⚔36)─6・C─戦国ゲルニカ・大坂夏の陣図屏風。地獄絵図の乱取りと女性哀れ。~No.158 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

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 戦国時代は、生き地獄であった。
 「日本人は、地獄を生み出し、地獄を生き残ってきた」、それが日本民族の歴史である。
 日本民族は、死から逃げず、地獄を見据えて生きてきた、それが日本民族の宗教観であり、死生観であった。
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 日本の理想的女性像は、美人ではなく醜女であった。
 「美人は三日で飽きる、醜女は三日でなれる」
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 武士は、大坂夏の陣図屏風で味方の勝利絵図と共に味方の地獄絵図を後世に残した、それが本当の武士道の姿として。
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 武士は、人を殺す事を本職としていたが、何の為に戦い何を成そうとしたのか。
 その意味は、日本刀であり、靖国神社に繋がっている。
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 武士が、身分低い百姓を偏見を持って差別し虐げたのには理由があった。
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 大坂夏の陣図屏風は、慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣の様子を描いた紙本金地著色・六曲一双の屏風絵。大阪城天守閣所蔵、重要文化財筑前福岡藩黒田家伝来で、「黒田屏風」、「黒田本」とも呼ばれる。戦国時代最後の戦いの激烈さと戦災の悲惨さを迫真の描写で描き出し、数ある日本の合戦図屏風の中でも白眉と呼ばれる。

 総大将の徳川家康は第1扇目中央、徳川秀忠は同じく第1扇目上に、両者とも金扇の馬印と共に描かれている。一方第5扇目中央右、金瓢箪など豊臣家の馬印が並ぶ豊臣秀頼本陣に秀頼の姿は無い。大坂城天守の右には千畳敷御殿が描かれ、その間にある謎の四層櫓は、家康がかつて作り関ヶ原の戦いがおこる原因の一つとなった西の丸天守を敢えて描き込んだと考えられる。大天守第3・4層の窓には、豊臣家の最期を悲しむ女達がおり、城の下には北へ避難しようとする群衆の姿が見られ、左隻の恐慌状態へと続く。
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 乱妨取りは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取・乱捕)と呼称された。
 概説
 当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人身売買目的での誘拐は「人取り」と呼ばれた。
 兵農分離を行い、足軽に俸禄をもって経済的報酬を与えていた織田信長豊臣秀吉などは「乱暴取り」を取り締まり、「一銭切り」といった厳罰によって徹底させることが可能であった。
 大坂の陣
 詳細は「大坂の陣」を参照
 戦国時代より続いた大規模な戦闘の最後となった大坂夏の陣終結直後においても、徳川方の雑兵たちによる大規模な乱妨取りが、大坂市中の民衆らに対して行なわれた。その様子は、戦勝方の武将である黒田長政が絵師に命じて書かせた「大坂夏の陣図屏風」左隻に描かれている。
 真田信繁(幸村)の娘・阿梅は大坂落城後に仙台藩家老・片倉重長の兵に乱妨取りされている(後に信繁の娘と判明し、重長の継室に迎えられた)。
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 2024年6月16日 YAHOO!JAPANニュース 「戦国時代の闇…消息不明の美女や消えた遺体の行方など
 小倉城の展示物 「大坂夏の陣
 群雄割拠の戦国時代において、最下層の身分に相当する農民兵「雑兵」は合戦に欠かせない存在でした。
 彼らは荷物持ちや炊事、戦場の設営や死体処理など全ての雑務を担当。戦場で「縁の下の力持ち」として、主君を支えたのです。
 しかし、合戦時の食料は持参で、報酬も無に等しいものだったといいます。
 それにもかかわらず、志願して雑兵になろうとする者は後を断ちませんでした。
 彼らの目的とは、一体何だったのでしょうか。
□雑兵の目的
 福山自動車時計博物館の展示物 雑兵のイメージ画像
 農民や庶民出身の雑兵が戦場で命を懸けた理由は、合戦後の「乱取り」でした。
 乱取りとは、敗者の食料や財産を奪い取る略奪行為のことです。
 終結した戦場では、鎧や刀を装着したまま死体が転がっています。
 死体はお金になりませんが、懐には死体の持ち金も入っていましたし、鎧自体や刀は高値で取引されました。
