際し、フォード大統領閣下、米国人ならびにわが国民から寄せられた好意に対して、皇后とともに深く感謝します。
このたびの訪米は、もとよりフォード大統領閣下が招請されたことではありますが、私としては皇太子時代から長年念願していたことであります。このたびこれが実現したことは感慨無量であります。訪米中フォード大統閣下、同夫人、ならびに多くの米国官民から温かい歓迎を受けました。それで私と皇后の15日間の旅行が楽しくできました。
このたびの旅行中、米国の実状をつぶさに見、フォード大統領閣下ならびに多くの米国人に会い、日系人たる米国人に接しました。これによって両国の友好親善関係が、ますます親密になると、私は深く信じます。
-今度のご訪米で、印象の非常に深かったことの幾つかをお話しいただけたら幸いでございますが。
天皇 訪問中いろいろ深い印象は受けましたが、おのおの特徴があってその比較はなかなか難しいことではありますが、その中にも、一番最初のアメリカの大統領ワシントンの私邸を訪問したことであります私が初等科に入ったころ、先生からワシントンは非常に正直な人であると話を聞きました。その思い出が深いので、この訪問を一番懐かしく思いました。
-(関連質問=NHK明神正記者) 生物学の研究の分野で、陛下には長年のナゾが解けた分野もあったというふうにうかがっていますが。
天皇 その方面については、スミソニアン博物館、あるいはウッズホール、ラホヤ等の研究所を視察して、いろいろよい標本を見せてもらって有益であった。とくに私の一番研究しているハイドロゾアと、研究所にある標本と比べて非常に参考になったことが多々ありまして、それをこれから先、私の研究所で比べてはっきりした決定をしたいと思っております。いま時間があまりないですから、詳しいことを述べることはよしときます。
-皇后さまは、アメリカでお買い物をなさいましたり、マイケル坊やをお抱きになったり、いろいろニュースもおつくりになったわけですが、とくになつかしく思い出していらっしゃることがございますか。
皇后 どれもこれもなつかしく思うんで、どれからいっていいか-。とにかく、いろいろ変わったものを見せてもらって、たいへん楽しく思いました。
-陛下はかねがね、アメリカの国、アメリカの歴史、あるいはアメリカの国民性などについて、ご勉強になっておいでですが、今度実際に現地においでになりまして、アメリカ人、あるいはアメリカの国というものをどういうふうなご印象でお帰りになりましたでしょうか。
天皇 前にもわたしはたびたび話したことではありますが、アメリカ人は、主張ははっきりしますけれども、つねに具体的であって、さっぱりした国民であると・・・・・・。でありますから、非常に親しみやすい国民であると思っていました。今回、米国人は、いろいろ配慮して、わたくしの旅行を楽しくしましたことで、はっきり、今まで知ったことと、よく、あうことを、よく知りました。
-ご訪米中にそういうアメリカ人の非常に率直で明るい国民性、そういう歓迎ぶりに触発されたこともあったと思いますが、ご訪米中、両陛下は非常にのびのびとお振る舞いになり、まあ、ありのままの姿を、はっきりお見せになったわけでございますが、それが今度のご訪米を非常に成功させた一つの大きな要因にもなったと信じております。日本の国内でも、もっとのびのびと、もっと広く、国民の間にお入りになりますことを、国民がひとしく願っておりますが、その点いかがでございましょうか。
天皇 そういうことができれば、わたくしもよいとは思いますけれども、日本の国民性とアメリカの国民性とは、非常に違うところがありますから、果たしてアメリカで旅行したようなことが、日本で実現するかは非常にわたくしは疑問としております。
-陛下は長いご在位の中で、一番うれしくお思いになったことは何でございましょうか。
天皇 アメリカ訪問はその一つでありますが、そのほかにも、わたくしと皇后と一緒に、ヨーロッパを訪問したことであります。しかし、なお、終戦後、日本国民が努力して、りっぱに日本の復興ができたということが、一番うれしく感じています。
-それとは逆に、ご在位中に最もつらく悲しかった思い出というのはどういうことでございましょうか。
天皇 それは言うまでもなく第二次大戦であると思います。私はこういう悲しむべきことが今後も起こらないことを祈っております。
-不幸な戦争のことでございますが、今度のご訪米中に大統領の晩さん会でのお言葉とか、あるいはアーリントン墓地においでになりましたことで、アメリカとの間で不幸な戦争の問題というものはこれですっかり消えたと存じます。ところで、日本の、今度は国内の方でございますが、不幸な時期に親や子や妻をなくした国民もたくさんございますけれども、その国民が先ほどおおせになりました通り、焦土の中から立ち上がって日本に見事な復興を成し遂げたわけでございますから、陛下がこのさいそういう日本国民に対してお言葉がございましたら、ぜひお聞かせいただきたいと存じます。
天皇 そのことについては、毎年8月15日に私は胸が痛むのを覚えるという言葉を常に述べています。いま、これらの非常に苦しい人たちが、いま述べたように日本の発展に寄与したことはうれしく私は感じております。
-(関連質問=ロンドン・タイムス中村浩二記者)天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておりますかおうかがいいたします。
天皇 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。
-陛下はこれまでに戦後国内各地をご巡幸になっておられますが、まだ沖縄にはおいでになっておらないようでございます。戦後、日本に復帰してきた沖縄をご訪問になるご希望がございますでしょうか。
天皇 戦後、私はいま言われたように各地を巡幸して激励しましたが、沖縄県には残念ながら行かれなかったのであります。機会があるならばいま言ったように近い・・・・・・行きたいと私は希望しております。沖縄県は過去においていろいろ問題があったとは思いますが、今度、立派に沖縄県が発展することを私は祈っております。
-(関連質問=中国放送秋信利彦記者)陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない、我々はこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならないと述べられ、以後昭和26年、46年と都合3度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか。おうかがいしたいと思います。
天皇 この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています。
-わが国は、戦争の最中にアジアの隣近所の国に、大変迷惑をかけたわけでございますが、陛下はヨーロッパとアメリカをご訪問になりましたが、今後、中国を含むアジアの国々をもお訪ねになるお気持ちでいらっしゃいましょうか、どうでしょうか。
天皇 いま述べたことについては、アメリカの記者が「平和条約が出来たらば、中国を訪問しますか」という質問があったので、私はそういう機会があれば、中国を訪問するつもりである、と答えたように記憶しています。
そのほかにも訪問しなければならない国が多々あるように思いますが、まだわが政府は、決定していません。
-両陛下とも長いご在位の中で、たいへんなご苦労の時期をおすごしになったわけでございますが、お見受けいたしますと、大したおさわりもなくて、大変お元気でいらっしゃいますが、これはなにか特別ご健康のご秘けつでもおありになるのでございましょうか。
天皇 その健康については、非常な秘けつがあるというわけではありませんが、那須や須崎で散歩をして、足を丈夫にし、また医者の意見を聞いて食物に対しても、いろいろ調整をしているのであります。
-(関連質問)ただいまの天皇陛下のご健康のことにつきまして、皇后陛下におうかがいしますが、日ごろからなにかご健康の維持というようなことについて、皇后陛下からアドバイスされるというようなことがございましょうか。また最近、そういうような例がございましたでしょうか、おうかがいいたします。
皇后 別に、これということはありません。
-両陛下の日ごろのお暮らしの中で、いろいろとお楽しみもあると思いますが、ご研究だとか、あるいは皇后様の場合は絵とか、いろいろございますがテレビなんかもよくご覧になると思いますが、例えばどういうような番組をご覧になりますか。お楽しみのことについてもおうかがいさせていただきたいと思います。
