✨14)─3─竹槍事件と東条英機の精神主義。昭和19年2月23日~No.48No.49 

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 現代日本人が、精神主義や根性を嫌う原因は東条英機にあった。
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 2023年12月30日 朝日新聞デジタル記事「華族と戦争 「無謀」 最後は竹槍での国民総武装
 有料記事
 中村尚徳
 戦艦長門は止まったままだった。水野允氏(のぶうじ)さん(100)が横浜海軍監督官事務所にいたころ、横須賀港に行くたびに不思議に思った。上官に尋ねた。
 「絶対秘密だけど油がねえんだよ、と。あぜんとして声も出なかった。当時も油や食糧を外国に頼っていた。戦争はしてはいけなかったんだ」。敗戦まで1年を切っていた。
 1944年8月、栃木県出身の首相・小磯国昭が率いる内閣は「国民総武装」を閣議決定した。水野さんの事務所にも「総武装兵器」をつくるよう命令が来た。
 「何のことはない、竹やりですよ。敵の上陸に備え、全員に行き渡らせるためです。自分も本気でやるつもりでした」
 日本はじり貧だった。水野さんは敗戦間際、横浜の町中で異様な陸軍の隊列を見た。4列縦隊の兵士らは着剣はしていたが、下を見るとわらじ履きだった。
 45年8月6日午前8時15…
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 2024年7月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「東条英機」が激怒した…「竹槍では戦えぬ」と「大本営発表」に疑問を呈した「毎日新聞の記者」に「届いたモノ」
 昭和50年9月、世田谷山観音寺の特攻観音慰霊法要にて。元特攻隊員・角田和男(中央)と写真を見ながら語る新名丈夫(左)
 私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。
 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
 自由にものが言えない時代
 「竹槍事件」の発端となった、昭和19年2月23日の毎日新聞一面
 昭和19(1944)年2月17日、日本海軍の中部太平洋の拠点・トラック島が、アメリカ海軍機動部隊の艦上機の猛攻を受け壊滅した。この事態に、東條英機内閣は19日、一部の閣僚を交代させる内閣改造を行い、さらに21日には、行政と軍の統帥を分離する従来の慣例をやぶって、軍需大臣、陸軍大臣も兼務する東條首相(陸軍大将)が陸軍統帥トップの参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎大将が海軍軍令部総長を兼務する人事を断行した。
 これは事実上、「軍」の意思が政治を支配するもので、この決定にはマスコミはもちろん、陸海軍の内部にさえも反発、あるいは疑問をもつ向きが少なくなかった。前任の参謀総長杉山元陸軍大将は、「統帥権(陸海軍を指揮する天皇の大権)の独立」を盾に反対したが、東條に押し切られたと伝えられる。
 たとえ反対意見を持つ者がいても、出版法、新聞紙法、国家総動員法などの法により言論が統制され、自由にものが言える時代ではなかった。
 2月22日、東條内閣は改造後初の閣議を行った。これまで、閣議首相官邸で行われてきたが、東條首相はこのときから閣議を宮中で行うよう改めている。翌2月23日、新聞各紙はこの閣議での東條首相の発言を顔写真入りでいっせいに報じた。
 毎日新聞は一面トップの扱いで、
 〈皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調 秋(とき)正に危急、総力を絞り 果断・必勝の途開かん 転機に処す新方策考へあり〉
 との見出し(原文の漢字は旧字体だが新字体で表記する)でこれを報じた。
 見かけだけの精神論
 昭和19年2月23日の毎日新聞一面より、新名丈夫が書いた〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た〉〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉と題する記事
 その内容は、
 〈一・統帥と国務の更に一段の緊密化を具現し、政府と国民の持つすべての力を併せて米英撃滅に体当りさせ大東亜戦に勝ち抜かねばならぬ。
 一・今こそ重大画期的の時であり、われわれは一切を白紙に返し一切の毀誉褒貶を棄て大胆率直に最善と信ずる途に突進せねばならぬ。
 一・重大戦局に処する途は積極果断が御奉公の要諦である、各大臣及び各方面の指導者はこの牢固たる決意が必要である。〉
