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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024年7月14日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「東郷平八郎「武士の情け」より「停止」 降伏旗を掲げたバルチック艦隊に大砲を撃ち続けた理由
日本の旗艦だった戦艦三笠。日本海海戦ではバルチック艦隊の集中砲火にも耐えて活躍した。国立国会図書館所蔵
日露戦争・日本海海戦は世界の海戦史上でも例のない完勝だった。それは徹底した砲撃訓練戦術の研究、火薬や信管の開発など入念で周到な準備に支えられた連合艦隊がもたらしたものだ。世界が驚嘆した日本海海戦における日本の秘策を4回にわたって解説する。最終回の4回目は「歴史的勝利と講和条約」。(『歴史道』Vol.33「日清・日露戦争史」より)
【写真】凱旋する東郷平八郎を迎える民衆
■歴史的勝利と講和条約
「ニコライ1世」の降伏旗を見た「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウィン」も軍艦旗を降ろし、降伏旗を掲げた。そして連合艦隊の秋山真之参謀が旗艦「三笠」の艦橋で、敵艦に降伏旗がひるがえっているのを発見したのは五月二十八日午前10時40分ごろだった。
秋山は東郷平八郎大将に言った。
「長官、敵は降伏しました。わが艦隊の発砲を止めましょうか?」
だが東郷は敵方を睨んだまま黙然としている。秋山は詰め寄るように言った。
「長官、武士の情けであります。発砲を止めて下さい!」
東郷は冷然と言った。
「本当に降伏すっとなら、その艦を停止せにゃならん。現に敵はまだ前進しちょるじゃなかか」
事実ロシア艦は航進を続けているだけではなく、大砲の筒先も日本の艦隊に向けたままである。
一方、降伏旗を掲げたにもかかわらず、どの日本艦も攻撃を止めない。そこでネボガトフは日本の国旗を掲げ、次いで機関の停止を命じた。東郷が全艦艇に攻撃中止を命じたのは、この直後であった。
水雷艇「雉」が呼ばれ、東郷は秋山参謀と山本信次郎大尉(通訳兼)を敵の旗艦「ニコライ1世」に行かせた。降伏の手続きを取るためネボガトフ少将を「三笠」に呼ぶためである。
ネボガトフ少将は秋山真之中佐の申し入れを承諾し、礼服に身を改め、幕僚とともに上甲板に総員を集め、降伏にいたった経過を話し、「諸君はいっときの恥を忍んで、将来祖国の海軍を再建していただきたい。降伏の責任は予が一身に負う」と、諭すように語りかけた。
ネボガトフが7、8名の幕僚をともなって「三笠」に到着したのは午後1時37分だった。もう一人の指揮官、重傷を負って駆逐艦「ブイヌイ」に収容されているロジェストヴェンスキー中将は、駆逐艦「ベトウイ」に移されていた。「ブイヌイ」の石炭が欠乏し、機関も故障続出でウラジオストクまではたどり着けそうもなかったからである。その「ベドウイ」も午後4時45分、駆逐艦「陽炎」と「漣」に追われ、白旗を掲げた。重傷のロジェストヴェンスキーは日本艦で長崎県佐世保の海軍病院に送られていった。
戦いは終わった。投入されたバルチック艦隊38隻のうち、撃沈や捕獲から免れたのは巡洋艦5隻(うち1隻は座礁後自爆)、駆逐艦3隻、特務艦3隻のみ。日本側は各艦とも命中弾は受けたが、沈没したのは水雷艇3隻だけであった。
人員の損害はロシア側が戦死約5000名、捕虜約6100名で、日本は全軍を通して将校以下戦死が116名、負傷者538名で人的被害においても圧勝した(死傷者の数は戦後若干増加)。
5月31日、日本はセオドア・ルーズベルト米大統領に講和の調停を申し入れた。日本の世論工作により、アメリカの国論も日本の勝利を讃えていた。そして難色を示すロシア牽制のため、ルーズベルトは、日本の樺太占領を提案する。日本軍は、最後の力を振り絞り占領を完了した。
そして明治三十八年(1905)九月五日、日露はルーズベルト米大統領の斡旋で講和(ポーツマス講和条約)を結び、ロシアも渋々ながら戦いに終止符を打った。佐世保の海軍病院に〝収容〟されていたロジェストヴェンスキー中将も傷が回復し、帰国の途に就いた。
テレビはもちろん、ラジオもまだなかったこの時代だったが、「日本海海戦の大勝利」はまたたく間に全国に知れ渡り、勝利の部隊を迎える凱旋門が全国各地に作られた。東京でも日比谷や新橋、日本橋、浅草など各所に凱旋門が作られ、人々は道路の両側はもちろんのこと、道路沿いの民家の屋根にまで登って凱旋部隊の〝勝利の行進〟を拍手喝采で出迎えている。