天皇 私は一番楽しみにしておるのは、前にもいったように、国民が努力して、日本の発展に貢献しておることであります。また、公務の余暇には生物学を研究して楽しみにしております。テレビは、いろいろ見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので(笑い)、いまどういう番組を見ているか、ということには、答えられません。(笑い)
-予定の時間も大分過ぎましたので、大変お名残惜しいのでございますが、これをもって両陛下との記者会見を終わらせていただきます。
お疲れのところ、長い時間お話をうかがうことができまして、大変ありがとうございました。国内の新聞やテレビとのご接触は、これからの皇室と国民の間をつなぐ重要な太いパイプであると、私ども信じておりますので、きょうだけでなくて、どうぞこれからも折にふれまして、われわれとお会いいただくことを、強く、私ども心から期待しております。
きょうはどうもありがとうございました。
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(引用終了)
※数字だけは引用者が漢数字からアラビア数字になおしました
質問者によれば、天皇はこのときまでに1947年・51年・71年と3回広島を訪問し「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない、我々はこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」という「お言葉」を言ったとのことです。このときの発言で、「やむをえなかった」などと言ったのでしょうか。おそらく言ってはいないだろうと私は推測しているのですが。
さて、同紙の3面にはこの記者会見の解説記事が掲載されていますが、その下の方に小さく、宮内庁長官の発言が報じられています。
(再び引用開始)
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宇佐見宮内庁長官は31日夜、天皇陛下の記者会見でのご発言について、「ご自分から質問なさることはあっても、質問を受けることには慣れておられないため、お考えを十分お述べになれなかったきらいがあった」と、次のように語った。
1.広島の原爆を「やむをえなかった」と言われた点をはじめ、2・3言葉が簡単すぎた気味があった。しかし、「遺憾なことだった」「広島市民には気の毒」と二度も繰り返されたことや、戦争についての初めの方のお答えなど、全体の文脈を考えてもらえば、天皇陛下のお気持ちは拝察できるのではないか。「やむをえなかった」というのは「原爆投下そのものに限っていえば、自分にはどうしようもなかった」という意味だと私は受け取っている。(以下略)
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(引用終了)
宮内庁長官がわざわざこのようなかたちで天皇の発言を弁明(と言って悪ければ補足)したということは、弁明(または補足)しないとまずい発言だと宮内庁自身が考えていた、ということではないかと私には思えます。
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平成2年 警察白書
特集-外国人労働者の急増と警察の対応-
第7章 公安の維持
昭和天皇の崩御に伴い、平成元年2月24日大喪の礼が執り行われた。
大喪の礼に対し、極左暴力集団は、「大喪の礼爆砕」を主張して爆弾事件等を引き起こした。日本共産党は、天皇批判キャンペーンを繰り広げた。また、右翼は、街頭宣伝活動を自粛する一方で、大喪の礼の執行方法に関して、政府に対する活発な要請活動を展開したほか、日本共産党の天皇批判活動等をめぐって暴力事件を引き起こした。こうした情勢下において、大喪の礼警備は、過去最大のものとなったが、全国警察が総力を挙げて推進した結果、無事に終了した。
1 総力を挙げて取り組んだ大喪の礼警備
(1) 「大喪の礼爆砕」を主張し、爆弾事件を引き起こした極左暴力集団
極左暴力集団は、昭和天皇の崩御以降、「大喪の礼爆砕」を主張して大喪の礼までの間、11件の「ゲリラ」事件を引き起こしたほか、全国29都道府県166箇所で1万3,600人が集会、デモに取り組むなど反皇室気運の盛り上げを図った。
こうした一連の皇室闘争の中で、革労協狭間派は、10件の「ゲリラ」事件を引き起こすなど過激な闘争に取り組んだ。とりわけ、平成元年2月3日には、消火器爆弾を使用した「東郷神社本殿爆破事件」を引き起こし、また大喪の礼当日には、御葬列の進路である中央自動車道の切り通しに大型の消火器爆弾2個を仕掛けて爆破し、大量の土砂を飛散、流出させた。
一方、中核派は、爆弾等を使用した「ゲリラ」を引き起こすことを企図し、準備活動を進めていたが、警察がこれを未然に防圧したため、御葬列通過前の祭官車への飛び出し事案を引き起こすにとどまった。
(3) 天皇批判キャンペーンを繰り広げた日本共産党
日本共産党は、昭和天皇の崩御に際して、「天皇裕仁は、侵略戦争の最大かつ最高の責任者」、「天皇制は廃止されるべきもの」という内容の中央委員会声明を発表した。また、大喪の礼については、「憲法の主権在民と政教分離の原則に反する」との理由でその中止を要求した。さらに、天皇問題をテーマとした学習会やシンポジウムを各地で開催するなど、大々的な天皇批判キャンペーンを繰り広げた。
2 「天皇・三里塚決戦」へ路線を転換し、一層先鋭化した極左暴力集団
(1) 新たな展開をみせた皇室闘争
極左暴力集団は、大喪の礼粉砕闘争の結果が不十分であったことの反省を踏まえ、これまでの成田闘争重視の路線から皇室闘争を中心に据えた「89-90年天皇・三里塚決戦」の路線を打ち出した。これは、皇室闘争に成田闘争、関西国際空港建設反対闘争等あらゆる闘争を絡め、即位の礼、大嘗祭粉砕闘争を最大の山場として「テロ、ゲリラ」戦術を中心に闘いを展開するという過激な闘争路線である。
中核派は、平成元年4月28日、この路線の第一弾として「三番町宮内庁宿舎自動車爆弾事件」を引き起こし、その犯行声明の中で、「宮内庁宿舎の爆破戦闘は、天皇決戦への戦闘宣言である」と強調した((3)参照)。
4 危険な傾向を強めた右翼運動
(1) 大喪の礼終了後、活動を再開
昭和天皇の御病気、崩御に伴って長期間街頭宣伝活動を自粛してきた右翼は、大喪の礼の終了とともに活動を再開し、自粛期間中における日本共産党の天皇批判キャンペーンをはじめ、土井社会党委員長や本島長崎市長の「天皇戦争責任発言」(注)、大喪の礼の執行方法に対する政府・与党の姿勢、さらには折からのリクルート問題等をとらえて、これらの関係先に対する抗議活動を活発化させた。
こうした中で、右翼は、平成元年には、トラックにガソリン入りポリタンクを積載して首相官邸に突入した事件(3月5日、東京)、中曽根元首相に対するテロを企図してけん銃を所持していた事件(5月18日、東京)、演説中の山口社会党書記長を襲撃し暴行を加え傷害を与えた事件(5月12日、滋賀)等の悪質な事件を引き起こした。
(注) 2年1月18日、「天皇戦争責任発言」をめぐって本島長崎市長が右翼にけん銃で狙撃され、重傷を負う事件が発生した(長崎)。
5 苦境に立たされた日本共産党
(2) 参院選に敗北、党立て直しに取り組む
日本共産党は、平成元年7月の参院選において、表7-3のとおり比例区、選挙区とも前回に比べ議席、得票数、得票率のいずれも減らして敗北した。
7 巧妙化するスパイ活動等の実態
(1) 活発化するソ連の対日諸工作
ソ連は、ゴルバチョフ書記長のウラジオストク演説(昭和61年7月)、クラスノヤルスク演説(63年9月)等で我が国をはじめとするアジア・太平洋地域重視政策を打ち出し、各国への接近動向を強めている。
こうした中で、ソ連は、危機状態にある国内経済の立て直しのため、我が国からの経済協力、技術援助の取付けを得るべく、その最大の障害となっている北方領土問題に関する我が国の政経不可分の立場等の政策の切り崩しをねらって、各界各層に対する諸工作(アクティブ・メジャーズ)を展開している。
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中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に輸出していた。
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現代日本のメディアと教育界の一部は、反宗教無神論・反天皇反民族反日的テロリズムに賛同している。その証拠が、昭和天皇の戦争責任と靖国神社反対である。
エセ保守とリベラル左派は、天皇の戦争責任や天皇の戦争責任を子供達に教えている。