 というもので、結論として
 〈国民はこの際一大勇猛心を奮ひ起すの秋、そこに必ず難局打開の道がある。〉
 〈私は茲に皆様方と共に必勝を固く信じて一死報国の決意を新にし、政戦両略の一致を文字通り具現し、飽くまでも積極果断なる施策に当り、以て聖戦の目的を達成して、聖慮を安んじ奉らんことを固く期する次第である。〉
 と、「転機に処す新方策」の具体策がどこにも書かれていない空疎な精神論が並ぶ。
 国家存亡の危機を説く
 昭和55年2月、大西瀧治郎中将夫人・淑惠の三回忌、鶴見の總持寺で。左から3人め新名丈夫。前列右端に源田實・元大佐(当時参議院議員)、石燈籠の左下に大西中将の副官だった門司親徳が写っている
 それに対し毎日新聞は、同じ1面に、
 〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 眦(まなじり)決して見よ、敵の鋏状侵冠〉
 と、
 〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉
 と題する2本の記事を掲載した。
 〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た〉の記事では、昭和17年8月、米軍のガダルカナル島上陸に始まり、南太平洋の日本軍の拠点・ラバウルをめぐる攻防戦と、中部太平洋ギルバート諸島マーシャル諸島、トラック島と攻め上ってくる米軍の動きを、日本の南と東から迫りくる鋏(はさみ)の刃に例え、
 〈トラック乃至は同方面の制海権乃至は制空権を万が一にも敵の優越に委ねたる場合は如何なる事態を招来するかは地図を繙(ひもと)けば一目瞭然であろう。〉
 〈国家存亡の岐路に立つの事態が、開戦以来二年二ヶ月、緒戦の赫々たる我が進攻に対する敵の盛り返しにより勝利か滅亡かの現実とならんとしつつあるのだ。〉
 〈大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である、われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ、海洋戦の攻防は海上において決せられることはいふまでもない、しかも太平洋攻防の決戦は日米の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪を巡って戦はれるのである、本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては最早万事休すである〉
 と説く。
 日本に必要なもの
 神風特攻敷島隊指揮官・関行男大尉。左は昭和19年6月頃、霞ケ浦空教官時代(撮影/香川宏三中尉)、右は昭和19年10月、特攻出撃直前。10月25日、米護衛空母に突入、戦死
 〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉の記事では、
 〈今こそわれらは直視しなければならない、戦争は果して勝つてゐるか、ガダルカナル以来過去一年半余り、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかはらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来つた血涙の事実をわれわれは深省しなければならない〉
 そして、航空兵力こそが主兵力となり決戦兵力となった現在の太平洋の戦いにおいて、航空戦が膨大な消耗戦であることから目をそらしてはいけない、海上補給にせよ、潜水艦戦にせよ、飛行機の掩護なしには成り立たず、
 〈ガダルカナル以来の戦線が次第に後退したのも、アッツやギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空兵力が量において敵に劣勢だったためではないか〉
 〈航空兵力こそ勝敗の鍵を握るものなのである〉
 と述べ、さらに、
 〈敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍を以ては戦ひ得ないのだ。帝國の存亡を決するものはわが航空戦力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかつてゐるのではないか。〉
 と締めくくっている。いずれも、冷静に情勢を分析した上で戦局の見通しを述べ、日本が戦う上で必要なことを提言している。
 刺激的な社説
 フィリピンで、特攻出撃を見送る隊員たち
 加えてこの日、毎日新聞
 〈今ぞ深思の時である〉
 と題した社説を掲載した。その論調は「増産、国民生活、防空、疎開など決戦体制がいまなお整備されていない」ことを主眼にしているが、