 さらに、村人が逃げ出した戦場周辺の村は、もぬけの殻で強盗や強奪にうってつけ。家財や着物、備蓄食料などを略奪しました。
 この略奪行為は「雑兵の特権」として黙認されていましたが、名誉を美徳とする武士はモラルに欠ける行為であることから率先しておこなうことはなかったようです。
□狙われる美女
 小倉城の展示物 戦国時代の街並み
 合戦後の略奪行為は金品や食料だけにとどまりません。
 女性や子供など、人身売買を目的とした拉致・誘拐も珍しくなかったのです。
 人間1人の売買価格は、現代の10万〜100万円(平均は30万円)に相当。奴隷の親戚者には高値で売りつける、いわゆる「身代金」を要求する卑劣な手段も存在しました。
 中世の日本はすでに売買春のシステムが存在しており、若い女性の場合はより高値で取引されます。
 そのため、「乱取り」でもっとも狙われたのが若く美しい女性でした。
□雑兵の悪行エピソード
 小倉城の展示物 戦いのイメージ画像
 甲斐国(現在の山梨県)武田軍の雑兵は、とくに乱取りが激しいことで有名です
 武田軍が信濃国に侵攻した際のこと、山の峠を越えたところで全軍に7日間の休暇が与えられました。
 武田軍の雑兵は最初の3日で周辺の村々を襲い尽くし、4日目以降は遠くの村まで出かけて一晩中略奪行為を繰り返したのです。
 その過程で見かけた女性は全員犯すなど、その悪行は現代にも語り継がれています。
 このような悪行も働いたとされる雑兵ですが、彼らの存在があってこそ戦国武将や戦国大名は全国へ名を轟かせたのです。あまりに酷な一面も見受けられますが、命懸けである雑兵にとって、こうした見返りは必要不可欠だったのかもしれません。
 山内琉夢
 歴史プレゼンター
 歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。
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 白人キリスト教徒商人は、乱取りをおこなった雑兵から中世キリスト教会・イエズス会伝道所群の支援を受けて日本人を購入し、世界中に売り飛ばしていた。
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 7月7日 YAHOO!JAPANニュース「大坂城落城後の地獄絵図。逃げ惑う人々は捕らえられ、人買い商人に売られた
 大阪(坂)城。(写真:イメージマート)
 現在でも世界的に見れば、人身売買が行われているという。我が国でも戦争が起こると、民衆が捕らわれの身となり、人買い商人に売られることもあった。以下、その例を挙げることにしよう。
 大坂城落城後は豊臣方から多数の戦死者が出て、まさしく地獄絵図だった。『慶元イギリス書翰』には戦死者が12万人、『日本キリシタン宗門史』には同じく10万人という考えられないくらいの膨大な戦死者数が記されている。
 一方で、『長沢聞書』には、豊臣方の戦死者の数が1万8350人と書かれているが、先の両書と比較して、かなり数が少ない。
 豊臣方の戦死者数を正確に把握するのは困難だが、いずれにしても信じ難い死者数だったのは確かなことである。それらの数値は、しっかり数えたものではなく、あくまで見た目の概算に過ぎない。
 豊臣方の落人は徳川方から追われる身となり、実に悲惨だった。捕らえられると、殺されることもあった。また、落人は武士身分だった牢人だけでなく、大坂城内に籠った普通の人々も含まれていた。
 大坂の陣に出陣した徳川方の大久保忠教(彦左衛門)は、自著の『三河物語』の中で、落城後に人々が捕らえられた様子を記している。大坂城に籠城していたが生き残った者は、具足を脱ぎ捨て裸になり、女性とともに逃げ出したこと、また多くの女性は全国各地に売られてしまったと書かれている。
 大坂城に籠もった男性が具足を脱いで、裸になって女性と逃げたのは、豊臣方の将兵だったことを隠すためと考えられる。女性というのは、自分の妻だったかもしれない。
 牢人が大坂城に籠る際、家族を連れて入城することは、決して珍しいことではなかった。同時に、大坂城の惣構の中には、普通の人々も住んでいたのである。しかし、大坂城の落城後、彼らは逃げ出さなければならなかったのである。
 大阪城天守閣が所蔵する『大坂夏の陣図屏風』には、逃げ惑う人々の姿や捕らえられた女性の姿が描かれている。将兵による略奪行為は、「乱取り」と称された。
 徳川方に捕らえられた女性は、人買い商人によって各地に売られた。大坂には人買い商人が暗躍しており、徳川方の将兵から捕えた女性を買い取り、全国各地に転売したのである。『義演准后日記』にも、人買い商人のことが記されている。
 人買い商人は買い取った人々を、海外に転売することがあった。禁教令の発布後だったので、海外との表立った交易は認められなかったが、まだ転売のルートは残されていたのだろう。
 大坂の陣豊臣氏は滅亡し、豊臣秀頼淀殿は自害して果てたが、残された牢人や普通の人々にも過酷な運命が待ち構えていたのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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 2021年11月26日 YAHOO!JAPANニュース「【戦国こぼれ話】大坂夏の陣後、無慈悲にも行われた凄惨な「落人狩り」と人買い商人の暗躍