彼らは、超エリート層と言われる超難関高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達として政界・官界・法曹界・教育界・経済界・市民団体など多方面の指導者になっている。
日本国民の90%が、男系父系の現皇室を女系母系新天皇に変更し、明治天皇・昭和天皇系の断絶を求めている。
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日本民族が激減し外国人移民(主に中国人移民)が増加する事で、反宗教無神論・反天皇反民族反日的人間が日本国内で増えていく。
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日本の大陸戦争は専守防衛の積極的自衛戦争で、前期は江戸時代後期から日韓併合までで敵はロシアであり、後期はシベリア出兵から太平洋戦争敗北までで敵はソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力そしてアメリカであった。
後期の積極的自衛戦争で、日本にイデオロギー侵略を仕掛けたのはレーニンであった。
レーニンは、国際的人民暴力革命を成功する為に手足として利用したのは、中国の孫文(中華民国)、蒋介石(ファシスト中国)、毛沢東(中国共産党)そしてソ連のスターリン、アメリカのフランクリン・ルーズベルトであった。
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中国共産党は、レーニンの指示に従い日本を中国との戦争に引きずり込む為に、中国在住の日本人への侮日(ぶにち)行動や殺人や暴行などの犯罪行為を繰り返し、昭和天皇を殺害しようとした日本人共産主義者を支援していた。
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昭和天皇や東条英機内閣は対米戦回避の為に外交努力を続けたが、国民世論と右翼は対米戦開戦を求めていた。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、対独戦参戦の為に対日戦を決断していて、日本が如何なる手段を使って戦争回避を求めても応ず意思はなかった。
つまり、日本は戦争を回避しようとしたが、アメリカは戦争を求めていた。
歴史的事実として、戦争を始め終わらせるのは大国・強国であり小国・弱小国ではなかった。
アメリカは前者であり、日本は後者である。
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ソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力は、反宗教無神論・反天皇反民族反日として日本を共産主義化する為に昭和天皇と皇室そして日本人天皇主義者を全員惨殺するべく陰謀を巡らしていた。
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日本に味方して共産主義と戦ってくれる国は1カ国もなかった。
日独伊三国同盟は、対ソ同盟であっても対共産主義同盟ではなかった。
対共産主義としては、カトリック教会とイスラム教徒であった。
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昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇と日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者と無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズム、ボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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天皇のご威光(国體・国柄)、皇道主義、民族主義、神話物語、八紘一宇 vs. マルキシズム(共産主義・社会主義)、ボルシェビキ、レーニン主義、スターリニズム、マオイスト(毛沢東主義)、ファシズム、ナチズム。
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既に日本は中国共産党の軍門に降って降伏している、その証拠が平成4(1992)年10月にエセ保守が強行した天皇皇后両陛下による中国訪問であった。
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2023-12-28
⏱20:ー3ー日本のエリート学生が「まるで中国政府のスポークスパーソン」~No.61
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2020-09-17
🎷20:─1─中国共産党の主席国賓訪日・天皇中国訪問は日米離間策である。~No.82No.83No.84No.85 ⑲
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2024-06-05
🎻45:─2─李鵬発言「日本は40年後には消えるかもしれない」。平成8(1996)年。~No.130
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2024-06-05
💎16)─3─唐家旋外務大臣は首相の靖国神社公式参拝中止を「厳命」した。平成13(2001)年~No.62No.63
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2024-05-24(令和6年)
🌦32¦─1─中国駐日大使「日本の民衆が火の中に…」と日本人媚中派、反米派・反安保派、反自衛隊派。~No.102No.103
2024-05-25
🌦32¦─2・A─呉駐日大使〝火の中〟恫喝とは「岸田政権は中国にナメられた」。怒らない日本人。~No.103
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日本人の媚中派、反米派・反安保派、反自衛隊派そして反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人は、メディアや教育界に多く存在する。
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現代日本のエセ保守やリベラル左派は、親日知日同盟国アメリカではなく反日仮想敵国中国共産党からの外圧に弱い。
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天皇の御威光とは、庶民を「大御宝」と念う天皇の御稜威、大御心である。
昭和天皇と東条英機・松岡洋右・松井石根らA級戦犯達が行った、ヒトラーとスターリンから逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民を助け保護したのも、差別反対・弱者救済・貧困愛護そして儒教的徳以上の神話的道理(本質的価値観)に命を賭ける天皇の御威光であった。
日本の国際的信頼性や外交・金融・文化的信用度を、保証できるのは数千年の歴史を持つ正統な天皇の御威光のみである。
天皇の御威光は「穏やかな祀りと祈り」として、日本国や日本民族だけではなく世界の平和と安寧、人類の幸福と繁栄をも対象とした、それが「八紘一宇」であった。
歴代天皇の中で、それを深く考え実行したのが昭和天皇であった。
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天皇の御威光が誕生したのは7世紀初頭の第33代推古天皇(女帝)御代であり、生んだのは聖徳太子である。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
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保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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福岡県弁護士会
弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年9月25日
天皇制の侵略責任と戦後責任
日本史(現代史)
著者:千本 秀樹、 発行:青木書店
明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)
