⚔4)─4─寧波の乱(寧波事件)。1523年〜No.13No.14 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 東洋の倭寇と西洋のバイキングは、世界史を激変させていた。
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 日本人と言っても、現代の日本人と昔の日本人は別人であり、現代の日本人が昔の日本人を学ぼうとしても無意味である。
 何故なら、現代の日本人には民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持っていないからである。武士道はもちろん百姓根性、職人魂の素養もない。
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 2023年7月19日YAHOO!JAPANニュース 学術文庫&選書メチエ編集部「「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。
 『日本一鑑』が描く戦国時代のリアル
 倭寇対策の使命を帯びて、戦国時代の日本を訪れた中国人がいた。鄭舜功(ていしゅんこう)という名の「在野の志士」である。その見聞録『日本一鑑』には、自然風土から日本人の習俗、精神文化までが記録されている。隣国人の新鮮な眼で観察された、約500年前のリアルな日本とは――。『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』(上田信著、講談社選書メチエ)から紹介していこう。
 「倭人」の凶暴な性格は、火山のせい!?
 この時代、中国人のイメージする日本人は、とにかく「凶暴」だった。
 まず、鄭舜功訪日の30年ほど前、1523年に起きた「寧波事件」(寧波の乱)の衝撃は大きかった。日本の有力大名、大内氏細川氏がそれぞれ仕立てた遣明船の乗組員らが、中国・寧波の町で抗争を繰り広げ、一帯を騒乱に巻き込んだのである。
 そして、1550年代には、倭寇が中国沿岸部を荒らし回り、「嘉靖大倭寇」と呼ばれる。実際には、倭寇の中核には中国から日本に渡った密貿易者や犯罪者も多く含まれていたと言われるが、当時の中国から見れば総じて「倭人」だった。鄭舜功が日本へ向かった1556年はまさに、この「大倭寇」がピークを迎えていた。
 なぜ、日本人はこんなに凶暴なのか? 鄭舜功は、日本列島の自然にその原因を求める。南西諸島の硫黄島に上陸して噴煙を上げる火山を実見し、九州・豊後でおそらく温泉の噴き出すさまを目にした鄭舜功は、風水の観点から、こう論じている。
 〈この日本列島は、陰が極まったなかで生じたもので、硫黄島などを隆起させたものは、けだし陰が極まり陽が混濁し、気が鬱屈して蒸散したものである。しかし〔陰の気は〕漏れ尽きることはなく、〔日本列島で〕発現すると乾燥した「火」の性格を持つようになる。山の勢いはゴツゴツとして荒々しくなり、日本人の凶暴な気性を産みだしている。(中略)人もまた大地の気に感応して生まれるという。それゆえ日本人の性格が凶暴なのは、まさに地の気がそうさせているのである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.118)
そして、日本人は性格が凶暴であるがゆえに、礼節と秩序を重んじている、とみているのだ。『日本一鑑』には、こうある。
 〈海寇(海賊)は〔日本では〕「破帆(バハン)」、あるいは「白波」と呼ばれており、発覚すると一族が皆殺しにされる。〔日本の風俗では〕強盗の禁令が厳しいために、夜に門にかんぬきを掛けなくても、盗みは少ない。人々は〔強盗を〕賊と罵り、恨みを忘れない。その風習は武張ってはいるものの、仏を重んじ、文を好む。〔日本人に対する〕要領を得ようとするならば、文教を用いるべきである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.123)
 人命を軽んじる凶暴な力によって秩序が保たれ、その秩序のもとで文化が尊重される日本。そんな日本人に向かい合うときは、たんに武力に頼むのではなく、「文教」すなわち文化政策をもってせよ、というのである。
 命を軽んじ、礼節と秩序を重んじる
 日本人の文化として、『日本一鑑』で特に大きく取り上げられているものがある。それは、「日本刀」だ。
 もともと、中国には朝貢貿易で大量の日本刀が持ち込まれていた。その品質は高く評価され、日本の重要な輸出品だったのである。15~16世紀には、1回の遣明船で3000本から多い時で3万本以上が、中国にもたらされていた。