 大坂城。ミニチュアの大坂夏の陣。(写真:アフロ)
 タリバンに占領されたアフガニスタンでは、今も難民が続出しているという。大坂夏の陣後、無慈悲にも行われた凄惨な「落人狩り」と人買い商人の暗躍については、あまり知られていない。以下、検証することにしよう。
大坂城の落城
 慶長20年(1615)5月、大坂城は徳川軍の猛攻により、ついに落城した(大坂夏の陣)。これにより豊臣秀頼と母の淀殿は自害し、豊臣氏は滅亡した。
 大坂城落城後は、さながらの地獄絵図のようだった。『長沢聞書』という史料によると、豊臣方の死者の数は18,350人と伝えている。
 これに対して、『慶元イギリス書翰』は12万人、『日本キリシタン宗門史』には10万人という数が記されている。正確に数えるのは困難であるが、とにかく夥しい数の死者が出たというのは確かである。
■悲惨だった落人
 それでも、勝利した徳川方は別として、牢人(浪人)に加え、普通の庶民が数多く大坂城に籠城した豊臣方の落人の運命は実に悲惨だった。
 実際に大坂の陣に従軍した大久保忠教(彦左衛門)は、自身が執筆した『三河物語』の中で、次のように落城後の様子を記している。
 大坂城に籠もった衆で命を長らえた者は、多くは具足を脱ぎ捨て裸になって、女性とともに逃げ散った。多くの女性は、北国、四国、九州、中国、五畿内、関東、出羽、奥州まで売られてしまった。
 大坂城に籠もった男性は具足を脱いで、裸で女性と逃げたが、女性は捕らえられて各地に売られたのである。大坂には人買い商人が存在し、各地に彼ら彼女らを売っていたのだ。
 同様に、人買い商人の浅ましさは、『義演准后日記』にも記されている。人買い商人は略奪した人々を、ときに海外にまで売買することがあった。
 戦国期にも人買い商人が暗躍した例が知られているが、大坂夏の陣でも見事に再現されたのである。
■戦場における略奪
 また、戦場では略奪も横行したことが知られている。浅井長政の家臣の娘「おきく」は、幼少から淀殿に仕えた縁で大坂城に籠城していた。
 落城時に「おきく」は、大奥の女中が途方にくれていたが、松平信綱の指図によって無事に脱出した。
 そして、脱出の途中に略奪にあったことについて、『おきく物語』の中で次のように語っている。
 竹束の陰から、単物を着た者が錆びた刀を持ってやって来て、「金があれば出せ」と言われたので、懐から竹流しが2本あったので、これを差し出した。
 竹流しとは竹筒に金銀を鋳込み、必要に応じて切り離し、貨幣とした竿金のことをいう。おきくは乱入した兵に金品を要求されたが、たまたま所持していた竹流しを与えることにより、難を逃れたのである。
 おきくは難を逃れたが、中にはまさしく身包みをはがされるような人々も存在した。兵士は戦場での略奪によって、自らの懐を潤したのである。略奪は違った意味で、彼らの報酬となったのである。
■まとめ
 戦争というのは、何一つ良いことはない。それは古今東西変わらないことである。ここでは大坂の陣での例を見たが、近現代の戦争ではもっと悲惨なことが行われたのである。
■主要参考文献
 渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、2021年11月)
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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 2023年3月16日 戦国ヒストリー「戦国時代にあった戦場の奴隷狩り(乱取り)と人身売買
 『大坂夏の陣図屏風』右隻部分の一部。避難しようとする群衆の姿が描かれている。(出典:wikipedia
 【目次】
1. 戦国時代の「人市」
2. 戦場での性暴力
3. 生け捕られた人々のその後
4. 大坂の陣での生け捕り
 戦国時代の「人市」
 戦国時代には、「人市」があったという。「人市」とは、奴隷市場である。それは駿河国の富士の麓にあり、天文・永禄の頃であったと言われている。人市では妙齢の女子を売買し、遊女に仕立て上げたと伝わる。古老の談ではあるが、戦国時代の最中でもあり、「人市」はあったのかもしれない。
 戦国時代に女性が売買されたことは、天正7年(1579)9月の『信長公記』の記事に次のような記述がある。
 去る頃、下京場之町で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺で日頃から売っていた。この度、この話を聞きつけ、村井貞勝が召し捕らえて尋問すると、これまで八十人もの女性を売ったと白状した。
 この女性は、門番の妻という普通の女性だったが、裏では女性の売買に関わり、少なからず収益を得ていた。この話は、やがて織田政権下で京都所司代を務める村井貞勝の耳にも入り、取り締まりの対象となった。