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nippon.com
連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信
英王室から届いた親電で昭和天皇ご聖断?:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(8)・最終回
歴史 2020.04.07
岡部 伸 【Profile】
ドイツ降伏後、⽇本はソ連に⽶英との和平仲介を求めた。しかし、ソ連は仲介せず、無条件降伏を勧告する「ポツダム宣⾔」が出された。原爆投下され、ソ連が 対⽇参戦すると、参謀本部は初めて⼩野寺信(まこと)ストックホルム駐在陸軍武官の和平⼯作を認めた。それは終戦翌⽇の8⽉16⽇ だった。ところが戦後公開された⽂書によると、⼩野寺の和平仲介打診にスウェーデン国王が何事か⾏動し、⽶英は⽇本が国体護持を条件に初めて「降伏の意思」を⽰したと解釈し、ポツダム会議に向かうトルーマン⽶⼤統領に届けていた。スウェーデン国王からの働きかけで昭和天皇がご聖断を下し、天皇制を維持できたとすれば、工作の意義も小さくなかった。
スウェーデン国王が何事かアレンジ
「ソ連参戦で情勢は一変した。帝国政府は、国体護持を最後の目的として外務交渉を開始した。貴官は任地において最善を尽くせ」。
最後の拠り所にしていたソ連が中立条約を破って侵攻するどんでん返しに遭って参謀本部から、小野寺に8月10日付電報が11日来た。
小野寺はスウェーデン国王グスタフ5世の甥のプリンス・カール・ベルナドッテを初めて招いて、日本は降伏の決心をしたが、天皇制存続だけは、国王から英国王にお願いして頂くよう依頼し、プリンス・カールは「明日国王に伺ってお話する」と快諾した。
国王グスタフ5世に日本と米英との和平仲介を依頼した甥のプリンス・カール・ベルナドッテ
小野寺は翌12日、プリンス・カールが国王への工作を快諾したと陸軍大臣あてに電報を打つと、「スウェーデン王室を通して工作せよ」。参謀次長と陸軍次官から初めて工作を認める返電が届いた。しかし、この電報は昭和天皇によるポツダム宣言受諾の玉音放送が流れた8月15日付で、届いたのは翌16日。すべては遅すぎた。
プリンス・カールに背中を押された小野寺の打診工作は徒労に終わったのだろうか―。
戦後、米国立公文書館で公開された秘密文書によると、プリンス・カールとともに小野寺工作を国王に仲介したスタンダード石油スウェーデン総代理店支配人、エリック・エリクソンは、米戦略情報局(OSS)のエージェントで、在ストックホルムのジョンソン米公使に工作内容を逐一報告していた。
ジョンソン公使が国務省に45年5月17日伝えた電報では、エリクソンは小野寺からの王室を通じた和平工作についてプリンス・カールの父親で王弟のプリンス・カール・シニアの個人秘書、ローヴェンヒエルムに伝えたが、ローヴェンヒエルムは、スウェーデン赤十字総裁のプリンス・カール・シニアは、政治問題に介入できないため、国王と国王の甥のフォルケ・ベルナドッテ伯爵に相談される意向である、とエリクソンに答えた。
小野寺の英米との和平依頼を国王が興味を持ち、何事かアレンジしたと王弟のプリンス・カール・シニアの個人秘書が証言したとジョンソン米公使が国務省に45年5月17日伝えた電報(米国立公文書館所蔵)
ローヴェンヒエルムによると、プリンス・カール・シニアは長兄である国王に小野寺からの和平工作の件を伝えた。「この問題は今や『我が国の最高位者』つまり国王によってアレンジされている。彼(国王)は、『この旨を小野寺少将に報告せよ』と要請した。『小野寺はこの連絡をさぞ喜び、報告を受けたことを感謝するだろう』と語った」という。
小野寺信陸軍武官の和平仲介打診を受けて、何事かアレンジしたとされるスウェーデン国王グスタフ5世
小野寺の和平の依頼を国王グスタフ5世が興味を持ち、日本のために何事かアレンジした。小野寺が聞くと喜び、感謝することを国王が行ったことを個人秘書が指摘している。
このことは英国の歴史家、ルウェリン・ウッドワード卿が1972年上梓した英外務省の公刊史『英国の第二次大戦中の外交政策』の第六章「日本の降伏―戦後の日本の取り扱いについて英国と米国の計画」でも確認できる。
「1945年5月までは日本から和平打診はなかった(中略)。たった1つ、駐ストックホルムの米公使からだけ報告があった。同公使館へ氏名不詳の人物(エリクソン)が訪れ、日本の小野寺武官と国王の弟、プリンス・カール・シニアとの仲介者で、スウェーデン王室より認められている。小野寺は『ソ連が赤軍を満州国境に進めて対日参戦の意図を持っている』と言って、日本は敗戦を認識し、これ以上の破壊は避けたいので、スウェーデンの王室筋に日本と連合国のお取りなしをお願いしたい、と希望している。お取りなしを願う相手は王室のメンバーで、プリンス・カール・シニアを示唆した。ただプリンス・カール・シニアはスウェーデン赤十字社総裁なので、スウェーデン政府とベルナドット伯爵(フォルケ・ベルナドッテ伯爵)に話した。その後、国王グスタフ5世は、この件に興味を持たれ、様々な方法を講じられ、何事かアレンジされた」
小野寺の和平依頼を国王が何事かアレンジしたと記された英外務省公刊史『英国の第二次大戦中の外交政策』の第六章「日本の降伏―戦後の日本の取り扱いについて英国と米国の計画」
さらに英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、この小野寺の工作について、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝えた。英政府は「日本が初めて降伏の意思を示した」と判断し、同月25日、英自治領省から英連邦の自治領、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国に「最高機密情報」として「日本のストックホルム駐在陸軍武官が『ソ連が対日参戦の意図を持っている』とし、スウェーデン王室筋に日本と連合国のお取りなしをお願いしたい、と希望している。オーソライズされた陸軍武官は天皇の〝代理〟となるので、国王は興味を持たれ、何事かアレンジされた」と1回限りの暗号で打電した。
英国が自治領と情報共有するのは、ヤルタ密約など相当な機密情報に限られる。日本の中枢が無意味なソ連仲介和平に傾く中、北欧の中立国で、小野寺がヤルタでソ連が対日参戦「密約」を交わした〝裏切り〟を見抜き、スウェーデン王室に和平仲介打診した工作を、「最高機密」と判断し、英連邦の主要国である自治領と情報共有したのである。
スウェーデンで小野寺の終戦工作を研究するストックホルムの安保整備政策研究所(ISDP)のバート・エドストーム上級研究員によると、英国が小野寺の国王への打診工作を「初めての降伏意思」と判断したのは、小野寺がドイツ降伏後の45年5月、ストックホルムで、ドイツの親衛隊情報部のヴァルター・シェレンベルク国外諜報局長と和平仲介を模索したフォルケ・ベルナドッテ伯爵らとともに英国の駐スウェーデン公使のビクター・マレット卿と会談していたからだ。
ドイツのヴァルター・シェレンベルク国外諜報局長(米国立公文書館所蔵)
英国の駐スウェーデン公使のビクター・マレット卿(左、右は王⼤使時代のグスタフ・アドルフ、Hugh Thomas 「The Unlikely Death of Heinrich Himmler」から)
国王グスタフ5世の長男、アドルフ(後のグスタフ6世)が英王室のビクトリア女王の三男の娘マルガレータを夫人とするなど王室は英王室と近しくマレット公使とも親しかった。逃亡先のデンマークで身柄確保されたシェレンベルクはロンドンに送還され、英国の情報機関の尋問を受けた。マレット公使を通じて英国は国王が乗り出した小野寺の終戦工作を的確に把握していた可能性がある。
ポツダムに届いた国体維持と降伏意思
もう一つ意外な成果があった。小野寺の和平工作が「国体護持を条件に日本が初めて降伏の意思を示した」と米国のトルーマン大統領に届いていたのである。
トルーマン大統領は1945年7月中旬、ドイツのポツダムで開催される首脳会談に出席するため、大西洋をアメリカ海軍の重巡洋艦「オーガスタ」で航行していた。その船上でワシントンのジョセフ・グルー国務次官から同行していたジェームズ・バーンズ国務長官にリレーされた機密電報を読んだ。1945年7月6日、駐スウェーデン公使、ジョンソンからバーンズ国務長官に宛てた次の電報だった。
小野寺が国体護持を条件に降伏の意志を示し、国王グスタフ5世に和平仲介打診したことをポツダムに向かうトルーマン大統領に伝えた1945年7月6日、ジョンソン駐スウェーデン米公使からバーンズ国務長官に宛てた電報(米国立公文書館所蔵)