 倭寇として海を渡った日本人は、刀で多くの民を殺し、その凶暴なイメージが明代中国人の脳裏に焼き付いていた。しかし鄭舜功は、ごく普通の日本人は、必ずしも殺傷のために刀を用いていたわけではないことにも目をむけている。
 〈刀が鋭利であることを知るも、〔その刀で人を〕殺さないことをもって宝とする。(中略)そうした刀を佩いて年老いるまで人を殺さなければ、すなわち酒を供えて僚友・親戚に命じて、書を残してその刀を子に伝える。僚友や親戚もまた、酒を供えてそれを祝う。不殺の刀といい、宝となる。〉(同書p.129)
 人を殺めたことがない刀は、その持ち主の精神的な修養の深さを象徴するものであり、そうした刀を伝承することで、その精神性も継承するというわけだ。『戦国日本を見た中国人』の著者で、立教大学文学部教授の上田信氏はいう。
 「中国では、道具は道具として割り切っていて、そこに精神性を認めるということはあまりないように思います。包丁にしても、日本では食材ごとに出刃包丁や柳葉包丁などと使い分けますが、中国では中華包丁ですべてこなしてしまう。汎用性のある道具が一つあればいいという考えですね。日本人は、道具に対する強い思い入れがあることを、文化的な特性として刀の中に見出したのでしょう」
 『日本一鑑』には日本の刑罰や切腹についても詳しく記述されている。鄭舜功自身がその場に立ち会ったと思われる描写もある。
 〈口論になった人が酒の勢いで刀を抜いたら、人を傷つけなくても必ず死刑となる。姦淫・賭博・失火も死刑。盗みに対する禁令はきわめて厳しく、糸一本でも盗んだらみな死刑。〉(同書p.149-150)
 〈犯人は郊外の原っぱか海辺の浜に引き立てられる。犯人の首の縛りをほどくと、犯人はおとなしく着ていたものを脱いで、自らその髪を束ねて頸を差し出す。見物人が最前列まで押しかけている。もし下人を処刑する場合は、この機会を用いて新しい刀の切れ味の善し悪しを調べる。塵芥のように命を軽んじているのである。もし叛逆すると、一族は皆殺しとなり住まいは焼却される。〉(同書p.150)
 〈頭目や富者とみなされたものがもし極刑に当たる罪を犯すと、多くはみずから腹を断ち割って死ぬ。切腹する前に酒を堂内に置き、少しも動揺せずに飲食を摂る。観ている者は嗚咽する。もし少しでも躊躇して遅れると、衆人は手を叩いて笑い「女々しいやつだ」とはやし立てる。切腹し終わると、介錯される。〉(同書p.151)
 『日本一鑑』に描かれた500年前の日本人の姿は、「凶暴」ではあるものの、礼節によって秩序づけられ、統御されていたということになるだろう。その象徴が日本刀であると、鄭舜功の目には映っていたのである。
 ※鄭舜功とは何者か? その使命と過酷な運命については、〈荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。〉を、海から見た戦国時代については〈「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿〉も、ぜひお読みください!
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 刀剣ワールド
 寧波の乱 /ホームメイト
 室町幕府第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が「明」(みん:14~17世紀の中国王朝)との間に結んだ通商は、南北朝の動乱で荒廃していた日本経済を大いに潤しました。しかし、室町時代後期には室町幕府の権威が失墜し、貿易の主導権は有力守護大名(しゅごだいみょう:地方行政官)・商人へ移っていきます。「寧波の乱」(にんぽーのらん/ねいはのらん)は、勢力を伸ばしてきた守護大名達が、中国大陸で起こした貿易利権を巡る争い。日本の遣明使節が、中国で大規模な暴力事件を起こしたのは前代未聞でした。事態は外交問題に発展し、対日感情は悪化。以後の勘合貿易には厳しい規制措置がかけられ、やがて終焉へと向かいます。
 目次
 寧波の乱の背景
 寧波の乱の概要
 寧波の乱のその後
 寧波の乱の背景
 日明貿易で多大な利益
 室町幕府と明との間で始まった日明貿易(にちみんぼうえき)は、「勘合貿易」(かんごうぼうえき)とも呼ばれました。正式に交易が認められた遣明船には、明から勘合符(かんごうふ)という札が与えられたためです。
 入港場所は「寧波」(にんぽー:中国浙江省[せっこうしょう]の港湾都市)に限定され、ここで勘合符が本物と確認されると上陸を許されました。勘合貿易は、室町幕府の将軍を「日本国王」とみなし、その使者が明の皇帝に貢ぎ物を差し出して返礼品を受け取るという形式。
 これを「朝貢」(ちょうこう)と呼び、近代以前の中国では一般的な貿易方法でした。このとき、返礼品は貢ぎ物よりはるかに高価であったため、室町幕府は莫大な利益を得たと言われます。