監修・文 平塚柾緒(ひらつか・まさお)/1937年茨城県生まれ。編集プロダクション「文殊社」代表。太平洋戦争研究会、近現代フォトライブラリー主宰。『図説 日露戦争』『図説 写真で見る満州全史』(河出書房新社)、『我、奇襲ニ成功セリ』(ビジネス社)など著書多数。
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日本軍が国際法を守って戦う事は、大元帥の近代天皇(明治天皇と昭和天皇)が望んだ事である。
天皇の戦争犯罪と天皇の戦争責任は、国際法を守って戦った事である。
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小国の軍国日本は、日露戦争を国際法に則って正々堂々と大国ロシアと戦い、そして戦争と外交で辛勝を勝ち取った。
世界の常識では、ロシアの勝利・日本の敗北であった。
日本にとって日露戦争は、江戸時代後期から避けられない戦争で、植民地拡大の為の侵略戦争ではなく専守防衛の積極的自衛戦争であった。
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日露戦争は、第ゼロ次世界大戦であった。
第一次世界大戦は、日露戦争を教訓としておこなわれていた。
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東郷平八郎は、日清戦争や日露戦争を戦いながらハワイ王国を滅亡させたアメリカの野望を見据え、アメリカが主導するロンドン海軍軍縮条約に猛反対した。
日本海軍が、アメリカ海軍を仮想敵とする選択は正しかった。
アメリカ海軍も日本海軍を主敵として、日本侵略計画を立案し海軍力を強化しつつあった。
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2018年7月21日 産経新聞「昭和天皇の87年
「撃沈します」! 日清戦争でみせた東郷平八郎の決断力
日本海海戦(1)
日露戦争後、その活躍から海の東郷、陸の乃木と称された東郷平八郎と乃木希典(まれすけ)は、何かと比較されることが多い(※1)。2人とも謹厳実直を絵に描いたようで、のちに神格化され、国定教科書にも取り上げられた。
そして2人とも、先の大戦後は学校でほとんど教えられなくなった。
だが、本連載では2人について詳述しないわけにはいかない。なぜなら2人は裕仁親王の、すなわち昭和天皇の帝王教育に深く関わることになるからだ。
乃木より1歳年長の東郷は弘化4(1847)年、鹿児島城下加冶屋町(現鹿児島市)で生まれた。同町には西郷隆盛ら維新の元勲の生家が多く、東郷は薩摩閥の一人として重用されることになる。
明治4(1871)年、西郷の口利きで英国の商船学校に留学し、11年に帰国、海軍中尉に任じられた。以後、比叡乗組(12年)、天城副長(14年)、同艦長(17年)、大和艦長(19年)、浪速(なにわ)艦長(24年)、常備艦隊司令長官(28年)など、海軍勤務の大半を海上で過ごす。
この間、東郷の名声を高めたのが、ハワイのクーデターと高陞(こうしょう)号事件だ。英国留学中に学んだ国際法が、寡黙な男の武器となった。
1893(明治26)年に米国人農場主らがハワイ王朝を転覆させたクーデター事件で、日本政府は邦人保護を理由に東郷率いる浪速など軍艦2隻を派遣した。このとき東郷は、ハワイの監獄を脱獄して同艦に泳ぎ着いた邦人青年を保護、クーデター政府の再三の引き渡し要求を断固拒否する。軍艦内が治外法権であり、邦人保護の正当な権利があることを、熟知していたからだ。
これに慌てたのは日本の外務省だった。米国との関係悪化を恐れるあまり、海軍を通じて東郷に引き渡しを指示。やがて日本の領事館員が邦人青年を引き取るべく、艦長室を訪れた。
東郷は言った。
「犯罪人であれ同じ日本人ではないか。その同胞が救助を求めてきたのを、おめおめ引き渡すのは心外だ。自分は彼を(クーデター政府の)獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡すのである」
この言葉の中に、東郷の気骨のほどがうかがえよう。
翌年の夏、日清戦争が勃発。ここでも東郷は開戦早々、国際法をたてに果断な将器をみせる。
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明治27年7月25日、朝鮮半島中部西側の豊島沖で、日本海軍連合艦隊の軍艦3隻が清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻と遭遇。宣戦布告を待たずに砲撃戦が交わされた結果、北洋艦隊の1隻が白旗を掲げながら逃走、残りの1隻は浅瀬に乗り上げて座礁、自沈した。
この海戦の最中、清国兵を満載したイギリス商船が近づいてきた。日本としては厄介な事態だ。清国兵を通すわけにはいかないが、うかつに対応すれば世界最強の海軍国、大英帝国を敵に回しかねない。