小野寺が国体護持を条件に降伏の意思を示し、国王グスタフ5世に和平仲介打診したことをポツダムに向かうトルーマン大統領に伝えた1945年7月6日、ジョンソン駐スウェーデン米公使からバーンズ国務長官に宛てた電報(米国立公文書館所蔵)
「プリンス・カール・ベルナドットは小野寺少将から夕食の招待を受け、小野寺少将は日本が敗北をすでに承知し、時期が来れば、スウェーデン国王に直接連絡を取り、連合国への接触を要請すると語った。国王は連合国に連絡を取る意向に傾いている。小野寺は天皇の地位が降伏後も保持される条件だけを述べ、他の条件は語らなかった」
この電報でも「国王は連合国に連絡を取る意向に傾いている」と記されている。小野寺からの要請に国王が連合国との仲介に乗り出すことを承諾したことを示唆している。先の電報では「小野寺が喜ぶだろう」とも述べており、国王は連合国つまり英米に日本が戦争を終える(降伏の)意思を伝えたと考えるのが合理的だろう。また終戦にあたり、日本が最後に求めた国体護持(天皇制の存続)を小野寺が米英に伝えたことが示されている。
ベルリン郊外ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿に米英ソの首脳が集まり、会談2日目の7月18日午後3時、トルーマン大統領は、スターリン首相を訪ねると、スターリン首相は、近衛特使派遣を要請する天皇からの親書を見せた。日本が和平仲介の特使受け入れを求め、「降伏」の意思を得た、と伝え、拒否か曖昧な回答か完全無視か―を尋ねた。
トルーマン大統領は曖昧な回答を支持して反論した。
「日本の降伏意思については、こちらもスウェーデンから情報を得ている」
小野寺の電報を持ちだし、スターリン首相に日本が天皇制を残すことを望んでいることを示した。天皇制を抹殺したい共産主義者のスターリンは「日本の言は信用できない」と一蹴したが、会議では最終的に米国がソ連の反対を押し切り、天皇制の残置を認めさせた。「米英の外交的勝利」の背景の一つに小野寺の和平工作があったと考えていいだろう。
終戦前日、英王室から親電 国体護持
小野寺からの働きかけで国王が日本のために、何をしたのだろうか。
『高松宮日記』にスウェーデン国王が昭和天皇に親愛の情を示す記述がある。第8巻の昭和21年9月10日の欄に国王と小野寺の名前が出てくる。
「午後、スエーデン武官だった小野寺陸軍少将、よし様のお話にて来れリ。トルネル陸軍大将(侍従武官長)から帰る前(21年1月19日)に特に面会を求められて、「戦況不利になってから殊に日本皇室に対して同情を以て見ていたが(老年の)国王から(年若き)天皇に敬意を表するお気持ちを伝えられたい」とのことだったので、私から陛下に申し上げてくれとのことなり」
国王が、戦況不利になって日本皇室に同情したというならば、日本皇室を救う、つまり天皇制存続に何事か行動を取ったのではなかろうか。
さらに日本の天皇制を存続させようとスウェーデン国王から依頼を受けた英王室が米政府に働きかけたことはなかっただろうか。東欧に続きアジアへの共産主義拡大を懸念して、戦争終結を望んだのは米国だった。ソ連参戦前に戦争を終了させようと、非公式に5月から『ザカリアス放送』で皇室保持できるヒントを流した。しかし日本の中枢は「謀略」と受け止め正視しなかった。ただ「天皇中心主義を認める」という米軍の意向が英王室から昭和天皇に伝えられれば、国体護持が確信できる「インテリジェンス」となっただろう。
陸軍士官学校39期の元将校、塚本万次郎(岐阜県支部会副会長)は、旧軍人で組織する社団法人「日本郷友連盟」発行の『郷友』(昭和57年8月号)で、「8月14日に英皇室から陛下宛親電が届いた」と書いている。
塚本は、近衛第一師団参謀長だった高級参謀、水谷一生(31期)から、「本日英皇室から陛下宛のご親電が届いた」と聞いたという。英皇室(王室)から陛下宛の親電となると、国体護持の決定を知らせたとも考えられる。小野寺は同月11日プリンス・カールに国王を通じて国体護持をお願いして頂くよう依頼した。しかし、交戦している英国から天皇陛下に電報が送られるのは不自然だ。中立国スウェーデンの在日大使館経由ならば、可能性として考えられる。国王が英王室に働きかけ、英王室が米国に連絡し、天皇制存続を引き出し、それを天皇にスウェーデン経由親電で伝えた可能性もないわけではないだろう。
その証拠を求めて筆者は、産経新聞ロンドン支局長として2015年12月から約3年半、英国立公文書館や帝国戦争博物館で英国王ジョージ6世が昭和天皇に宛てたとされる親電や親書を探したが、見つからなかった。元ケンブリッジ大学東洋学部長で同大名誉教授のピーター・コーニツキー氏の紹介でウィンザー城の大円塔内にある王室文書館に照会したが、帰任辞令を受け19年4月帰国した。現在も王室文書館からの回答を待っている。
昭和天皇のご聖断は、8月9日深夜(10日未明)と8月14日に下された。9日の会議後、日本政府は国体護持を唯一の条件として連合国側にポツダム宣言受諾の意志を伝えたが、連合国側は、「天皇は連合軍最高司令官に従属(suject to)する」、「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」と回答(バーンズ回答)したため、再び交戦論が台頭、混乱した。
塚本証言で、親電が届いたとされる14日の前日13日午前、バーンズ回答は天皇の地位が保証されていないため戦争続行を唱える阿南惟幾陸相を天皇が諭すように、「アナン、心配するな、朕には確証がある」と語ったことを作家の半藤一利は阿南の義弟で軍務課員だった竹下正彦から聞いている。14日の親電が英王室から正式な「天皇制維持」を伝えたなら、天皇の確証をさらに確かにして2度目のご聖断を後押しした可能性もある。
1987年8月17日、89歳11か月の天寿を全うした小野寺の東京・世田谷の自宅にプリンス・カール・ベルドナッドから百合子夫人宛にお悔やみ状が届いた。日本の窮地を救おうと心を通わせた小野寺を王冠とイニシャルC・Bの入った便せんに直筆でこう書いた。「私の旧友、小野寺信の死に対し、小野寺百合子夫人と家族に最も深い哀悼の意を表する。彼はあのように最も正直かつ高潔な節操をもった人であった。だから私は彼を常に私の最も輝かしい想い出の中におく」
1987年8月17日、89歳11カ月の天寿を全うした小野寺へプリンス・カール・ベルドナッドからのお悔やみ状(小野寺家提供)
外務省、日本政府から正式な交渉委任権限を得ない小野寺の和平工作は、個人的な未熟なものとして批判を受けた。しかし、小野寺の工作が、連合国軍の首脳部に伝えられ、結果として天皇制維持につながったと推認できる。意味のない独り相撲では決してなかった。バックチャンネルとして有効だったのだ。戦後、日本が共産主義国家とならず、象徴天皇を中心とした民主国家として再生したことを考えれば、平和な令和時代に小野寺が情熱を傾けたインテリジェンス工作をもう少し注目してもよいと考えている。
バナー写真:王宮のあるストックホルムの旧市街ガムラスタン
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2019年5月3日 BBC NEWS JAPAN「日本の寂しい天皇制反対派 改元に沸く国内で縮小
ノッポルン・ウォン・アナン、BBCタイ語
Hantenren protesters画像提供,TOSSAPOL CHAISAMRITPOL/BBC THAI
画像説明,改元にあたり「反天皇制運動連絡会」が4月末に様々な抗議行動を実施したが、世間的な注目は少なかった
天皇の譲位と新天皇の即位、改元という歴史的な変化を目前にした4月末、小規模の集団が東京のはずれに集まった。
「天皇の戦争責任を忘れるな」と繰り返しながら、集まった人たちは公園に向かってデモ行進した。
抗議行動に参加した人のほとんどは白髪で、人数は少なかった。
人数は少ないものの、日本の天皇制反対派は、天皇制はもう廃止すべきだという主張を声高に続けている。
Nomura画像提供,TOSSAPOL CHAISAMRITPOL/BBC THAI
画像説明,新しい支持者を集めるのは大変だという
日本では、皇室は世界最古の世襲王朝だと言われている。神話によると、皇室は天照大神の末裔(まつえい)だとされる。
第2次世界大戦が終わるまで、天皇は「現人神」だと見なされていた。
一方で、反天皇制運動連絡会(反天連)は30年前から、天皇制廃止を求めて活動してきた。
天皇の名の下に日本が1930年代から1940年代にかけて戦った戦争を償うには、天皇制を廃止するしかないという主張だ。
反天連メンバーの「ノムラ」さんはBBCに対して、「戦争はきちんと終わらなかった」と話した。「ノムラ」さんは右翼団体の攻撃を警戒し、記事ではフルネームを使わないという条件で取材に応じた。
