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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024-06-23
💄5)─1─天皇統治の古代日本にはLGBTQ文化があった。~No.11No.12
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日本に中国のような政治を混乱させ戦乱を引き起こす宦官がいなかったのは、女性が男性同様に活躍していたからである。
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女性が活躍する古代日本は、中国から入ってきた男尊女卑の「儒教の毒」に侵され、女性は表舞台から日陰者に追いやられた。
平安時代の女性は、中国や朝鮮の女性とは違い、実名を隠しても和歌など文化文芸に独自の才能を開花させていった。
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日本の最高神は、天皇家の祖先神である女性神の天照大神である。
日本神話の重要な神々は女性神である。
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NHK 知恵泉
奈良時代のキャリア戦略! 女官たちの立身出世術
初回放送日:2024年7月9日
奈良時代を生きた女性官僚たちの知られざる人生と生きる知恵!▼地方出身のノンキャリア組から次官クラスにまで大出世を遂げたスーパー女官がいた!「私、失敗しないので」…四代の天皇に仕えて一度も失敗なしと讃えられた“女官X”飯高諸高の極意▼天皇の“腹心”と呼ばれた女官、和気広虫。キャリアを失ってまで貫いた信念とは▼出演:赤江珠緒(フリーアナウンサー)・鳥海智絵(野村證券副社長)・佐藤長門(國學院大學教授)
配信中※別タブで開きます
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好書好日
「古代の女性官僚」書評 従来の「女官」のイメージを覆す
評者: 水無田気流 / 朝⽇新聞掲載:2015年02月22日
古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退 (歴史文化ライブラリー)
著者:伊集院 葉子
出版社:吉川弘文館
ジャンル:歴史・地理・民俗
ISBN: 9784642057905
発売⽇: 2014/11/20
サイズ: 19cm/246p
古代の女性官僚―女官の出世・結婚・引退 [著]伊集院葉子
時代小説やドラマでお馴染(なじみ)の「女官」。絢爛(けんらん)たる宮廷に咲く才色兼備の女性たち……というイメージが先立つが、実像はどのようなものだったのか。本書は、古代の女官(=女性官僚)たちの選抜から業態、出世、俸給、結婚から引退に至るライフコースを詳解し、日本最古のワーキングウーマンの素顔に迫っていく。
特筆すべきは、女官に代表される古代日本の律令(法体系)の独自性である。日本の律令は唐の法体系を手本に作られたが、女官については彼我でまったく異なっていた。「唐の女官は後宮という隔絶した空間のなかで皇帝の『家』のために奉仕したが、日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部」だった、と著者は指摘する。なぜなら、日本では村や共同体から宮廷、さらに国政に至るまで、マツリゴト(政治)に女性が関与してきた歴史は、律令が導入されるより古く、国家システムの基盤を担ってきたからだ。
それゆえ日本の古代女官は、皇帝や国王に属す側妾(そくしょう)候補ではなく、結婚もタブー視されてはいなかった。それどころか、奈良時代には官僚のトップである大臣の妻が女官という夫婦は、ごく普通に見られたという。従来「夫の七光り」で送り込まれたと見られてきた女官だが、むしろ夫の死後目覚ましく出世する妻も目立つことから、古代日本の共働きエリート夫婦は、実力本位の「二人三脚型」だったことも推測される。
日本に去勢した男性官吏である宦官(かんがん)がいなかったのも、もともと男女がともに働いていたため導入する理由がなかったから、と著者は指摘。原則として上位階層の「氏」から一人ずつ、厳しく選抜され出仕した女官たちは、一族の浮沈を一身に背負い懸命に務めたに違いない。日本社会の基底部に根差す女性の役割について、既存のイメージを一つ一つ覆す著者の説明は、精到にして爽快である。
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吉川弘文館・1944円/いじゅういん・ようこ 59年生まれ。川村学園女子大学などの非常勤講師(日本古代史)。
水無田気流(ミナシタキリウ)