 〈内南洋トラック島に殺到した敵の機動部隊がその後どうなつたかは、国民にとつて実に大なる関心事であつた。廿一(21)日附大本営発表は完全に真相を国民に知らしてくれた。猛襲二日にして敵は撃退された。どこまで撃退されたかわれわれには分からないが、少なくともトラック島からは撃退されたのである。だが、この間我が方の被つた損害はどうであるか。真相はここにあると思ふ。〉
 と、暗に「大本営発表」に疑問を呈し、
 〈必勝の信念だけで戦争には勝たれない。最後の勝利は信念あるものに帰するは相違はないが、それには他の条件において均衡が取れた上のことであつて、必勝の信念のみでは勝てるわけのものではない。〉
 〈わが国が今日まで取り来り、かつ現在なほ取りつつある施策の方針によつて最後の勝利を獲得する確信があるのか。〉
 と、チクリチクリと刺激的な文言が並んでいる。
 東條首相の逆鱗に触れる
 昭和19年10月26日、マニラの第一航空艦隊司令部の前庭で、特攻初櫻隊の命名式。画面左に、軍刀を地に突いた大西瀧治郎中将が写っている
 全体として、
 〈国民はこの際一大勇猛心を奮ひ起すの秋、そこに必ず難局打開の道がある。〉
 との東條発言に疑義を唱え、否定するトーンに終始している。これは、具体的な方策もないまま戦争に負け続け、国民には竹槍をもって敵の近代兵器に立ち向かうような精神主義を押しつけ、政治と軍事をほしいままにする東條首相の独裁に対する、新聞社としてのせめてもの抵抗だったのだろう。
 やはり、と言うべきか、この紙面が東條首相を激怒させた。
 毎日新聞大本営陸軍報道部長から掲載紙の発禁処分を受け、編集責任者と筆者の処分を求められた。「竹槍事件」と呼ばれる。
 毎日新聞社はこれを受け、編集責任者を処分したが、〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た〉と、〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉の記事を書いた新名丈夫(しんみょう たけお)記者の処分は見送った。
 すると、記事執筆からわずか8日後、新名に郷里・香川県の第十一師団歩兵第十二連隊への召集令状が届く。新名は明治39(1906)年生まれ、慶應義塾大学法学部に在学中の大正15(1926)年、徴兵検査を受けたが、弱視のため兵役を免除されていた。37歳になっての突然の召集を、本人も周囲も、東條による「懲罰召集」であると受け取った。
 「死」と隣り合わせの若者たち
 特攻隊を見送る指揮官たち。左から南西方面艦隊司令長官・大川内傳七中将、連合基地航空部隊最高指揮官・福留繁中将、第一航空艦隊先任参謀・猪口力平大佐
 新名は、海軍の記者クラブである「黒潮会」の主任記者を務めていた。東條を激怒させた記事は、海軍の主張を色濃く反映し、代弁したものとも読める。新名の召集に海軍は抗議するが、陸軍は、新名と同様、これまで徴兵を免除されていた老兵250名を一緒に召集することで、新名1人の「懲罰召集」ではないとの詭弁を弄した。
 結果的に、海軍の抗議が功を奏して新名は3ヵ月で召集解除になるが、同時に召集されたそれ以外の者はその後、硫黄島に送られ全員が戦死したという。
 海軍は、陸軍による再召集を避けるため、新名を南西方面艦隊附の報道班員としてフィリピンに送り込んだ。そこで新名は、10月、米軍によるフィリピン侵攻を迎え、数少ない航空戦力で敵空母の飛行甲板を使用不能にさせる目的で始まった、爆弾を積んだ飛行機による体当り攻撃、すなわち神風特別攻撃隊(特攻隊)の隊員たちと身近に接することになる。
 もともと、陸軍と海軍は総じて仲が良くない。東條首相に盾ついて懲罰召集を受け、それを海軍が身請けする形で最前線に送り込まれた新名は、隊員たちから好意的に受け入れられた。新名も、「死」を目前に控えた若者たちに、誠意をもって接した。
 新名が遺し、いま縁あって私の手元にある原稿綴りには、内地に送った記事のほかにも写しを許された遺書や遺詠が並び、はしばしに、
 〈隊員の悉くは詩人だ。〉
 といった感想や、
 〈ある隊員の手帳にはこう書かれてゐた。死の恐怖は目の悪戯なり心の悪戯なり落花散る前の振舞なり〉
 のように印象に残った言葉が刻まれている。
 偉大なジャーナリストの最期
 昭和19年11月25日、神風特攻隊の突入を受け、炎上する米空母「エセックス
 昭和19年暮れになると、いよいよルソン島への敵上陸が近いことが予想され、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、報道班員たちを内地に帰すことを考えた。大西は、南西方面艦隊附から第一航空艦隊附になっていた新名を呼び、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じて、「第一航空艦隊からの出張」という名目で内地に帰らせた。