Hirohito画像提供,AFP
画像説明,昭和天皇は終戦後に人間宣言をした
都心にある「反天連」の小さい事務所でノムラさんは、第2次世界大戦中に人道に対する罪を犯した昭和天皇は戦犯だと述べた。
「昭和天皇は軍部に強い関心を抱いていた。米英との戦争を恐れたのはただ単に、日本の軍隊が劣っていると知っていたからだ」、「アジアで戦争することにためらいはなかった」とノムラさんは話した。
Akihito画像提供,AFP
画像説明,上皇陛下は国民から広く敬愛されている
1926年から1989年まで在位した昭和天皇は、日本の敗戦後に神格を否定し人間宣言を発した。
アメリカが起草した日本国憲法の下、日本は天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と位置づけ、立憲君主制国家となった。天皇の政治行為は禁止されている。
戦後にこうした形で天皇制を維持したため、昭和天皇は結局、戦争で果たした役割について責任をとることがないままだったと、ノムラさんは言う。
平和の象徴
昭和天皇の晩年にかけて、天皇制に反対する日本の世論は今より強かった。天皇にゆかりのある場所が左翼過激派の小規模な攻撃を受けることも、たまにあった。
しかし、昭和天皇の長男・明仁さまは、1989年の即位から、4月30日に高齢や健康問題を理由に退位するまでの30年間で、皇室を平和の象徴と位置づけることに成功した。
退位によって上皇陛下となった明仁さまは、父の昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオで発表したとき(ほとんどの日本人はこの「玉音放送」で初めて天皇の声を聞いた)、11歳だった。
米オレゴン州にあるポートランド州立大学のケン・ルオフ教授(日本研究所所長)は、先代天皇にとって「一番の課題は戦時から残る傷を癒す(いやす)ことで戦後に区切りをつけることだった」と指摘する。
「日本によって被害を受けた各国との関係改善のために、できる限りのことをした」
Akihito and Michiko画像提供,REUTERS
画像説明,1975年7月に皇族として戦後初の沖縄訪問を果たした皇太子夫妻(当時)
1975年に当時皇太子だった明仁さまは美智子妃と共に、皇族として戦後初の沖縄訪問を果たした。沖縄は日本国内でも特に悲惨な戦場のひとつとなり、一般住民10万人以上が犠牲になった場所だ。
上皇陛下は天皇としてほかに、中国やインドネシアなど、甚大な戦禍に遭った国々を訪れた。さらに、政治的発言は禁止されている立場ながら、戦争がいかに悲惨なものか忘れないよう繰り返し国民に呼びかけた。
第2次世界大戦中の日本軍の残虐行為による被害が特に大きかった国の中には、日本はいまだに十分に謝罪していないし、十分に償ってもいないという主張が残る。この時期の評価は今も、深く割れている。
しかし、平成の時代の日本国内において、皇室の人気は大いに高まった。ルオフ教授によると様々な世論調査で、国民の7割から8割が天皇制の維持を支持しているという。
伸び悩む支持
都内の事務所で取材に応じた「反天連」のノムラさんは、支持者の数は年々減りつつあると認めた。
1980年には抗議集会を開けば3000人は集まったものの、今では新しいメンバーがなかなか見つからないという。
4月29日のデモ行進に参加したのは約80人。行進を取り囲む警官数百人の方が多かった。デモに注目する通行人はほとんどいなかった。
Hantenren protesters画像提供,TOSSAPOL CHAISAMRITPOL/BBC THAI
画像説明,天皇制反対デモの参加者よりも警官の方が多かった(4月29日、都内)
ノムラさんは、人気のない目標に向けて闘い続けていると、寂しいと感じることもあると話す。ただし、天皇制がどういう問題になり得るか、国民を教育することが大事だとも言う。
「経済停滞の続く日本は今、国としてアイデンティティーの危機に直面している」とノムラさんは言う。さらに、安倍晋三首相率いる政府と右派は「天皇を通じて自分たちの権威付けをしようとしている」とも言う。
ノムラさんは健康の許す限り、あと10年は活動を続けるつもりだという。
しかし、前途は多難だ。日本の皇室の系譜は2000年以上前にさかのぼると言われ、天皇の役割は日本社会に様々な形で密接に結びついている。
国民に敬愛される天皇が自ら譲位し、新しい天皇が即位した。多くの国民がこの代替わりに感動し、天皇家に対する親愛の気持ちもいっそう高まった。天皇制廃止の議論はここへきて、おそらく封印されたはずだ。少なくとも次の代替わりの時期までは。
(追加取材:グレイス・ツォイ)
(英語記事 Emperor Naruhito and Japan's lonely republicans)
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2019年8月7日 家樹(Kaji)「天皇家のルーツとは。日本人と天皇の歴史を探る
今の日本で当然のように受け入れられている天皇家。しかしその存在について深く考えたことは少ないはずです。それほど日本社会に溶け込んでいる存在のため、改めて説明するのは難しいものだと思います。
日本は天皇の子孫が統治してきた国?
学校で習った奈良時代の橘諸兄、平安時代の平清盛、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などはいずれも確かな天皇の子孫でした。藤原氏は天皇家の子孫ではないものの、1000年以上にわたって天皇家と親戚であり続けました。そして後世の徳川将軍家をはじめ、全国の大名家も、皆先祖がはっきりとわからない家々も、ほとんどが天皇家につながる源氏や平氏の末裔を称しています。
天皇家は日本の「家」の「本家」?
ある意味で天皇家は、日本の「家」の「本家」のような存在なのです。それではこの天皇家は、一体いつから天皇家なのでしょうか。天皇家のルーツはどこまで遡れるものなのか、気になっている方も多いのではないでしょうか。
本記事では、天皇家のルーツに関する各説を簡単に紹介し、なぜこれほど長く続いてきたのかについて解説します。なおここで紹介する説は、あくまでも諸説あるうちの一つにすぎないことをはじめにお断りしておきます。
家系図ガイドブックダウンロード
目次
1 天皇家は世界最古、最長の王朝
2 天皇家のルーツはどこまで遡れるか
2.1 神武天皇は実在したのか?
2.2 欠史八代の論点
2.3 第10代崇神天皇は実在するか?
2.4 第15代応神天皇は新王朝の初代か?
2.5 第21代雄略天皇は実在するか?
2.6 第26代継体天皇は実在が確かとされている
2.7 天皇家のルーツ:現時点での結論
3 天皇家はなぜ続いてきたのか
3.1 中国と日本の違い
3.2 日本の統治と天皇家の関係
3.3 時代ごとの武家政権と天皇
4 まとめ:日本人と天皇の関係
4.1 日本人の大半は天皇家とつながってしまう!?
1 天皇家は世界最古、最長の王朝
仁徳天皇陵
現在では「日本国民の象徴」(憲法)とされている天皇ですが、元々、天皇とは日本の王様でした。さらに世界との比較でいうと、天皇家は現在では世界最古の王家であり、王朝としての歴史も世界最長で、さらに古代天皇のお墓は、世界最大級です。
日本の天皇家と世界を比較すると…
世界最古の王家
世界最長の王朝
世界最大級のお墓の主
このように3つの世界一があり、天皇家は世界で類を見ない長い歴史を持っていることになります。そして今現在でもその歴史は続いています。
天皇家は初代の神武天皇が紀元前660年に即位されてから令和の今上陛下で126代目。古事記・日本書紀(記紀)などによれば2600年以上の歴史があるとされています。紀元前660年という年代自体は学問的には肯定できるものではありませんが、実在が確かな天皇から数えても世界最古、最長の王朝といえます。6世紀前半に実在し、血筋としても連続性があることは確かとされる第26代継体天皇から数えても、既に100代、1500年以上の歴史があるためです。
4 まとめ:日本人と天皇の関係
皇居
こうした天皇家と日本人の関係ですが、血縁関係はどれくらいの人があるものでしょうか。昔からある源氏や平氏といった一般的な系図(男系男子)という意味では、後世に誤った系図も多く作られ、また特に応仁の乱(1474年)以降は血統という意味では出自がわからない大名が多く台頭したこともあり、正確なことはわかりません。
しかし男系女系、血のつながりのある全ての人を先祖、として考えれば、近現代に日本国籍を取得した人を除けば、まずほとんどの日本人が天皇家との血統上の関係を持っているといっても過言ではありません。
4.1 日本人の大半は天皇家とつながってしまう!?