詩人・社会学者
1970年生まれ。詩集に「音速平和」(中原中也賞)「Z境」(晩翠賞)。評論に「無頼化する女たち」など。
古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退 (歴史文化ライブラリー)
著者:伊集院 葉子
出版社:吉川弘文館
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福岡県弁護士会
古代の女性官僚
日本史(古代史)
著者 伊集院 葉子 、 出版 吉川弘文館
古代王朝で女性が官僚として活躍していたというのです。初めて知りました。
古代の日本では、村や共同体の統率から宮廷の運営、国政の舵取りに至るまで、政事(マツリゴト)に女性が関与していた。
日本の古代女官は、中国(隋唐帝国)や朝鮮王朝の後宮女官たちとは違って、皇帝や国王に隷属した側妾候補ではなかった。日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部だった。
まことに、日本の女性は、古代でも既に自立的に活躍していたというわけです。これでは、天の岩戸をもち出すまでもありません。
奈良時代前半まで、天皇の后妃たちは内裏の外に居住していたのであり、一カ所に集まって住むという空間としての後宮は存在していなかった。
女官たちは、もともと天皇に仕える人々であり、いわば天皇直属の職員だった。
女官の既婚未婚が不問だったのは、彼女たちが天皇の性愛対象として存在したのではなく、まず、天皇の政務と日常を支える実質的な官僚としての役割を持っていたためだった。古代の女官は、公式の場での呼ばれ方と、プライベートでの呼ばれ方は異なっていた。
内侍司(ないしし)は、天皇に常に侍し、奏請(そうせい)と宣伝を行うのが最大の役割である。奏請は、男官諸司の意見を天皇に仕え、天皇の判断を請うこと。宣伝は、天皇の意思を諸司に口頭で伝えること。
内侍司の奏請・宣伝という職掌は、単なる取り次ぎとは異なる重みをもっていた。「日本書紀」には、官人は女官をこびへつらい、ワイロを贈る弊害が生まれていると書かれている。
このころは、官僚としての実務能力の他、歌舞などの才も重視された。大臣の妻が女官というのは奈良時代では珍しくなく、むしろ通常の出来事だった。
古代には、「室」は、トジ(刀自)、つまり経営基盤を有して采配を振る女性を意味した。
王位以上の位階をもつ女官は、家政機関として家司(けいし)、宅司(たくし)を有していた。
女房という言葉は、元々は人の妻という意味ではない。「房」は住まいだけではなく、執務所、つまりオフィスの機能が重視されていた。天皇周辺の女性を指して「女房」という場合には、女性の出仕者一般ではなく、殿上に伺候することを許された女性を意味している。
紫式部や清少納言は、后妃に仕える「キサキの女房」である。女房たちは、単なる宮廷サロンの花ではない。キサキの公的な活動をさせるオフィシャルな集団だった。
紫式部や清少納言は一条天皇の中宮や皇后に仕えたが、当時の中宮や皇后は独自の機能をもち、政治の表舞台で活躍していた。だからこそ、彼女たちに仕える女房たちも、政治の表舞台に立つことになった。女房の担った文学の社会的意義が大きくなったのも、このためだ。
律令官僚機構は、基本原則としては女性を排除したが、実態は国家の権力・行政システムに女性を包摂しながらスタートした。
女官は中年にさしかかってから本格的に活躍したと思われる。
女性は、氏を代表する氏女(うじめ)、地方豪族から采女(うねめ)として出仕した。
1000人もの古代女官に関するデータによって、制度と実態を研究・考察したというのです。学者の辛抱強さには、まさしく脱帽します。お疲れさまでした。古代朝廷のあり方を教えていただき、ありがとうございます。
(2014年12月刊。1800円+税)
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東京手描友禅の着物工房
ぼかし屋友禅
着物の風俗史2 奈良時代の女官
2013,05,18, Saturday
機会があって大阪歴史博物館を見学しました。奈良時代の難波宮についての説明と展示に大変驚きました。
奈良時代には幾度となく都の場所が変わったこと、その一つに難波宮があったという事は何となく知っているような、知らないような、だったのですが、これほど大規模な本格的な都市が、今の大阪の中心にあたる所に整備されていたとは思いもよらないことでした。
館内には当時の大極殿の様子を再現した展示があり、列柱の並ぶ空間や役人、着物衣装を着た女官といった人々が再現されていました。その場に立つとなかなかのリアリティーでした。
大阪歴史博物館HPより
女官たちの着物は、高松塚古墳の壁画に似た趣きで奈良時代らしい、つまり大陸の影響を強く残したものです。このような着物を実物大の再現で観るのは初めてで、前後左右から興味深く眺めました。