 しかし、1467年(応仁元年)から11年にわたった「応仁の乱」(おうにんのらん)により、室町幕府将軍の権力は衰退。代わって台頭したのが、細川氏(ほそかわし)・大内氏(おおうちし)といった有力守護大名達でした。
 寧波の乱の概要
 勘合符を巡って対立
 細川氏大内氏は、それぞれ堺(さかい:現在の大阪府堺市)と博多(はかた:現在の福岡県福岡市)を貿易の拠点としていたため、細川氏には堺商人、大内氏には博多商人が付いていました。彼らはみな勘合貿易で莫大な利益が得られることを知ってしまったため、遣明船はどんどん大規模になっていきます。
 一方、明の側からすれば、毎回高価な返礼品を用意するのは大きな負担以外の何物でもありません。そこで明は、船の派遣は10年に1度、船数は3隻、人数は300人までと渡航を制限。これによって、少ない勘合符の取り分を巡り、日本で対立が起こるのは当然でした。
 そんな折、大内氏が追放されていた、室町第10代将軍「足利義材」(あしかがよしき)を室町幕府将軍職へ復帰させた功労として、1516年(永正13年)に遣明船派遣の権利を永久に保障されたのです。
 利権争いと役人の腐敗
 大内氏は、1523年(大永3年)に遣明船を派遣。すると、細川氏もすでに無効となっていた勘合符を持たせて遣明船を派遣します。寧波の港には、大内船が先に入港していたにもかかわらず、後れて到着した細川船が先に手続きを済ませてしまいました。
 これは、細川船で働いていた、中国人貿易家「宗素卿」(そうそけい)が、明の役人へ賄賂を渡していたからだと言われます。激怒した大内氏側は、細川船を焼き打ちして明の使者を殺害。さらに逃亡した明の役人を殺害し、紹興(しょうこう:浙江省北部の都市)に火まで放ち、船を奪って海上へと逃げ去りました。
 事件は外交問題となり、実行犯は引き渡され、宗素卿は投獄。明は役人による取り締まりを強化するとともに、以後の勘合貿易には厳しい規制措置が取られるようになったのです。守護大名の利権争いと、明の腐敗した役人が引き起こしたこの事件は、寧波の乱と呼ばれます。
 寧波の乱のその後
 大内義隆
 1536年(天文5年)、大内氏16代当主「大内義隆」(おおうちよしたか)が遣明船による貿易を再開。大内氏と組んだ博多商人達も大きな利益を得ます。しかし「大内義長」(おおうちよしなが)が跡を継ぐと、明は正式な大内氏当主ではないと貿易を拒否。
 こうして勘合貿易は1549年(天文18年)に終わりを迎えました。ところが、寧波の乱をきっかけに、明・日本商人との間で私貿易・密貿易が横行。東アジアから東南アジアまで広範囲で海賊行為・交易を展開する、「後期倭寇」(こうきわこう)の台頭につながっていくのです。
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 世界史の窓
 明州/寧波
 中国の宋代から栄えた浙江省商業都市。明代には寧波といわれた。
 浙江省の港市として唐では市舶司が置かれ、さらに宋代、元代、明代を通じて繁栄し、ムスリム商人も来航した。南宋と元では慶元といわれた。元代には、元軍の第2回の日本遠征での江南軍の出港地となった。
 特に明代以降は、寧波(ニンポー)と言われ南海貿易で栄えた。日本からの貿易船(勘合貿易)が寄港し、日本の商館も置かれた。1523年に起こった寧波の乱は、室町時代の日本の細川氏大内氏勘合貿易の利益をめぐって争い、現地の寧波で大内氏側が細川氏の船を焼き討ちした事件である。
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 改訂新版 世界大百科事典 「寧波の乱」の意味・わかりやすい解説
 寧波の乱 (ニンポーのらん)
 1523年(大永3,明の嘉靖2)中国浙江省寧波でおこった争乱。室町時代中期以後,遣明船派遣の権利は細川氏大内氏によって争われていたが,両者の抗争が極点に達して爆発したのが寧波の乱である。1519年(永正16)ころ,大内氏の遣明船派遣計画が具体化すると,それと対抗する形で細川氏の派遣計画も熟した。大内氏豊前池永で遣明船3隻を艤装し,正徳勘合1,2,3号を与え,宗設謙道と月渚永乗とを正・副使とし,彼らの船は23年の4月に寧波に到着した。一方,細川氏は幕府に強請して,すでに無効になっていた弘治勘合を入手し,鸞岡瑞佐を正使とし,明人宋素卿をこれに付け,南海路をとって入明させた。細川船は大内船よりも数日おくれて寧波に着いたが,素卿の暗躍により,規定に反して大内船よりもさきに貨物を陸揚げさせて東庫における点検をすませ,そのうえ嘉賓館における席次も鸞岡を宗設の上位におかせることにしてしまった。これに憤激した宗設らは,5月1日東庫から武器を持ち出して鸞岡を殺し,素卿らの船を焼き,さらに素卿を追って紹興の城下に至った。