この難局の処理にあたったのが、浪速艦長の東郷だった。東郷はまず、商船を停船させて将校を送り、同船が英インドシナ汽船会社代理店所有の「高陞号」であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、船長のイギリス人は日本側の指示に従う意向を示していること-を確認すると、手旗信号で指示した。
浪速「錨ヲ揚ケテ本艦ニ続航セヨ」
だが、高陞号の船長は従わず、重大事態が発生したので面談したいと返信してきた。東郷が再び将校を送って調べさせると、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されており、すこぶる不穏な様子である。
東郷は船長に、イギリス人は海に飛び込み船から離れるよう指示した。
浪速「船ヲ去レ」
高陞号「許サレス 端艇(ボート)ヲ送ラレタシ」
浪速「送リ難シ 直チニ船ヲ見捨テヨ」
最初の停船命令からすでに4時間近く。事態はいよいよ切迫してきた。浪速の艦橋に立つ東郷は、高陞号の清国兵が刀剣をぬき、銃を構え、制御できない状態であるのを見て取ると、赤一色のB旗を掲げた。
「危険ナリ」を示す国際信号旗だ。この旗が軍艦にひるがえれば、その意味はひとつしかない。しばしの猶予を与え、東郷は言った。
「撃沈します」
時に7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没する。その直前に海に飛び込んだ船長らイギリス人4人は救助され、清国兵の多くは射殺、もしくは水死した。
× × ×
日本の軍艦が英国の商船を撃沈した-との一報は、当初は日本政府を動揺させ、英国世論を激高させた。だが、東郷の措置が国際法に則ったものであることが分かると、英国世論は沈静化し、日本側は手のひら返しで東郷を称賛した。
それからおよそ10年、日露の開戦が間近となった明治36年12月、東郷は新編成の連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)される。海軍上層部は、東郷の冷静な判断力と豪胆な決断力に、日本の命運を託したのだ。
ところが東郷は着任早々、重大な判断ミスを犯してしまう--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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(※1)海の東郷、陸の大山(巌・満州軍総司令官)と称されることもある
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【参考・引用文献】
○堀口修「明治三十七年二月~八月 聯合艦隊司令長官東郷平八郎日記聯合艦隊司令長官東郷平八郎日記について」(明治聖徳記念学会編『明治聖徳記念学会紀要 復刊第46号』〈錦正社〉所収)
○小笠原長生『東郷元帥詳伝』(春陽堂)
○アジア歴史資料センター所蔵「高陞号事件報告」
○同「英国商船高陞号撃沈ノ事」
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ウィキペディア
高陞号事件
高陞号撃沈の場面を描いた絵
「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。「浪速」は高陞号に向けて空砲2発を撃ち、手旗信号で停船を求め、臨検を開始した。
10時40分、臨検を命じられた人見善五郎大尉は高陞号に到着し、ただちに船長トーマス・ゴールズワージーに面会した。人見は船籍証明をチェックし、ゴールズワージーを尋間したのち帰艦し、東郷に復命する。その内容は
本船は英国ロンドン所在インドシナ汽船会社代理店、怡和洋行(ジャーディン・マセソン・コンパニー)の所有船
清国政府に雇用され、清兵1100名、大砲14門、その他の武器を太沽より牙山に運送中
船長にわが艦に随航することを命じたところ、船長はこれを承諾
であった。東郷はただちに「錨をあげよ。猶予してはならない」と信号旗をあげた。
ところが、船長は「重要なことがあるので話し合いたい。再度端艇をおくれ」と返答する。人見大尉が再度赴くことになるが、その際に東郷は「清兵がもし応じないようであれば、ヨーロッパ人船員士官に何が重要かを問い、移乗を望めば端艇にて連れ帰れ」と訓令した。
人見大尉はまもなく帰艦し、「清兵士官は船長を脅迫して、命令に服従できないようにし、かつ船内には不穏の状がある」と復命した。東郷は「高陞号」の英国船員に向かい「艦を見捨てよ」と信号を送る。その後、「端艇をおくれ」と返信があり、「端艇おくりがたし」と連絡すると、突如「許されぬ」と答えがあった。東郷は再度「艦をみすてよ」と信号し、かつマストに警告の赤旗をかかげた。すると高陞号船上では清兵が銃や刀槍をもって走りまわるさまがうかがえた。2時間に渡る問答の末、抑留が不可能と判断した東郷は「撃沈します」と命令した。