「ウチみたいな普通の家が天皇家とつながるはずがない!」
こう思う方がほとんどだと思いますが、血のつながりのある一切の先祖について考えた場合、私たちはむしろ天皇家とつながらない人間を探す方が難しいともいえます。例えば今の天皇陛下から46代前は平安京を作った桓武天皇ですが、ひとりの人間から46代遡ると、この世代の先祖は理論上7兆人存在することになります。
平安時代はじめの日本人口は多くとも400-600万人と推計されていますので、先祖同士の結婚によって、重複する先祖が多数いたとみて、この数十兆の人数を100万分の1くらいに減らして考えたとしても、まだ当時の先祖の数が7000万人となってしまいますので、理屈の上ではやはりその時代にいたほとんど全ての人物の血を引いていることになります。
日本の家の本家が天皇家
私たちは天皇家を含むあらゆる人につながっている、くらいにイメージして頂くとわかりやすいと思います。日本人にとって遠いようで近い存在であり、正に「日本の家の本家」、それが天皇家だといえます。
史料の残存状況の関係で、先祖を辿ってみても自分と天皇家との関係を“証明”することはほぼ不可能ですが、本格的に調べてみることで、何かしらの「ゆかり」は見つけられる可能性があります。
天皇家とゆかりがある、日本で代表的な「4つの氏(四姓)」を「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼びます。自分の先祖がこの流れに行き着くことは先祖調査の現場では決して珍しくないことなのです。
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興味本位で自分の先祖を調べてみたことがキッカケで、結果的に日本という国の長い歴史や素晴らしさに気付くことができるのが家系図作りの魅力の一つです。ご興味のある方は、是非ご先祖探しにチャレンジしてみて下さい。
参考文献
『シリーズ「遺跡を学ぶ」邪馬台国の候補地 纒向遺跡』石野博信
『古代史講義』 佐藤信 ちくま新書
「神話」から読み直す古代天皇史 若井敏明 ちくま新書
『崇神天皇』肥後和男
『倭国のなりたち』日本古代の歴史1 木下正史
『日本史小百科 天皇』児玉幸多
『日本の古代1 倭人の登場』森浩一編
『日本の歴史02 王権誕生』寺沢薫
『室町の王権』今谷明
『源頼朝』永原慶二
この記事を書いた人
山口(やまぐち)
家樹株式会社 先祖調査部
愛知県出身(画像は昔飼っていた猫)。9歳から家系図作りをスタートし、約40年ものキャリアを持つエキスパート。数十年かけ室町時代初期(1399年)の先祖まで遡ることに成功している。知人の家系図作りの手伝いなども請負い、墓石・寺院・過去帳・戸籍・郷土誌・土地台帳・学術論文・聞取り調査・現地調査まで幅広い経験・実績がある。家樹に参画後は、豊富な知識を活かし高度な史料分析を担当している。
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2019年8月22日 西日本新聞「昭和天皇拝謁記 平和希求へ新たな教訓に
あの無謀な戦いとは何だったのか。天皇であっても止めることはできなかったのか。
昭和の戦争と平和を再考する上で、貴重な一次史料が見つかった。初代宮内庁長官だった田島道治が書き残した昭和天皇との詳細な会話記録である。
「拝謁(はいえつ)記」と題された1949年から53年までの手帳やノート計18冊だ。新憲法で「象徴」となった天皇による戦争の総括と、それを基に国民に発しようとした「お言葉」を巡る生々しいやりとりがつづられている。
特筆すべき第一は、太平洋戦争の「起点」と「終点」に関する認識である。
拝謁記によれば天皇は、軍部暴走による張作霖爆殺事件(28年)の処罰をあいまいにしたことが「今日の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」と断じた。
その上で「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或(あるい)はもつと早く止める事が出来なかつたか」と語りつつ、軍部による「下剋上(げこくじょう)」のような勢いに流されたことを告白している。
第二は、自らの戦争責任への言及である。52年のサンフランシスコ平和条約発効に伴う独立回復式典での声明を巡り、「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」などと繰り返していた。退位論につながることを懸念した吉田茂首相らが反対し、深い悔恨の念を表現した一節は削除された。
昭和天皇は戦後30年がたった75年、記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、よく分かりません」と答えた経緯がある。
先の大戦に対する責任の自覚と、それを公に口にすれば国政上の権限がない象徴の規定に反するという葛藤が、一連の流れからうかがえる。再軍備のための改憲論もいさめられた。
戦前戦中の元帥から象徴に変わりゆく昭和史の重大な断面が示されている。
上皇さまは、これと同じ内容の話を昭和天皇から聞かれていたという。日本の主権回復を記念する式典声明には反省という文字が不可欠だったという認識を踏まえ、象徴天皇はどうあるべきか、平成の30年にわたり模索された。それが戦争や災害の被災者に寄り添い続ける天皇像の礎となったとも言えよう。
拝謁記が描くのは、最側近の目を通じた天皇像であり、個人のメモである点も踏まえた今後の検証が待たれる。読み方はさまざまあろう。とはいえ、戦争責任や改憲を巡る政治の論議で、自説正当化のために都合よく引用することは慎むべきだ。
大事なのは昭和、平成を経た今、未来に向けて平和を希求するために、何を教訓として読み取るかである。
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2019年8月20日 毎日新聞「社説
昭和天皇の「肉声」記録 軍部増長に「反省」の重み
終戦後、昭和天皇が田島道治初代宮内庁長官と交わしていた約5年間のやり取りが明らかになった。
田島元長官が個人的に記録していたもので、昭和天皇は1952年5月の独立回復式典に際し、自らのお言葉で「反省」を表明する意向を示していたが、宮内庁幹部や当時の吉田茂首相が反対し、当初の文案から削除された経緯などが分かる。
「反省」の中身について、同年2月、昭和天皇は「軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事がある」などと述べたという。
元長官が残した他の記録から、昭和天皇は東京裁判のA級戦犯被告への判決(48年11月)に際し、戦争を悔恨し、国民に謝罪したい意向を持っていたことが知られている。その時は実らなかった希望を、その後も追求していたのであろうか。
だが、明らかになった発言では、天皇から国民や他国への謝罪というより、日本人全体が軍の独走を止められなかったことを皆で「反省」しようという趣旨のように読める。
昭和天皇は戦後30年の75年、初の訪米から帰国後、記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、よく分かりません」などと答えたことがある。二度と戦争を繰り返したくない決意は尊いが、天皇が「反省」を言う以上、戦争責任問題は避けて通れない。
まして52年2月の別の日、昭和天皇は再軍備と憲法改正の必要性に言及していた。同年5月の発言には「再軍備によって旧軍閥式の再擡頭(たいとう)は絶対にいや」ともある。
新しい象徴天皇制のあり方を模索していた時期とはいえ、昭和天皇が依然として、君主としての感覚を持ち続けていた様子がうかがわれる。
吉田首相がお言葉に「反省」を盛り込むことに反対したのは、東京裁判の結果、政治的に決着したはずの退位論が蒸し返されるのを封じるためだったとみられる。朝鮮戦争特需で経済復興は勢いづき、世相も未来志向を求めていた。
さまざまな思惑や力学で「反省」の表明を見送った独立回復は、その後の日本の歩みにどのような光と影をもたらしただろうか。昭和天皇がこだわった「反省」のあり方は、今なお私たち自身の問題でもある。
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2019年8月22日 noteプレミアム「「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」
昭和天皇の「拝謁記」の報道で、天皇自らの「戦争責任」に関する発言が注目されているが、昭和天皇が公の場(1975年10月31日記者会見)で「戦争責任」について語った言葉が上に掲げたものである。