 その後、女性は罪を咎められ、厳しい処罰を受けた。織田政権下においても、人身売買は法度だった。金銭目的だったと考えられるが、女性の売買は日常的に行われており、奴隷商人は全国各地に散在していたといわれている。
 売買された女性は、家事労働に従事させられた(家内奴隷)。一方で、性奴隷に仕立て上げ、より高く売却した可能性も考えられる。特に、貨幣経済の浸透と経済発展は、人身売買をいっそう後押ししたのかもしれない。
 奴隷商人の実像はまだ神秘のベールに包まれているが、鎌倉時代以来の伝統を持ち、この時代にも暗躍していたと考えられる。
 戦場での性暴力
 部隊を戦場に移そう。戦場では乱取りといい、多くの男女・子供が生け捕りにされた。乱取りは、戦場ではごく普通に行われていた。兵卒は躊躇なく人を殺し、どさくさに紛れて強盗をし、強姦なども当然のように行った。
 戦場での乱取りを詳しく観察した宣教師のルイス・フロイスは、兵卒たちが女性・少年・少女らに異常なばかりの残虐行為を行ったと述べている(『日本史』)。その残虐行為とは、率直に言えば、性暴力であったと考えられる。キリスト教の宣教師であるフロイスは、少し遠慮がちに言葉を選んだのであろう。
 次に、武田氏の乱取りの事例を見てみよう。天文17年(1548)、信濃における戦場で、多くの男女が武田軍の兵卒に生け捕りにされたという(『妙法寺記』)。男女は何のために、生け捕りにされたのだろうか。
 『甲陽軍鑑』には、兵卒は男女や子供のほか、馬や刀・脇差を戦場で強奪することによって、経済的に豊かになったと記している。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたことであろう。場合によっては、売却して金銭に換えることも可能であったと推測される。
 このような乱取りは各地に見られ、和泉や薩摩でも行われていた。決して、武田氏だけの特殊な事例ではなかったのである。
 生け捕られた人々のその後
 生け捕られた男女の数は、ときに凄まじい人数に膨れ上がった。天正3年(1575)、織田信長越前国一向一揆を討伐したが、その際に殺された人間と生け捕りにされた人間の数は、3・4万人に及んだと伝えている(『信長公記』)。
 殺された数も多かったようであるが、戦場で生け捕りにされた人々は、兵卒たちの戦利品として扱われたと考えてよいだろう。捕らえられた人々には、悲惨な運命が待ち構えていたに違いない。
 ところが、乱取りは決して放置されたわけではない。「結城氏法度」は、結城軍に雇われた傭兵の乱取りに便乗し、結城氏の近臣の若者までもが女性を奪ってくるようになったため、乱取りの禁止を規定した。乱取りは結城氏にとって、見過ごすことができない事態だった。
 おそらく結城氏は、乱取りが恒常化するにつれて、耕作に従事する人々が連れ去られる事態を憂慮したのだろう。百姓がいなくなれば耕作地は荒れ、やがて年貢は納入されなくなる。そうなると、領国経済は成り立たなくなってしまうのだ。
 大坂の陣での生け捕り
 乱取りは、慶長19年(1614)から翌年にわたる大坂の陣(徳川・豊臣の両家の戦争)でも確認することができる。
 大坂の陣で勝利した徳川軍の兵卒は、女・子供を次々と捕らえて凱旋した(『義演准后日記』)。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたといわれており、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女・子供が占めている。
 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げまどう戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵卒に捕まった女性たちの姿が注目される。兵卒は戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。
 では、大坂の陣で捕らえられた女・子供は、一体どうなったのであろうか。『三河物語』は、女・子供が人買い商人らの手によって、全国各地に売買されたことを示唆している。捕らえられた女・子供は、かなりの数になったのだろう。
 ここで売られた女・子供は、家内労働などに従事させられ、あるいは性の奴隷として扱われたと推測される。また、略奪結婚がたびたび行われた事実も知られている。東北、九州、四国などでは、戦場の兵卒たちが生け捕った女性を強引に妻にしたこともあったようである。
 戦争と言えば、有名な武将の活躍ぶりなどが注目されるが、それは戦場における一コマに過ぎない。いつの時代も大きな被害を受けたのは、普通の人々だった。特に、弱い女・子供は、最大の被害者だったといえよう。
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 渡邊大門 さん
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...
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