 東條内閣はすでに退陣し、小磯内閣に代わっていたが、かつて、「竹槍事件」で陸軍に懲罰召集された新名をそのまま帰すと、ふたたび召集される恐れがある。「出張」という名目にしたのはそのためだった。新名が道中、不自由することのないよう、大西は「通過各部隊副長」宛てに、「道中御便宜取計相成度」との添え書きを持たせた。
 日本に帰った新名は、その後も人間爆弾「桜花」部隊の初出撃や、厚木の第三〇二海軍航空隊などの前線部隊を取材し、いっぽうで、終戦工作の立役者である井上成美大将や高木惣吉少将など海軍中枢へもインタビューしている。
 戦争が日本の無惨な敗戦に終わったのち、新名は、特攻隊員たちの記録がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、あるいは散逸するのを防ぐため、自分をふくめた報道班員たちの取材記録の多くを個人で保管し続けた。それらの記録が初めて世に出たのは、昭和42(1967)年、毎日新聞社が刊行した写真集『あゝ航空隊 続・日本の戦歴』のなかでのことある。
 新名は戦後、特攻隊の慰霊祭には必ず参加し、かつての隊員たちと往時を語り合った。また、ことあるごとに元隊員たちに回想記の執筆を勧めた。
 新名と特攻隊員たちの交流は、新名が亡くなるまで続いた。昭和56年、病に倒れ、横浜の病院に入院した身寄りのない新名を、多くの元特攻隊員が交代で見舞い、つきっきりで看病したという。昭和56年4月30日、死去。享年74。
 「竹槍事件」から80年。いままた、鹿児島県警が捜査批判を展開していたネットメディアを強制捜査し、取材情報等の入ったパソコンを押収。不祥事の内部告発者を特定し逮捕するなどという、強権国家のごとき非道が報じられている。昔もいまも、情報を伝える側に求められるのは、新名丈夫のような客観的な目と熱い心、そして権威に屈しない「肚」を持つジャーナリストではないだろうか。
 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)
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 2024年7月4日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「生徒たちが“一糸乱れぬ”行進を…日本の卒業式は「まるで軍隊」 根深過ぎる「集団主義」はなぜなくならないのか
 テレビを観ていたら卒業式の光景が流れてきた。恐らく今も全国どこでも見られる標準的な式なのだろう。番組では巣立っていく生徒に注目して、感動的なBGMが流されていた。
 だが僕が抱いたのは強烈な違和感である。まだ日本はこんなことをしているのか、と心底驚いた。生徒たちが一糸乱れぬ様子で体育館に入場し、一斉にお辞儀をする。その姿はまるで軍隊そのものだった。
 学校と軍隊が似るのは不思議なことではない。集団を統制する手段として、行進や敬礼など一律的な行動を構成員に強いるのは合理的である。実際、近代化における学校教育には軍人育成という側面もあった。行進ができて、文字が読めて、集団行動ができる人材というのは軍隊に必須である。
 だがわが国は戦争に負けて、学校は平和教育の中心地となった。多くの教職員が所属していた日本教職員組合日教組)も、極めて反戦活動に熱心な団体だった。そんな学校という場で、なぜ令和時代になっても軍隊のような集団行動を強いているのだろうか。
 かつて教職員が式典において「日の丸」を前に起立したり、「君が代」を斉唱するのは義務かどうかが議論になったことがあった。「日の丸」や「君が代」は戦前の軍国主義の象徴であり、その強制は憲法違反ではないか、というのだ。
 僕自身は生徒であろうが教職員であろうが、義務はよくないという立場だ。だが同時に思うのは、学校には「日の丸」や「君が代」どころではない軍国主義の名残が溢れている、ということ。授業や式典のたび生徒に起立と礼を強いる。班活動によって生徒に相互監視をさせる。協調性が重視され、出る杭は打たれる。それは日教組が強く反対してきた戦争とは無関係なのか。
 アジア太平洋戦争を可能にしたのは、当時の国民による集団主義である。強権的な国家が一方的に戦争を起こしたのではなく、人々の熱狂がそれを駆り立てた。戦時下の日本でも、国家よりも大衆の方が好戦的で、「非国民」に厳しかった。
 だからあの戦争と本当に決別したいなら、ヒステリックな集団主義からも距離を置くべきなのだ。だが学校は、反戦を謳いながらも、軍人育成のような集団主義を手放さなかった。もちろん例外も増えているが、今でも予行練習を何度も繰り返し、一糸乱れぬ式典を催行して、自己満足に浸っている学校は多いのだろう。