素卿は府衛に守られて青田湖に退避した。宗設らは寧波に帰り,沿道で放火乱暴し,指揮袁璡を捕らえ,船を奪って海に出た。都指揮劉錦はこれを海上に追って戦死。その後,素卿は投獄されて獄死した。25年,明では琉球の使臣に託して,室町幕府に対して反乱の張本となった宗設の引渡しと袁璡の返還を要求した。幕府はこれに対し,30年(享禄3)に,正徳勘合は賊に奪われたために弘治勘合を使用したとし,鸞岡らが正使であったなどと弁明して新勘合の賜与を請求した。一方,大内氏は明に対して,日明貿易における大内氏の特殊的な地位を釈明し,この年ふたたび幕府に対して遣明船の特権の確認をもとめ,その権利を手中にした。以後,遣明船は大内氏の独占下に運営されるようになった。
日明貿易
 執筆者:田中 健夫
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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 寧波の乱(にんぽーのらん)は、1523年(明では嘉靖2年、日本では戦国時代の大永3年)に、明の寧波で起きた事件。寧波争貢事件、明州の乱、宗設の乱とも呼ばれる。
 日明貿易
 日本の室町幕府と中国の明朝との間で行われた日明貿易勘合貿易)は、室町初期の幕府第3代将軍・足利義満、明の第2代皇帝・建文帝の頃に開始され、明が海禁政策を行っている事情から足利将軍家の幕府将軍が「日本国王」として冊封し、倭寇と区別するため勘合符を発行して相手を承認する朝貢形態で行われ、十年一朝など制限がされていた。幕府が派遣する使節には博多や堺などの有力日本商人が随行し、その間で私的な貿易が行われていた。
 乱の経緯
 背景
 足利将軍家家督争いなどから応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、幕府の管領家で堺を貿易の拠点にしていた細川氏や、山口を本拠に博多、応仁の乱で得た兵庫などに権益を持っていた大内氏がそれぞれ独自に使節団を派遣した貿易をはじめ、大内と細川は勘合符を巡って対立していた。明で正徳帝が即位し、大内氏が遣明船(勘合船)を主催して発行された正徳勘合符を独占する。
 大内義興が追放されていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛、管領細川高国を味方につけて将軍職復帰を実現させると、永正13年(1516年)には功労として大内氏が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証された。これによって日明貿易の主たる港が堺から博多に移り、細川高国は大きな収入源となっていた明との交易利権を実質奪われる形となってしまうが、大内氏の軍事的支援によって反対派に対抗していたために、異論を差し挟むことができなかった。ところが、永正16年(1519年)になって大内義興が領国の事情から山口に戻ってしまうと、これに反発した高国は一転して大内氏と対立する姿勢を見せる。
 大永3年(1523年)、大内義興が謙道宗設(けんどうそうせつ)を正使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡瑞佐(らんこうずいさ)を正使、宋素卿(朱縞)を副使として、既に無効となった弘治勘合符を持たせて南海経由で遣明船を派遣する。
 殺害事件
 同年4月、寧波には先に大内方の遣明船が入港しており、細川方には不利であったが、細川方の副使の宋素卿は明の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈り、細川方を先に入港検査させた。これに激怒した大内方は細川方を襲撃して遣明船を焼き払うも、明の官憲が細川方を支援したために大内方の矛先は彼らにも向いた。この結果、謙道宗設により鸞岡瑞佐は殺され、更に紹興城へ逃れた宋素卿らを追い、明の役人をも殺害する事件が起こる。
 結末
 事件は外交問題となり、宋素卿は投獄されて獄死した。また、対日感情の悪化から享禄2年(1529年)には市舶司大監も廃止される。
 影響
 遣明船による貿易は、天文5年(1536年)には大内義興の子の大内義隆が再開しており、博多商人たちは莫大な富を得る。天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房の謀反で滅亡するまで続くが、この事件をきっかけに寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。
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