不思議だったのは、女官のスカートです。
女官の身丈より数十センチ長く、体の前後左右に広がって引きずる感じなのです。どうやって歩いたのだろう、と素朴な疑問がわきました。
後世の着物は、十二単のような複雑なものでさえ、衣は後ろに引きずりますよね。袴や袿や裳は体の前から後ろへ流れている立ち姿ですが、難波宮の女官の立ち姿は体を中心に放射線状にスカート状の衣が広がっていました。これでは歩いた場合、スカート部分はどうなってしまうのでしょう。体の正面ではなく横に切れ目があるようにも見えましたが、巻きスカート風だったとすると手で裾を持ち上げて歩いたのか、内側から足でスカートを蹴って前の空間を確保しつつ歩いたのか。とすると、歩くとスカートが相当まくれ上がってしまいそうです。
大阪歴史博物館HPより
時代が少し違いますが、高松塚古墳壁画の女性たちの着物衣装は引きずる程の長さではないようです。着物の裾の長さなどは身分や場面によっても違ったのかもしれませんね。
説明では難波宮はその後、権力闘争の末に都ではなくなり、都市としても廃れてしまい、経済都市として復活するのは、だいぶ後の時代のようでした。こんな立派に整備した都を破棄してしまうとは、奈良時代の人々はなんとモッタイナイことをしたのでしょうか。内に籠った地形の京都ではなく、海に広がった大阪が歴史の中心だったら日本文化も少し違った形だったかもしれません。大阪が都だったのは、この難波宮と、ほんの一瞬だけ清盛の福原の都、あとは秀吉の大阪城だけ。残念な気がします。
大阪歴史博物館は大阪の中心から近く、大阪城のすぐ側で、お城を見下ろす眺望も楽しめる建物でした。大人にも子供にも楽しい展示でした。
展覧会ルポ | 10:47 PM | comments (x) | tra
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2022年9月8日 読売新聞ホーム「一見優雅な奈良の女官、実は59歳で年329日の超激務…平城宮跡から昇進査定用の木簡
奈良市の平城宮跡で出土した木簡に、天皇に仕えた女官の勤務日数が書かれていることが、奈良文化財研究所の調査でわかった。昇進などを査定する際に使われた奈良時代の「考課木簡」とみられ、女官のものが見つかるのは初めて。59歳の女官が年間329日働いていたことが記されており、奈文研は「当時としてもかなりの激務に励んでおり、女官の仕事ぶりがわかる貴重な資料」としている。(土谷武嗣)
女官の勤務日数が記された考課木簡(赤外線写真)=奈良文化財研究所提供
木簡は平城宮の東部にあった役所群「東方 官衙かんが 地区」で奈文研が2020年度に実施した発掘調査で出土。排水路跡から約6300点の木簡群が発見され、その中に含まれていた。
発見された木簡は、長さ16・5センチ、幅2・58センチ。一緒に出土した土器から奈良時代前半とみられる。女性名を示す「 牟須売むすめ 」、年齢は「年五十九」、本籍地は「左」とあり、平城京の左京を示すと考えられる。
勤務日数は「 日参佰弐拾玖にちさんびゃくにじゅうく 」と記されており、1年間に329日働いていたらしい。評価や官職、位階が書かれていたとされる上部は失われていた。
女官は朝廷に仕えた女性官人のことで、内裏に住む天皇の身の回りの世話などを担当していた。
奈文研によると、良い評価を得るためには年間240日以上勤務する必要があり、最低限の日数で済ませる役人が多いという。300日を超える日数の考課木簡は少なく、同時に出土した男性役人の考課木簡は284日だった。
調査した奈文研の桑田訓也・主任研究員は「ベテランの女官で、周囲からも頼りにされていて、休みづらかったのかもしれない。女官の勤務状況の実態を探る手がかりになる」と話している。
この木簡の成果は、奈文研が発行した「紀要2022」に掲載されている。
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2022年8月25日 日本経済新聞「奈良時代の「女官」、木簡に記録
59歳、年329日出勤 休み取りにくかった?
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奈良市の平城宮跡から、奈良時代に天皇の身の回りの世話をしていた女性役人「女官」の勤務評価に使われていた木簡が見つかったことが分かった。59歳で年間329日出勤していた。当時の律令では役人は月に原則5日の休みを取ることが定められ、これまでに出土した木簡では年間300日未満の出勤が大半だった。
分析した奈良文化財研究所の桑田訓也主任研究員は「当時でもかなりのハードワーク。ベテランの女官で周囲に頼られ...
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