 学校教育の成果なのか、コロナ時代の日本は非常に統制の取れた社会だった。お国が自粛を求めれば国民は進んで服従し、足並みをそろえない人を「非国民」と糾弾した。熱狂した国民は、より強権的な政策を国家に求め、日本のコロナ有事は他国よりも長引いた。
 将来、戦争が起きた時も同じようなことが起こるのではないか。「命を守るため」の戒厳令に人々は進んで協力して、妥結点を探ろうとする政治家を「国民の安全を考えていない」と非難する。この国のヒステリックな集団主義の根は深い。
 古市憲寿ふるいち・のりとし)
 1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。
 「週刊新潮」2024年7月4日号 掲載
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 竹槍事件とは、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付け『毎日新聞』第一面に掲載された戦局解説記事が原因でおきた言論弾圧事件。
 概要
 問題となった戦局解説記事は、毎日新聞社政経部および黒潮会(海軍省記者クラブ)主任記者である新名丈夫が執筆した記事(見出し作成は山本光春)で、「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として南方における防衛線の窮状を解説し、続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている(#『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事参照)。
 この記事は海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の東條英機陸相兼首相は怒り、毎日新聞は松村秀逸大本営報道部長から掲載紙の発禁[5]および編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は編集責任者は処分したものの、筆者である新名の処分は行わなかったところ、その後ほどなく新名記者が37歳にして召集された。
 背景
 この事件の背景には、海軍が海洋航空力を増強するため陸軍より多くの航空機用資材(ジェラルミンなど)を求めても、陸軍はこれに応じようとはしないで、半々にせよとして譲らない、海軍の飛行機工場の技師を召集してしまうなど、航空機や軍需物資の調達配分をめぐる陸軍と海軍の間の深刻な対立があった。
 1943年末には海軍の源田実と陸軍の瀬島龍三は共同研究による大本営陸海軍部の合一に関する研究案を提出し、陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などを提案したが、1944年2月21日に軍令部総長を兼任した海軍大臣嶋田繁太郎により即刻研究中止となった。
 東條はこのころ、戦争遂行のためには国務と統帥の一致が必要と考え、トラック島空襲をきっかけにして首相・陸相参謀総長の兼務に踏み切ったところであった。これは統帥権に抵触するおそれがあるとして「東條幕府」と揶揄され様々な問題や軋轢を生んでいた。秦郁彦は、東條は政府批判や和平運動は「国賊的行動」とみなし、また東條批判は「陛下のご信任によって首相の任にある者に対する批判や中傷はすなわち陛下に対する中傷」として許さず、憲兵を使って言論を取り締まり、批判者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをしたと見ている。1942年9月12日から1944年1月29日にかけては戦時中最大の言論弾圧事件である横浜事件が発生した。
 東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。
 そのような状況下で、深刻な航空機不足に直面していた海軍では、航空機用資材の供給についての要求が通らなかったことで陸軍および東條内閣への不満が強まっていた。そこで毎日新聞黒潮会(海軍省記者クラブ)担当キャップだった新名は海軍に同調し、海軍省との紳士協定(「海軍省担当キャップが執筆した記事については事前検閲は不要」)を利用してキャンペーン記事を書くことを進言した。
 新名は「日本の破局が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の酷い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」と上司の吉岡文六編集局長に上告書を出した。
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