この発言について、哲学者・高橋哲哉氏と作家・徐京植氏は以下のように語り合っている。
(『責任について──日本を問う20年の対話』から抜粋)
高橋 さらに話がさかのぼることになりますが、昭和天皇の戦争責任について私がどうしても思い出すのは、次のことです。一九七五年一〇月三一日、アメリカ訪問から帰ってきた天皇と皇后が初めて記者会見を行なった時に、記者の中から、「陛下はいわゆる戦争責任についてはどのようにお考えですか」という質問が出ました。このとき昭和天皇は、「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」と述べた。全体としてにこやかな記者会見で終わったということになり、新聞報道でも「言葉のあや」発言はほとんど取り上げられませんでした。当時の新聞をいま確認してみても、『朝日新聞』をはじめとして、広島・長崎について「気の毒ではあるが戦時中なのでやむを得なかった」という表現は見出しになっていても、「言葉のあや」発言の扱いは極めて小さいし、批判もされていません。天皇の名のもとにいったいどれだけの人びとの運命が狂わされたかを思うと、現実と言葉のあまりの落差に目もくらむ思いがします。
徐 私も世間が憤激するかと思ったら、そうならなかった。詩人の茨木のり子氏の詩「四海波静」くらいが私の印象に残る辛辣な批判でした。その時、リベラルを自任する人たちは何を考えていたのか。この時はまだ冷戦構造が崩壊していない時期ですからね。そこにはもっと深い、高橋さんの言葉では「地金」みたいなものがあって、戦後民主主義的な空間自体がメッキだったということがはっきりと現れた瞬間だったのかもしれませんね。
高橋 その後一九七八年に、A級戦犯が靖国神社に合祀されます。A級戦犯合祀のための「名票」が厚生省から靖国神社にすでに送られてきていましたが、合祀されずにそのままになっていた。BC級戦犯については合祀を済ませていたのに、A級戦犯だけ合祀されなかったのは、それまで長く宮司を務めていた筑波藤麿氏が「国民感情」を理由に合祀に反対していたからだとされています。それが、東京裁判が戦後の日本を歪めたという歴史観の持ち主だった松平永芳氏が宮司になったとたんにA級戦犯を合祀した。これを報じたのは翌七九年の『朝日新聞』ですが、そこにでている識者のコメントでも「国民感情に反する」ことが問題視されていました。
つまり、七〇年代末にはA級戦犯合祀が「国民感情」に反していたというこれらの見方がある程度妥当なものだとすると、A級戦犯として裁かれた東条英機らに対しては国民は反感を持っていたけれども、七五年の天皇発言についてのメディアや国民の反応を考え合わせると、〈戦争を始めたのは軍部であって天皇は悪くなかった〉〈天皇は国民のことをいつも考えていたから〝聖断〟を下して、軍部を押さえて戦争を止めてくれたんだ〉という意識が「国民感情」として根付いていたということでしょうね。
徐 もっと広く言うと、一九七〇年に安保条約が改定され、〝政治の季節〟が過ぎて、国民も脱政治的になり、現状肯定的になっていった。全共闘までの時代は、少数ですけれど、天皇の戦争責任とか、魯迅の言葉「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。血債は必ず同一物で返済されねばならない」を借りて「血債の思想」を叫んだ人たちもいました。しかし、新左翼の〝自爆〟の後にシニカルなムードが広がると、日本社会は元のアイデンティティの方にゆり戻っていった。確信犯的なアイデンティティというよりも、まあこれでいいかみたいな軽いノリで、七五年の天皇の発言も記者会見場では軽く笑いながら流すという雰囲気だったそうですね。
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2019年8月22日 しんぶん赤旗「昭和天皇「拝謁記」公開
戦争責任 国民的議論を
1952年1月11日付の「拝謁記」。「お言葉」に「反省といふ字」を入れる意向が語られたとする部分
NHKがこのほど一部公表した田島道治初代宮内庁長官が昭和天皇とのやりとりを記録した手記(「拝謁記」)には、侵略戦争の責任をめぐる昭和天皇の極めて矛盾した心情がつづられています。
「反省」表明望む
田島氏の手記で注目されたのは、昭和天皇がサンフランシスコ平和条約発効後の日本の独立を祝う式典で戦争への「反省」の気持ちを表明したいと田島氏に伝えたものの、当時の吉田茂首相の反対で削除されたとされる部分です。
昭和天皇は生前、公には戦争への反省を表明したことは一度もありませんでした。記者会見で戦争責任を問われても、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」(1975年10月31日)と回答を拒否していました。
手記によれば、昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)などと強く希望しながら、吉田首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」などと反対し、昭和天皇が戦争への「反省」を述べた一節が削除されたとされます。
もし昭和天皇が戦争への「反省」を当時、曲がりなりにでも表明していれば、日本の行った戦争が「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」だったなどの誤った歴史認識がいまだに「靖国派」などを中心に主張されている今日の状況が大きく変わっていた可能性があります。昭和天皇の開戦責任を回避するため、吉田首相が昭和天皇の「反省」を封印した事実は重大です。
責任を全面転嫁
同時に、手記は、戦争への「反省」を述べながらも、自己弁護を繰り返し、陸海軍の統帥者として侵略戦争に直接の責任を負っていたことへの自覚がまったく見られない昭和天皇の姿を示すものとなっています。
例えば日本軍による南京虐殺事件(1937年)について昭和天皇は「ウスウス聞いてはゐ(い)た」が、「此事(このこと)を注意もしなかつた」と、日本軍の蛮行を当初から知っていながら問題を放置していたことを語っています。
日米開戦(1941年)をめぐっても、自らが出席した「御前会議」で開戦が決定されたにもかかわらず、「平和を念じながら止められなかった」「東條内閣の時ハ既に病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(51年12月14日)と述べているばかりか、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」(52年4月5日)と近衛文麿元首相に責任を全面転嫁しています。
さらに、戦局が絶望的になりながら無謀な戦争を継続したことについて「私ハ実ハ無条件降伏は矢張(やは)りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたやうな時ニ其(その)時を見付けたいといふ念もあつた」(52年3月14日)と告白していますが、その結果、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下など筆舌に尽くしがたい惨禍を招いたことへの反省はうかがえません。
それどころか、終戦をもっと早くできなかったのかという疑問に対し、「事の実際としてハ下剋上(げこくじょう)でとても出来るものではなかつた」(51年12月17日)と述べて、自己の責任をあくまで否定しています。
今回の手記の公開を機に、侵略戦争の責任がどこにあったのか、昭和天皇の役割と責任はどうだったのか、改めて国民的な検討と議論が求められます。
再軍備など求め
手記にはさらに、昭和天皇がたびたび改憲と再軍備に言及し、「吉田ニハ再軍備の事ハ憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうにでもいはん方がいゝだらうネー」(52年2月18日)などと述べ、田島氏から「憲法の手前そんな事ハいへませぬ」などといさめられたことも記録されています。
天皇の地位が戦前の「統治権の総攬(そうらん)者」から新憲法の下で「象徴」へと変わり、「国政に関する権能を有しない」ことになったことを昭和天皇が理解せず、戦前の元首意識を多分に残していたことをうかがわせる内容です。
今回、NHKが公開したのは、田島氏の計18冊の手帳・ノートの内容の一部にすぎません。研究者や市民が触れることができるよう、内容を全面的に公開することが望まれます。(入沢隆文)
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