「撃ち方始め」の命令とともに水雷が発射され、砲撃が開始された。1時45分、「高陞号」はマストを残して海中に没した。東郷は端艇を下ろし、泳いで浪速に向かってきたイギリス人船員士官全員を救助したが、清国兵はほとんどが死亡した。
のちに日清戦争で李鴻章に協力する軍事顧問団の1人、ドイツ軍人コンスタンティン・フォン・ハンネケン(Constantin von Hannecken)は、高陞号に乗りあわせていたが、一命を取り留める。
結果
この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。清国側は「済遠」が大破とされているが真偽は不明、「広乙」と「高陞号」も撃沈された。「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、1903年に日本海軍を除籍された後も「操江丸」として民間で様々に利用され1965年まで船籍に登録されていたという。
影響
大日本帝国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、7日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされた。
このあと英国船籍の商船「高陞号」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こる。 イギリスが当初問題にしたのは、豊島沖海戦が戦争中か否かという点にあった。
豊島沖海戦は日本の宣戦布告以前の7月25日に起きている。日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、このさい(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と認む」と警告(いわゆる「五日猶予付き最後通牒」)した。
この「脅迫」という文言は当時の外交用語では「戦争開始」という意味であり、「挑発」なども同義である。実際1911年のアガディール事件のさいドイツ外務省がこれを使い、イギリスはただちに艦隊の出師準備発動を命令するという騒ぎになっている。
日本は警告した同日付で連合艦隊の出師準備発動を命令した。だが、この外交的推移は当事国しかわからず、第三国にはわからないものだった。とりわけ清国政府は日本の最後通牒を公開しなかったので、なおさら第三国に情報は流れていなかった。
イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、この問題に対し別個にタイムズ紙に寄稿して国際法を説明し、結論として日本側に違法行為はないことを主張した。
「高陞号の沈没したのは戦争が開始されたあとである。戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない。これは英米の法廷で幾度も審理され確定している。高陞号の船員は初め戦争が起こったことを知らなかったに違いない。だが、日本の士官が船に乗り込んできたときこれを知ったとみなさざるをえないし気づくべきであった。このとき英国旗をかかげていたか否かは重要ではない。戦争が始まったのであれば交戦国の艦艇は公海上ならあらゆる船を臨検し交戦国の船、第三国の船でも相手国向けの戦時禁制品が積んであればこれを没収、あるいは破壊・処分し、必要なら撃沈するというのは艦長に認められる権利だからである。日本水兵が乗船しても捕獲することは不可能と認められるので、日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である。また沈没後に救助された船員は規則通り自由になることができたので、この点でも国際法に背馳していない。それゆえ日本政府が英国に謝罪する義務は生じない」。
イギリス留学で国際法を勉強した東郷はこのことを熟知しており、この件に関しては常に合法な範囲で行動していた。結果イギリスの世論は沈静化するが一方で「高陞号」が清国兵及び大砲を輸送していたことにより、清国が天津条約に背馳し、日本の最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を集中させつつあったことを全世界に暴露してしまった。そのため清国がこの戦争において侵略者であるというイメージをもたせてしまう事になった。
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